饭饭TXT > 海外名作 > 《十二国记(日文版)》作者:[日]小野不由美【完结】 > 7-華胥の幽夢.txt

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作者:日-小野不由美 当前章节:14999 字 更新时间:2026-6-16 01:01

「太保(たいほ)には大逆(たいぎゃく)の企(たくらみ)みあり、それをお知りになった太師(たいし)を殺害し、宮城(きゅうじょう)を出奔(しゅっぽん)いたしたものと思われる。そして、大司徒」

小司寇に表情もなく呼ばれ、朱夏は縄(なわ)をかけられたまま顔を上げた。

「そなたは、太保と誼(よしみ)を結び、台輔(たいほ)と申し合わせて失道(しつどう)の噂(うわさ)を捏造(ねつぞう)せしこと、すでに明白になっている」

朱夏は唖然(あぜん)として口を開けた。

「お待ちください。それは――台輔の不調は虚偽のものだと」

采麟(さいりん)が不調を偽(いつわ)り、その采麟と結託した朱夏が面会して失道だと証言した、そう言いたいのだろうか。まさか、采麟までもが謀反(むほん)に協力していると。どの世界に、自国の王に反旗を翻(ひるがえ)す麒麟(きりん)がいる。叫ぼうとした朱夏を、小司寇は短く遮(さえぎ)った。

「反駁(はんばく)はならぬ」

語調は強かったが、彼の面(おもて)には苦渋の色が深かった。小司寇とて、そんな法外な話を信じてなどいないのだ――。

「冢宰(ちょうさい)は自らの胥(げかん)を太保と通じさせていたであろう。胥が再々、太保と密会していたのが目撃されている」

待ってください、と青喜(せいき)は声を上げたが、これはまったく黙殺された。

「太宰(たいさい)、小宰(しょうさい)――及び、当日東宮門(とうぐうもん)の警護にあたっていた禁軍左軍の将軍は、いずれも馴行(じゅんこう)の凶行を助け、逃走を助けた。さらには冢宰(ちょうさい)と結託し、太師(たいし)の無念の死をあたかも不慮の頓死(とんし)のように偽(いつわ)り、凶行自体を無きものにいたそうとした。これまたすでに明白である」

小司寇は目を伏せたまま、まるで棒読みするように淡々と罪状を申し述べた。

「いずれの者も、秋官(しゅうかん)の沙汰(さた)があるまで自邸に蟄居(ちっきょ)せよ。温情によって縄(なわ)は解くが、官邸は兵卒によって封鎖される。邸(やしき)を出ることはまかりならず、余人と連絡を取ることもならぬと心得よ」

言った彼は、ちらりと朱夏らに目をやり、詫(わ)びるように面(おもて)を伏せた。釈然としない顔つきの兵卒によって引き立てられながら、栄祝(えいしゅく)が静かな声を上げた。

「ひとつだけ訊(き)きたい」

小司寇は顔を背(そむ)けたまま、返答はない。

「……これが主上(しゅじょう)の結論なのか」

やはり返答はなく、小司寇はただ深く首を垂れた。

朱夏(しゅか)らは縄(なわ)を打たれたまま燕朝(えんちょう)の南にある官邸(かんてい)へと連行され、その主楼(おもや)でようやく縄を解かれた。扉(とびら)は外から閉ざされ、甲冑(かっちゅう)で身を固め、武器を携行した兵卒に包囲された。

「ごめんなさい、兄上、姉上」

堂室(へや)に入るなり、青喜(せいき)が泣きそうな声を上げる。

「私が太保(たいほ)と話し込んでいたせいです。大変なことに巻きこんでしまいました」

「それは違うわ、青喜」

朱夏は、床に座りこんだ青喜の肩を抱く。

「貴方(あ な た)のせいのはずがないでしょう」

「でも」

朱夏は首を横に振り、そして栄祝(えいしゅく)を見上げた。

「栄祝……これは」

朱夏は言ったものの、問わなくても分かっていた。砥尚(ししょう)は馴行(じゅんこう)の謀反(むほん)を信じているのだ。大昌(だいしょう)が殺害された夜、本当に何があったのかは分からない。あるいは朱夏が抱(いだ)いている疑いのとおり、大昌と馴行は砥尚が手にかけたのかもしれず、それはふたりの諫言(かんげん)が逆鱗(げきりん)に触れたからなのかもしれない。さもなければ、砥尚は事件に無関係で、馴行が大昌を殺(あや)め、逃げたのだと思っているのか。いずれにしても砥尚は馴行のその振る舞いを、噂(うわさ)どおりの大逆だと断じた。その馴行と青喜が話しこんでいたことで、栄祝は共謀を疑われ、その妻であり、采麟(さいりん)にたったひとり面会した朱夏もまた共謀を疑われることになった。

「……砥尚は、どうして」

栄祝は放心したように椅子(いす)に身を沈めている。

「台輔(たいほ)まで疑うなんて、そんな無茶な。砥尚はどうかしています」

「どうかしているに決まっている」

栄祝は低く呟(つぶや)いた。

「……失道(しつどう)の王なのだから」

朱夏は息を呑(の)んだ。

「大逆は死罪だ。……私たちは覚悟しなければならない」

「本当に砥尚が私たちを? ――そもそも砥尚はこんなことを、本気で信じているのでしょうか? 馴行様が謀反(むほん)だなんて。私や栄祝がそれに荷担するだなんて」

「台輔を疑うことができるなら、他の誰も疑いを逃れることはできないだろうな」

力無く言って、栄祝(えいしゅく)は朱夏(しゅか)と青喜(せいき)を見る。

「……砥尚(ししょう)の言うとおりだ、朱夏」

「言うとおり?」

「相手を信じられないとき、えてして人は相手ではなく、自分への確信を失っているのだ。砥尚は馴行(じゅんこう)を疑ったわけではあるまい。ただ――自分が道を失っていることを理解しているから、馴行殿の謀反(むほん)もあり得ないことではないと思えたのだろう……」

「そんな」

「いまの状況に一番苦しみ、動揺しているのは砥尚であって当然ではないのか。砥尚には高い理想と自負があった。にもかかわらず、失敗してしまった。砥尚は失敗を認めないふうを装っているが、少なくとも才(さい)が華胥(かしょ)の国などではないことは、痛いほど分かっているだろう。もっと良い国にできるはずだった、良い王になれるはずだった――それを一番疎(うと)んじているのは、当の砥尚ではないのか」

「……そうなのでしょうね」

「これではまるで扶王(ふおう)のようだ、と砥尚は思わずにいられないだろうし、ならば反意を抱く者がいても無理はないと感じるだろう。さぞ自分を侮蔑(ぶべつ)しているだろう、憎(にく)んでいるだろう、いっそ討(う)ってやりたいと思っているかもしれない――馴行も、私も、朱夏も」

朱夏は顔を覆(おお)った。――だが、砥尚が真に侮蔑(ぶべつ)し、憎んでいるのは自分自身なのだ。

「砥尚の命運は本当に尽きようとしている……」

朱夏は顔を上げた。

「私たちはどうなるのでしょう……いえ、台輔(たいほ)は?」

さあ、と栄祝は低く零(こぼ)す。

「死(し)を賜(たまわ)ることになれば、少なくとも我々は砥尚の破滅を見ずにすむ……」

明けて翌日、堂室(へや)に蹲(うずくま)る朱夏らの許(もと)に、再び小司寇(しょうしこう)が訪ねてきた。堂室に入り、外から兵卒に扉(とびら)を閉めさせた小司寇は、悲嘆をいっぱいに浮かべて朱夏らを見た。

「……このようなことになってしまい、本当に申し訳ありません」

小声で言った小司寇は、蒼褪(あおざ)めた顔で書状を差し出す。

「主上は、台輔を奏(そう)へお出しになります」

「そんな……台輔はお身体(か ら だ)が」

朱夏の言に、小司寇は悲しげに首を振る。

「きっと……だからこそ、お出しになりたいのでしょう。主上自身、これ以上、お傍(そば)にいられないのです」

ああ、と朱夏(しゅか)は呻(うめ)く。砥尚(ししょう)は、病んでしまった采麟(さいりん)の存在に耐えられないのだ。

「おふたりには、台輔(たいほ)をお送りするように、とのことです」

言って小司寇(しょうしこう)は、青喜(せいき)を見る。

「随従は必要なだけ連れていくことを許されます。高岫(こっきょう)の奉賀(ほうが)まで台輔をお送りください。奏(そう)のお方がお出迎(でむか)えくださるそうです。確かに台輔を使者にお渡しになり、身辺を整え申しあげてから、おふたりは揖寧(ゆうねい)に戻ってこられるように、と」

朱夏は首をかしげた。小司寇はうなずく。

「お戻りになられてから、大逆(たいぎゃく)の定法(じょうほう)どおり、詮議(せんぎ)のうえ刑罰(けいばつ)を下す、とのことです。つまり――主上(しゅじょう)はおふたりに戻ってこられてはならぬ、と」

朱夏は言葉を失った。これが長年の党羽(な か ま)に対する砥尚の温情なのだ。采麟を連れて奏に行き、そして戻ってくるな、と言っている。戻れば大逆の咎(とが)により、慣例どおり死を賜(たまほ)らねばならないから、と。

命を惜(お)しんでくれたのだと思うと、涙が零(こぼ)れた。砥尚はいまだに、栄祝(えいしゅく)や朱夏(しゅか)に対して友誼(よ し み)を感じてくれているのだ。にもかかわらず、大逆を問わねばならない。そんなことはあり得ないと一蹴(いっしゅう)はできない砥尚の心情を思うと、あまりにも悲しかった。諫言(かんげん)に耳を貸し、弱音(よわね)を吐き、相談をし、手を携(たずさ)えて王朝を立て直すことなどできないほど、すでに砥尚は追いつめられている。謀反(むほん)などあり得ないと言い切ることができるほど、己(おのれ)を信じることができない。きっと見下げたろう、侮蔑(ぶべつ)し憎(にく)んだろう、それがゆえの大逆だろうと思いながらも、死を賜(たまわ)るには忍びない――と。

小司寇は震える手で宣旨(せんじ)を栄祝に握らせる。

「どうか……主上のお心をお酌(く)みになって、くれぐれも戻ってはこられませんよう。才(さい)を離れて朝(ちょう)の末期(まつご)をお待ちになるのは、さぞやお辛(つら)いだろうとお察ししますが、おふたりがお戻りになられれば、主上はいっそう辛い罪を背負い込まれることになります」

心得た、と栄祝は低く言って、小司寇の手を取る。

「お前には辛い役目をさせた。苦衷(くちゅう)は察して余りある。心から礼を言う」

小司寇は深く頭を下げた。

「以後の御多幸をお祈りします……不遜(ふそん)ながら主上になり代わりまして」

さらに翌日、深夜、朱夏は宮城(きゅうじょう)の門戸である皋門(こうもん)で、采麟と再会した。

「台輔……お加減はいかがですか」

夏官(かかん)に担(かつ)ぎ下ろされた輿(こし)を覗(のぞ)きこみ、朱夏は膝(ひざ)をついたが、采麟からは感情の色の見えない視線が返ってきただけだった。栄祝(えいしゅく)は初めてその病(や)み衰(おとろ)えた顔を見て、愕然(がくぜん)としたようだった。ぐったりと輿(こし)に横たわったままの少女は、虚(うつ)ろな目をして、けれども片手にしっかりと枯(か)れた枝を握っている。采麟(さいりん)はそのまま人目を憚(はばか)るように古びた馬車に移された。采麟の世話をするために付けられた女官(にょかん)は、わずかに三名、朱夏(しゅか)らもまた、同じく見窄(みすぼ)らしく装われた馬車に乗りこんだ。累(るい)が及ぶことを恐れ、青喜(せいき)の他に六人いた下官のすべてを朱夏らは伴っていた。彼らが無言で三両目の馬車に乗りこむ。

深夜の皋門(こうもん)はぴったりと閉ざされていた。周囲には人目はなく、ただ兵卒が三両の馬車を包囲していた。どちらも手綱(たづな)を握(にぎ)るのは夏官(かかん)、護衛か見張りか――そのどちらでもあるのか、各馬車にそれぞれ五人の兵卒がつく。やがて、ひっそりと皋門が開いた。小司寇(しょうしこう)を唯一の見送りに、朱夏らは宮城(きゅうじょう)を発(た)った。いかにも寂(さび)しい出発だった。

高岫(こっきょう)までは、馬車で一月以上、采麟を同行しているので、宿を取ることは一切できない。一行は馬車の中で眠り、そのぶん馬車は夜間も高岫を目指す。蔽(ほろ)に覆(おお)われた馬車は、その粗末な見かけにかかわらず、内部だけはそれなりに整えられていたものの、かといって居心地が良いはずもなく、ひたすら辛(つら)い旅になった。

さらに辛いのは、采麟の病が深いことだった。采麟は馬車の中の臥牀(ね ど こ)に虚脱したように横たわったまま、時に我に返ると民を憐(あわ)れんで泣き、泣き疲れると砥尚(ししょう)を怨(うら)んで悲痛な声を上げた。轍(わだち)を連ねた旅のこと、たとえ乗りこむ馬車は違っていても、采麟の悲鳴にも似た声は朱夏らの耳にまではっきりと届いた。特に旅も後半になれば、世話をする女官ですら苦役に耐えかねて泣き崩れるようになった。憔悴(しょうすい)しきった女官に代わって、時には朱夏らが世話をする必要があった。そうなればもう、耳の塞(ふさ)ぎようがなく、目の逸(そ)らしようがない。

「みんな死んでしまうわ。国土が血で穢(けが)されてしまうわ、朱夏」

「台輔(たいほ)……そのようなことは」

「いいえ。主上(しゅじょう)は才(さい)をお見捨てになったのだもの。これから恐ろしい時代が来るわ。妖魔(ようま)が湧(わ)く――湧いた妖魔が襲う以上に、主上が民を引き裂いてしまうわ」

私も、と采麟は両手で枯(か)れ枝を握(にぎ)る。

「……私も朱夏も、みんな殺されてしまう。主上はそうやって才を殺すの」

「とんでもございません」

とにかく采麟を宥(なだ)めようと、朱夏は苦しい嘘(うそ)を繰り返した。

「主上は台輔のお身体(か ら だ)を案じられておられるのです。どうして台輔に危害を加えられるなどということがありましょう。奏(そう)でお休みくださいと、そういうことでございます。どうぞお気を安んじて」

「違うわ。主上は捨てるの。私たちを投げ捨ててしまわれたの。……朱夏には、分からないの? 主上はたくさん民を殺すわ。何もかも全部取り上げて投げ捨ててしまう」

泣き崩れる采麟(さいりん)の手を取り、朱夏(しゅか)はひたすらに撫(な)でる。

「台輔(たいほ)、お願いですから……」

「さも名君のような顔をして――なのに何ひとつ恵んでくださらないまま、才を見捨ててしまうのだわ。華胥(かしょ)の国を見せてくださると言ったのに……!」

「台輔……」

「私は主上(しゅじょう)を信じて待っていたわ、朱夏。夜毎(よごと)の夢に才(さい)が近づいていくのだって。けれども離れていくばかりだった。才は少しも華胥の国のようではなかったわ。一歩も近づかないまま遠ざかっていった……あんなに約束なさったのに!」

突っ伏した采麟は、はたと顔を上げる。

「ああ……また王気(おうき)が翳(かげ)っていく……」

「台輔」

声をかけると、今度は朱夏に縋(すが)りつく。

「お願い、揖寧(ゆうねい)に戻して。主上をお助けしないと。……どうして朱夏は主上を見捨ててしまうの? 主上はたったひとりで沈んでいかれようとしているわ」

采麟は砥尚(ししょう)への思慕(しぼ)と憎悪(ぞうお)に引(ひ)き裂(さ)かれているように見えた。砥尚(ししょう)がどれほど素晴らしい王で、砥尚を選んだ自分がどれほどに幸福だったかを語った口で、砥尚を罵(ののし)る。民を見捨てたと言って砥尚を責めたかと思えば、砥尚を見捨てたと言って朱夏(しゅか)を責めた。

「これでは、あんまりだわ……」

女官(にょかん)と世話を交代するたび、朱夏は馬車に戻って泣いた。

「姉上……」

心配そうに背中に手を当てる青喜(せいき)を朱夏は見上げた。

「砥尚が台輔を目の届かないところにやりたい気持ちはよく分かった。とても、見ていられない」

采麟(さいりん)の病は、過(あやま)ちの証左だ。それは砥尚だけの過ちではない。朱夏ら、砥尚に重用(ちょうよう)されて朝(ちょう)に席を得ていた官吏(かんり)たちの、全員の招いた結果が采麟の失道(しつどう)だった。単に病(や)み衰(おとろ)えていくだけなら――血の穢(けが)れによる穢瘁(えすい)のように――これほど辛(つら)くは感じられないのかもしれない。だが、采麟のありさまは無惨(むざん)にすぎた。目を背(そむ)けずにいられない――確かに、それが道を失うということだろう。それは朱夏らに、自らが犯した無惨な失敗を否応(いやおう)なく突きつける。

「あれが、私たちのやってきたことの結果なのだわ。……でも、なぜ?」

朱夏は、青喜と栄祝(えいしゅく)を見比べた。朱夏にはいまだに、自らの犯した過ちが見えない。

「確かに私たちが理想ばかりを追っていたことは事実です。正道は自明のことで、道を求めるのが理想なのだと思っていたし、それを振(ふ)りかざしさえすれば、何事も思うように動くと思っていたことは否(いな)めない」

朱夏らが理想として思い描いていた国府(こくふ)には、職分から利をくすねて私欲を満たす官吏(かんり)など存在してはならなかった。だからそういう官吏があれば、それを排除した。彼らを排除すると、国は立ちゆかなかった。ゆえに彼らを復職させるしかなかった。結果としては確かに失敗だったのだろう。だが、それが朱夏らの――砥尚の罪なのだろうか。

邪(よこしま)な官吏に対しては、彼らの罪を明らかにし、懲罰(ちょうばつ)を与えれば本人は罪を自覚するだろう、罪に堕(お)ちた自分を省(かえり)みて恥じ、罰される彼らの姿を見て、同種の罪を抱(かか)えた者は心を変えるだろうと、思うとはなしに思っていた。罪に問われても恥じず、罰されても悔(く)い改(あらた)めない者がいることなど、念頭にもなかった。それが現実というものであり、朱夏らの現実に対する認識が甘かった、だから失敗したのだと言われれば、なるほどそのとおりなのかもしれなかった。

「……でも、それが私たちの罪なの? 太保(たいほ)が仰(おっしゃ)っていたように、私たちは牢獄(ろうごく)を作ってしまったの? でも、私たちはべつに、民に正道を強要して、従わない者を虐殺(ぎゃくさつ)したわけではないわ」

専横する官吏に対しても、更迭(こうてつ)はしたが極刑を与えたわけではない。罪を裁くにあたっては温情をもってし、決して仁道(じんどう)に背(そむ)くようなまねはしてこなかったつもりだ。なのに国は荒れていった――采麟(さいりん)の荒廃(こうはい)と同じく。

こうして旅をしていれば、嫌(いや)でも目に入ってしまう。民は明らかに困窮(こんきゅう)している。困窮の理由の半分は、地方官吏(かんり)の搾取(さくしゅ)によるものだが、残りの半分は朱夏(しゅか)のせいだった。地を治めることを任されていながら、朱夏は充分に民を潤(うるお)すことができなかった。扶王(ふおう)の時代、官吏のほとんどは私欲を満たすことを優先して地を治めることを顧(かえり)みなかった。民が離散して荒れた農地、補修されずに埋まった水路、切れたまま放置された堤(つつみ)や、官の搾取に荒れた市井(しせい)や。それらを朱夏は、あるべき状態にしなければならなかった。やるべきことはあまりにも明らかだったが、国庫にはそれを実現する余裕がなかった。猾吏(かつり)の搾取に困窮した民に、重税を課すことはできない。砥尚(ししょう)は民を憐(あわ)れんで、賦税(ふぜい)を軽くしたが、すると国庫は充分に地を治めるだけの余裕を持つことができなかった。

采麟の病、国土の荒廃、民の困窮――旅はそのまま、朱夏に自らの落ち度を突きつけるものだった。それで朱夏は、ようやく高岫山(こうしゅうざん)が見えたときには、深い安堵(あんど)の息を吐いたのだった。

才(さい)の東に位置する高岫(こっきょう)の街、奉賀(ほうが)。才から奏(そう)へ抜ける門の先には、奏の官吏(かんり)、兵卒が待ち受けていた。朱夏らはそこで馬車を降り、才の兵卒に見守られ、歩いてその門道を進み、高岫を越えた。一団の先頭に立った少女が丁寧(ていねい)に一礼した。

「無事の御到着、心からお喜び申しあげます。私は宗王(そうおう)が公主(こうしゅ)、文姫(ぶんき)と申します。采台輔(さいたいほ)のお出迎(でむか)えに参じました」

ありがとう存じます、と応じたのは栄祝(えいしゅく)だった。栄祝は自身と朱夏の身柄を明らかにし、文姫に出迎(でむか)えの礼を述べた。文姫はうなずき、

「冢宰(ちょうさい)におかれましては、さぞお疲れでございましょう。采台輔もお疲れの御様子、奉賀に近い沙明山(さめいざん)に宮をご用意いたしました。――どうぞ」

文姫が示した先には、騎獣(きじゅう)と、それに乗せた輿(こし)が用意されていた。奉賀から沙明までは騎獣でわずか、沙明山は雲海を貫く凌雲山(りょううんざん)だった。麓(ふもと)にある城門を入り、隧道(すいどう)を抜けると雲海の上、そこにはこぢんまりとした離宮と広大な園林(ていえん)が広がっている。

「避暑のための離宮なのです。少し肌寒いかもしれませんが、采台輔のお身体(か ら だ)を考えると奉賀(ほうが)に近いほうがよろしいかと」

正殿に采麟(さいりん)を送り、女官(にょかん)の手に渡してから、文姫(ぶんき)はそう朱夏(しゅか)らに説明した。

「ありがとう存じます」

朱夏が礼を言うと、文姫はにこりと笑む。

「少しでもお役に立てればいいのですけど。何か不足や不都合がありましたら、遠慮なくお申しつけください。采台輔(さいたいほ)が心細く思われてはお可哀想(かわいそう)なので、冢宰(ちょうさい)御夫妻には、正殿の隣(となり)の廂殿(は な れ)を用意させていただきましたが、それでよろしかったでしょうか」

「もちろんでございます。何から何までお心尽(こころづ)くしをいただきまして」

事実、離宮の端々(はしばし)にまで、心配りが行き届いていた。至る所に花が飾られ、多くの下官(げかん)が控(ひか)え、ほとんど着の身着のままに等しかった朱夏らのために、着る物はおろか、身辺の細々としたものまでが遺漏(いろう)なく揃(そろ)えられていた。

「どうぞ、まずはゆっくりなさってください。私はなるたけ目立たない辺りに控えておりますから、当面はここを御自宅と思(おぼ)し召(め)してお休みになってくださいまし」

朱夏は叩頭(こうとう)して謝礼を述べた。

実際のところ、朱夏にしろ栄祝(えいしゅく)にしろ、心にも体にも休息が必要だった。文姫はそんな朱夏らを心を込めて労(ねぎら)ってくれた。鑢(やすり)をかけられたように尖(とが)った朱夏の心に、それは喩(たと)えようもなく滲(し)みたが、同時にひどく悲しかった。他国の者にこれだけのものを与えられる奏(そう)のその、磐石(ばんじゃく)とも言える余裕が胸に痛い。

――わずかに二十余年。

「たったそれだけで朝(ちょう)が沈んでしまうなんて……」

朱夏は与えられた堂室(へや)の漏窓(まど)から園林(ていえん)を眺め、寂(さび)しく呟(つぶや)いた。

「奏(そう)のお方から見れば、さぞかし不甲斐(ふがい)なく見えますでしょうね」

心尽くしの果物を運んできてくれた文姫は、困ったように微笑(ほほえ)んだ。

「そんな仰(おっしゃ)りようをなさるものじゃありませんわ。朝は度(ど)し難(がた)いものです。特に革命から日が浅ければ浅いほど難しいのですから」

「そうなのでしょうか……」

そうですとも、と頼もしく言い切って、文姫は笑む。

「それより、朱夏さま、栄祝さまは、これからどうなさるのです? おふたりは大変御立派な官吏(かんり)でいらしたとか。主上(しゅじょう)はできれば、奏をお手伝いいただければ、と仰っているのですけど」

まあ、と朱夏は声を上げた。一瞬、胸中を過(よ)ぎったのが歓喜であったことは否(いな)めない。才(さい)にはもう居場所がない。官吏(かんり)としての朱夏(しゅか)は死んだのだ。これからどうすればいいのか――朱夏は不安に思わないわけにはいかなかったし、同時に成すべきことを充分に成すことができなかった官吏としての己(おのれ)に悔(く)いがあった。奏(そう)のような豊かで余裕のある国で、もういちど官吏としてやり直すことができれば、どれほど救われるだろう、と思った。

だが、栄祝(えいしゅく)は冷ややかな声を上げた。

「お言葉はありがたいのですが、そういうわけには参りません。我々には才を傾けた責任がございます。おめおめと貴国に養っていただくわけには」

「けれど、栄祝」

栄祝はきっぱりと首を振る。

「朱夏、そういうわけにはいかない。――私は、そろそろお暇(いとま)しようと思っている」

そんな、と朱夏は声を上げた。

「戻ってきてはならない、と砥尚(ししょう)が」

「確かにそうだが、だからといって温情に甘え、才を見捨てるわけにはいかない。確かに我々は、才に帰れば大逆(たいぎゃく)により罰(ばっ)されることが分かりきっている。だが、必ず死を賜(たまわ)るとも限るまい。逃げよと言ってくれた砥尚ならば、あるいは命だけでも助けてくれるかもしれない」

「けれど」

「もしも死を賜(たまわ)ることがあっても、それは罪の報(むく)いだ」

「私たちは大逆(たいぎゃく)など――」

「してない、と言えるのだろうか。我々は革命にあたり、尊い地位を与えられながら、砥尚を助け、朝(ちょう)を助けることができなかった。みすみす民を苦しめ、不義をなし、主上(しゅじょう)に不忠をなしたことには違いない。ならば大逆の誹(そし)りは決して不当ではないだろう。大逆によって死を賜るなら、それも致し方ないように思う」

「……栄祝」

「万が一、砥尚が命を惜(お)しんでくれれば、まだ砥尚のためにしてやることがあるかもしれない。道を取り戻させることは難しいだろうが、決して不可能だと決まったものでもあるまい。そのために働ければよし、そうでなくても、生き永らえることがあれば、砥尚が破滅した後、民を支える者が才には必要だろう。空位の才を支えることで、せめて民に対する不義だけでも償(つぐな)わなくてはならない。……違うか?」

朱夏は沈黙した。

「砥尚は台輔(たいほ)を送って戻ってこいと言った。少なくとも宣旨(せんじ)にはそうあった。ならば、我々は戻らなくてはならない。――どうだ、青喜(せいき)?」

栄祝(えいしゅく)は堂室(へや)の隅(すみ)に穏和(お と な)しく控(ひか)えていた青喜(せいき)を振り返った。青喜は軽く息を吐く。

「……なんとなく、兄上ならそう仰(おっしゃ)るんじゃないかという気がしてました」

「お前はここに残ってもいいぞ」

「御冗談を。兄上だけでも戻られるのなら、絶対にお供(とも)しますからね。私がいなかったら兄上は刑場にだって寝坊(ねぼう)していかれるに決まってるんですから」

栄祝はちらりと笑い、朱夏(しゅか)を見た。そんな、という文姫(ぶんき)の声を聞きながら朱夏はうなずいた。

栄祝の言う通りだ、と思った。朱夏らは才(さい)を傾けた。それは理想にばかり拘泥(こうでい)し、あまりに現実を軽んじていた朱夏らの不明のせいなのかもしれない。ならばいっそう、ここで命を惜(お)しみ、民を犠牲(ぎせい)にしてまで貫いたものを投げ捨てるわけにはいかないのだ。

――私たちには、正道に殉(じゅん)じる義務がある。

文姫は引き留めたが、朱夏らは結局、采麟(さいりん)の身辺を整えてから沙明宮(さめいきゅう)を辞した。世話をする女官(にょかん)、下官(げかん)たちはそこに残した。くれぐれも采麟を頼むと言い置いて、沙明山を下りたのは、朱夏と栄祝、青喜(せいき)の三名、文姫は半ば不承不承(ふしょうぶしょう)、騎獣(きじゅう)を掻(か)き集(あつ)めてくれた。三名の随従が手綱(たづな)を取る騎獣に乗り、朱夏らはわずかに二日の旅程で揖寧(ゆうねい)に戻った。彼らは揖寧へと入る城門の前で朱夏らを下ろすと、御無事で、と言い置いて去っていった。城門を入り、王宮へと戻るのには、何の造作(ぞうさ)もなかった。本来――朱夏らは、采麟を送って戻ってくることになっていたのだから。

朱夏らは五門を抜けて燕朝(えんちょう)に戻り、内殿に向かって帰還の挨拶(あいさつ)をした。戻った彼らを見て、砥尚(ししょう)は甚(はなは)だ昏(くら)い眼(め)をした。

「……冢宰(ちょうさい)、大司徒(だいしと)、どうして」

泣きそうな声で言ったのは、朱夏らを送り出してくれた小司寇(しょうしこう)だった。彼は朱夏らを官邸へと連れ戻しながら、小さく悲痛な声を上げた。

「むざむざと裁かれるおつもりですか」

「主上(しゅじょう)のお決めになることだ。そうなればなったで致し方あるまい」

栄祝が言うと、小司寇はうなだれた。

「……太宰(たいさい)と小宰(しょうさい)は」

「秋官(しゅうかん)の沙汰(さた)を待っております。秋官はできるだけ結論を先送りにしようと、とかくの理由をつけて詮議(せんぎ)を長引かせているところです。主上も急げとは仰(おっしゃ)らないので……」

「主上の様子は」

小司寇は無言で首を振った。

「ずいぶんとお顔の色が悪いようだったが」

「御酒(ごしゅ)が過ぎるようです。朝議(ちょうぎ)に泥酔(でいすい)していらっしゃることも再三で……朝議の間もお心はそこにないようで、ときに意味不明のことを口走られたり、唐突に叫びをお上げになることもあり、ほとんど朝議は成り立ちません」

そんなに、と朱夏(しゅか)は溜息(ためいき)をついた。砥尚(ししょう)もまた病んでいるのだ。砥尚の朝(ちょう)は、激しい勢いで沈もうとしている。

朱夏らは小司寇(しょうしこう)に送られ、久々に官邸(かんてい)へと戻った。朱夏らが留守の間に何者かが荒らしたのだろう、急の出立(しゅったつ)でほとんどの道具が残されていた官邸の中からは、それなりに値打ちのあるものの一切が消えていた。

「何ということを……」

絶句した小司寇を、栄祝(えいしゅく)は宥(なだ)める。

「気にすることはない。それよりも、ずいぶんと官吏(かんり)もすさんでいるようだ。我々の私物などどうなってもかまわないようなものだが、王宮の宝物を荒らされないよう、気をつけたほうがいい。あれはこの先、才(さい)をお救いくださる新しい王のものなのだから」

栄祝が言うと、小司寇は顔を歪(ゆが)めて深く一礼をした。

朱夏らは穏和(お と な)しく自邸で詮議(せんぎ)を待った。主楼(おもや)から見える園林(ていえん)は、すっかり初夏の色を見せている。登用されて官邸を賜(たまわ)りながら、朱夏はこのときまで、ろくに園林を眺める暇(ひま)も持たなかった。無我夢中で駆(か)け抜(ぬ)けた二十余年、栄祝と顔を合わせることすら、朝議の席が精々(せいぜい)という日々が続き、いつの間にかそれで当然のような気がしていた。青喜(せいき)と三人、落ち着いて園林を眺めることなど、皆無だったと言っていい。――すっかり覚悟がついたせいか、朱夏はそんなことを考えるほど平穏な気分でいられた。

そして待つこと二日、昼下がりに小司寇(しょうしこう)が駆(か)けこんできたのだった。

「冢宰(ちょうさい)、もしもよろしければ、これにお召し替えになっていらしてくださいませんか」

小司寇が差し出したのは、奄奚(げなんげじょ)が身につける袍子(き も の)だった。

「……どうした」

「太保(たいほ)が見つかりました」

え、と朱夏は声を上げた。

「馴行(じゅんこう)が? どこに」

「水陽殿(すいようでん)です。……亡(な)くなっておられました」

朱夏(しゅか)は息を呑(の)んだ。小司寇(しょうしこう)は説明する。――朱夏らの邸宅が荒らされていたと報告を受けた天官(てんかん)は、栄祝(えいしゅく)の助言に従い、王宮の御物(ぎょぶつ)を確認した。調べてみると、近頃王宮では、砥尚(ししょう)の王朝に先行きなしと見限った猾吏(かつり)による略奪が横行していたのだった。さすがにそれが王宮の深部――路寝(ろしん)や燕寝(えんしん)にまで及ぶことはなかったが、天官、秋官(しゅうかん)は協議のうえ、見回りを強化することにした。そして、後宮(こうきゅう)の奥――北宮(ほくぐう)の主殿である水陽殿を見回った天官が、激しい腐臭(ふしゅう)によってそれを発見したのだった。

馴行(じゅんこう)の遺体は、佳氈(しきもの)にくるまれ、水陽殿の横屋(こや)に押し込まれていた。死後かなりの日数が経過していると見えて、ほとんど原形を留(とど)めないほど腐敗していたが、その着衣から馴行であることは明らかだった。

「長明殿(ちょうめいでん)から消えていた佳氈に間違いございません。御遺体の様子からすると、太保(たいほ)はやはり、太師が亡くなられたのと相前後して何者かに殺害されたようです。中には、華胥華朶(かしょかだ)が一緒に包まれてございました」

「華胥華朶が?」

「はい。しかも枝が折れて欠けてございました。斬撃を受けた際に、懐(ふところ)にでもお入れになっていたものが折れたのかもしれません。いずれにしても、北宮にはほとんどの者が立ち入ることができません。それがおできになるのは――」

「……主上(しゅじょう)」

小司寇は、無言でうなずいた。

「事が事だけに、主上に奏上(そうじょう)もいたしかね、太宰(たいさい)、小宰もおられず、今後どうすればよいのか分かりません。誰かに采配(さいはい)をいただかないことには……」

「母上――太傅(たいふ)は」

「お知らせしてございます。その太傅が、こっそり冢宰(ちょうさい)の采配を願ってはどうか、と」

そうか、と呟(つぶや)き、栄祝は小司寇から袍子(き も の)を受け取った。

「……参ろう。待たれよ」

栄祝が臥室(しんしつ)に向かったあと、堂室(へしつ)の隅から青喜(せいき)がおずおずと声を上げた。

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