おかげで、と利達は恨(うら)めしげに傍(かたわ)らに追いやった書面を見た。
「こちらも押し寄せた荒民で目眩(めまい)がするようなありさまだ。お前、しばらく身勝手を慎(つつし)んで、荒民救済の采配(さいはい)をしないか」
「文姫のほうが適任じゃないかな」
「あたしは保翠院(ほすいいん)のお世話があるの」
奏(そう)には全土に荒民、浮民(ふみん)のための救済施設がある。それが保翠院だった。その首長である大翠(たいすい)として文姫が立って久しい。
国を挙げて太綱(たいこう)にない特別の事業を興(おこ)す際には、必ず一家の誰かを首長として据(す)える。単に官吏(かんり)を首長として立てるよりも、名目だけでも太子(たいし)、公主(こうしゅ)の誰かを首長として立てておいたほうが、編成された官吏たちはよく働くし、民も安堵(あんど)して信頼するからだ。
文姫はただ大翠としてそこにいるだけ、名目だけの首長だと知ってはいても、公主を首長に立てるということは、王直々(じきじき)に気にかけて、その事業を完遂(かんすい)しようという決意の表れだと民は思う。だからこそ信頼を寄せるわけだが、実際には気にかけるも何もない、文姫が大翠として立つということは、事実上、宗王(そうおう)自らが采配(さいはい)をすることに等しい。形だけは文姫が官吏の意見をとりまとめて先新(せんしん)に上奏し、先新が処断を下しているという体裁(ていさい)を取っているものの、文姫が先新にいちいち指示を仰(あお)ぐことなどない。そんなことをしなくても文姫は御璽(ぎょじ)を捺した白紙を山ほど持っている。――ちなみに一家は、全員が同じ筆跡で文字を書く、という特技を持っている。六百年の間に磨(みが)かれた技だ。
「保翠院だけでは賄(まかな)いきれない」
利達は言って溜息(ためいき)をついた。
「荒民(なんみん)は取る物も取りあえず逃げてくるから、国境を越えればそこで精根(せいこん)尽きてしまう。国の様子も心配だろうし、国が少しでも落ち着けば戻りたい肚(はら)もあるから国境を離れたがらないものだからな。そうやって集まった荒民(なんみん)で、高岫山(こうしゅうざん)の近辺には集落ができているが、事実上、放置されているに等しい」
「保翠院(ほすいいん)から迎(むか)えは」
「やってるわよ。でも、とてもじゃないけど追いつかない」
文姫(ぶんき)の言葉に、明嬉(めいき)もうなずく。
「とにかく荒民たちを何とか編成して、うちの客分として組みこまないとね。最低限、集落を街としての体裁が整うよう、なんとかしてやらないと」
「いまのところ、大きな看板を背負ってないのはお前だけだ。諦(あきら)めて手を貸せ」
利達(りたつ)の言に、利広(りこう)は息を吐いた。
「……断るわけにはいかないようだなあ」
「御託(ごたく)をぬかしたら叩(たた)き出(だ)してやる。お前に一任する」
「私が手を出すと、国庫を湯水のように使うよ」
「そんなことは、言われなくても知っている」
「物資の調達と輸送は」
「とりあえず、県城の義倉(び ち く)までは空にしても何とかなるだろう、と結論が出たところだ」
「じゃあ、やってみるか」
「叩(たた)き台でいいから方針を出せ。早急に、だ」
「……謹(つつし)んで承りましょう」
やれやれ、と息を吐いたのは先新(せんしん)だった。
「延王(えんおう)はこれをひとりでやっておるのかね。正直言って、頭が下がる」
「雁(えん)の官吏(かんり)は切れ者が多くて、しかも機動力が高いですからね」
利達は言って、顔をしかめた。
「――その点、うちの官吏はどこか暢気(のんき)だからなあ」
「そのぶん、良からぬことを考えるのにも暢気だから帳尻(ちょうじり)が合うんだよ」
明嬉が苦笑して、一家は揃(そろ)って溜息(ためいき)混じりの笑いを零(こぼ)した。
まあ、と先新は笑う。
「うちにはうちの流儀があるか。――それで、その他のあちこちはどういう様子だ」
利広は肩を竦(すく)める。
「戴(たい)も酷(ひど)いね。何とか近づけないかと近辺までは行ってみたけれど、あれは駄目だ。とにかく虚海(きょかい)側に妖魔(ようま)が多くて」
文姫(ぶんき)が首をかしげる。
「でも、白雉(はくち)は落ちてないんでしょう? ということは、泰王(たいおう)に何かあったというわけではないのよね?」
「さっぱり事情が分からない。あちこちで聞いた話を総合すると、どうやら偽王(ぎおう)が立った、ということらしいんだけど」
「泰王(たいおう)が御健在なのに?」
「妙な話だけどね。泰麒失道(たいきしつどう)という話も聞いてないし。泰王崩御(ほうぎょ)でもない、泰麒失道でもない、すると内乱だとしか考えられないんだが、たかが内乱で妖魔(ようま)があれだけ跋扈(ばっこ)するというのも妙な話だし」
「……似ておりますね」
口を挟(はさ)んだのは昭彰(しょうしょう)だった。
「似てる?」
「ええ。巧国(こうこく)と。――塙麟(こうりん)失道に続く塙王(こうおう)崩御、珍しくないこととはいえ、これほど短期間にあそこまで荒れた例はあまり覚えがございません」
確かにねえ、と明嬉(めいき)は剥(む)いて切り分けた桃の実を人数ぶんの皿に盛る。
「妖魔のほうに何かが起こってるんでなきゃ、いいけどね」
「妖魔のほう、でございますか?」
「だって妙なことになってるわけだろ? 戴(たい)と巧が妙なのか、それともそこに出没している妖魔(ようま)のほうが妙なのか、よくよく見定めてみないと分かりゃしないでしょう」
「だめですよ、お母さん」
利達(りたつ)はぴしゃりと言って利広(りこう)をねめつける。
「そういうことを言うと、誰かが調べに行きたがりますよ。――利広、お前もそわそわしてるんじゃない」
「大役をひとつ引き受けたからね。そわそわするだけでやめておくよ」
「その言葉、忘れるなよ」
信用がないなあ、と苦笑する利広に、先新(せんしん)は問う。
「もうひとつ危うい国があるだろう。芳(ほう)はどうだ」
「あそこは格別の異常もなく、じりじりと沈んでいるようですよ。どちらかと言えば、うまく踏みとどまっているようです。あの仮朝(かちょう)は見所がある」
「――他は?」
「他はたぶん、つつがなく。舜(しゅん)が少しばかり安定を欠いているようですが、あそこはちょうど新王登極(とうきょく)から四十年ばかりになるので、あんなものでしょう。どう転ぶかは分かりませんが、今のところは踏みとどまる方向に向かっている感じです。範(はん)がちょうど大きな節目(ふしめ)にさしかかる頃合いですが、行ってみた感じでは問題なくその先に進みそうだな」
「慶(けい)はどうだ。落ち着いたのか?」
ああ、と利広(りこう)は笑った。
「そう――慶。あそこはね、ちょっと面白(おもしろ)い具合になってきました」
「ほう?」
文姫(ぶんき)は首を傾ける。
「女王でいらしたわよね?」
「そうなんだけどね。――うん。慶と女王は反(そ)りが良くないのだけど。今度は少し違う目が出るかもしれない。この間、初勅(しょちょく)が出てね。それが、伏礼(ふくれい)を廃(はい)すって」
え、とその場の誰もが目を見開いた。明嬉(めいき)はきょとんとしている。
「伏礼を廃して――それでどうするんだい」
「まさか、全員が跪礼(きれい)だけ? 麒麟(きりん)みたいに?」
言った文姫に向かって、利広はうなずく。
「そのようだね」
「でも、伏礼を廃して、それがどうだっていうの?」
「実益があるとは思えないけど。でも、なんとなく――意気を感じたな。民に向かって平伏(へいふく)するな、と命じた王は初めてだろう」
「そういえばそうねえ……」
「初勅(しょちょく)が出る前に、慶の中央部で乱がひとつあったんだけど、なんと景王(けいおう)が直接お出ましになって、平定されてしまわれたそうだよ」
まあ、と文姫(ぶんき)は口元を押さえる。
「長い間、朝廷を牛耳(ぎゅうじ)っていた連中を締(し)めあげて、官吏(かんり)の整理も行なったようだし。なかなか行動力があるね。景王にしては珍しく」
「へえ……」
「初勅以来、改革も進んでいるようだし。半獣(はんじゅう)、海客(かいきゃく)に関する規制が撤廃されたよ。それも勅令(ちょくれい)で断行だってさ。なんでも禁軍の左軍将軍が半獣のお方だとかで」
「あら、すごい」
「やっと、と言うべきじゃないかな」
「景王が勅令でそれをやった、というのがすごいじゃない。あそこって、そういう勢いのあることが、本当になかったんだもの」
「そう――勢いがあるね、今度の慶は。いい感じだ」
利広は微笑(ほほえ)む。慶の端々(はしばし)には、いまだに強い王に対する不信感が残っている。だが、王都に近づけば近づくほど、民の顔は生彩(せいさい)を帯びてくる。王の膝元(ひざもと)から希望が広がり始めている証拠だ。なにしろこれまで波乱を繰り返してきた国だから、臣下の硬直は岩のように堅固だが、それを吹き飛ばすだけの勢いを感じる。たぶん慶は最初の十年を乗り越えるだろう。それもかなり良い形で。
利達(りたつ)が息を吐いた。
「慶(けい)が落ち着いてくれるとありがたい。こうもあちこち騒然としていると、寝覚(ねざ)めが悪いからな。なんとかうちも慶を見習って、いい感じに持ち直したいところだな」
「それは私に念押しをしてるのかな?」
「本人の申告によれば、惚(ぼ)け始めているようだからな」
はいはい、と利広(りこう)が苦笑混じりに答えると、円卓の周囲にはそれぞれが考えこんでいるかのような沈黙が流れた。それを最初に割って口を開いたのは先新(せんしん)だった。
「実際のところ、柳(りゅう)はどれくらい保(も)ちそうだ?」
利広は少しの間、首を傾けて考えこんだ。
「分からない。いったん事が起これば決着は早そうだけど。妖魔(ようま)が出ているというくらいだから、相当に天意は傾いているでしょう。ひょっとしたら近日中に台輔失道(たいほしつどう)もあり得るんじゃないかな」
「相手が柳では、うちは荒民には関係ないか。頼るなら雁(えん)か恭(きょう)だろうな」
「雁はすでに状況を把握(はあく)しているようだから問題ないでしょう」
「しかし、戴(たい)や慶、巧(こう)の荒民まで背負っているわけだろう。どうやら慶は持ち直しそうだがまだ援助がいるに違いない。戴は完全に負(お)ぶさる形で、しかもこれに巧の北方の民が乗る。その者たちにすれば当然の選択だろう。妖魔(ようま)の跋扈(ばっこ)する土地を縦断して奏(そう)まで逃げてくる気にはなれんだろうしな。だが、巧(こう)までも抱(かか)えこんで、このうえ柳(りゅう)が荒れると、さしもの雁も荷が重いだろう。援助を申し入れては失礼だろうかね」
どうでしょう、と利広(りこう)は笑った。
「むしろ、巧の荒民(なんみん)をできるだけ引き受ける方向で考えたほうがいいかもしれません。このぶんだと、慶にまで流れこみそうな勢いですが、今の慶には、巧の民まで支える体力はないでしょう」
ふうむ、と先新(せんしん)は呻(うな)る。
「問題は、巧の民をどうやって奏に誘うか、だな」
「船を出せばいいでしょう」
言って、書面に心覚えを書きつけていた利達が、筆を走らせながら空いた手を挙げた。
「赤海(せっかい)から青海(せいかい)に入るのは難しいようですが、とりあえず赤海沿岸の港への船便をできるだけ増やす。あとは虚海(きょかい)側ですね。巧の沿岸を北上する荒民専用の船便を出せば」
「虚海(きょかい)側にはろくな港がないという話だろう?」
先新が問うように見るので、利広はうなずいた。
「大きな船が入れるほどの港は二箇所ですね。漁港なら大小いくつかありますが」
「じゃあ、小型船にすればいい。それなら漁港でも入れるから。第一、そうしないと大型船じゃあ間に合いません。数を揃(そろ)えるためには建造しなきゃなりませんから。漁船程度の船というと、乗れる人の数だってたかが知れていますが、そこは船団を組むなり、便数を増やすなりして」
「ふむ……その手があるか」
同意したのは明嬉(めいき)だった。
「そうおしよ。大型船を慌(あわ)てて造ったところで、用が済んだら使い道もありゃしない。小型の船なら、漁民に払い下げてやればいいわけだからね。それで巧(こう)の虚海側、北のほうの民を奏(そう)に誘えたら、慶(けい)への負担はかなり減るんじゃないかい」
「そうですね。――すると問題はむしろ恭(きょう)か」
利達(りたつ)は言って顔を上げ、利広を見た。
「恭には帰り道に寄って、心づもりが必要だと言っておいたよ」
「恭に物資は?」
「芳(ほう)を援助するために義倉(び ち く)を割(さ)いて用意をしていたようだから、当面はそれを柳(りゅう)の荒民(なんみん)に流用できると思う。逆に、芳がよく踏みとどまっているから。ただ、いずれ芳も物資の支援が必要になるし、長期化すると厳しいかな」
文姫(ぶんき)が溜息(ためいき)をついた。
「芳と柳とふたつ抱えじゃあねえ。特に芳は、地理的にも恭(きょう)が頼りでしょうし。恭は隣(となり)の範(はん)と国交があったかしら?」
「ないと思うな」
「じゃあ、少しこちらも恭に援助をする用意をしておいたほうがいいかもね。最低限の食糧だけでも確保しておかないと」
「そりゃあ駄目だよ、文姫」
明嬉が軽く笑った。
「運ぶ手間と賃金を考えてごらんよ。うちで用意するより、恭の国庫を援助したほうが話は早いさ。それに、巧の荒民(なんみん)が入ってきて、うちも義倉(び ち く)を開けてしまうだろう。このうえ恭のために米を買い漁(あさ)ったら莫迦(ばか)みたいな値になるよ」
「それは……そうかもしれないけど」
「供王(きょうおう)に穀物の値を監視するよう、忠告しといたほうがいいかもしれないね。それと材木。北のほうじゃあ材木は、恭(きょう)、芳(ほう)、柳(りゅう)の三国が主だろう? そのうちの二国が傾けば、きっと高騰(こうとう)するだろうさ。穀物にせよ木材にせよ、こちらの値を緩(ゆる)めて北に流れていけるようにしたほうがいいだろうねえ」
「でも――」
言いかけた文姫(ぶんき)を、先新(せんしん)が制す。
「母さんの言うのが正解だろう。物を送りつけるのはよくない。独立不羈(どくりつふき)の心を挫(くじ)いてしまうからな。荒民(なんみん)にとって一番必要なものは、辛抱(しんぼう)することと希望を失わないことだ。我々が援助してやるのはそこだよ」
「……ああ、うん」
「助け起こしてやることは必要だが、相手が立ったら手は放してやらないとな。恭を援助するのはいいだろう。国庫を助けて恭が荒民の救済をしやすいようにしてやるのには賛成だ。だが、施(ほどこ)すのは恭でないといかんよ。隣国が助けてくれれば、柳の民も心強かろうし、この先恩義にも感じるだろう。それは奏(そう)が助けた場合も同じだが、恭ならばいずれその恩義を返すことができる。なにしろ隣(となり)だからね。奏が施しても恩義の返しようがない。返しようのないものは、天から降ってきたのと同じだよ。それに慣れさせてしまえば荒民にとって一番大切なものを挫くことになる」
はい、とうなずいた文姫を微笑(ほほえ)んで見やって、先新は利広(りこう)を振り返る。
「お前もだ。巧の民のために国庫を散財するのは構(かま)わないが、施しすぎないようにな」
「――心得ておくよ」
うなずいて、先新は軽く息を吐く。
「まあ、お前が方々から事情を持ち帰ってくれるので助かる」
「褒(ほ)めるんじゃありません、お父さん」
利達(りたつ)が口を挟(はさ)む。
「利広には、少し自覚を持ってもらわないと」
「そう何度も釘(くぎ)を刺(さ)さなくても、荒民(なんみん)に関しては引き受けるよ」
「よく言った。言質(げんち)を取ったぞ。もたもたしていると、酷(ひど)いからな」
「分かってるよ」
「ついでに」
利達は利広をねめつける。
「さっさと騎獣(きじゅう)を厩(うまや)に戻してこい。いつまで外で待たせているんだ」
首を竦(すく)めた利広を微笑(わら)って、昭彰(しょうしょう)が立ち上がった。
「わたくしが」
「およし、昭彰(しょうしょう)」
明嬉(めいき)はぴしゃりと言う。
「出したものは片づける。そのくらいのことはできるようにならなきゃ。なにしろもう子供じゃないんだから」
これには全員が噴き出した。
「たしかになあ」
「そうねえ。兄様も、いい加減で大人にならなきゃ」
「六百を過ぎた子供なんて洒落(しゃれ)にもならん」
利広(りこう)は自らも笑いつつ、はいはい、と立ち上がった。
ここは、いっかな変わらない――利広は窓から岩棚(いわだな)に抜け出しながらそう思う。居場所も変わらなければ、その顔ぶれが変わることもない。いつでも窓には灯(あかり)が点(とも)っていて、そこには明るい顔をした人々が和(なご)やかに集(つど)っている。
旅から戻り、この光景を見ると心の底から安堵(あんど)する。幸か不幸か、まだこの安逸(あんいつ)に飽(あ)いたことはない。いや、あるいは利広がこうも頻繁(ひんぱん)に王宮を抜け出し、危険を承知で諸国を放浪してしまうのは、実は飽いているからなのかもしれなかった。そういえば、出るときはいつも、戻るときのことなど考えていない。行く手のことしか念頭にはなく、奏(そう)も清漢宮(せいかんきゅう)も、そこにいる家族も意識の外だ。利広自身にも届かない心の奥底で、実は二度と戻るまいと思っているのかもしれなかった。
だが、それでも結局のところ、いつだって利広はここに戻ってくる。
他国を見れば寒々しい。国は脆(もろ)く、民はいつでも薄氷の上に立っている。死なない王朝はない。あまりにも自明のことでありすぎる。――けれどもここはだいじょうぶだ。少なくとも、互いが支え合っている限りは。
利広は窓の中を振り返った。
――ひょっとしたら自分は、これを確認するために、戻ってくるのかもしれない。