饭饭TXT > 海外名作 > 《十二国记(日文版)》作者:[日]小野不由美【完结】 > 7-華胥の幽夢.txt

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作者:日-小野不由美 当前章节:14953 字 更新时间:2026-6-16 01:01

だが、この半獣の学生は俊英(しゅんえい)だ。特に法令に関しては、教師も舌を巻いている――そういう噂(うわさ)がすでに学生の間に広まっていた。

だからこそ、鳴賢(めいけん)は心配になる。入学したときに俊英(しゅんえい)だと言われる者ほど、のちに伸び悩んで脱落することが多い。鳴賢自身のように。たぶん、大学に入ることだけを目的に学び、そのせいで知識の幅が狭(せば)まるのだ。それで大学に入っても、基盤となる知識の広がりと厚みに欠けるために躓(つまず)いてしまう。入学すると同時に目的を見失ってしまう者も多かった。底意地の悪い連中は、その事例を持ち出して、楽俊(らくしゅん)が脱落するのを待っている。

「雁(えん)に来て、がっかりしたろ」

鳴賢が言うと、楽俊はきょとんと目を見開いた。

「なんでだ?」

「いや、……巧(こう)と大差ないとか、思わないか?」

「大差あるだろ? だって巧じゃ、絶対に大学なんて入れねえもん」

「そりゃあ、そうだけど」

楽俊は嬉(うれ)しそうに目を細める。

「巧と雁じゃ、全然違う。本当に、まるきり違うんだ」

「……そうか」

うん、と鼠(ねずみ)は笑う。本音なのだろう、と鳴賢は思う。楽俊は否応(いやおう)なく正直だ――鬚(ひげ)と尻(しっ)尾(ぽ)が嘘(うそ)を拒(こば)む。

「じゃあ、無事卒業できるように、頑張ることだな。……ただし、お前、前途多難かも」

「嫌(いや)なことを言うなあ」

「一番で入学して、卒業した奴はいない」

「というのは、単なる伝説だって、豊(ほう)老師が言ってたぞ」

だといいがなあ、と鳴賢は大仰(おおぎょう)に溜息(ためいき)をついて、楽俊を指した。

「なあ、お前、それって巧と大差ある国に来て解放感に浸(ひた)ってるってことか?」

「は?」

「いっつもその恰好(かっこう)でいるからさ」

ああ、と楽俊は灰茶(はいちゃ)の毛並みを見下ろす。

「べつに雁に来たからってわけじゃねえ。おいら、昔からずっとこうなんだ」

「半獣(はんじゅう)は差別される国で?」

「だって見掛けを変えても、戸籍(こせき)に半獣って書かれちまってるもん。それに、うちは貧乏だったからな。この恰好だと着るもんが要(い)らないんだ」

なるほどな、と鳴賢は失笑する。

「でも、それ、ちょっと考えないと、本当に前途多難だぞ。きっとお前、人間の形に慣れてないからだよ、弓射が下手なの」

弓射は、儀礼の際にも行なわれるもので、礼節のうちだ。大学では必須だし、求められるのは礼節であって的に命中させることではないが、それでもそれなりの腕は要求されるし、射る前後の立ち居振る舞いまでが問われる。

「ああ……うん」

「馬もそうだろ。できるだけ人の恰好(かっこう)でいて慣れとかないと、弓射と馬の允許(いんきょ)が出ないぞ」

「やっぱ、そうかなあ」

楽俊(らくしゅん)は情けなさそうに鬚(ひげ)を垂れた。

「……そうじゃねえかという気は、実はおいらもしてたんだよなあ」

とにかく弓射や馬術のとき、やたらあちこちにぶつかっているのを見かける。どうも自分の身体(か ら だ)を把握(はあく)しそこねているようだ、と鳴賢(めいけん)などは思っていた。実際、と鳴賢は腰を下ろした踏み台を見る。楽俊は、鼠(ねずみ)でいるときには、窓を開けるにも踏み台が要るのだ。それだけの背丈しかない。人であるときと鼠でいるときでは体格に差がある。それを本人もうまく呑(の)みこめないでいる。

「とにかく慣れることだぜ。弓と馬はこなさないと、卒業できない」

「……うん」

「ま、ちっと踏ん張って、伝説を覆(くつがえ)せよ」

鳴賢がにっと笑うと、楽俊もまた同様に笑う。

「鳴賢もな。――二十(は た ち)前に入学して、卒業した奴(やつ)はいない、という話もあるってなあ?」

ち、と鳴賢は舌打ちをして立ち上がる。

「それこそ単なる伝説だ。くそう、覆してやるぜ、俺は」

勢い込んで戸口に向かい、振り返りざま、部屋の主に指を突きつけた。

「今晩、飯のあとでな」

指を突きつけられたほうは、きょとんと目を見開いた。

「飯の後――って何だっけ?」

「虚(うつ)け者(もの)。弓の練習に決まってるだろうが」

言って、鳴賢は笑い、部屋を出ていく。楽俊は、鳴賢を引き留めかけて、そしてやめた。かりこりと頭を掻(か)く。

「……人の面倒を見てる場合じゃねえだろうに」

ひとりごちると、きゅる、と声がした。振り返ると、窓から青い鳥が覗(のぞ)いている。

「びっくりしたか? ごめんな」

声をかけると、首を傾(かし)げ、そして再び書卓(つ く え)へと飛んできた。楽俊は改めて壷(つぼ)の中から銀の粒を出して鳥に与える。高価な銀をついばむ鳥を眺(なが)め、楽俊(らくしゅん)はしみじみと声を漏(も)らした。

「おいらは運がいい……何もかも陽子のおかげだなあ」

巧(こう)が半獣(はんじゅう)には辛(つら)い国だったことは確かだ。楽俊が巧から雁(えん)に来たのも、荒民(なんみん)が荒れた国を見捨てて逃げ出すように、逃げ出してきたようなものだった。雁では半獣でも学校に行けると聞いた。職を得られる、官吏(かんり)にだってなれる。人並に戸籍(こせき)を得ることができれば、給田(きゅうでん)だって受けられる。一人前の人間として扱ってもらえるのだ、と。だから雁に憧(あこが)れてきた。

「……まあ、そう理想どおりってわけにもいかなかったけど」

実際に来てみれば、いろいろなことがある。きっと、こんなものなのだろう。

「でも、鳴賢(めいけん)みたいに良くしてくれる奴(やつ)もいるよ。良くしてくれる先生もいる。大学に入れただけでも、おいらにしたら儲(もう)けもんだしな。……問題は、ちゃんとついていけて、ちゃんと卒業できるか、だけど」

呟(つぶや)いて、楽俊は、ぽてりと書卓(つ く え)の上に顎(あご)を載(の)せる。

「学費が続くかって問題もあったなあ……」

いつかは雁に行こうと小金を貯(た)めてはいたが、卒業するまでの学資には到底、足りない。

「とりあえず今年は、何もかも免除してもらえたけど、成績が下がるとそれまでだしなあ」

きちんと卒業できるのか。それまで雁に留(とど)まっていられるか。卒業できたとして、それからどうなるのか。

それでも巧にいた頃に比べれば雲泥(うんでい)の差だ。母親が、最後に残っていたものを擲(なげう)って上庠(じょうしょう)に入れてくれたものの、そこから先の道は、楽俊には存在しなかった。巧にいる限り何の先行きもないと決まっていた。来年の自分、その先の自分――思い煩(わずら)う必要などなかった。思い煩うことさえ、できなかった。

「うん……本当に、雁と巧じゃ、まるきり違う」

これはすごいことなんだぞ、と青い鳥の喉元(のどもと)を撫(な)でてやった。鳥は再び嘴(くちばし)を開く。懐(なつ)かしい声で、同じ言葉を繰り返した。

慶国(けいこく)の王になってしまった彼女。こうして便りはもらっても、楽俊にとって陽子はもう別世界の住人だ。実際、神籍(しんせき)に入ってしまった陽子は、別れたときのまま永遠に歳(とし)を取ることがない。下界の住人でしかない楽俊とは、その年齢からして離れていくばかりだ。いまは登極(とうきょく)したばかり、朝(ちょう)にも親しい者がおらず、頼みにする者も景麒(けいき)だけだから、こうして楽俊(らくしゅん)を気にかけてくれるが、そのうち、それどころではなくなるのだろう、と思う。――そうでなくては困る。陽子の肩には慶(けい)の行く末と何百万もの民が載(の)っているのだから。

「たかだか道で拾っただけのことなのになあ」

行き倒れているのを拾った。べつに褒(ほ)められるようなことではない、と楽俊は思う。当たり前の人間なら、倒れ伏した者を見捨ててはおくまい。拾って連れ帰り、看病するぐらいのことは、誰でもする。したぶんに見合った以上のものは、与えてもらった。

陽子に出会わなくても、いずれ楽俊は雁(えん)に来ただろう。だが、何の伝手(つて)もない人間が、ただ雁にやってきたからといって、先行きを切り開くことができるほど、世の中は甘くないだろう、と思う。幸いにして、楽俊は陽子のおかげで破格(はかく)の伝手を得た。誰にも言えないことだが――この雁の王だ。

延王(えんおう)の配慮があって、少学(しょうがく)に行ってもいないのに大学の受験が許された。受験まで居候(いそうろう)できる場所を探してくれた。好きなだけ書物を読めるよう取り計らってくれ、わずかの間とはいえ試験の準備のために教師もつけてくれた。だからこそ、現在がある。

ここから先は、自分で切り開いていかねばならない。それができるだけの基盤は与えてもらった。切り開く術(すべ)さえなかった頃のことを思えば信じ難いほどの幸運。

それを噛(か)みしめながら、声に聞き入り、「特別にな」と声をかけて、楽俊はもうひとつぶ、青い鳥に銀を与える。

こうして与えている銀も、特別に延王から賜(たまわ)ったものだ。楽俊がたったひとつ、延王の好意に甘えているものだった。なにしろ仮にも銀だから、たとえ屑(くず)とはいえ、楽俊に手が出るはずもない。

鳥は嬉(うれ)しげに餌(えさ)をついばんで、きゅるる、と鳴く。手を出して、自分の頭の上に乗せてやった。その身体(か ら だ)に留まっているとき、鳥は言葉を覚えてくれる。そのように調教されているのか、それともそもそもそういう性質なのか、これもやはり楽俊は知らない。

「よう。陽子。――元気そうだな」

緋色(ひいろ)の髪に、翠(みどり)の瞳(ひとみ)。楽俊の知る陽子は、それ以外に身を飾るものを持たない。きっといまごろは高価な絹の衣装に包まれ、玉(ぎょく)で飾られているのだろうが、楽俊にはそんな陽子を想像できなかった。

「おいらも元気にやってる――」

鳥は三日をかけて国を渡る。銀ひとつぶで一国を飛び続けることができた。

関弓(かんきゅう)から堯天(ぎょうてん)へ翼伝(つばさづた)えに言葉は行き交う。陸路を経由して手紙を送れば、ふた月がかかる距離である。

堯天山の高窓に飛び込んだ鳥を、窓辺に詰めていた官が捕(と)らえた。鳥は籠(かご)に収められ、しずしずと堯天山の上、雲海(うんかい)の上にある金波宮(きんぱきゅう)へと運ばれる。この鳥は雲海を自力で越えることができない。雲海の下から放たれた鳥は、雲海の下へと辿(たど)り着(つ)くしかない。

籠は外宮(がいぐう)から内宮(ないぐう)の官へと送られる。さらに官の手から手へと引き渡され、燕寝(えんしん)の中心、彼らの王の居宮である正寝(せいしん)に至る。就寝前、書きつけを広げていた王の傍(かたわ)らに放された。

陽子は鳥を、書卓(つ く え)の脇にある棚の上に留まらせた。そっと翼を撫(な)でてやる。

鳥は語る。この世界で最初に得た友人の言葉を。――彼の声で。

――おいらも元気にやってる。なんとか大学にも慣れてきた。寮も居心地が良くなってきたな。授業はしんどいけど、ま、なんとか凌(しの)いでる。そんなに妙な授業でもないぞ。風変わりな授業も、ないわけじゃないけどな。雁(えん)の飯は旨(うま)いな、うん。

そうか、母ちゃんに会ったのか。平伏(へいふく)しなかったとは面目(めんもく)ねえ。ちゃんと伝えておいたんだけどなあ。まあ、あの人はそういう人だから。無礼千万な話だが、勘弁(かんべん)してくれな。陽子がそれで怒るとは思っちゃいねえけど。

しかし、平伏(へいふく)しなかったってことは、景台輔(けいたいほ)は一緒じゃなかったんだな? まさかひとりでふらふら出歩いたんじゃないだろうな。駄目だぞ、ちゃんと護衛ぐらいつけてなきゃ。

まあ、巧(こう)に行ってみたいって気持ちは分かるけどな。踏ん切りがついたんなら良かった。巧がどういう状態だか、おいらもちょっと気になってはいたんで、様子を聞けてありがたい。母ちゃん自身はしっかり者だし、普通に暮らすぶんには心配もねえんだけど、やっぱ災害や妖魔(ようま)は気になるな。とりあえずまだ異常がないようなら良かった。ちょっと安心した。訪ねてくれてありがとうな。

うん、塙(こう)台輔が亡(な)くなったって話は、延(えん)台輔に聞いたよ。

あの人はちょくちょく大学に遊びにくる。延王(えんおう)もだ。――いったいいつ、仕事をしてるんだろうな。もっとも、雁の官吏(かんり)は有能で有名なんで、あまりすることがねえのかもしれねえけど。

さすがにお忍(しの)びなんで、夜に窓から文字どおり忍びこんでくるんだ。窓を叩(たた)かれて外を見てみたら、宙に人間が浮いてる。何度やられても心臓に悪いな、あれは。

あ、でも、成績の話は何も言ってなかったな。それは別口から最近、聞いたよ。やっぱおいらって優秀だったんだなあ、と我ながら感心してる。いや、試験のときに、調子いい感じはしてたんだけどな。でも、雁(えん)の大学じゃ一番で入学してちゃんと卒業した奴(やつ)はいないって伝説があるんだってさ。なんか、そういう変な伝説がいっぱいあるんだ。大学って面白いな。

まあ、伝説によれば卒業できるかどうか怪(あや)しいようだし、そんなことは延台輔(えんたいほ)もご存じだろう。雁には切れ者の役人が多いし、だから役人に欲しいってのはお世辞(せじ)なんだろうけど、分かっていてもそう言われると、やっぱ嬉(うれ)しいな。ここは頑張ってちゃんと卒業しねえとなあ。その先のことは、無事に伝説を覆(くつがえ)してから考えることにするよ。

そうだなあ、巧(こう)はこれから荒れるだろうし、役に立ちたい気もするけど、おいらが卒業する頃には、巧じゃ役人の登用はねえかもなあ。空位の時代に出くわすなんて思ってもみなかったな。塙王(こうおう)は、いろいろと問題のある方ではあったと思うけど、やっぱいなくなると、大変なんだろうなあ。

うん、王様ってのは、国に必要不可欠なもんだ。なんてことを言うと、陽子は気が重いかもしれないけど。あんま勝手に出歩いちゃ駄目だぞ。いくら腕に覚えがあるからって、妖魔(ようま)が出没してるようなところに行くのはどうだかな。本当に、自分の身体(か ら だ)は大事にしろよ。陽子がいるか、いないか、これはすごく重大なことなんだからな。

――って、小言(こごと)じみたことを言うと、景台輔(けいたいほ)みたいだって言われるかな。でも、景台輔の言うことにも一理あると思うぞ。陽子の住んでたとこには、王様なんていなかったんだから分からないのも無理はねえけど。国の威儀(いぎ)や王の威信(いしん)は大事だ。偉そうにするのに抵抗があるのはいいことだけど、王様ってのはある程度、偉そうでないと、民だって蹤(つ)いていく気がめげるし、官だって命令に従う気が失(う)せる。こっちには身分ってもんがあって、これを軽視するのは揉(も)め事(ごと)の元だ。王様は偉そうで当然、偉(えら)そうに振る舞ったぶんだけ、重い責任を持つ。身分には、身分に応じた権利と義務がくっついてるもんなんだ。偉そうでない王様は、責任を軽んじているように見える。責任を果たすのを避けようとしてるみたいに受け取られてしまいがちだ。だから、適度に偉そうにしてろよ。適度でいいけどな。

まあ、王様も身分もなかったんじゃ、言われたぐらいじゃぴんとこないか。そのうち、おいおい分かると思う。それまで景台輔にがみがみ言われているんだな。景台輔の言うことに耳を傾けておけば間違いないよ。王様が幸福になる道は、良い王様になることだと思う。巧から雁に来ると、本当に心底、そう思うんだ。でもって良い王様ってのは、民のためになる王様のことだ。景台輔の言うことで、民のためにならないことはないよ。だから、しっかり聞いとく値打ちがある。

景台輔(けいたいほ)と上手(うま)くいってるみたいで、良かったな。官吏(かんり)と揉(も)め事(ごと)がないのもいいことだ。慣れてないってのはあるんだろうけど、とりあえず、上手くやっていければ、それに越したことはないからなあ。身近にも、いい人がいるみたいだし。

――ああ、玉葉(ぎょくよう)ってのは、蓬山(ほうざん)の女神様の名前だ。蓬山の女仙(にょせん)を束(たば)ねる神様だってさ。綺麗(きれい)な人だってことになってるぞ。それで器量(きりょう)良(よ)しの女の子は、たいがい玉葉って呼ばれるな。不遜(ふそん)になるんで、名前にはつけない。ほとんど字(あざな)だ。おいらの母ちゃんの妹も玉葉っていったんだってさ。母ちゃんが父ちゃんと会う前に、死んじまったから、おいらは会ったこと、ないんだけども。

陽子がいい王さまになりゃ、きっと慶国(けいこく)に陽子って名前の女の子が増えるんだろうな。考えると、なんかおかしいな。

うん。字って、結構、重なるんだよな。他人が勝手に呼び始めて、それが通称になって、そのほうが通りがよくなって、結局本式の字になることも多いし。通り名って、意外に独創性がなかったりするから、似たものになるんだ。そう、それでびっくりしたんだよ。大学で、いつの間にか通り名がついててさ。それが父ちゃんと同じなんだ。悪い気はしないけど、ちょっぴり照れくさいな。

名前といやあ。――赤楽(せきらく)にするだって? おいらは知らねえぞ、なーんにも聞いてねえからな。元号(げんごう)ってのは、王朝の刷新(さっしん)に際して、王が万民の幸福と国家の安康(あんこう)を願って、新時代を高らかに謳(うた)うためにつける厳粛(げんしゅく)なもんだ。私情に走ってつまんない命名をするんじゃねえぞ。もう、絶対に、これだけは忠告しとくからな。

……えーと、ま、そういうわけだ。何を喋(しゃべ)るつもりだったか、忘れちまったい。

学校はいいとこだ。先生も話の分かる人が多いし、寮生も気のいい奴(やつ)が多い。寮の設備もいいし、蔵書は豊かだし、先生もたくさん住んでるんで、いつでも質問に行けるのがいい。飯も旨(うま)いし――ってこれは、前にも言ったか。

延王(えんおう)がいろいろ気にしてくれて、王宮に居候(いそうろう)しろだの、家を持たせてやるだの、断るのに難儀(なんぎ)してるくらいだ。

ありがたいんだが、やっぱりなあ。他の学生や先生の手前ってもんもあるからな。それでなくても、おいらはいわば陽子のおまけで、随従(ずいじゅう)みたいなもんだったからな。それであんなに気にかけてもらったんじゃあ、申し訳なくて仕方がない。機会があったら、あの方にそれとなくそう言っておいてくれ。

――って、よく考えると、おいらもたいがい不遜(ふそん)なことを言ってるな。王さまなんて、雲の上も上の上の人なんだが、どうも陽子のおかげで、慣れちまってるのかな。いかんなあ。……ま、いいか。

そんなわけで、おいらは快適に暮らさせてもらってる。先生が奨学金(しょうがくきん)の推薦をしてくれたんで、学費も寮費も要らなくなった。このまま巧国(こうこく)が荒れるようなら、母ちゃんを呼んでやろうかと思ってる。どうせ他人に雇(やと)われて生活するんなら、どこで働いても同じだからな。実は先生が寮の賄(まかな)いに雇ってもいいと言ってくれてるんだ。いろんな人が良くしてくれて、本当にありがたい。陽子に会って以来、なんだか運が上向いてきた感じだな。ほんとに感謝してる。ありがとうな。

即位の儀が決まったって話は、延台輔(えんたいほ)から聞いた。何だったら連れていってやる、って言ってくれているんで、ちゃっかりお言葉に甘えようかと思ってる。陽子の王さまぶりをちょっくら見てみたいからな。知り合いが王さまになるなんて、めったにあることじゃねえし。

――そんなわけで、旅行に行くぶん、はりきって勉強しとかないとな。せいぜい頑張るよ。陽子も頑張ってくれな。

それじゃあ、またな。

鳥は、黙る。陽子が指の先でつつくと、同じ言葉をもう一度語った。

――懐(なつ)かしい声だ。ふたりで旅をしてからいくらも経(た)っていないけれども、たくさんのことがあって、ずいぶんと昔のことに思える。

灰茶(はいちゃ)のふかふかした毛並みと、リズムをとる尻(しっ)尾(ぽ)。さやさやと揺(ゆ)れる銀色の鬚(ひげ)。

くすりと笑ったところに、かちんと小さな物音がした。驚いて振り返ると、いつの間にか女官(にょかん)が一人いて、卓子(つ く え)の上に茶器を広げている。

「玉葉(ぎょくよう)――」

彼女は顔を上げ、笑う。

「声をおかけしたのですが、お耳に入らなかったようなので」

「ああ、ごめん」

「楽俊(らくしゅん)どのからですか? お元気そうですね。――ごめんなさい、聞こえてしまいました」

いいよ、と陽子は笑って、鳥に銀の粒を与える。

「私が気がつかなかったんだから。――玉葉は器量良しの女の子につく字(あざな)だってさ」

玉葉は声を上げて笑う。

「そんなことを言っていただいたら、私、楽俊殿にお目にかかるわけにはいきませんね。いずれお会いできるかと思って楽しみにしていたのに、がっかりだわ」

「でも、玉葉(ぎょくよう)は器量良しだって言われたろう?」

「娘時分には、そう言ってくれる人もいましたけどね」

彼女は老いた顔に華やいだ笑みを浮かべる。

「――少し、休憩なさいませんか?」

する、と陽子は言って、席を立った。榻(ながいす)に移って大きく伸びをする。

「足と腰が怠(だる)いや。座ってばっかりだから」

「根(こん)を詰められるからですよ」

「ちっとも官名が頭に入らないんだ」

「一遍(いっぺん)に覚えられるものじゃございませんよ」

「玉葉も時間がかかった?」

かかりましたとも、と玉葉はうなずく。

「いまでも全部は覚えていないと思いますよ。結局、人を覚えられないと、官名も覚えられないんです。人の顔を覚えてしまうと、どの役職で、誰の下で働いていて、使っている下官は誰なのか、どんな仕事をしているのか、何となく覚えられるんですけどね」

「そういうものかもなあ」

言って陽子は溜息(ためいき)をつく。

「早く官の顔も覚えたいんだけどね。官は私が府第(やくしょ)に立ち入るのを嫌(いや)がるからな……」

ある程度以上の官は、朝議で会うから覚えるが、その下の者になると、そもそも面会する機会そのものがない。府第まで出向けば会うことができるが、どの官府の長も、陽子が府第に立ち入ることを好まない。

「……王は府第へはお出ましにならないものですからね」

「うん、みんなそう言うよ。前例がございません、と言うんだ。でも、単純に邪魔(じゃま)をするなと言ってるように聞こえるな……」

そうですか、とだけ玉葉は答えた。――本当のところは、どの官吏(かんり)も、自分の懐(ふところ)を探られたくないのだと、彼女は知っている。それぞれが王に見せたくはないものを官府に抱(かか)えこんでいるのだ。慶(けい)は波乱の国だ。先王の在位は短く、それ以前にも頻繁(ひんぱん)に王が交代している。官吏の多くは先王の時代のみならず、それ以前から朝廷にいる。中には三代の王朝を経験している官吏もいた。官吏は専横(せんおう)に慣れている――王がいようといまいと、自分の官府を我が物として支配することを、当然のことだと思っている。

ああ、そうだ、と陽子は声を上げた。

「ごめん、玉葉。やっぱり春官長(しゅんかんちょう)から断られてしまった。玉葉を春官に入れる件」

「まあ――本当に、そんなことを仰(おっしゃ)ったんですか?」

「だって玉葉(ぎょくよう)は、本当に学制に詳しいじゃないか。だから、どこかそういう関係の官に――せめて下官(げかん)としてでも入れられないか、訊(き)いてみたんだ。そしたら、笑われてしまった」

言って陽子は、重い溜息(ためいき)を落とした。

「まず笑うんだよな、みんな。ずいぶんと女官(にょかん)がお気に召したようですが、私情で官位を動かすことはできないんですよ、って。まるで子供に教え諭(さと)すみたいな調子で、真面目に取り合ってもくれない」

「私は、主上(しゅじょう)のお側に仕えるお役目が気に入っていますよ」

「私だって玉葉がいてくれれば嬉しいけどね。でも、適材適所って言うだろ」

「でしたら、私が側仕(そばづか)えの適材になればいいのでしょう? これまでとは畑の違うお役目ですけど、そのぶん新しいことがたくさんあって、私は楽しんでおりますよ」

「玉葉は前向きだな……」

「根が野次馬(やじうま)なんでございます」

なるほど、と陽子は苦笑した。

「……でも、楽俊(らくしゅん)殿には揉(も)め事(ごと)もなく、と仰(おっしゃ)ったのですね」

玉葉が言うと、陽子はまじまじと玉葉を見る。

「お許しくださいまし。聞くつもりではなかったのですが、聞こえてしまったのです」

「うん、それはいいけど。――揉(も)め事(ごと)は起こしてないよ。まだ、正面から官と衝突したことはないからね。どの官も、私の言うことなんてまともに取り合ってはくれないし」

「そう、正直に仰(おっしゃ)ればいいのでは」

「べつに嘘(うそ)はついてない。官とは和気藹々(わきあいあい)とやっている、なんてことも言ってないし。そう言えば嘘になってしまうけどね」

でも、と言いかけて、玉葉は言葉を呑(の)んだ。――慶国の王は孤立(こりつ)している。朝廷を勝手に分割し、それぞれの縄張(なわば)りを私物化している官吏(かんり)たち。彼らは新王を恐れることすらしない。頭から舐(な)めてかかり、玉座に付属の飾り物のように扱おうとしている。

「官が冷たい、揉め事を起こすこともできないほど、端(はな)から相手にしてもらえてない。――そんなことを楽俊に言っても仕方ないだろう?」

「ですが……お友達でいらっしゃるのでしょう? お友達だからこそ、弱みは見せられないのかもしれませんけれど、もう少し正直におなりでもよろしいのでは」

そうだなあ、と陽子は天井を仰(あお)いだ。

「そうかもしれない。正直でないのは、確かかもな。正直に言うなら、官は相手にしてくれません、完全に爪弾(つまはじ)きです、と言うべきなのかも。……でも、それはしたくないんだ。べつに弱みを見せたくないわけじゃないけどね。そりゃあ、あまり不甲斐(ふがい)ないところや、情けないところは見てほしくないよ。嫌われたり軽蔑(けいべつ)されたりはしたくないから。でも、楽俊(らくしゅん)は嫌ったり軽蔑したりする前に、ちゃんと助言(じょげん)や諫言(かんげん)をくれる人だし……」

「心配をかけたくない?」

「それもあるかな。――うん、確かに心配はかけたくないと思ってるよ。でも、そういうのじゃないんだ。そうだな、きっと背伸びをしたいんだと思う」

玉葉(ぎょくよう)は瞬(またた)いた。

「背伸び……ですか? お友達なのに?」

「だからって、べつに体裁を取(と)り繕(つくろ)いたいわけじゃないんだけどね」

陽子は言って笑い、茶杯(ゆ の み)を手に取った。少しの間、複雑そうな貌(かお)で口を噤(つぐ)んでいる。

「……楽俊が、何もかも上手(うま)くいってる、なんてことはないと思う」

玉葉が首を傾けると、陽子は顔を上げて笑う。

「上手くいってる、って言ってきてはいるけどね。でも、それが本当かというと、そんなことはないと思うんだ。巧(こう)にお母さんだって残してきてる。巧が荒れようかというのに、心配でないはずがない。こっちには電話だってないし、簡単に様子を訊(き)くわけにもいかない。元気にしているのか、無事でいるのか、それすら分からないのに、安穏(あんのん)と大学生活を送るなんてことができるんだろうか?」

「それは……確かに心配なさっていると思いますけど」

「私が様子を知らせて、それで安心したって言ってはいるけど、本当に安心なんてできるはずはないよ。まあ、お母さんは、どうやら雁(えん)に呼び寄せるようだけどね。呼び寄せたあとだって大変じゃないかな。結局は国を捨てて逃げてきた荒民(なんみん)だってことになるわけだし。たとえお母さんがいなくても、生まれて育った国のことだもの、荒れたって聞けば複雑だと思うよ。そういうものじゃないかな」

「そうでしょうね――ええ、私もそうでした」

「だろう? 大学そのものだって大変だと思う。楽俊は決して充分な教育を受けたわけではなくて、ほとんど独学のようだったし」

「でも、成績は良かったと延台輔(えんたいほ)が」

「そうなんだけど。でも、ずっと独学だったってことは、学校そのものに馴染(なじ)みがあまりない、ということなんじゃないのかな。同級生や教師との人間関係だってある。雁はあんなに立派な国だし、きっと大学そのものの水準も高いんだと思うんだ。巧の上庠(じょうしょう)しか知らない学生が、いきなり雁の大学に放(ほう)りこまれて、戸惑(とまど)わないでいられるかな」

「それは……そうですね」

「知らない国で、知らない街で、ぜんぜん違う環境で生活するのは大変なことだ。それに、楽俊(らくしゅん)は半獣(はんじゅう)だし」

「雁(えん)は巧(こう)や慶(けい)とは違いますよ」

「制度のうえではね」

陽子はうなずく。雁では半獣でも大学に入ることができる。職に就(つ)くこともできるし、官吏(かんり)として登用されることもできる。だが、最初に雁の玄英宮(げんえいきゅう)を訪ねたとき、玄英宮の天官(てんかん)は、楽俊に衣服を差し出した。

「制度の上で平等だからといって、気持ちの上でもそうだとは限らないんじゃないかな。玄英宮の天官が、楽俊に大人物(お と なもの)の衣服を差し出して着ろ、と言ったのは、そんな恰好(かっこう)でいるな、ということなんだと思う。無礼なことなのかもしれないし、不作法なことなのかもしれない。いずれにしても、鼠(ねずみ)のまま王宮の中をうろうろするわけにはいかない、ってことだろう」

「ええ……それは、確かに」

「だったら、大学でも同じじゃないかな。仮にも国じゅうの精鋭が集まる最高学府なんだから。大学を卒業すれば国官だろう? 国の威儀(いぎ)に直結した国官養成機関じゃないか。鼠のままうろうろすることを決して歓迎はしないと思うな。たとえ偏見(へんけん)や蔑視(べっし)がなくても、楽俊はあの恰好(かっこう)だと子供に見えてしまうし……やっぱり大変だと思うんだ。いろいろとね」

「かもしれません」

「でも、楽俊はそんなこと、一言だって言ってない。――感じてないわけじゃないと思う。誰だって理不尽な扱いを受ければ、思うことはいっぱいあるはずだよ。人間なんて、結局のところ殴(なぐ)られれば痛い、擽(くすぐ)られれば笑っちゃう生き物なんだから。そうじゃない人間なんて、いないと思う」

辛(つら)いこと、悔(くや)しいことなどあって当然だ、と思う。だが、楽俊はそれをいちいち言葉にして他者の同情を求めたりしない。

「平気だってことはない――絶対に。慣(な)れてるってこともないと思う。辛いことに慣れる人間なんて、やっぱりいないと思うから。訊(き)けば、慣れっこだから平気だ、と言うのかもしれないけど、平気なはずなんてないよ。辛く感じないんじゃない、辛い気分を乗り越える方法を知っているだけのことだと思う」

「そうですね」

そういうのって、と陽子は頬杖(ほおづえ)をついた。

「すごいな、と思うんだ」

言って陽子は、玉葉(ぎょくよう)に笑う。

「玉葉もね。国を理不尽に追い出されて苦しくない民はいないと思う。だけど、いい機会だからいろんな学校を見てこようって――玉葉はそう言える。辛(つら)いことを乗り越えて、自分を前に押し出すことができるなんてすごいよね」

「私は、根が楽天家なんですよ」

かもね、と陽子は笑った。

「でも、私は玉葉が前向きでいるのを見ると、すごいなって思う。楽俊(らくしゅん)が上手(うま)くやってる、と聞くと、そうか、じゃあ私も頑張らないとな、と思えるんだ。本当に順風満帆(まんぱん)なはずなんてないって分かってるからこそ、それでも平気だって言って、しゃんと背筋を伸ばしている様子を見ていると、私もしゃんとしよう、元気を出して頑張ろうって気になる」

玉葉は微笑(ほほえ)んだ。

「元気がうつってしまうんですね」

「そうみたい。だから前向きになれるんだよね。確かに官とは上手くいってないけど、べつに揉(も)め事(ごと)を起こしてるわけじゃないから、まだ最悪の状態にはほど遠いよな、って思えるんだ。だいじょうぶだ――少なくともだいじょうぶだよ、って言えるくらいには問題ない。だからだいじょうぶだって言うし、そう言ってると自分でも乗り越えられるような気がするんだ」

「……分かります」

「きっとこれって空元気(からげんき)なんだけど、空元気だっていいだろう? べつにそう振る舞うことを強制されてて無理をしてるわけじゃないんだし。強がりだろうと背伸びだろうと、元気でいたいんだから」

そうですね、と言ってから、玉葉は笑う。

「でも、楽俊殿は主上(しゅじょう)の空元気なんてお見通しなのじゃないかしら」

「そんなの、分かってるよ。お互いにそうなんだ。――だから、それでいいんだよ」

なるほど、そうですね、と玉葉は微笑った。陽子も笑い返したところに、別の女官(にょかん)が駆(か)けこんできた。

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