「台輔(たいほ)に……何か」
栄祝もやはり、それを思ったようだった。だが、小宰は首を横に振る。
「台輔ではなく、太師(たいし)が。――太上(たいじょう)が亡(な)くなられました」
朱夏は驚いて栄祝と顔を見合わせた。砥尚は登極(とうきょく)と同時に親兄弟、親族を仙籍(せんせき)に入れ、位を与えて王宮に召し上げていた。砥尚の父親、大昌(だいしょう)はそもそも人格者として名高く、その弟妹も、慎思(しんし)を筆頭に徳高い人々が揃(そろ)っていた。砥尚の弟、馴行(じゅんこう)も高斗(こうと)の時代から砥尚を支えてきた人物、それら親族に砥尚は位を与え、父親の大昌を三公の首(おびと)、太師に迎え、慎思をその次席、太傅(たいふ)に据えて、馴行(じゅんこう)を末席の太保(たいほ)に据えていた。彼らは慣例どおり、王の親族に与えられる東宮(とうぐう)に自宮を与えられていたが、東宮に住む大昌に奇禍(きか)の降りかかる道理がなく、仙籍に入った以上、急の疾病(しっぺい)もあるはずがなかった。
「そんな莫迦(ばか)な。なぜ」
「それが……何者かが太師(たいし)の御首(みしるし)を……」
朱夏(しゅか)は驚いて声を上げ、栄祝(えいしゅく)は弾(はじ)かれたように小宰(しょうさい)に詰め寄った。
「あり得ない! まさか、太師は殺(あや)められたと申すか」
はい、と小宰は平伏(へいふく)した。
それは未明に起こった。王宮深部の長明宮(ちょうめいきゅう)、ここに宿衛(と の い)する下官の許(もと)に慎思が駆(か)けこんできた。常になく狼狽(ろうばい)した様子で、正殿の様子が変だ、と言う。
慎思は砥尚の父、大昌(だいしょう)と共に長明宮に住んでいた。正殿には大昌が、別殿に慎思が室を得ているのだが、その慎思は、妙な気配を感じて目を覚ました。何か物音を聞いたのかもしれない、あるいは、何か虫の知らせのようなものを感じたのかもしれない、本人も釈然としないながら、何となく目覚め、どうにも大昌の住む正殿のほうが気になって、長明殿を訪ねた。その堂室(へや)に入り、これを見つけたのだ、と慎思は蹤(つ)いてきた下官に示した。
下官は堂室を覗(のぞ)きこんで仰天(ぎょうてん)した。家具が倒れ乱された室内には血飛沫(ちし ぶ き)が跳(は)ね、床には血溜(ちだ)まりができている。その血溜まりの中に、ほとんど首を切り落とされた大昌の死体が横たわっていたのだった。
「……母が見つけたのか? 母上は」
「動転はしておられますが、しっかりしておいでです」
下官は同輩を起こして慎思(しんし)を預け、東宮門殿(とうぐうもんでん)に控(ひか)える夏官(かかん)を呼びにいこうとしたが、その際、長明宮(ちょうめいきゅう)の門が開いており、門殿で不寝(ね ず の)番(ばん)を務めているはずの門衛(もんばん)二名が大昌と同じく殺害されているのを発見した。
「……では、誰が出入りしたのか、分からないのか。東宮にお住まいの他の方々は」
「皆様、自宮に。ただ、太保(たいほ)のお姿が見えません」
「太保――馴行(じゅんこう)どのの?」
はい、とうなずいて小宰は蒼褪(あおざ)めた顔を上げる。
「下官がお捜ししているところですが、お姿が見えません。太保がお住まいの嘉永宮(かえいきゅう)の下官に訊(き)きましたところ、太師(たいし)を訪ねてくると言い置いて出掛けられ、それきり戻っておられないとか」
意味深い沈黙が流れた。王父の死、そして王弟の失踪(しっそう)――これが何を意味しているか。
「……まさか」
朱夏は呟(つぶや)いて栄祝を見る。すぐに頭を振った。それは、あり得ない。馴行は兄、砥尚(ししょう)とは対照的に、いたって朴訥(ぼくとつ)とした慎(つつ)ましい人柄だった。その馴行が人を手にかけるなど。ましてや大昌は馴行にとっても実父、それを殺(あや)めることなどあるはずがない。
朱夏の考えを見透(みす)かしたのか、栄祝がうなずいた。
「とにかくお捜し申しあげねば。――それで、主上(しゅじょう)には?」
「お知らせ申しあげました。事が事ですので、とりあえずは主上と――あとは内々に六官長のお耳にだけは入れるように采配(さいはい)してございます。主上は太傅(たいふ)、太宰(たいさい)と共に左内府(さないふ)で冢宰(ちょうさい)をお待ちです。差し当たっては早急にご相談を、と」
「すぐに行く」
栄祝(えいしゅく)は言って、手早く支度(したく)を整えると、内殿の左内府へと出掛けていった。朱夏(しゅか)は栄祝を送り出し、呆然(ぼうぜん)と主楼(おもや)の床に座りこんだ。
――これは、何。
王朝が傾いて臣(しん)が狼狽(ろうばい)しているこの時期に、忌(い)まわしい出来事があった。選(よ)りに選って王父が殺害され、しかも王弟が姿を消すとは。彼らが住まう東宮は、守備の厚い王宮の中でも最奥にある。王とそこに住む者、身辺を整える天官(てんかん)を除いては、誰も立ち入ることのできない禁域、慎思(しんし)は栄祝の実母だが、その栄祝ですら、東宮に母親を訪ねたことは一度もなかった。彼らの身辺を警護する夏官(かかん)も、守衛するのは東宮門まで。門を守ってそれでよしとされるほど、そこは王宮の奥深い場所にある。
(なぜ……)
朱夏が冷えた床に蹲(うずくま)っていると、芳香と共に、目前に茶器が差し出された。
「今夜はずいぶん、低いところにいらっしゃるんですね」
「……青喜(せいき)」
「腰が低いのは結構なことですけど、身体(か ら だ)が冷えてしまいますよ」
青喜は笑窪(えくぼ)を浮かべて、朱夏(しゅか)の手を引き、椅子(いす)に座らせた。
「さあ、落ち着いて。謀反(むほん)というわけではなさそうですから」
「謀反では……ない?」
「だって、謀反で太師(たいし)を討(う)って何になるんです?」
「そう……そうね」
呟(つぶや)いて、朱夏は茶器を手に取った。掌(てのひら)に包んだ茶器が温(あたた)かい。
「確かにこれでは謀反にはならないわ。ということは、誰かが私怨(しえん)で……ということなのかしら。でも、誰が?」
「さあ。でも、基本的に東宮(とうぐう)に出入りできるのは、東宮にお住まいの皆様を除けば、お仕えする天官(てんかん)と、東宮門を守る夏官(かかん)、兵卒だけですよね」
「その中の誰かが?」
「そういうことになりますけど、本当にそんなことがあるのかな。太師は私怨を買うようなお方ではないし……。しかも、ほら、東宮に剣を持ちこむことは許されませんから。東宮門を守る夏官(かかん)は武器を携(たずさ)えていますけど、佩刀(はいとう)したままで門の内側に踏みこむことはできません。主上(しゅじょう)さえ剣を帯びて入ることはできない――東宮(とうぐう)にお住まいの方々を除いては」
朱夏(しゅか)は茶器を取り落としそうになった。
「青喜(せいき)――まさか……!」
「でも、東宮の方々ってことはないです。――話は最後まで聞かないとだめですよ」
「あ……ああ、そうね」
「長明宮(ちょうめいきゅう)の門衛(もんばん)が殺されたのは、誰かが宮を訪ねてきたってことなんじゃないのかな。門衛は門殿で不寝(ね ず の)番(ばん)を務(つと)めてますからね。でも、東宮にお住まいの方でなかったら、長明宮を訪ねる前に、まず東宮門を通らないといけないでしょう? 東宮門で姿を見られたんだったら、長明宮の門衛に姿を見られたぐらい、どうってことないですよね」
「青喜、それだと、やっぱり東宮の誰かということになってしまうわ」
だから、と青喜はふっくらと笑う。
「話は最後まで聞かないとだめです、って。――東宮の外の誰かなら、必ず東宮門を通るわけだし、あそこにはたんと不寝番がつめているんですから、姿を見られずに通り抜けることなんてできないです。そもそも、深夜のことなんで、門卒(もんばん)に頼んで門を開けてもらわないといけないんですから。すると、東宮にお住まいの誰か、という話になるのですけど、東宮の宮はそれぞれが独立してますよね。別個に門が築かれてます。どの門にも門衛(もんばん)が控えているし、夜間には門を閉ざして宿衛(と の い)している。東宮の誰かが長明宮を訪ねるためには、まず自分のお宅の門を出ていかなきゃならないんじゃないですか?」
「そういうことになるわね……」
「でしょう? でも、狼藉(ろうぜき)を働いた誰かは、自分のところの門衛の口にどうやって蓋(ふた)するんです?」
「それは……長明宮の門衛と同じように……」
「殺したら拙(まず)いでしょう。そりゃ、殺(あや)めてしまえば門衛たちは永遠に口を開くことはできないでしょうけど、門衛が殺されてるってこと自体が、そこに住んでらっしゃる方が、出掛けたことの証拠になっちゃうじゃないですか」
それはそうだ、と朱夏はうなずいた。
「じゃあ……誰? 東宮の誰でもない、東宮の外の誰かでもない、なんて」
「順当に考えれば、お姿の見えない太保(たいほ)が一番疑わしいんでしょうけど、でも、私も馴行(じゅんこう)さまは違うと思うなあ」
そう言ってから、青喜はふいに、首をかしげた。その顔に、何とも言えない奇妙な表情が浮かんだ。
「……どうしたの?」
「いや……何でもないです。ちょっと妙なことを思いついただけで。きっと全然、関係ないことです」
「それは何?」
青喜(せいき)は躊躇(た め ら)い、本当に関係ないと思いますよ、と念を押してから、困ったように笑った。
「いえね、もうひとつ門があるな、と思ったんです」
「もうひとつ?」
「ええ。東宮(とうぐう)の奥に」
朱夏(しゅか)は目を見開いた。――確かに、ある。後宮(こうきゅう)から東宮へと抜ける門が。その門を通れば、東宮門を通らずに東宮へと入ることができる。
「……砥尚(ししょう)」
確かに、砥尚だけは可能だ。砥尚は夜間、王の居宮である正寝(せいしん)で休むが、正寝の奥は後宮、妻妾(さいしょう)を持たない砥尚の後宮はまったくの無人だ。そして、後宮の奥に確か、東宮へと抜ける門が。不要の後宮は現在、全ての宮が閉ざされ、出入りするための門も閉じたままになっているから、そこには門衛(もんばん)がいないはず。つまり正寝にいる者なら、閨門(くぐりど)の閂(かんぬき)を外(はず)すだけで、誰に見られることもなく東宮に入ることができる。
「ああ、そんな真っ青になることはないです。駄目ですよ、こんなの、何でもないに決まってるんですから」
「でも――」
朱夏の脳裏を過(よ)ぎるものがある。大司寇(だいしこう)の諫言(かんげん)に激昂(げっこう)し、彼を罵(ののし)って更迭(こうてつ)した砥尚。このところの砥尚は、意気軒昂(いきけんこう)な振る舞いに反して、明らかに度を失っている。もしも大昌(だいしょう)が砥尚を諫(いさ)め、そのあげくに口論になったとしたら――。
「だめだめ。だいたい、東宮にせよ後宮にせよ、区切っているのは隔壁じゃないですか。王宮じゃあ、騎獣(きじゅう)に乗っちゃいけないことになってますけど、慣例でそういうことになってるだけで乗れないってわけじゃないですからね。飛べる騎獣がいれば、隔壁なんて何でもない。王宮を取り巻いた雲海を越えて、他国からだってやってきて東宮に入ることができるんですから。隔壁と門は、気持ちの上で東宮を隔絶させるもので、実際の障害なんかじゃないです」
「そう……そうよね」
大らかにうなずいて、そして青喜は少し顔色を曇(くも)らせた。
「それより台輔(たいほ)が心配だな。王宮でこんなことがあって、お身体(か ら だ)に障(さわ)ったりしないといいんだけど」
3
その翌日、大昌(だいしょう)の登遐(とうか)が天官(てんかん)によって公(おおやけ)にされたが、その死因については言及されなかった。死ぬはずのない太師(たいし)の訃報(ふほう)に、官は戸惑(とまど)い、不安の色を濃くした。その日、朝議の席に砥尚(ししょう)はついに姿を現さなかった。翌日も朝議に現れず、夕刻になってから突然、采麟(さいりん)の治める節州府(せっしゅうふ)に泥酔(でいすい)して現れ、官を甚(はなは)だしく困惑させた。そして、朱夏(しゅか)が青喜(せいき)と共に左内府(さないふ)に呼び出されたのは、その日の夜のことだった。
左内府で天官と共に待っていた栄祝(えいしゅく)は、疲労困憊(ひろうこんぱい)した顔をしていた。大昌の訃報以来、栄祝は官邸に戻ることができない。栄祝に限らず、天官や夏官(かかん)、そして秋官(しゅうかん)は、あの日以来ずっと内殿と外殿を往復していて、ろくに眠る暇もないありさまだった。栄祝の疲労は当然のことだが、朱夏は久々に見た夫の窶(やつ)れように少なからず驚いた。
「ふたりに問いたいことがある。――特に青喜、お前だ」
「私、ですか?」
栄祝は言って、青喜を椅子(いす)に座らせ、自身も卓子(つ く え)を挟(はさ)んで腰を下ろした。周囲には、太宰(たいさい)、小宰(しょうさい)らが控(ひか)えている。
「太師が身罷(みまか)られた日、お前が太保(たいほ)と話しこんでいた、と聞いたのだが」
青喜は瞬(またた)いた。
「太保と――ええ、はい。松下園(しょうかえん)でお会いしました。兄上に着替えを届けにこちらに伺(うかが)って、戻る途中でお目にかかり、路亭(あずまや)で少しお話をしましたけど」
「その話とは?」
朱夏は不安に駆(か)られて口を挟んだ。
「それがいったい、何だというのです? 太保は、その後」
「行方(ゆくえ)は分からないままだ。……太保はあの日、夜になってから太師、太傅(たいふ)と共に三公府(さんこうふ)を出られ、一旦は嘉永宮(かえいきゅう)に戻られてから、すぐにお出掛けになっている。太保の側仕(そばづか)えによると、長明宮(ちょうめいきゅう)に行く、戻りはいつになるか分からないから、刻限になったら門を閉めてよいと言い置いて出られたそうだ。そして、そのまま宮にはお戻りでない。東宮門(とうぐうもん)も通っておられず、まったく所在が分からない」
大昌の遺体は、誰かが背後から一太刀(ひとたち)を浴びせたことを示していた。本来なら致命傷になって当然の深手(ふかで)だったが、幸か不幸か大昌は仙(せん)だ。斬(き)られてなお逃げ惑(まど)い、それを斬撃が追った。大昌(だいしょう)の傷は大小六、倒れこんだ大昌の首に振り下ろされた一太刀(ひとたち)が王父の命を奪ったものらしかった――と、栄祝(えいしゅく)は顔を歪(ゆが)めて語った。
「そのせいだろう、長明殿(ちょうめいでん)の中は血飛沫(ちし ぶ き)で酷(ひど)いありさまだった。堂室(へや)の中は言うに及ばず、回廊(かいろう)にまで血溜(ちだ)まりができていた。――だが、それを見て大司馬(だいしば)が妙だと言うのだ。ひとりぶんの血痕(けっこん)にしては多すぎるような気がする、と」
「では、まさか太保(たいほ)も」
「分からない。堂室に敷(し)いてあった佳氈(しきもの)が消えていたので、太保もまた殺(あや)められ、運び出されてしまったのかもしれない。あるいは、逆に太保が狼藉者(ろうぜきもの)を成敗(せいばい)したのかもしれず、太保はその罪に動転して逃げ出されたのかもしれない。または、太師を襲ったのは太保で、太保に手を貸した者があり、それが口封じのために殺められたのかも」
「そんな――太保はそんな方ではありません!」
朱夏が叫ぶと、栄祝は深い溜息(ためいき)を落とした。
「……朱夏(しゅか)、太保には主上(しゅじょう)に反意ありとの噂(うわさ)があった」
え、と朱夏は声を上げた。
「まさか」
「私にも信じられない。だから単なる噂だと思っていたのだ。出来の良すぎる兄を嫉妬(しっと)して恨(うら)み、それで主上が躓(つまず)いたこの時期に、何事かを起こすのではないか、という話だったが、下衆(げす)の勘(かん)ぐりだとよくよく聞きもしなかった。……しかし」
栄祝は言葉を切った。そして改めて青喜(せいき)に向かう。
「そこで、ぜひとも青喜に訊(き)きたい。松下園(しょうかえん)で太保と何を話した? 太保に常とは変わった様子がなかったか」
いいえ、と青喜は言いかけて、それから、ふっと口籠(くちご)もった。
「……いえ、そう言われてみれば、あの日の太保は、少しばかりいつもと違ってました」
確かに変事のあった日、もう陽(ひ)が落ちようとしていた頃だったと思う、と青喜は言った。内殿の左内府(さないふ)からの帰り、松下園を通り抜けようとして、回廊(かいろう)の傍(かたわ)らにある路亭(あずまや)に座りこんでいる馴行(じゅんこう)に会った。馴行は何やら考えこんでいる様子だった。声をかけるのも憚(はばか)られたが、だからといって無視もできず、とりあえず跪(ひざまず)いて挨拶(あいさつ)だけはした。すると、馴行のほうから話しかけてきたのだ、と言う。
「青喜、久しいな。こんなところで、どうした」
馴行は深刻そうな貌(かお)を和(なご)ませて、青喜に問うた。太保である馴行は、位の上では青喜の遥(はる)か高みにいるのだが、同じく太傅(たいふ)の慎思(しんし)を仮の母として育っている。それで高斗(こうと)の時代から、いたって気安い間柄だった。
「お久しぶりです。兄上に着替えを届けにいったところです」
青喜(せいき)が答えると、馴行(じゅんこう)は、ああ、と呟(つぶや)いて表情を曇らせた。
「栄祝(えいしゅく)は連日左内府(さないふ)に泊まり込んでいるのだとか。さぞかし心を痛めているのだろうな」
「もともと主上(しゅじょう)のことになると、心配性の方ですからね」
青喜は笑ってみせた。馴行もちらりと笑い、そして打ち沈んだ様子で深い溜息(ためいき)を落とした。もともと馴行は貧相(ひんそう)に痩(や)せた小男だが、この日は常より顔色も悪く、いっそう小さく、頼りなげに見えた。
「……せめて主上が、もう少し冷静に栄祝の言葉に耳を貸してくださるといいのだが。最近の主上は、すっかり度を失っておられて……」
「主上もちょっぴり焦(あせ)っておいでなのでしょう」
だといいのだが、と馴行は低く呟いた。
「主上が御自分の置かれた状況を分かっておいでで、それで焦っておられるのなら、お慰(なぐさ)めのしようもあるのだが。私には、どうもそういうふうには見えない。……日に日に不安になってしまう。そういう不遜(ふそん)な気分になるのは、私だけなんだろうか」
「不安、ですか?」
馴行は実直そうにうなずく。
「台輔(たいほ)が不調でいらっしゃるのは、主上の進む道にどこか間違いがあるからなのじゃないのだろうか。なのに、頑(かたく)なに確信があると仰(おっしゃ)る」
「……ああ……まあ、そうですね」
「確かに、私には主上が非道(ひどう)に陥(おちい)ったとは思われない。けれども、非道でないことが即(すなわ)ち正道(せいどう)であるとは限らないだろう。主上が間違いなく正道を歩んでおられるのなら、台輔に不調の起こるはずがないし、国の治まらないわけがない……」
ええ、と青喜は言葉を濁(にご)した。
「――主上もそれを分かっておられるからこそ、とても苦しんでおられたし、とても悩んでおられたのだと思うのだ。父や叔母(おば)にも何度も相談なさって、私のような者にまで意見を求められていた。なのにこの頃になって、確信があると仰る。それもああも頑なに」
確かに砥尚(ししょう)は昨年の末まで、ひどく悩んでいる様子で、盛んに慎思(しんし)らのいる三公府(さんこうふ)や東宮(とうぐう)に足を運んでいるようだと、青喜も耳にしていた。
三公は采麟(さいりん)と共に王を補弼(ほひつ)する。官吏(かんり)としては宰輔(さいほ)の下位に位置するが、宰輔を補助するわけではなく、あくまでも王の相談役となり教師となる。その三公のところに頻々(ひんぴん)と通い、居宮にまで足を運んでいたというだけで、砥尚がどれほど悩んでいたか分かろうというものだ。にもかかわらず、砥尚(ししょう)はいきなり前向きになった。年が明けて采麟(さいりん)がしばしば不調を訴えるようになり、まさか最悪の病の前兆では、という声がちらほらと聞かれるようになった頃のことだった。
青喜(せいき)は考えこみ、そしてふと馴行(じゅんこう)を見上げた。
「太保(たいほ)は以前、台輔(たいほ)から賜(たまわ)った華胥華朶(かしょかだ)を主上(しゅじょう)に献上なさったとか」
砥尚の悩みは一口に言って、理想の是非に尽きるだろう。理想に向かって道を敷(し)いているつもり、なのに国は一歩も理想に近づこうとしない。ならば華胥華朶がそれを正してくれたはずだ。砥尚の夢に国のあるべき姿を映し出して。
馴行はうなずいた。
「なにしろひどく迷っておられるようだから、少しでも助けになればと。華胥華朶ならその迷いを取り除いてくれるのじゃないかと、そう思ったんだが……」
「主上は、華胥華朶をお使いにならなかったんでしょうか」
「どうだろう。ただ、私があれを差しあげたとき、主上はひどく気分を害された御様子だった。台輔に差しあげたものを取りあげて、兄に恥(はじ)をかかすのか、とお叱(しか)りをいただいたから……」
「おやまあ」
「でも、とりあえず受け取ってはくださったのだが。ひょっとしたら、台輔にお返しになったのかもしれないな」
「それはないんじゃないかな。……先日、姉上が台輔にお会いしたとき、華胥華朶をお持ちでなかったと言っておられましたから」
その代わりに抱いた一枝。醜(みにく)く枯(か)れたそれが、采麟の頬(ほお)を傷つけていた――それがあまりに不憫(ふびん)で悲しかった、と。
「そうか。……では、やはり華胥華朶を使われたからこそ、ああいう態度になってしまわれたのかもしれないな。ちょうど時期も合う」
青喜は瞬(またた)いた。
「それは……どういう? やはり主上の理想は間違っていないと、華胥華朶が保証したんだ、ってことですか?」
「それはあり得ない」
馴行は珍しくきっぱりと言い切った。
「――むしろ、そうでなかったからこそ、兄はああいう態度をとらないではいられないのじゃないだろうか」
「はあ……?」
「兄はこれまでに間違ったことがない。いつだって兄は正しかった。私はそれが不安だ。一度も過(あやま)たなかった者が、たった一度、それも国政という大事で過ったとき、それを認めることなんて、できるのだろうか」
ああ、そうか、と青喜(せいき)はうなずいた。砥尚(ししょう)はこれまで、自己の非による挫折(ざせつ)など経験したことがないと思う。その証左に対峙(たいじ)して、かえって自分の正義に固執するようになる――そういうことは充分にあり得ることのような気がした。
青喜は溜息(ためいき)をついた。自然、重い溜息になった。挫折(ざせつ)を認めることができなければ、砥尚には引き返す術(すべ)がない。このままでいれば、砥尚(ししょう)の命運はいずれ尽きてしまう。栄祝(えいしゅく)と朱夏(しゅか)にとっては朋友(ほうゆう)、青喜にとっても尊敬すべき党魁(とうかい)であり、同じ慎思(しんし)に養われた仲、その砥尚が采麟(さいりん)と共に不帰路(ふきじ)を辿(たど)る――。
「どうして、こんなことになっちゃったんでしょうね……。主上にどんな過ちがあったのかなあ」
「青喜は、少しも兄の正道を疑ったことはないか?」
馴行(じゅんこう)に訊(き)かれ、青喜は意外に思って首をかしげた。
「ありませんけど……。太保(たいほ)は、おありなんですか?」
青喜が訊くと、馴行は少しの間、迷うように口を噤(つぐ)んでいた。やがて、自身の脇(わき)を示す。座ったらどうだ、と勧(すす)められて、青喜は路亭(あずまや)の隅(すみ)に腰を下ろした。
「私は、兄が目指そうとしているものが、本当に国のあるべき姿なのか、疑問に思う。実を言うと、ずっとそう感じていた」
言って馴行は、どこか泣き出しそうな表情で笑う。
「いまさらこんなことを言うなんて卑怯(ひきょう)だ、と青喜は思うだろうな。自分でも卑劣だと思うんだ。それでも、私は」
「そんなふうに思ったりはしませんけど……」
馴行は傑物(けつぶつ)の兄をずっと崇拝してきたのだ。砥尚が高斗(こうと)を旗揚(はたあ)げするや、兄の許(もと)に馳(は)せ参(さん)じ、兄に比較して魯鈍(ろどん)な弟だと冷笑されながらも反発するでなく、砥尚のために身を粉(こ)にしていた。その馴行に、兄に対して異論の言えたはずがない。
そうか、と馴行は俯(うつむ)く。
「……私は、ほんの少し疑問を感じていた。兄が、あるべき姿として語る国は、あまりにも立派すぎるように見えたんだ。この園林(ていえん)のように」
言って、馴行は路亭(あずまや)の框窓(と ぐ ち)から見える松下園(しょうかえん)の風景を示した。
「奥深い渓谷の風景だ。翠(みどり)に覆(おお)われた築山(つきやま)があって、完璧(かんぺき)に美しい石が作る峰があって、断崖(だんがい)の上からは泉が湧(わ)いて澄んだ流れを作っている。深山幽谷(しんざんゆうこく)――そういう風景を造っているのだろう?」
「ええと……そういうことなんでしょうね」
「けれども、あの峰は軒(のき)の高さほどもないんだ。何もかもが実際よりも小さい。所詮(しょせん)は人の造った景色だ。小さいからこそ、人の手で造ることができたのだし、こうして整えることができる。渓流を覗(のぞ)きこむ松は、どれも枝を綺麗(きれい)に整えられている。雑草の一本もなければ、流れを塵芥(ちりあくた)が汚していることもない。この景色からは、見苦しいものがまったく取り除かれている……」
馴行(じゅんこう)は立って框窓(と ぐ ち)の向こうを眺(なが)め、そして青喜(せいき)を振り返った。
「この風景の中には、私のような取り立てて才気(さいき)もなく、見栄(みば)えもしない、そういう者の居場所がない」
「太保(たいほ)、……そういう言い方は」
「慰(なぐさ)めはいらない、青喜。私は自分の器量(きりょう)ぐらい分かっているつもりだ。確かに兄は傑物(けつぶつ)なのだと思う。常に正しく、誤らない。私などとは全然違う。兄はいつも、私に理想の才(さい)を語ってくれた。それは本当に素晴らしい国だったけれども、私は少し寂(さび)しかった。兄の語る才には、私のような者の居場所がないように思えたからだ」
けれども、と馴行は固く手を握(にぎ)り合(あ)わせる。
「世の中には、私のような者のほうが多いのじゃなかろうか」
「でも……ですけどね」
「兄はとても立派だ。朱夏(しゅか)も、栄祝(えいしゅく)も――高斗(こうと)にいた者たちは皆とても立派で、私には眩(まぶ)しかった。でも、民の多くは私のような者なんだ。皆から見れば、小物で魯鈍(ろどん)で、無様(ぶざま)な」
「太保、兄上も姉上も決して」
馴行は強く首を振る。
「現実の人間には、疵(きず)がある。不備があるんだ。全員が兄のように完璧(かんぺき)じゃない。私は兄の語る理想が、まるでこの園林(ていえん)を造ろうとするもののように聞こえた。だが、国を造るということは本当の深山幽谷(しんざんゆうこく)を作ることなんじゃないのだろうか。こんな小さな石じゃないんだ、現実は。本当の岩壁を動かして美しい峰を造り、水を動かし樹木を動かして景色を整えることなど、果たして人間にできるんだろうか」
「それは……確かに、無理でしょうけど」
「私には、兄の語ってくれる才(さい)が、美しい夢幻(むげん)のように聞こえた。けれども、きっとそれをこそ理想と言うのだろうと、そう思っていたんだ。理想の才など造ることができるはずもない。そんなことは兄も承知で、常に念頭に置いて、一歩でも近づけるよう目指す――理想とはそういうもので、だからどんなに高くてもいい、高いからこそ理想と言うのだろう、と」
「ええ……」
「でも、兄は本当に、それを実現しようとしている。けれど――その国は、私に言わせれば牢獄(ろうごく)だ」
「――太保(たいほ)」
「だって、そうだろう? 兄の思い描く国には、愚(おろ)かで無能な者の居場所などないんだ。官吏(かんり)はすべて道を弁(わきま)え、決して私欲に溺(おぼ)れず勤勉で有能でなければならない。民はすべて道を守り、善良で謙虚(けんきょ)で、働き者でなければならない。そうでない者の存在など、端(はな)から織りこまれていないのだから。では、そうでない民はどこへ行けばいいんだ? 国を追われるのか、殺されるのか、それとも絶対に悪心や怠惰(たいだ)を起こすことがないよう、監視され矯正(きょうせい)されるのか?」
「ええと……それは」
「それが兄の目指す国なら、私にとっては牢獄に等しい。――私にとって、あるべき姿をした国とは、そんな場所ではない。多少の怠惰(たいだ)や、狡(ずる)い振る舞いや、愚かや無能を包容できる余裕のある国だ。私はこのところ、真の理想郷とは、そうであるべきなのじゃないかと思う」
「そうなのかもしれませんけど」
「けれども、いまも兄は、自分が思い定めた理想を現実にすべく邁進(まいしん)している。実現するはずもない、あるべき姿に向かって突き進もうとしていて、それに些(いささ)かの疑問も抱いていないんだ。私は、兄は間違っていると思う……。そう申しあげるのだが、少しも耳を貸してはくださらない……」
青喜(せいき)が見上げた馴行(じゅんこう)の横顔は、悲壮(ひそう)な表情を湛(たた)えていた。
「……そういう話をして、それきり太保(たいほ)は、口を閉ざしてしまわれて。それでちょっと後味(あとあじ)が悪いまま御前(ごぜん)を退(さが)って、それきりです」
青喜の言に、栄祝(えいしゅく)は重々しい沈黙を作った。青喜は気拙(きまず)そうに栄祝を見上げる。朱夏(しゅか)は口を挟(はさ)んだ。
「……確かに、太保の仰(おっしゃ)りようは主上(しゅじょう)に対する批判ではあるのでしょうが。……でも、太保がもしも、万が一、主上に反意を抱いていたとして、それで太師(たいし)を殺(あや)める必要がどこにあるのです?」
「それはそうだが」
それよりも、むしろ――と、朱夏(しゅか)は口にしそうになり、危(あや)うく思い留まった。
馴行(じゅんこう)は三公府(さんこうふ)から戻るなり長明宮(ちょうめいきゅう)に出掛けた。それは太師(たいし)――父親である大昌(だいしょう)に、自らの思いを伝えにいったから、あるいは相談をしようと思ったからだとは考えられないだろうか。大昌も馴行の言に一理があると認め、そこに砥尚(ししょう)が来るなり呼ばれるなりして、姿を現す。二人は砥尚を諫(いさ)め、そして口論になる。激昂(げっこう)した砥尚は大昌を殺(あや)め、辛(から)くも逃げ出した馴行は、砥尚を恐れて王宮から逃れ出る。
「そう……太保(たいほ)だとは思えません。だって、太師は御首(みしるし)を落とされていたと」
栄祝(えいしゅく)は怪訝(けげん)そうにうなずいた。
「そんなことが、太保に可能でしょうか? そもそも馴行さまは、高斗(こうと)の頃から、満足に武器を手に取られたことがありませんでした。貴方(あ な た)も覚えているでしょう?」
民と一緒に戦わねばならないときにも、馴行は恐れて武器を手にしようとはしなかった。一部ではそんな馴行を陰で指さし、意気地(いくじ)なしだと嘲笑(ちょうしょう)していた。
「ああ……確かに」
「ろくに武器を手に取ったこともなく、剣技の心得もない馴行さまが、一太刀(ひとたち)で深手(ふかで)を負わせ、さらには首を落とすなどということが可能なのでしょうか」
栄祝は考えこんだ。
「……確かにあれは、剣技を知る者の仕業(しわざ)だろうな……」
「太保ではありません、栄祝。太保には不可能です」
そうかもしれない、と栄祝はうなずき、そして宙を見据(みす)えた。
「しかし、ならば誰が?」
呟(つぶや)いて、すぐに栄祝は目を見開く。はっとしたように朱夏を見た。朱夏は小さくうなずいてみせる。栄祝もその恐ろしい可能性に気づいたのだ。
栄祝は狼狽(う ろ た)えたように太宰(たいさい)らを窺(うかが)い、そうして深く重い溜息(ためいき)を落とした。朱夏もまた失意をこめて息をついた。――その時だった。
堂室(へや)の扉が唐突に開いた。雪崩(なだ)れこんできたのは、甲冑(かっちゅう)で身を固めた禁軍の兵卒たちだった。先頭に立っていたのは、左軍の師帥(しすい)、これが書状を一同に向かって突きつけた。
「冢宰(ちょうさい)、及び大司徒(だいしと)、そして太宰及び小宰におかれては、謀反(むほん)の疑いあり、よってお身柄を拘束させていただく」
4
朱夏は愕然(がくぜん)としたし、栄祝や他の者も同様だった。それはどういうことだと、声を揃(そろ)えての抗議も空(むな)しく、朱夏(しゅか)らは全員が腰縄(こしなわ)を打たれ、左内府(さないふ)の一室に押しこめられることになった。事情が分かったのは、大司寇(だいしこう)が更迭(こうてつ)されたのち、いまだ位の埋まらぬ長に代わって秋官(しゅうかん)を指揮(しき)する小司寇がやってきてからだった。