桐原は舌打ちをした。「あの女、アル中やったんや」
「アル中?」
「ああ。おまけにええ歳やからな、おまえとあんまりがんばりすぎて、心臓に来てしもたんやろう」
「ええ歳って、まだ三十ちょっとやろ?」
友彦がいうと、桐原は唇を大きく曲げた。
「寝ぼけてんのか。あの女は四十過ぎやぞ」
「……うそやろ」
「ほんまや。俺は何度も会《お》うてるから、よう知ってる。童貞好きのばばあや。若い男を紹介したのは、おまえで六人目や」
「そんな、俺にはそんなふうには……」
「こんなことでショックを受けてる場合やない」桐原はうんざりした顔をし、眉間に皺を寄せて友彦を睨みつけてきた。「それで、女は今どうなってるんや」
友彦は萎縮しながら、状況を早口で話した。さらに、警察の追及を逃れるのはたぶん無理だろうという見通しも述べた。
桐原は唸《うな》った。
「事情はわかった。相手の旦那がおまえのことを知ってるとなると、たしかにごまかすのは難しそうや。しょうがない。がんばって警察の取り調べを受けてくれ」突き放すような口調だった。
「俺、何もかも本当のことをしゃべるつもりや」友彦はいった。「あのマンションでのことも、当然話すことになると思う」
桐原は顔をしかめ、こめかみを掻いた。
「それは困るなあ。話が中年女の火遊びだけでは済まんようになる」
「けど、あのことを話さな、俺とあの人の出会いについて説明でけへんから」
「そんなもんはなんとでもなるやろ。心斎橋をぶらついている時に、あっちから声をかけてきたとでもいうたら済むことや」
「……警察相手に、うまいこと嘘をつく自信なんかないよ。いろいろと問い詰められてるうちに、ほんまのことをしゃべってしまうかもしれへん」
「もしそんなことをしたら」桐原は再び友彦の顔を睨みつけ、自分の両膝を叩いた。「今度は俺のバックにおる人間が黙ってへんやろな」
「バック?」
「俺が一人で、ああいう商売をしてるとでも思ってたんか」
「ヤクザ?」
「さあなあ」桐原は首を左右に曲げ、関節をぽきぽきと鳴らした。
そして次の瞬間、友彦は彼に襟首を掴まれていた。
「とにかく」と桐原はいった。「自分の身がかわいいんなら、余計なことはしゃべらんほうがええ。世の中には、警察よりも恐ろしいものがいくらでもある」
凄みのある声と口調に、友彦は言い返せなくなっていた。
それで説得は終了したと思ったのか、桐原は立ち上がった。
「桐原……」
「なんや」
「いや……」友彦は俯いた、言葉が出なかった。
ふんと鼻を鳴らし、桐原は踵《きびす》を返した。その時だった。そばの四角い箱にかけてあった青い布が、はらりと下に落ちた。中から現れたのは、友彦愛用のパーソナル・コンピュータだった。
「おっ」桐原は目を見張った。「これ、おまえのか?」
「そうやけど」
「なかなかええ機械を持ってるやないか」桐原はしゃがみこみ、友彦のパーソナル・コンピュータを観察した。「プログラムはできるのか」
「ベーシックなら大体」
「アセンブラはどうや」
「少しできる」答えながら、こいつはコンピュータに詳しいのかなと友彦は思った。ベーシックもアセンブラも、コンピュータ言語の名称だった。
「何か作ったプログラムはないんか」
「ゲームのプログラムやったらあるけど」
「ちょっと見せてくれ」
「そんなん……今はそれどころやない」
「ええから見せてみろ」桐原は片手で友彦の襟首を掴んだ。
気迫に押され、友彦は本棚からファイルを取り出した。そこにはフローチャートとプログラムを記した紙がまとめてある。それを桐原に渡した。
桐原は真剣な眼差しで、しばらくそれらを眺めていた。やがてファイルを閉じ、同時に自分の瞼も閉じた。そしてそのまま動かなくなった。
どうしたんやと声をかけようとして友彦はやめた。桐原の唇が、何かを呟くように動いていた。
「園村」やがて桐原が口を開いた。「助けてほしいか」
「えっ……」
桐原は友彦のほうを向いた。
「俺のいうとおりにするんやったら助けたる。警察に呼ばれることもない。あの女が死んだこととおまえとは、全然関係がないということにしたろやないか」
「そんなことができるのか」
「俺のいうこときくか」
「きくよ。何でもきく」友彦は首を縦に振った。
「血液型は?」
「血液型?」
「おまえのや」
「ああ……O型やけど」
「O型……好都合や。ゴムは使《つこ》たんやろな」
「ゴムって、コンドームのことか」
「そうや」
「使《つこ》たよ」
「よっしゃ」桐原は改めて立ち上がり、友彦のほうに手を出した。「ホテルの鍵を寄越せ」
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友彦のもとへ刑事が来たのは二日後の夕方だった。白い開襟シャツを着た中年の刑事と、水色のポロシャツを着た刑事の二人組だった。彼等が友彦のところへ来たということは、やはり夕子の夫が彼女と友彦の関係に気づいていたということになる。
「友彦君にちょっと訊きたいことがあるんですわ」と開襟シャツの刑事がいった。どういう事件に関することかはいわなかった。最初に応対に出た房子は、警察の人間が来たということだけでおろおろしていた。
友彦は近所の公園に連れていかれた。日は落ちていたが、ベンチにはまだ昼間の熱が残っていた。そのベンチに開襟シャツの刑事と並んで座った。水色ポロシャツの男は、友彦の前に立った。
ここに連れてこられるまでの間、友彦はなるべく口をきかないようにしていた。不自然に見えたかもしれないが、無理に平静を装おうとはしなかった。それが桐原のアドバイスでもあった。
「高校生が刑事を前にして平然としとったら、そっちのほうがおかしいからな」と彼はいった。
開襟シャツの刑事はまず彼に一枚の写真を見せ、「この人を知ってるか」と尋ねた。
その写真には花岡夕子が写っていた。旅行に行った時のものだろうか、後ろに青い海が広がっている。夕子はこちらを見て笑っていた。髪は少し短めだった。
「花岡さん……でしょ」友彦は答えた。
「下の名前も知ってるやろ」
「夕子さん、やったかな」
「うん、花岡夕子さんや」刑事は写真をしまった。「どういう関係?」
「どういう関係て……」友彦はわざと口ごもった。「別に……ただの知り合いです」
「せやからどういう知り合いかと訊いてるんや」開襟シャツの口調は穏やかだが、少し苛立ったような響きがあった。
「正直にいうてみろや」ポロシャツの刑事がいった。口元に嫌味な笑いが張り付いている。
「一か月ほど前、心斎橋を歩いてる時に話しかけられたんです」
「どんなふうに?」
「時間が空いてるんなら、ちょっとお茶に付き合ってくれへんかって」
友彦の答えに、刑事たちは顔を見合わせた。
「それで、ついていったんか」と開襟シャツの刑事が訊いた。
「奢ってくれるていうから」と友彦はいった。
ポロシャツが、鼻からふっと息を吐いた。
「茶を飲んで、その後は?」開襟シャツのほうがさらに訊いてくる。
「お茶を飲んだだけです。店を出た後は、すぐに帰りました」
「なるほどな。けど、会《お》うたんはその時だけやないやろ」
「その後……二回会いました」
「ほう、どんなふうに」
「電話がかかってきたんです。今、ミナミにおるけど、暇やったらまたお茶に付き合《お》うてくれへんか、と……まあ、そういう感じです」
「最初に電話に出たのは、お母さんか」
「いえ、たまたま二回とも僕が出ました」
友彦の答えは刑事にとっては面白くなさそうだ。下唇を突き出した。
「で、行ったわけか」
「行きました」
「行ってどうした。茶を飲んで帰っただけか。そんなことはないやろ」
「いえ、それだけです。アイスコーヒーを飲んで、ちょっとしゃべって帰りました」
「ほんまにそれだけか」
「それだけです。それだけやったらあかんのですか」
「いや、そういうわけやないけど」開襟シャツの刑事は首筋をこすりながら、友彦の顔をじろじろと眺めた。少年の表情から何かを読み取ろうとする目だった。「君の学校は共学やろ。女友達も何人かおるはずや。なにも、あんな年増女の付き合いする必要はないんと違うか」
「僕は暇やったから付き合《お》うただけです」
「ふうん」刑事は頷いたが、信用していない顔だ。「小遣いはどうや。もろたんか」
「受け取ってません」
「それはどういう意味や。金は渡されたけど、受け取ってないという意味か」
「そうです。二回目に会《お》うた時、花岡さんが五千円札をくれようとしたんです。でも受け取りませんでした」
「なんで受け取れへんかったんや」
「何となく……そんなお金をもらう理由がないし」
開襟シャツの刑事は頷き、ポロシャツの刑事を見上げた。
「どのへんの喫茶店で会《お》うとった?」ポロシャツが尋ねてきた。
「心斎橋にある新日空ホテルのラウンジです」
これは正直に答えておいた。夕子の夫の知り合いに目撃されていることを知っているからだ。
「ホテル? そんなところへ行って、ほんまにお茶だけで済んだんか。そのまま二人で部屋に入ったんと違うんか」ポロシャツの刑事の口調は乱暴でぞんざいだった。主婦の暇つぶしに付き合っていた高校生を心底馬鹿にしているのだろう。
「お茶飲みながら、ちょっとしゃべっただけです」
ポロシャツは口元を歪め、ふんと鼻を鳴らした。
「一昨日の夜やけど」開襟シャツの刑事が口を開いた。「学校が終わってから、どこへ行った?」
「一昨日……ですか」友彦は唇を舐めた。ここが勝負どころだ。「放課後、天王寺の旭屋をぶらぶらしてました」
「家に帰ったのは?」
「七時半頃です」
「それからはずっと家におったんか」
「そうです」
「家族以外とは顔を合わせてないわけやな」
「あ……ええと、八時頃に友達が遊びに来ました。同じクラスの桐原という奴です」
「キリハラ君? どういう字?」
友彦は桐原という字を刑事に教えた。開襟シャツの刑事はそれを手帳にメモし、「その友達は何時まで家におった?」と尋ねてきた。
「九時頃です」
「九時。その後は何をしてた」
「テレビを見たり、友達と電話でしゃべったり……」
「電話? 誰から?」
「森下という奴です。中学時代の同級生です」
「電話でしゃべってたのは何時頃?」
「十一時頃にかかってきて、十二時過ぎまでしゃべってたと思います」
「かかってきた? 向こうからかかってきたわけ?」
「そうです」
これにはからくりがあった。その前に友彦のほうから森下に電話をかけていたのだ。彼がアルバイトで留守だということを知っていて、わざとかけたのだ。そして彼の母親に、帰ったら電話が欲しいと伝えておいた。無論アリバイを確保するための細工だ。すべて桐原の指示に基づいたものだった。
刑事は眉間に皺を寄せ、森下の連絡先がわかるかと訊いてきた。友彦は電話番号を暗記していたので、この場でそれを教えた。
「君、血液型は?」開襟シャツの刑事が訊いた。
「血液型? O型ですけど」
「O型? 間違いないか」
「間違いないです。うちの親が二人共O型ですし」
刑事たちが急激に興味を失っていくのを友彦は感じた。その理由がよくわからなかった。あの夜、桐原も血液型を尋ねてきたが、目的については話してくれなかった。
「あのう」友彦はおずおず尋ねてみた。「花岡さんがどうかしたんですか」
「新聞、読んでへんのか」開襟シャツの刑事が面倒臭そうにいった。
はあ、と友彦は頷いた。昨日の夕刊に小さく載っていたことは知っているが、ここでは知らないふりを通すことにした。
「あの人な、死んだんや。一昨日の夜にホテルで」
「えっ」友彦は驚いてみせた。これが刑事に見せた唯一の演技らしい演技だった。「どうして……」
「さあな、なんでやろな」刑事はベンチかち立ち上がった。「ありがとう。参考になったわ。また何か訊かせてもらうかもしれんけど、その時もよろしく」
「あ、はい」
ほな行こか、と開襟シャツの刑事はポロシャツに声をかけた。二人は一度も振り返ることなく友彦から遠ざかっていった。
事件のことで友彦に会いに来たのは、刑事だけではなかった。
刑事が来てから四日後のことだ。学校の門を出て少し歩いたところで、後ろから肩を叩かれた。振り向くと髪をオールバックにした年配の男が、意味不明の笑みを浮かべて立っていた。
「園村友彦君だね」男は訊いてきた。
「そうですけど」
友彦が答えると男はすっと右手を出してきた。その手には名刺が掴まれていた。花岡|郁雄《いくお》という名前が見えた。
顔が青ざめてしまうのを友彦は自覚した。平然としなければと思うが、身体の硬直は止められない。
「君に訊きたいことがあるんだけど、今ちょっといいかな」男は標準語に近い言葉遣いをした。腹に響くような低音だ。
はい、と友彦は答えた。
「じゃあ、車の中で話そうか」男は道路脇に止めてあるシルバーグレーのセダンを指した。
友彦は促されるまま、車の助手席に座った。
「南署の刑事さんが君のところへ行っただろ」運転席に座った花岡が切り出した。
「はい」
「君のことを教えたのは私だよ。あいつのアドレス帳に電話番号が載っていたものだからね。迷惑だったかもしれんが、私としてもいろいろと納得できないことが多くてね」
花岡が本気で友彦の立場を慮《おもんぱか》っているとは思えなかった。友彦は黙っていた。
「刑事さんから聞いたんだけど、あいつに何度か付き合わされたようだね」花岡が笑いかけてくる。もちろん目は少しも笑っていない。
「喫茶店で話をしただけです」
「うん、そう聞いた。あいつのほうから声をかけてきたんだって?」
友彦は無言で頷いた。花岡は低く笑い声を漏らした。
「あいつは面食いで、おまけに若い男の子が好きだったからねえ。いい歳をして、アイドルタレントを見ては、きゃあきゃあいったりしたものだよ。君なんか、若いし、なかなかの美男子だし、あいつ好みだったかもしれないな」
友彦は膝の上で両手の拳を結んだ。花岡の声には粘着質なところがあった。言葉の隙間から嫉妬心が滲み出てくるようでもあった。
「本当に話をしただけかい」改めて訊いてきた。
「そうです」
「何かほかのことに誘われたことはないかい。たとえば、ホテルに行こうとか」花岡は多少おどけたふりをしたようだ。だがその口調に明るいところなど全くなかった。
「そんなこと、一度もいわれてません」
「本当だね」
「本当です」上友彦は深く頷いた。
「じゃあ、もう一つ教えてほしいんだけど、君のほかに、そんなふうにしてあいつと会っていた者はいないかな」
「僕のほかに? さあ……」友彦は首を小さく傾げた。
「心当たりない?」
「はい」
「ふうん」
友彦は俯いていたが、花岡が見つめてくるのを感じていた。大人の男の視線だった。刺されるような感覚に、気持ちは萎縮しきっていた。
その時だった。友彦の横で、こつこつとガラスを叩く音がした。顔を上げると桐原亮司が覗き込んでいた。友彦はドアを開けた。
「園村、何をしてるんや。先生が呼んでるぞ」桐原はいった。
「えっ……?」
「職員室で待ってはる。早よ行ったほうがええぞ」
「あっ」桐原の目を見た途端、その狙いを察知した。友彦は花岡のほうを向いた。「あのう、もういいですか?」
教師に呼ばれているとなれば、無視するわけにはいかない。花岡は少し心残りそうではあったが、「ああ、もういいよ」といった。
友彦は車から降りた。桐原と並んで、学校に向かって歩く。
「何を訊かれた?」小声で桐原が尋ねてきた。
「あの人とのこと」
「とぼけたんやろ」
「うん」
「よし。それでええ」
「桐原、一体どうなってるんや。おまえ、何かしたんか」
「おまえはそんなこと気にするな」
「けど――」
言葉を継ごうとした友彦の肩を、桐原はぽんと叩いた。
「さっきのやつがどこかで見てるかもしれんから、一応学校の中に入れ。帰る時は裏門から出るんや」
二人は高校の正門の前に立っていた。わかった、と友彦は答えた。
じゃあな、といって桐原は離れていった。その後ろ姿をしばらく見送った後、友彦はいわれたとおり学校に入った。
この日以後、花岡夕子の夫は友彦の前に姿を現さなかった。また南署の刑事たちが来ることもなかった。
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八月半ばの日曜日、友彦は桐原に連れられて、例のマンションへ行った。彼が初体験した、あの古いマンションだ。
だがあの時と違うのは、桐原が自分で部屋の鍵をあけたことだった。彼の持つキーホルダーには、鍵がいくつもぶら下がっていた。
「まあ入れ」スニーカーを脱ぎながら桐原はいった。
ダイニングキッチンの様子は、友彦が前に来た時とあまり変わっていないように見えた。安っぽいテーブルも椅子も、冷蔵庫も電子レンジも、あの時のままだった。違うのは、あの時はたしかに室内に充満していた化粧品の匂いが、今は殆ど消えていることだ。
昨夜急に桐原から電話がかかってきて、見せたいものがあるから明日付き合ってほしいといわれた。理由を訊くと、秘密だといって桐原は笑った。彼が冷笑以外の笑いを示したのは、珍しいことだった。
行き先があのマンションだと知った時、友彦はつい渋い顔をしてしまった。いい思い出があるとはいいがたい。
「心配するな。もう身体を売れとはいわへん」友彦の内心を察したらしく、桐原はそういって笑った。これは冷笑といえるものだった。
あの時には開放されていた奥の襖を桐原が開けた。前は、その向こうにある和室に花岡夕子たちが座っていた。今日は誰もいない。だが友彦はそこに置いてあるものを見るなり、大きく目を見開いていた。
「さすがに驚いたようやな」桐原は楽しそうにいった。友彦の反応が期待通りだったからだろう。
そこには四台のパーソナル・コンピュータが設置されていた。さらに十数台の周辺機器が繋がれていた。
「どうしたんや、これ」呆然としたたま友彦は訊いた。
「買《こ》うたんや。決まってるやないか」
「桐原、使えるのか」
「まあ、ぼちぼちな。けど、おまえにも手伝《てつど》うてほしい」
「俺に?」
「ああ。そのためにここへ来てもろたんや」
桐原がそういった時、玄関のチャイムが鳴った。誰かが訪ねてくるとは思わなかったので、友彦は思わず背筋をぴんと伸ばした。
「ナミエやな」桐原が立っていった。
友彦は部屋の隅に積まれている段ボール箱に近寄り、一番上の箱の中を覗き込んだ。新品のカセットテープがびっしりと詰まっていた。こんなに大量のテープを何のために、と思った。
玄関のドアが開き、誰かが入ってくる音がした。園村が来ているんだ、と桐原がいうのが聞こえる。ああそう、と女の声。
そしてその女は、部屋に入ってきた。地味な顔立ちをした三十過ぎと思える女だった。どこかで見たことがある、と友彦は思った。
「久しぶりね」と女はいった。
「えっ?」
友彦が、虚をつかれた顔をしたのを見て、女はくすっと笑った。
「あの時、先に帰った女や」桐原が横からいった。
「あの時って……えっ」友彦は驚いて、女の顔を改めて見た。
たしかにあの時のジーンズルックの女だった。今日は化粧が薄いので、あの時よりも幾分老けて見えた。というより、これが彼女の本来の姿なのだろう。
「面倒臭いから、彼女のことはしつこく訊くな。名前はナミエ。俺らの経理係や。それだけで十分やろ」桐原がいった。
「経理係って……」
桐原はジーンズのポケットから折り畳んだ紙を取り出し、友彦のほうに差し出した。
その紙にはサインペンで、次のように書いてあった。
『パーソナル・コンピュータ用ゲーム各種通信販売いたします 無限企画』
「無限企画?」
「俺らの会社の名前や。とりあえず、コンピュータゲームのプログラムを売る。カセットテープに保存して、通信販売するわけや」
「ゲームのプログラムか」友彦は小さく頷いた。「それは……売れるかもしれへんな」
「絶対に売れる。間違いない」桐原は断言した。
「でも、問題はソフトやと思うけど」
桐原は一台のパーソナル・コンピュータに近づくと、そのプリンターから出力されたばかりと思われる長い紙を、友彦の前に突き出した。「これが目玉商品や」
そこにはプログラムが印刷されていた。友彦には手に負えそうにないほど、複雑で長いプログラムだった。『サブマリン』という名前がつけられていた。
「このゲーム、どうしたんや。桐原が作ったのか」
「そんなことはどうでもええやろ。――ナミエ、このゲームの名前、考えたか」
「まあ一応ね。リョウが気に入るかどうかはわからないけど」
「聞かせてくれ」
「マリン・クラッシュ」ナミエは遠慮がちにいった。「……っていうのはどう?」
「マリン・クラッシュか」桐原は腕組みをして考えていたが、やがて頷いた。「オーケー、それで行こう」
彼が気に入った様子だからか、ナミエもほっとしたように微笑んだ。
桐原は腕時計を見て腰を上げた。
「ちょっと印刷屋に行ってくる」
「印刷屋? 何の用で?」
「商売をするには、いろいろと準備が必要なんや」スニーカーを履くと、桐原は部屋を出ていった。
友彦は和室で胡座をかき、先程のコンピュータプログラムを眺めた。が、すぐに顔を上げた。ナミエは机に向かい、電卓で何か計算を始めている。
「あいつは一体、どういう奴なのかなあ」彼女の横顔に話しかけた。
彼女は手を止めた。「どういう奴って?」
「あいつ、学校では全然目立てへんねんで。親しい奴もおらんみたいや。それやのに、裏でこんなことをしてる」
ナミエは彼のほうに向き直った。
「学校なんか、人生のほんの一部分にすぎないじゃない」
「そうかもしれんけど、あいつほどわけのわからん奴もおらへんよ」
「リョウのことは、あまり深く詮索しないほうがいいと思うな」
「そんなつもりはないよ。ただ、いろいろと不思議なだけや。あの時も……」友彦は口ごもった。ナミエにどこまで話していいかどうかわからなかった。
すると彼女は平然といった。「花岡夕子さんのこと?」
「まあね」彼は頷いた。彼女も事情を知っているとわかり、内心ほっとしていた。「狐につままれたみたいっていうのは、こういうことをいうんやろうな。一体、あいつはどうやって、あの事件を始末したんやろ」
「気になる?」
「そりゃあもちろん」
友彦の言葉にナミエは顔をしかめ、ボールペンの後ろでこめかみを掻いた。
「あたしが聞いた話では、死体が見つかったのは、花岡夕子さんがチェックインした翌日の午後二時頃。チェックアウトタイムを過ぎているのに、フロントに何の連絡もないし、部屋に電話をかけても誰も出ないから、ホテルの人間が心配して様子を見に行ったそうよ。ドアには自動ロックがかかってるから、マスターキーで開けて部屋に入ったわけ。花岡夕子さんは、全裸でベッドに横たわっていたそうね」
友彦は頷いた。その状況なら想像できた。
「すぐに警察が駆け付けたんだけど、どうやら他殺の疑いはなさそうだということになったの。性行為中に心臓発作を起こしたんだろうというのが、警察の見解だったみたい。そして死亡推定時刻は、前夜の十一時頃」
「十一時?」友彦は首を傾げた。「いや、そんなはずは……」
「ボーイが会ってるのよ」とナミエはいった。
「ボーイ?」
「ルームサービス係に、バスルームにシャンプーがないから届けてほしいと女性の声で電話があったらしいの。それでボーイが届けに行ったところ、花岡夕子さんがシャンプーを受け取ったそうよ」
「いや、それはおかしい。俺がホテルを出た時――」
友彦が言葉を止めたのは、ナミエがかぶりを振り始めたからだ。
「ボーイがいってるのよ。たしかに十一時頃、女性のお客さんにシャンプーを渡したってね。あの部屋の女性客となると、花岡夕子さんということになるじゃない」
「あっ」
そういうことかと友彦は合点がいった。誰かが花岡夕子になりすましたのだ。あの日、夕子は大きなサングラスをかけていた。髪形を似せて、あれをかければ、ボーイを騙《だま》すことは難しくないかもしれない。
では誰が花岡夕子に化けたのか。
友彦は目の前にいるナミエを見た。
「ナミエさんが、彼女に?」
するとナミエは笑いながら首を振った。
「あたしじゃない。そんな大胆なこと、あたしには無理。すぐにぼろを出しちゃう」
「そしたら……」
「それについては、考えないほうがいいわね」ナミエは、ぴしりといった。「それはリョウしか知らないこと。どこかの誰かがあなたを救ってくれた。それでいいじゃない」
「けど」
「それからもう一つ」ナミエは人差し指を立てた。「警察は花岡夕子さんの旦那さんの話で、あなたに目をつけた。でもすぐにあなたには興味を失った。なぜだかわかる? それはね、現場から見つかったのは、AB型の痕跡だったからよ」
「AB型?」
「精液」ナミエは瞬《まばた》きもせずにいった。「夕子さんの身体から、AB型の人物の精液が検出されたというわけ」
「それは……おかしい」
「そんなはずはないといいたいんだろうけれど、それが事実なんだから仕方がないでしょ。彼女の膣《ちつ》の中には、たしかにAB型の精液が入っていたの」
入っていた、という表現が引っかかった。それで友彦は、はっとした。
「桐原の血液型は?」
「AB」そういってナミエは頷いた。
友彦は口元に手をやった。軽い吐き気を催した。真夏だというのに、背中が寒くなった。
「あいつが死体に……」
「何があったかを想像することは、あたしが許さない」ナミエはいった。ぞくりとするほど冷たい口調だった。目もつり上がっていた。
友彦は、いうべき言葉が思いつかなかった。気がつくと震えていた。
その時、玄関のドアが開いた。
「広告の段取りをつけてきた」桐原が部屋に入ってきた。手に持っていた紙をナミエに渡した。「どうや、見積り通りやろ」
ナミエはそれを受け取り、微笑んで頷いた。その表情は少し固い。
桐原はすぐに部屋の空気が先程までと違っていることに気づいた様子だった。彼はナミエと友彦の顔をじろじろ見ながら、窓のそばに行き、煙草を一本くわえた。
「どないした」桐原は短く訊き、ライターで火をつけた。
「あの……」友彦は彼を見上げた。
「なんや」
「あの……俺」唾を飲み込んでから、友彦はいった。「俺、何でもする。おまえのためやったら、どんなことでも」
桐原は友彦の顔をしげしげと見つめた後、その目をナミエに向けた。彼女は小さく頷いた。
桐原は視線を友彦に戻した。その顔にいつもの冷たい笑みが戻った。その笑みを唇に漂わせたまま、うまそうに煙草を吸った。
「当然や」
そして彼は少し濁った青空を仰ぎ見た。
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