「……それは砥尚も同じだわ。砥尚だって」
「砥尚は王だ。我々とは違う。我々が問われるのは、官吏(かんり)としての器量だが、砥尚が問われるのは王者としての器量なのだ。砥尚を天命を下すに値する器だと見込んだからこそ、天は砥尚(ししょう)を王にしたのではなかったのか。その天命が尽きようとしている。砥尚が王としての器ではなくなった――それ以外に理由があろうか」
現に、と栄祝(えいしゅく)は声を低めた。
「私が、馴行(じゅんこう)に反意があったのでは、と言えば、調べるまでもなく鵜呑(うの)みにした。いいか、私は決して、反意があったのだと断じたわけではない。ただそういう可能性もある、と提示しただけだ。だが、砥尚は一笑に付すことができなかったのはもちろん、馴行に問い質(ただ)すでなく、調べるでなくそれを信じた。馴行を信じず、疑ったのは砥尚だ。そればかりか、砥尚は我々まで疑ったろう。私が疑念を吹きこんだのではない、砥尚が自ら疑ったのだ」
「栄祝、それは言い訳にならないわ」
「なぜだ? 私は馴行に何をしたわけでもない。馴行に怒り、剣を取って凶行に及んだのは砥尚自身だ。夢ひとつで国の荒廃(こうはい)に目を瞑(つむ)り、己(おのれ)を確信できるほど、砥尚は傲慢(ごうまん)になっていた。猜疑(さいぎ)に満ち、感情を律することができず、激情に駆(か)られて最悪の罪を犯した――そういう者になってしまった。だからこそ、天は砥尚を見放したのだ」
朱夏(しゅか)は栄祝の手を振(ふ)り解(ほど)いた。
「貴方(あ な た)は、罪を擦(なす)りつけたかったのね」
「私が太師(たいし)や馴行に狼藉(ろうぜき)を働いたわけではない!」
「けれど貴方(あ な た)は、国を傾けた罪を砥尚に擦りつけたのだわ。自分たちにも責任があるのだと言いながら、貴方は自分が誤っていたなどと、少しも思っていなかった。自分の過(あやま)ちではない、すべては砥尚のせいだったのだと言うために、貴方はあえて砥尚を罪に向かって押し出したのよ」
「私は――」
「貴方(あ な た)は道を失ったのが自分でないのだったら、それでよかったのね? たとえ砥尚に大逆(たいぎゃく)の疑いをかけられ、それで刑場に引き出されて殺されることになっても、誰が道を失った砥尚の正義を信じるでしょう。罪は砥尚にだけあって、貴方は死んでも正義の者でいられる……そういうことだったのね」
「それが真実だ」
いいえ、と朱夏は首を振る。
「砥尚は貴方にとって、弟にも等しい者だったはずです。同時に朋友(ほうゆう)であり、主(あるじ)だった。その砥尚を貴方は裏切り、救うどころか罪に押しやり、自らが正義と呼ばれるためにすべての罪を負わせようとしたのだわ。それが罪悪でなくて何なのです!」
栄祝は顔色を変えた。
「貴方(あ な た)のその行ないの、どこに正義がありましょう。どこに道があるのです」
栄祝(えいしゅく)が絶句したとき、激しく扉(とびら)を打つ音がした。失礼を、と急(せ)きこむように言って、青喜(せいき)が扉を押し開ける。
「どうしたの?」
「――主上(しゅじょう)が」
見つかったの、と朱夏(しゅか)は走る。青喜の後ろには表情を歪(ゆが)めた官吏(かんり)たちが殺到していた。
「禅譲(ぜんじょう)でございます!」
朱夏は足を止めた。
「……いま、何と?」
「白雉(はくち)が末声(まっせい)を鳴きましてございます。主上は自ら位を降り、禅譲なさいました」
「……砥尚(ししょう)」
よろめいた朱夏を青喜が支える。知らせを持って駆(か)けつけてきたのだろう、衣も髪も取り乱した春官長大宗伯(しゅんかんちょうだいそうはく)が袖(そで)で顔を覆(おお)った。
「禅譲ゆえに、御遺言がございます」
白雉は王の即位と同時に一声(いっせい)を鳴き、退位と共に末声を鳴く。禅譲の場合に限り、位を降りた王の遺言を残すことがあった。
「遺言……?」
「――責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず、と」
大宗伯は、言ってその場に泣き崩(くず)れた。
8
その場にはしばらく号泣する声、嗚咽(おえつ)する声が満ちた。いまだ官は砥尚をこんなにも慕(した)っているのだと思うと、朱夏は胸の詰まる思いがした。
「……砥尚」
ごく微かな声は背後から、栄祝(えいしゅく)の半ば呆然(ぼうぜん)としたような呟(つぶや)きだった。
「砥尚は自身の罪から逃げなかったのだわ……過(あやま)ちを正すことを選んだ……」
朱夏が囁(ささや)くと、背後で小さく呻(うめ)き声(ごえ)がする。すぐに栄祝は朱夏の脇を通って、朝堂を退出していった。それを追うように、ぱらぱらと官は立ち上がり、朝堂を出ていく。おそらくはこの訃報(ふほう)を伝えにいくのだろう。朝堂の東に広がる府第(やくしょ)に向かい、出ていく官吏(かんり)たちをよそに、栄祝の後ろ姿だけが、まっすぐ南へと下っていった。
「……責難は成事にあらず、か」
切なげな色をした声に朱夏(しゅか)が振り返ると、青喜(せいき)はくしゃりと笑って、袖(そで)で顔を拭(ぬぐ)った。
「……やっぱり砥尚さまだなあ」
「砥尚は何を言いたかったのかしら……?」
「きっと、お言葉どおりの意味ですよ。――人を責め、非難することは、何かを成すことではない」
「どういう意味なの? 私は決して砥尚を責めたり非難したりしたことは」
いいえ、と青喜は首を横に振る。
「砥尚さまは、御自身のことを言われたんだと思いますよ。そして、たぶん、御自身の至った結論を、教訓として官吏(かんり)たちにも残そうとなさった」
「砥尚が? 何を? 分からないわ。何を責めるの?」
「扶王(ふおう)です」
え、と朱夏は呟(つぶや)く。
「きっと、そういうことなんだと思います。私は、母上にそう言われたことがあるのを思い出しました。ずっと昔――まだ高斗(こうと)の頃です。砥尚様が高斗を旗揚(はたあ)げなさって、兄上がそこに馳(は)せ参(さん)じられて、それで私も一緒に行きたかったんです。だから、母上にそう言ったことがある。母上も一緒に揖寧(ゆうねい)に行きましょう、高斗に参加しましょうって。そのとき、母上が、似たようなことを仰(おっしゃ)いました」
「慎思(しんし)さまが?」
「責難(せきなん)するは容易(た や す)い、けれどもそれは何かを正すことではない、って」
「私は砥尚を信頼しています」
――そう、慎思は言った。
「けれども、あの高斗とやらには賛同できません。砥尚にもそう言いました」
なぜです、と青喜は養母に訊(き)いた。
「自分でお考えなさい。私は人を非難することは嫌いです。砥尚には、言うべきことを言いました。後は砥尚が自ら考え、選ぶことです」
「そんなあ」
青喜が言うと、養母は微笑(ほほえ)む。
「考えることを惜しまないこと」
「ええと……じゃあ。これだけ教えてください。どうして母上は、非難するのが嫌いなんですか?」
「そんな資格はないと思うからですよ。それは、非難するだけなら、私にだっていくらでもできますけどね。私は砥尚(ししょう)のやっていることに疑問を感じます。それは違う、と言うことは容易(た や す)いけれど、では何をすれば違わないのか、それを言ってあげることができないのです」
「……さっぱり分かりません」
「青喜(せいき)はこの国をどう思いますか? 王をどう思う?」
「主上(しゅじょう)は道を外(はず)れていると思います。だって本当に酷(ひど)いありさまなんですから」
「では、もしも主上と台輔(たいほ)が身罷(みまか)られたら、青喜は昇山(しょうざん)するのですね?」
は、と瞬(またた)いて、青喜は慌(あわ)てて手を振った。
「私が――ですか? とんでもない」
「なぜ?」
「だって、私になんて、国を治められるはずがないです。砥尚さまや兄上ならともかく」
「あら? 青喜は自分ができもしないことを、他人ができないからといって責めるの?」
慎思(しんし)はおどけて言う。青喜は狼狽(う ろ た)え、意味もなく左右を見渡した。
「ええと……いえ、そのう」
「主上を責める資格があるのは、主上よりも巧(うま)く国を治められる人だけではないのかしら」
「それは……そうかもしれませんけど」
「砥尚に対しても同じように思うのですよ。それは私も、いまの才(さい)のありさまは酷(ひど)いものだと思います。すべて主上のせいだと言えば、そうなのでしょうね。だから主上に対し、非難の声を上げる者がいることは当然のことなのでしょう。徒党を組んで大きな声を上げれば、主上の耳にも届くかもしれません。砥尚のやっていることは、そういうことね。けれども、私には何かが違うように思えます。それは違うのじゃないの、と砥尚を非難することは容易(た や す)いけれど、では、どうすればいいのかと言われると、それが私にも分からないのです。国を正し、主上を正す必要があることは確かです。そのために何をすればいいのかは分からない。ただ、砥尚のやっていることは違うと思う――それだけで、砥尚を責めることなど、してよいのでしょうか?」
「それは……そうですけど」
「正す、ということは、そういうことではないのかしら。そちらじゃない、こちらだと言ってあげて初めて、正すことになるのじゃない?」
「砥尚さまは、正しい道が見えておられるからこそ、声を上げてらっしゃるのでしょう?」
「なのでしょうね。私はとりあえず、違うと思う、とは伝えました。これが正しいと示すことはできないけれども、あなたのしていることに賛同はできない、と。それを聞いてもなお、自身の道に確信が持てるのであれば、砥尚(ししょう)の思うようにやってみればいいでしょう」
「やってみれば、って……母上は意外に冷たい方なんだなあ」
「そうですか? だって、私は正解を知らないのですから、砥尚が間違っているとは限らないでしょう?」
「もしも砥尚さまのほうが間違っていたら?」
「間違っていたと分かれば、砥尚はそれを受(う)け容(い)れて正すことのできる者です。私はそう信じていますよ」
慎思(しんし)は言って微笑(ほほえ)んだ。
「私は砥尚のやっていることが間違いだと知っているわけではありません。ただ、自分が違和感を覚えるだけなの。違和感がある以上、手を貸すことはできないけれども、こちらのほうが正しいのだと言ってあげることもできないのだから、砥尚を非難する資格などありませんし、そんなことをする気もありません。だから、青喜(せいき)も好きにしていいのですよ。砥尚のほうが正しいと思うのなら、行って手を貸しておあげなさい」
「でも……」
それでは慎思のほうが間違っている、と青喜は判じたことになる。困って慎思を見上げると、養母はくすりと笑った。
「私への気遣(きづか)いは無用ですよ。私が間違っていて砥尚が正しければ、それで国は良いほうに向かいます。肝要(かんよう)なのは、そこなのですからね」
「……私は、今になって、母上の仰(おっしゃ)っていたことが、ちょっぴりだけど分かるような気がします。責めるのは容易(た や す)い。非難することは誰にでもできることです。でも、ただ責めるだけで正しい道を教えてあげられないのなら、それは何も生まない。正すことは、何かを成すことだけど、非難することは何かを成すことじゃないんだって」
「分からないわ、青喜」
青喜は寂(さび)しそうに微笑(ほほえ)む。
「あのね、姉上。――姉上は言っておられたでしょう? 結局、自分たちは何もできなかった、扶(ふ)王(おう)の時代から一歩も前に進まなかった、って」
「ええ……認めたくはないけれども、それが事実なんだもの」
「それはなぜでしょう?」
「それが分かれば」
「こういうふうに考えることはできませんか? 自分たちには国を前に進める能力がなかったんだ、って」
朱夏(しゅか)は蒼褪(あおざ)め、思わず声を荒(あら)らげた。
「それは……それは、私たちが無能だった、ということ? 私や砥尚(ししょう)が無能だったと」
青喜(せいき)は小さく溜息(ためいき)をつく。
「能力がないことは悪いことじゃないでしょう? 私にもできないことは、いっぱいあります。例えば、剣を使うことなんて全然できません。できないのは悪だ、なんて言われると困ってしまいます。人には向き不向きがあるんですから」
「向いてなかったと言いたいの? 朝(ちょう)を治めることに向いてなかった、それだけの能力がなかったんだって」
だったら、と朱夏は吐き出す。
「どうして天は、そんな砥尚に天命を下されたの」
「私は天帝じゃないですから、分からないです。でも、天帝は砥尚さまの理想高く真摯(しんし)なところを買われたんじゃないのかなあ」
「つまり……理想は高いけれども、それを実現する能力がなかったと言いたいのね」
「向いてなかった、というだけのことですよ」
「向いていない者が国権を握(にぎ)ることは悪だわ。確かに人が無能なのは悪いことじゃない。でも王や政(まつりごと)だけはそうではないわ。無能な王など、いてはならないのよ!」
だから、と言いかけ、青喜は口を噤(つぐ)んで俯(うつむ)いた。そして朱夏も気づいた。――そう、王だけは無能であってはならないのだ。政に向いていないなど許されない。
「だから……それで砥尚は、天命を失ったのね……」
朱夏は呆然(ぼうぜん)とその場にうずくまった。あのね、と青喜の柔らかな声が降る。
「これは砥尚さまの御遺言があったから、そう思うってだけのことなんですけど。……ひょっとしたら、砥尚さまは根本的に何かを誤解しておられたんじゃないかな」
「根本的に……?」
「責難(せきなん)することは、何かを成すことではないんです。砥尚さまはそもそもの最初から、そこを誤解していて、それに気づかれたから、わざわざ遺言を残されたんだと思うんです」
分からない、と朱夏が首を振ると、青喜は朱夏の前に座りこんで微笑(ほほえ)む。
「国を治めるということは、政(まつりごと)を成す、ということですよね。砥尚さまは、いかに成すべきかを考えなければなりませんでした。どんな政を布(し)けばいいのか、国をどう治めるべきなのかを考えて、国のあるべき姿を求めなければならなかったんです。……でも、砥尚さまは、本当にそれを考えたことがあったのかな」
「まさか! 砥尚(ししょう)は高斗(こうと)の時代から」
青喜(せいき)はうなずいた。
「国はこうあるべきだ、と謳(うた)っていましたよね。私も聞くたびにうっとりしたものです。でも、いまになって思うんですよ。それは本当に砥尚さまの理想だったのかな、って。……いいえ、きっと理想ではあったんでしょうね。けれどもその理想って、ひょっとしたら、ただひたすら扶王(ふおう)のようではない、ということでできてたんじゃないかなって思うんです」
朱夏(しゅか)はぽかんとした。
「扶王の課した税は重かった。だから軽くすべきだと砥尚さまは考えたわけですよね。すると国庫は困窮(こんきゅう)し、堤(つつみ)ひとつ満足に造ることができなくなりました。飢饉(ききん)が起こっても蓄(たくわ)えがなく、民に施(ほどこ)してやることもできなかった。――そうでしょう?」
「……ええ」
「砥尚さまは、税とは何で、何のためにあり、重くすることはどうして罪で、軽くすることがどうして良いことなのか、本当に考えたことがあったのかな。ただひたすら、扶王のようではないために、軽減したのじゃないでしょうか。税を軽くすることで何が起こるのか、そこまで考え抜いて出した結論だったのかな……」
朱夏は返答すべき言葉を失くした。
「母上の仰(おっしゃ)るとおりだなあ、って思うんです。人を責めることは容易(た や す)いことなんですよね。特に私たちみたいに、高い理想を掲(かか)げて人を責めることは、本当に簡単なことです。でも私たちは、その理想が本当に実現可能なのか、真にあるべき姿なのかをゆっくり腰を据えて考えてみたことがなかった気がするんです。扶王が重くしているのを見て、軽いほうがいいのにって、すごく単純にそう思っていたような感じがする……」
言って青喜は溜息(ためいき)をついた。
「税は軽いほうがいい、それはきっと間違いなく理想なんでしょう。でも、本当に税を軽くすれば、民を潤(うるお)すこともできなくなります。重ければ民は苦しい、軽くても民は苦しい。それを弁(わきま)えて充分に吟味(ぎんみ)したうえでの結論こそが、答えでないといけなかったんじゃないかな。私たちはそういう意味で、答えを探したことがなかったと思うんです」
朱夏はようやく、青喜の言わんとすることを悟(さと)った。だから、慎思(しんし)は何度も砥尚に言っていたのだ、税を決めるなら民の現状を見て、適正な値にすることが正道なのではないか、と。それはいかほどだと問われ、慎思は黙りこんだ。そう――きっと慎思にも、これが正しい値だと指し示すことはできなかったのだろう。試しにこのくらいにしてみては、と慎思は提言したが、砥尚はそれを拒(こば)んだ。重税に喘(あえ)いでいた民に、これ以上の税を課すことはできない、と言った。
「砥尚(ししょう)さまにとって、国のあるべき姿っていうのは、唯一にして絶対のものだったと思うんです。道に沿った理想の先に答えはあって、それ以外の答えはあり得なかった。試しに、とか、今のところは、なんてことさえ、砥尚さまにはなかったような気がします。妥協を一切受けつけないほど、砥尚さまは自分の抱いた華胥(かしょ)の夢に絶対の確信を持ってました。けれどもその確信は、扶王(ふおう)を責めることで培(つちか)われた夢だったんです」
そのとおりだ、と朱夏(しゅか)は呟(つぶや)いた。
朱夏らの眼前には傾いた王朝があった。朱夏らはただ、扶王を非難すればよかったのだ。朱夏は扶王の重税に非難の声を上げたが、それは熟考の末のことなどではなかった。ただ単純に目の前の民が重税に喘(あえ)いでいたことに義憤を感じたからにすぎない。なぜ重くする、軽くしない、と声を上げ、軽くすべきだと確信したが、朱夏らは税が軽すぎても民が困ることなど、想像すらしていなかった。
そう――正道は自明のことに見えた。なぜなら、扶王が道を失っていたから、扶王の行ないは即(すなわ)ち悪だと明らかだったからだ。朱夏らは夜を徹して扶王を責め、国のあるべき姿を語り、華胥(かしょ)の夢を育(はぐく)んだ。確かに、扶王を責めることで、その夢は培われたのだ。最初は曖昧(あいまい)でしかなかったものが、扶王の施政にひとつ粗(あら)を見つけるたびに、具体的なものになっていった。扶王が行なったことなら、行なわなければよいのだ。――そう短絡すれば、確かに正道を見出(みいだ)すことは容易(た や す)い。
安直な確信に基づく二十余年、砥尚と共に築いてきた王朝は、扶王の王朝よりも脆(もろ)かった。
「……私たちは、確かに無能だった……」
国の何たるかなど、少しも分かっていなかった。国を治めるに足るだけの、知識も考えも指針も持たなかった。
「そう……本当に素人(しろうと)だったんだわ。政(まつりごと)のことなんて、何も分かってない。分かっていないのに、分かった気になっていた。扶王を責めることができたから、自分たちは扶王よりも政の何たるかを分かっていると思っていた……」
朱夏が胸を押さえてその場に突っ伏したとき、軽い足音が聞こえた。堂室(へや)に駆(か)けこんできたのは、蒼白になった慎思(しんし)だった。
「朱夏――青喜(せいき)――、砥尚が身罷(みまか)ったと」
朱夏はうなずいた。
「……白雉(はくち)が末声(まっせい)を鳴いたそうです。禅譲(ぜんじょう)ゆえに遺言がありました。……責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず、と」
慎思(しんし)は目を見開き、そして俯(うつむ)き、顔を覆(おお)った。
「そう……では、砥尚(ししょう)は自らを正したのね……」
呟(つぶや)いて、慎思は顔を上げる。
「立派な子です。本当に、なんて立派な」
慎思の表情、声音(こわね)には、何もかもを見通している響きがあった。そう――青喜に責難は正すことではない、と教えることができた慎思なら、砥尚の犯した過(あやま)ちなど、最初から分かりきったことだったのだろう。そもそも、だからこそ慎思は高斗(こうと)に参加しなかった。
「……慎思さまはお分かりだったのですね。私たちが、朝(ちょう)を預かる資格もないほど無能だったということを。容易(た や す)く扶王(ふおう)を非難してそれで何もかもを分かった気になっていた……」
朱夏(しゅか)が言うと、慎思は驚いたように朱夏を見た。
「さぞ私たちの姿が愚(おろ)かに見え、苛立(いらだ)たしかったことでしょう」
まあ、と呟いて、慎思は朱夏の前に膝(ひざ)をついた。
「そんなことが、あるはずはないでしょう」
けれど、と朱夏は込み上げてくる嗚咽(おえつ)を呑(の)みこんだ。今になって自分が恥ずかしく、腹立たしい。無能だったのみならず、朱夏はそんな自分に呆(あき)れ果てるほど無自覚だった。
「そういう責め方をしてはいけませんよ。では朱夏は、どうするべきだったのか、いまは分かるというのですか?」
「朝(ちょう)を預かるべきではなかったのです。その資格のある人に任せるべきでした」
「それは誰? 空位の才(さい)には王と官吏(かんり)が必要だったのですよ? それも、できるだけ早く」
「それは……」
慎思は朱夏の手を握(にぎ)る。
「そういう責め方をしてはいけません。人も自分も。砥尚が遺(のこ)してくれた言葉のとおりなのですよ。答えを知らずにただ責めることは、何も生まないのです」
でも、と朱夏は泣き崩れる。自分の無能が悔(くや)しく、それに気づかなかった不明がいっそう悔しかった。身の置き所がないほど辛(つら)く――民にすまない。
「私だって朝に参画しておりましたよ。そして正しいことが何なのか、とうとう分からないままでした。税ひとつ、官吏の整理ひとつを取っても、どうすればいいのか、さっぱり分からなかった。それほどに、政(まつりごと)に対して無知で無能だと分かっていて、太傅(たいふ)の席をいただいていたのです。けれども――どんな王だって、最初はそうでしょう?」
朱夏は顔を上げ、瞬(またた)く。
「宗王(そうおう)だって、かつては市井(しせい)の舎館(や ど や)のご亭主だったと聞きますよ。その宗王に、政(まつりごと)の何たるかが分かるはずがありましょうか。朱夏(しゅか)にせよ、砥尚(ししょう)にせよ――私にせよ、分かっていなかったことを恥じる必要はないのだと思うのです。貴女(あ な た)に恥ずべきこと――後悔すべきことがあるとすればただひとつ、それは確信を疑わなかった、ということです」
「私たちは……」
「けれどもう、疑いを抱きましたね? 自分たちが無知なのではないか、過(あやま)つのではないかと分かりましたね? ならば、それを正すことができます――砥尚のように」
「慎思(しんし)さま……」
「砥尚は王でした。この過(あやま)ちを正す方法はふたつしかなかった。ここから自身の不足と不明を踏まえて改めていくのか、それとも、自らその器にあらずと断じて位を退(しりぞ)くか。砥尚は後者を選びました。……情としては出直せばよかったのに、と言ってやりたい。けれども、砥尚は後者を選ぶことで、正道にあろうとする自分を貫きました。砥尚は自らが玉座(ぎょくざ)にあることを許さなかった」
「無能だから……?」
「父と弟を手にかけたからです」
ああ、と朱夏は呻(うめ)いて顔を覆(おお)った。
「……ご存じだったのですか」
「少し考えれば、分かることです。……そして、砥尚にそれを唆(そそのか)したのが誰かも」
朱夏は、はたと慎思を見返した。慎思は顔を歪(ゆが)めた。
「……それほど追いつめられていたのでしょうが、栄祝(えいしゅく)のやったことは許されないことです。母として不憫(ふびん)には思います。そこに至る前に正してやれなかった自分が憎(にく)く、栄祝にすまない……」
「お義母(かあ)さま」
「だから、せめて私たちはあの子が、自らを正すことができるように祈っていましょう。これ以上罪を重ね、恥を重ねて、あれほどまでに堅持しようとした正道から永遠に逸(そ)れてしまうことがないよう」
慎思が何を言っているのかを悟(さと)って、朱夏は悲鳴を上げた。
「そんな、でも……!」
栄祝は朝堂を出て、まっすぐ南へと下っていった。――ただひとり。
狼狽(う ろ た)えて立ち上がろうとした朱夏の腕を、慎思は掴(つか)む。
「しっかりなさい。いまここで、本当に憐(あわ)れまねばならないものを見失ってはいけませんよ。私たちの肩には依然として民が載(の)っているのです。王を失ったばかりの民が」
慎思(しんし)の目には涙が浮かんでいたが、それよりも決然とした気配のほうが強かった。
「砥尚(ししょう)は台輔(たいほ)を才(さい)に残してくれました。空位(くうい)は長くは続かないでしょう。砥尚は最後まで自分の肩に載(の)ったものを忘れなかったのです。砥尚を憐(あわ)れむなら、私たちがそれを忘れることは許されません。砥尚を惜(お)しみ、栄祝(えいしゅく)を惜しむなら、私たちは二人の罪を背負ってその償(つぐな)いをしていかねばならないのです」
言って慎思は青喜(せいき)を振り返る。
「お前もです、青喜。今は朱夏(しゅか)の従者でいたい、位も責任もない小物でいたいなどという我(わ)が儘(まま)は許しませんよ」
はい、と青喜は神妙にうなずいた。
「仰(おお)せのままに――黄姑(こうこ)」
青喜は養母にきちんと礼を取った。王の姑(おば)、飄風(ひょうふう)の王となった砥尚を薫陶(くんとう)し、多大な影響を与えたその人柄を麒麟(きりん)の貴色(きしょく)、黄色になぞらえ、一部の臣下は慎思をそう呼ぶ。
慎思は毅然(きぜん)としてうなずき、そして朱夏の顔を見つめ、ついに折れたように朱夏に縋(すが)って泣き崩(くず)れた。朱夏はその背をしっかりと抱き留める。慎思の衿(えり)を噛(か)んで嗚咽(おえつ)を怺(こら)える耳に、慌(あわ)ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。朱夏を呼び、慎思を呼ぶ声は小宰(しょうさい)のもので、しかもひどく上擦(うわず)っていた。
それが、どんな知らせを運んできたのかは分かっていた。きっと訃報(ふほう)のはずだ。――朱夏は夫を信じている。
青喜が黙って立ち上がり、素早く堂を出ていって扉(とびら)を閉めた。
十二国記シリーズ 華胥の幽夢 帰山
帰(き) 山(ざん)
街は碧(へき)を湛(たた)える湖の畔(ほとり)に広がっている。小波(さざなみ)ひとつない湖面には、白い石で造られた街と、その背後に聳(そび)える灰白色の凌雲山(りょううんざん)が映(うつ)っていた。
ひたすらに街道の坂を登ってきた旅人は、峠(とうげ)を越えた瞬間、その光景を見ることになる。山々に取り囲まれた広大な緑野と、輝く湖面、雲を突く山と、その麓(ふもと)に造られた白い街を。
「……こりゃあ見事だ」
言った男は、額(ひたい)に浮かんだ汗を拭(ぬぐ)って、傍(かたわ)らで足を止めていた旅人を振り返った。
「芝草(しそう)ってのは、ずいぶんと綺麗(きれい)なところなんだねえ」
峠の頂上、小広くなった崖(がけ)の上からその景色に見入っていた旅人は、驚いたように声をかけてきた男を振り返った。その視線を受け、男はくしゃりと笑った。
「ずっと俺(おれ)の前を歩いていたろう。立派な騎獣(きじゅう)を連れていながら律儀(りちぎ)に山道を登るなんて、物好きな話だと思って見ていたんだが、わざわざ登ってきて正解だよ、あんた」
そうですね、と明るく笑って、その旅人は虎(とら)に似た獣(けもの)を撫(な)でた。見える歳(とし)の頃は二十代の初め、いかにも高価そうな騎獣(きじゅう)を連れているだけあって、身なりも良かった。
「それともあんたは、芝草の人かい?」
「いいえ」
そうか、と男はうなずき、また額(ひたい)の汗を拭(ぬぐ)った。登る一方の道のりに、男は顔を上気させ、珠(たま)のような汗を浮かべていた。降り注ぐ陽脚(ひ ざ し)も初夏にふさわしく晴れやかに強かったが、峠(とうげ)には清々(すがすが)しい風が通っている。くつろげた襟(えり)を摘(つま)んで袍子(う わ ぎ)の中に涼気を通していた男は、一息をついてから改めて、良いところだ、と呟(つぶや)き、峠を下り始めた。騎獣を連れた旅人のほうは、足を止めたまま男を見送り、しばらく峠からの景色を眺(なが)めていた。やがて自身も騎獣の手綱(たづな)を取り、峠を下り始める。眼下に見えている白い街が柳国(りゅうこく)の王都、そして白い山の頂(いただき)に、雲に霞(かす)んで淡(あわ)く森のように見えているのが、劉(りゅうおう)王の居所、芬華宮(ふんかきゅう)だった。
街道は緩(ゆる)やかに折れながら山を下り、緑野を横切る。点在する廬(むら)を左右の遠近に見ながら、やがて白い隔壁(かくへき)へと辿(たど)り着(つ)いた。隔壁の中は白い街路だった。わずかに灰を帯びた白い石を切り出し、積み上げることで、街は形成されている。芝草の周囲には樹木が乏しい。遠方から材木を運ぶよりも、天を支える柱のような凌雲山(りょううんざん)を切り取っていったほうが話は早い。山腹を抉(えぐ)り、山を切り欠いて現れた白い街は、だから山の一部のようにも見える。屋根ばかりは木材で支えるが、その材木は柳(りゅう)の中央部産に特有の墨色(すみいろ)、瓦(かわら)は同じく濃い墨色をしている。白と黒を基調とした端正な街だ。街路に敷(し)きつめられた石畳(いしだたみ)も白、そこに鮮(あざ)やかに多彩に、人々が行き交う。
彼は午門(ごもん)を抜けて街に踏みこみ、しばらく門前の雑踏を眺めていた。街路を行き交う人々の歩調は軽快で、顔色は明るい。――何の不安も問題もないかのように。
彼は軽く眉根(まゆね)を寄(よ)せた。
「……良くないな」
「――何がだ?」
唐突に声をかけられ、彼は弾(はじ)かれたように振り返った。間近にあった人影を認めて瞬(またた)き、すぐに破顔する。
「こんなところで会うかなあ」
「こんなところだから会ったのだろう。――久しいな、利広(りこう)」
利広は思わず笑った。以前会ってから「久しい」のは確かだ。何しろ三十年ばかり経(た)っている。
「まったくね。風漢(ふうかん)も相変わらず、ほっつき歩いているんだな」
「お前同様な」
「いつからここに?」
ほんの二日前だ、と風漢は言って、街路の東を示す。
「宿はあっちだ。飯は酷(ひど)いが、厩(うまや)はいい」
「じゃあ、私もそこに世話になろう」
稀(まれ)な騎獣(きじゅう)を連れていれば、舎館(や ど や)は選ばざるを得ない。厩と厩番のしっかりした宿を探すのは、結構な手間になる。利広はありがたく雑踏の中、風漢についていった。
この男と最初に会ったのはいつだっただろう。なにしろ古い話になるのは確かだ。場所がどこだったかも混沌(こんとん)としている。どういう経緯で出会い、別れたのかも覚えていない。たぶん最初は妙な男だとしか思わなかったのだと思う。別れれば二度と会うはずもなかったが、時を措(お)いて別の国で再び出会った。それで相手が、本人が自称するような風来坊(ふうらいぼう)などでは、あり得ないことが分かった。なにしろ、その間に六十年ばかりが経(た)っていたからだ。単なる「人」なら死んでいる。さもなければ会っても分からないほど老いているはず。
以来、様々な場所で出会った。やがて彼が何者なのかは分かった――正面から問い質(ただ)したことはないものの。確認してみなくても分かる。利広(りこう)に匹敵(ひってき)するほど永い時間を旅している者など限られる。
会うのはいつも「こんなところ」だ。つまりは、軋(きし)み始めた国の都――それに類するような場所。利広は柳(りゅう)が危ういという噂(うわさ)を耳にした。現劉王(りゅうおう)の治世百二十年を経て、この国は傾き始めている。それを確かめようとやってきたら、また会ってしまった。
「ところで、何が良くないのだ?」
先を行く風漢(ふうかん)が振り向きながら問う。
「……街の様子」
国が傾きつつあるというのに、住人たちの様子が明るい。これは国が危険な状態にある証拠だと、利広は長年の経験から心得ていた。民はいつも、自国が傾き始めると笑う。どこか不安そうにしていながら、話をすれば笑いながら王や施政の悪口を言う。傾斜が深刻化してくると、民は不安げになり、憂鬱(ゆううつ)そうになる。――そして、それがさらに深刻化して破綻(はたん)が近づくと、浮き足立って妙に明るくなってしまうのだ。刹那的(せつなてき)になり、享楽的(きょうらくてき)になる。情緒に流れ、地に足がつかない。このどこか病んだ明るさに亀裂(きれつ)が入ると、同時に国は一気に崩壊を始める。