「食費を差し引かせてもろただけや。ピザを食うたり、ビールを飲んだりしたやろ。それでも千五百円なら安いはずやで」
この話に村下が納得してしまったので、友彦もそれ以上は文句をいえなくなった。それに初体験を終えたばかりで、気分が昂揚《こうよう》していた。
「嫌やなかったら、これからもひとつよろしく頼むわ。あの二人はおまえらが気に入ったみたいやから、もしかしたらまたお呼びがかかるかもしれん」桐原は満足そうにいったが、すぐに厳しい顔つきになって付け加えた。「念のためにいうとくけど、絶対に個人的に会《お》うたりするなよ。こういうことは、ビジネスライクにやってるうちはアクシデントも少ない。妙な気を起こして単独プレイに走った途端、おかしなことになる。今ここで俺に約束してくれ。絶対に個人的には会うな」
会わない、と村下が即座に答えた。それで友彦は、ためらう素振りさえ見せにくくなってしまった。「わかった、会えへんよ」と彼は答えた。それを見て桐原は満足そうに大きく頷いた。
あの時の桐原の表情を思い出しながら、友彦はジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだ。そこに一枚の紙が入っている。それを取り出し、机の上に置いた。
七桁の番号が並んでいる。電話番号だということは明らかだ。その下に『ゆうこ』とだけ書いてあった。
部屋を出る直前に、ポニーテールの女から素早く手渡されたメモだった。
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少し酔っていた。一人で飲んだのは何年ぶりだろうと考えた。答えは出なかった。それほど久しぶりということだ。情けないことに、声をかけてくる男は一人もいなかった。
アパートに帰り、部屋の明かりをつけると、奥のガラス戸に自分の姿が映った。カーテンが開けっ放しになっているからだ。西口|奈美江《なみえ》は気持ちが重たくなるのを感じながらガラス戸に近づいた。ジーンズの短いスカート、ジャケット、その下に着た赤いTシャツ。少しも似合っていない。昔の服を引っ張り出し、無理をして若作りをしてみても、ただ見苦しいだけだ。あの高校生たちも、きっとそう思っていたに違いない。
カーテンを閉め、服を乱暴に脱ぎ捨てた。下着姿になってから、ドレッサーの前に座り込んだ。
艶のない肌をした女の顔がある。目にも輝きといえるものはなさそうだ。漫然と毎日を送り、漫然と年老いていく女の顔だ。
バッグを引き寄せ、中から煙草とライターを取り出した。火をつけ、ドレッサーに向かって煙を吹きかける。鏡に映った彼女の顔が、一瞬、紗《しゃ》がかかったようになった。いつもこんなふうに見えていたらいいのにと彼女は思った。小皺が見えなくなるからだ。
先程マンションで見せられた淫《みだ》らな映像が脳裏に蘇《よみがえ》ってくる。
「一度だけ付き合ってみない? きっと後悔しないと思う。かわりばえのしない毎日を送ってたって仕方がないでしょう? 大丈夫。絶対に楽しいから。たまには若い男の子と接しないと、ますます老け込んじゃうわよ」
職場の先輩だった川田和子から誘われたのは一昨日のことだ。通常ならば、迷いなく断っていただろう。しかし奈美江の背中を押すものがあった。それは、このへんで自分自身を変えなければ一生後悔するのではないか、という思いだった。ためらいながらも、彼女は川田和子の誘いに乗っていた。和子は妙にはしゃいでいた。
だが結局奈美江は逃げだしてしまった。あの異常な世界に浸ることができなかった。高校生たちに対して女の匂いを発散している和子たちの姿態を目にし、吐き気に似た不快感を覚えてしまった。
あれが悪いとは思わない。あそこに身を置くことで心身をリフレッシュできる女性もいるのだろう。しかし自分はその種類の人間ではないと奈美江は思った。
壁に貼ったカレンダーに目を向ける。明日からまた仕事だ。つまらないことで貴重な休暇を使ってしまった。西口さんは昨日はデートだったの――嫌味を込めて、そんなふうに尋ねてくる上司や後輩たちの表情を想像すると、気持ちが重くなった。明日は誰よりも早く出勤しよう。そして仕事にかかるのだ。そうすれば話しかけづらくなるに違いない。目覚まし時計のアラームを、いつもより早めにセットして――。
時計?
ブラシを取り、髪を二、三度とかしたところで奈美江は手を止めた。あることに気づいたからだ。はっとして傍らのバッグを開け、中を引っかき回した。しかし目的のものは見つからなかった。
しまった――。
奈美江は唇を噛んだ。どうやら忘れてきたらしい。しかも、まずい場所に。
腕時計だった。高価なものではない。だからこそ気軽に、どこへでもはめていってしまう。いつ紛失したってかまわない、そう思ってきた。すると不思議なもので、いつまでもなくさない。そのうちに愛着が湧いてきた――そういう時計だった。
トイレに入った後だ、と思い出した。洗面所で手を洗う時、いつもの癖で無意識に外してしまった。そのまま忘れてきたのだ。
彼女は電話の受話器に手を伸ばした。川田和子に確かめてみるしかなかった。彼女を介さなければ、あのリョウとかいう青年に連絡をとれない。
もちろん気乗りはしなかった。逃げだしたことについて和子から何かいわれそうだった。しかしこのままにはしておけない。バッグからアドレス帳を取り出し、番号を確認しながらダイヤルを回した。
幸い和子は帰っていた。電話をかけてきたのが奈美江だと知ると、「あらあ」と意外そうな声を出した。幾分|揶揄《やゆ》するような響きもあった。
「さっきはすみません」と奈美江はいった。「何だかちょっと、その……気分が乗らなくなっちゃったんです」
「いいの、いいの」和子の口調は軽かった。「あなたには少し無理だったかもね。ごめんなさい。あたしのほうが謝らなきゃね」
あの程度のことで逃げるなんて意気地なしね――そういっているように奈美江には感じられた。
「あの、じつは――」
奈美江は時計のことを切り出した。洗面台に忘れてきたように思うのだが、気づかなかったか、と。
しかし和子の答えは、「見なかったわねえ」というものだった。
「誰かが気づいたなら、たぶんあたしにいったと思うの。そうすれば、預かってたんだけどねえ」
「そうですか……」
「たしかにあの部屋に忘れてきたの? 何なら、調べてもらおうか?」
「いえ、あの、とりあえずそれは結構です。あの部屋ではなかったかもしれないので、もう少しほかの場所を探してみます」
「そう? じゃあ、もし見つからなかったらいってちょうだい」
「はい。どうも夜分すみませんでした」
奈美江は早々に電話を切った。大きなため息が出た。どうしよう――。
時計のことなど諦めてしまえば話は早い。元々、なくしてもかまわないと思い続けてきたのだ。今回にしても、忘れてきた場所がほかのところであったなら、迷いなく諦めただろう。
しかし事情が違っていた。あの場所に、あの時計を忘れてきたのはまずかった。ほかの時計なら、何の問題もなかった。奈美江は激しく後悔した。あんなところへ行くのに、なぜあの時計をはめていったのだろう。時計なんて、ほかにも持っていたのに。
何度か煙草を吸った後、灰皿の中でその火を消した。じっと空間の一点を見つめる。
ひとつだけ方法があった。奈美江はその方法が無謀でないかどうかを頭の中で吟味した。すると、さほど難しくないのではないか、という気になってきた。少なくとも、危険だとは思えなかった。
ドレッサーの上に置かれた時計を見た。十時半を少し回ったところだった。
十一時過ぎに奈美江は部屋を出た。人目につかないためには、なるべく遅いほうがいい。しかし遅すぎては地下鉄の終電に間に合わなくなるおそれがあった。彼女のアパートの最寄り駅は四つ橋線花園町駅で、西長堀駅に行くにはなんばで乗り換えなければならない。
地下鉄はすいていた。座ると向かい側のガラスに彼女の姿が映った。黒縁の眼鏡をかけ、トレーナーにデニムのパンツといった色気のない格好をした、明らかに三十代半ばの女がそこにいた。このほうがやっぱり落ち着く、と彼女は思った。
西長堀に着くと、昼間川田和子と共に通った道を歩いた。和子は浮き浮きしていた。どんな男の子が来るか楽しみ、ともいっていた。奈美江は調子を合わせつつも、あの時すでに気持ちが臆《おく》しているのを自覚していた。
殆ど迷うことなく、例のマンションに着いた。階段を三階まで上がり、三〇四号室の前に立った。まずインターホンのボタンを押してみる。心臓の鼓動が激しくなった。
だが応答はなかった。ためしにもう一度チャイムを鳴らしたが、結果は同じだった。
ほっとすると同時に緊張した。奈美江は周囲を見ながら、ドアのすぐ横にある水道のメーターボックスの扉を開いた。昼間、川田和子が水道管の陰から合鍵を取るのを見ていた。
「馴染み客になると、合鍵の場所を教えてくれるのよね」和子は嬉しそうにいっていた。
奈美江が同じところに手を伸ばすと、指先に触れるものがあった。思わず安堵の吐息が漏れた。
合鍵を使って錠を外し、おそるおそるドアを開けた。室内には明かりがついていた。だが玄関に靴はない。やはり誰もいないようだ。それでも彼女は物音をたてぬよう、慎重に部屋に上がり込んだ。
昼間は片づいていたダイニングテーブルの上が散らかっていた。奈美江にはよくわからなかったが、細かい電気部品や計測器のように見えた。ステレオか、それともあの映写機の修理でもしているのだろうかと彼女は思った。
いずれにしても、誰かが何かをしている途中のようだ。彼女は少し焦った。その誰かが戻ってくる前に時計を見つけねばならない。
彼女は洗面所に行き、小さな洗面台の前を探した。ところがたしかに置いたはずの場所に腕時計はなかった。誰かが気づいたということか。ならばなぜ川田和子に預けなかったのか。
不安になってきた。もしかすると、高校生の一人が時計を見つけたのではないか。その彼はわざと誰にもいわなかった。こっそり自分のものにするためだ。質屋にでも持っていけば、いくらかにはなるだろうと考えたかもしれない。
全身が熱くなるのを奈美江は感じた。どうすればいいだろう。
彼女は冷静になろうとし、まず息を整えた。自分の勘違いである可能性について考えた。洗面所に忘れたと思ったが、それは錯覚かもしれない。外した腕時計を手に持って部屋に戻り、何気なくそのへんに置いたのかもしれない。
彼女は洗面所を出て、和室に足を踏み入れた。畳の上は奇麗に片づいている。あのリョウという青年が片づけたのだろうか。彼は一体何者だろう。
昼間は取り外されていた襖がはめられていたので、ベッドを置いてあった部屋が見えなかった。彼女はゆっくりと襖を開いた。
まず奇妙なものが目に飛び込んできた。それはテレビ画面だ。中央にテレビのようなものが置かれ、そこに何か映っているのだ。ふつうの映像ではない。彼女は顔を近づけた。
これは――。
いくつもの幾何学模様が画面上で動いていた。最初は単純に模様が変化しているだけかと思ったが、そうではなかった。よく見ると中央にロケットの形をしたものがあり、それが前方から来る円形や四角形の障害物をよけながら前に進もうとしているのだった。
テレビゲームの一種だろうかと奈美江は思った。彼女も何度かインベーダーゲームをしたことはある。
画面の動きはインベーダーゲームほどスムーズなものではなかった。しかし次々に襲ってくる障害物を見事にかわすロケットの動きには、つい見とれてしまうものがあった。事実彼女は見とれていたのだろう。だから小さな物音にも気づかなかった。
「気に入ったようやな」
突然後ろから声をかけられ、奈美江は小さな悲鳴をあげた。振り返るとリョウと呼ばれた青年が立っていた。
「あっ、ごめんなさい。あの、忘れ物をしたものだから、あの、合鍵のことは川田さんから聞いていて……」奈美江は狼狽し、しどろもどろになった。
しかし彼は彼女の言葉など聞いていないようだった。黙って彼女をどかせると、画面の前で胡座をかいた。さらに傍らに置いてあったキーボードを膝の上に載せ、両手の指を使っていくつかのキーを叩いた。
たちまち画面上の動きが変わった。障害物の動きが速く、多彩になった。リョウはキーを叩き続ける。ロケットが障害物を次々とかわしていった。
奈美江にも、彼がロケットの動きを操作しているのだとのみ込めた。先程までは自動的に動いていたロケットが、今は彼の指先によって、前後左右に動かされている。
やがて円形の障害物がロケットに激突した。ロケットは大きな×印に変わり、続いて画面上に『GAME OVER』の文字が出た。
彼は舌打ちをした。「やっぱり速度が遅い。ここらが限界かな」
何のことをいっているのか、無論奈美江にはわからない。それよりも、一刻も早くこの場から逃れたかった。
「あの、あたし、帰るから」立ち上がりながら彼女はいった。
すると背中を向けたまま、リョウが訊いてきた。「忘れ物は見つかった?」
「ああ……ここじゃなかったみたい。ごめんなさい」
「そう」
「じゃ、おやすみなさい」
奈美江は身体の向きを変え、歩きだした。その時、後ろから彼の声が聞こえた。
「勤続十年記念、大都銀行昭和支店……か。堅い仕事をしてるんやな」
彼女は足を止めた。振り返るのと、彼が立ち上がるのが、ほぼ同時だった。
彼が彼女の顔の前に右手を出した。その手に腕時計がぶら下がっていた。
「これやろ、忘れ物は」
一瞬とぼけようかと思ったが、彼女はそれを受け取っていた。「……ありがとう」
リョウは黙ってダイニングテーブルのほうへ歩いていった。テーブルの上にはスーパーの袋が置いてあった。彼は椅子に座り、袋の中のものを取り出した。缶ビールが二つと折り詰め弁当が一つだった。
「晩御飯?」と彼女は訊いた。
彼は答えなかった。代わりに何かに気づいたように缶ビールの一つを持ち上げた。「飲むか?」
「あ……いらない」
「そうか」彼はそのまま缶ビールの蓋を開けた。白い泡の粒が飛んだ。あふれる泡を受けるように彼はビールを飲んだ。彼女には全く用がないように見えた。
「あの……怒らないの?」奈美江は訊いてみた。「勝手に入ったこと」
リョウは彼女をじろりと見上げた。
「まあええ」そして弁当の包みを開け始めた。
奈美江としては、このまま部屋を出てしまうこともできた。しかし何かがそれをためらわせた。こちらの職場が知られているというのに、自分はこの青年のことを何も知らないという思いもあった。だがそれ以上に、このまま出ていったのでは惨めな気持ちが残るだけだと思った。
「途中で抜けたことは怒ってないの?」彼女は訊いてみた。
「途中で? ああ……」何のことか彼はわかったようだ。「別に。たまにあることや」
「怖くなったわけじゃないの。元々あたし、さほど乗り気じゃなかったんだけど、強引に誘われて」
彼女の言葉の途中から、彼は箸《はし》を持った手を振り始めていた。
「面倒臭い話するな。どうでもええ」
返す言葉がなく、奈美江は唇を結んで青年の顔を見返した。
彼は彼女を無視し、弁当を食べ始めた。カツの入った弁当だった。
「ビール、もらってもいい?」奈美江は訊いた。
勝手にしろ、というように彼は顎をしゃくった。彼女は彼の向かい側に座ると、缶ビールの蓋を開け、ごくりと飲んだ。
「あなた、ここに住んでるの?」
彼は無言で弁当を食べ続けている。
「御両親とは一緒に住まないの?」彼女はさらに訊いた。
「急に質問責めやな」彼は鼻で笑った。答える気はなさそうだ。
「何のためにあんなバイトをしてるの? お金が目的?」
「ほかに何がある?」
「あなたはセックスしないの?」
「必要な時には参加する。今日も、もしおねえさんが帰らへんかったら、俺が相手をしてた」
「あたしみたいなおばさんとしなくて済んで助かった?」
「収入が減ってがっかりや」
「生意気。どうせ子供の遊びのくせに」
「何やて?」リョウがじろりと睨んできた。「もう一回いうてみい」
奈美江は唾を飲み込んだ。予期しなかった凄みが彼の目に宿っている。しかしそれに気圧《けお》されたように思われるは癪《しゃく》だった。
「奥様方の玩具《おもちゃ》になって喜んでるだけでしょ。相手を満足させる前に出しちゃったりするんじゃないの」彼女はいった。
リョウは答えず、ビールを飲んだ。だがその缶をテーブルに置いたと思った瞬間、彼は立ち上がり、獣のような素早さで彼女に飛びかかってきた。
「やめてっ、何するのよ」
奈美江は和室まで引きずられ、そのまま倒された。畳に背中を打ち、一瞬息ができなくなった。
次に起き上がろうとした時、再び彼が襲ってきた。すでにジーンズのジッパーは下ろされている。
「出してみろよ」奈美江の顔を両手で挟み、ペニスをその前に突き出しながら彼はいった。「手でも口でも使《つこ》てみい。下の口を使《つこ》てもええぞ。すぐに出ると思てるんやろ? そしたら出してみろよ」
彼のペニスはみるみるうちに勃起し、脈動を始めた。血管が浮いているのがわかる。奈美江は両手で彼の太股を押し、同時に顔をそむけようとした。
「どないした。子供のちんぽにびびってるんか」
奈美江は目を閉じ、呻《うめ》くようにいった。「やめて……ごめんなさい」
数秒後、彼女は身体を突き飛ばされていた。見上げると、彼がジッパーを上げながらダイニングテーブルに戻るところだった。椅子に座り、さっきと同じように弁当を食べ始めた。箸の動きに苛立ちが表れていた。
奈美江は息を整え、乱れた髪を後ろに撫《な》でつけた。鼓動は依然として激しい。
隣の部屋に置いてある例のテレビ画面が目に入った。『GAME OVER』の文字が表示されたままだ。
「どうして……」彼女は口を開いた。「ほかにいくらでもバイトはあると思うのに」
「俺は単に、売れるものを売ってるだけや」
「売れるもの……ね」奈美江は立ち上がり、歩きだした。歩きながら頭を振った。「あたしにはわからないな。やっぱり、もうおばさんね」
テーブルの前を通り過ぎ、玄関に向かおうとした時だった。
「おねえさん」彼が声をかけてきた。
奈美江は靴を履こうと片足を浮かせていた。その姿勢のまま振り返った。
「面白い話がある。一口乗れへんか」
「面白い話?」
「ああ」彼は頷いた。「売れるはずのものを売る話や」
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夏休みが近づいていた。七月に入って第二週目の火曜日だった。
名前を呼ばれて受け取った英語の答案用紙を見て、友彦は目をつぶりたくなった。覚悟はしていたが、これほどひどいとは思わなかった。この学期末試験はどの教科も散々だ。
考えなくても原因ははっきりしている。試験勉強らしきものを全くしなかったからだ。彼はたまに万引きをする程度に不良の要素を持ってはいるが、試験前には一応勉強をするふつうの生徒だった。今回ほど何の準備もしなかったことは過去に一度もない。
だが正確にいうと準備をしなかったわけではなかった。机に向かい、せめてヤマを張る程度の勉強はしようと思った。
ところがそれすらもできないほど、心は別のことに捕らわれていた。どんなに勉強に集中しようと思っても、脳はそのことを彼に思い出させるばかりで、肝心なことを受け入れようとはしないのだった。
その結果がこれだ。
おふくろに見つからないようにしないとな――ため息を一つついて、答案用紙をバッグにしまった。
この日の放課後、友彦は心斎橋にある新日空ホテルの喫茶ラウンジに行った。中庭をガラス越しに見られる、明るくて広い店だ。
彼が行くと、いつもの隅の席で、花岡夕子が文庫本を読んでいた。白い帽子を深くかぶり、縁の丸いサングラスをかけている。
「どうしたの、顔を隠して」彼女の向かいに座りながら友彦は訊いた。
彼女が答える前に、ウェイトレスが近づいてきた。「いや、俺はいい」と彼は断った。ところが夕子がいった。
「飲み物か何か頼んで。ここで話をしたいから」
まるで余裕のない彼女の口調に、友彦はちょっと戸惑った。
「じゃあ、アイスコーヒー」とウェイトレスにいった。
夕子は、三分の一ほど減っているカンパリソーダに手を伸ばし、ごくりと飲んだ。それからほっと息を吐いた。「学校はいつまでだっけ?」
「今週いっぱいまで」と友彦は答えた。
「夏休みにアルバイトはするの?」
「バイトって……ふつうのバイトのこと?」
友彦がいうと、夕子は少しだけ唇をほころばせた。
「そうよ。決まってるでしょ」
「今のところ、するつもりはない。こき使われるわりに、大した金にならへんもん」
「ふうん」
夕子は白いハンドバッグからマイルドセブンの箱を取り出した。だが抜き取った煙草を指先に挟んだまま、火をつけようとしなかった。苛立っているように友彦には見えた。
アイスコーヒーが運ばれてきたので、友彦はそれを一息で半分ほど飲んだ。喉がひどく渇いていた。
「ねえ、どうして部屋に行かへんの」声を低くして彼は訊いた。「いつもはすぐに部屋へ行くのに」
夕子は煙草に火をつけ、たて続けに煙を吐いた。そしてまだ一センチも吸っていないにもかかわらず、ガラスの灰皿の中でもみ消した。
「ちょっとまずいことになっちゃった」
「何?」
友彦が訊いても、夕子はすぐに答えなかった。そのことが彼を余計に不安にさせた。どうしたんだよ、と身をテーブルの上に乗り出して訊いた。
夕子は周りを見回してから、彼のほうを真っ直ぐに見た。
「おじさんに気づかれたみたい」
「おじさん?」
「あたしの旦那さん」彼女は肩をすくめた。精一杯、おどけて見せたつもりなのだろう。
「旦那さんにばれてしもたの?」
「完全にばれたわけではないけど、それに近い状態」
「そんな……」友彦は言葉を失った。全身の血が逆流したように身体が熱くなった。
「ごめんね、あたしが不注意だったの。絶対に気づかれたらいけなかったのに」
「どうしてばれたんやろ」
「誰かに見られたみたい」
「見られた?」
「あたしとトモ君がいるところを、知り合いに見られたらしいの。その知り合いが、あの人に教えたみたい。お宅の奥さん、えらい若い男と楽しそうにしゃべっとったで、という具合にね」
友彦は周囲を見回した。途端に人の目が気になりだした。そのしぐさを見て、夕子は苦笑した。
「でも主人によると、最近のあたしの様子から、何かおかしいとは思てたらしいの。雰囲気が変わったんだって。そういわれたら、そうかもしれない。トモ君と付き合うようになってから、自分でもいろいろと変わったと思うもの。だからこそ気をつけなきゃいけなかったのに、ぼんやりしてたなあ」帽子の上から頭を掻き、首を振った。
「何か訊かれたの?」
「相手は誰だっていわれた。名前をいえって」
「いうたの?」
「いうわけないやない。それほどあほやないわよ」
「それはわかってるけど……」友彦はアイスコーヒーを飲み干し、それでもまだ喉の渇きは癒されなかったので、グラスの水をがぶりと飲んだ。
「とりあえず、その場はとぼけ通した。今のところ、まだあの人も証拠は掴んでないみたい。でも、時間の問題かもしれない。あの人のことやから、私立探偵を雇うかも」
「そんなことになったらヤバいね」
「うん、ヤバい」夕子は頷いた。「それに、ちょっと気になることがあるし」
「気になること?」
「アドレス帳」
「アドレス?」
「あたしのアドレス帳が勝手に見られた形跡があるの。ドレッサーの引き出しに隠してあったんだけど……。見るとしたら、あの人しかいない」
「そこに俺の名前、書いてあるの?」
「名前は書いてない。電話番号だけ。でも気づかれたかもしれへん」
「電話番号から、名前とか住所もわかるのかな」
「さあ。でもその気になったら、いくらでも調べられるかもしれない。あの人、いろいろとコネクションを持ってるし」
夕子の言葉からイメージされる彼女の夫の像は、友彦を怖がらせた。大人の男から本気で憎まれるなどという事態は、これまで空想したことさえなかった。
「それで、どうしたらええの」友彦は訊いた。
「とりあえず、しばらくは会わんようにしたほうがいいと思う」
夕子の言葉に、彼は力無く頷いた。彼女のいうことが妥当だということは、高校二年の彼にも理解できた。
「じゃ、部屋に行こうか」カンパリソーダを飲み干すと、伝票を手に夕子は立ち上がった。
二人の関係は、約一か月続いていた。最初の出会いは、無論あのマンションでの出来事だ。あの時のポニーテールの女が花岡夕子だった。
好きになったわけではない。ただ、あの初体験の時に得た快感が忘れられなかっただけだ。友彦はあの日以後、何度か自慰にふけったが、その際脳裏に浮かぶのは、いつもあのポニーテールの女だった。当然といえた。どんなに過激なことを想像してみても、実際の記憶以上に刺激を得られるはずがない。
結局友彦はマンションでの出来事があった三日目に、彼女に電話していた。彼女は喜んで、二人だけで会うことを提案した。彼もその誘いに乗った。
花岡夕子という名前は、その時にホテルのベッドの中で聞いた。三十二歳ということだった。友彦も本名をしゃべっていた。学校名も、自宅の電話番号も教えていた。桐原との約束のことは、敢えて考えないようにした。彼は大人の女の技に、思考力をなくすほど翻弄《ほんろう》されていた。
「若い男の子とおしゃべりできるパーティがあるって友達から誘われたの。ほら、この間いたショートヘアの彼女。それでちょっと面白そうだと思って行ってみたわけ。彼女のほうは何度か経験があるみたいだったけれど、あたしはあの時が初めて。だから、どきどきしてたんよ。でも友彦君みたいな素敵な子が来てくれてよかった」そういって夕子は友彦の腋《わき》の下に入った。大人の女は、甘えるのも巧みだった。
驚かされたのは、彼女が桐原に支払ったのは、二万円だということだった。つまり一万円強を桐原がピンハネしていることになる。道理でまめに働くはずだと合点した。
週に二度か三度、友彦は夕子と会った。彼女の夫はかなり忙しい人物らしく、少しぐらい彼女の帰宅が遅くなっても平気だということだった。ホテルを出る時、お小遣いだといって、いつも五千円札を彼に渡した。
こんなことではいけないと思いつつ、友彦は人妻と会い続けた。彼女とのセックスに溺《おぼ》れていた。学期末試験が近づいても、その状態に変わりはなかった。その結果が、今度の試験結果に如実に表れたのだった。
「しばらく会われへんのなんか、いややな」夕子の上に重なった状態で友彦はいった。
「あたしかていやよ」彼の下で彼女はいった。
「なんとかならへんのかな」
「わかんない。でも、今はちょっとまずいと思うわ」
「今度会えるのは、いつやろ」
「いつかしらねえ。早いとええんやけど。あんまり間が空くと、あたし、もっとおばさんになってしまうから」
友彦は彼女の細い身体を抱きしめた。そして若さに任せ、執拗《しつよう》に責め続けた。今度いつ会えるかわからないから、思い残すことがないよう、全身のエネルギーを彼女の身体にぶつけた。彼女は何度か絶叫した。その際には身体を弓のように後ろへ反らせ、両手両足を伸ばし、痙攣《けいれん》させた。
異変は三度目の性行為を終えた後に起こった。
「トイレに行ってくる」と夕子はいった。けだるいような言い方は、こういう時の常だった。
どうぞ、といって友彦は彼女の身体を離した。彼女は裸の半身を起こしかけた。ところが、「うっ」という小さな声を漏らしたかと思うと、ぱたんとまたベッドに寝てしまった。立ち眩《くら》みでもしたのだろうと友彦は思った。そういうことがこれまでにもよくあったからだ。
ところがそのまま彼女は動こうとしなかった。眠っているのかと思い、彼は身体を揺すってみた。だが全く起きる気配がない。
友彦の頭に、ある想像が浮かんだ。不吉な想像だった。彼はベッドから出ると、おそるおそる彼女の瞼《まぶた》をつついてみた。それでも反応は全くなかった。
彼は全身が震えだすのを止められなかった。まさかと思った。まさか、そんなひどいことが起きるはずがない――。
彼は彼女の薄い胸を触った。だが事態は彼の想像したとおりだった。心臓の鼓動が感じられなくなっていた。
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ホテルの部屋の鍵を、ポケットに入れたままにしていたことに気づいたのは、友彦が自宅のそばまで帰ってきた時だった。しまったと一瞬唇を噛んだ。室内に鍵がなければ、ホテルの人間が変に思うに違いないからだ。
だけど、どの道だめだろうな、と彼は絶望的な気分で頭を振った。
花岡夕子が死んでしまったことを知った時、友彦はすぐに病院に電話することを考えた。しかしそれをすれば、自分が彼女と一緒だったことも告白しなければならない。それはできないと思った。それに今更医者を呼んだところで仕方がないだろうとも思った。彼女はもう死んでいるのだ。
彼は手早く服を着ると、自分の荷物を持って部屋を飛び出した。さらに人に顔を見られないよう気をつけながら、ホテルを抜け出した。
しかし地下鉄に乗っている間に、これでは何の解決にもならないことに気づいた。二人の関係を知っている人間がいるからだ。しかもそれは花岡夕子の夫という、最悪の人物だった。現場の状況から、夕子と一緒にいたのは園村友彦という高校生に違いないと彼は推理するだろう。そしてそのことを警察に話すに違いない。警察が詳しく調べれば、その推理が当たっていることを証明するのも難しくないだろう。
もう終わりだと彼は思った。全部おしまいだ。このことが世間に知られたら、明るい将来などとても望めない。
家に帰ると、居間で母と妹が夕食をとっている最中だった。彼は外で食べてきたといって、そのまま自分の部屋に直行した。
机の前に座った時、桐原亮司のことを思い出した。
花岡夕子とのことがばれるということは、必然的に、あのマンションでのことも警察に話すということになる。そうなると桐原もただでは済まないのではないかと思われた。彼のしていることは、性別を入れ替えれば、売春|斡旋《あっせん》と同じことなのだ。
あいつには話しておかなければならない、と友彦は思った。
部屋を抜け出し、廊下の途中に設置してある電話の受話器を取り上げた。居間のほうからテレビの音が漏れてくる。もうしばらく番組に熱中していてくれと彼は祈った。
電話には、桐原本人がいきなり出た。友彦が名乗ると、さすがの彼も少し戸惑ったようだ。
「どうかしたのか」と桐原は尋ねてきた。身構えたような口調なのは、何かを察知したからかもしれない。
「やばいことになった」と友彦はいった。それだけで口がもつれそうになった。
「なんや」
「それが……電話ではちょっと説明しづらい。話も長くなりそうやし」
桐原は黙った。彼なりに考えを巡らせているに違いなかった。やがて彼はいった。「まさか、年増女とのことやないやろな」
ずばり的中されて、友彦は絶句した。桐原が吐息をつくのが、受話器から聞こえた。
「やっぱりそうか。あの時、ポニーテールにしてた女と違うか」
「そうや」
桐原が再び吐息をついた。
「どうりであの女、最近|来《け》えへんはずや。そうか、おまえと個人契約を結んどったんか」
「契約やない」
「ふうん。そしたら何や」
答えようがなかった。友彦は口元をこすった。
「まあええ。電話でこんなことをいうててもしょうがない。今、おまえはどこにおる?」
「家にいるけど」
「じゃあこれから行く。二十分で行くから待ってろ」桐原は一方的に電話を切った。
友彦は部屋に戻り、何か自分にできることはないかどうか考えた。だが頭は混乱するばかりで、何一つ考えがまとまらなかった。時間だけがいたずらに過ぎた。
そして電話を切ってから本当にジャスト二十分後に桐原は現れた。玄関に迎えに出た時、友彦は彼がバイクに乗れることを知った。そのことをいうと、「そんなことはどうでもええ」と一蹴《いっしゅう》された。
狭い部屋に入ると、友彦は椅子に座り、桐原は畳に胡座をかいた。桐原の横に、青い布をかけた、小型テレビぐらいの四角いものが置いてある。この部屋に呼んだ友人には必ず見せびらかす友彦の宝物だが、今日はそんな雰囲気ではなかった。
「さあ、話してくれ」と桐原はいった。
「うん。けど、何から話したらええのか……」
「全部や。全部話せ。たぶん俺を裏切ったんやろうから、まずはそのことからや」
桐原のいう通りだったので、友彦は返す言葉がなかった。空咳《からせき》を一つすると、ぼそりぼそりとこれまでの経緯を話し始めた。
桐原は顔の表情を殆ど変えなかった。だが話を聞くうちに怒りがこみあげてきているのは、そのしぐさから明らかだった。指の骨を鳴らしたり、時折畳を拳で殴ったりした。そして今日のことを聞いた時には、さすがに形相を変えた。
「死んだ? ほんまに死んでしもたのか」
「うん。何度もたしかめたから、間違いない」