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十二国記シリーズ 華胥の幽夢 冬栄
冬(とう) 栄(えい)
泰麒(たいき)が建物を出ると、宮城(きゅうじょう)の様子は一変していた。
回廊(かいろう)に踏み出した足を止め、泰麒は瞬(またた)き、あたりを何度も見渡した。建物に変化があったわけではない。立ち並ぶ巨大な宮殿も、広々とした庭院(なかにわ)の様子も変わらない。白い壁に紺(こん)の甍宇(い ら か)、そこを行き交う下官(げかん)の姿、いつもどおりの光景だった。――ただ、それらはいま、淡(あわ)い光を内側から放っているように見えた。
何もかもが柔らかな光を帯(お)びている。珍しくすっきりと晴れていた冬空は紗(しゃ)の幕にでも覆(おお)われたよう、青い色は薄まって太陽は白く滲(にじ)んでいる。泰麒の足許(あしもと)に落ちる影も薄墨色(うすずみいろ)をしていた。それなのに周囲の景色は午(ひる)に見たときより明るい。
霧(きり)――とは違う。けれども何かそんなものが、あたりを包んでいる。それは目に見えないほど細かく、微(かす)かに光を帯びている。泰麒には、そんな気がした。
「どうなさいました」
背後からかけられたのは、泰麒に続いて宮殿を出てきた正頼(せいらい)の声だった。
泰麒は正頼を振り返る。これはどうしたことだろう、と広い庭院(なかにわ)を無言のまま示した。
「おや、珍しい。白陽(はくよう)ですね」
正頼は笑って空を仰(あお)いだ。正頼は泰麒につけられた傅相(ふしょう)で、この戴国(たいこく)の首都が置かれた瑞州(ずいしゅう)の令尹(さいしょう)を兼ねる。泰麒のようなまだ小さな宰輔(さいほ)には、養育のために傅相がつけられることが多い。傅相はずっと傍(かたわ)らに控(ひか)えて私生活上の諸事から政務にわたるすべての面倒を見てくれ、同時に教師となってくれるのだった。
「白陽?」
「こういうお天気のことを、そう言うんです。下も晴れたんですね」
なおも首を傾ける泰麒に、
「雲海(うんかい)の下の雲が切れたんですよ。下界の雪の照り返しでこんなふうになるんです」
「へえ……」
泰麒は白い幽光(あ か り)に包まれた周囲を改めて見回した。まるで障子(しょうじ)越(ご)しの陽脚(ひ ざ し)のようだ、と思う。異界になってしまった遠い故郷、そこでとびきり天気の良い朝に目覚(めざ)めると、ちょうどこんなふうだった、と懐(なつ)かしく思い出した。
「すっかり雲が切れないとだめです。そして、うんといいお天気でないと。年にそう何度もあることじゃないんですよ。儲(もう)けましたね」
「いまなら下の景色が見えると思う?」
「確かめに行ってみますか?」
泰麒(たいき)は大きくうなずいた。王宮は海のただなかに、島のように浮かんでいる。取り巻いた雲海を透(す)かして下界の景色が見えるはずだったが、冬に入ってそれも絶えた。雲海の下を雲が覆(おお)って視界を遮(さえぎ)ってしまったのだ。
正頼(せいらい)は笑って手を伸ばす。泰麒はその温(あたた)かな手を握(にぎ)って傅相(ふしょう)を見上げた。
「急がないと、また雲が出てしまうんじゃないかしら」
正頼は心得たように微笑(ほほえ)む。
「じゃあ、近道をして行きましょうか」
泰麒は喜んでうなずいた。泰麒はこの傅相の言う「近道」が好きだった。下官(げかん)しか使わないような小道や裏道を通り、時には閉められた宮殿や、府第(やくしょ)の庭先をこっそりと通り抜ける。王宮にはこんな場所もあったのか、と珍しいのが興味深かったし、下官を驚かさないよう、人がやってくるたびに物陰に身を隠すのも楽しかった。
この日も正頼に手を引かれ、府第の片隅(かたすみ)を掠(かす)め、裏を忍び足で通り抜けて「近道」をした。阿閣(たかどの)の露台(ろだい)の下を潜(くぐ)り抜けて庭院(なかにわ)に出ると、ちょうど間近の建物から数人の人影が騎獣(きじゅう)を伴って出てきたところだった。
「――台輔(たいほ)」
驚いたように足を止め、声を上げる者がある。慌(あわ)てて隠れたものの、泰麒と正頼は物陰で顔を見合わせた。
「見つかっちゃったね」
「穏和(お と な)しく出ていって、お叱(しか)りを受けるしかなさそうですねえ」
笑い合って、泰麒は正頼と植え込みを出た。すぐ近くの石畳(いしだたみ)の上では、皮甲(よ ろ い)をつけた数人がふたりを待つように佇(たたず)んでいる。禁軍(きんぐん)将軍の巌趙(がんちょう)と阿選(あせん)の姿が見えた。共に騎獣(きじゅう)を伴っている。ひとりだけ交じった皮甲の女は瑞州師(ずいしゅうし)将軍の李斎(りさい)で、やはり騎獣の飛燕(ひえん)を伴っている。大司徒(だいしと)の宣角(せんかく)が一緒だということは、軍事のための集まりではないのだろう。そして――その背後には笑みを浮かべた泰麒の主(あるじ)の姿があった。ひときわ異彩を放つ灰白色の髪と紅玉の眼。
「台輔は神出鬼没(しんしゅつきぼつ)でいらっしゃる」
真っ先に、李斎が膝(ひざ)をついて一礼しながら破顔した。
「珍しいお天気だから、雲海を見にきたんです。下の景色が見えるんじゃないかと思って。――飛燕を撫(な)でてもいいですか?」
「もちろんですとも」
李斎(りさい)は気安く答えて、
「けれども台輔(たいほ)――畏(おそ)れながら、雲海にいらしてもこのお天気ですから、何も見えないかと存じますが」
泰麒(たいき)は飛燕(ひえん)の毛並みを撫(な)でながら首を傾けた。
「雲がないんでしょう?」
「はい。ですから地上の照り返しで、何も見えません」
怪訝(けげん)そうに言われ、泰麒は正頼(せいらい)を見上げた。正頼は悪戯(いたずら)っぽい笑みを噛(か)み殺(ころ)すようにしてあらぬ方向を見ている。唐突に、巌趙(がんちょう)が大きな身体(か ら だ)を揺すって笑った。巌(いわお)のような巨躯(きょく)にふさわしい、朗々とした声だった。
「正頼めに謀(はか)られましたな」
慰(なぐさ)めるように飛燕が鳴く。泰麒は、その首筋のあたりを撫でながらひとつ息を吐いた。
「正頼ったら、酷(ひど)いんです。前にもぼくが令尹(さいしょう)って何って訊(き)いたら、それは子守(こもり)のことだって言うんですよ。驍宗(ぎょうそう)さまにそう言ったら、笑われてしまいました」
「きっとその後、正頼は主上(しゅじょう)にお叱(しか)りをいただいたでしょうから、痛み分けですね」
そう笑って言った阿選(あせん)の言葉に、泰麒も笑った。正頼もまた、くつくつと笑っている。阿選はもともと禁軍の将軍、先ごろ登極(とうきょく)した驍宗もまた禁軍の将軍だったから、同輩として親しい間柄だった。李斎も驍宗とは親しく、巌趙、正頼らはそもそも驍宗の麾下(ぶか)だった。近しい者の間に特有の、和(なご)やかな空気が人々を包んでいる。
笑ったまま正頼が泰麒を促(うなが)した。
「また主上(しゅじょう)にお叱(しか)りを受けないうちに退散しましょうか。残念ながら下界の景色は見えませんけど、珍しい様子が見られますよ。雲海が白く光ってとても綺麗(きれい)なんです」
「ついでに禁門を降りて下の様子を見に行っちゃ、だめ?」
ちょうど内殿の奥まで来ていた。たったいま、李斎らが出てきた建物を抜けると禁門に出る。正頼は眉(まゆ)を上げる。
「下はうんと寒いんですよ。台輔(たいほ)はお小さいから、芯(しん)まで凍(こお)るのなんて、すぐです」
「ちょっとだけ」
泰麒が言うと、驍宗が足を踏み出した。この戴国(たいこく)の王――泰麒の主(あるじ)。
「私が連れていこう」
泰麒は嬉(うれ)しかったが、同時に申し訳なくも感じた。登極したばかりの王は忙しい。泰麒に付き合って割(さ)く時間などないはずだ。
「でも……あの、御用事では」
「李斎(りさい)たちも騎獣(きじゅう)を厩(うまや)に戻す時間が欲しいだろう。ちょうどお前に用もあったしな」
主(あるじ)の笑みに誘われて、泰麒(たいき)も顔を綻(ほころ)ばせる。無二(むに)の主だから、側(そば)にいられれば無条件に嬉しい。泰麒は正頼(せいらい)を振り返る。正頼は目を細めて、ここで待っていますから、と笑(え)んだ。
「お帰りになったところなのに、ごめんなさい」
構わない、と振り返って微笑(ほほえ)んだ驍宗(ぎょうそう)の向こう、たったいま、開かれたばかりの扉(とびら)の先には広々とした窓が設けられていた。その外には雲海が広がっている。異国生まれの泰麒には、空の上にこうして海のあることが、とても不思議なことに思われる。
その海は静かな波音を立てていた。いつもは陰鬱(いんうつ)な灰色をしているのに、今日はそれが白い。真珠色(しんじゅいろ)の海面は、水底から照らされたように淡(あわ)く輝いて見えた。
歓声を上げて窓辺に駆(か)け寄(よ)った泰麒の肩に、重みのある旗袍(がいとう)が被(かぶ)せられた。
「着ていなさい。外は本当に寒い」
「でも、驍宗さまが寒くないですか?」
「なに、私なら大事ない」
申し訳なくも思ったけれども、驍宗の心遣(こころづか)いが嬉しかったので、泰麒は頷(うなず)いた。先に立って階段へと向かう驍宗(ぎょうそう)の背を追いかけて、長い旗袍(がいとう)の裾(すそ)を踏(ふ)み、転(ころ)びそうになる。それを見てとって、驍宗はしっかり旗袍を掻(か)き合(あ)わせて泰麒(たいき)ごと抱(かか)えあげた。
「まだまだ軽いな」
「それは、ぼくが麒麟(きりん)だからだと思うんですけど」
泰麒の本性(ほんせい)は――自身にとっても意外なことに――人ではない。麒麟という獣(けもの)で、だから鋼色(はがねいろ)の奇妙な髪も、実は髪ではなく鬣(たてがみ)で、そして天翔(あまかけ)る獣が並(な)べてそうであるように、そもそも身体(か ら だ)の目方自体が軽いのだ。
そうか、とだけ言って、驍宗は泰麒を抱えたまま広間の一隅(いちぐう)にある白い石の階段を降りる。決して短くはない階段を下る間に、それに何十倍する距離を下降している。こういう不思議が王宮には随所にあって、泰麒も当初は珍しくてならなかったが、少しずつ慣(な)れてきた。空を飛ぶ獣がいたり、空の上に海があったり、人々が変わった色の髪や眼を持っていたり――ここはそんな世界なのだ、と。
広く緩(ゆる)やかな階段を下ったところは、大きな広間だった。その正面には巨大な扉(とびら)がある。両脇(りょうわき)に控(ひか)えた門卒(もんばん)が、驍宗と泰麒の姿を認めて門扉(もんぴ)を開いた。途端に刺すような風と、鋭利な光が押し寄せてきた。
禁門は凌雲山(りょううんざん)の中腹、雲海に近い高所に穿(うが)たれた巨大な洞窟(どうくつ)の奥に建っている。門前は岩盤に三方を囲まれた大きな広場で、唯一開かれた一方の縁(へり)の先は、落ちこむようにして途切(とぎ)れていた。驍宗の腕を滑(すべ)り降(お)り、温(あたた)かい手をしっかりと握(にぎ)って覗(のぞ)きこめば、眼下には雪に覆(おお)われた鴻基(こうき)の街が広がっている。急峻(きゅうしゅん)な起伏を繰り返す周辺の山々は雪に覆われて白銀に輝く。青い空との対比が鮮(あざ)やかだった。
「……綺麗(きれい)」
呟(つぶや)くのと同時に、喉(のど)の奥へと冷たい外気が流れこんできた。その刺激に、思わず咳(せ)きこみそうになる。禁門を出て縁のほうへと進む間に、もう膚(はだ)が悴(かじか)んでいる。冷気が目に沁(し)みる。眩(まぶ)しいのと寒いのとで痛いほどだった。
「本当に、寒いんですね」
口許(くちもと)も強張(こわば)って思うように動かない。驍宗はうなずいた。
「戴(たい)は極北の地だ。冬が来れば早々に雪が降り、里廬(まちまち)は雪の中に閉ざされる。こんな晴れ間は幾日もない。天上の王宮にいれば、さほどには感じないだろうが、民は皆この寒さの中で生活している」
「大変ですね……」
「家を失えば、たちまちのうちに凍(こご)えてしまう。山野は雪に覆われ、地面ごと凍(こお)って草の根を掘ろうにもそれすらできない。秋に蓄(たくわ)えた食糧が尽(つ)きれば飢(う)えるだけ、なのに秋の収穫は天候しだいだ。冬に対する備えが民の生死を決める――ここはそういう国だ」
泰麒(たいき)は、白く凍(こお)りつき無機物のように輝く街を無言で眺(なが)めた。
「こうして眺(なが)める国土は無垢(むく)で美しいが、同時に無慈悲(むじひ)で恐ろしい。――それを決して忘れないように」
はい、と泰麒はうなずいた。どこか粛然(しゅくぜん)とした気分になっていた。
ほどなく泰麒は、背中を押す手に促(うなが)されて禁門の中に戻ったが、しんとした気分は寒気が途切れても変わらなかった。ほんのわずかの間に、手足は冷えきり、指先は痛いほどだが、胸の中に冷たい塊(かたまり)があるように感じるのは、そのせいばかりでもあるまい。
「寒かったろう?」
驍宗(ぎょうそう)は問い、そうして、どうだ、と明るい声を上げた。
「暖かいところに行ってみたくはないか?」
「暖かいところ?」
首をかしげる泰麒に、暖かくて雪がなくて花が咲いているところだ、と言う。
「でも、いまは冬ですよね?」
泰麒が言うと、驍宗は軽く身を屈(かが)め、泰麒の肩に手を載(の)せて微笑(わら)った。
「蒿里(こうり)に頼みたいことがある」
泰麒はさらに首をかしげた。「暖かいところ」と「頼み」の間にどういう関係があるのか、よく分からなかった。
「――漣(れん)へ行ってもらいたいのだ」
「漣……漣国ですか? うんと南の」
驍宗はうなずく。
「蒿里は以前、蓬山(ほうざん)で廉台輔(れんたいほ)のお世話になっている。そのお礼も申しあげたいし、おかげで戴(たい)は落ち着いたことをお知らせもしたい。だが、私にはその暇(ひま)がない」
「それで、ぼくが?」
「本来ならば登極(とうきょく)して、早々にお礼の使節を向かわせるべきところを、聞けば漣国には争乱がおありとのこと、乱そのものは平定したとのことだったが、しばらくは御多忙であろうと思って御遠慮(ごえんりょ)を申し上げた。だが、どうやらそれも落ち着かれたらしい。それで、私の代わりに使節として廉王(れんおう)をお訪ねしてもらいたいのだ」
「ぼくひとりで……ですか?」
泰麒は少し口籠(くちご)もった。
「もちろん、供はつける。――大任だろうが、行ってくれるな?」
驍宗(ぎょうそう)と別れ、泰麒(たいき)はとぼとぼと正頼(せいらい)の待つ庭院(なかにわ)に戻った。泰麒を認めて歩み寄ってきた正頼は、すぐに不思議そうに首をかしげた。
「どうなさいました?」
「僕、漣(れん)に行くことになったの」
泰麒が言うと、正頼は心得たようにうなずく。
「ああ、そのお話が出ましたか」
「知ってたの?」
「台輔(たいほ)には大任すぎるだろうか、って主上(しゅじょう)から相談されましたからね。台輔なら絶対にだいじょうぶです、と太鼓判(たいこばん)を捺(お)しておきました」
言って、正頼は泰麒の顔を覗(のぞ)きこんだ。
「――ひょっとして漣に行かれるのは、お嫌(いや)ですか?」
「ううん」
泰麒は強く首を振った。本当に嫌なのではなかったし、嫌がっているとは思われたくなかった。
「不安でいらっしゃる、とか?」
泰麒は俯(うつむ)いたまま、頭(かぶり)を振った。
「……そういうわけじゃ、ないんだけど」
「大任ですからねえ。なのに驍宗さまは御一緒でないし」
正頼は、そもそも驍宗軍の軍吏(げ か ん)だった。だからときどき、「主上」が取れる。
「……漣は遠いから、行って帰るまでに、うんと時間がかかるよね?」
「そうですねえ。騎獣(きじゅう)を使っても、片道に半月はかかるでしょうねえ。急いで行って帰っていらしても、新年の祭礼には間に合いませんでしょう」
「ぼく、いなくていいの?」
「本当は、主上と台輔と揃(そろ)ってお迎(むか)えになるものですけどね。けれども主上も、だからこそいまのうちに使節を、と思われたんでしょう。ちょうど、いまは祭礼続きで、もともと重大な御用事の少ない時期ですからね。――ほら、こんな時期でもないと、相手方にも御迷惑ですから」
「そうだね……」
「それとも、驍宗さまと離れておしまいになるのが、お寂(さび)しくていらっしゃる?」
泰麒は正頼を見上げた。正頼はひとり得心したようにうなずく。
「驍宗さまは近頃、お忙しくてらっしゃるからなあ」
実際、驍宗はこのところ、ひどく慌(あわ)ただしげにしていた。冬至(とうじ)の郊祀(ま つ り)の前から本当に忙しそうで、それは郊祀(ま つ り)が終わってからも変わらなかった。正頼(せいらい)が傅相(ふしょう)としてついて以来、午後の公務に付き合ってくれることもなくなった。食事も必ず一緒というわけにはいかず、朝議の前後に少し言葉を交わすのが精一杯、ということが多かった。
「ゆっくりお話しする暇(ひま)もない。そのうえ長い旅に出されてしまうから、心細くなってしまわれたんですね?」
「うん……」
忙しいことは、重々承知している。それでも不安になる。何か気に障(さわ)ることをしただろうか――と、ついそう思ってしまうのは、郷里の家で、泰麒(たいき)はいつもそんなふうだったからだ。
泰麒は常に、期待に応(こた)えることのできない子供だった。周囲から期待されていることは分かるのに、何を求められているのか分からない。良かれと思ってしたことが、得てして家族を落胆(らくたん)させた。自分がいるせいで、何かが巧(うま)くいっていない――そういう直感を泰麒は抱いていたし、それは今も変わっていなかった。
「……ぼく、いたら邪魔(じゃま)なんだと思う? だから漣(れん)に出されてしまうのかしら」
まさか、と正頼は破顔した。
「それでそんなに、気落ちしてらしたんですか。――そんなことがあるはずないじゃ、ありませんか。台輔(たいほ)はかけがえのないお方なんですから」
「それはぼくが、麒麟(きりん)だから?」
「そうですとも」
「でも……」
言いかけて、泰麒は言葉を途切(とぎ)れさせた。正頼は首を傾けて続きを待っていたが、結局、泰麒は首を横に振って口を噤(つぐ)んだ。正頼は柔らかく苦笑する。
「よほど心細くていらっしゃるんですね。だったら、なおのこと、頑張って大任を果たされることだと思いますよ。そうしたらたぶん、いいことがありますから」
「いいこと?」
はい、と笑って、正頼はおどけたように手を挙げる。
「これから先は秘密です」
「ええ?」
泰麒は思わず正頼の袖(そで)を握(にぎ)った。
「――あのね、正頼」
「だめだめ。台輔はおねだりがお上手なので、私としちゃ聞いてあげたい気持ちでいっぱいですけど、言ったら驍宗(ぎょうそう)さまに叱(しか)られてしまいます」
そこから、めまぐるしく戴(たい)と漣(れん)の国府(こくふ)の間で青鳥(し ら せ)がやりとりされて、日程が決まり、人員が決まった。
泰麒(たいき)を正使に、傅相(ふしょう)の正頼(せいらい)と、泰麒付きの大僕( ご え い)である潭翠(たんすい)が従う。それに副使として瑞州師(ずいしゅうし)左軍の霜元(そうげん)と禁軍右軍の阿選(あせん)で四人。その四人がそれぞれに下官をひとりずつ連れて、総勢わずかに九人、特に勅使(ちょくし)の幢(はた)は揚(あ)げず、平服で漣に向かう。正式な使節とはいっても、あくまでも泰王(たいおう)個人が廉王(れんおう)個人に使いを出す、という体裁(ていさい)である。
漣国は世界南西に位置し、戴と同じく大陸からは虚海(きょかい)によって隔(へだ)てられている。戴にとって最も遠い国――それが漣だった。実際のところ、戴は漣とはいかなる関係も持たない。これまでただの一度も国交を持ったことがなかったし、要不要で言うなら、この先も交わりを持つ必要はないだろう。ただ、泰麒はかつて、個人的に廉麟(れんりん)の世話になったことがある。異国――泰麒にとっては故郷――に流されていた泰麒を、この世界に呼び戻してくれたのが廉麟だった。
「廉台輔(れんたいほ)はどういう方だと思う?」
鴻基(こうき)を出てすぐ、泰麒は正頼に訊(き)いた。漣までは騎獣(きじゅう)を使うが、もちろん泰麒はまだ騎獣に乗ることができない。それで二頭の、牛に似た騎獣の背に載(の)せた籠(かご)のような輿(こし)の中に穏和(お と な)しく納(おさ)まっていた。同伴した正頼は、おや、と不思議そうな声を上げる。
「台輔のほうがご存じじゃないんですか?」
「ううん。ぼくもお会いしたことはないの。ええと、お顔を見たことはあるんだけど、ぼくはこちらに連れ戻されたばかりで、すごく驚いてて、それでろくにお顔も見てなくて」
言ってから、泰麒は少し恥(は)じ入って告白した。
「本当は、泣いちゃったんだ。どうしてなのか、自分でもよく分からないんだけど。泣いてるうちに眠ってしまって、目が覚めたら廉台輔はもう漣にお帰りになってたの」
「そうだったんですか。……私も廉台輔は存じ上げないからなあ。きっと戴で、廉王や廉台輔がどんな方だか知っている人は誰もいないでしょうねえ」
「王さまも麒麟(きりん)も、たった十二人ずつしかいないんだから、仲良くすればいいのにね」
泰麒が言うと、正頼は破顔した。
「まったくですねえ。……でも、簡単に仲良くできない理由は、いずれ台輔にもお分かりになると思いますよ」
泰麒は言われて、きょとんとしたが、確かにやがて納得しないわけにはいかなかった。
頻繁(ひんぱん)に行き来するには、あまりにも遠いのだ。
足の速い騎獣(きじゅう)を使っても、戴(たい)を出るだけで一昼夜がかかった。そこから、さらに一昼夜をかけて海を越え、以来、柳国(りゅうこく)の港町を皮切りに虚海(きょかい)の沿岸を辿(たど)って恭(きょう)へと向かう。岸辺づたいに範(はん)を南下し、さらに海を渡り、空行半月を経(へ)てやっと見えた岸辺が漣だった。
「……とってもよく分かった」
漣国の首都、重嶺(じゅうれい)に舞い降りながら、泰麒(たいき)が呟(つぶや)くと、正頼(せいらい)は首をかしげる。
「仲良くできないわけ。……こんなに遠いんじゃ、遊びに行って帰るだけで、ほかのことをする暇(ひま)がなくなっちゃうものねえ」
でしょう、と正頼は笑った。
「大変な長旅でしたね。お疲れじゃないですか?」
泰麒らは重嶺を囲む閑地(かんち)で乗騎を降りた。目前に見える重嶺の街は、新年を間近に控(ひか)えて華やかな飾りで彩(いろど)られている。
「ううん。今日は半日しか飛んでないもの」
そうですか、と正頼はさも気落ちしたように溜息(ためいき)をついた。
「台輔(たいほ)は辛抱強(しんぼうづよ)くていらっしゃるので、じいやは大助かりで、つまらない」
泰麒はきょとんと正頼を見上げた。
「正頼、つまらないの?」
「もちろんですとも。腕白小僧(わんぱくこぞう)の首根っこを捕(つか)まえて、がみがみ言うのが私のお役目なんですから。たまには大変な悪戯(いたずら)をしでかして、尊いお尻(しり)をぶたせてくれなくちゃ、じいやには楽しみがありません」
正頼がおどけたように顔をしかめるので、泰麒はくすくすと笑った。
「心掛けてみるね」
「よろしくお願いしますよ」
正頼と笑っているとき、すぐ側(そば)の巨大な正門――午門(ごもん)のほうから、一足先に重嶺に向かっていた下官(げかん)がふたり、やってきた。四人の下官のうちの二名が交替で一足先に宿を発ち、その日の逗留地(とうりゅうち)に先着して宿を調達する。
「ああ、出迎(でむか)えだ。――今日の舎館(やど)は、良いところだといいですねえ」
重嶺は信じられないほど暖かかった。柳、恭、範と、ひとつ国を経るたびに、暖かくなるのがはっきりと分かった。戴の冬には絶対に必要な、羽毛を入れ羊毛で内張りした旗袍(がいとう)も、範の南部に入ったのを最後にとうとう脱いでしまっている。
そんなふうだったから、舎館に入り、白圭宮(はっけいきゅう)を出た日以来、久々に朝服(ちょうふく)に着替えた正頼は、それだけですでにうんざりした顔つきだった。
「……暑そうだね」
臥室(しんしつ)を出てきた正頼(せいらい)に泰麒(たいき)が声をかけると、はあ、と正頼は情けなさそうにする。
「漣(れん)は暖かいとは聞いてましたが、ここまでだとは思いませんでした。これじゃあ、戴(たい)の春や秋の気候ですねえ」
「そうだねえ」
「ともかくも、これが戴のこの時節の朝服(ちょうふく)なんですから仕方ありません。私はちょっと国府(こくふ)をお訪ねして、到着の御挨拶(ごあいさつ)をしてきます」
「ぼく、行かなくていいの?」
「とりあえず先触(さきぶ)れをするものですからね。台輔(たいほ)がお出ましになるときには、礼服を着ていただかなくちゃなりませんから、いまのうちに涼(すず)んでいらっしゃい。たぶん、夕刻には戻れますでしょう」
「でもってぼくは、正頼が戻るまでに、いっぱい悪戯(いたずら)をしておくんだね」
泰麒が言うと、正頼は声を上げて笑った。
「そうです。潭翠(たんすい)たちをうんと困らせてやるんですよ」
言って正頼は、起居(いま)の隅(すみ)に影のように控(ひか)えている大僕(ご え い)に目をやる。潭翠はいつものように無言で、正頼の軽口にも言葉を挟(はさ)むわけでなく、それでもちらりと苦笑めいたものを浮かべた。
「潭翠には内緒ですけど、私は一度、潭翠が血相を変えたところを見てみたいと、常々思っていたんです」
「潭翠がかんかんになるような悪戯(いたずら)をするんだね」
「頑張ってくださいまし。そうしたらじいやが、戻りしだい、園林(にわ)の木に吊(つる)して差しあげますから」
同じく朝服(ちょうふく)に改めた下官(げかん)をふたり連れ、正頼が出掛けていったのと入れ違うようにして、旅装を解(と)いた霜元(そうげん)と阿選(あせん)が泰麒の房室(へや)を訪ねてきた。
「お疲れは出ていらっしゃいませんか」
訊(き)いてきたのは霜元のほうだった。霜元はもともと驍宗(ぎょうそう)軍の師帥(しきかん)で、新朝廷では瑞州師(ずいしゅうし)の要(かなめ)となる左軍将軍に就(つ)いている。禁軍左軍を預かる巌趙(がんちょう)ほどの巨漢ではないものの、上背のある偉丈夫(いじょうふ)で、どことなく品格のある落ち着いた物腰をしていた。泰麒は霜元に会うたび、故郷で読んだ物語に出てくる「騎士」という言葉を思い出すのだった。
「ううん。――それより、ほら」
泰麒(たいき)が窓辺から外の園林(ていえん)を示すと、ふたりの将軍は気安げな調子で窓辺にやってきて泰麒の示したほうを見る。
「お庭に花があるんだよ」
驍宗(ぎょうそう)は「花の咲いているところだ」と言ったが、本当にこの季節、ごく当たり前のように花の見られる国があるとは思わなかった。雪に覆(おお)われた場所もない。こうして窓辺にいても、寒いとは感じない。戴(たい)の窓辺では、隙間風(すきまかぜ)や冷気で身震(みぶる)いするものなのに。
霜元(そうげん)は外を見やって目を細める。
「……何の花でしょう。これから咲き揃(そろ)うところのようですね。こんな時節に雪のない国があるとは、思ってもみませんでした」
ぼくも、と泰麒は窓枠(まどわく)に頬杖(ほおづえ)をついた。
「戴がどこも真っ白だから、こちらはそんなものなんだって思ってた」
「こちら?」
「うん。蓬莱(ほうらい)のお家(うち)では、雪が降るのは、ときどきのことだったんだよ。雪のないのが普通だったの。だからって、こんなに暖かくもなかったけどね。でも、戴はああでしょう? だから、こちらはどこの国も、みんなあんなふうなんだろうと思ってたの。ぼく、こちらの冬は初めてだから。でも、あんなに寒いのは戴だけなんだね」
そうですね、と霜元は生真面目(きまじめ)そうにうなずく。
「世界は広いと改めて思いました」
「外の農地もまだ刈(か)り取(と)ってなかったし……」
「南の国では、冬も農地を休ませないのだそうですよ」
そう言ったのは阿選(あせん)だった。
「雑穀(ざっこく)を植えるのだと聞いたことがあります」
へえ、と泰麒は瞬く。
「じゃあ、冬にも植物が育つんだね。ということは、真冬でも畑に出て、野菜を採(と)ってきたりできるのかしら」
「そのようです」
「戴もそうだといいのにねえ……」
泰麒が溜息(ためいき)をつくと、ふたりの将軍も感慨深げに同意した。
「子供は外を走り回っているのかな。ひょっとしたら、家畜だってまだ放しているのかもしれないね」
どんなふうに暮らしているのだろう、この暖かい国の人々は。泰麒が窓の外にその片鱗(へんりん)でも窺(うかが)えないかと見入っていると、何でしたら、と阿選が言った。
「少し外をお歩きになりますか? お疲れでないのでしたら、お供いたしますが」
「本当に? いいの?」
泰麒(たいき)が振り返って飛(と)び跳(は)ねると、阿選(あせん)は笑ってうなずいた。
前王のもと、驍宗(ぎょうそう)と同じく禁軍の将軍をしていた阿選は、驍宗とともに双璧(そうへき)として鳴らした人物だったと聞いていた。人望も篤(あつ)く、武勇も同格、そのせいか風貌(ふうぼう)もどこか驍宗に似ている。ただ、時に驍宗は怖(こわ)い。息を呑(の)むような覇気(はき)を表すのだが、阿選にはそれがなかった。それで泰麒は、阿選に対しては物怖(ものお)じしないですむのだった。
泰麒は期待をこめて霜元(そうげん)を見る。霜元は是非を思案するように考えこんでいたが、
「重嶺(じゅうれい)を御覧になるのは、悪いことではないだろう? 台輔(たいほ)の見聞が広いのは、むしろ良いことだと私は思うが」
阿選がそう口添えしてくれ、霜元もうなずいた。
「我々と潭翠(たんすい)がいれば、滅多(めった)なこともございませんでしょうね」
重嶺は――鴻基(こうき)と同じように――凌雲山(りょううんざん)の麓(ふもと)に広がっていた。真冬だというのに人通りは多く、街はどこかしら開放的な空気に包まれていた。泰麒にはそれが物珍しい。
鴻基とはあまりに違う、と泰麒は思う。鴻基の家々は凍(こお)った雪に覆(おお)われ、民は厚い壁の中の温(ぬく)もりに頼って生活している。山野を覆(おお)うのも雪ばかり、家畜を戸外に放つこともできず、ましてや、なにがしかの実りを期待することもできなかった。往来を行くのは、已(や)むを得(え)ぬ所用のある者だけ、それも厚い媼袍(わたいれ)を着こみ、襟(えり)を立て、布や毛皮で頭を覆い、身を竦(すく)めて先を急ぐ。何もかもが内へ内へと強い力で押しこめられているよう――それが、戴(たい)という国だった。
漣(れん)は逆だ。冬のこの時期でも、いろんなものが開かれている、と泰麒は思う。板戸を開け放した窓からは建物の中を窺(うかが)うことができ、店舗の戸口もまた開放され、大勢の民が出入りしている。街頭で立ち話をする者たち、走り回る子供たち、閑地には家畜がたむろし、たっぷりと地面を覆った枯れ草を食(は)んでいる。
「すごいねえ……」
泰麒が溜息(ためいき)混じりに呟(つぶや)くと、そうですね、と阿選の微苦笑が返ってきた。
「この半分でも、戴の冬が柔(やわ)らかければ、民の暮らしもずいぶんと違ってくるでしょうに」
本当にそうだ、と泰麒は思う。国の様子は決して豊かには見えなかったが――恭(きょう)や範(はん)のほうがよほど豊かだった――どこかしら余裕のようなものが、街にも人々にも漂(ただよ)っていた。漣ではつい先頃まで内乱があったはずだが、その緊張感を引きずっている様子はどこにもなかった。戴(たい)ではこうはいかない。王朝が代わって間がないとはいえ、鴻基(こうき)のような街でさえ、凍死する者が出る。物資が尽きて餓死者(がししゃ)の出る里(まち)があり、そのために里を捨て、危険を承知で深い雪の中、列をなして近隣の街に向かう人々もいる。
大地からの収穫は、そもそも民が暮らすのにかつかつの程度、余裕は玉や金銀が作る。その余裕を先王がことごとく占有して、戴の民は長くぎりぎりの生活を強(し)いられてきた。それは新王が践祚(せんそ)した今もまだ、さほどに改善されてはいない。