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作者:日-小野不由美 当前章节:14826 字 更新时间:2026-6-16 01:01

「天の神さまが、戴を暖かくしてくれればいいのにね」

泰麒(たいき)が言うと、霜元(そうげん)が微笑(ほほえ)んだ。

「天帝はその代わりに、戴に新王を授(さず)けてくださいました」

そうだね、と泰麒は声を落とし、視線を落とした。

「良い王さえおられれば、国と民が手を携(たずさ)えて苦難を乗り越えることができます。これ以上のお恵みはないでしょう」

「……うん」

「どうかなさいましたか?」

ううん、と泰麒は首を横に振っただけで答えなかった。怪訝(けげん)そうな霜元の眼差(まなざ)しを避け、逸(そ)らした視線の先には緑地が広がり、鍬(くわ)や鋤(すき)を持った人々がおっとりと働いている。

――戴もああだといいのに。

阿選(あせん)らと舎館(やど)に戻り、戻ってきた正頼(せいらい)らを迎(むか)え、翌日に備えて臥室(しんしつ)に退(さが)ってからも、泰麒はそればかりを思っていた。

恭(きょう)や範(はん)のように豊かなら。あるいは、漣(れん)のように気候に恵まれていれば。

驍宗(ぎょうそう)に禁門へ連れていってもらって以来、泰麒の胸の中には冷えた痼(しこ)りができている。あの寒気の中、暮らしている人々がいる。官吏(かんり)から耳にする限り、民の暮らし向きは良くない。凍死者が出たと聞き、餓死者(がししゃ)が出たと聞けば、いよいよ寒々しかった。

(……たくさんの人が困っている)

あの非情な白い景色の中で。

なのに自分は、何もできない。

泰麒は麒麟(きりん)だ。天が造(つく)り、民に授(さず)けたのだと言う。天意に通じ、よく天命を聴(き)く。天帝の子と言われ、天の代理人だとされるが、泰麒には民を救ういかなる力も具(そな)わっていなかった。天候を変えることはもちろん、どんな奇蹟(きせき)を施(ほどこ)すこともできない。

麒麟は王を選ぶ――ただ、それだけ。そして泰麒は驍宗を選び、王にした。奇蹟はそこで使い果たされたのだ、という気が、泰麒はしている。

(もう何の力も残ってない……)

泰麒(たいき)がすべきことは、もう何もなかった。いや、宰輔(さいほ)としての公務、州侯(しゅうこう)としての公務、役割がないわけではない。だが、それらを果たせるほど泰麒はまだ大きくなかった。実際に全ての実務を取り仕切るのは、正頼(せいらい)であり驍宗(ぎょうそう)であって、泰麒自身は言われることにうなずいているだけ、むしろ泰麒に説明をして呑みこませねばならないぶん、正頼らは余計な労を背負いこんでいる。

王を選んでしまった麒麟(きりん)は、何のために存在しているのだろう、と思う。

自分に大きな期待がかかっていることは分かっている。それは正頼や、阿選や霜元(そうげん)――そんな大人たちの振る舞いを見れば分かる。立派な大人が、子供にすぎない泰麒を恭(うやうや)しく扱う。それは正頼の言うとおり「かけがえのない」ものに対する礼節なのに違いない。

だが、泰麒の「かけがえのなさ」はどこにあるのだろうか。かつてはあったかもしれない、将来万が一、驍宗が先帝のように道を失い、王ではなくなり、新たな王が必要になったときにはまた「ある」のかもしれない。けれども、今の泰麒はやっと十一になろうとしている子供にすぎない。何もできず、何も分からない。周囲の人々の荷物でしかない――自分。

泰麒の不安の根はそこにあった。

期待されていることは分かっている。なのに何をすればいいのか分からない。できることも何ひとつなく、ただ見守っているだけ、自分は無用の存在で、いれば邪魔(じゃま)になるだけなのだという気がしてならなかった。そう思ってはいないだろうか、思っていて当然なのではないだろうか、正頼も――驍宗も。

明けて翌日、泰麒は礼装を整え、重嶺(じゅうれい)の街の北に聳(そび)える宮城(きゅうじょう)への入り口――皋門(こうもん)を潜(くぐ)った。漣国(れんこく)の王、廉王(れんおう)の居宮を雨潦宮(うろうきゅう)という。

一行は出迎えに現れた漣の官吏(かんり)、大行人(だいこうじん)たちに導かれ、五門(ごもん)をひとつずつ潜(くぐ)り抜(ぬ)けていった。門を潜るたびに重嶺山の内部を通る階段状の隧道(すいどう)を抜け、雲海を貫く巨大な山の、三合目、五合目、七合目と登っていく。最後の隧道を登って、五つ目、路門(ろもん)を越えると、そこはすでに雲海の上――島のように聳える山頂、そこに広がる燕朝(えんちょう)と、王宮の構造は雨潦宮も白圭宮(はっけいきゅう)も基本的に変わりがない。

雲海の上は下界よりさらに暖かかった。重嶺山は鴻基山(こうきさん)よりも起伏に乏(とぼ)しく、なだらかな広い山頂を持っていた。そこに広がる王宮の建物は白圭宮のそれよりも大きく、ゆったりと配置されていて、その間を冬であるにもかかわらず、豊かな緑が埋めている。その風景は、泰麒(たいき)に懐(なつ)かしい感じを抱かせた。

こんもりとした緑の合間に広がる宮、建物はどれも開口部が多く、回廊(かいろう)や四阿(あずまや)は壁を持たないものが多かった。それが緑と渾然一体(こんぜんいったい)になったさまは、泰麒がいっときを過ごした蓬山(ほうざん)の景色に似ている。

泰麒一行は路門(ろもん)を出ると、まっすぐに外殿へと通された。広くひんやりとした空気の籠(こ)もった正殿の中央には荘厳(そうごん)な玉座(ぎょくざ)が据(す)えられていたが、そこには誰の姿もなかった。

空(から)の玉座を見て泰麒は驚いたし、正頼(せいらい)たちは困惑したようだったが、泰麒らをここまで先導してきた漣国官吏(れんこくかんり)のほうが、さらに驚いたようだった。狼狽(ろうばい)すらした様子で顔を見合わせ、おろおろと広大な正殿の内部を見渡す。がらんとした正殿の脇(わき)のほうから、ひとりの官吏が走りこんできた。彼は大行人(だいこうじん)に耳打ちをする。大行人は驚いたような顔をし、官と押し問答をした末、困りきった気配を漂(ただよ)わせて泰麒の前に平伏した。

「まことに御無礼なことで申し訳ありません。どうぞお気を悪くなさいませんよう。さらに無礼を申しあげて恐縮の至りなのでございますが、その……どうか奥へお進みください」

「奥へ、ですか」

正頼は言って、阿選(あせん)、霜元(そうげん)と顔を見合わせた。通常、他国からの賓客(ひんきゃく)を招き入れる掌客殿(しょうきゃくでん)は外殿の西にあるもので、これより奥といえば内殿のこと、よほど懇意(こんい)であればともかく、たとえ他国の王といえどもそこから先へ軽々しく足を踏み入れることはない。

「はあ。主上(しゅじょう)の御在所にお連れするように、ということですので」

そう答えた大行人は、困り果てた様子で額(ひたい)に汗を浮かべていた。

慌(あわ)てて輿(こし)が用意された。泰麒らは、さらに粛々(しゅくしゅく)と進んで、宮城(きゅうじょう)内の隔壁(へい)を越え、内殿へと向かわねばならなかった。その内殿を奥へ奥へと進むと、最前見掛けたよりももっと高く堅固な隔壁が二重に見えてきた。

「あのね、正頼」

泰麒はそっと、輿の横に座った傅相(ふしょう)に耳打ちをした。

「……はい?」

「さっき見えた建物は、仁重殿(じんじゅうでん)じゃないかしら、と思うんだけど」

はあ、と正頼は困惑したようにうなずく。

「……実は私も最前からそう思ってました」

「仁重殿があるってことは、ここは路寝(ろしん)だよね?」

「はあ……そういうことになります」

「路寝の奥の門を抜けたら後宮(こうきゅう)に入ってしまうのじゃないかしら」

「の……はずですけど……まさかねえ」

そうは言ったものの、正頼(せいらい)の顔は引きつっている。額(ひたい)にうっすらと汗が浮かんでいるのは、どうやら気温のせいばかりではなさそうだった。

雲海の上に広がる王宮の最深部――燕朝(えんちょう)は何重もの隔壁(へい)と門によって幾つかの区画に分かたれている。最奥にあるのが王后(おうこう)の住まいとなる北宮(ほくぐう)で、その手前が小寝(しょうしん)、これを総称して後宮(こうきゅう)と言う。後宮の東には、王の親族の住まいとなる長明宮(ちょうめいきゅう)、嘉永宮(かえいきゅう)などの続く東宮(とうぐう)が、西には鳳凰(ほうおう)や白雉(はくち)など五種の霊鳥(れいちょう)が住まう宮で構成される梧桐宮(ごどうきゅう)、王が礼拝する太廟(たいびょう)、あるいは子や実りを願う路木(ろぼく)のある福寿殿(ふくじゅでん)などで構成される西宮(せいぐう)があって、後宮、東宮、西宮を併(あわ)せて燕寝(えんしん)と称する。燕寝の中心は後宮であるところから、後宮と一括(いっかつ)して呼ぶこともあったが、戴国白圭宮(たいこくはっけいきゅう)の後宮は現在、西宮を除いて閉められている。たとえ開いていても、西宮以外の後宮は、そもそも宰輔(さいほ)ですら気安く立ち入ることはできない。さすがの泰麒(たいき)もそれくらいのことは知っていた。

だが、その後宮へ向かうとしか思えない門の前で、大行人(だいこうじん)らは足を止めた。そうして、輿(こし)を下ろさせ、一様に叩頭(こうとう)したのだった。

「あの……大変失礼とは存じますが、どうかこのまま中へ。私どもは、ここから先へ立ち入ることができません」

「ええと、ですが」

狼狽(う ろ た)える正頼を遮(さえぎ)り、大行人は、

「お招きせよとの仰(おお)せですから。中の門殿に取り次ぎのもん人(もんばん)がおりましょう。なにとぞ、このまま」

「……私どもだけで、参るのですか?」

まことに申し訳ございません、と大行人は深々と頭を下げた。赤らんだ額(ひたい)には滝のように汗が流れていた。彼が真実、困り果てているのを見て取って、泰麒は正頼らを促(うなが)した。

「いらっしゃいって、お招きいただいたんだから……ね?」

「そうです……けど」

正頼は門の内と外を見比べる。では、と静かな声を上げたのは阿選(あせん)だった。

「下官(げかん)はここに留め置いておいたほうがいいでしょう。このまま連れていったのでは、こちらも失礼にあたる」

いえ、と大行人が声を上げた。

「みなさま、ということですので」

言って彼は再度、汗にまみれた頭を石畳(いしだたみ)に擦(こす)りつけた。

「――お困りあそばすのは重々お察し申しますが、どうぞ中へ」

後宮(こうきゅう)は閑散(かんさん)として人気(ひとけ)がなかった。下官(げかん)のひとりに出会うこともなく、まっすぐに石畳を辿って内側の門殿に着いたが、周囲に官の姿は見えなかった。門の守備をしているはずの門卒(もんばん)の姿すら見えない。見渡したかぎり、取り次いでくれる者はどこにもいそうになかった。

「誰もいないね……」

泰麒(たいき)は開け放したままの門の中を覗(のぞ)きこむ。緑の多い前庭の向こうに、小寝(しょうしん)の建物が続いているのが見えたが、人の姿はおろか、気配すらない。

「どうするの?」

泰麒は周囲の大人を振り返ったが、彼らのほうが自失している。

「正頼(せいらい)?」

「どうする……と言われましても」

「ぼく、後宮には入ったことがないんだけど、正頼はある?」

「ええと……入るだけなら、何度か。白圭宮(はっけいきゅう)の後宮を閉めるのに、立ち会ったことならございますけど、後宮は空(から)っぽでしたし……余所(よそ)のお国の後宮でもありませんでしたし……」

顔色を見る限り、霜元(そうげん)や阿選(あせん)も同様のようだった。下官たちなどは、あまりのことに色を失っている。

泰麒は、ちょっと門内に足を踏み入れてみた。周囲を見回し、誰もいないのを見て取って、仕方なく前庭を渡り、次の建物まで行ってみる。

「台輔(たいほ)」

基壇(きだん)を登って建物の中と、さらにその奥の庭院(なかにわ)を眺(なが)めて、軽く声を上げた。

「あのう――すみません」

「……た、台輔」

泰麒は振り返る。

「だって誰もいないんだもの、とにかく呼んでみないと仕方ないでしょう?」

「ですが」

「あの、誰かいませんか? ごめんください」

なんと意外にも大胆なところのある麒麟(きりん)だ、と正頼たちは目を丸くしたが、何のことはない、泰麒は故郷で他人の家を訪ねたときの習慣に従っただけのことである。

「すみません」

泰麒は声を張りあげてみたが、答えはどこからも返ってこなかった。

「誰もいらっしゃらないみたい。どうしよう?」

「どうしよう、と申されましても」

「失礼して、お庭づたいに行って誰か探してみる?」

「そんな、まさか」

「でも、このまま帰るわけにはいかないでしょう?」

「それはそうですが」

「お部屋の中に入らなければ、だいじょうぶじゃないかしら。とにかくぼく、行ってみるね」

そんな、と正頼(せいらい)は呟(つぶや)いて、唐突に拳(こぶし)を握(にぎ)った。

「私もお供します。――霜元(そうげん)たちは、とにかくここで待っていてください」

「しかし」

「なに、仮にも一国の台輔(たいほ)ですから、厳しい処罰をいただくことはないでしょう。……私は腹を括(くく)りました」

自分も、と言ったのは潭翠(たんすい)だったが、正頼はそれを止める。

「こうして開け放しにしてあるぐらいですから、滅多(めった)なこともないでしょう。台輔には使令(しれい)もおありだし、とにかく私と台輔で行ってきます」

泰麒(たいき)は正頼と手を繋(つな)いで、とりあえず中へと進んでみた。庭院(なかにわ)をふたつ越えると祀殿(しでん)だったが、この中にも誰もいない。まったく無人というわけではなさそうで、きちんと掃除はされているようだし、祖霊(それい)を祀(まつ)った供案(かざりだな)には、真新しい香と緑が供(そな)えられている。

特に理由があったわけではないが、泰麒らは西へ歩いて北宮(ほくぐう)へと向かった。回廊(かいろう)を横切り、別の庭院に出、あちこちを覗(のぞ)きこんで、北宮の園林(ていえん)に出たところで足を止めた。

泰麒はきょとんとその光景を見守る。次いで、正頼を見上げた。

「……畑があるよ」

「ありますね……」

「白圭宮(はっけいきゅう)には、畑なんてないよね。それとも後宮(こうきゅう)にはあるものなの?」

「ないのが普通だと思うんですけど」

「内乱がおありだったって言ってたよね? お城で野菜を作るほどお困りなのかしら」

「ど……どうでしょう」

ともかくも泰麒は正頼と手を繋(つな)いだまま、見事な植え込みの間近まで迫った菜園を、畦(あぜ)に沿って歩いてみた。建物の角を回るとそこには、まごうことなき田園風景が広がっている。きちんと整えられた畦をさらに辿(たど)っていくと、低い樹木が整然と並んだ一郭(いっかく)に出た。それはいかにも果樹園の風景に似ていた。

「正頼(せいらい)」

泰麒(たいき)は正頼に示した。ようやく人間の姿を見つけた。何の木だろう、赤い実をつけた樹木の下で、農夫がひとり、枝に鋏(はさみ)を入れている。

「あのう」

泰麒は声を上げた。正頼の手を放して、ぱたぱたと明るい林の中に駆けていく。

「あの、すみません」

泰麒が声をかけると、袍子(の ら ぎ)に身を包んだ人物が振り返った。泰麒に目を留め、背後の正頼に目をやって、にこりと笑む。袖(そで)で顔を拭(ぬぐ)い、切り取った枝を手近の草の山に載(の)せて、青年は頭を下げた。

「勝手に入ってきてごめんなさい。ぼくたち、人を探していたんです。あの、門殿に誰もおいでじゃなかったので」

おや、と彼は首を傾けた。

「誰もいませんでしたか。じゃあ、きっとみんな昼寝でもしてるんでしょう」

「お仕事のお邪魔(じゃま)をして申し訳ないんですけど、誰か取り次ぎをしてくださる方はいないでしょうか。ぼく――いえ、私は戴国(たいこく)より参りました、泰麒と申します」

ああ、と彼は人懐(ひとなつ)こい笑顔を浮かべた。

「そうか、あなたが泰台輔(たいたいほ)ですか。お小さい方だとは聞いてましたけど、本当にお小さくていらっしゃるんだな」

「あの、あなたは?」

「ああ、俺(おれ)は鴨(おう)といいます。鴨世卓(せいたく)」

「とても良いお庭ですね」

泰麒が言うと、にこにこと青年は笑う。

「そうですか?」

「あの赤い実はなんですか?」

「紅嘉祥(こうかしょう)ですよ。ひとつ、差しあげましょうね」

世卓は気軽に手を伸ばして、きらきらと赤い実を枝からも(も)いだ。すぐ傍(そば)の水桶(みずおけ)の中に放りこんで、手巾(てぬぐい)で拭(ぬぐ)ってくれる。

「さ、泰台輔、どうぞ。中に種がありますから、お気をつけてくださいね」

「はい」

言って、泰麒は世卓を見上げた。

「でも……ぼくが貰(もら)ってもいいんでしょうか。王さまのものではないんですか?」

「俺が作ってるんだから、誰に迷惑がかかるわけでもないでしょう」

「でも、王さまに叱(しか)られたりしませんか?」

世卓(せいたく)は少し、困った顔をする。

「王さまは俺だから、叱られようがないです」

泰麒(たいき)は赤い実を掌(てのひら)に受けたまま、ぽかんと世卓を見上げた。

「あの……廉王(れんおう)でいらっしゃいますか?」

「はい、そうです」

対応に困って泰麒は正頼(せいらい)を振り返ったが、正頼は目を丸くしたまま立ち竦(すく)んでいる。泰麒はさらに困って再び世卓の、にこにことした笑顔に目を向けた。正殿で拝謁(はいえつ)するための礼儀は習ってきたけれども、こういう場合はどうしたらいいのだろう。

泰麒の困惑に気づいたふうもなく、世卓はさらに手を伸ばして赤い実をも(も)ぎながら、正頼を振り返った。

「そちらの方もいかがです?」

「……はい、あの……いえ」

「ああ、立ったままでは失礼かな。近くに四阿(あずまや)がありますから、そこに行きましょう」

泰麒はとりあえずうなずいた。

手桶(ておけ)の中に紅嘉祥(こうかしょう)の実をいくつも入れて、それを提(さ)げたまま世卓は果樹園を抜ける。いくらも歩かないうちに、綺麗(きれい)に石で整えられた池の畔(ほとり)に出た。複雑な幾何学(きかがく)模様を描く池のあちこちには橋が架(か)かり、四阿(あずまや)や露台(ろだい)が水を慕(した)うように周辺に集まっている。

そのうちのひとつに向かい、世卓は池の縁から手招く。

「台輔(たいほ)、こちらにお坐りください。そんなお召し物では暑いでしょう。旗袍(がいとう)を脱いでは、いかがです?」

「ええと……はい、でも」

泰麒は正頼を振り返った。正頼は引きつった笑みを浮かべる。

「そうさせていただきなさいまし」

「――あなたも」

「いえ、小官のことは、お気遣(きづか)いなく」

「でも、暑いでしょう?」

「あの――はい、そうですね。では、お言葉に甘えまして……」

しどろもどろになった正頼を明るい目で見やって、世卓は池で手を洗い、桶の中の果実を洗う。それを池の縁にある石案(つ く え)の上に載(の)せた。

「台輔(たいほ)がきちんと礼装を召してらっしゃるんだったら、こんな恰好(かっこう)では失礼でしたね。公用ではなく、個人的においでになるって聞いていたものですから」

「いえ。……あの、こちらこそ、ごめんなさい」

世卓(せいたく)は笑った。

「台輔がお詫(わ)びになるようなことじゃないです。俺はどうも迂闊(うかつ)なんです。御公務ではないって聞いたんで、隣(となり)の人がお茶を飲みにいらっしゃるような気分で考えてました。台輔に叱(しか)られてしまうな」

「……ぼくが?」

ああ、と世卓は笑う。

「うちの台輔です。……そうか、ややこしいな。俺はこんなふうなんで、始終、廉麟(れんりん)に叱られてしまうんです」

言いながら、世卓は明るく笑った。

「紅嘉祥(こうかしょう)が気になったものだから、何も考えずに、こちらにお通ししてください、って言ってしまいました。やっぱり廉麟の言うとおり、礼服を着て外殿でお待ちしていないといけなかったんですね」

「さっきは何をしていらしたんですか?」

「枝を詰めていたんです。大きくなりそうにない実のついた枝を切り詰めると、ほかの実が太るんですよ」

「廉王(れんおう)はそういうことにお詳しいんですね」

「俺は農夫ですからね。農夫はこれが仕事ですから」

泰麒(たいき)はきょとんとした。

「王さまがお仕事ではないんですか?」

世卓(せいたく)は意外なことを聞いたように目を見開き、そして首を傾ける。

「……それはお役目なんじゃないかな。たぶん、べつに仕事じゃないと思いますよ。それで食ってるわけじゃないですから」

意を取りかねて泰麒が瞬(またた)いていると、世卓は笑う。

「農夫の仕事は、作物を作ったり家畜を飼ったりすることでしょう?」

「ええと……そうですね」

泰麒はうなずき、

「でも、その……お役目を果たすこともお仕事ではないんですか?」

「たぶん違うと思うな」

「お役目とお仕事は違うものですか?」

世卓(せいたく)は笑った。

「仕事は自分で選ぶものです。お役目は天が下すものです」

泰麒(たいき)がぽかんとしたところで、聞き慣れた声がした。いち早く振り返ったのは、黙って控(ひか)えていた正頼(せいらい)で、やってきた人影を見て、霜元(そうげん)、と縋(すが)るような声を上げる。同時に軽やかな女の声がした。

「まあ――そんな恰好(かっこう)で台輔をお迎(むか)えになったの?」

呆(あき)れたように言った女は、陽光のように明るい金の髪をしていた。

「おまけに、こんなところで。だから、私的なお訪ねといっても限度があるでしょう、と申しあげたのに」

「うん、そうだね。台輔の言ったとおりだった。とても失礼をしてしまったみたいだよ」

「おまけに、お供の方たちが門の前で途方(とほう)に暮(く)れてらっしゃいましたよ。――本当にもう、困った方ね」

子供のように、ごめんなさい、と詫(わ)びた世卓はしかし、やはりにこにこと笑っている。それを見やって困ったように微笑(わら)った女は、泰麒の前に膝(ひざ)をついて視線の高さを同じくした。

「泰台輔でらっしゃいますか? ようこそおいでくださいました。どうぞ、お気を悪くなさらないでくださいましね」

「廉台輔(れんたいほ)でいらっしゃいますか?」

「はい。お会いできて嬉(うれ)しゅうございます」

「ぼくもです。あの――ありがとうございました」

「はい?」

「蓬山(ほうざん)の玉葉(ぎょくよう)様にお聞きしたんです。以前、玉葉様が汕子(さんし)にぼくを迎(むか)えにこさせたとき、廉台輔が大切なものを貸してくださったんでしょう?」

ああ、と廉麟(れんりん)は微笑(わら)った。

「呉剛環蛇(ごごうかんだ)のことですか? あれは主上(しゅじょう)に貸していただいたんです。お礼なら主上に、と言いたいところですけども、主上にはそれより先に着替えてきていただかないと」

苦笑混じりの視線を受けて、そうか、と世卓(せいたく)は呟(つぶや)く。

「ごめんなさい。ちゃんとやり直しますから、少し待っていてくださいね」

照れたように笑いながら世卓は正寝(せいしん)に戻り、泰麒(たいき)らは改めて外殿へと導かれて、そしてようやく、とりあえずは儀礼どおりに万事が進み始めたのだった。

泰麒の滞在は三日の予定だった。公式のもてなしを受け、あるいは公式の行事に参加もしたが、とりあえず泰麒らは私的な客人として迎(むか)えられていた。宿泊する場所として与えられたのも掌客殿(しょうきゃくでん)のある一郭(いっかく)ではなく、正寝(せいしん)の大園林(だいていえん)の中で、周囲に遣(つか)わされた官も、世話をするための下官(げかん)が最低限、しかも世卓は、燕朝(えんちょう)ならどこでも、好きなように出入りしてください、と呆気(あっけ)ないほど簡単に言う。

「……こんなに無防備でいいのだろうか」

霜元(そうげん)は理解に苦しむ様子だった。大人たちは概して戸惑(とまど)っていて、それで居心地(いごこち)が悪そうだったが、泰麒は逆に、気持ちよく過ごすことができた。いろいろな儀礼や、決まり事の多くが泰麒にはよく分からない。知識として知ってはいても馴染(なじ)みがなく、常に失敗をしないよう気を張っていなければならないのだが、雨潦宮(うろうきゅう)ではそういったことの一切を気にしないですんだ。

「無防備でいらっしゃるのは、それだけ宮城(きゅうじょう)の中が安全だ、ということなのだろうが」

阿選(あせん)が苦笑混じりに言ったが、正頼(せいらい)は溜息(ためいき)をつく。

「安全なのか、暢気(のんき)なのか。……どうも漣(れん)の方々は何事にも鷹揚(おうよう)なようで……」

「それだと、だめなの?」

泰麒が訊(き)くと、正頼は情けなさそうに肩を落とす。

「だめなんてことはありませんとも。じいやはちょっと慣れないだけです。ほら、私はもともと軍の文官の出身ですから。規律で締(し)めあげられて、きりきり追い立てられるのは慣れっこですけど、逆だとどうも……」

そのとおりだ、と言うように、霜元(そうげん)も阿選(あせん)もうなずいた。

「身の置き所がない、と言うんですかね。……まあ、私たちはここで小さくなってますから台輔(たいほ)は遊んでいらっしゃい。台輔はこちらのほうが性(しょう)に合うようですから」

「べつに、白圭宮(はっけいきゅう)が嫌いなんじゃないんだよ」

「分かっておりますとも。私だって、雨潦宮(うろうきゅう)が嫌いなわけじゃありませんよ。何しろ私はこの二日で、あの潭翠(たんすい)が途方(とほう)に暮れているのを三度も見ましたからね」

そうだね、と泰麒(たいき)は笑う。

「昨日、廉台輔(れんたいほ)が朝御飯を持ってきてくださって、お茶を注(つ)いでくれたときなんて、潭翠、固まってたもんね」

「大きな声じゃ言えませんが、あんな潭翠は滅多(めった)に見られるものじゃありませんよ」

くすくすと泰麒は笑う。当の潭翠は戸口の脇(わき)に控(ひか)えたまま、例によって聞こえない素振りをしていたが、どこか憮然(ぶぜん)とした様子だった。

「じゃあ、行ってくるね」

言って泰麒は広々とした楼閣(ろうかく)を出る。無言で潭翠が蹤(つ)いてきた。泰麒はまっすぐに北宮(ほくぐう)に向かう。世卓(せいたく)は公務でなければ、きっと畑にいるはずだ――そう思って畑に向かうと、案の定、袍子(の ら ぎ)に着替えて働いている世卓の姿があった。

「こんにちは」

声をかけると、にこりと笑う。少しも気取りのない笑顔が、泰麒には嬉(うれ)しい。公務の間、そして公式の行事の間も、暇(ひま)さえあれば世卓は畑に出ている。泰麒は始終、畑に入(い)り浸(びた)ってそれを手伝わせてもらっていた。

いや、手伝うというよりも、世卓の周囲をうろうろしていて、ときに何かをさせてもらう、と言ったほうが正しいのかもしれない。泰麒には農作業をした経験がない。そもそも手伝おうにも、何をしたらいいのか、分からない。世卓に言われるまま右往左往(うおうさおう)するしかないところは、戴(たい)でのありさまと少しも変わらなかった。

「ぼく……お邪魔(じゃま)をしてますね」

泰麒がぶつかったせいで、散らばってしまった枝を拾い集めながら、思い至って泰麒は言った。一緒に拾いながら、世卓は、いいえ、と笑う。この王は、始終笑っている、という印象が泰麒にはあった。

「とってもお邪魔だとは思うんですけど、明日にはもう帰らないといけないし……もう少しだけ我慢してもらってかまいませんか?」

「少しも邪魔(じゃま)だなんてことはありませんよ。俺も小さい頃、近所の人が働く傍(そば)にいて、泰台輔(たいたいほ)みたいに手伝いをしながら仕事を覚えたものです」

言ってから、世卓(せいたく)は、あ、と声を上げ、照れたように笑う。

「そうか、台輔が農夫の仕事を覚えても仕方ないですよね。ひょっとして、俺は台輔を妙なことで引っ張り回しているのかな」

「そんなことはないです。あの……ぼくはお手伝いさせてもらうの、すごく楽しいんですけど……」

それは本当だった。泰麒(たいき)は農作業を間近で見るのが初めてだったし、だから物珍しかった。暖かい風の中で動き回るのは心地よく、世卓がきびきびと働くのを見ているのも、同様に心地よかった。何よりも、世卓の少しも構えたところのない空気が、泰麒には心安(こころやす)い。この世界の常識にも大人の世界の常識にも疎(うと)い泰麒にとって、ただ大人に囲まれているだけのことが、ひどく緊張を強(し)いられる大事業なのだった。

「でも……お邪魔をしているだけなんだったら、ぼく、どこかに行っていたほうがいいのかな、って」

悄然(しょうぜん)と言った泰麒に、世卓は首を傾ける。

「……何かあったんですか?」

え、と泰麒が問い返すと、世卓は、

「だって、手伝ってもらって邪魔(じゃま)だなんてことが、あるはずないでしょう? なのに何で、そんなふうに仰(おっしゃ)るんですか?」

「だって僕は、何もできませんし……」

「でも、さっきからあんなにたくさんの枝を運んでくださったでしょう? 水を運ぶのだって手伝っていただいたし、藁(わら)だって運んでもらって」

「本当に運んだだけです」

「つまりそれだけ俺を手伝ってくださったんじゃないですか。なのに、そんなふうに仰るなんて、台輔はまるで、自分のことを役立たずのように思ってらっしゃるみたいです」

世卓の温かく澄んだ目に見つめられて、泰麒はうなだれた。

「……そうじゃないといいんだけど、……たぶん、そうなんだと思います」

「なぜです?」

「ぼくは、何もできないんです。農作業のことだけじゃなく、本当に何ひとつできることがないんです。……まだ小さいから、と驍宗(ぎょうそう)さまは言ってくださるんですけど、きっとがっかりしてらっしゃると思うんです」

「そうなんですか?」

世卓(せいたく)に問われ、泰麒(たいき)は俯(うつむ)いた。世卓の手が軽く泰麒の背中を叩(たた)く。

「少し休みましょうか」

言って世卓は、草の山を示した。

「いえ、お仕事を続けてください」

「俺が疲れたんですよ。お茶でも飲みませんか?」

笑って言って、世卓は畦(あぜ)の向こうに声をかける。

「お供の方も、お茶をいかがです?」

離れた場所に控(ひか)えていた潭翠(たんすい)が、固辞(こじ)するような仕草をした。

「あの方も大変ですね。ああしてずっと座ってらっしゃるんだから」

世卓は言いながら、大きな土瓶(どびん)に入れて持ってきたお茶を振る舞ってくれた。

「大僕( ご え い)のお仕事は危険だから大変だって思っていたんですけど、どっちかというと、何も危険のないときのほうが大変なのかもなあ」

そうですね、と笑いかけ、泰麒はすぐにその笑みを萎(しお)れさせた。世卓が渡してくれた茶杯(ゆ の み)の中を覗きこむ。

「……廉王(れんおう)は、お仕事とお役目は違う、って仰(おっしゃ)いましたよね」

はい、と世卓はうなずく。

「それを聞いたとき、そうだな、って思ったんです。麒麟(きりん)は王を選ぶのがお役目です。そして、ぼくの役目は終わってしまいました。だからお仕事だけでも一生懸命やれればいいのだけど、宰輔(さいほ)としても州侯(しゅうこう)としてもぼくは小さくて、ちゃんとお仕事をすることができないんです」

世卓は泰麒をまっすぐに見たまま、首を傾けた。

「……麒麟のお役目は、憐(あわ)れみを施(ほどこ)すことなんじゃないかな」

「王さまを選ぶことじゃなく?」

「だって、王を選ぶのもその一部でしょう? だから、民にとって一番いい王さまを選ぶわけですから」

「じゃあ……ぼくのお役目は終わったわけじゃないんでしょうか」

「俺は、だと思います」

「じゃあ、麒麟の仕事はなんでしょう?」

「泰麒のお仕事は、大きくなることです」

世卓は言って笑った。

「子供はそういうものでしょう?」

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