それは、不忠をもってしか報(むく)いることのできなかった仲韃(ちゅうたつ)に、せめても娘に良くしてやることで報いたかったのかもしれず、あるいは、同じく罪を抱(かか)えた者に対する同情だったのかもしれない。犯した罪が消え去ることはないが、本人の自覚と悔(く)いによって許されることもあるのだと思っていたかったのかも。
官吏は月渓の落胆を受けたかのように、さらに深く頭(こうべ)を垂れる。
「慶国(けいこく)も芳(ほう)も、今は国の行く末を決める大事の折、にもかかわらず一介(いっかい)の女子の、しかも明らかに罪ある者の行く末を、道理を曲げてまで案じている場合ではあるまい、とそれは厳しいお叱(しか)りをいただきました」
「そうか。……すまなかったな」
使者は黙ってうなずくように頭を下げ、言葉を続ける。
「公主の罰(ばつ)は国外追放、以後一切、恭国への入国はまかりならず、恭国にあるを発見されれば、委細かまわず――その」
月渓は目を見開き、そうして言いよどんだ使者に先を促(うなが)した。
「どうした?」
「叩(たた)き出(だ)す、……だそうです」
困惑したように口を閉ざした使者を見つめ、月渓は微(かす)かに笑んだ。
「そう、仰(おっしゃ)ってくださったか……」
「お役に立てず、申し訳ございません」
さらに深く首を垂れた使者を、月渓(げっけい)は労(ねぎら)う。
「そうではない。供王(きょうおう)は祥瓊(しょうけい)さまに、陳謝には及ばず、と言ってくださったのだ」
「しかし」
「どこへなりとも行け、と」
干渉(かんしょう)は許さぬ、と言うのだから、謝辞など受けつけてはくれないだろう。景王(けいおう)、月渓の嘆願を容(い)れての温情ではなく、あくまでも刑罰だと言ってのけるところが、王の矜恃(きょうじ)というものかもしれなかったし、干渉であるという叱責(しっせき)は、あるいは雑事にとらわれず、自国のことに専念せよとの諫言(かんげん)なのかもしれなかった。――おそらくは後者なのだと思う。峯王(ほうおう)を弑(しい)した月渓を、責めることなく、むしろ非難を恐れず国権を掌握(しょうあく)せよ、国の荒廃(こうはい)を止める一柱になれ、と叱咤(しった)してくれたのも供王だった。
「供王には、陰よりお礼申し上げよう……」
言って、改めて使者を労(ねぎら)い、退(さが)らせてから月渓は書卓(つ く え)に向かう。中途で筆を置いた書簡(しょかん)に目を通し、苦笑した。
筆の赴(おもむ)くまま書(か)き綴(つづ)ったそれは、改めて見返してみると、大逆(たいぎゃく)に至った自身の心境について、くどくどと申し開きをするものでしかなかった。月渓は我ながら失笑して、それを裂(さ)いて丸める。
「……いまに至っても、主上(しゅじょう)に詫(わ)びるか……」
祥瓊(しょうけい)の理解がほしいのは、仲韃(ちゅうたつ)の理解がほしいからだ。祥瓊に報(むく)いることができれば、仲韃に対する償(つぐな)いになるかのように感じているのと同様に、祥瓊に心情が届けば仲韃にも届くかのように感じている。だが、祥瓊にしてみれば、父に向かっての言葉などほしくはあるまい。何かを詫(わ)びるなら、仲韃に対してではなく、祥瓊に対してでなくてはならない。
月渓は自身に溜息(ためいき)をついて、窓を見やる。急峻(きゅうしゅん)な山の斜面に建つ内殿、その窓の向こうには、鷹隼宮(ようしゅんきゅう)の官府とそこに波を打ち寄せる雲海が見えていた。雲海が暗く濁(にご)っているかのように見えるのは、下界に厚い雲が垂れ込めているからだ。春だというのに、下界では例年になく雨が多い。
そう――確かに、国を去った公主(こうしゅ)の先行きを思案してやる余力は、すでに芳(ほう)にはないのだ。国を挙げて荒廃(こうはい)を押し止(とど)めようとしても、王を失(な)くした国土には、蟻(あり)の一穴を窺(うかが)うようにして、じりじりと荒廃が忍び寄っている。
芳はこれから止めようもなく傾く。すでに傾き始めている。これという産物もなく、民の暮らしは林業と牧畜によって成り立っている。だが、今年は雨が多い。日照(にっしょう)が足りず莨(まぐさ)の芽が伸びない。飼い葉が足りずに家畜が痩(や)せれば、民は即座に食い詰める。夏の旱(ひでり)、冬の大雪、天は天命を踏みにじった王朝を決して見逃しはすまい。
月渓(げっけい)が王を弑(しい)し、奪った咎(とが)によって、これから芳の民は苦難を舐(な)める。月渓には、せめても民に王を返す義務がある。国を支える決意と、民を守る意志を持った施政者を。
「祥瓊(しょうけい)さまを見習いたいものだな……」
彼女が自身の罪を背負って供王(きょうおう)の前に行く勇気を持ち得るのだから、自分ばかりが臆病(おくびょう)でいるわけにもいくまい。祥瓊のように自分もまた、この罪を背負って、新たなる峯王(ほうおう)の前に進まねばならない。
では、月渓が祥瓊に詫(わ)びるべきことは、ひとつしかない。
「あなたの父上のものを盗む。どうか許していただきたい……」
明日には東の国へ向けて発つ青(せい)に、祥瓊の旅は無為になる、と教えてやろう。どこかで出会うことが可能ならば、そのように伝えてほしい、と。祥瓊に対しては、これが最後の思案、それであの公主のことは忘れる。
国土には、祥瓊以上に救済を待つ人々がひしめいているのだから。
十二国記シリーズ 華胥の幽夢 書簡
書(しょ) 簡(かん)
その王宮は、高く張り出した断崖(だんがい)の縁(ふち)から、下界を覗(のぞ)きこむようにして雲海の上に浮かんでいた。
――慶国(けいこく)首都、堯天山(ぎょうてんざん)。頂上に金波宮(きんぱきゅう)を戴(いただ)く山の九合目、雲海の下方に、小さな高窓がある。白い岸壁に穿(うが)たれたその小窓が開いて、一羽の鳥が北西の方角に向かって飛び立っていった。
鳳凰(ほうおう)にも似た色鮮(あざ)やかなその鳥は、一路雲海の下、関弓(かんきゅう)を目指す。慶の国土を横切り、高岫山(こっきょう)を越え、三日をかけて雁国(えんこく)首都、関弓山の麓(ふもと)へと辿(たど)り着(つ)いた。
関弓山の麓には、広大な市街が広がっている。鳥は街の上空を横切ると、巨大な山の基底部、市街よりもほんの少し小高い場所に連なる甍宇(い ら か)の群を掠(かす)め、その奥、山腹に穿たれた窓のひとつを目指して舞い降りていった。
窓の中は、岩盤を削(けず)って作られた部屋だった。関弓山は山そのものが、王宮の一部であり国府の一部だが、この部屋はさしたる広さもなく、簡素な構えの部屋だった。鑿(のみ)で岩から削(けず)り出(だ)しただけの壁と床、そこには、細工はかなり良いものの、古びて飴色(あめいろ)になった書卓(つ く え)と椅子(いす)だけが据(す)えられている。岩壁を抉(えぐ)って設(しつら)えられた書棚(しょだな)と牀榻(しょうとう)、牀榻を覆(おお)った帳(とばり)に夕陽(ゆうひ)が落ちて、埃(ほこり)に灼(や)けた錦(にしき)をいっそう古びた色に見せていた。
鳥は開いた窓の玻璃(はり)を、嘴(くちばし)で叩(たた)く。その音に、部屋の中で書卓に向かっていた人影が頭を上げた。――いや、灰茶(はいちゃ)の毛並みに椅子の端(はし)から垂れた尻尾(しっぼ)、人ではなく鼠(ねずみ)だ。彼は窓を振り返り、そこに鳥の姿を見つけて銀色の鬚(ひげ)をそよがせた。
「――よう」
彼が声をかけると、鳥は開いたままの窓から、堆(うずたか)く書籍の積まれた書卓まで飛んできて、その縁に留(と)まった。彼は首を傾(かし)げた鳥の頭を撫(な)でてやった。すると鳥は凛(りん)とした女の声で語り始める。
「お久しぶり。元気だろうか?」
彼は笑ってうなずいた。そうしたところで、この声の主に見えはしないのだけれども。――私は、と鳥は語る。
私は元気です。なんとか、やってる。
……やっぱり、鳥に向かって喋(しゃべ)るのは、独(ひと)り言(ごと)みたいで照(て)れるね。こちらの人は、そんなふうに思わないんだろうか。
それはともかく――ええと、私はようやく金波宮(きんぱきゅう)に慣れてきたところです。少なくとも正寝(せいしん)から外殿まで、人に道を訊(き)かなくても辿(たど)り着(つ)けるようになったよ。自分のいる場所くらいは分かるようになったかな。楽俊(らくしゅん)の勧(すす)めに従って、探検をしたのが良かったみたい。二日がかりの大事業になって、道案内してもらった景麒(けいき)には、すっかり迷惑がられてしまったけれども。
そうやって二日がかりで歩いても、全部じゃないんだから、王宮は広いな。何しろ、私が寝起きする正寝だけでも、数えてみたら三十二、建物があったよ。おまけに短い橋――本当に宙に浮いた橋があって、それを越えた奥のほうには、後宮(こうきゅう)なんて場所まであるから笑ってしまう。さすがに後宮は未探検。後宮と、東宮(とうぐう)かな。それと、府第(やくしょ)。本当に自分に関係のあるところだけで、くまなく一巡りしたら二日。――こんなに広い建物を、私ひとりでどうやって使えばいいんだろう?
遊ばせておくのももったいないし、下宿人を置いて国庫の足(た)しにしたらどうかとか、荒民(なんみん)の施設にしたらどうかとか、あるいは国立の病院にしたらどうかとか思うのだけど、景麒に言ったら一蹴(いっしゅう)されてしまった。そんなことをしてはいけないんだって。いっそ取(と)り壊(こわ)してしまえば維持費もかからないんじゃ、と思うのだけど、そういうこともしてはいけないんだそうです。慶(けい)は貧しいのだし、貧乏国の王にはそれなりの住まいってものがあるのじゃないかという気がするんだけど、景麒(けいき)に言わせると、国には威儀(いぎ)というものが必要なんだそうだ。たくさんの着物や装飾品が、歴代の王から伝わっているんだけども、そういうものだって、全部売ってしまえば国庫の足しになるのにね。
私にはどうも、国の威儀だとか、王の威信なんてことが分からない。
この間も、部屋を掃除してくれる奚(げじょ)にありがとう、と声をかけたら、景麒に叱(しか)られてしまった。あまり気安いと侮(あなど)られる、と言うのだけど、そんなものなのかな。――そうそう、手帳も禁止されてしまったよ。何しろ、何もかもが初めて見聞きすることばかりだから、とてもじゃないけど何かに書き留めておかないと、覚えていられない。なので手帳を持って歩いて、習ったことは全部、書いておくようにしていたんだけど、これも景麒に叱られてしまった。そういう姿を見ると、官が不安になるって。要は、王様は偉そうにしていないと、だめだって話なのかな。仕方ないから、知らないことを聞くたびに、大急ぎで物陰に行って、隠れて書きつけておくんだけど、それもちょっと間抜けな話だよね。
そんなふうで、景麒には始終がみがみ言われてます。麒麟(きりん)って、あんなに口喧(くちやかま)しいものなんだろうか。性向は仁(じん)――なんて言うけれども、実際に会った麒麟は景麒と延麒(えんき)だけだから、どうも怪(あや)しい気がしてしまうな。おかげで、ときどき派手に喧嘩(けんか)をして周囲の官をハラハラさせてます。
そうだな――でも、実を言えば、あまり優しくされると思いあがってしまいそうな気がするから、景麒ぐらいが私にはちょうどいいのかも。それでなくても、大勢の人間が頭を下げてくれるわけだからね。うん、わりと上手(うま)くやれてるんじゃないかな。ただ、あの堅苦しいところさえなかったら、もっと上手くやっていけそうな気がするんだけど。
景麒以外の官とは、喧嘩することなくやっています。ただ、こっちの場合は、衝突するほど互いに慣れていないってだけのことかもしれないね。いまは何も分からないので、六官がこうと言えば、そうなのかと思うしかないけれども、もう少しいろんなことが分かってくると、衝突することになるのかもしれないな。
身の周(まわ)りの世話をしてくれる女官(にょかん)とは、わりと上手くいってる。無駄話もできるようになったしね。そう言うと、景麒は側近と癒着(ゆちゃく)するのはよくない、と渋(しぶ)い顔をするのだけど、朝晩顔を合わす人に素(そ)っ気(け)なくはできないから。
玉葉(ぎょくよう)という人がいてね、いい人で、私はとても気に入ってる。いまは私の世話をしてくれているのだけど、もともとは春官(しゅんかん)で、学校関係の仕事をしていたらしい。――ああ、こういうとき、ぽんと官職の名前が出てこないのは、情けないな。ええと、学校を整備する官吏(かんり)の下官(げかん)だったんだって。それで、こちらの学校や、蓬莱(ほうらい)の学校のことを話したりする。そのうち彼女には、春官に戻ってもらえるといいな。話をしていると、そう思える。下官を辞(や)めたのもべつに落ち度があったわけじゃなく、予王(よおう)の追放令で慶国(けいこく)を出されたというだけのことだから。慶を出てから、あちこちを転々としたみたい。いい機会だから、あちこちの学校を見学してみようって思ったんだって。――そういう、とても前向きな人なんだ。
――そういえば、前にも巧(こう)で玉葉(ぎょくよう)という女の子に会ったけど、こちらにはよくある名前なのかな? 女官(にょかん)の玉葉は、いろんな国の話をしてくれる。彼女の話を聞くと、一度旅をしたいと思うな。逃げ回(まわ)るんじゃなく、ちゃんといろんなことを見聞できるような旅。慶のあちこちを見て回って、いろんな国を訪ねて。
けれども、残念ながらいまのところは、巧国の様子を見にいくのが精いっぱいというところです。
――これは楽俊(らくしゅん)も聞いたかもしれないけれど、とうとう塙麟(こうりん)が亡(な)くなったそうです。先日蓬山(ほうざん)に塙果(こうか)が実ったという話を聞きました。塙王(こうおう)も御危篤(ごきとく)だとか。これから巧国は荒れるんだろうね。楽俊も心配でしょう。私にできるかぎりのことは、させてもらうから。と言ったって、できることなんて知れているわけだけど。とりあえずいまのところは、目に見えて酷(ひど)いというほどのことはなさそうだから、そこは安心してください。
――そう、行ってみたんだ、巧に。
巧がいよいよ危ない、という話を聞いて、景麒(けいき)を拝み倒してこっそり巧に行かせてもらった。本当はそれどころじゃないし、だから、たった二日のことだったんだけど、巧の様子がとても気になったし――どういうわけか、もう一度行ってみないと、いろんなことに踏ん切りがつかないような気がしていたんだ。往復の間に慶(けい)の様子も見られるし、と思って。
そのときの感じでは、まだ目に見えるほどの変化はないようでした。街の人たちも、心配そうではあったけど、以前と変わりはないようだったし。収穫期に入った農地が綺麗(きれい)だった。途中に通った慶のほうが寂しいありさまだったな。慶もせめて、早くあのくらいになれるといいのだけど。
途中、楽俊のお母さんを訪ねたよ。お元気そうでした。
突然行ったのに、とても歓迎してくれて、また蒸(む)しパンをごちそうしてもらいました。何もご存じない、という感じだったけど、楽俊は何も知らせてないのかな。そんなはずはないよね、関弓(かんきゅう)から手紙を書いていたもの。お母さんが、久々に知り合いが訪ねてきた、というふうな態度だったので、私も結局、王さま業のことは何も言いませんでした。楽俊と雁(えん)に行ったときの話をして、雁で楽俊(らくしゅん)がどんなふうだか、それだけを話してきたんだけど。お母さんは、お変わりはないそうです。周辺にも災害があったり妖魔(ようま)が出ることもなくて、今年は昨年より小麦の出来も良かったから、賃金も弾(はず)んでもらえたとか。塙麟(こうりん)が亡(な)くなられたことはご存じだったけど、身ひとつだからどうにでもなるって、笑ってらっしゃいました。むしろ楽俊がちゃんと食べているか、生活できているか、大学には馴染(なじ)めているか、そっちのほうが心配そうだったよ。――とにかく、久々に平伏(へいふく)しない人に会えて楽しかった。本当にいい方だね。パンもおいしかったよ。
楽俊のお母さんのところに寄って、槙県(しんけん)のあたりをひと回りしたのだけど。最初に流れ着いた里も遠目に見てみた。なんだか懐(なつ)かしかったな。懐かしいと思える自分に、不思議な感じがした。――嫌(いや)な感じはしなかった。いろいろと思い出して、自己嫌悪には駆(か)られたけどね。行ってみてよかったとは思うな。ここに至った自分に納得できたから。励みにもなったしね。巧(こう)を見たあとに慶(けい)を通って帰ると、率直に頑張らなきゃ、って思えて。せめて収穫期のこの時期、荒れたままの田畑がある、なんてことはないようにしないと。
――頑張るって、口で言うのは簡単なんだけどね。その前にしなくてはいけないこと、学ばなくてはいけないことが山積みで、正直言って、ときどき途方(とほう)に暮れてしまうな。本当に、寿命が長くて助かったと思う。そうでなければ、国を運営していくために知っておかねばならないことを覚えるだけで、お婆(ばあ)さんになってしまいそうだから。
国のことについては、そんなふうで、報告できることがありません。先日、国鎮(くにしず)めの儀式をやったぐらいかな。これをやると、妖魔(ようま)が出なくなるというのだけど、実際にはどうだろう。巧への行き帰りに見ただけでは分からないし。意外に王宮の中までは、民の様子が聞こえてこないね。もっと気軽に街に降りてみることができるといいんだけど。案外、王様は不自由です。ほかの王様は延王(えんおう)しか知らないから、そういう気がするのかもしれないけど。他の国の王様は、どうやって民の様子を知っているのかな。街に降りてみることができないなら、せめて民がどうしているのか、国のどこで何があったのか分かるような仕組みを作りたいと思うのだけど。
――何もかもこれからかな。なにしろまだ官職の名前も職分も、主立(おもだ)った官吏(かんり)の顔と名前も、満足に覚えられないようなありさまだし。こうして口に出していると、こんなで本当に王が務(つと)まるのか、ものすごく不安になるな。まだ仕方ない、焦(あせ)ることはないって、景麒(けいき)はそう言ってくれるんだけど。……たまには景麒も慰(なぐさ)めたり励ましたりしてくれます。本当に、たまに、だけどね。
ああ、そうか。
延び延びになっていた即位の儀式が、ようやく来月に決まりました。儀式のための礼儀作法を覚えるのが大変です。楽俊(らくしゅん)に来てもらえるといいんだけど。……大学があるから無理かな。景麒(けいき)が、招待すれば、と言ってくれたのでそのように手配したけれども、私情で楽俊の勉強の邪魔(じゃま)をするのも申し訳ないので、無理はしなくていいからね。
ええと、それで、即位に際して改元(かいげん)をするのが決まりだって、元号(げんごう)を決めさせられました。そう言われたときから、楽俊の名前から一字貰(もら)おうと思ってたんだ。私は楽俊に会ってなかったら、絶対に山の中で死んでいたと思う。ちょっと私情に走った命名だけど、いわば国にとっても恩人だから許されるかな、と思って。景麒も反対しなかったしね。そういうわけで、景麒とも相談のうえ、赤楽(せきらく)ということになりました。
ああ、楽俊の渋(しぶ)い顔が見えるようだな。
――なんか、自分のことばかり喋(しゃべ)ってるな。楽俊はどうですか?
実を言うと、ついさっきまで雁(えん)にいる慶(けい)の民のことを相談するのに、六太(ろくた)くんが来てたんだ。それで楽俊の入試の成績を聞いちゃった。一番だったんだって? それともこれは楽俊も知らないことなのかな。――とにかく、おめでとう。私もとても嬉(うれ)しい。鼻が高いな。
それにしても、雁の大学って、どんなところなんだろう。なんだか、とんでもないことを教えていそうな気がするんだけど。
六太くんは楽俊を雁に引き抜こうかな、と言ってたよ。雁国に就職させるぐらいなら慶に欲しいと言ったのだけど。やっぱり楽俊は巧(こう)に帰るのかな。とにかく頑張ってください。
次はもっと実りのある報告ができるといいな、と思う。一国を立て直すことが、そう簡単にできることとも思えないけどね。
――ああ?
――いま、景麒が呼びにきました。楽俊によろしく、とのことです。
じゃあ、私はまた景麒に扱(しご)かれてくるね。
とにかく耳慣れない言葉ばかりなんで、いっそのこと全部用語を変えてやろうかな、なんて自棄(やけ)になることがあるな。そうして、景麒に手帳を持って歩かせるんだ。手帳を首からぶら下げて始終書きつけをしてる景麒って、愛嬌(あいきょう)があっていいと思うんだけど。
ああ、景麒が睨(にら)んでる。勉強しにいってきます。
――それじゃ、また。
ぴたり、と鳴きやんで、鳥は首をかしげて楽俊を見た。
「……陽子(ようこ)も元気そうだなあ」
鳥に向かって呟(つぶや)くと、青い鳥はただ首を逆の方向に傾ける。
「ちょっとは王様らしくなった感じだよ」
答えるように、鳥は、きゅるると鳴く。それに笑って、楽俊(らくしゅん)は棚(たな)の上の壷(つぼ)を取り、中から銀の粒を出して与えてやった。
銀しか食べない鳥だ。鳥の名前は楽俊も知らない。本来なら貴人の伝言に使われる鳥で、楽俊などに馴染(なじ)みのある鳥ではないのだ。青い文(あや)のある羽、長い尾羽(おばね)は濃い青に白の斑(まだら)、嘴(くちばし)と脚だけが赤い。その赤い嘴で砂粒ほどの銀をついばみ、鳥は歌うように鳴く。それを見守っていたときだった。扉(とびら)を叩(たた)く音がした。鳥は驚いたように書卓(つ く え)を飛び立ち、窓から飛び出していってしまった。
楽俊が返事をするより早く、扉が開いた。関弓山(かんきゅうざん)の山腹に穿(うが)たれたここは、雁国(えんこく)大学の学寮になっている。大学の府第(やくしょ)があり、教師や府吏(しょくいん)と共に過半数の学生が住んでいる。扉から顔を出したのも、同じく大学に学ぶ鳴賢(めいけん)だった。
「文張(ぶんちょう)、届け物」
鳴賢はそう言って、書籍を抱(かか)えて入ってきた。
「だから、その文張ってえのは……」
まあまあ、と鳴賢は言って書籍を書卓の上に置いた。
「文張にって言って、蛛枕(ちゅちん)から託(ことづ)かってきたんだから」
鳴賢がそう言うと、灰茶(はいちゃ)の鼠(ねずみ)は鬚(ひげ)を垂(た)れて複雑そうに軽く溜息(ためいき)をつく。鳴賢はその様子を見て笑った。「文張」とは、「文章の張」の意味だ。ある師が楽俊の文章を褒(ほ)めた。それが学生の間に伝わって、いつの間にかそういう呼び名がついている。
「褒め言葉なんだから受け取っておけば。――そりゃ、僻(ひが)みや揶揄(やゆ)が含まれていることは否定しないけどさ」
「別に嫌(いや)だってわけじゃねえけど……」
「だったらいいじゃないか。蛛枕よりましだろ」
そう言って鳴賢は笑った。鳴賢の記憶によれば、蛛枕は確かもともとの字(あざな)を進達(しんたつ)といったと思う。ただし、そちらの字を使う者は、教師の中にもいない。勉学に熱中して寝食を忘れ、ある日、友人が部屋を訪ねてみると、枕(まくら)に蜘蛛(くも)の糸が張っていたという。その逸話から献上された字だ。――なべて、大学内で流布(るふ)する呼び名はそういうものだ。かくいう鳴賢も別字だった。鳴賢は十九で大学に入った。十九での入学は破格で、そのあたりからついた呼び名だったが、たぶん、頭でっかち、小賢(こざか)しい、のような含みもあったのだと思う。なにぶんにも本人なので正確なところは分からないが。
「――そんで、これはいつ返せばいいって?」
「ああ。お前にやるってよ」
鳴賢(めいけん)は言って、勝手に部屋の隅(すみ)から踏み台を引き出して座りこむ。楽俊(らくしゅん)は驚いたように鳴賢を振り返った。
「おいら、貸してくれって言ったんだけど」
「うん。いいんだ、蛛枕(ちゅちん)はもう要らないんだってさ」
え、と楽俊が声を上げる。鳴賢は苦笑した。
「辞(や)めるんだってさ。――あいつ、今年も允許(いんきょ)を貰(もら)えなかったから」
八年だしな、と鳴賢は呟(つぶや)いた。
学生はだいたい数年で卒業していく。卒業するためには、定められた教科でそれぞれの教師から允許を貰わなくてはならず、允許が揃(そろ)わない限り卒業はできない。留(とど)まっているうちに学資が尽(つ)きて辞めていく者も多かった。
「蛛枕は女房も子供もいるからなあ」
「そっか……」
楽俊は蛛枕から譲られた書籍を複雑そうに見た。なにしろ大学の学生数は三百程度、国じゅうからたったそれだけが選抜される。一度や二度、試験を受けたぐらいでは入学できず、三十、四十になってからやっと入学する者も多かった。学生のうちの何割かは、入学するまでにすでに妻子を持ち、学費や生活費を妻の働きに頼っている。確か蛛枕も、そろそろ四十の声を聞こうかという頃合のはずだ。入学する年齢も、卒業する年齢も決められてはいないから、学生の年齢も二十代から四十代と幅広い。
「明日は我が身かな。俺も今年、允許(いんきょ)をひとつも取れなかったからなあ」
鳴賢は二十六、破格の早さで入学し、「鳴賢」と呼び名を献上されたものの、三年で見事に脱落した。講義についていけなくなったのだ。一年目はいきなり六つの允許を受け、逸材だと騒がれたが、二年、三年と経(た)つうちにそれも減り、一昨年はひとつ、昨年はとうとう允許を貰(もら)えなかった。三年間、ひとつも允許を貰えなければ、除籍になってしまう。だから蛛枕のように、問題の三年目が来る前に自主的に辞めていく者も多い。除籍になるよりそのほうが、外部への通りがいいからだ。自ら辞めれば、学資が尽きた、実家が心配だ、妻子の苦労を見かねたと、まだしも言い訳のしようもある。大学に行った経歴をよすがに職の探しようもあり、復学の道も残されている。
「今から頑張ればいいだろ」
楽俊に言われ、鳴賢は窓の外に目をやって「まあな」と顔をしかめた。頑張れば何とかなる、そう思えるのは最初のうちだけだ。寝食を削(けず)って遮二無二(しゃにむに)勉強したぐらいで、卒業できるほど大学は甘くない。大学を出れば、無条件に官吏(かんり)――それも国官でかなりの地位――への登用があるから当然だろう。一年も経てば、この鼠(ねずみ)も大学の厳しさが分かるようになる――そう鳴賢(めいけん)は思い、ふと、ちんまり椅子(いす)に座っている楽俊(らくしゅん)を振り返った。
「……なあ、お前、少学(しょうがく)に行ってないって本当?」
「うん。巧(こう)じゃ少学に半獣(はんじゅう)は入れねえから」
「そうか――巧は特別、半獣に厳しい国だって噂(うわさ)だからなあ」
雁(えん)ならば、半獣だからといって学校に入ることができない、などということはない。楽俊のように試験に合格しさえすれば、大学にだって入れるし、無事に卒業でき、本人がそれを望みさえすれば官吏(かんり)として登用もされる。――だが、そうでない国は多いのだ。
「巧じゃ、半獣は戸籍(こせき)に入れてもらえない、ってのは本当なのか?」
「いんや。ちゃんと戸籍には載(の)る。半獣って但(ただ)し書(が)きがつくし、成人になっても正丁(せいてい)の印はつかないけど」
「だって、それじゃあ戸籍があっても給田(きゅうでん)が受けられないじゃないか」
うん、と楽俊はうなずいた。
「受けられねえんだ。田圃(た ん ぼ)は貰(もら)えないし、職にも就(つ)けない」
「職に? まさか」
本当だ、とまるで何でもないことのように楽俊は笑った。鳴賢は少なからず驚いた。戸籍を持たない荒民(なんみん)や浮民(ふみん)でさえ、職を得ることはできる。賃金は最低限、時には家生(かせい)として奴隷(どれい)同然の仕打ちを受けることもあるが、それでも職を得られない、ということはない。
「半獣(はんじゅう)を雇(やと)うと、そのぶん税が課(か)かるんだ。だから、雇う奴(やつ)なんていないよ」
「じゃあ――巧の半獣はどうやって食っていくんだ?」
「親に養ってもらうしかないなあ」
「親が死んだら?」
「いちおう、里家(りけ)においてくれるけど。下働きとしてだけどな」
「……驚いたな。そんな国があったのか」
言って、鳴賢は巧が危ないという噂(うわさ)を思い出した。宰輔(さいほ)である麒麟(きりん)が斃(たお)れたと聞いた。そういう国だから、続かなかった――そういうことだろうか。
「でも、上庠(じょうしょう)までは行けたんだ?」
「本当は行けないんだけどな。特別に、隅(すみ)っこにいて話を聞いてるぶんにはいいってことにしてくれたんだ」
「じゃあ、そのあとは? 塾か?」
「いんや。うち、貧乏だからな。塾に入るような金なんてなかったし。雁と違って、巧は学資の援助なんかしてくれないからなあ」
鳴賢(めいけん)はぽかんとした。
「少学(しょうがく)にも――塾にも行かず?」
鳴賢が問い返すと、目の前の鼠(ねずみ)は、うん、とうなずく。
「……じゃあ、どうやって勉強してたんだ?」
鳴賢は心底、驚いていた。大学へは普通、少学を卒業してから入るものだ。そもそも大学に入るには、少学の学頭の推挙(すいきょ)か、それに匹敵(ひってき)する人物の推挙が要(い)る。その少学に入るには上庠(じょうしょう)からの推挙が必要、推挙されるにはまず優秀な成績を取って選士(せんし)にならなければならない。上庠に入るあたりから、塾通いは欠かせない。さもなければ鳴賢の場合のように、家に教師が雇(やと)われているかだ。
「試験の前、ひと月ぐらい、先生についていたけど」
「それじゃ足りないだろ」
学校というものは、上の学校に行くための準備をする場所ではない。上庠には上庠が目標とする水準があり、それは少学に入るために必要とされる程度には足りない。この格差は学生が自力で埋めなくてはならないのだ。確かに雁では選士になりさえすれば、塾費を国が補(おぎな)ってくれるし、公立の少塾(しょうじゅく)もある。それがなければ、家がそれなりに裕福でない者は、塾に通えないということになるのだろうが。
「……本はあったからなあ」
「本って」
書籍はそれなりに高価だ。塾に通う余裕がなくて、本を買う余裕があるというのも妙な話だった。
「父ちゃんの残してくれた本がいっぱいあったんだよ。母ちゃん、どんなに困っても本だけは手放そうとしなかったから。だから、何回も読んで写して、頭に入れちまう。そうするとその本は売ってもかまわないだろ」
言ってから、楽俊(らくしゅん)はふっくりと笑った。
「そだな。父ちゃんが先生みたいなもんかなあ。父ちゃんは、おいらが小さい頃に死んじまったんだけども、いっぱい書きつけが残っていたから」
言って、楽俊は書卓(つ く え)の上を示す。鳴賢が立ち上がって覗(のぞ)きこむと、ひどく手擦(てず)れのした本が広げられていた。おそらくは書きつけを纏(まと)めて素人(しろうと)が綴(と)じたのだろう、粗末な体裁(ていさい)だったが、手跡(しゅせき)は見事だった。内容は礼儀について、とりとめなく思うところを書き綴(つづ)ったもののようだったが、文字だけでなく文章もまた見事だった。
「なるほどな。……お前、これを手本にしたから、文章が巧(うま)いんだなあ」
「父ちゃんに比べると、ぜんぜん下手だよ。――うん、これはすごく勉強になったな。父ちゃんの残した書きつけだけは、一冊も手放さないできたし」
そう言って笑う楽俊(らくしゅん)の傍(そば)の書棚(しょだな)には、本と同じ表紙を使った帙(ちつ)が、五つばかり並んでいた。どれも七、八冊は本が入ろうかという大きさだったから、四十冊近くの分量があることになる。――いや、と鳴賢(めいけん)は心中(しんちゅう)で訂正した。帙のひとつは書卓(つ く え)の上で開かれているから、五十冊近くある。
「これはすごいな。お前んちの父さん、教師かなんか?」
ざっと見たところ、書きつけられた内容もかなり高度だ。
「いんや。若い頃、ちょっとだけ県かどっかの役人だったことはあるみたいだけど」
「へええ」
「これがあったし、本もあったし。それに、勉強よりほかにすることもなかったからなあ。せめて自分ちの田圃(た ん ぼ)がありゃあ、米を作るぐらいのことはできたんだろうけど、おいらは土地も家も貰(もら)えないし、母ちゃんは生活のためと、おいらの学資にするために、何もかも手放しちまったし」
そうか、と鳴賢は、暢気(のんき)そうに笑う鼠(ねずみ)を見返した。
「……大変なんだな、半獣(はんじゅう)をやるのって」
「半獣(はんじゅう)でなくても、こんなもんだろ」
笑う楽俊に、かもな、と鳴賢は複雑な気分で笑い返した。――だが、「文張(ぶんちょう)」という字(あざな)は半分以上が揶揄(やゆ)だ。半獣のくせに、という冷ややかな笑いが、奥底に隠されている。楽俊が蛛枕(ちゅちん)に本を借りなければならなかったのも、大学の図書府(としょふ)が講義に必要な本を貸し出すのを嫌(いや)がったせいだ。楽俊に限って、必ず期日までに図書を損(そこ)なうことなく返却すると念書を書かされる。そこにあるのが、一部の学生が言うように、「書物を囓(かじ)る」と思われているせいなのか、あるいは「売り払う」と思われているせいなのかは鳴賢にも分からない。前者ならば、鼠(ねずみ)の外見からの連想をもとにした噴飯(ふんぱん)ものの偏見にすぎないし、後者ならば、国を脱出してきた荒民(なんみん)に等しい身の上に対する偏見にすぎない。
蛛枕が書籍を譲ってくれてよかった――そう思うと同時に、鳴賢は、自分や蛛枕や、結局のところ大学から落伍(らくご)しそうな連中だけが、楽俊の周囲に集まっているのだ、という事実にもまた目を向けざるを得ない。着々と允許(いんきょ)を溜(た)めこんでいる連中は、楽俊を仲間だとは認識しない。教師もまた例外ではない。とある教師が、人の恰好(かっこう)をしなければ講堂に入(い)れない、と言い放ったことを、鳴賢は知っている。