世卓は頭上に垂れた枝から紅嘉祥(こうかしょう)をひとつも(も)いで、泰麒の掌(てのひら)に載(の)せてくれる。
「……たくさん、お悩みがおありなんですね。でも、それもお仕事のうちです。たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん泣いたり笑ったりするのがお仕事なんだと思いますよ」
泰麒(たいき)は掌(てのひら)を見る。艶(つや)やかに赤い綺麗(きれい)な果実。
「……それだけでいいんでしょうか。民はとても大変なのに。戴(たい)はとても寒いんです。たくさんの民が雪の中で辛(つら)い思いをしています。ぼくは宰輔(さいほ)で州侯(しゅうこう)なのに、何もしてあげられないんです。何もしてあげられないまま、ただ大きくなるだけなんて……」
でも、と世卓は言う。
「俺だって、大したことはしてないです。俺は農夫だから、政治のことなんて分かりませんからね。政治のことは、廉麟(れんりん)のほうが詳しいぐらいですから、台輔(たいほ)に頼りっぱなしです。俺も作物や家畜の世話をするぐらいしか、できることがないんですよ」
「王さまなのに?」
そうなんです、と世卓は笑った。
「これしかできないから、こうして畑を作っているわけですけど。これが少しは役に立っているとしたら、園林(ていえん)を潰(つぶ)しちゃったから、手入れをする手間が省けたのと、公費がちょっぴり助かることぐらいじゃないかな。きっと重嶺(じゅうれい)の商人から買うより簡単で安上がりだと思うんで」
「あの……膳夫(まかない)に売っているんですか?」
はい、と世卓は大真面目(おおまじめ)にうなずく。
「売らないと生活できませんから。だって、俺は農夫ですからね? そりゃあ、お役目に使うものは、国に与えてもらいますけど。たくさんの下官(げかん)の給金だとか、絹の礼服だとか、賓客(ひんきゃく)をおもてなしするための豪勢な食事だとか。俺の働きじゃあ、とても維持できませんし、だからって俺の働きで賄(まかな)える範囲内にするわけにはいかないって、廉麟も言うんで。国が面目(めんもく)をなくすんだそうです」
「そう……でしょうね」
「だから俺だって、ほとんど役には立っていないんです。――でも、天帝がおられるとしたら、俺にこれしかできないことなんて、お見通しだったんじゃないかな」
泰麒は、はっとして世卓を見上げた。
「農夫の俺が王さまになったってことは、きっと天がそれをお望みだったってことなんでしょう。だから俺は何もしない。しないでいいってことなんだろうと思ってるんです。作物の世話をするように、国の世話をするだけでいいんだろうって」
「国の世話……」
「木は勝手に伸びます。そんなふうに国も勝手に伸びるんじゃないかな。一番いいやり方は木が知ってます。俺はそれを助けるだけなんです。葉が萎(しお)れていたら、水が欲しいっていう合図なんですよ。だから俺は水をやる。国もたぶん、そんなふうなんだと思うんです。そういうやり方で育ててほしいと思ったから、天帝は農夫の俺を選んだんじゃないかな、って」
「……廉台輔(れんたいほ)は?」
泰麒(たいき)は呟(つぶや)いて世卓(せいたく)を見る。
「廉王(れんおう)が世話をなさっているときに、廉台輔はどんなふうにお手伝いするんでしょう」
何も、と世卓は明るく答えた。
「廉麟(れんりん)は農夫じゃないですからね。良い枝と悪い枝の区別もつかないし、水をやっていい時期とやってはいけない時期の区別もつかないし」
「では、できることはないんですね」
いえ、と世卓は眩(まぶ)しく笑った。
「良い実が生(な)ると、喜んでくれます」
泰麒は、ぽかんとした。
「……それだけ?」
「それだけが、とても大きいんですよ。すごく外が寒かったり、お役目で疲れていたりすると、畑に出るのが億劫(おっくう)になることもあるんです。でも、それで実が落ちてしまうと、廉麟ががっかりするだろうな、と思うから、やっぱり踏(ふ)ん張(ば)ろうという気になります」
言って世卓は果樹園の木々を仰(あお)ぐ。
「俺は国を見守っています。悪いことの先触(さきぶ)れはないか、足りないものはないか見守っている。それが世話をする者の役目だからです。そして、台輔は見守っている俺を見守っています。俺がきちんと役目を果たせているか、悪いことの先触れはないか、見守っていてくれるんです。見守っていてくれる目があるからこそ、できること、というのがあるんですよ」
見守る、と泰麒はその言葉を口の中で転(ころ)がしてみた。
「ぼくも……それでいいんでしょうか。それだけのことで?」
「それだけのことじゃないです。ほら、大僕( ご え い)のあの人みたいに、見守っているだけだって、すごく大変なお仕事なんだと思いますよ」
そうですね、と泰麒は潭翠(たんすい)を見る。泰麒がこうしている間じゅう、ああしてじっと控(ひか)え、周囲に目を配っている。
「動き回って何かをすることだけが大変なことじゃあ、ないでしょう?」
「……はい」
うなずいて、泰麒(たいき)はおずおずと世卓(せいたく)を見た。
「ぼくが見守っていれば、それで驍宗(ぎょうそう)さまも喜んでくださるでしょうか」
もちろんです、と世卓は笑った。
「俺は政治のことも、麒麟(きりん)のことも分からないけど、農作業のことと王さまのことなら分かります。きっと泰王(たいおう)も台輔(たいほ)の目をとても頼みにしているんだと思います」
そうだろうか、と泰麒は思う。驍宗が泰麒のような子供を頼みにしているなんてことは、およそ想像ができないのだけれども。
「俺が国の番人だとしたら、廉麟(れんりん)は俺の番人です。ひょっとしたら、それこそが麒麟のお仕事なんじゃないかな」
ひと月以上の時を経て泰麒が鴻基(こうき)に戻ったとき、やはり鴻基は真っ白な雪の中に埋もれていた。白い山野を見下ろし、禁門(きんもん)へと辿(たど)り着(つ)く。
泰麒らが乗騎を下ろすと、即座に門卒(もんばん)たちが出てきて、白い息を吐きながら整然と出迎(でむか)えてくれた。もん人(もんばん)が呼ばれ、乗騎は兵卒に受け渡され、粛々(しゅくしゅく)と門扉(もんぴ)は開かれる。
「漣(れん)とすごく違うのは、寒さだけじゃないって、改めて思っちゃった」
泰麒が言うと、正頼(せいらい)は笑う。
「まったくですねえ」
「正頼、ほっとしてるでしょ?」
「ちょっとだけですよ」
笑いながら禁門を抜け、そのまま内殿へと向かった。遺漏(いろう)なく帰国の報が届いていたとみえて、内殿に入れば官吏(かんり)が居並び、玉座(ぎょくざ)には王の姿がある。
殿内の空気に、ぴりりと引(ひ)き締(し)まるものを感じながら、泰麒は玉座の前に進む。その場に跪(ひざまず)いて礼拝した。
「ただいま、戻りました」
うなずいて、驍宗は壇上へと手招きをする。泰麒は立ちあがって玉座の傍(そば)に向かった。不思議なことに、やっと居場所に帰ったという気がした。
「漣はどうだった?」
「本当に花が咲いていました」
そうか、と笑い、
「詳しいことは後で聞こう」
言って、驍宗(ぎょうそう)は冢宰(ちょうさい)に声をかける。
「詳細は文書にすればよい。彼らも疲れているだろうから、早々に休ませてやれ」
はい、と歯切れ良く答えて、冢宰が大任を終えた泰麒(たいき)を言祝(ことほ)ぐ。霜元(そうげん)からは諸官へ向けての簡単な報告があった。ほとんど儀礼どおりのやりとりだけで、驍宗は珠簾(みす)を下ろさせる。それが終わりの合図だった。
「疲れたろう。今日はゆっくり休むといい。部屋まで送っていこう」
軽く背中を押して泰麒を促(うなが)し、驍宗は内殿を出る。
「いいえ。ぼくは全然、疲れてなんかいないんですけど……でも、そうか、驍宗さまはお仕事ですよね」
話したいことは山ほどあったのだけど。思いながら言うと、驍宗は笑う。
「せっかく蒿里(こうり)が戻ってきたのだから、今日ぐらいは私も休んでかまわないだろう」
泰麒は嬉(うれ)しくて、舞いあがる気分がした。
「廉王(れんおう)、廉台輔(れんたいほ)はどんな方だった?」
「とっても良い方でした」
泰麒は驍宗の裾(すそ)にまとわりついて歩きながら、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に話す。いきなり後宮(こうきゅう)に行く破目(はめ)になったこと、宮城(きゅうじょう)に畑があったこと、あるいは朝に廉麟(れんりん)が泰麒たちを起こしにやってきて、窓を開けたり洗顔の水を汲(く)んできたり、お茶を淹(い)れたりして潭翠(たんすい)たちがすっかり困惑してしまったこと。
「畑仕事を手伝わせていただいたんです。廉王は――」
言いかけた泰麒の背中を驍宗が押した。
「蒿里、こちらだ」
え、と泰麒は周囲を見る。仁重殿(じんじゅうでん)に戻るのはこの道でいいはずだ、と思いながら首をかしげて驍宗を見上げた。
驍宗は笑う。
「こちらへ」
「あ……はい」
驍宗が向かったのは、正寝(せいしん)へ続く道だった。正寝に寄っていけということだろうかと、そう察し、泰麒は深く気にも留めず、雨潦宮(うろうきゅう)の様子や重嶺(じゅうれい)の様子、あるいは途中で立ち寄った柳(りゅう)や恭(きょう)、範(はん)の話をとりとめもなく続けた。ひと月は、泰麒にとって、とても長かった。話すことはたくさんあったし、そうして話をしていると、傍(そば)にいなかったぶんの時間を埋められるような気がした。
「それで、正頼(せいらい)が――」
言いかけ、泰麒(たいき)はふと足を止めた。驍宗(ぎょうそう)に背中を押されるまま歩いてきたけれども、あまり見たことのない場所に入り込んでいたからだ。辺りを見回すと、間近に正寝(せいしん)の正殿が見えていた。正殿のすぐ西隣(にしどなり)にある建物のようだった。
「正頼(せいらい)がそれで?」
驍宗は言いながら、建物を抜ける。こぢんまりとした庭院(なかにわ)に出た。泰麒がきょとんと足を止めたのは、その正面、主楼(お も や)と思(おぼ)しき建物の戸口に、潭翠(たんすい)が立っていたからだった。禁門で別れた潭翠は、てっきり仁重殿(じんじゅうでん)に戻ったものだと思っていたのに。
どうした、と笑い含みに促(うなが)され、泰麒はあたふたと主楼に入る。入って驚いて声を上げた。そこには見慣れた世話係の女官(にょかん)や、泰麒の荷物が揃(そろ)っていたからだ。
「……どうして」
泰麒は驍宗を振(ふ)り仰(あお)いだ。漣(れん)に行く前に、正頼が、「いいことがある」と言っていたことを思い出しながら。
「ひょっとして、ぼく、ここに引っ越すんですか?」
「仁重殿が恋しくないのならな」
泰麒は嬉(うれ)しくて顔が赤らんでくるのが分かった。驍宗のいる正殿まで、あんなに近い。王宮は広く、ほんの少し話をしたいと思っても、泰麒の足では遠すぎて、ずっとままならなかったのに。
「しかも、州庁(しゅうちょう)のある広徳殿(こうとくでん)までは遠くなる」
「ぜんぜん平気です。うんと急いで行きますから」
「さて、急いでも泰麒の足で間に合うかな」
「間に合わないようなら、走っていきます」
「毎日では大変だろう?」
「だいじょうぶです。きっと健康にいいし、ぼくだってそのうち大きくなると思うし毎日走っていればきっと早く大きくなれて――、ええと、それに」
「輿(こし)は相変わらず嫌(いや)か?」
笑って言われ、泰麒は小さくうなずいた。どうしても泰麒は輿に慣れない。大人たちに担(かつ)がれるというのが、何となく申し訳なくて居心地が悪かった。
「では、蒿里(こうり)はしばらく潭翠に弟子入りしなくてはならないな」
「潭翠?」
「子馬がいる。教えてもらえ」
えっ、と泰麒は飛びあがった。
「ぼく? 馬に乗ってもいいんですか?」
驍宗(ぎょうそう)はうなずく。
「騎獣(きじゅう)のほうが乗せてもらえるから楽だろうが、宮中では騎獣への乗騎は許されないのが慣例だからな。それに蒿里(こうり)の身体(か ら だ)ではまだ少し大きすぎるだろう。旅でそうしていたように鞍(くら)に輿(こし)をつければいいのだろうが、それではつまらないだろう?」
泰麒(たいき)は嬉(うれ)しくてぼうっとしてしまった。
「よく長旅を辛抱(しんぼう)してくれた」
「でも……そんなに大変でもなかったし、それに楽しいことがいっぱいあって……なのにこんな御褒美(ごほうび)を貰(もら)っていいんでしょうか」
いいんだ、と笑って、驍宗は二階へと向かう。階上は玻璃(はり)の入った折り戸が巡らされた明るく暖かな部屋だった。周囲の園林(ていえん)が一望できる。
「なにもお前のためばかりというわけでもない。私が、傍(そば)に来てほしかったのだからな」
泰麒は目を見開く。咄嗟(とっさ)に感じたのは、驍宗にまた気を遣(つか)わせている、という思いだった。自分が始終寂(さび)しがり、心細がっているから。だから驍宗はこんな形で気を配ってくれたのだと思った。
「あの……でも」
喜んでいないのだとは思われたくない。けれども、そんなふうに気を配られれば負担ばかりをかけているようで心に重い。それをどう伝えればいいのか言葉を探していると、驍宗が苦笑した。
「私は性急すぎるのだそうだ」
言って驍宗は、椅子(いす)のひとつに腰を下ろし、隣の椅子を示す。泰麒は穏和(お と な)しくそこに座った。
「急ぎすぎ、果敢(かかん)すぎる、と言う者がある。それはあながち間違っていないと思う。だが、どうも私は昔から、手綱(たづな)を緩(ゆる)めることが得手でない。だから蒿里の顔が見られたほうがいいのだ」
「……ぼくの?」
「白圭宮(はっけいきゅう)に入ったばかりの頃のように、始終蒿里が、それは何だと訊(き)いてくれ、話し相手になってくれたほうがいい。そうやって重石(おもし)になってもらい、急(せ)いた気を静めてもらわないと、私はすぐに官を置き去りにして、ひとりで走ってしまうからな」
泰麒はぽかんと驍宗を見上げた。
「……どうした?」
いいえ、と泰麒は首を振る。
「とりあえず今日は、蒿里に旅の話を聞かせてもらって気を抜こう。この頃の私は気配が尖(とが)っていて、傍(そば)に寄るのは怖(こわ)くて嫌(いや)だと臥信(がしん)に言われてしまった」
「臥信? 瑞州師(ずいしゅうし)の?」
確かもともと驍宗(ぎょうそう)軍にいた人物だ。瑞州師の右軍を率(ひき)いている。
「腹を空(す)かせた虎(とら)の傍(そば)にいるような気分がするそうだ」
驍宗が苦笑し、泰麒(たいき)も思わず笑った。何となく、そうだったのか、という気がしていた。泰麒は驍宗の番人で、彼が飢(う)えてしまわないよう、見守っていればよかったのか、という気が。
「じゃあ、ぼく、驍宗さまのお腹(なか)がいっぱいになるよう、頑張りますね」
そうしてくれ、と驍宗は笑って、そして急に手を挙げた。
「ああ――お前、漣(れん)から持ち帰ってきたな」
「え?」
何のことか分からずに驍宗が示したほうを見ると、玻璃(はり)の入った窓の外、高欄(こうらん)のすぐ傍に大きな梅の木が迫っているのが見えた。ほど近い枝に、ほんの二つ――白い小さな花があった。
戴(たい)の長い冬が、ようやく終幕へ近づこうとしていた。
十二国記シリーズ 華胥の幽夢 乗月
乗(じょう) 月(げつ)
「国政を恣(ほしいまま)にすることは、天道(てんどう)に悖(もと)る」
男は、国権の頂点――玉座(ぎょくざ)の下にいた。金銀玉を象眼(ぞうがん)した四柱に支えられた壇上、四方の珠簾(みす)は上げられていたが、その御座(ぎょざ)は空(から)である。贅(ぜい)を極(きわ)めた玉座とその背後、飛龍(ひりゅう)を彫(ほ)りこんだ白銀の衝立(ついたて)が白々とその姿を明らかにしていた。
広大な外殿の床の上、そこには慣例に従い、諸官が綺筵(しきもの)を膝(ひざ)に当てて跪(ひざまず)き、うなだれている。空の玉座に礼を取る自分たちの虚(むな)しさを、諸官も、また玉座の下に立って諸官に向かった男も、もとよりよく分かっていた。
「そもそも我が国土は、峯王(ほうおう)のもの、たとえ御座に主上(しゅじょう)がおられずとも、我らのような一介(いっかい)の官吏(かんり)が意のままに動かして良いものではない」
言った男は、いまや芳国(ほうこく)の国権を掌握(しょうあく)しているに等しかったが、あえて壇下に席を設け、決して壇上に足を踏みこまなかった。
――この男を月渓(げっけい)という。先の峯王によって恵州州侯(けいしゅうしゅうこう)に任ぜられ、四年前、諸侯を纏(まと)めて峯王を討(う)った。
「朝(ちょう)の混乱を収めるためには、権限を越えた振る舞いも多少はあって已(や)むを得(え)まい。そもそも、自ら招いた混乱であれば、これを収拾するのは義務の範囲内だろう。だが、四年を経て、朝はようやく鎮(しず)まり整った。我々はこれ以後、権を越えることなく、専横に堕(だ)することなく、朝と国土の双方について可能なかぎり現状を維持し、粛々(しゅくしゅく)と新王のもとに進まねばならない」
空(から)の玉座(ぎょくざ)を正面に、広間に並んだ官吏(かんり)のうち、数名がその前にあって俯(うつむ)いていた。
「法ひとつを取っても、これを設けることも、廃することも、本来ならば主上(しゅじょう)の裁可なしに行なってよいことではない。主上は悲しむべきことに徒(いたずら)に民を苦しめるだけの酷法(こくほう)を多数残されたが、これについては、運用せずとも咎(とが)めず、と広く申し渡してある。我々に許されるのはそこまでで、酷法そのものを廃することは、将来御位(みくらい)に就(つ)かれる王に委(ゆだ)ねられるべきだろう。軽はずみに法を廃し、法を設けることは我々に許された権の範疇(はんちゅう)にない」
言って月渓は、官吏の前に跪(ひざまず)いた老齢の男を見た。
「――小庸(しょうよう)」
呼ばれて男は顔を上げ、月渓を見返した。
「同様にこれより以後、我々が定められた分(ぶん)を越えることは、厳に慎(つつし)むべきだろう。また、あえて分を越える必要があるとも思われない。主上(しゅじょう)は法において過酷(かこく)であったが、その一方で邪(よこしま)な官吏(かんり)に対してもまた過酷であった。清廉潔白(せいれんけっぱく)が行きすぎたことは確かだが、おかげで芳国(ほうこく)は、猾吏(かつり)によって国権を荒らされることを最大限免(まぬが)れた。幸い、数は減じたりとはいえ、朝廷には徳高い官吏が多数、残っている。ならばこれ以上は必要なかろう。国を治めるは、国府を預かる諸官の役目、私に与えられた責務は恵州(けいしゅう)を治めることであって、国を治めることではない。そもそも州侯(しゅうこう)にすぎない私が国政に口を差(さ)し挟(はさ)むこと自体、天道(てんどう)を踏みにじるに等しい行為だ。これ以上、私が鷹隼宮(ようしゅんきゅう)に留(とど)まることは許されないと思う。――違うだろうか」
小庸(しょうよう)は視線を落とした。
「……国には王が必要でございます」
「主上はおられない」
「百官には、主(あるじ)たるお方が必要でございます。諸官を束(たば)ね、決意をもって国政にあたり、法を整え、国土を治め、朝廷を導く方なくば、国が傾くをいかにして止められましょう」
「芳国百官の主は、峯王(ほうおう)しかおられない」
小庸は月渓(げっけい)を仰(あお)ぎ見る。
「峯王(ほうおう)はすでに御座(ぎょざ)にはあらず、なぜならほかならぬ私どもが、弑(しい)し奉(たてまつ)ったからでございます」
「――小庸」
「確かに、臣下(しんか)が王を討(う)つ以上の罪悪はなく、芳は現在、唾棄(だき)すべき逆賊(ぎゃくぞく)の国でございます。恭国供王(きょうこくきょうおう)の内々の承認はいただけても、公(おおやけ)には存在しない王朝――恵侯(けいこう)はその主(あるじ)となることを厭(いと)うておられるのですか」
「そのようなことを言っているのではない」
「――では、仲韃(ちゅうたつ)を討(う)ったことを後悔しておいでですか」
月渓は視線を逸(そ)らした。
「峯王仲韃は我らが討った。ここにある官吏(かんり)一同は、大逆(たいぎゃく)に荷担した逆臣でございます。ですが私は、それを恥じてはおりません。仲韃の設けたあまりにも過酷(かこく)な法によって、どれほどの民が失われ、苦しんだか。これを義憤(ぎふん)と呼ぶか、私怨(しえん)と呼ぶかはともかくも、仲韃はあれ以上、玉座(ぎょくざ)にいてはならなかった。――恵侯もまた、そう思われたからこそ、あえて天道に背(そむ)いて弑逆(しいぎゃく)の盟主となられたのではないのですか」
小庸の問いに、月渓は答えない。
「天命なく玉座に就(つ)けば、確かに文字どおりの簒奪(さんだつ)でございます。玉座を盗んだと誹(そし)られることを、それほど恐れておいでですか。ならばなぜ、そもそも大逆(たいぎゃく)を決断なさったのです。王に虐(しいた)げられる民への慈悲(じひ)から兵をお挙(あ)げになったのなら、なぜその慈悲を王を失った民にも施(ほどこ)してはくださらないのですか。民から王を奪ったのだから、恵侯(けいこう)はたとえ紛(まが)い物(もの)とはいえ、民に王を施す義務がおありではないでしょうか」
返答に窮(きゅう)した月渓(げっけい)が俯(うつむ)いたとき、ひとりの下官(げかん)が入ってきた。下官は一礼して月渓の傍(そば)に寄り、微(かす)かな声で耳打ちをする。
「……慶国(けいこく)の」
月渓は目を見張って下官を見返し、いくぶん慌(あわ)てて小庸(しょうよう)らのほうへと視線を転じる。中座を伝えて、下官を伴い、小走りに外殿を退出した。
「……景王(けいおう)の親書?」
月渓は改めて下官に問い返した。下官は深く頭を下げて、これを肯定(こうてい)した。
「私にか?」
天下の条理(じょうり)を踏みにじり、王を惨殺(ざんさつ)して玉座(ぎょくざ)を奪った逆賊(ぎゃくぞく)が、慶国の正当な王から親書を受け取る謂(いわ)れがなかった。ましてや、芳(ほう)は慶国とは何の縁(よしみ)も持っていない。にもかかわらず、月渓を名指しにして親書を携(たずさ)えた使者が来ているという。
下官も困惑しているのだろう、どこか心許(こころもと)ない表情でうなずいた。月渓もまた困惑した思いで、ともかくも別殿に使者を迎(むか)えるよう申しつけた。
官服もそのまま、月渓は別殿へと赴(おもむ)き、釈然としない気分で下座に控(ひか)えて使者一行の到着を待った。下官に導かれ、現れた使者もまた簡素な官服、随従(ずいじゅう)ともども文官のしつらえだったが、禁軍将軍を名乗った。
「公事ではございません。景王より内々の沙汰(さた)があって、参りました」
言って将軍は、上座を辞退する。
「私は、青辛(せいしん)と申します。我が主上(しゅじょう)より、恵侯への親書がこれに」
月渓に対面した男はそう言って、一通の書状を差し出した。月渓は慶の将軍と親書を見比べる。
「……御無礼(ごぶれい)を承知でお尋(たず)ねするが、これは私に下されたものに相違ないのだろうか」
月渓が問うと、青は不思議そうな表情で顔を上げた。
「恵侯にお届けするよう、承っておりますが」
「私個人に? 小国にあててではなく?」
月渓が重ねて問うと、青はわずかに怪訝(けげん)そうな表情を浮かべた。
「貴国を統(す)べておられるのは、恵侯だと伺(うかが)いました。ですから、その双方の意味だとお取りくだされば」
月渓(げっけい)は軽く息を吐く。
「……では、私がそれをお受けするわけにはいかないようだ」
言って、月渓は下官(げかん)に小庸(しょうよう)を呼ぶよう申しつけた。
「どうぞお楽に。ただいま、冢宰(ちょうさい)が参ります」
はあ、と頷(うなず)いた青(せい)は、対応に困っているようだった。月渓は軽く笑う。
「私は恵州侯(けいしゅうこう)にすぎません。恵侯、とお呼びになる以上、将軍も重々御承知では」
「はい……それは、そうです」
そう答えたものの、青はひどく困っている様子だった。――無理もない、と月渓は思う。王を失った朝廷にも、朝(ちょう)を統(す)べる主(あるじ)が要る。単に王が天命を失い、玉座(ぎょくざ)から退(しりぞい)いたのであれば、残された朝臣が仮朝(かちょう)を開いて仮王(かおう)を立てるのが通例だった。冢宰がいれば、冢宰が百官の主として玉座に就(つ)く。言葉の上だけではなく、実際に冢宰が壇上に登って玉座に座る。王が玉座に着席するための儀礼はすべて省略されるが、真実、そこに座るものだった。言葉の上での「玉座」はともかく、現実に存在する玉座は、王の座る場所ではない。それは国を導く施政者の就く席なのである。
王が天命を失ったわけでなければ、偽王(ぎおう)が立つ。いまだ天命尽きていない王が倒れるのは、玉座(ぎょくざ)に野心ある者が王を討(う)ったときだ。――中には月渓らのような例もあるだろう。必ずしも簒奪(さんだつ)を目論(もくろ)んだわけではなく、ただ道を失った王を取り除こうとして大逆(たいぎゃく)が行なわれた例も多いに違いない。だが、その場合にも普通は大逆を目論んだ者が玉座を埋める。そもそも大逆という行為は、王を討って自らが玉座に就(つ)くという、そういうものだ。道義を失った王に成り代わり、自らが玉座に就こうとする者があればこそ、大逆は行なわれる。
では、と青は心許(こころもと)なげな声を上げた。
「恵侯が仮王として立たれたわけではないのですね」
月渓は眉(まゆ)をひそめた。思いのほか、青の言葉は胸に痛かった。
「仮王の立つ道理がない。小国のこれは仮朝(かちょう)ではありません」
大逆によって玉座を埋めた国主には天命がない。天命ある王があるべき場所を天命のない者が埋める。ゆえにこれは偽王(ぎおう)と呼ばれ、偽王率いる朝は偽朝(ぎちょう)と呼ばれる。
「強(し)いて言うなら、偽朝と呼ぶべきでしょう。誰ひとり、主上(しゅじょう)に成り代わりたいと思ったわけではないが」
はあ、とうなずいて、将軍は何事かを言いかけ、そして慌(あわ)てたように口を噤(つぐ)んだ。
「いかがなされた? 口を噤まれることはない。伺(うかが)わせてください」
「あの……では、お言葉に甘えさせていただくのですが。私は、現在の芳(ほう)の国主は恵侯(けいこう)であると聞き及んでおりました。主上(しゅじょう)もそのように思われていらっしゃいます。主上よりお預かりいたしました親書は、芳国国主である恵侯に向けてのもので、冢宰(ちょうさい)にお渡ししてよいものかどうか、私には判断がつきません。その……こういう事態は想像していなかったので」
月渓(げっけい)は微(かす)かに失笑した。
「王を討(うっ)った以上、玉座(ぎょくざ)までも奪って当然だと?」
青(せい)は狼狽(ろうばい)したように身じろぎをした。
「いえ、――あの、そんな」
「確かに私は、諸官を煽動(せんどう)して峯王(ほうおう)を討ったが、だからといって、そのうえ玉座(ぎょくざ)を望むほど恥知らずではない。自身の罪深さなど、もとより承知している。大罪ある身で御座(ぎょざ)を汚(けが)すわけにはいかないことも、分かっている」
言ったそこに、小庸(しょうよう)が小走りにやってくるのが見えた。
「冢宰が参じたようだ。……私は失礼を申しあげる」
一礼して退(さが)った月渓は、堂の入り口で小庸とすれ違った。呼ばれて駆(か)けつけてきた小庸は、硬い表情で出ていく月渓と、困惑したように佇(たたず)んでいる慶(けい)からの客人を見比べる。気まずい空気を嗅(か)ぎ取(と)ったが、退出していく月渓の後ろ姿は、問いかける隙(すき)を与えなかった。
「――芳国冢宰でございます。遠路はるばるのお越し、まことにいたみいります」
小庸はとりあえず礼を取ったが、対する相手のほうは、いまだに月渓が出ていった戸口のほうが気になるようだった。随行する下官(げかん)たちも浮き足立っている。
「あの……何か?」
「申し訳ありません。……私のせいで恵侯は御気分を害されてしまったようです」
小庸が首を傾げると、官服に身を包んだ男は、改めてその場に膝(ひざ)をつき、頭(こうべ)を垂れて跪拝(きはい)する。
「失礼をいたしました。私は慶国禁軍に将を拝命しております、青辛(せいしん)と申します」
「よくぞお越しになりました。――何か失礼があったのでしょうか」
いえ、と青は笑う。
「私が失礼をしてしまったのです。加えて、私は冢宰にも失礼を申し上げなくてはなりません。実は主上より親書を預かってきたのですが、恵侯に、ということだったのです。ですが、ただいま恵侯から伺(うかが)ったところでは、朝(ちょう)を率いておられるのは冢宰だとか。ならばこの親書は冢宰にお渡しするべきなのでしょうが、恵侯に対するお願いも含まれておりますので、冢宰(ちょうさい)にお渡ししたものかどうか、判断に困っております」
ああ、と小庸(しょうよう)は息を吐き、軽く頭を振った。
「……とにかく、お楽になさってください。随行の方々も、お休みになられますよう。――これ」
小庸は下官(げかん)を呼び、随行を別所で休ませ、もてなすように命じる。将軍に対しては殿堂(たてもの)の奥、新緑が影を落としている庭院(なかにわ)を示した。
「どうぞ。芳(ほう)も良い季節になりました。お座りになってください。いま、何か持ってこさせましょう」
はあ、とうなずく将軍を、庭院へと誘う。石案(つ く え)を置いた庭院には、柔らかな風が吹いている。
「……将軍には失礼をしてしまったようです」
「いえ、むしろ私のほうが」
「将軍が恵侯(けいこう)を訪ねていらしたのは、当然のことでございます。正当な新王をお迎(むか)えになったばかりの貴殿には御不快でしょうが――我々は恵侯を主(あるじ)として、峯王(ほうおう)を討(う)ったのですから」
「……峯王は、ずいぶんと民に対して厳しい方だったと」
小庸はうなずいた。
「見苦しい言い訳になることを承知で申しあげれば、主上(しゅじょう)の登極(とうきょく)以来、芳では六十万の民が些細(ささい)な罪によって裁(さば)かれ、命を落としました」
「――六十万」
国土は屍(しかばね)で埋め尽くされたと言っていい。民の数人に一人が殺された計算になる。
「主上は罪を憎(にく)まれた。どんなに些細な罪であっても、お許しにはならなかった。物を盗んでも死罪、田畑を放(ほう)り出(だ)して芝居(しばい)を見ても死罪――芳はそういう国だったのです」
青(せい)はうなずいた。おそらくは、すでに聞いていたのだろう。
「ついに恵侯が諸侯諸官に呼びかけて起(た)たれ、我々は主上を弑(しい)し申しあげました。恵侯は弑逆(しいぎゃく)の盟主であられた。その恵侯が主上から国を引き継ぐ――慶(けい)のお方がそう思われるのは当然のことです。ほかならぬ私どもも、そうなるものだと思っていたのですから」
四年前、すでに仲韃(ちゅうたつ)の奉ずる道は道にあらず、という月渓(げっけい)の呼びかけに応じて、余州八侯(よしゅうはっこう)と小庸ら国官は起った。仲韃と王后佳花(おうこうかか)を弑し、峯麟(ほうりん)をも討(う)ち取(と)って彼らは仲韃の王朝に幕を引いたのだった。
災いは取り除かれた。だが、仲韃は王だった。王が失われれば、国は傾く。仲韃の圧政と小庸らの起こした乱によって朝廷は破綻(はたん)していた。何とかそれを立て直し、空位の時代の受難に備えなくてはならない。――もとより、弑逆(しいぎゃく)に連座した者たちは、自らがそれを行なうつもりだった。王を討(う)ち取って国を傾けた以上、それを救済するのは彼らの責務だ。
にもかかわらず、弑逆の盟主であった月渓(げっけい)は、最低限の事後処理を終えると、その後の処置を半数に減った国官に委(ゆだ)ねて、恵州(けいしゅう)に退去してしまったのだった。
「……恵侯(けいこう)には、国を引き継ぐおつもりなど、毛頭なかったのです。恵侯は単に、王の虐殺(ぎゃくさつ)を止めるために起(た)ったのであって、王に成り代わり、芳(ほう)を治めるために起たれたのではなかった」
「ですが、芳の朝廷を指導しているのは、恵侯だと聞き及んだのですが」
「そのとおりです。仮にも大逆(たいぎゃく)を犯した罪人が国を治めるわけにはいかない、と恵侯は仰(おっしゃ)るのですが、実際問題として、恵侯がおられなければ芳は立ち行かないのです。我々にとって、恵侯は盟主という名の主(あるじ)ですから。すでに主を戴(いただ)いてしまった以上、恵侯が朝(ちょう)を指揮(しき)してくださらなければ、朝は纏(まと)まって動くことができません」