その国の内実を他国の者が知ることは難しい。実際に国が荒れ始めれば、他国の者にも一目瞭然(いちもくりょうぜん)だが、王朝が傾き始め、歪(ひず)みが蓄積されている間は、ほとんどその歪みが他国の者の目に触れることはないのだ。だが、民は歪みを分かっている。目に見えなくとも肌で感じる。だから民の様子を見ていると、国がどの状態にあるのか分かる。――分かるものだ、と利広はこれまでに学んでいた。危ないという噂(うわさ)が他国にまで広がっているのに当の王都の住人は明るい。これはすでに危険域に入った兆候(ちょうこう)だった。
「……憂鬱(ゆううつ)そうにしている間は、まだ持ち直すことがあるんだけどな」
利広が溜息混(ためいきま)じりに言うと、風漢も低く答えた。
「その段階は過ぎたようだ。――どうやらもう、止まらないらしい」
そう言って、風漢(ふうかん)はここだ、と舎館(や ど や)を示す。構えだけは派手な舎館だった。白い石の壁、そこに彫(ほ)りこまれ、彩色された無数の装飾、建物を囲む墻壁(へい)の奥からは、昼日中(ひるひなか)であるにもかかわらず、酔漢たちの上げる浮ついた歓声が響いてきていた。
「柳はそんなに酷(ひど)いのかい?」
利広は借り受けた房室(へや)に荷物を放(ほう)り出(だ)して、背後に問うた。特にすることもないのか、ついてきた風漢が窓を開ける。賑(にぎ)わう雑踏の騒(ざわ)めきが流れこんできた。
「分からぬ。――特に国が民を虐(しいた)げているという話は聞かない。極端に朝(ちょう)が奢侈(しゃし)や放埒(ほうらつ)に傾いているという噂も聞かないな。ただし、地方官はかなり箍(たが)が緩(ゆる)んでいるようだ。中央から遠いところほど、誰それはろくでもない、という噂(うわさ)をよく聞く」
「それだけ?」
「いまのところはな」
そう、と利広(りこう)は椅子(いす)に身体(か ら だ)を投げ出して呟(つぶや)いた。――そういうこともある。表面上は何の問題もないふう、しかしその奥底には無数の亀裂(きれつ)が入っている。民は自分の目の前に細かな亀裂が無数にあるのを感じ取る。だから不安を覚えるし、その不安が「危ない」という噂(うわさ)になって現れるのだが、余所者(よそもの)にはどこに問題があるのか分からない。そういう場合、目に見える崩壊が始まればあとは一気に終末にまで辿(たど)り着(つ)く。
「……意外に早かったな」
利広がひとりごちると、風漢(ふうかん)は榻(ながいす)にふんぞり返って笑った。
「さすがに奏(そう)の御仁(ごじん)は言うことが違う。百と二十年を、早いと言うか」
そうだけどね、と利広も笑った。利広は世界南方、奏国の住人だった。その主(あるじ)、宗王(そうおう)の治世は実に六百年、あと八十年ばかり頑張れば、史上最も長い王朝ということになるらしい。現在ある十二国の中では最も長い。これに百年ばかり遅れて北東の大国、雁(えん)が続く。
「ただ、何となく柳(りゅう)は、もっと保ちそうな気がしてたんで」
「……ほう?」
現在、柳(りゅう)を統(す)べている劉王(りゅうおう)は、助露峰(じょろほう)といったと思う。どういういきさつで登極(とうきょく)したかは利広(りこう)も知らない。南の奏(そう)と北の柳では、ちょうど世界の端(はし)と端にあたる。柳の事情がそれほど詳細に漏(も)れ聞こえてくることはないからだ。こうして国を訪ねてきたところで、王宮の内部事情など聞こえてくるはずもない。本来なら、王の氏字(しじ)すら伝わらないことが多い。利広がそれを知っているのは、知り得る立場にいればこそだ。
それはともかく、露峰は少なくとももともと柳の高官であったわけではなく、しかも自ら王たらんとして世界中央にある蓬山(ほうざん)に麒麟(きりん)を訪ねた昇山者(しょうざんしゃ)でもなかったようだ。かといって、平凡な農民や商人から抜擢(ばってき)されたわけでもないらしい。つまりは、人の口に上るほど劇的な登極(とうきょく)をしたわけではない、ということだ。しかも、先王の時代から露峰の登極までは二十数年の時間が経過しているから、劉麒(りゅうき)が新王を選ぶのに手間取ったことは間違いない。普通、麒麟は先の麒麟が斃(たお)れて、即座に実り、一年を待たずに生まれる。天命を聴(き)いて王を選定できるようになるまで数年、早ければ次の王はそれだけの期間で立つ。
登極までにかかった年数と、王としての力量には直接的な関係などないものの、その前身がはっきりしないことといい、露峰にはどことなく冴(さ)えない印象がつきまとう。だからだろう、登極の当初は風聞(ふうぶん)などもおよそ聞こえてこなかったが、時とともに露峰の名声は高まっていった。今では、柳といえば類のない法治国家として名高い。にもかかわらず、その柳が沈む――利広には、意外としか言いようがなかった。
利広がそう言うと、風漢(ふうかん)は軽く首をかしげた。
「俺は、利広とは逆に、意外にも保(も)ったという気がしているがな。露峰は登極(とうきょく)した当時、ぱっとしない王だった。もともとは地方の県正(けんせい)だか郷長(ごうちょう)だかで、地元での評判は良かったようだが、中央にまで名が通っている、というほどのこともなかったようだ――まあ、あまり傑物(けつぶつ)という印象ではなかったな」
風漢もまた、露峰の氏字(しじ)を知っている。利広と似たような立場にいる証拠だ。
「さすがに雁(えん)の者は詳しいな。隣だから?」
「まあな。登極してしばらくの頃に来たことがあるが、可もなく不可もない、という印象だったぞ。最初の一山を越せずに倒れそうな具合に見えたが」
一山か、と利広は呟く。国を統(す)べる王には寿命がない。天の意に適(かな)っているかぎり、王朝は続く。だが、王朝を維持(いじ)し続けていくことは意外に難しい。「意外に」と感じてしまうのは、そもそも天は国を統べる器を持つ者――名君たる資質を持った者に天命を下すとされているからだ。天命を聴(き)いて、麒麟(きりん)は自らの主(あるじ)となる王を選ぶ。にもかかわらず、王朝の寿命は短い。奏(そう)の六百年、雁の五百年は破格だ。これに次ぐのは西の大国の範(はん)、氾王(はんおう)の治世は三百年に達しようとしているが、さらにそれに次ぐ王朝となると、九十年に達する恭(きょう)になる。
不思議なことに、王朝の存続には、ある種の節目(ふしめ)がある。ある――と、六百年にわたって王朝の興亡を見てきた利広(りこう)は思っている。最初の節目は十年、これを越えると三十年から五十年は保つ。これが第二の節目で、ここにひとつ、大きな山があるらしい。不思議なことに、これはその王の「死にごろ」にやってくる。
王は登極(とうきょく)すると神籍(しんせき)に入り、老いることも死ぬこともなくなるが、三十で登極した者は、その三十年後以降――もしもその者が神籍に入ることがなければ、そろそろ寿命が見えてきたであろうあたりが危ない。実際、この頃まで、王にせよ王に従う高官にせよ、寿命のない者は必要もないのに歳(とし)を数える。自身の実年齢を律儀(りちぎ)に了解しているものだ。そして自分が、本来ならばいつ死んでも可怪(おか)しくない年頃になったことに気づく。神籍仙籍(せんせき)に入らなければ、そろそろ「一生」を使い果たす頃合いなのだと強く意識するようになるのだ。同時に、自身の下界における知り合いが、ぽろぽろと欠けていく。
いや、実際にそれを目にするわけではないのだが。――そもそも神籍仙籍に入った時点で、下界における知り合いとは縁が切れてしまうのだ。雲海の上に昇ってしまえば、出身地などは国の中にある一都市にすぎない。風評も耳には入ってこないし、そうそう訪ねることもない。だが、あの人はもういないだろう、この人ももう危ない、と欠けていくさまは想像できてしまう。自分だけがいつ終わるとも分からない生に取り残されているのだと、身に迫って意識する。「一生」分の歳月を費やしてやってきたこと、やれなかったこと。中には過去を振り返って強い虚無感に襲(おそ)われる者もあり、中には将来を透(す)かし見て恐怖感を抱く者もいる。仙籍(せんせき)に入る官吏(かんり)にも、やはりここに節目があって、突然のように辞職する者が多いのがこの頃だ。だが、王は自ら辞(や)めることが難しい。それは自身の死に直結している。漠然(ばくぜん)とした虚(むな)しさや恐れでは、とても自ら位を降りて、自身の生に決着をつけることなどできない。だからだろう、まるで天にその決着を押しつけるかのように荒れ始める。消極的な辞任だ、と利広などは理解している。
そして、どうあっても自身が生き残っているはずもないほどの時間が過ぎると、どうやら居直る。この山を越えると、王朝の寿命は格段に長くなる。次の山は三百年のあたり。なぜここに危険な節目がくるのか、利広には分からない。だが、ここで王朝が倒壊するときには、悲惨な倒れ方をすることが多い。それまで賢君として崇(あが)められてきた王が、いきなり暴君に豹変(ひょうへん)する。民は虐殺(ぎゃくさつ)され、国土は荒れ果てる。
「一山越えて百二十年……なんだか半端(はんぱ)だな」
半端か、と風漢(ふうかん)は笑った。
「なるほど、一山を越えた王は、三百年程度は居座ることが多い。だが、そうでない例だって多いだろう」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
ただ、利広はその「一山」の頃合いに柳(りゅう)に来たことがある。柳のあちこちをさまよって、どんな具合だろうと――要するに、この山を越えられそうかどうかを検分してみたのだが、そのときに得た感触はひどく良いものだった。
そう、確かに一山を越え、しかも三百年には遠く及ばず倒れる王朝は多い。そうでない王朝のほうが少ないくらいだが、その場合は一山を越えた時点で、すでに予感があるものだ。なんとか越えたが、問題は多い。いずれはこれが積もりに積もって破綻(はたん)すると予測できる。だが、柳にはそれがなかった。柳は問題なく前進しているように見えた。
利広がそう言うと、風漢(ふうかん)は軽く眉(まゆ)を顰(ひそ)める。
「そう――俺(おれ)もそう思った。なので、柳は得体が知れんぞ、と思った覚えがある」
「得体が知れない?」
「見たことのない形だと思ったのだろう。一山、と俺は言ったが、実のところ最大の山は王朝の始まりにある。新王が登極(とうきょく)して十年前後まで、そこまでで朝(ちょう)としての形が整うかどうかが最大の関門だ。だが、俺が見た限りでは、露峰(ろほう)はそれに失敗しているように思えた」
「最初に、そこそこにせよ良い形ができないと、長い王朝にはならないんだけどな」
言ってから、利広は風漢の顔を見て、思わず笑った。
「まあ、稀(まれ)に、良い形どころか支離滅裂(しりめつれつ)で、そのくせ五百年ばかり生き延びた化け物じみた例もあるけどね」
風漢はただ、大きく笑った。利広も軽く笑い、
「でも、普通は最初に形を作り損(そこ)ねたら、百二十年も保たないだろう?」
「そのはずだ。だが、露峰は保った。というよりも、ちょうど一山にあたる頃に来てみたら柳はまったく変わっていた。特に顕著だったのは法の整備だ。王が玉座(ぎょくざ)で寝ていても、国はまっすぐ勝手に進む――そのようにできているとしか思えなかった」
「そう……そうなんだよね。これは出来物(できぶつ)だ、と私も思った。あの段階であそこまで国の基礎が整っていれば、ゆうに三百年は保つ」
「俺にはその豹変(ひょうへん)が、薄気味悪く見えたな。上手(うま)く軌道(きどう)に乗せていながら、王が豹変して斃(たお)れる例は多い。だが、その逆というのは初めてだ」
「雁(えん)ぐらいかな。雁は十年保たないように見えたけど、一山のあたりで豹変した」
利広は言って、腕を組んだ。
「でも、露峰がその型(かた)を踏襲(とうしゅう)するなら、この程度で倒れるはずがない。確かに見たことのない形だ……」
三百年を過ぎた王朝は、奏(そう)と雁(えん)、その二つ。つまりはそれだけ、他国は脆(もろ)い。七割方の王朝は、ひとつ目の山を越えられない。王朝は数十年で生まれては死ぬ。だから利広(りこう)は、あまりに多くの王朝が生まれ、そして死滅(しめつ)していくのを見てきた。
「倒れ方もどこか見慣れない」
風漢(ふうかん)が呟(つぶや)くように言って、利広は首を傾けた。
「見慣れない?」
「確かに俺にも、柳がなぜいまごろになって傾き始めたのか、分からんのだ。いや、実際に何が起こっているのかは分からないでもないが。――端的に言えば、露峰は再び豹変(ひょうへん)しようとしている」
「この時期に?」
「この時期に、だ。露峰は自ら布(し)いた法が、端々(はしばし)で無視され踏みにじられていることに無頓着(むとんちゃく)になったように見える。それどころか、このところ、自らが築いた堅牢(けんろう)な城に、みすみす穴を開けるような振る舞いをしている」
「……穴を開ける?」
風漢はうなずいた。
「法というものは、三つのものが合わさって、それで初めて動くと俺は思う。法によって何かを禁じれば、それだけで上手(うま)く動くというものではない」
「禁令が行き届き、誠実に運用されているかを監視する組織が必要だね。これがないと法は飾り物になる。――もうひとつは?」
「逆の肯定(こうてい)だ。猾吏(かつり)の専横(せんおう)を禁じる法は、そうでない能吏を褒(ほ)め、重く用いる制令と縒(よ)り合(あ)わされていなければならない。どのひとつが欠けても、上手くはいかない」
「なるほど……」
「柳はこれがおそろしく良くできていた。だが、露峰はそれを壊(こわ)し始めた。無頓着(むとんちゃく)にひとつだけを変えて、他を放置する。やろうとしていることが、首尾一貫していないのだ。それで端々(はしばし)に齟齬(そご)が生まれている」
「……それは妙だな」
利広は考えこみ、ふと、
「ひょっとしたら、露峰はもう玉座(ぎょくざ)にはいないのかもしれないな……」
「いない?」
利広はうなずく。
「露峰は玉座にいることに倦(う)んでしまったのかもしれない。実権を放(ほう)り出(だ)してしまった」
「大いにあり得るな」
風漢(ふうかん)は言って立ち上がり、窓辺へと寄る。初夏の陽脚(ひざし)は傾き始め、街路から漂(ただよ)ってくる喧噪(けんそう)は、いっそう賑(にぎ)やかになっている。箍(たが)が外(はず)れたように舞い上がった酔漢(すいかん)の声、調律(ちょうりつ)の狂った楽器のような嬌声(きょうせい)、街全体が宴(うたげ)のさなかにあるようだ。
「――露峰(ろほう)が作った体制は強固だった。だから奴(やつ)が実権を放り出しても、これまで持ちこたえてきた。国が本格的に荒れるのは、これからだが、実はとうに露峰は荒れていたのかもしれない。天意が去るほどに」
利広(りこう)は眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。
「それは、どういう意味だ?」
「……柳(りゅう)の虚海(きょかい)沿岸には妖魔(ようま)が出るそうだぞ」
利広は驚いた。それはもはや王朝の崩壊が末期にさしかかったことを意味している。まだ本格的に――利広のような余所者(よそもの)にも明らかに見えるほど、荒れてもいないのに。
「雪の少ない地方に大雪が降ったとか。天の運気が狂っている。政(まつりごと)が荒れる前に、国が荒れて沈もうとしているのだ。普通ならば逆だが」
「表には顕(あらわ)れないまま、そこまで進行している?」
「のように見える。雁(えん)は国境に掌固(け い び)を置き始めたようだ」
他人事のように言う風漢を見て、利広はうなずいた。
「……どうやら、柳の余命はいくらも残ってないようだね」
利広は呟(つぶや)く。――かくも王朝は脆(もろ)い。
窓から入ってくる喧噪(けんそう)が耳に痛かった。彼らの足許(あしもと)には深刻な亀裂(きれつ)が生じている。いずれ宴席の底が抜けて、奈落の蓋(ふた)が開く。これを止めることは誰にもできない。――王が道を失えば彼を選んだ麒麟(きりん)が病む。麒麟が病めば己(おのれ)が道を失ったことは、どの王にとっても明らかなことだ。ならば行ないを改めさえすれば麒麟は快癒(かいゆ)し、国は息を吹き返すはず。にもかかわらず、利広はそういう例をほとんど見たことがなかった。自らの落ち度に気づいた王はいる。だが、王がそこから悔(く)い改め、国を立て直そうとして成功した例は極端に少ない。国は、いったん傾き始めると止まらない。王の悲壮な努力など、ものの数には入らない。
思いに沈みこんでいると、どうした、と窓辺から風漢が振り返った。
「予想が外(はず)れたのが、それほど気落ちすることか?」
「私の予想の当たり外れは、どうでもいいんだけどね……」
利広は溜息(ためいき)をついた。
「そう――気落ちはするな。大王朝になりそうな気がしていたから」
柳(りゅう)にはそう思わせるだけの光輝(こうき)があった。にもかかわらず、わずか――利広(りこう)にとっては、わずか百二十年で沈む。
「ああいう王朝でも、いきなり沈むことがあるんだな、と思うと」
「いまさらそれを言うか? 奏(そう)の御仁(ごじん)が。沈んだ例など腐(くさ)るほど見てきたろう」
利広は失笑した。
「奏の人間だから思うんだよ。たぶん風漢(ふうかん)には分からない。――まだ雛(ひよこ)だから」
風漢は心外そうに眉(まゆ)を軽く上げた。
「奏は十二国の中で最も永く生きた」
そういうことか、と苦笑して、風漢は窓の外を見る。
「そういうことだね。――雁(えん)の者には、この息苦しさは分からない。少なくとももう百年、生き延びた実例があるんだから」
だが、奏の前には実例などない。さらに八十年もすれば、伝聞の上でさえ実例を失う。こんなに永く生きた王朝はない。
「王朝がひとつ死ぬたびに思うんだよ。看取(みと)っていると、否応(いやおう)なく思う。――死なない王朝はないんだ、と」
たぶん、奏も雁も例外ではないはずだ。
「それを考えると、息がつまる。死なない王朝はないと、私は知ってる。永遠の王朝などあり得ない。死なない王朝がないなら、必ずいつか奏も沈むはずだ」
風漢は窓の外に目をやったまま言う。
「永遠のものなどなかろう」
そうなんだよ、と利広は失笑した。
「そういうものだ、何もかも。そう分かっているのに、どういうわけか私は奏の終焉(しゅうえん)を想像できないんだ」
「当然だ。己(おのれ)の死(し)に際(ぎわ)を想像できる奴などいない」
「そうかな? 私は自分の死に際なら想像できるけどね。つまらない小競(こぜ)り合(あ)いに巻きこまれて命を落とすとか、あちこちを放浪しているうちに妖魔(ようま)に食われてしまうとか」
風漢は笑って振り返る。
「可能性を想像できることと、それそのものを想像できることとは別物だろう」
「……ああ。そうかも」
利広は言って、しばらくの間、想像を巡(めぐ)らせていた。
「でも――やっぱりだめだな。可能性にしろ、どうも思い浮かばない」
利広にとって、宗王(そうおう)その人が道を踏み外す――という事態は、ひどく想像しにくいことだった。臣下(しんか)の謀反(むほん)なら宗王(そうおう)の在り方に関係なく起こり得るが、それを想像すれば即座に臣下の顔が浮かぶ。宗王の統(す)べる百官諸侯(しょこう)、誰に思いを馳(は)せても、およそ謀反などには無縁だとしか思えない。
「……雁(えん)なら想像できるんだけどなあ」
利広(りこう)が呟(つぶや)くと、風漢(ふうかん)は面白(おもしろ)そうな表情をした。
「――ほう?」
利広は笑う。
「確信をもって想像できるね。――ま、延王(えんおう)の気性からいって、道を踏み誤って終わるということはないと思うね。本人が道を心得てるかどうか疑問だけど、はっきりと敷(し)かれた道があって、それをうっかり踏み誤るような可愛(か わ い)気(げ)なんてないだろう。そのへんの小悪党が討(う)とうとして、おとなしく討たれるような御仁(ごじん)でもない。雁が沈むのは、延王がその気になったときだよ」
「……なるほど」
「しかも何気なくやるね、絶対に。これという理由もないまま、ある日唐突に、それも悪くないと思い立つんだ。けれども、あの人はねちこいから、思い立ってすぐに即断即決ということはない。――そうだな、たぶん博打(ばくち)を打つな」
風漢は怪訝(けげん)そうな貌(かお)をした。
「博打(ばくち)というのは何だ」
「言葉の通(とお)り。天を相手に賭(かけ)をするんだ。たとえばね、滅多(めった)に会わない人間に百度会ったらやるんだよ。巡り合わせが悪くて会えない間は、天の勝ち。会ってしまったら天の負けだ」
そういうことか、と風漢は声を上げて笑った。
「やるとなったら徹底的にやるね。たぶん雁(えん)には何ひとつ残らない。民も官も、台輔(たいほ)もね。王宮も都市もだ。雁は綺麗(きれい)さっぱり更地(さらち)になる」
「台輔を殺せば王も寿命が尽きるだろう」
「即座に尽きることはないよ。台輔を殺して、そこからは天と競争だ。天の決済が早いか、延王(えんおう)が雁を更地に戻すほうが早いか。あの人は、絶対にそういうの、好きだからな」
「それで、どっちが早いんだ?」
「やるとなったら、やってのけそうだなあ。……でも、それじゃあ悔(くや)しいから、最後の最後にほんの少し里(まち)が残って、自嘲(じちょう)しながら死ぬっていうのはどうかな?」
悪くない、と風漢は笑う。
「俺も奏(そう)なら想像がつかないでもない」
「へえ?」
「風来坊(ふうらいぼう)の太子(たいし)が、この世に繋(つな)ぎ止(と)められるのに飽(あ)いて、宗王(そうおう)を討(う)つ」
利広(りこう)は瞬(またた)き、そして失笑した。
「まずいなあ。……あり得るような気がしてしまった」
風漢(ふうかん)は大いに笑い、そして窓の外に目をやる。
「……想像の範疇(はんちゅう)のことは起こらぬ」
だといいけど、と利広も夕闇(ゆうやみ)が降(お)り始めた芝草(しそう)の空を見やった。
「そんなものは、たいがい回避済みだ」
かもね、とだけ返して利広は口を閉ざした。夜陰(やいん)の漂(ただよ)い始めた起居(いま)に、喧噪(けんそう)が滲(し)み入(い)る。
想像できる範疇のことは、すでに多くの王朝で起こってきたことだ。そんなもので潰(つぶ)れるくらいなら、破格(はかく)と呼ばれるほど生き永らえることなどできない。ありがちな危機は乗り越えてきた。だから余計に先が見えない。
――なぜ王朝は死ぬのか、と利広は思う。天意を得て立った王が、道を失うのはなぜなのだろう。王は本当に自身が道を踏み誤ったことに気づかないものなのだろうか。気づきもしないのだとしたら、最初から道の何たるかが分かっていなかったということなのでは。そんな者が天意を得ることなどあるのだろうか。ないとすれば、王は必ず道を知っているのだ。にもかかわらず踏み誤る。違うと分かっている道に踏みこんでしまう瞬間がある。
過去の事例から、どういうときに過(あやま)ちに踏みこむのかは分かる。だが、自分の死の瞬間を想像できないように、違うと分かっている道に歩を踏み出す瞬間の心は想像できない。何がそうさせてしまうのだろう。どうすればそれを止められるのだろう。
思っていると、唐突に風漢が明朗な声を上げた。
「お前はしばらく芝草にいるのか?」
「そのつもりだったけど、そういうわけにもいかないかな」
単なる噂(うわさ)でなく、本当に柳(りゅう)が危(あやう)ういなら、利広はこれを知らせなくてはならない。
「でもまあ、二、三日はいるよ。自分の目で確認だけはしておきたいから。風漢は?」
「俺は明日発(た)つ。雁(えん)の国境から芝草まで、軽く一巡りしてきたからな」
「相変わらず好き勝手に生きてるなあ」
「お前に言われたくはないな」
私と風漢では立場が違う――利広はそう揶揄(やゆ)してやろうと思ってやめた。互いに物好きな風来坊(ふうらいぼう)だ。いずれ正面切って会うことになるまでは、それでいいと思う。もっとも、これだけの間、世界の端々(はしばし)で奇遇にも出会うことはあっても、会って当然の場で対面したことがない。だからこの先も、そうなのかもしれないが。
「じゃあ、その一巡りの話を聞かせてもらおうかな。夕飯ぐらいは奢(おご)ってもいいよ」
笑って言って、風漢(ふうかん)の言どおり、不味(まず)い料理を肴(さかな)に酒を飲んだ。引き上げたのは夜半過ぎ、風漢とは階段を上ったところで左右に分かれた。早朝に発(た)つという風漢を見送る気など、さらさらない。明日は昼まで寝ているつもりだ。奏(そう)と雁(えん)と、二国に運があれば、忘れた頃にまた会うこともあるだろう。
「とりあえず、気をつけて、と言っておくよ」
利広(りこう)は言って房室(へや)に足を向けた。その背に、そうだ、と声が掛(か)かる。
「ひとつ、面白(おもしろ)いことを教えてやろうか」
利広が振り返ると、階段の手摺(てすり)に凭(もた)れ、風漢は笑う。
「俺は碁(ご)が弱くてな。だが、たまに勝つこともある。勝つと必ず碁石をひとつ掠(かす)め取っておくんだ。それを溜(た)めこんだのが八十と少しある」
利広はその場で立ち竦(すく)んだ。
「……それで?」
「それだけだ。確か八十三まで数えたのだったか。それで――阿呆(あほ)らしくなった」
利広は噴(ふ)き出した。
「それは、いま?」
「さあ。捨てた覚えはないから、誰ぞが始末していなければ、塒(ねぐら)のどこかにあるだろう」
「いつの話だい、それは」
「二百年ほど前だ」
笑って言って、風漢は手を振って踵(きびす)を返す。その肩越しに、ではな、と暢気(のんき)な声が聞こえてきたので、さっさとくたばれ、と利広は笑って応じておいた。
南の大国、奏(そう)の首都は隆洽(りゅうこう)という。隆洽山の頂(いただき)に広がるのは清漢宮(せいかんきゅう)、これが六百余年の大王朝を築いた宗王(そうおう)の居宮だった。
王宮は通常、王の居所となる正寝(せいしん)を頂点に編成されるが、奏国の場合は、いささかその頂点がずれている。奏の中心は後宮(こうきゅう)にある典章殿(てんしょうでん)、これは即位直後から六百年、ついに一度も動いていない。
清漢宮は山の頂上というよりも雲海に浮かぶ大小の島で成り立っているように見える。建物の多くは島から溢(あふ)れ、澄んだ海上に張り出し、そこに無数の橋が架(か)かってそれぞれを繋(つな)ぎ留(と)めている。正寝(せいしん)それ自体がひとつの島なら、後宮(こうきゅう)もひとつの島、後宮の正殿になる典章殿(てんしょうでん)は正寝から橋を渡って楼門(ろうかく)を潜(くぐ)り、その先を塞(ふさ)ぐ小峰の裾(すそ)を穿(うが)った隧道(すいどう)を抜け、峰の裏に沿って石段を少しばかり登った高台の上にある。典章殿からは、小さな入り江が一望できる。入り江を囲む断崖(だんがい)の左右から空中に架(か)けた閣道(かくどう)が延びて、後宮のさらに奥、北宮(ほくぐう)へ、東宮(とうぐう)へと続いていた。
透明に凪(な)いだ雲海の上に、騎獣(きじゅう)の姿が現れたのは夜の帳(とばり)が降りてからだった。半分欠けた月の光を浴び、影のように飛来した騎獣は入り江を横切り、まっすぐに典章殿を目指す。崖(がけ)にしがみつき、二折れ三折れしながら海面へと下る露台を飛び越し、裏窓の外に張り出した手狭(てぜま)な岩場の上に降り立った。
窓には灯(あかり)が点(とも)っている。玻璃(はり)越しに広い堂内を見渡すことができる。堂の中央を占めた大きな円卓、食事を終えたばかりなのだろう、卓の上には大小の食器が積み重ねられ、その周囲に茶杯(ゆ の み)を抱(かか)えた人影が五つ、散っていた。
「――毎度のことながら、みんな揃(そろ)ってるなあ」
笑い混じりに言って、利広(りこう)が窓から入り込むと、円卓を囲んでいた人々が一斉に振り向き、てんでに驚いたような呆(あき)れたような声を漏らした。ふっくらと年嵩(としかさ)の女が手を止めて、深々と溜息(ためいき)をつく。
「……お前って子は、どこが出入り口なんだか、てんで覚える気がないとみえるね」
言った彼女が宗后妃明嬉(そうこうひめいき)だった。本来ならば王后(おうこう)は北宮(ほくぐう)に住まう。その后妃が後宮にいるのみならず、さも高級そうな襦裙(き も の)の袖(そで)を襷(たすき)をかけて捲(まく)りあげ、小山に盛った桃(もも)の皮を剥(む)いているというのは、おそらく奏(そう)でしか見られない光景だろう。
「しかも、王宮で騎獣(きじゅう)を乗り回すんじゃないっていつも言ってるだろう。何度言ったら覚えてくれるのかね、うちの放蕩(ほうとう)息子は」
「覚えた端(はし)から忘れるんだ、なにしろ年寄りだから」
利広はあっけらかんと笑う。明嬉は再び溜息(ためいき)をついて小さく頭を振った。
「惚(ぼ)けかけた頭でやっと家を思い出したってわけだね。今度はどこまでお行きだえ」
ああ、と利広は笑いながら、円卓の周囲、たったひとつ空(あ)いていた席に陣取る。
「あちこち」
「ということは、また一周してたんだね。まったく、お前には呆(あき)れ果(は)ててものも言えない」
「すると、今、母さんが口にしてるのは何かな?」
「これは小言(こごと)というんだ、よーく覚えておおき」
「覚えられるかなあ」
お母さん、と明嬉(めいき)以上に深い溜息(ためいき)をついたのは利広の兄――英清君利達(えいせいくんりたつ)だった。
「莫迦者(ばかもの)は放っておきなさい。そうやってかまうとつけあがる」
「酷(ひど)いなあ」
くすくすと笑ったのは利広(りこう)の妹の文姫(ぶんき)、その称号を文公主(ぶんこうしゅ)という。
「兄様は母様(かあさま)の小言が聞きたくて帰ってくるのよ。甘えん坊だから」
「おいおい」
「だって兄様、いますごく嬉(うれ)しそうよ。いつもそうだもの。一度鏡を見てみれば?」
そうかな、と利広が顔を撫(な)でると、金の髪の女が柔らかく微笑(ほほえ)む。
「なんにせよ、御無事でようございました。お帰りなさいませ」
これが宗麟(そうりん)――昭彰(しょうしょう)だった。利広は大仰(おおぎょう)に頷(うなず)いてみせる。
「昭彰だけだなあ。私の身を案じてくれるのは」
「そりゃあ昭彰は、麒麟(きりん)だもの」
文姫(ぶんき)が言うと、利達もうなずく。
「慈悲(じひ)のかたまりだからな、麒麟というのは」
「昭彰は、世界一の悪党の身の上だって心配するんだからねえ」
明嬉(めいき)からも畳(たた)みかけられ、さすがに利広は苦笑して椅子(いす)に背中を預ける。
それで、と鷹揚(おうよう)に利広を促(うなが)したのは、一家の要(かなめ)、宗王先新(そうおうせんしん)だった。小卓に食器を下げていた手を止めて、手ずから茶を汲(く)んで息子の前に差し出した。これまた、奏(そう)以外ではあまり見られない光景かもしれない。
「どうだったね、あちこちは」
「……柳(りゅう)がまずそうな感じですね」
かたん、と先新(せんしん)の置いた茶杯(ゆ の み)が鳴った。
「――柳」
利達は眉(まゆ)をひそめて筆を置き、書面を脇(わき)に避(よ)ける。
「またか。……このところ、続くな」
「それは確かなのか」
先新の問いに、利広はうなずいた。
「おそらくは。私の見た限りでは確定でしょう。柳の沿岸――虚海(きょかい)側には妖魔(ようま)が出るそうですよ。戴(たい)に面したほうに限られるので、戴から流れてきているのだと、民は考えているようですが、天意が目減(めべ)りしていなければ近づいてくることなどないでしょうし。雁(えん)は掌固(け い び)を編成して柳との国境に派遣(はけん)したようです」
ふむ、と利達(りたつ)が小さく呻(うな)った。
「あの知恵者が夏官(かかん)を動かしたというのなら間違いないだろうな」
文姫(ぶんき)は溜息(ためいき)をついた。
「延王(えんおう)も大変でいらっしゃるわね。妖魔(ようま)が徘徊(はいかい)するほど戴(たい)が不穏(ふおん)で、しかもお隣(となり)の慶(けい)は常に不安定だし。そのうえ柳まで」
「巧(こう)もだよ。青海(せいかい)を渡って、かなりの数の荒民(なんみん)が雁(えん)に流れ込んでいるからね」
「巧はどうだった?」
「相変わらず酷(ひど)い。赤海(せっかい)から青海へ抜ける航路は完全に閉じてしまった。間の巽海門(そんかいもん)を抜けられないんだ、妖魔が多くて。いったい、塙王(こうおう)は何をしたんだろうね。白雉(はくち)が落ちてまだ間がないというのに、あれほどの妖魔が徘徊するなんて」