饭饭TXT > 海外名作 > 《十二国记(日文版)》作者:[日]小野不由美【完结】 > 7-華胥の幽夢.txt

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作者:日-小野不由美 当前章节:15061 字 更新时间:2026-6-16 01:01

「恵侯(けいこう)のなされたことは、単なる大逆なのですか? それとも、ほかに術がなかったから行なった仕方のないことだったのですか?」

まったくだ、と月渓は座りながら顔を覆(おお)った。

「申し訳ない……取り乱したようだ」

いえ、と柔らかく言った青は、しばしを措(お)いて、そうか、と呟(つぶや)く。顔を上げた月渓に、彼は痛ましいものを見るような視線を投げかけた。

「恵侯は、峯王(ほうおう)を敬愛しておられたのですね」

今から思えば――と月渓は四年前を振り返る。彼は、仲韃(ちゅうたつ)の転落を、あれ以上見ていたくなかったのだ。なぜそんな、自らに泥(どろ)を塗(ぬ)るようなことをする、自らを玉座(ぎょくざ)と誉(ほま)れから追い落とすようなまねをするのだ、と叫びたかった。

仲韃が民を虐(しいた)げていることは動かしがたい事実だった。法は過酷(かこく)すぎ、罰(ばつ)は残虐(ざんぎゃく)にすぎた。このままではいずれ天命を失うのではないか――月渓はそれを危惧(きぐ)せざるを得なかったし、事実、台輔(たいほ)は病んだ。かなうことなら仲韃に道を改めて欲しかったが、仲韃はさらに法と罰を重くした。

「このままでは、芳(ほう)の民は死に絶えてしまうと思った……」

露台(ろだい)の先、小さな園林(ていえん)の向こうには雲海が月光に輝いている。その下――はるか下界には芳の国土が広がっている。そこにはかつて、無数の骸(むくろ)が敷(し)きつめられ、花の香の代わりに死臭が、風音の代わりに挽歌(ばんか)が満ちていた。

なんという無慈悲(むじひ)な王だ、と憤(いきどお)ったことは偽(いつわ)りのない事実だった。積み重ねられていく民の骸に、月渓(げっけい)は怒った。その行為には憎悪(ぞうお)すら感じていたが――そう、確かに月渓は、仲韃自身を憎(にく)むことができなかったのだ。依然として、月渓にとって仲韃は、清廉潔白の官吏(かんり)だった。腐敗(ふはい)を極めた王朝の中で、決然として清(きよ)かった孤高の存在。

「……私はたぶん、主上(しゅじょう)にかつてのような存在に戻ってほしかったのだと思う。それが私の期待だったが、主上はそれを裏切り続けた。いっそ、あの方が権に驕(おご)り、腐敗してくださればよかったのに、と思うことがある。そうすれば、もはや主上に期待を抱くこともなかっただろう。だが、あの方は無欲で無私であることにかけては、些(いささ)かの変わりもなかった……」

「だから、恵侯(けいこう)にとって大逆(たいぎゃく)は、ほかに術のない大罪だったんですね」

青(せい)の言葉に、月渓(げっけい)はうなずく。

「民のために、というのは、たぶん私にとって言い訳にすぎないのだと思う。決意をさせたのは、憎(にく)みたくない相手を憎まねばならない苦しみだったように思う。義憤(ぎふん)ではない。私怨(しえん)だ。だから、これは単なる罪であって、どんな美名に守られる値打ちもない……」

「けれども、そこまで峯王(ほうおう)を憎まずにいられなかったのは、民を哀れめばこそではないのですか? 民が哀れで、憎まざるを得ない――そういうことだったのでは」

月渓は首を横に振った。

「それは違うと思う。……いや、まったく民のことが念頭になかったのではないが。罪と呼べないほどの罪で刑場に引き出されていく民を見るのは辛(つら)かった。だが、もっと応(こた)えたのは、引き出されていく民、その親しい者たちが主上を怨(うら)むことだった。彼らの怨みはあまりにも当然のもので、それがいたたまれないほど辛かった……」

「峯王(ほうおう)が憎(にく)まれることが苦しかった?」

「そう――だから、私は民や官が信じてくれるほど、民の味方などではない」

「でもそれは、民のために、ということと同義なのではないのですか?」

青の言に、月渓は虚(きょ)を衝(つ)かれた。

「だって、恵侯は峯王に、民に良くしてやってほしかったのでしょう? 慈悲(じひ)をもって賢治(けんち)を恵み、民は幸福になり、満たされた民は峯王を慕(した)う。それを望んでおられた」

「……それは、そうだが」

「民と一緒に峯王を褒(ほ)め称(たた)えたかったのではないのですか。つまりは、それだけ恵侯は民の側におられた。民の安寧(あんねい)が自身の安寧であり、民の幸福が自身の幸福だった、ということでしょう。恵侯にとって良い王とは、民のためになる王だった。峯王にそうあってほしかったということなのでは?」

青は言って、言葉を失った月渓に微笑(ほほえ)む。

「では、それは民のため、と同義です」

月渓はしばらく返答に困り、そして俯(うつむ)いた。

「……だが、私が御位(みくらい)に就(つ)けば、主上(しゅじょう)から位を盗むことになってしまう」

仲韃(ちゅうたつ)を諫(いさ)めることができなかった。為(な)す術(すべ)もなく主(あるじ)に道を踏み誤らせ、ついにそれを正すことができずに私怨(しえん)から討(う)った。このうえさらに、主のものを――彼の唯一にして最大のものを盗むのか。

「文字どおりの簒奪(さんだつ)だ。もはや、どんな言い訳も許されない……」

「言い訳? 誰に対する言い訳なのですか?」

青(せい)に問われ、月渓(げっけい)は言葉に詰まった。

「私には、恵侯(けいこう)が言い訳すべき相手を間違えてらっしゃるように見えます」

言ってから、青は慌(あわ)てたように身を竦(すく)めた。

「失礼を。――出すぎたことばかり言っていますね」

いや、と月渓は首を振る。軽く額(ひたい)を押さえた。

「将軍の仰(おっしゃ)ることは正しい。そう――確かに私は、主上に対して言い訳をしたいのだ。決して悪心(あくしん)で討(う)ったのではない、と。憎(にく)かったのでも軽んじたのでも、ましてや位を盗もうと思ったわけでもない、と詫びたい。だが、確かにそれは相手を違(たが)えているのだろう……」

言い訳をするなら、天に対して、民に対してであるべきなのかもしれない。天意を踏みにじったこと、その咎(とが)によって芳(ほう)から天の恩寵(おんちょう)を奪ったことを詫(わ)びるべきだとは思う。――頭ではそう理解できるのだが。

「どれほど詫び、言い訳をしたところで、主上は私をお許しにはなるまい。それが分かっていても、私はせめて自分に対して申し開きがしたい。そう――言い訳とは、自分自身に対してするものなのかもしれない。このうえ位を盗めば、その言い訳のしようすらなくなる。祥瓊(しょうけい)さまとて、決してお許しにはなるまい」

むしろ公主(こうしゅ)は、嗤(わら)うだろう。かつて祥瓊は、月渓に対し、簒奪者(さんだつしゃ)だ、と言い放った。王を妬(ねた)み、王のものを盗もうとしたと断じた。やはり、と言うだろう。やはりそういうことだったのではないか、と。

青は不思議そうに首を傾げる。

「祥瓊が許さない? なぜです?」

「当然だろう?」

「祥瓊が恵侯を許すか否(いな)か、それが意味のあることとも思えませんが、恵侯が気になると仰(おっしゃ)るのなら、私が恵侯を訪ねてきたことを思い出していただきたいのですが。祥瓊は恵侯が芳(ほう)の国主だと言っていました。自分が芳にいた時分には、仮王(かおう)として立たれたわけではなかったけれども、今頃は御位(みくらい)にお就(つ)きだろう、と。だからこそ主上は、恵侯に当てて親書を認(したた)められたのです。恵侯(けいこう)がおられる以上、芳が荒れ果てているということもあるまいと、そう祥瓊(しょうけい)が言ったから、相手をしてくださる余裕がおありだろうと言って私を芳(ほう)に遣(つか)わされた」

月渓(げっけい)は驚いて青(せい)を凝視(ぎょうし)する。

「だからこそ、芳を見てこい、と主上(しゅじょう)は仰(おっしゃ)ったのです。恵侯が芳を支えるために何をなさっているか学ぶために見聞してくるように、と」

言葉もない月渓に青は微笑(ほほえ)む。

「恵侯が、崇敬する峯王(ほうおう)を討(う)った御自分をとても厭(いと)うておられることは、よく分かります。確かに罪は罪なのでしょう。ですが、罪を遠ざけるのも道、罪を悔(く)いて正(ただ)すことも道でございましょう」

言って、青は園林(ていえん)の上に朧(おぼろ)に昇った月を仰(あお)いだ。

「陽(ひ)が落ち、深い闇(やみ)が道を塞(ふさ)いでも、月が昇って照らしてくれるものです」

暈(かさ)をまとった月の光は淡(あわ)い。どこか冷たく陰鬱(いんうつ)な色を帯びていて、真昼の陽光とは比べるべくもなかった。だが――確かに、たとえこれだけの明かりであっても、夜道を往(い)く者の助けにはなる。

視野の端(はし)で、そうだ、と青が声を上げた。

「月陰(げついん)の朝(ちょう)というのはどうでしょう」

意味を取りかねて瞬(またた)く月渓に、青は笑う。

「仮朝(かちょう)と偽朝(ぎちょう)と、二つしか呼び名がないのは不便です。王が玉座(ぎょくざ)にある朝を日陽(にちよう)の朝だとすれば、王のいない朝は月陰の朝じゃないかな。月に乗じて暁(あかつき)を待つ――」

なるほど、と月渓は微(かす)かに笑った。

渓谷には、静かに靄(もや)が流れている。雲烟(うんえん)から顔を出した大小の峰、切れ切れに覗(のぞ)いた渓流は流れ下って小さな亭(あずまや)に辿(たど)り着(つ)き、そこで淵(ふち)を造る。

月渓は、ひとり書房(しょさい)の書卓(つ く え)に向かい、箱の中から現れたその景観に見入る。

両掌(りょうてのひら)に載(の)るほどの硯(すずり)だった。石は舜国(しゅんこく)に名高い彰明(しょうめい)の産、翠(みどり)を帯びたその石には、靄を思わせる斑紋(はんもん)が流れている。縁に彫(ほ)りこまれた雲烟に沈む渓谷、佇(たたず)む小亭、小亭が覗きこむ淵――墨池(ぼくち)の底には月が沈んでいる。墨(すみ)を擦(す)る墨堂(ぼくどう)にも斑紋が描く靄が漂(ただよ)う。その裏側――硯背(けんぱい)には功を褒(ほ)める詩(ことば)が彫ってあったが、それもろとも、硯はまっぷたつに割れていた。

月渓(げっけい)は硯(すずり)を裂(さ)いた亀裂(きれつ)を見つめる。耳には、それを割ったときの切ないまでに美しい音色が残っていた。

この硯は峯王(ほうおう)仲韃(ちゅうたつ)から贈られた。月渓が恵州侯(けいしゅうこう)に任ぜられた折に賜(たまわ)ったものだった。十数年後、その恵州で月渓は硯を割った。割れば硯は、もはや用をなさず、こうして破片を取っておいたところで、その見栄(みば)えまでが損(そこ)なわれる。失われてしまうに等しく、それを取り戻す術(すべ)は存在しない。それを承知で割ったのは、宮城(きゅうじょう)の門前で罪人百名余が処刑されたと、知らせを受けたときだった。ほとんどの罪人が、課役(かえき)を休んだ、農地を離れた――などの怠惰(たいだ)の罪によって裁(さば)かれた。病にあった、親しい者に不幸があったなどの個々の事情は、一切斟酌(しんしゃく)されなかった。罪から遠ざかるためには、まず罪を憎(にく)むことだとして、王都の住人は門前に集められ、罪人たちに石を投げるよう強要された。罪人のすべてが死ぬまで投石を強(し)いられたのだった。罪人の遺体はその場で首を落とされ、そこに曝(さら)されることになった。

それを聞き、月渓は怒りに任せて硯を割った。澄んだ高い音色を聞きながら、月渓は引き返すことのできない道に踏みこむ決意をしたのだった。

挙兵じたいは後悔しない。だが、そうせざるを得なかったことに対する悔(く)いがあった。

そこまで王朝が傾く前に、どうして仲韃を止めることができなかったか。恵州を任されるほどに重用されて、その恩義ある王のために大逆(たいぎゃく)をもってしか報(むく)いることのできなかった己(おのれ)が憎(にく)い。仲韃は間違いなくこの芳国(ほうこく)の王だった。芳の玉座(ぎょくざ)は仲韃のものだ。王が道を失うを止められずに不忠をなし、大義をかざして弑逆(しいぎゃく)をなした自分が、仲韃のものを掠(かす)め盗(と)ることは許されない――そう思ってきた。

弑逆(しいぎゃく)はこれ以上はない大罪、割れた硯(すずり)はその象徴だった。硯が元の形に戻ることがないように、天意を踏みにじった月渓の罪が消えてなくなることもない。民のため、国のためと言い訳をしたところで、それが破壊にすぎず、醜悪(しゅうあく)な罪悪にすぎないことは、硯に残る無惨(むざん)な亀裂(きれつ)を見れば明らかだった。

亀裂に見入っていると、微(かす)かな足音がする。書房(しょさい)の入り口に小庸(しょうよう)が姿を現した。

「……私をお捜しだったとか。府第(やくしょ)から戻ると、官邸に使いがあったということなので」

小庸はそう言いながら、書房の中に踏みこんだ。灯火に照らされた書房からは、私物の一切が取り払われ、片隅(かたすみ)に纏(まと)めあげられている。すでに官邸を引き払う準備をしているのだと、月渓の決意を見た思いで、ひどく憂鬱(ゆううつ)な気分になった。

振り返った書房の主(あるじ)は、静かに笑う。

「それでわざわざ来てくれたのか。すまなかったな」

いえ、と呟(つぶや)いた小庸は、月渓の手の中に目を留めた。

「――それは」

「主上(しゅじょう)から賜(たまわ)ったものだ」

ああ、と小庸(しょうよう)は声を上げた。

「私も天官長(てんかんちょう)に命じられた折に、硯(すずり)をいただきました」

「それは、――いまは?」

月渓(げっけい)に問われ、小庸は複雑な気分で笑う。

「ございますよ。何度も捨ててしまおうと思ったのですが、できなかったのです」

私もだ、と月渓は答え、硯を納めた箱に蓋(ふた)をし、丁寧(ていねい)に書卓(つ く え)に載(の)せた。

「主上が臣下に何かを下されるときは、必ず文房四宝(ぶんぼうしほう)のどれかだったな」

「左様でございましたね……」

思い返すと、奇妙に懐(なつ)かしかった。思わずしんみりとしてしまった小庸を見やり、月渓は酒杯を引き寄せた。

「――小庸、付き合わないか?」

「何か御用だったのでは」

これが用だ、と月渓は言って小庸に酒杯を差し出す。

「では、ありがたくいただきますが――青(せい)将軍は?」

「お休みになられた。ひとしきり話をしたあと、疲れたので休ませてもらいたい、と言って夕餉(ゆうげ)も召しあがらず臥室(しんしつ)に退(さが)られた。……とんだ気遣(きづか)いをさせてしまったようだ」

小庸は首をかしげる。青が早々に寝たことと、「気遣い」の関係がよく分からなかった。怪訝(けげん)に思った小庸に気づいてか気づかずにか、月渓は穏(おだ)やかな貌(かお)で手にした酒杯を見つめた。

「主上は御酒(ごしゅ)を嗜(たしな)まれることもなかったし、高価な御物(ぎょぶつ)を集められることもなかった。我々に何かを下されるときにも、玉や金銀などであることは、まずなかったな」

「……そうですね。彰明産(しょうめいさん)の硯(すずり)は、玉に比べ、決して安いということはないのですが」

答えて、小庸は微(かす)かに笑った。

「そう、禁軍の将軍が、やはり硯をいただいて呆(あき)れていたことがあります。特に将軍は、彰明産の硯がいかほどの値かご存じなかったので。ご存じであっても、武官に高価な硯では、いっそう呆れただけのことかもしれませんが」

まったくだ、と笑い含みに言いながら、月渓は小庸の杯に酒を注ぐ。

「……硯や墨(すみ)だけでなく、高価な筆や紙をいただいたこともあったな。主上が贅沢(ぜいたく)をなされるのは、文具と書物ぐらいで、身を飾ることにも身辺を飾ることにも興味がおありでなかったから。……后妃(こうひ)はそうではなかったようだが」

そうですね、と小庸(しょうよう)は頷(うなず)く。仲韃(ちゅうたつ)が華美を嫌ったので、王后(おうこう)の佳花(かか)も質素なふうを装(よそお)ってはいた。だが、佳花の身につけていたものは、なまじの品よりもはるかに高価だった。

「主上(しゅじょう)は、后妃(こうひ)が召しておられるものがいかほどのものか、ご存じなかったでしょう。そうでなければ后妃こそが、真っ先にお叱(しか)りをいただいたところです。華美でないから質素にしておられるのだろうと、そう思っておられたのでしょうね」

月渓(げっけい)はうなずく。

「主上はそういう人の好(よ)いところがおありだった……」

小庸は怪訝(けげん)に思って月渓を見た。月渓は仲韃を懐(なつ)かしんでいるように見える。――そう、惜(お)しんでいるように。訝(いぶか)しむ小庸に気づいたのか、月渓は視線を上げてふっと笑んだ。

「小庸にとっては、主上はいまや憎(にく)いだけの王か?」

小庸は胸を衝(つ)かれた。唐突に、かつて――仲韃が登極(とうきょく)したばかりの頃が思い出された。

「私はいまも、主上御自身を憎いとは思えない……。兵を挙(あ)げたこと、それじたいは後悔しないが、そうするしかなかったことが悔しい」

「……私もそう思います。実を言えば、いまもとても無念です」

「お前もか?」

「強(し)いて考えないようには、しておりますが。主上のお顔を思い出すと、いたたまれないのです。そういうときに思い出すのは、良いときのことばかりなので……」

懐(なつ)かしく思うし、いまだに慕(した)わしくも思う。だからこそ、仲韃から下された硯(すずり)を捨てることはできなかった。何度も怒りに任せ、捨ててしまおうと思ったが。

小庸が正直にそう言うと、月渓は自嘲(じちょう)するように笑う。

「妙なものだな。……私は、后妃を主上ほどには憎(にく)いと思わなかった。后妃が讒言(ざんげん)で、ありもしない罪を捏造(ねつぞう)していたことは知っていたが、許せぬ、と思ったことはない。悪辣(あくらつ)であったという意味では、后妃のほうが数倍、悪辣だったと思う。だが、主上が無慈悲(むじひ)をなされるほどには腹が立たなかった」

「そうですか? 私は許せない、というふうに思っておりましたが。后妃は主上に罪を唆(そそのか)しておられた。それを腹立たしく思いましたよ。実を言えば、恵侯(けいこう)が公主(こうしゅ)を恵州(けいしゅう)に迎えられたのも、手緩(てぬる)いと思っておりました。後宮(こうきゅう)の深部で外界と切り離されていた公主に積極的な罪はない、と仰(おっしゃ)る恵侯のお言葉には納得しましたが、心情としては憎(にく)く思っておりましたから。それはたぶん、なぜ主上を止めてくださらなかったのか、という――八つ当たりのようなものだったのでしょうが」

「……八つ当たりか」

「だと思います。――そうですね、私も主上(しゅじょう)をお止めしたかった。良い王になっていただきたかったのです。ですが、主上は自らを汚すようなまねばかりをなさった。お止めしたかったが、私にはそれができませんでした。罰が重すぎるのでは、罪を論(あげつら)いすぎるのでは、と申しあげれば、私がすべての罪を許すかのようにお受け取りになる。邪悪に堕(だ)したと仰(おっしゃ)るのです」

「私もそう言われたことがあるな……」

小庸(しょうよう)はうなずく。ついさっき、懐(なつ)かしく思い出されたことが嘘(うそ)のように、苦いものが胸の中にこみあげてきた。

「心ある官だと目をかけていたお前さえそうなら、民の堕落(だらく)はそれ以上だろうと仰って、余計に法を厳しくなされるのです。諫言(かんげん)は、すればするだけ事態を悪化させるだけのことのように思えました。私にはとても、それ以上、お諫(いさ)めすることができなかった。ですから、私以外の誰かがそれをしてくれないだろうか、と祈らずにはいられなかったのです」

「だから、八つ当たりか。――后妃(こうひ)と公主(こうしゅ)にそれを期待した」

ええ、と小庸はうなずいた。

「実際のところ、后妃や公主が諫言なさっても、結果は変わらなかったのでしょうし、身近なお方であるだけに、いっそう悪い結果になる可能性もございました。きっとそうなったのでしょう、台輔(たいほ)が主上を諫(いさ)めれば、諫めるだけ法は過酷(かこく)になりました。台輔の失道(しつどう)は、最大の諫言(かんげん)だとも申せましょう。しかしながら、台輔の失道さえ、主上をお止めすることはできませんでした」

「そうだったな……」

「八つ当たりだと分かっておりましたが、私は后妃や公主をお恨(うら)み申しあげましたよ。そうですね――ですが、確かに憎(にく)むことが苦しくはなかった。主上を憎むことは、このうえない苦痛でした。苦痛のあまり、なぜ私にこんな思いをさせる、といっそう憎く思いました。主上が民に慈悲(じひ)を施(ほどこ)してさえくだされば、憎まずにすむのに、と。より強い憎しみがより深い苦痛を招く。その苦痛がまた憎悪(ぞうお)になるというふうで。……そうですね、確かにそれに比べれば、后妃や公主に対する憎しみなど、どれほどのことでもございませんでした」

「まったくだ……」

月渓(げっけい)の声は、どこか痛々しい響きをしていた。その声音(こわね)に、小庸はようやく、月渓が頑(かたく)なに国権を拒(こば)もうとするのがなぜなのかを理解した。

「……恵侯(けいこう)は、とてもお辛(つら)かったのですね」

仲韃(ちゅうたつ)を討(う)たねばならなかったこと、討ってしまったこと。だからこのうえ、仲韃のものを盗み、さらなる不忠を重ねることができない。

「恵侯(けいこう)のお気持ちが、いまになって少しだけ分かったような気がします。――ですが、どうか私たちの気持ちも御理解ください。私たちにとって、恵侯は決して止められない主上(しゅじょう)を止めてくださった唯一(ゆいいつ)の方です。諸官(しょかん)にとっても民にとっても、果てしない苦痛を終わらせてくれ、救ってくださった方なのです。恵侯が恵州(けいしゅう)にお戻りになってしまうと聞いて、諸官は嘆き悲しんでおります。泣きながら――怒る」

月渓(げっけい)は息を呑(の)んだようにして小庸(しょうよう)を見た。

「お願いですから、私たちに同じ苦しみをお与えにならないでください」

言って立ち上がり、小庸は懐(ふところ)から二通の書状を取り出した。

「どうか、これを」

「……小庸」

「私はすでに拝読いたしました。青(せい)将軍は、私が受け取り、そのあとで恵侯にお渡ししてもかまわない、と仰(おっしゃ)ってくださっています。どうか取ってお読みください。これは私がいただいて良いものではありません。恵侯のお手にこそ、渡るべきものです」

どうか、と重ねて言って、小庸はそれを書卓(つ く え)の上、蓋(ふた)を閉ざした箱の横合いに載(の)せた。身動きできない月渓を残し、小庸は一礼すると書房(しょさい)を出ていった。

二つの書状と取り残され、長く迷ったすえに、月渓はそれを開いた。

景王(けいおう)からは、簡単な前置きのあと、祥瓊(しょうけい)の現状を説明したうえで、祥瓊からの手紙を受け取り、読んでやってほしい、思うところもあるだろうが、遺恨(いこん)を捨てて配慮をしてもらえると嬉(うれ)しい、とあった。慶(けい)もまだ波乱の中、芳(ほう)のために割(さ)く余剰(よじょう)の国力を持たないが、心から芳の安逸(あんいつ)を願っている、と。

――一国の統治は、天命の後(うし)ろ盾(だて)があっても困難が多く、国土と戸籍(こせき)を預かる不安は、いかにしても去らない。ましてや王のいない国土と戸籍を預かる困苦はどれほどだろう。若輩(じゃくはい)の自分にはかける言葉もなく、有益な助力もできないが、慶の微力でもなにがしかの役に立つことがあれば、使者に申しつけてもらいたい。

「……労(ねぎら)ってくださるのか……」

責める口調ではない。皮肉でもなかった。真摯(しんし)な書簡は、どこかしら月渓に温(あたた)かかった。御名はそこだけ筆跡が違う。本文は誰かが筆写したのであろう、几帳面(きちょうめん)な達筆で、対する御名はどこかたどたどしい筆致だったが、新王の若さを象徴しているようで好ましかった。

わずかに慰(なぐさ)められた気分で、月渓は次いで、祥瓊からの厚い書簡を開いた。

そこには彼女の悔恨(かいこん)が、あまりにも率直に綴(つづ)られていた。

公主(こうしゅ)としてありながら、父王を諫(いさ)めることのできなかった悔(く)い、それは自身が公主としての責務を心得ていなかった不明によるもの、そのために王が討(う)たれ、父母に対しては不孝をなし、民に対しては無用の嘆(なげ)きを与え、月渓(げっけい)らには大罪に踏みこむ苦痛を与えた。さらにはその咎(とが)によって公主の座を追われ、本来ならば父母に従って鬼籍(きせき)に入るところを月渓に救われたにもかかわらず、その恩を顧(かえり)みず、私怨(しえん)にとらわれ、引き渡された恭国(きょうこく)においても短慮を起こして月渓の温情を無にしたこと、心底、申し訳なく存ずる……。

「そうか……お分かりくだされたか」

――なるほど、人は変わることがあるのだ、慶(けい)の将軍が言ったとおりに。

人を諫めることは難しい。仲韃(ちゅうたつ)への諫言(かんげん)はことごとく無になった。それどころか、そうやって不信を表明することが、いたずらに仲韃を暴虐(ぼうぎゃく)へと追いこんでいきはしなかったか。だが、諫言が無意味だとは思いたくはなかった。諫めるための言葉には、諫める相手への期待と情愛が語るまでもなく含まれている。

手紙にはさらに、恭国を出奔(しゅっぽん)するにあたって罪を犯したこと、これを贖(あがな)うことなく、景王朝(けいおうちょう)の末席を汚すわけにはいかないこと。自分はまず、供王(きょうおう)の許(もと)に罰(ばつ)を受けにいく。そうなれば、自分はどうなるか分からない。対面して述べたいこともあるが、だから書状を託した、と結んであった。この書簡を月渓が手に入れる頃には、堯天(ぎょうてん)を発(た)っているだろう、とも。

「……恭へ」

驚いて呟(つぶや)き、月渓はその書簡を幾度か目で読み、そして立ち上がって書房(しょさい)の外に声をかけた。

「――誰ぞ」

仮にも王宮の中で、王の御物(ぎょぶつ)に手をつけた。それは解釈のしようによっては王の玉体に手をかけたに等しい。単なる窃盗(せっとう)とはわけが違う。王に対する造反だと断じられれば、大逆(たいぎゃく)に匹敵(ひってき)する罪だと判じられることもあり得た。実際にどう判じられるかは、王と秋官(しゅうかん)の気分しだいと言ってもいい。「だから書状を託した」というのは、それを承知してのことだろうが、いくら罪を悔(く)いても、それによって自らを正し景王(けいおう)の信任を得たとしても、終生を牢(ろう)の中に閉じこめられ、懲役(ちょうえき)に費(つい)やすのでは意味がない。

「誰か、これへ」

声を上げると、回廊(かいろう)の向こうから下官(げかん)が駆(か)けつけてきた。官吏(かんり)をひとり呼ぶよう、そう申しつけようとして月渓はわずかに躊躇(ちゅうちょ)した。

――自分は恵州侯(けいしゅうこう)にすぎない。国官に対して命を下す権限など持たない。

そう、自分自身がそれを拒(こば)んだのだ。

月渓(げっけい)はこのとき、改めて自分が拒んだものの大きさに気づいた。その権がなければ、誰のために何をしてやることもできない。どれほど哀れに思っても、救ってやることはできないのだ、と。州侯(しゅうこう)としての自身はある。だが、月渓の権が届くのは恵州(けいしゅう)のみ、ならば月渓の手で救ってやれるのも恵州の民だけ、それも国の方針に逆らいとおすことなどできない。事実、仲韃(ちゅうたつ)の布(し)いた酷法(こくほう)は、恵州においても法だった。月渓の一存で廃することはできず、存在を無視することも許されなかった。可能な限り、罪に当たらずとして処置はしたものの、それでも恵州の民が仲韃の虐殺(ぎゃくさつ)を免(のが)れきったわけではない。ましてや、恵州の外においては、ただの一人も月渓の手で救ってやることはできなかった。

――言い訳をする相手を間違っている。

確かにそうだ。詫(わ)びる相手、気にかける相手を完全に違(たが)えている。

唐突な沈黙を訝(いぶか)しんだのだろう、下官(げかん)は何か、と尋(たず)ねる。

その目を見返し、月渓は小さくうなずいた。

「司会(しかい)をこれに。供王(きょうおう)に親書を差しあげる。草案を用意せよと伝えよ」

はい、と歯切れよく答えて、下官は叩頭(こうとう)する。

月渓は退出する下官の背に呟(つぶや)いた。

「……ぜひとも、祥瓊(しょうけい)さまの減刑を」

月渓はそのまま、園林(ていえん)を抜けて花庁(かちょう)を訪ねた。疲れたから休む、と言っていたはずの客人は、やはり灯を点(とも)して、書面に向かっていた。

「……まだお休みでなかったのか?」

回廊(かいろう)から窓を叩くと、青(せい)は筆を置いて顔を上げ、そして照れたように笑う。

「はあ。……休むつもりだったのですが、妙に目が冴(さ)えてしまって」

言いながら、青(せい)は扉(とびら)を開ける。それに促(うなが)されて花庁(かちょう)に踏みこみ、月渓はおもむろにその使者を跪拝(きはい)した。

「……恵侯(けいこう)?」

「景王(けいおう)からの親書は、確かに拝受いたしました」

言って顔を上げると、青は心得たように笑んで、さらりと居住まいを正す。

「突然まかり越した非礼をお許しいただき、快く親書をお収めくださいましたことを、心より御礼申し上げます」

「祥瓊さまからの便りも確かに。よろしければ、祥瓊さまには返信を差し上げたい。青将軍にお頼みしても、失礼にはあたらないだろうか」

「もちろんでございます」

「もしも御不快に思(おぼ)しめすのでなければ、畏(おそ)れながら景王(けいおう)にも――」

「主上(しゅじょう)はたいそうお喜びになりますでしょう」

月渓(げっけい)は一礼して立ち上がる。改めて青(せい)を見た。

慶(けい)の新王はまだ若い娘だと聞いた。それ以上の噂(うわさ)は伝わってはこないが、使者の品性からは新王の品性が見え、青の言葉の端々からは新王に対する信任が見える。

「青将軍は良い方でいらっしゃる。景王もさぞ良い方であらせられるのだろう」

青はにこりと笑う。

「私はさておき、主上はたいへん良い方ですよ」

そうか、と月渓はうなずいた。

「ときに、将軍はお休みになられないのであれば、御酒(ごしゅ)などいかがだろう。夕餉(ゆうげ)もお摂(と)りにならなかったので、せめて夜食なりとも御用意したいが」

青は破顔する。

「喜んでいただきます」

うなずいて、月渓は下官を呼び、酒肴(しゅこう)を命じる。そうして青を振り返った。

「もしも慶の皆様が、黴(かび)くさい褥(しとね)でもお許しくださるのなら、やはり掌客殿(しょうきゃくでん)にお移り願いたい。なにぶん、四年ほど閉め切っているので居心地が良いとも思えないが」

「いえ、そればかりは」

「他国の賓客(ひんきゃく)をお迎(むか)えすることは、この先、滅多(めった)にないことだと思われる。せめて今回ばかりは、随行の皆様ともども国賓として滞在いただき、冢宰(ちょうさい)以下の六官にもお引き合わせしたい。官も慶の勅使(ちょくし)とお会いできれば励みになろう」

芳(ほう)は王を失(な)くしたゆえに、孤立した王朝だ。慶が朝(ちょう)として認めてくれるというだけで、官はどれほど安らぐだろう。

「……ですが」

「それに、私は住まいを移そうと思う。王宮の北のほうへ」

月渓が言うと、青はちらりと笑ってからうなずいた。

「そういうことでしたら、喜んでお言葉に甘えさせていただきます」

月渓から供王(きょうおう)に送られた親書は、翼伝(つばさづた)えに使者が運んだ。その使者が戻るまでに三日ばかり、戻った使者は肩を落として内殿を訪ねてきた。

――閉めてあった内殿を開けさせ、月渓(げっけい)はごくわずかの私物とともにそこに移った。官には不明を詫(わ)び、恵州侯(けいしゅうこう)を任じたいと求めた。官は喜んで賛同してくれた。明後日には、正式に位に就(つ)く。

「――いかがだった」

月渓は使者を迎(むか)え、書きかけた書簡(しょかん)を押しやって立ち上がった。月渓の問いに、使者に立てた官吏(かんり)は深々と叩頭(こうとう)する。

「それが……あの。供王(きょうおう)におかれましては、減刑は断じてならず、と。供王より直々(じきじき)にお言葉をいただきましたが、大層なお怒りでございました」

「さもあろう……」

「なんでも、景王(けいおう)からも御親書があり、これまた公主(こうしゅ)の減刑をお望みだったとか」

だが、供王は、月渓、景王に対して、国事への干渉(かんしょう)にあたる、と立腹していたらしい。

「恭(きょう)の罪人を裁くは、恭の秋官(しゅうかん)、ひいては供王の権、断じて他国よりの干渉に屈して法を曲(ま)げるようなことはせぬ、と」

そうか、と月渓はやるせなく息を吐いた。減刑を願った自分の行為が僭越(せんえつ)にすぎることは、充分に了解していた。供王の立腹も予想はしていた。それでも情として、祥瓊(しょうけい)のために何かをしてやりたかった。できることなら――助けてやりたかった。

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