「お休みのところ、失礼いたします」
「どうした」
「台輔(たいほ)が、火急(かきゅう)に奏上(そうじょう)申しあげたいことがおありとの」
平伏(へいふく)した女官を見やって、玉葉は立ち上がる。
「いま、お召し物をお持ちします」
陽子はうなずいて、平伏したままの女官を振り返った。
「いま、行く」
この夜分に景麒(けいき)が来るぐらいなのだから、また何か起こったのだろう。偽王(ぎおう)の残党が騒動を起こしたか、あるいは諸官諸侯(しょかんしょこう)に不穏(ふおん)な動きでもあるのか。いずれにしても、明日を待てず、他の官吏(かんり)も介さないということであれば、よほどの大事であることは間違いない。――眉根(まゆね)を寄せて考え込んでいると、旗袍(う わ ぎ)が目の前に差し出された。
「何があったか、聞く前に悩むのは無駄な骨折りというものでございますよ」
「ああ――うん」
「こういうときこそ空元気(からげんき)を出して、しゃんとしていらっしゃいまし」
そうだな、と旗袍に袖(そで)を通しながら陽子は笑った。
慶(けい)は安寧(あんねい)にほど遠い。問題は山積(さんせき)している。右も左も分からないから、ひたすらがむしゃらに課せられたものをこなしていくしかなかった。それでも決して辛(つら)くはないはずだ。支えてくれ、見守ってくれる幾つもの手があるから。
「行ってくる。お茶をありがとう」
「お戻りになったら、甘い物を用意しておきましょう。きっとお疲れでしょうから」
「うん、頼む」
言い置いて出ていく陽子を鳥が見ていた。
十二国記シリーズ 華胥の幽夢 華胥
華(か) 胥(しょ)
1
「華胥(かしょ)の夢を見せてあげよう」と、その男は言った。
わずか八歳にしかならない采麟(さいりん)を抱(かか)えあげ、揖寧(ゆうねい)、長閑宮(ちょうかんきゅう)から見える下界を示した。
西陽(にしび)が射(さ)していた。登極(とうきょく)したばかりの若い王の横顔は、赤銅色(しゃくどういろ)に染まった雲海の照り返しで輝いて見えた。新王、砥尚(ししょう)の示した先には扶王(ふおう)の無軌道(むきどう)によって荒れた国土しかなかったけれども、采麟は主(あるじ)の言葉を些(いささ)かも疑わなかった。彼が夢を見せてくれると言うのだから、きっとそうなるに違いない。
才州国(さいしゅうこく)には宝重(ほうちょう)がある。華胥華朶(かしょかだ)がそれだった。宝玉(ほうぎょく)でできた桃の枝、それを枕辺(まくらべ)に差して眠れば花開き、華胥の夢を見せてくれるという。昔、黄帝(こうてい)が治世に迷った折、夢で華胥氏の国に遊び、そこに理想の世を見て道を悟(さと)った――そのように、不思議な花朶(えだ)は国のあるべき姿を夢の形で見せてくれるのだと伝えられる。砥尚は華胥の夢を見せてくれる、と言った。この世に華胥の国を造って采麟に与えてくれるのだ。
その証(あかし)に、と砥尚は采麟の手に、翡翠(ひすい)の一枝を握(にぎ)らせた。
「これを貴女(あ な た)に差しあげよう。夜毎(よごと)に現(うつつ)が夢に近づいていくのを確かめられるだろう」
采麟はうなずいてその宝重(ほうちょう)を抱きしめた。采麟にとって砥尚は大きく、希望と確信に満ちて気高く見えた。采麟を抱(かか)えあげた強い腕、凛(りん)とした横顔。意志をこめた双眸(そうぼう)は、洋々とした未来を見据(みす)えていた。誇(ほこ)らしさで胸がいっぱいになった。輝かしい昼と穏(おだ)やかな夜の狭間(はざま)、そこに永遠に留(とど)まっていたかった。
――華胥の夢を見せてあげよう。
抱いた花朶(えだ)に頬(ほお)を寄せた。狂おしいほど切ないのは、なぜだろう。目を閉じれば、今も黄金色の岸辺に佇(たたず)む自分と砥尚の姿が鮮(あざ)やかに見える。記憶の中にあってさえ眩(まぶ)しくて、間断なく涙が零(こぼ)れた。
――華胥の夢を……。
光に滲(にじ)んで何も見えない。けれども約束したのだから。
「何も心配しなくていいの。……そうでしょう、朱夏(しゅか)?」
采麟(さいりん)に問われ、朱夏(しゅか)は苦労して笑(え)みを作った。
贅(ぜい)を尽くした牀榻(ねま)の中だった。錦(にしき)の衾褥(ふ と ん)に埋もれて身を起こした少女は、病的に白い顔を傾けて朱夏を見ている。縋(すが)るような目をして、瞬(まばた)きすらない。削(そ)げた頬(ほお)には、枯(か)れた枝が掻(か)いた傷痕(きずあと)が幾筋も残されていた。
「……さようでございますとも、台輔(たいほ)」
安堵(あんど)したように少女は微笑(わら)い、枝に頬ずりをする。一条、また痛ましい傷が生じた。
白い頬を掻き切ったのは、何のものとも知れない枯れ枝だった。宝玉(ほうぎょく)でできたものが枯れたわけでは、勿論(もちろん)ない。華胥華朶(かしょかだ)は采麟から王弟、馴行(じゅんこう)に下賜(かし)されたのだ。馴行が希(こいねが)い、采麟から下されて、黄帝(こうてい)と同じく治世に迷う兄王に献じた。
(なのにそれさえ、忘れておられる……)
朱夏は膝(ひざ)の上で握(にぎ)り合(あ)わせた自分の手に視線を落とした。両手は細かく震えている。
不調だとは聞いていた。それを理由に衆目に触れることが減り、ついには半月絶えたままになった。不穏(ふおん)な風説が流れた。――本来、麒麟(きりん)である宰輔(さいほ)が深刻な不調に陥(おちい)ることなどあり得ない。にもかかわらず、これほどの永(なが)きにわたって病床にあるとすれば、その病の名はただひとつしかない、と。
麒麟は王を選ぶ。選んだ王が道義を失い、民を苦しめ国土を枯らせば、その責めは王を選んだ麒麟(きりん)が負う。麒麟を介して王を選んだ天は、麒麟の生命を奪うことによって王を玉座(ぎょくざ)から追放するのだ。王が道を失ったがための病、ゆえにこれを失道(しつどう)という。
宰輔の失道は王朝の終焉(しゅうえん)を意味した。采麟の不調が実のところ何によるものなのか、諸官はそれを知ろうと奔走(ほんそう)した。だがしかし官には、居宮に籠(こ)もったまま出てこない采麟の様子を窺(うかが)う術(すべ)がない。見舞いをと近従に申し入れても許されず、宰輔の主治医である黄医(こうい)までもが病状については口を噤(つぐ)む。思いつめた冢宰、六官長が揃(そろ)って宰輔の住まう仁重殿(じんじゅうでん)に押しかけ、そしてようやく朱夏だけが面会を許された。
六官の長、冢宰を差しおいて自分だけがなぜ、と朱夏は疑問に思ったが、もはや采麟は病床を出ることすらできないのだ。牀榻(ねま)に踏み込むことになるから、唯一(ゆいいつ)の女である朱夏が面会を許されたのだと、臥室(しんしつ)に案内されて、ようやく悟(さと)った。
(病んでおられる……)
砥尚(ししょう)の王朝は崩壊を始めている。采麟の軋(きし)みを見れば、それは明らかだった。
「――大司徒(だいしと)」
言葉もないまま俯(うつむ)いた朱夏を、女官(にょかん)が促(うなが)した。退出の時間だと言外に告げている。
朱夏は頷(うなず)き、依然として枯(か)れ枝(えだ)を抱いて泣く采麟の手に触れた。
「台輔、私はこれでお暇(いとま)いたします。どうぞお休みになってくださいまし」
采麟(さいりん)は怯(おび)えたように顔を上げた。
「朱夏(しゅか)も私を見捨ててしまうの……?」
「台輔(たいほ)をお見捨てできる者など、この才(さい)におりましょうか」
「でも、主上(しゅじょう)はお見捨てになったわ。私も、才も、民も」
「とんでもございません。そんなはずがありましょうか。今は迷っておられるだけです。じきにもとの主上におなりでしょう」
苦しく笑ってみせた朱夏に向かって、采麟は強く首を振る。
「嘘(うそ)だわ。何もかも嘘。……夢を見せてくれると仰(おっしゃ)ったのに」
「見せてくださいますとも。長い治世の途上には、紆余曲折(うよきょくせつ)があるもの。それだけのことでございますよ」
嘘、と采麟は叫ぶ。瘠(や)せて生気を欠いた顔に、追いつめられた目の色だけが生々しい。あえて言うなら、それは憎悪(ぞうお)を呈(てい)しているように見えた。慈悲(じひ)の具現そのもののようだった少女がこんな表情をすることじたい、朱夏には信じられなかった。
「華胥(かしょ)の国だなんて……」
掠(かす)れた声は呪詛(じゅそ)のように聞こえた。それでもなお、ひしと枝を胸に抱いて放さない。最後の望みに縋(すが)るように。
「台輔、もうお休みに」
「最初から全部夢だったの。……ずっと離れていくばかり」
采麟は引き留めるように朱夏の腕を握(にぎ)る。
「……助けて。苦しいの。五体が引(ひ)き裂(さ)かれていくみたい」
朱夏にはかける言葉がなかった。病んで細った指が腕に食いこむ。
「台輔、もうお休みを」
女官(にょかん)が割って入った。朱夏を見て退出を促(うなが)す。
「大司徒(だいしと)も、もう。これ以上は」
うなずいて牀榻(ねま)を出ようとした朱夏の背に、細い悲鳴が刺さった。
「嘘(うそ)つき、嘘つき! ただの一度だって夢が才と重なることはなかったわ!」
朱夏は悲鳴に鞭打(むちう)たれた思いで堂室(へや)を出た。
――どうして、こんなことに。
そもそも砥尚(ししょう)は、近郊にその人ありと謳(うた)われた傑物(けつぶつ)だった。破格の早さで大学にまで進み、わずかに二年で教師たちから修了の允許(いんきょ)を得た。大学を終えた者は、普通、そのまま国府に入る。それも府史(ふし)や胥徒(しょと)のような下官から仕え始めるのではなく、いきなり下士(かし)に登用されるのが慣例だった。砥尚(ししょう)は将来を嘱望(しょくぼう)され、前途を約束されていた。――だがしかし、彼は王を嫌って国政に与(くみ)せず、そのまま野(や)に下ったのだった。
当時の才(さい)は、扶王(ふおう)の治世(ちせい)、その末期にあって国は傾き始めていた。愚策(ぐさく)が続き、法の改悪が相次いだ。官や民の指弾を受けて扶王は荒(すさ)み、酒色に溺れ、やがてそれは政務の放棄(ほうき)を招いた。王を諫(いさ)めた高官の多くは、疎(うと)んじられて更迭(こうてつ)された。そうやって野に下った官吏(かんり)の庇護(ひご)を得て食客となると、砥尚は揖寧(ゆうねい)で同志を集め、扶王糾弾(きゅうだん)の声を上げたのだった。砥尚の許(もと)には同じく扶王の失政に憤(いきどお)った若者たちが集まり始めた。朱夏(しゅか)も、その中のひとりだった。
砥尚率いる若者たちは、やがて民の支持を得て高斗(こうと)を名乗り、扶王の時代には民の先頭に立って国の理不尽と戦い、扶王が斃(たお)れた後には荒廃(こうはい)と戦った。そして砥尚は、里祠(りし)に黄旗(はた)が揚(あ)がるや否(いな)や昇山(しょうざん)し、周囲の期待どおりに采麟(さいりん)の選定を受けたのだった。
誰にとっても当然の登極(とうきょく)、采麟のみならず、砥尚を知る者のすべてが新王を信じた。まさか――その王朝が二十余年で沈もうとは。
朱夏は逃げるように庭院(なかにわ)を抜け、前殿に戻った。そこでは六官長が緊張した様子で朱夏の帰りを待っていた。幾人かが朱夏を認めて腰を浮かした。朱夏は堪(たま)らず目を逸(そ)らした。
六官長はいずれも高斗の出身、ほとんどが朱夏と同じく若くして朝廷に入った。理想を掲げて共に荒廃(こうはい)と戦った党羽(な か ま)たち。朱夏はその誰もの為人(ひととなり)を熟知していたし、彼らの新王に寄せる信頼も、新王朝に懸(か)けた志も、我が事のように分かっていた。その彼らに対し、最悪の事態が起こったのだとは、とても口にできなかった。
そんな朱夏の様子から事態を悟(さと)ったのだろう、彼らは顔色を苦渋に満ちたものに変えた。腰を浮かせた者は、力尽きたように座りこんだ。
沈黙と重すぎる溜息(ためいき)、やがて中のひとりが立ち上がり、低く退出を促した。朱夏の夫、冢宰(ちょうさい)の栄祝(えいしゅく)だった。
「ここで座りこんでいても事態は変わらない。確認したかったことは確認できた。疑念に決着がついたのだから、本格的に対処を考えねばならない」
言って栄祝は、声を上げる気力さえ失ったような六官長らを見渡した。
「今からそのように萎(な)えてどうする。ここからが、我ら臣の踏ん張りどころだろう」
栄祝の叱咤(しった)に、六官長らは沈痛な面(おも)もちで頷(うなず)き、腰を上げた。彼らが退出した後には、朱夏と栄祝だけが残された。その栄祝も、やや遅れて堂室(へや)を出る。肩を並べて朱夏がそれを追うと、栄祝が低い声をかけてきた。
「……快癒(かいゆ)なさると思うか」
「それは……もちろん」
するに決まっている、と朱夏(しゅか)は答えたかったが、それは声にできなかった。過去、失道(しつどう)に至った宰輔(さいほ)が治癒(ちゆ)した例は、極めて少ないと聞いていた。
砥尚(ししょう)は国の命運そのものである王だ。そればかりでなく、栄祝(えいしゅく)にとっては従兄弟(いとこ)にあたり、数十年来の朋友(ほうゆう)でもある。栄祝は、砥尚と兄弟のようにして育った。砥尚が郷里を離れても無二の友人であり続け、揖寧(ゆうねい)で高斗(こうと)を旗揚(はたあ)げすれば真っ先に馳(は)せ参(さん)じ、以来、共に道を掲げ、荒廃(こうはい)と戦ってきた。昇山(しょうざん)の旅にも同行し、新王朝の成立からこれまで、ずっと砥尚を支え続けてきたのだ。その栄祝に、砥尚の天命は尽きたのだとは言えず、かといって、その場限りの慰(なぐさ)めを口にすることは、いっそうできなかった。
朱夏の逡巡(しゅんじゅん)を見透(みす)かしたように、栄祝は回廊(かいろう)に足を止め、短く呻(うめ)いて額(ひたい)に指を当てた。朱夏はかける言葉もなく、ただ黙って苦衷(くちゅう)に項垂(うなだ)れる栄祝の背に掌を当てた。回廊の外、園林(ていえん)には一面、桃の花が咲き揃(そろ)い、風に無数の花弁を舞い散らせていた。夢幻郷(むげんきょう)のようだったが、悲しかった。
(華胥(かしょ)の夢……)
確かに夢のようなものだったのかもしれない。
三十年ほど前、朱夏は扶王(ふおう)の治世に憤(いきどお)る少学(しょうがく)の学生にすぎなかった。少学に入るために揖寧に出て、そこで高斗に加わり、栄祝に会い、砥尚に会った。朱夏らはそこでひとつの夢を育(はぐく)んだ。国とはかくあるべきだ、という美しい夢。その夢を誰もが信じ、それを貫けば華胥氏の国が顕現(けんげん)するのだと思っていた。夜を徹して語り合った未来、民の先頭に立って扶王の堕落(だらく)と――その後の荒廃(こうはい)と戦った輝かしい過去。その高揚(こうよう)した時代のさなか、朱夏は栄祝と共にずっと砥尚を支えていくのだと誓った。朱夏は二十二、栄祝は二十六、そして砥尚は二十五。それからわずか三年後に、砥尚は玉座(ぎょくざ)に就(つ)いた。
振り返れば、その時代こそが夢であったようにも思える。切(せつ)ないほどに眩(まぶ)しい――若かった自分たち。
しばしの後、栄祝は顔を上げた。
「どうすればいいと思う、朱夏」
「台輔(たいほ)が治癒(ちゆ)なさるかどうかは、砥尚が道を取り戻すことができるかどうかにかかっています。何とかお諫(いさ)めするしか……」
「何をどう諫めるんだ?」
栄祝に問われ、朱夏は返答に窮した。
「諫めるべきところがあれば教えてくれ。砥尚の何がいけなかったんだ?」
朱夏は首を横に振った。
――それが分かれば。
「諫(いさ)めるべきことも分からないのに、諫言(かんげん)せよと言うのか? ……あの砥尚(ししょう)に」
これにも朱夏(しゅか)は、答えることができなかった。砥尚が扶王(ふおう)のように政務を投げ出して遊楽に明け暮れている、あるいは民への暴虐(ぼうぎゃく)があるというなら失道も分かるし、諫めようもある。だが、砥尚は登極(とうきょく)以来、誠心誠意を尽くしていた。朱夏の目から見る限り、砥尚は登極の当時から些(いささ)かも変わっていない。常に国のあるべき姿を見据(みす)え、正道を貫こうとしていた。
砥尚を見ている限り失道など起こるはずがなかった。だが、一旦国土に目を向ければ、采麟(さいりん)の失道は当然のことに思われる。朝(ちょう)の端々(はしばし)はいっかな治(おさ)まらず、国土は荒(すさ)み、民は困窮(こんきゅう)している。在位二十余年にしかならない王を責め、罵(ののし)る民の声が聞こえる。采麟が不調だと言われ、それがすぐさま失道の噂(うわさ)に結びついたのは、そのせいだった。明らかに才(さい)は傾いている。
砥尚もそれは理解している。昨年までは焦(あせ)る色が濃く、新年を越えて采麟が頻々(ひんぴん)と不調を訴えるようになると、狼狽(ろうばい)したふうさえあった。だが、砥尚はこれを天が下した試練だと受け止めることで乗り越えたようだった。いま以上に道に沿い、努力すれば、やがて采麟の不調も癒(い)え、国は持ち直すに違いないと言明し、これは天が自分たちに紆余曲折(うよきょくせつ)を乗り越える力があるかどうかを試しているのだ、と官を激励していた。――なのに。
朱夏は栄祝(えいしゅく)から目を逸(そ)らし、夢幻(むげん)のように降る桃の花弁に目をやった。夢は去ろうとしていた。園林(ていえん)の春が、散りつつ逝(ゆ)こうとしているように。
翌日の六朝議(りくちょうぎ)は、重苦しい空気の中で始まった。朝堂(ちょうどう)に集まった六官は、互いの顔から目を背けるようにして沈黙していた。箝口令(かんこうれい)が布(し)かれたにもかかわらず、采麟失道(しつどう)の報は密かに広がり始めている。その証拠に、唯一(ゆいいつ)采麟と面会した朱夏に、ちらちらと視線が投げかけられていた。
栄祝は、昨夜ついに官邸へは戻ってこなかった。執務(しつむ)に追われていたのか、それとも砥尚に会いにでも行ったのか。朱夏がその姿を求めて見つけた朝堂の片隅(かたすみ)、栄祝は打ち沈んだ様子で俯(うつむ)いていた。
やがて、全員が揃(そろ)った旨(むね)を告げる銅鑼(どら)が鳴った。朝堂に整列していた官吏(かんり)たちは、粛々(しゅくしゅく)と堂を出て外殿(がいでん)へと向かった。その短くはない道程の間、やはり口を開く者はいなかった。外殿が近づくにつれ、列を覆(おお)った緊張感は高くなる。外殿に入って諸官が整列し、その場に跪(ひざまず)いたときには、張りつめた空気が肌を刺して痛いほどだった。
誰もが玉座(ぎょくざ)から目を逸らしている。打ち方を変えた銅鑼を合図に珠簾(みす)が下ろされると、官吏たちが息を詰めるのが分かった。珠簾の向こうに、天意に見放された王が姿を現そうとしている。わずかな身じろぎが生む衣擦(きぬず)れの音さえ刺さるように響くなか、再度銅鑼(どら)がひと打ちされ、平伏(へいふく)した諸官の前で珠簾(みす)が上がった。朱夏は床につけた額(ひたい)を上げたくはなかった。いま、砥尚(ししょう)の顔を見るのは何よりも辛(つら)い。
だが、顔を上げよと太宰(たいさい)の号令がかかる。これを合図に、朱夏らは顔を上げ、玉座(ぎょくざ)の王に対面しなければならない。苦しく上げた視線の先、漆黒(しっこく)の玉座には砥尚の姿があった。
朱夏は吐胸(むね)を衝(つ)かれた。玄(くろ)の大裘(だいきゅう)に身を包み、金の屏風(へいふう)を背に、螺鈿(らでん)と玉(ぎょく)で飾られた玉座に着いた砥尚は相変わらず見事だった。しっかりとした体躯(たいく)、英知を窺(うかが)わせる面(おもて)、諸官を見下ろす砥尚の双眸(そうぼう)には依然、強い覇気(はき)が漲(みなぎ)っていて、眩(まぶ)しいほどの威厳を発している。
太宰の号令で三叩(さんこう)の礼が取られ、そして許されて立った栄祝(えいしゅく)が、議事を読み上げる前に、砥尚は手を挙げた。栄祝を遮(さえぎ)り、諸官を見渡す。深く、よく響く声を上げた。
「台輔(たいほ)は、このところの不調で、今日もここに参じることができなかった」
言って砥尚は高斗(こうと)の時代から寸分も変わらない凛(りん)とした貌(かお)を諸官に向けた。
「台輔の不調について、不穏(ふおん)な噂(うわさ)を耳にした。確かに、諸官が不安を抱くのも已(や)むを得ないほど、朝(ちょう)は足踏みを続けている。だが、何度も言うように、私はこれを停滞だとも後退だとも思っていない」
食い入るような諸官の視線が、砥尚(ししょう)の上に集まった。
「国を治めるのに、快く前進するのみでいられるほど、容易(た や す)いことがあるだろうか。辛苦や不安はあって当然、時に足踏みすることも、なければ可怪(おか)しい。政(まつりごと)が平らかな道であるなら、施政に迷って道を失う王などいるはずがない。もとよりこれは苦難の道だ」
だが、と砥尚は力強く言う。
「私には国のあるべき姿が見えている。それを信じればこそ昇山(しょうざん)したのだし、それによって天命を得た。そして、その理想に向かって今日まで道を敷(し)いてきたのだ。理想を見失えば、道を失することもあるかもしれない。しかしながら、私は確かに国のあるべき姿を知っている。間違いなくそれに向かって道を敷いてきている。どんなに登りづらい道でも、これがまさに正道であることには、絶対の確信がある。私に不信を感じるならば、それは私が道に迷っているからではない。お前たちの理想が、登坂(とうはん)の苦しみに負けて揺(ゆ)らいでいるのだ」
朱夏(しゅか)は、はっと息を呑(の)んだ。確かに理想に迷っている。それはあまりに度(ど)し難(がた)い現実のせいだ。どんなに足掻(あが)いても変えられない現実、動かすことができないのは、そもそも掲げた理想に過(あやま)ちがあったからではないかと、朱夏は確かに疑っている。
それを見透(みす)かしたように、砥尚の目が最前列にいる朱夏に留(と)まった。彼はわずかに微笑(ほほえ)む。
「私は些(いささ)かも揺(ゆ)らいでいない。私には依然として見えている。お前たちにも、実はずっと見えているはずだ」
砥尚は言って、外殿に跪(ひざまず)いた臣下の群を見渡した。
「失望や困難に挫(くじ)けて、迷ってはならない」
確信に満ち、あまりにも力強いその声に打たれたように、朱夏の隣(となり)にいた大司寇(だいしこう)がひれ伏した。同様に、叩頭(こうとう)する官の衣擦(きぬず)れが朱夏の左右から湧(わ)き起(お)こった。困惑した朱夏が視線を泳がせた先、栄祝だけは疲労困憊(ひろうこんぱい)したふうの面(おもて)に、強い失意を浮かべている。顔を背(そむ)けて溜息(ためいき)を落とし、諸官のほうを振り返った。視線が朱夏に留まり、栄祝は弱く首を振ってみせる。朱夏は悲しく頭を垂(た)れた。
そうか、と思う。やはり栄祝は昨夜、砥尚を訪ねたのだ。おそらくは夜を徹して、才(さい)の現状、采麟(さいりん)の状態について話をしたのに違いない。一夜の話し合いを経て、砥尚が辿(たど)り着(つ)いた結論がこれなのだ、と朱夏は絶望的な気分で理解した。
砥尚に対する疑念、理想に対する疑惑が、失望や困苦によって生じたものであることは確かだ。
(だけれども……)
朱夏(しゅか)は采麟(さいりん)に会った。あれが失道(しつどう)でなければ何なのだ。慈悲(じひ)の具現たる少女が、病の床から砥尚(ししょう)を呪(のろ)う。まるで憎(にく)んでいるかのような――あの眼差(まなざ)し。
朱夏は真っ黒な澱(おり)が胸の底にわだかまった気分で朝議を耐(た)えた。砥尚の眼前にいることが、あまりにも辛(つら)かった。だが、朝議を終えて砥尚が目の前からいなくなれば、不安で悲しい。自分でも気持ちを持て余し、鬱々(うつうつ)として官邸に戻った。
「お帰りなさい――あれ? だいじょうぶですか」
主楼(おもや)に戻った朱夏を出迎(でむか)えた青喜(せいき)は、開口一番、そう言った。門衛(もんばん)から帰宅を聞いて用意したのだろう、両手で茶器を捧げ持って、ひょいと腰を折り、朱夏の顔を覗(のぞ)きこむ。
「お出掛けになったとき以上に、酷(ひど)い顔色をしてらっしゃいますよ」
「だいじょうぶ。少し疲れただけ」
そうですか、と不審そうに言った青喜は、卓子(つ く え)の上に茶器を載(の)せると、空気が悪い、灯(あかり)が強すぎるなどと呟(つぶや)きながら、ぱたぱたと走り回って窓を開け、燭台(しょくだい)の灯火を細くし、屏風(へいふう)を動かして室内を整えた。ころころと小柄な青喜が、そうやって走り回っている様子は、文字どおり青喜(す ず め)のようだった。朱夏はようやく、息をついた。青喜はいつでも朱夏を不思議に安堵(あんど)させてくれる。
「だから夜更(よふ)かしはいけません、といつも申し上げているのに。昨夜も遅かったでしょう。私はちゃんと灯(あかり)を見てたんですからね」
「ということは、青喜も夜更かしをした、ということではないの?」
「私はいいんです。姉上がお仕事に出掛けてから、仕事を放(ほう)り出(だ)していくらでも昼寝できるんですから」
朱夏は軽く笑った。朱夏を姉とは呼ぶが、青喜は朱夏の弟ではないし、栄祝(えいしゅく)の弟でもない。そもそも青喜は扶王(ふおう)が斃(たお)れた後の混乱で、父母を亡(な)くした孤児だった。幼くして両親を失った青喜を引き取り、手許(てもと)に置いて養育したのが、栄祝の母親の慎思(しんし)だった。慎思は同時に、砥尚の叔母(おば)に当たる。柔和な人格者で、早くに母親を亡くした甥(おい)の母親代わりを務め、砥尚に多大な影響を与えた。その功によって砥尚が登極(とうきょく)した後には、仙籍(せんせき)に叙(じょ)されて三公の次席、太傅(たいふ)に任じられている。慎思の薫陶(くんとう)を受けた青喜は、少年の時分から高斗(こうと)に出入りし、栄祝の身辺の世話をしていた。栄祝を兄と呼び、後には朱夏を姉と呼び、そして十九で拘泥(こ だ わ)りも見せずに栄祝付きの胥(げかん)となって仙籍に入った。以来ずっと、官邸を切り盛りしている。
「兄上はお戻りになるんですかねえ」
青喜は心配そうに戸口を窺(うかが)う。
「どうかしら。……とても大変なときだから」
「今日はどんな具合でした?」
「朝議が始まるまでは、とても辛い雰囲気だったけれど……でも、砥尚(ししょう)が官をすっかり宥(なだ)めてしまったわ」
朱夏(しゅか)は言って、切なく笑った。朝議の様子を話して聞かせると、青喜(せいき)は困ったように眉(まゆ)を下げる。
「主上(しゅじょう)はいまだに確信がおありなんですね……」
「……確信があれば、なお悪い……」
砥尚の鋭気に触れて活気を取り戻した諸官の中、朱夏だけは意気消沈したままだった。覇気(はき)に満ちた砥尚の姿と、彼を信じる官の姿が胸に重く、苦かった。
砥尚は、いわゆる飄風(ひょうふう)の王だった。飄風の王は、傑物(けつぶつ)かそうでないかのどちらかだ、と言われる。だが、少なくとも朱夏ら、高斗(こうと)の党羽(な か ま)は砥尚を傑物だと信じて疑わなかった。真っ先に昇山(しょうざん)するのは当然のこと、選定も受けて当たり前、砥尚の疾風(は や て)のような登極(とうきょく)は、朱夏らにとって自明のことだった。民もまた高斗を――砥尚を支持していた。砥尚は歓喜をもって玉座(ぎょくざ)に迎(むか)えられた。新朝廷は速(すみ)やかに整った。高斗には新しい朝廷を支えるに足る人材がひしめいていた。理想を同じくする党羽たち。進むべき道は明らかで、朝廷の足並みは完全に揃(そろ)っていた。空位による荒廃(こうはい)は最小限、新朝廷は瞬(またた)く間(ま)に整い、動き出した。新しい王朝の輝かしい幕開けだと、誰もが考えた。
しかしながら、実際の才(さい)は、朱夏らが思っていたようには動かなかった。王朝はその当初から無数につまずいた。
砥尚は真っ先に、政務を放棄(ほうき)した扶王(ふおう)の治世下、国権を恣(ほしいまま)にし、国庫を食い荒らしてきた賊吏(ぞくり)の一掃を考えた。多くの官吏(かんり)が罷免(ひめん)されたが、そうすると国は立ちゆかなくなった。――これはたぶん、砥尚のせいではない、と朱夏は思う。
賊吏たちが罷免されたことで、官吏の手が足りなくなった。それだけならまだしも、これら悪吏に阿(おもね)ることで利を得ていた官吏や下官の多くが面当(つらあ)てのように休職し、あるいは執務を拒(こば)んだ。反抗する官吏のすべてを更迭(こうてつ)すれば、国は真実、官吏の絶対数が不足して動かすことができなくなる。屈辱(くつじょく)を耐え、罷免した官吏の多くを復職させるしかなかった。すると今度は民が責める。なぜ一旦は罷免した悪吏を登用するのかと、非難の声が怒濤(どとう)のように押し寄せた。罷免され、戻ってきた高官たちは、砥尚に感謝するでなく、むしろ以前より増長した。いまも国の端々(はしばし)で私利のために民を犠牲(ぎせい)にし続けている。
この例で言うならば、砥尚が道を誤ったわけでは決してない。誤っている者がいるとすれば、それは咎(とが)められても恥じることのない賊吏たちだ。だが、砥尚のどこかに過(あやま)ちがある。だからこそ、結果として官吏(かんり)の整理でさえ満足にできていない。朱夏(しゅか)は、ひょっとしたら国は扶王(ふおう)の末世から一歩も前に進んでいないのではないかと思うことがある。事実、民の暮らしはその当時から少しもましになってはいない。むしろ永年の間に蓄積されたものを、じりじりと切り崩していた。扶王が失ったものなら、砥尚が失っても仕方がない。なのに砥尚(ししょう)は、いまだ確信がある、と言い切るのだ。
「過ちを正さねばならないのに。……確信があるということは、引き返すことはあり得ないということだわ」
「そうですねえ……。でもまあ、さすがは砥尚さまだと申しあげるべきなんでしょうね。ここで官を宥(なだ)めてしまうなんて、そう誰にでもできることじゃないですよ。――相手に不信を感じたときは、実は自分が迷っているとき、か。なるほどなあ」
ひとりうなずいて、青喜(せいき)はふっくらとした頬に笑窪(えくぼ)を刻(きざ)んだ。
「やっぱり凡人とは違いますね。その砥尚さまが、このまま当たり前に道を失ったままなんてことはないですよ。きっとね」
そうね、と朱夏は心許(こころもと)なく笑った。
2
朱夏の懸念(けねん)をよそに、官吏のほとんどは砥尚の確信に満ちた言動によって、一旦は迷いから立ち直ったようだった。采麟失道(さいりんしつどう)の報は何かの間違い、よしんばそうでなくても、いっそうの努力をすれば必ず才(さい)は立ち直り、采麟の病も平癒(へいゆ)するに違いないという楽観的な空気が朝廷に満ちた。国府は活気を取り戻したが、朱夏にはそれが辛(つら)かった。
一方、砥尚は以前にも増して精力的に国府の指導にあたった。意気込みだけは大きかったが、かえって政(まつりごと)は混乱するようになった。本人が言明しているほど、砥尚の言動には確信が見えなかった。むしろ急速に迷いを生じているらしく、午(ひる)にはこうと言っていたものが、夕方には逆に変わる、そういうことが再三起こるようになった。朱夏にはそれが、采麟失道の報を聞いた砥尚が、やはり動転し、我を失っていることの証左に見えた。
だが、故意にか無意識にか、砥尚は依然として自分が追いつめられていることを自覚していないかのような振る舞いを続けている。砥尚の混迷を誰かが指摘(してき)すれば、必ず厳しい叱責(しっせき)があった。しかしながら、法を左右されて困り果てた大司寇(だいしこう)が砥尚を諫(いさ)め、激昂(げっこう)した砥尚に激しく罵(ののし)られたあげく、更迭(こうてつ)されるに及んで、官はついに目を背(そむ)けたものを改めて認めざるを得なかった。砥尚(ししょう)はやはり、道を失おうとしている――。
再び官が意気消沈したその最中、晨鐘(あけのかね)の頃に朱夏(しゅか)は青喜(せいき)に揺(ゆ)すり起こされた。
「……青喜?」
「せっかくお休みのところを申し訳ないんですけど、急いでお起きになってください。小宰(しょうさい)がいらしてます」
朱夏は驚いて臥牀(しんだい)に身を起こした。こんな未明に等しい刻限に、天官長(てんかんちょう)次官がわざわざ邸(やしき)を訪ねてくるとは。
「……御用件は?」
「内々のお話があるようです。ずいぶんと動転していらっしゃいます。私は小宰が落ち着かれるよう、お世話をしてきますから、なるたけお早く。客庁(きゃくま)にお通ししてあります」
「栄祝(えいしゅく)は」
「姉上がお休みになってから、戻ってらっしゃいました。書房(しょさい)で沈没なさってます。姉上のほうが身支度(みじたく)に時間がかかるでしょう。頃合いを見計らってお起こししますから。お可哀想(かわいそう)ですけどね」
そう、とうなずき、朱夏は慌(あわ)てて身繕(みづくろ)いをした。衣服を整える手が震える。念頭に浮かんだのは、采麟(さいりん)のことだった。まさか――もう。
目眩(めまい)すら覚えながら臥室(しんしつ)を出、客庁(きゃくま)に駆(か)けつけた。小宰の蒼白(そうはく)になった顔を見て、何事かと問いかけようとした刹那(せつな)、続いて栄祝が駆けこんできた。
「――何があった」
小宰は目に見えて震えながら跪拝(きはい)する。
「冢宰(ちょうさい)に、至急、左内府(さないふ)までお越しいただきたく」