「あのう……小司寇、ひとつ伺ってもいいですか」
「――何だ?」
「華胥華朶の折れて欠けた先は、見つかったんですか?」
いや、と小司寇は怪訝(けげん)そうに答えた。青喜は考えこむふうをし、臥室から奄(げなん)の形(なり)をして出てきた栄祝を呼び止める。
「兄上、太保のお身体(か ら だ)をよくよく検分してください。ひょっとしたら、折れた枝の先は、太保(たいほ)のお身体(か ら だ)の中にあるかも。――行ってらっしゃいまし。お気をつけて」
「……どうして、あんなことを?」
栄祝(えいしゅく)を見送った後、朱夏(しゅか)が問うと、青喜(せいき)は困ったように首を竦(すく)めた。
「ちょっと思っただけです。ええと、何となく」
「駄目よ、青喜。座りなさい。どうしてなのか、聞かせて」
青喜は居心地悪そうに椅子(いす)に腰を下ろし、叱られる子供のように畏(かしこ)まった。
「だから……太保のお身体(か ら だ)はひどく傷(いた)んでいるって。太師(たいし)が殺(あや)められたとき、太保も殺められたんではないかって仰っていたでしょう。ほら、血糊(ちのり)がひとりぶんにしては多い、という話もあったじゃないですか。それはやっぱり、太保のものが混じっていたせいだったんだと思うんですよ」
「ええ……そうなのでしょうね。それが?」
「でも、太保に狼藉(ろうぜき)を働いた者は、なぜ太師の御遺体をその場に残して、太保の御遺体だけを運び去ってしまったんでしょう? もちろん、理由なんかいくらでも考えられるんですけど、華胥華朶(かしょかだ)が一緒に見つかった、しかも枝が折れていた、というからには、そのせいだったんじゃないかと思ったんです。何らかの理由で華胥華朶が太保に刺さってしまったんじゃないでしょうか。そのときに枝が折れて馴行(じゅんこう)さまのお身体(か ら だ)の中に残ってしまった。だから馴行さまの御遺体を隠さなければならなかったんじゃないか、って」
「……なぜ? 折れた枝を抜き取るか、それができないのなら、華胥華朶ごと放置していけばいいのじゃないの?」
「そうなんです。だから……太保の御遺体を隠したのは、華胥華朶がそこにあったことを知られたくなかったからだ、と思うんですけど……」
「どうして?」
青喜は、しゅんと首を垂(た)れた。
「華胥華朶はそもそも台輔(たいほ)のもの、それを馴行さまが砥尚(ししょう)さまに献じた。持っているのは、砥尚さまのはずです」
「……ええ」
「私はあの日、馴行さまにお会いしました。馴行さまはその時、華胥華朶を砥尚さまに差しあげたと言っておられたし、献上したあと、華胥華朶がどうなったのかをご存じないようでした。少なくともあの日まで、馴行さまは華胥華朶を御覧になってはいなかったんです。では、華胥華朶はいつ、砥尚さまの許(もと)から馴行さまの許へと運ばれたのでしょう?」
「あの夜、砥尚(ししょう)が持って東宮(とうぐう)を訪ねた……?」
「だと思うんです、確実じゃないですけど。砥尚(ししょう)さまが下官(げかん)に命じて届けさせた、ということだってあるわけですからね。ただ、あの日、砥尚さまが華胥華朶(かしょかだ)を持って東宮に向かわれたなら、砥尚さまは絶対に華胥華朶がそこにあることを知られたくなかっただろうと思うんです。砥尚さまだけは、他ならぬ自分が華胥華朶を運んだことを知っていらっしゃるわけですから」
「では……本当に砥尚なの?」
たぶん、と青喜(せいき)は悲しそうに答えた。
「なぜ、砥尚はそんなことを」
「なぜなんでしょうねえ。……もっと不思議なのは、砥尚さまはなぜ、胸を張って御自身がやられたのだと仰(おっしゃ)らなかったのか、ってことです」
え、と朱夏(しゅか)は顔を上げた。
「だって、砥尚さまはこの国の王なんですよ。仮に砥尚さまが太師(たいし)、太保(たいほ)を殺(あや)められたとしても、それで主上(しゅじょう)を裁くことのできる人間がどこにいるって言うんです?」
「それは……きっと砥尚が潔癖(けっぺき)だからだわ。砥尚は自分がそんな残虐(ざんぎゃく)を行なったことを、知られたくはなかった。それでなくても、朝(ちょう)の傾いているこの時期に」
「それでも隠す必要があるかな。馴行(じゅんこう)さまには謀反(むほん)の噂(うわさ)もあったわけでしょう。たとえそれがなくたって、馴行さまが反した、だから斬(き)り捨(す)てたと言えばそれですむのじゃ」
「謀反(むほん)があれば、民も官も、砥尚の王者としての資格を疑うわ」
「でも、主上は馴行さまが反意をもって太師を殺(あや)めた、姉上、兄上と共謀して謀反を企(たくら)んでいたと仰(おっしゃ)ったわけでしょう。そしてその罪によって私たちを裁くおつもりだった」
「……それは、そうだけど」
「謀反があったとは言えなかった――そういうことではないと思うんです。自分の犯した罪を恐れられ、なかったことにしたかったら、御遺体を隠すより、むしろ謀反だと仰いますよ。御遺体を隠したって、砥尚さまは自分の罪をご存じです。自分のせいじゃない、馴行さまが悪かったのだと言えば、自分の罪から目を逸(そ)らすことができるんですから」
確かにそうだ、と朱夏はうなずく。
「では……なぜ?」
「分かりません。でも、私は華胥華朶がとても気になります。砥尚さまは太師の御遺体は放置したけれども、華胥華朶は隠された。人を殺めたという罪よりも、華胥華朶のほうを恐れているみたいに。――そもそもなぜ、砥尚様は華胥華朶を東宮に持っていかれたんでしょう。いいえ、華胥華朶だけじゃない……」
朱夏は瞬(またた)く。
「だけじゃない?」
「もちろんです。砥尚(ししょう)さまは華胥華朶(かしょかだ)と剣を持って東宮(とうぐう)にいらしたんです。そもそも路寝(ろしん)、燕寝(えんしん)では、門卒(もんばん)と護衛の官以外、剣を携行しないのが慣例です。主上(しゅじょう)でさえ、剣を帯びていられるのはご自身の居宮である正寝(せいしん)だけ、仁重殿(じんじゅうでん)と東宮には、主上といえど護衛といえど、剣を携行していくことはできません」
朱夏(しゅか)ははっとした。
「砥尚(ししょう)さまは、そもそも東宮にいらしたとき、あえて剣を携(たずさ)えていかれたのです。最初から太師(たいし)、太保(たいほ)をお斬(き)りになるおつもりだったかはともかくも」
砥尚は東宮に行こうと思い立った。剣を掴(つか)み、華胥華朶を掴んで。それが殺意の発露だとは限らない。だが、少なくとも怒りの発露ではなかっただろうか。どこかに向かうに際して武器を携えていくとすれば、それは懼(おそ)れか怒りのせいだろう。懼れのあったはずがない。少なくともその夜、長明殿(ちょうめいでん)にいるのは、痩(や)せた老人と貧相(ひんそう)な小男でしかなかった。共に剣を持ったこともないような、砥尚にとっては脅威(きょうい)となるべくもない人物。
「砥尚は怒っていたのだわ……怒りにまかせて、剣を握(にぎ)り、華胥華朶を握って東宮へ向かった……」
「だと思うんです。問題は、なぜ華胥華朶が砥尚さまの怒りに関係していたのか、ということなんですよね」
「砥尚は馴行(じゅんこう)を怒ったのでしょう? 台輔(たいほ)のものを取り上げて恥をかかせた、と言って」
「それは、馴行さまが華胥華朶を献上したときの話でしょう。そのときならともかく、いまになってお怒りになりますかね?」
朱夏は考え、はたと思い至った。
「砥尚は華胥華朶を使ったのでは? そして、自分の理想とする才(さい)が、理想の国でなんかないと知った。だから――」
青喜(せいき)は溜息(ためいき)をつく。
「かもしれません。……よく分からない。理由は分からないのですけど、華胥華朶に何か関係があるんだと思うんです。馴行様が華胥華朶を献じたことが、始まりだったんじゃないかって」
そうかもしれない、と朱夏は胸を押さえた。
「……だったら、それは栄祝(えいしゅく)の罪でもあるのね……」
「兄上の? なぜです?」
「そもそもそれを勧(すす)めたのは栄祝なんですもの」
朱夏の言葉に、青喜はきょとんと目を丸くした。
「兄上が? 兄上が勧(すす)めたんですか?」
「ええ……だと思うわ。私はたまたま行き合って、栄祝(えいしゅく)と馴行(じゅんこう)が話をしているのを耳にしたのだけど。あの頃、馴行は砥尚(ししょう)に何も有益な助言をしてあげられないこと、何の助けもできないことをとても気に病んでいたのよ。頼りにならない弟だって、砥尚から見限られてしまうのじゃないかって。それで栄祝が勧めたのだと思うわ」
朱夏(しゅか)はたまたま園林(ていえん)の樹影越し、通りかかっただけなので、会話のすべてを聞いたわけではない。だが、栄祝が、華胥華朶(かしょかだ)を献じてみれば少しはお役に立てるかもしれない、このことは秘しておくから、馴行の発案だったということにすればいい、と勧めているのだけは耳にした。
「……そんな」
青喜(せいき)は顔を強張(こわば)らせた。朱夏は眉(まゆ)をひそめる。
「それが、どうかしたの?」
「あ……いや、何でもないです。ちょっと驚いただけで……」
「その顔は何でもないという顔じゃないわ。何なの、青喜」
青喜はひどく迷っている様子だった。何度も逃げ場を探すように堂室(へや)を見回し、朱夏の顔と見比べる。
「言ってちょうだい。いまは非常時なのよ」
「あのう……だから、馴行さまはすごくきっぱり否定されたんで……」
「何のこと?」
ですからね、と青喜は深く息を吐く。
「私がお会いしたときのことです。砥尚さまは華胥華朶を使われて、自分の理想が正しいことを確認なさったから確信がおありなんだろうか、というような話をしたんです。そしたら馴行さまはすごくきっぱり、それはあり得ない、って否定されたんですよ。私はそれがすごく奇妙な気がして」
「なぜ?」
「だって、馴行さまはいつだってお兄さまの意見大事だったじゃないですか。砥尚さまが白と言えば白、そういう方で、お兄さまと自分を引き比べて、いつだって自分のほうが劣っているんだって思っておられるような方で……その方が、ああもきっぱり言い切るなんて変な感じがしたんです」
「それは……そうかもしれないわね」
「それで――根拠は何もないんですけど、ひょっとしたら、馴行さまは、華胥華朶を使われたのかなって思ったんです」
朱夏(しゅか)は口を開いた。――それは、あり得る。馴行(じゅんこう)は助言のできない自分に気落ちしていた。采麟(さいりん)から下賜(かし)された華胥華朶(かしょかだ)を得て、砥尚(ししょう)に献じる前に、それを使ってみることは、いかにもありそうなことだ。華胥の国がどういうものだか知ることができれば、有効な助言もできるだろう。華胥華朶は采(さい)の国氏(こくし)を持つ者にしか使えないが、王弟であった馴行は、もちろん国氏を持っている。
「じゃあ……馴行は華胥の国を見て、それで、それが才(さい)とは――砥尚の目指している才とは別物だと確認したのね?」
「だと思うんですよ。だから、こうもきっぱり否定なさるのかな、と私は思ったんです。でも、だったらちょっと妙な気がして」
「妙?」
「ええ。馴行さまが華胥の国を見て、それは才とは別物だと思われたなら、砥尚さまが華胥華朶を使われて、満足なさることは絶対にあり得ないはずです。なんだけど、砥尚さまは本当に華胥華朶を使わないでいられたでしょうか?」
「それは……」
「砥尚さまは本当に迷っておられたんですよ。連日東宮(とうぐう)を訪ねられて、太師(たいし)や母上と話しこんでおられた。砥尚様だって、自分の座った椅子(いす)が壊(こわ)れそうだってことは分かっておられたはずです。今、道を正さなかったら、このまま終わってしまうんだってことは分かってらっしゃった。そこに、答えを教えてくれる宝重(ほうちょう)を差し出されて、それを使わないでいるなんてことができるのかな」
「……それは難しいかも……」
「でしょう? でも、華胥華朶を使えば、砥尚さまはすごく絶望するか、あるいは急に政(まつりごと)を方向転換なされるか、どちらかだったと思うんですよ。でも、そのどちらもなかった。砥尚さまは唐突に、とても確信的になられた。馴行さまの記憶によれば、ちょうど華胥華朶を砥尚さまに献じた頃からです」
「砥尚は華胥華朶を使ったの? それで確信を――いいえ、そんなはずはないわね」
「の、はずなんです。でも……台輔(たいほ)がおられる。台輔は何度も何度も仰(おっしゃ)ってました。一度だって夢の中の才と、現実の才が重なることはなかった、離れていくばかりだった、って。華胥華朶の夢で見た華胥の国と、才は少しも近づかなかった、ってことですよね、それ」
でしょうね、と朱夏は俯(うつむ)く。そこまで過(あやま)ちは深かったのかと思うと、ひどく情けなく、辛(つら)かった。
「でも、本当にただの一度も、なんてことがあるんでしょうか?」
朱夏(しゅか)は青喜(せいき)を振り仰ぐ。
「少なくとも登極(とうきょく)なさった当初、砥尚(ししょう)さまは天意を受けておられたんですよ? 王朝の最初の一歩から、まったく見当違いの方向に踏み出されたなんて――そこまで踏み違っておられて、二十余年とはいえ、玉座(ぎょくざ)が保(も)つんでしょうか。そもそも天命が下るでしょうか」
「……そこまで酷(ひど)くはなかったはずだわ。確かに、私たちはたくさんのことに失敗したけれども、巧(うま)くいっているように見えた時期もあったし、ほんの少しぐらいは、失敗せずにすんだこともあったと思うの。そう思いたいだけかもしれないけれど」
「でしょう? ……何か変なんです、華胥華朶(かしょかだ)は。華胥華朶は華胥の国を夢にして見せてくれると言われてますけど、そもそもそれが間違っているんじゃないでしょうか」
「分からないわ。それは、どういう」
「ひょっとしたら、華胥華朶は、使う者によって見せる夢が違っているんじゃ」
そんな、と朱夏は口を開けた。
「でも、そう考えると得心がいくんです。台輔(たいほ)は華胥華朶を使っておられた。けれども台輔の見た華胥の国は、台輔だけのもの。だから砥尚さまの目指していたものとは、重なることがなかった。馴行(じゅんこう)さまも使われた。そして馴行さまが見た華胥の国も、馴行さまだけのもの、台輔の見ておられた華胥の国とも違うし、才(さい)のありようとも違っていた」
「まさか……そして砥尚も使った、と? 砥尚は砥尚の華胥の国を見た。それは砥尚の目指したものと一致していた。だから砥尚は突然、確信的になった……と」
青喜(せいき)はうなずく。
「華胥華朶の見せる華胥の国は、理想郷の名ではないんだと思うんです。国のあるべき姿を見せてくれるんじゃない。砥尚さまが見る華胥の国は、砥尚さまが理想とする国なんだと思うんです。砥尚さまは、砥尚さまが理想とするところの国を夢で見たのだし、台輔は台輔の理想とするところの国を夢で見た。きっとそれは、慈悲(じひ)で埋め尽くされた国でしょう。麒麟(きりん)の見る夢なんですからね。一片の無慈悲も入り込む余地もない。だったらそれが現実の才と重なることなんてあり得ないです。――そういうことだと思うんです。華胥華朶は正道を示さない。使った者の理想を形にして夢として差し出すだけなんだって」
それで確かに形は合う。朱夏は認めねばならなかった。
「でも、そんな宝重(ほうちょう)に何の意味があるの?」
「意味ならありますとも。だって意外に人は、自分が何を望んでいるか、知らないものなんですから」
まさか、と朱夏は失笑した。青喜は困ったように眉尻(まゆじり)を下げる。
「姉上には迷う、ということがないんですか? 自分を掴(つか)みかねるということは?」
「それは……」
「たとえば姉上は、奏(そう)から才(さい)へと戻ってこられましたよね。けれども姉上は、奏の公主(こうしゅ)から奏で働いてくれないか、と言われたとき、とても嬉(うれ)しそうでした。あれは奏に残りたいということだったんじゃないんですか? けれどもこうして才(さい)に戻ってきた。それはなぜです?」
「それは……栄祝(えいしゅく)の言い分に一理があると思ったからだわ。確かに私は奏に残りたいと一瞬だけ思いました。けれど、栄祝の言うとおり、才がここまで傾いた責任の一端は、私にもあります。正道を掲(かか)げて扶王(ふおう)を糾弾(きゅうだん)し、砥尚(ししょう)と共に朝(ちょう)を築いた。それなのに、ここで正道を捨てることがどうしてできるでしょう」
「それは、捨ててはならない、と自分に課している、という意味ですか? それとも、捨てられない、という意味ですか?」
朱夏(しゅか)は困惑した。青喜(せいき)の問いかけはあまりに微妙だ。
「捨ててはならないと自分に課しているのだと言えばそうなのかもしれないわ。私は、ここで正道を投げ捨てるようなことはしたくないの。してはならない、と思うの」
「してはならない、は自分に対する禁止ですね? それは投げ捨てることに誘惑を感じるからこそ、禁じなければならないんじゃないんですか?」
「そうじゃないわ。捨てたりしない人間でありたいのよ。投げ捨てれば絶対に後悔するわ。とても自分が嫌(いや)になると思うの。そんな人間になってしまうことは嫌なの」
「それだって、やはり誘惑を感じている、ということですよね?」
朱夏は言葉を失った。なんだかひどく、自分が薄汚(うすぎたな)い生き物に思え、いたたまれなかった。青喜は微笑(ほほえ)む。
「ああ、そんな貌(かお)をなさらないでください。姉上のそれは、蔑(さげす)むようなことじゃないです。道なんて投げ捨てて、奏でやり直したいと思うのは、人として当然のことですよ。誘惑を感じないはずがない。それを抑えて、ちゃんと道を守っていられるから、姉上は立派だと思うんです。最初から誘惑を感じない人が道を守っていられるのは当然のことで、立派でも何でもないです。罪に誘惑を感じる人が、罪を断固(だんこ)として遠ざけていられる、そのことのほうが何十倍も立派なことなんですよ。――でしょう?」
「そうなのかしら……」
「そうですとも。――でもね、そんなふうに人は自分の本音に、疎(うと)いものなんですよ。私はそう思うんです。本当に望んでいるのはこれなのに、そうであってはならないと感じる、あるいはそれを望めばいっそう悪いことになるのじゃないかと不安に思う、不安に思っている自分が不快で、不安などないふりをすることもあるでしょうし、端(はな)から、これを望むのが当然だと信じて疑ってない、なのに心のずっと深いところで納得できてないってこともあるでしょう。人間なんて複雑なんです。いろんな想(おも)いが錯綜(さくそう)して、蓋(ふた)をしたり捻(ねじ)れたりして、本当に望んでいることを覆い隠してしまう」
「……そうかもしれないわ」
「だとしたら、華胥華朶(かしょかだ)があればとても助かるでしょうね。そういう迷いや縺(もつ)れを全部取り除いてくれて、自分が本当に望んでいる国の姿を見せてくれれば、妙なことで迷わないですむんですから。私は、華胥華朶とはそういうものなんだと思うんです。理想を濾(こ)して不純なものを取り除いてくれるものなんだって」
朱夏(しゅか)はうなずいた。青喜(せいき)は微笑(ほほえ)み、そして顔色を曇(くも)らせる。
「問題は、兄上はそれに気づいてらっしゃったのだろうか、ということです」
「栄祝(えいしゅく)が知っているはずなんかないわ。華胥華朶はずっと、国のあるべき姿を見せてくれるということになっていたんですもの」
「だったらいいんですけど……」
青喜は目を逸(そ)らした。
「もしも兄上が華胥華朶の本当の意味をご存じで、それであえて馴行(じゅんこう)さまにそれを勧(すす)めたのだとしたら、これは大変な罪です……」
罪、と呟(つぶや)き、朱夏もそれに気づいた。血の気の引いていくのが、自分でも分かった。
華胥華朶は国のあるべき姿を見せるわけではない、単に夢見る者の理想を明らかにするだけなのだと分かっていて、砥尚(ししょう)にそれを与えたのだとしたら。砥尚は何も知らず、華胥華朶を使い、自らの理想は正しかったのだと再確認してしまったのだとしたら、――それはみすみす、失道(しつどう)に向かって砥尚を押し出すことだ。砥尚は華胥華朶を使ったために、あたら自らの進むべき道を正す機会を失ってしまったことになる――。
7
朱夏はその日、眠れなかった。臥牀(ねどこ)の中で栄祝が戻ってきた物音を聞いたけれども、寝入ったふりをして出迎えることもしなかった。いまは栄祝の顔を見ることができない。
栄祝は華胥華朶がどういうものだか知っていただろうか? 知っているはずがないと思う一方で、知っていても不思議はない、と思う。采麟(さいりん)の見る華胥の国は、ただの一度も現実の才(さい)と重ならなかった。少しも近づいていない――それさえ耳にする機会があれば、華胥華朶に疑惑を抱くことは可能だし、疑ってみればその真の働きに気づくことも不可能ではない。
もしも知っていて、馴行(じゅんこう)にそれを勧(すす)めたのだとしたら。自分が馴行を介し、勧めたことを隠すために、それを秘しておいたのだとしたら。栄祝(えいしゅく)は、砥尚(ししょう)の見る夢が、砥尚の進む道を正すことなどあり得ない――確信をもって失道(しつどう)に向かうことになると承知で、それを勧めたことになる。つまりは、栄祝は砥尚に道を失わせたのだ。
そんなことがあり得るはずはない。栄祝は砥尚の朋友(ほうゆう)であり、兄弟にも等しい存在だったのだから。砥尚が道を失えば、それを支えていた栄祝にも罪は生じる。それを懼(おそ)れこそすれ、求める理由などあるだろうか?
そう思う一方で、だからこそ砥尚は怒ったのではないか、と感じた。馴行は華胥華朶(かしょかだ)を献じ、砥尚はそれを使った。そして自分の理想に確信を得て、誤った道を突き進んだ。自己を正す最後の機会を、砥尚は華胥華朶のせいで失った。もしも砥尚が華胥華朶の真の意味を知ってしまえば、――何もかも承知で馴行がそれを献じたのだと誤解すれば、剣と華胥華朶を握(にぎ)りしめて東宮(とうぐう)に向かうことは、極めて自然なことに思われた。
そう、そもそも馴行には反意(はんい)ありとの噂(うわさ)があったのだ。それと、華胥華朶の真の意味が結びつけば、砥尚が馴行に騙(だま)されたのだと思っても無理はない。
(でも……そんな噂がいつの間に)
少なくとも朱夏(しゅか)は、そんな噂(うわさ)を耳にしたことがなかった。それはいったい、どこから出た噂だったのだろう。あえて誰かが、その噂をばらまいたのだとしたら。そしてその誰かが、華胥華朶の真の意味を砥尚に耳打ちしたとしたら――。
(そんなことがあるはずはない……)
選(よ)りに選(よ)って栄祝が。朱夏が伴侶として選び、掛け値なしの敬愛を注いだ相手。その栄祝が、そんな、恐ろしい――。
(そんなはずはない)
栄祝が、砥尚を罪に陥(おとしい)れるなんて。そんな人柄ではない。現に栄祝は才(さい)に戻った。栄祝が砥尚から玉座(ぎょくざ)を取り上げ、そこに自分が座ろうと思うなら、なぜあえて大逆(たいぎゃく)によって殺されるかもしれない才へ戻るはずがあるだろうか?
(絶対に違うわ……)
朱夏は明け方、ようやく浅い眠りに落ち、そして堂室(へや)のほうが騒がしいのに気づいて目を覚ました。何かがあったのか、と身を起こしたところに、青喜(せいき)が入ってきた。
「ああ、お目覚めでしたか」
「何か……あったの?」
「主上(しゅじょう)のお姿が見えないそうです」
え、と朱夏(しゅか)は声を上げた。同時に足が震え始めた。
「どうして……どこに」
「分からないので、官がお捜ししています。砥尚(ししょう)様の騎獣(きじゅう)が見あたらないとかで、官はちょっと狼狽(う ろ た)えているのですけどね。ひょっとしたら、台輔に会いにいかれたのかも、と」
「砥尚がなぜ、いまさら台輔に? ……ねえ、青喜(せいき)、砥尚は馴行(じゅんこう)のことを」
「結局、みなさんで御相談の上、お知らせしたそうです。砥尚様は真っ青になられて、座りこんでしまわれたとか。激しい勢いで人払いをなさって、それきりお姿が見えなくなったので、みなさん余計に心配しておられるんですよ」
そう、と朱夏は呟(つぶや)き、両手を握りしめる。
「……栄祝(えいしゅく)は?」
「昨夜遅くに戻ってらっしゃいました。例によって書房(しょさい)で沈没してらしたのですけど、今の知らせでお起きになって。とりあえず官を指揮(しき)するために朝堂へ向かわれました。姉上は起こさずともよいと言ってらっしゃいましたけど、お起きになりますか?」
ええ、と朱夏は答えた。起き出して堂室(へや)に入り、そこで何らかの知らせが届くのを待つ。だが、夜になっても何の知らせもなく、やがて官邸の外までもが騒(ざわ)めき始めた。
「いったい、外で何が起こっているの……?」
知りたいが、朱夏は外に出られない。本来なら、朱夏も栄祝も、そして青喜も官邸からは出てはならないのだ。門には門衛(もんばん)がついている。栄祝が再三出ていっている以上、出入りに目を瞑(つぶ)るよう言い含められてはいるのだろうが、だからといって、軽々しく表の様子を窺(うかが)いに出ていくようなことはできなかった。
青喜は心得たようにうなずき、堂室を出ていく。すぐに戻ってきて、何でもない、と伝えた。
「門衛にちょっと贈り物をして聞いてみたんですけど」
「まあ……青喜」
「非常時だから大目に見てください。主上がいないことが広まって、すっかり官が狼狽(ろうばい)しているようです。いまのうちに王宮を出ていこうとする連中がいたり、逆に金目のものを物色する連中がいたりで騒然としているようですけど、まだみんな右往左往しているだけのようですよ」
「そう……」
呟(つぶや)いて、朱夏はぐったりと椅子(いす)に身体(か ら だ)を沈めた。
「……青喜(せいき)、私は不安なの……そんなことはあり得ないと分かっているけど、砥尚(ししょう)は本当に出掛けたのかしら。まさか」
「その先は聞きませんよ」
青喜は、きっぱりと言った。
「何ひとつ確かじゃないんですからね」
その夜、栄祝(えいしゅく)は戻らないままだった。夜が明け、さらに翌日の夜が来ても、栄祝は戻らない。外の騒(ざわ)めきもやんで、辺りは張りつめたように静まり返っている。
明け方になって、朱夏(しゅか)は堪(たま)らず立ち上がった。
「……私は出掛けます」
栄祝に会わねばならない――朱夏は震えた。これ以上、不安だけを抱いていることには堪(た)えられない。砥尚はどこに行ったのか。本当にどこかへ消えたのならいい。だが、もしもそうでなかったら――。
青喜は溜息(ためいき)をつき、棚(たな)から衣類を取り出した。
「姉上は蟄居中(ちっきょちゅう)なのですから、できるだけ目立たないようにしてください。ここに奚(げじょ)の袍子(き も の)を借りてきてあります」
朱夏はうなずき、それを受け取った。臥室(しんしつ)で着替えて堂室(へや)へ出ると、青喜も同じく袍子姿をしていた。
「青喜、それは」
「もちろん、姉上にお供するんです。蟄居中(ちっきょちゅう)の姉上が出掛けられたなんて、知れたら大事(おおごと)なんですからね。誰かに見咎(みとが)められたら、私がその場を何とかしますから、委細かまわずここに駆(か)け戻(もど)ってくるんですよ。門卒(もんばん)には鼻薬を嗅(か)がせていますから。――いいですね?」
「青喜、でも」
「問答無用です。さあ、急ぎましょう。夜が明けてからでは面倒です」
躊躇(た め ら)いながらうなずいて、朱夏は目を逸らした門卒の間を通って官邸を出た。夜明け前、宮城(きゅうじょう)はしんと物音、気配が絶えている。万が一、顔見知りに会ったときのために俯(うつむ)き、青喜の選んだ裏道を急いで、朱夏は外殿にある朝堂へと向かった。
人目を憚(はばか)りながら基壇に登ると、戸口には兵卒が落ち着きなく控(ひか)えていた。彼らは朱夏の顔をよく見知ってはいるが、さすがに咎められるようなことはなかった。
「――朱夏」
朱夏が堂内に滑(すべ)りこむと、栄祝は驚いたように顔を上げた。そこには、小司寇(しょうしこう)をはじめとして夏官長大司馬(かかんちょうだいしば)、蟄居中(ちっきょちゅう)であるはずの太宰(たいさい)、小宰(しょうさい)、さらには更迭(こうてつ)されたはずの大司寇までが揃(そろ)っていた。
「……主上(しゅじょう)は」
「まだ見つからない」
言って栄祝(えいしゅく)は朱夏(しゅか)に歩み寄ってくる。
「勝手に邸(やしき)を出たりして。いくら何でもふたりとも抜け出しては……」
「栄祝、少し話をしたいの」
朱夏が告げると、栄祝はわずかに眉(まゆ)をひそめる。背後の官を見やり、そしてうなずいた。こちらへ、と栄祝が朱夏と青喜(せいき)を促(うなが)したのは、朝堂の左右に設けられた夾室(こ べ や)だった。朱夏はそこに滑(すべ)りこみ、栄祝がそれに続き、そして青喜は外に残って扉(とびら)を閉めた。
「――どうした? 何かあったのか?」
訊(き)いた栄祝に対面し、朱夏は両手を握(にぎ)り合(あ)わせる。
「栄祝……砥尚(ししょう)はどこに行ったの?」
「分からない。騎獣(きじゅう)が消えていることから、台輔(たいほ)のところへ行かれたのではないかと言う者もいる。とりあえず沙明山(さめいざん)には青鳥(せいちょう)を出して、砥尚が現れたら返信してほしいと伝えたが、いまだに答えはない」
「貴方(あ な た)は本当に、砥尚の行く先を知らないのね?」
栄祝は驚いたように目を見開く。
「知っているはずがない」
そう、とうなずき、朱夏は改めて問う。
「ひとつ訊(き)きたいの。馴行(じゅんこう)に反意ありという噂(うわさ)は、どこから聞きました?」
栄祝はわずかに表情を固くした。
「……さあ。どこだったか。それがどうした?」
「とても大切なことなの。思い出してください」
栄祝は視線を逸(そ)らす。
「さて……誰かから耳打ちされたのだったか、あるいは、下官の話をたまたま小耳に挟(はさ)んだのだったか……」
嘘(うそ)だ、と朱夏は直感した。それは長い間、共に人生を歩んできた者の勘(かん)だった。
「噂の出所を調べてください。――いえ、調べたいの。私にさせてくださるわね?」
「どうしたのだ、急に。……もちろん、知りたいと言うのなら、調べさせるが、とにかく砥尚が見つかって、我々の沙汰(さた)が決まるまでは」
「それとも、噂を流したのは……貴方?」
栄祝(えいしゅく)は一瞬怯(ひる)み、すぐにまさか、と答えた。平然としてはいたが、朱夏(しゅばい)には彼が狼狽(ろうばい)していることがよく分かった。――それだけの時間を寄り添ってきた。
「馴行(じゅんこう)に華胥華朶(かしょかだ)を献じてはどうかと勧(すす)めたのはなぜ?」
「何のことだ?」
「貴方(あ な た)が勧めたのでしょう? 私はあのとき、傍(そば)にいたのです」
栄祝は目を見開く。真実、狼狽(ろうばい)したように視線を泳がせた。
「……そう、確かにお勧めはしたが」
「華胥華朶がどういうものだか知りながら?」
「朱夏」
栄祝は朱夏を見る。その目は切羽(せっぱ)つまった色をしていた。
「お前は――何を言いたいのだ。さっきから、まるで私を責めるかのように」
「……どうしてなの?」
朱夏は涙が溢(あふ)れてくるのを感じた。やはり、すべては栄祝が。
「なぜ、砥尚(ししょう)を失道に追いこんだの? なぜ、罪を唆(そそのか)したの」
栄祝は顔を背(そむ)け、そして決然と朱夏を見返した。
「私が罪を勧めたわけではない。罪を犯すは余人にあらず、砥尚自身が選んだことだ」
「貴方(あ な た)がそう、仕向けたのよ!」
「そう思うのはお前の勝手だ。だが、お前はそれを証明できるのか」
「できません。したいとも思わない。私は貴方の罪を知ってます。それで充分です」
「私の罪ではない、砥尚の罪だ」
栄祝は吐き捨て、朱夏の肩を握(にぎ)る。
「いいか、すべては砥尚が王の器でなかった、ということなのだ」
「……栄祝」
「我々がどんな過(あやま)ちを犯した。いつ道に背(そむ)いた。にもかかわらず、粉骨砕身(ふんこつさいしん)してなお、国がいっかな治まらないのはなぜだ」
「それは……」
「私は何度も考えたが、党羽(な か ま)に問題があるとは思えなかった。彼らは皆よく職分を守り、労を惜(お)しまず働いている。道に照らし、身を挺(てい)して国に尽くしているのだ。にもかかわらず才(さい)は倒れる。それはなぜなのだ」