先王を討ったのちの混乱のただなか、小庸(しょうよう)らは月渓に置き捨てられて茫然自失(ぼうぜんじしつ)した。月渓は彼らにとって唯一の盟主だった。月渓が諸侯諸官に呼びかけ、大逆を果たさんと集った有志を組織し、行動を指示した。その主を突然失い、朝は甚(はなは)だ混乱した。誰かが国を継がなくてはならないが、誰がその任に就(つ)けばいいのか。無数の意見と思惑(おもわく)が錯綜(さくそう)し対立し、小庸らは一歩も身動きならなくなった。
小庸らは窮状(きゅうじょう)を訴え、月渓の帰還を請(こ)うた。帰還を請うべきだ、という声だけが、朝(ちょう)に残された者たちの唯一の合意点だった。悲鳴混じりの要請に応じ、月渓はようやく王宮に戻った。以来、四年、月渓の指導のもと、芳は進んできた。
「ですが、恵侯は国府にいかなる地位もお求めにはなりませんでした。我々がお勧(すす)めしても、拒(こば)まれるのです。国を治めるのは国官の務めであり、自分はただ、それを助けるだけだ、と申されて。実際、恵侯は今も恵州州侯(しゅうこう)でいらっしゃいます。常には恵州城におられ、国政の節目節目、あるいは我らが求めた折にのみ鷹隼宮(ようしゅんきゅう)にいらっしゃる。それでも月日の半分は王宮でお過ごしの勘定になりますが、――それももう」
小庸は言葉に詰まった。慶(けい)からやってきた客人、芳とは何の縁(ゆかり)もなく、ましてや小庸自身とは何の誼(よしみ)もない使者の前で、自分が感情に押し流されようとしているのが分かった。それを押(お)し止(とど)めるためには、ただ口を引き結んでいるしかなかった。
「……もう? 失礼でなければお聞かせください。私は主上(しゅじょう)から親書を託されて参りました。これを誰かにお渡ししなければ、戻ることができません」
柔らかく言われ、小庸は自身の両膝(りょうひざ)を掴(つか)んだ。
「――恵侯(けいこう)は恵州(けいしゅう)にお戻りです。こちらを完全に引き払ってしまわれるのです」
「それでは、皆様、お困りでは」
「もちろんです。恵侯以外に、芳(ほう)を率いていける方はおられない。なのに恵侯は、私にそれをせよと仰(おっしゃ)る」
四年を経て、ようやく混乱は収まった。しかるべき者がしかるべき地位に就(つ)き、朝廷はとりあえず体裁を整えた。民を救済するための道も敷(し)かれた。そのほとんどは、とうに動き出している。まるで区切りをつけるように、それまで一度も口にしたことのない冢宰(ちょうさい)の必要を月渓(げっけい)は切り出した。小庸(しょうよう)らは喜んで賛同した。これまでも、月渓は事実上の冢宰だった。空位の王朝における冢宰――そう表現するのが最も正しい。それが名実共に冢宰になるという意味だと諸官は考えたのだが、月渓が挙げたのは小庸の名だった。
「恵侯は、私に冢宰をお命じになりました。恵侯を差し置いて、どうして私などが冢宰になれましょう。官とて、決して同意などいたしません。ですが、私どもは驚きつつも喜んで恵侯の命に従いました。我々は、ついに恵侯が玉座(ぎょくざ)に就く決意をしてくださったのだと勘違いしてしまったのです」
それまでも、小庸らは再三、月渓に仮王(かおう)として空位の玉座を埋めてほしいと要請してきた。芳の隣国――恭(きょう)の国主である供王(きょうおう)もまた、そう勧(すす)めた。だが、月渓は常にそれを一蹴(いっしゅう)してきた。やっとのことで気を変えてくれたのだと、そう――。
「冢宰が国を治めるのであれば、恵侯こそが冢宰であるべきです。にもかかわらず、私ごときを冢宰に推挙(すいきょ)なされた以上、恵侯は冢宰の上――御位(みくらい)にお就(つ)きになるのだと、私たちはそう思い込んでしまいました。恵侯もそれを否定はなされなかった。なのに、今日になって突然、宮城(きゅうじょう)を引き払って恵州に戻ると仰(おっしゃ)る!」
月渓は分かっていたはずだ。小庸らが月渓の申し出を誤解してしまったことを。にもかかわらず、月渓はただの一度も、それを訂正しようとはしなかった。今になって思えば、月渓は承知していたのだ。そういう誤解をしなければ、決して官が小庸の冢宰就任に同意などするはずがないことを。だからあえて、誤解を解こうとはしなかった。――いや、ひょっとしたら、最初から誤解させようとしたのかもしれない。
「自分は州侯(しゅうこう)であって国官ではない、州侯の務めは州を治めることであって国を治めることではない、混乱を収めるために権を踏み越えることは已(や)むを得(え)ないが、混乱が収まった以上、州侯の自分が権を踏み越えて国を治めることは許されない、と――いまさらになって!」
固く膝(ひざ)を掴(つか)んだ手の甲に、失意の涙が落ちた。小庸は、自身が決して月渓の跡を埋めることなど、できはしないことを知っている。仲韃(ちゅうたつ)を弑(しい)し虐殺(ぎゃくさつ)を止めた月渓に対する官と民の信頼は篤(あつ)い。いまさらここで、月渓(げっけい)が州侯(しゅうこう)の地位に退(しりぞ)き、小庸(しょうよう)が冢宰(ちょうさい)として立っても、官も民も束(たば)ねきれるものではない。王が失われ、国はこれからひたすら傾いていくというのに。
月渓ならば助けてくれるだろう、という期待が、月渓に対する依存であることは、小庸も否定しない。小庸らが仲韃(ちゅうたつ)を討(う)ったその年、峯麟失道(ほうりんしつどう)に焦(あせ)った仲韃は実に三十万もの民を刑場に引き出して虐殺(ぎゃくさつ)した。それでも、小庸らは起(た)つことができなかった。民を哀れみ、国を憂(うれ)えても、仲韃討つべし、と声を上げることはできなかったのだ。それを口にし、行動に移したのは月渓がただひとりだった。その月渓に対し、信を置き、期待して何が悪い。官は月渓が、大逆(たいぎゃく)のときのように自分たちを導いてくれるものだと思っている。民は、どんなに国が傾いても月渓が救ってくれるのだと思っている。にもかかわらず、月渓は、それらの信と期待を踏みにじり、捨て去ろうとしているのだ。
小庸には、なぜ自分がここまで苦しく、悔(くや)しいのか分からない。振り返ってみれば、争乱の直後、月渓が恵州城(けいしゅうじょう)に退去した時点で、月渓の意図は明らかだった。希(こいねが)って宮城(きゅうじょう)に引き戻したときにも、月渓は国にどんな地位を得るつもりもない、助言をするだけだ、と言明している。月渓が恵州侯を降りることはなかったし、誰かを自らの代わりに恵州侯にしようという話が出たこともなかった。振り返ってみれば月渓が徹頭徹尾、恵州侯としての立場を貫こうとしていたことは確かだった。あれほど断固として意図を明らかにしていたにもかかわらず、小庸らは、それをうかうかと見過ごしてきた。期待したのは、月渓の意図を受け止めようとしなかった小庸らの落ち度だ。――頭では、そう理解できる。なのに。
小庸の胸には、裏切られた、見捨てられたという思いしかない。恨(うら)めしく思う自分の怒りが理不尽(りふじん)なものだと分かっていても。そう感じるのは小庸だけではないはずだ。事実、この日の朝議で月渓にそれを言い渡され、議場は凍(こお)りついた。下官がやってきて月渓が外殿を退出すると、堂内は嘆(なげ)く声と罵(ののし)る声で騒然とした。
月渓は外殿に戻ったのだろうか。残った官は、何としても月渓を引き留めようとすることだろう。月渓は、その声に、少しは心を動かしただろうか――。
小庸は思い、そしてはっと顔を上げた。狼狽(ろうばい)して顔を向けた先では、慶(けい)の将軍が静かな貌(かお)で庭院(なかにわ)を見ている。
「……申し訳ない。とんだ失礼を」
小庸が慌(あわ)てて言うと、青(せい)は振り返り、笑む。
「何が、ですか?」
いや、と言葉を濁(にご)す小庸に、将軍はうなずいた。
「どうやら、大変なところにお邪魔(じゃま)してしまったようです。お騒がせをしてしまって申し訳ありません」
「とんでもございません。こちらこそ――」
「これは、やはり冢宰(ちょうさい)にお渡しするべきでしょう。主上(しゅじょう)は、恵侯(けいこう)が芳(ほう)を治めておいでだと思っていらっしゃるので、冢宰がお読みになれば御不快な箇所もあるかもしれませんが、お許しいただければ幸いです」
差し出された書状に、小庸(しょうよう)は狼狽(ろうばい)した。
「しかし――」
「冢宰がお受け取りになったうえで、恵侯にお渡しになるのも御自由です。主上は、それでかまわないと仰(おっしゃ)るでしょう」
小庸は逡巡(しゅんじゅん)した末に、将軍の差し出した書状を受け取った。
「……確かに」
押し頂いた小庸に、それから、と青(せい)は続ける。
「憚(はばか)りながら、こちらに、いま一通の書状がございます。これまた、冢宰には御不快を与える書状やもしれませんが、お受け取りいただけますでしょうか」
「……失礼ですが、それは?」
「慶国下官(けいこくげかん)からぜひにと。やはり恵侯に当ててのものではございますが、これも冢宰にお預けするのが筋(すじ)のようです。――僭越(せんえつ)を承知で申しあげれば、おそらくは主上からの親書も、ぜひとも下官からの書状をお受け取りになり、お読みいただきたいとのお言葉であろうと存じます」
小庸はぽかんとした。そもそも芳の国官が景王(けいおう)から書簡を受け取る謂(いわ)れがないのはもちろん、ましてやその下官から書簡を受け取る謂れがあろうはずがない。
「青将軍、――私は」
言いさした小庸を、青は笑んで止(とど)める。
「下官を孫昭(そんしょう)と申します」
小庸は一瞬、その名が誰を示すものなのかを把握(はあく)できなかった。それは誰だ、と問い返そうとして、刹那(せつな)、それがほかならぬ自分たちが王宮から追放した先の峯王(ほうおう)が一女、公主(こうしゅ)祥瓊(しょうけい)の名であることを思い出した。小庸は驚いて、思わず腰を浮かせる。
「――祥瓊さまが、慶国に」
はい、と将軍の笑みは、事情を了解しているふうだった。
「一切合切(いっさいがっさい)、冢宰にお預けいたしました。とんだ御無礼をいたしましたが、無事、役目を果たすことができて、嬉(うれ)しく存じます」
青(せい)は立って、深く一礼する。小庸(しょうよう)は二つの書状を両の掌(てのひら)で固く捕(と)らえた。
「将軍は、急いで慶(けい)へお戻りでしょうか」
「私に命じられました用件は、非公式に鷹隼宮(ようしゅんきゅう)をお訪ねして、親書をお届けすることだけですから、役目は終わりました。ただ、同行した下官(げかん)は、この機会に貴国の様子を見聞せよと命じられておりますから、しばらくは城下に滞在しております」
「お急ぎでないなら、お待ちください。ぜひとも――ぜひとも恵侯(けいこう)にお会いになっていらしてください」
「しかし……」
「祥瓊(しょうけい)さまを最も気にかけておられたのは恵侯なのです。お連れしますから、なにとぞ」
将軍の承諾を受け、小庸は慌(あわ)てて下官を呼んだ。
朝議はすでに散会していた。月渓(げっけい)は官邸(かんてい)に戻ろうとしていて、自分を捜す下官に会った。小庸がぜひとも来てくれと言っているという。いまさら他国の使者に会う必要があるとも思われなかったが、慶の使者に対しあまり無礼な振る舞いもできない。特に、先ほど会った際の振る舞いは、我ながら礼を失していたと思われたので、仕方なく踵(きびす)を返した。
殿堂(でんどう)に入ると、使者と小庸は庭院(なかにわ)にいた。小庸は月渓を見るなり立ち上がり、意外な名前を口にした。
「恵侯――祥瓊さまが」
思いもよらぬ名前を出されて、月渓は驚いた。
「祥瓊さまが慶におられると」
我知らず、月渓は足を速めていた。小庸の傍(そば)へと急ぎ、それはどういうことだ、と問おうとして、思(おも)い留(とど)まった。改めて使者に一礼する。
「先ほどは失礼を申しあげた」
「とんでもありません。こちらこそ、事情も存じあげず、非礼を申しました」
いえ、と月渓は答え、
「――それで、祥瓊さまが慶におられるというのは」
月渓が、その場の二人を見比べると、小庸が書状を差し出す。
「祥瓊さまから――と」
いや、と月渓は手を振って、それを受け取る意思のないことを伝えた。冢宰(ちょうさい)が決まった以上、月渓がそれを受け取るわけにはいかない。代わりに慶の将軍へと向き直った。
「公主(こうしゅ)は恭国(きょうこく)にお預けした。恭国を出奔(しゅっぽん)なされたとはお聞きしていたが」
「はい。現在は慶国に。女史(じょし)を勤めております」
女史(じょし)、と月渓(げっけい)は呟(つぶや)く。王宮にあって、王の近辺に仕えて執務(しつむ)の手助けをする、最下級の文官である。
正確には、と青(せい)の声は穏(おだ)やかだった。
「主上(しゅじょう)御自ら女史にお召しあげにはなりましたものの、いまだ慶(けい)の民ではございません。祥瓊(しょうけい)の戸籍(こせき)がまだ芳(ほう)にございますのでしたら、離籍をお許しいただきたく、こうして伺(うかが)った次第です」
祥瓊、という声の親しげな調子に、月渓は青を見る。
「青将軍は、祥瓊さまをご存じか」
はい、と青はにこやかに笑った。
「恥ずかしながら、慶はまだ新王登極(とうきょく)より日も浅く、いまだ内乱が絶えません。その内乱の折、祥瓊には助けてもらいました」
「祥瓊さまが、将軍をか」
「はい。主上におかれましても、その節の功をお認めになって、ぜひとも女史へと。すでに慶の仙籍(せんせき)に入ってはおりますが、貴国や恭(きょう)とのかねあいもあり、戸籍の所在も明らかでないために、官吏(かんり)として正式に登用できずにおります」
月渓は息を吐いた。仲韃(ちゅうたつ)が掌中(しょうちゅう)の珠(たま)のように慈(いつく)しんでいた娘。仲韃によって虐殺(ぎゃくさつ)される民の悲鳴も届かない王宮の深奥(しんおう)で、あらゆるものを与えられ、守られていた。仲韃を討(う)ち取(と)ったのち、仙籍を剥奪(はくだつ)して恵州(けいしゅう)の寒村に預けたが、そこで素性(すじょう)が周囲に知れた。民の仲韃に対する恨(うら)みは深く、公主(こうしゅ)と分かれば報復せずにいられない。仕方なく身柄を保護し、恭へと送り出したのだが、その処遇を怨(うら)んで恭を出奔(しゅっぽん)したと聞いていた。
「恭を逃げ出すにあたり、こともあろうに供王(きょうおう)の御物(ぎょぶつ)を盗んでいったという噂(うわさ)を聞いたが、将軍は本当のところをご存じだろうか」
「……本当のようです。ですから、供王のお許しをいただかねば、正式に官として召しあげるわけにはいかないのです」
「景王(けいおう)は、それをご存じでも、祥瓊さまを朝(ちょう)に迎(むか)えられようとしておられるのか?」
月渓は、祥瓊が逃げ出したと聞いたとき、やはり、と深く落胆した。祥瓊は、自身の置かれた立場、本人が自覚するとしないとにかかわらず、否応(いやおう)なく課せられていた責任を、ついに理解できなかったのだと、そう思った。その祥瓊が、内乱を収めるために手を貸し、その功をもって景王に迎えられる。どうしても、月渓の知る祥瓊と、それが結びつかなかった。
将軍は、そんな月渓の困惑を見透(みす)かしたように笑う。
「人は変わることができるんです――幸いなことに」
そうか、と月渓(げっけい)は答えた。その傍(かたわ)ら、小庸(しょうよう)は依然として書状を差し出している。月渓はそれを受け取ろうとして――やはり思(おも)い留(とど)まった。
「それが、芳(ほう)の主(あるじ)に向けた手紙なら、私が受け取るわけにはいかない」
しかし、と言いかけた小庸を制したのは、青(せい)のほうだった。
「冢宰(ちょうさい)がお納めください。そうするべきだと判断して、私は冢宰にお渡ししたのですから」
はあ、と無念そうにうなずいて、小庸はようやく手を下げた。それを見やり、月渓は将軍を振り返る。
「将軍は、しばらくこちらに滞在なさるのだろうか」
「蒲蘇(ほそ)にはおります。私の用はすみましたが、同行した者たちは別の役目がありますから」
「では、掌客(しょうきゃく)の――」
王宮に部屋を用意させたほうが、と小庸に声をかけようとした月渓を、青は軽く止めた。
「いえ。主上(しゅじょう)から、芳は大事の折なのだから、いささかも国庫に御迷惑をかけることがないようにと、命じられておりますから」
そうか、と月渓は呟(つぶや)いた。だが、非公式のものとはいえ、一国からの使者を王都の舎館(やど)に留め置いたのでは、あまりにも無礼にすぎよう。とはいえ、峯王亡(ほうおうな)きいま、広大な王宮のほとんどは閉めてある。内乱の痕跡(こんせき)を拭(ぬぐ)い、整えたのち、政務に関係のない建物は一度たりとも使用してない。一国の王から遣(つか)わされた使者なら、賓客(ひんきゃく)をもてなす掌客殿(しょうきゃくでん)に迎(むか)えるのが礼儀だが、長く閉め切った建物のこと、至急整えても間に合わない。
「では――失礼でなければ、私個人の賓客として、官邸においで願えないだろうか。そもそも将軍は、私を訪ねてこられた。景王(けいおう)からの親書を私が受け取るわけにはいかないが、このままお帰しするには忍びない。……もっとも、大したおもてなしはできないが」
「ですが……」
ぜひ、と月渓が重ねて言うと、将軍は軽く笑む。
「では、お言葉に甘えて私だけ。随行の者たちは所用もありますので、蒲蘇に滞在することをお許しください」
月渓は、鷹隼宮(ようしゅんきゅう)にやってきたとき滞在するため、燕朝(えんちょう)の一郭(いっかく)に官邸を借り受けていた。雲海にほど近い官邸は、最低限の小さなもので、しかも同行する下官(げかん)は最小限だから、手狭(てぜま)なくせに閑散(かんさん)としていた。
「殺風景なところで申し訳ないが」
夕暮れの中、案内した青(せい)にそう言ったが、これは謙遜(けんそん)などではなかった。大門から花庁(かちょう)まで、通り抜けたあたりには備えつけの家具があるだけで、書画の一幅もない。使いをやって客人のあることを告げておいたので、さすがに花庁には花などを生け、灯火を点(とも)し、酒杯や茶器を揃えてあったが、寒々としたありさまは嫌(いや)でも目に入っただろう。
「冢宰(ちょうさい)から、恵侯(けいこう)はこちらを引き払われるとお聞きしましたが、もう準備をなさっているのですか?」
園林(ていえん)に面する露台(ろだい)に席を勧(すす)めながら、ええ、と月渓(げっけい)はうなずいた。
「もともと仮住まいですから、あまり私物を持ちこんではいなかったのですが」
「恵州(けいしゅう)とこちらを往復なさっていたとか。ずいぶんと大変だったのでは」
いえ、と月渓は苦笑しながら茶を淹(い)れる。露台には潮の匂(にお)いを含んだ夕風が立っていた。薄藍(うすあい)に染まった空に、花庁の甍宇(やね)を掠(かす)めて丸く月が昇ろうとしている。
「騎獣(きじゅう)を使って雲海の上を越えてくれば、さほどの距離ではありません。留守(るす)を守る州宰(しゅうさい)や州六官のほうが大変でしたでしょう」
「……それでも、国を統(す)べる気にはなれなかったのですね」
茶杯(ゆ の み)に湯を注ぐ手が止まった。
「当然です。天命を踏みにじった者が、天命によって下される座に就(つ)けようはずがない」
「それを仰(おっしゃ)るのなら、現在、芳(ほう)を治めておられる方々も同様なのでは。恵侯(けいこう)が位を拒(こば)んで朝(ちょう)をお去りになるのなら、冢宰(ちょうさい)をはじめとする方々も朝を立ち去らねばなりません。しかしながら、それでは国が成り立ちませんでしょう」
言った青(せい)に、月渓(げっけい)は苦く笑む。
「将軍も私に簒奪者(さんだつしゃ)になれと仰る?」
「簒奪と言えばそうなのかもしれませんが。……本当に出すぎたことだとは思うんですが、冢宰がお困りのようだったので。冢宰は、自分では国を束ねられない、と仰っておられましたが、そう考えられるのも無理はないという気がしました。確かに恵侯が罪を理由に朝を退(しりぞ)けば、残った官は罪を省みない不逞(ふてい)の輩(やから)ということになってしまいます。同じ罪を抱(かか)える官はともかく、それでは民が納得しませんでしょう」
そうか、と苦笑しながら、月渓は茶杯(ゆ の み)を差し出した。
「そういうふうに考えたことはなかったが、そうなのかもしれません。だからといって、官が大挙して朝を去るわけにはいかない。――だからこそ、首魁(しゅかい)の私がすべての罪を引き受ける。そもそも首魁というものは、そういうものでしょう」
「……そうですが」
青は呟(つぶや)いて、軽く首をかしげた。
「恵侯のお言葉はもっともですが――でも、どうも得心がいかないな。そう、そもそも大逆(たいぎゃく)だから罪だ、という仰(おっしゃ)りように違和感があります」
「大逆は罪でない? 将軍はそれを景王(けいおう)に対しても言えましょうか」
とんでもない、と青は手を振る。
「罪でないとは言いませんが。ただ、先の峯王(ほうおう)は……」
月渓はうなずく。
「主上(しゅじょう)は確かに多くの民を法に背(そむ)いたとして虐殺(ぎゃくさつ)なさった。どんな些細(ささい)な罪にも残虐(ざんぎゃく)な刑罰(けいばつ)が科せられ、最終的には死を賜(たまわ)る。事情は一切、考慮されない。罪を割り引かれるということは、およそなかった。……だが、一方に罪があるからといって、それを殺してよいということにはなりますまい」
「それは、そうなのですが」
「主上は――理想に対して頑(かたく)なな方だったのです。自らは生命を賭(と)しても正義に忠実であろうとしたから、民にもそれを求めた。どんなに些細でも、罪を犯した以上、生命を奪われる覚悟があって当然だと、頭から思いこんでおられたように思う……」
言って月渓(げっけい)は切なく笑う。
「私は主上(しゅじょう)が登極(とうきょく)なさる前から官の末席におりましたが、空位の当時、腐敗しきった朝(ちょう)の中にあって、あの方だけは眩(まぶ)しいほど潔白であられた。目の前に剣を突きつけられても、罪に与(くみ)するぐらいなら死を選ぶ――そういう方で」
「それは……すごいですね」
「あの方の信を得る、ということは、罪がない、ということと同義だった。心ある者にとって、あの方の信を得る以上の誉(ほま)れはなかった――」
その仲韃(ちゅうたつ)が登極(とうきょく)したとき、仲韃を尊崇(そんすう)する者たちは快哉(かいさい)を上げた。仲韃は正義によって整えられた世を目指した。天道(てんどう)に即した法によって国に枷(かせ)を填(は)めることで、天道に即した国を造ろうとした。
「一分(いちぶ)の汚(けが)れもない国を造ろうとなさった。些細(ささい)な汚れも許されなかった――そして悲しむべきことに、主上が念頭に置いておられた正義とは、形のことだったのです」
「……形、ですか」
「ええ。主上がそういう方であったにもかかわらず、邪(よこしま)な官もおりました。主上は例えば、その者が自分に対して見せる態度、聞かせる言葉が正義に適(かな)っていれば、それでその者は潔白だと思いこんでしまうところがおありだった。自身が表も裏もなく潔白な方だったので、表が潔白ならば裏もそうに違いない、と思いこんでしまわれるような人の好(よ)いところがおありだったのです」
その最たるものが、仲韃の妻――王后(おうこう)の佳花(かか)だろう。仲韃に見せる顔は何の汚(けが)れもなく美しかったが、その内実はどす黒かった。
「主上は芳(ほう)を白く整然とした国に整えようとなさったし、次第にいっかな汚れの消えない世に苛立(いらだ)つようになられた。法は過酷(かこく)になり、罰(ばつ)は苛烈(かれつ)になった。特に台輔(たいほ)が不調になられてからは、国を立て直そうと本当に躍起(やっき)になられた」
「法と罰によって立て直そうと――?」
そうです、とうなずいて、月渓は苦く笑う。
「それでも主上は最後まで、失道(しつどう)によって自身が位を失うこと、生命を失うことには拘(こだわ)っておられなかった。そういう意味では、自身の信じる正義に私心なく忠実な方だった」
だが――国土は死が席巻(せっけん)した。なまじ仲韃に保身を図(はか)る気がなく、正義に殉(じゅん)ずる覚悟だったことが事態をいっそう悪化させた。すさまじいばかりの虐殺(ぎゃくさつ)が起こった。
「このままでは、芳の民は死に絶えてしまうように思われた。誇張ではなく、この勢いで事態が悪化すれば、民のほとんどが殺される勘定(かんじょう)になる、というありさまだったのです。誰かがそれを止めねばならなかった――」
だから、玉座(ぎょくざ)を望んだわけではない。仲韃(ちゅうたつ)に成り代わりたいと思ったことは、月渓(げっけい)自身、ただの一度もなかった。ああするしか、仲韃を止める方法がなかった、それだけだ。
「……主上(しゅじょう)を――最悪の方法で――お止めした以上、自分の役目は終わったように思う。本来ならば、大逆(たいぎゃく)の罪人として裁かれる――あるいは、仙籍(せんせき)を返上するのが筋(すじ)だろうが、私がそれをすれば将軍の言われたとおり、荷担した者のすべてもそれに倣(なら)わなければならない。だから、せめて州城に退去する。それがそんなに変でしょうか」
月渓がそう言うと、慶(けい)の将軍はまじまじと月渓を見る。
「……何か?」
「いえ。峯王(ほうおう)のことは冢宰(ちょうさい)からもお聞きしたのですが、なんだか少しばかり、受ける印象が違うな、と思って」
「違う?」
「ええ。冢宰からお聞きしたときには、なんて酷(ひど)い王だろうという気しか、しなかったのですが。恵侯(けいこう)が仰(おっしゃ)るのを伺(うかが)っていると、そうとばかりも言えないような」
言って、青(せい)はひとり納得したようにうなずいた。
「――そう、恵侯は峯王を悪だと言い捨てるような仰りようをなさらない。それだけ罪悪感を感じておられるからなのですか?」
「それは……もちろん」
答えながらも、意外なことを言われた、という気が月渓にはした。罪を犯したという自覚はあるが、それは「罪悪感」という言葉とは、どこかそぐわないような気がした。だが、否定すれば自分でも、どこかしら嘘(うそ)があるような気がする。戸惑(とまど)っていると、青はしみじみとした声を漏(も)らした。
「大逆(たいぎゃく)という行為は、それほど重いものなんですね……」
言って、軽く笑む。
「私は何しろ根が単純にできていますから、民のためだと言えばそれでいいような気がしてしまうんです。民を虐(しいた)げるだけの王など討(う)ってしまえばいい。王は民を助けるためにいるわけでしょう。私たち兵卒(へいそつ)が戦うためにいるように。戦う能力を失った兵卒は軍を辞(や)める。本人に辞める気がなければ辞めさせる――そういうものです。王もそれと一緒だろうという気がしてしまうんです。もっとも王の場合は、自ら辞めるわけにはいかないのですが」
「私は小心者なのです」
「そういう意味ではありません。――私は、もともと慶国(けいこく)麦州(ばくしゅう)の出身でして。実は私は半獣(はんじゅう)なのですけどね」
月渓(げっけい)は唐突な告白に瞬(またた)いた。
「将軍が――?」
「はい。慶(けい)では、先王の時代、半獣は官吏(かんり)になれなかったんです。もちろん将軍になど、なれません。兵卒として軍に入ることはできますが、位を得ることはできなかったんです。ただ、私は麦州師(ばくしゅうし)の将軍に任じられておりましたが」
「位を得ることができないのに?」
「麦侯(ばくこう)が、かまわないと言ってくださったんですよ。先王はなにぶんにも政治向きには興味をお持ちでなかったし、国府の役人は私腹を肥(こ)やすのに忙しい。諸州にまで目が及ぶことはあるまい、だからかまうものか、と」
言って青(せい)は笑う。
「ちょっと戸籍を弄(いじ)って、半獣という記載のところだけ破っておけばいい、どうせ調べはしないだろう、と言うんです。国府に目をつけられたら、知らぬ存ぜぬ人違いだ勘違(かんちが)いだで通すだけ、それでのっぴきならなくなったら小金を握(にぎ)らせればすむことだから、と」
「しかし……それは」
「はい。堂々の法令無視で。確信犯ですからね、質(たち)が悪い。まったく、なんて人だと思っていたんですけどね、ただ――その麦侯でさえ、先王を討(う)つことは嫌(いや)がりました。それだけはできない、と言うんです」
青は表情を硬くした。
「……迷っておられたとは思う。特に、先王が女を国から追放せよと仰(おっしゃ)って。それでもみんな、なんとか国に留(とど)まろうとするわけですけど、それを見つけたら捕(つか)まえて殺せという話になったときには、本当に迷っておられるようだった。――麦州(ばくしゅう)は青海(せいかい)に面していましてね、国を出ようという女たちが港に集まっていました。もちろん、誰ひとり本当に国を出たかったわけではありません。残れば殺されることになるから、仕方なく国の外を目指していた。それを麦侯が憐(あわ)れまれて、船が出ないとか、船の数が足りないとか適当なことを言って、みんな国から出る意思はあるのだけど出られない、船に乗る順番を待っているだけなんだ、という体裁(ていさい)を作ったわけです。そういう体裁にして港町で保護した。なんとかそれで通ったからよかったですけど、そこにまで手出しされたら、さすがに麦侯も決断せざるを得なかったかもしれないです」
言ってから、青は自身でも自らの言に違和感を覚えたかのように首を傾けた。
「いや……そうなったら考えねばならない、とは言っておられたけど、必ず討(う)つと仰ったことは一度もなかったな。そうですね、今から考えると、保護した女たちを殺されて、それで本当に麦侯(ばっこう)が決断なさったかどうかは疑問です。恵侯(けいこう)のお話を伺(うかが)っていると、ひょっとしたらそれだけはなさらなかったのじゃないかという気がします」
「……そうか」
「そのときにも思ったんです。弑逆(しいぎゃく)というのは、そんなに重いことなのか、と。麦侯には、民を救う意思がおありでした。けれども自分が玉座(ぎょくざ)に就(つ)こう、王になろうなどというお考えはなかった。欲がないとできないことなのか、と思ったのを覚えています」
言って青(せい)は、月渓(げっけい)に笑(え)む。
「……なのに恵侯は、決断なさったんですね」
月渓は返答すべき言葉を失った。
「私はきっと、麦侯に討(う)てと言われれば、あっさり先王を討ちにいったでしょう。――そうですね、それでも確かに、麦侯の命(めい)を待たず独断で討ちにいこうとは思えませんでした。民が可哀想(かわいそう)だ、討ってしまえ、とは思っていましたが、麦侯が討つべきなのだと思いこんでいましたから。だから下命さえあれば、迷わず従ったと思います。そして、討ったあともそれを罪だと感じたり、自分を責めたりはしなかったでしょうね。それは、命じた麦侯が罪を負ってくれるから、というばかりではなく、私は麦侯や恵侯ほど利口でないから、罪の重さが分からないからなんです、たぶん」
「そういうことでは……」
青は首を横に振る。
「そういうことなんです。――そして、そのほうが罪は重い。そういう気がします。よく、そんなつもりじゃなかった、とか、そんな大事だとは思わなかった、と私たちは言うわけですけど、罪の重さを知らずにいること自体、それがひとつの罪なんじゃないかな。罪の重さを分からないで罪を犯すことは、二重の罪悪なのかもしれません。その重さを充分に分かっておられて、それでもなお決断なさったからには、よほどの思いがおありだったんでしょう」
言って青は、率直な好意のこもった眼差(まなざ)しを月渓に向けた。
「それだけ民のことを思われたのでしょう? ならば、そういう方こそ、玉座(ぎょくざ)に座るべきだ」
月渓は思わず席を蹴(け)って立ち上がっていた。
「それは……違う」
「違う?」
「これはそんな美談にすべきことではない。私は天命ある王を討(う)った。台輔(たいほ)が御不調であったとはいえ、主上(しゅじょう)のありようからして天命を取り戻す望みが少なかったとはいえ、その可能性は皆無ではなかった。なのに私は、結果も見ずに為(ため)にならぬと断じて、主上(しゅじょう)を弑(しい)した」
青(せい)は困ったように月渓(げっけい)を見上げている。
「これは単なる大逆(たいぎゃく)であって、褒(ほ)められるようなことではない。諸官も将軍も――供王(きょうおう)までもが、私に玉座(ぎょくざ)に就(つ)けと言うが、あれに座れば私は本当にあの方から位を盗むことになってしまう。位がほしかったわけではない、望んで討(う)ったわけではない。ほかに術(すべ)が――」
月渓はふっと言葉に詰まった。自分でも、激するままに吐いた言葉の、どこかが捻(ねじ)れている、という気がした。
青は動じる様子もなく首を傾けた。