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傘をさすほどではないが、髪や衣服を静かに濡らしていく。そんな細かい秋雨が降り続いていた。そのくせ時折灰色の雲が割れ、夜空が覗《のぞ》いたりする。狐の嫁入りだなと、四天王寺前駅を出て空を見上げながら中道《なかみち》正晴《まさはる》は思った。母親から教えられた言葉だ。
彼は大学のロッカーに折り畳み式の傘を入れていたが、そのことを思い出したのが門を出てからだったため、取りに戻るのはやめたのだ。
彼は少し急いでいた。自慢の水晶発振式の腕時計は午後七時五分を示している。つまり決められた時刻に、すでに遅れているのだ。もっとも約束の相手は、彼が少し遅れるぐらいで嫌な顔を見せたりはしない。急ぐのは、彼自身が早く目的の家に着きたいからにほかならなかった。
彼は傘の代わりに、駅の売店で買ったスポーツ新聞を頭の上にかざし、とりあえず髪が濡れるのを防いだ。プロ野球のヤクルトが勝った翌日にスポーツ新聞を買うのは、昨年からの習慣だ。中学まで東京に住んでいた彼は、スワローズではなくアトムズと呼ばれていた頃からヤクルトのファンだ。そのヤクルトが、昨年広岡監督の下で奇跡の優勝を果たした。ヤクルトの選手たちが大活躍した記事を、去年の今頃《いまごろ》はそれこそ毎日のように読んだものだった。
それが今年は全く別のチームのように絶不調である。九月に入って、完全に最下位が定位置となってしまった。当然正晴がスポーツ新聞を買う機会も少なくなる。だからこんなふうに新聞を持っていたのは、幸運といっていいことだった。
正晴が目的の家の前に着いたのは、それから数分後だった。唐沢と書かれた表札の下のボタンを押した。
玄関の格子戸が開き、唐沢礼子が顔を見せた。彼女は紫色のワンピースを着ていた。生地が薄いせいか、身体《からだ》の細さが際だち、痛々しいほどだった。この初老の婦人が和服に戻るのはいつなのだろうと正晴は思った。彼がはじめてこの家に来た三月頃には、彼女は濃い灰色の紬《つむぎ》を着ていたのだ。それが梅雨入りする少し前から洋服に変わっていた。
「すみません。先生」正晴の顔を見るなり礼子は申し訳なさそうにいった。「つい今しがた雪穂から連絡がありました。なんでも、文化祭の準備をどうしても抜けられなくて、三十分ほど遅れそうだということなんです。なるべく早く帰りなさいといってはおいたんですけど」
「ああ、そうだったんですか」正晴は、ほっとしていった。「それを聞いて安心しました。遅刻したと思って、焦《あせ》ってましたから」
「本当にすみません」礼子は頭を下げた。
「ええと、じゃあ僕はどうしていようかな」正晴は腕時計を見ながら、独り言のように呟《つぶや》いた。
「どうぞ、中でお待ちになってください。何か冷たい飲み物でもご用意しますから」
「そうですか。でもお気遣いなく」会釈を一つして、正晴は足を踏み入れた。
彼が通されたのは、一階の居間だった。本来は和室であるが、籐《とう》製のリビングセットが置いてあったりして、洋風の使い方がなされている。彼がこの部屋に入るのは、最初に来た時以来のことだった。
あれから約半年が経つ。
正晴にアルバイトの話を持ってきたのは彼の母親だった。彼女の茶道の先生が、今度高校二年になる娘に数学を教えてくれる人を探していると聞き、息子を推薦することを思いついたのだ。その茶道の先生というのが唐沢礼子だ。
工学部の学生である正晴は、数学に関しては高校時代から多少自信を持っていた。実際この春まで、高校三年生の男子に数学と理科を教えていたのだ。だがその高校生が無事受験に成功したので、正晴としては次の家庭教師のくちを探す必要があった。母親の持ってきた話は、彼にとっても渡りに船だったわけだ。
現在正晴は母親に感謝している。その理由は、月々の収入を確保できたということだけではなかった。彼は唐沢家を訪れる毎週火曜日が楽しみでならなかった。
彼が籐の椅子に座って待っていると、礼子が麦茶を入れたガラスコップを盆に載せて戻ってきた。それを見て彼は少し安堵《あんど》した。前にこの部屋に入った時には、いきなり抹茶を出され、作法が全くわからず、大いに冷や汗をかいたものだった。
礼子は彼の向かい側に座り、どうぞといって麦茶をすすめた。それで正晴は遠慮なくコップに手を伸ばした。渇いた喉《のど》を冷えた麦茶が通過する感触が心地よかった。
「すみませんね。お待たせしちゃって。文化祭の準備なんか、適当に抜け出してくればいいと思うんですけど」礼子は再び詫《わ》びた。余程申し訳なく思っているようだ。
「いや、僕のことなら結構です。気にしないでください。それに友達同士の付き合いというのも大切ですから」正晴はいった。大人ぶったつもりだった。
「あの子もそういってました。それに文化祭の準備といっても、クラスでの催し物ではなくて、サークルのほうらしいんです。それで三年生の先輩が目を光らせているので、なかなか抜けられないといっておりました」
「ああ、なるほど」
雪穂が英会話クラブに入っているという話を、正晴は思い出していた。彼女が少し話すのを聞いたこともある。中学生の時から英会話塾に通っているというだけあって、見事なものだった。自分ではとても太刀打ちできないと舌を巻いた覚えがある。
「ふつうの高校なら、今の時期に三年生が文化祭に一所懸命になるということもないんでしょうけど、やっぱりああいう学校ですから、そういうのんびりしたこともできるんでしょうね。中道先生がお出になった高校なんかは、ものすごい進学校だから、三年生になったら文化祭どころではなかったんでしょう?」
礼子の言葉に、正晴は苦笑して掌を振った。
「僕たちの高校にも、文化祭で浮かれている三年生はいましたよ。受験勉強の息抜きだと思っていた連中も少なくなかったんじゃないですか。そういう僕なんかも、秋になっても受験勉強に身が入らず、ちょっとしたイベントがあるとすぐにはしゃいじゃうくちでした」
「あらそうなんですか。でもそれはきっと、先生が成績優秀でいらっしゃったから、余裕でそういうこともお出来になったんだと思いますよ」
「いや、そんなことはないんです。本当に」正晴は掌を振り続けた。
唐沢雪穂が通っているのは、清華女子学園という高校だった。そこの中等部から上がったと、正晴は聞いていた。
さらに彼女は、そのまま上の大学に進もうとしている。高校での成績が優秀であれば、面接試験だけで上の清華女子大学に入ることもできるのだ。
ただし希望する学科によっては、門が極端に狭くなるおそれもあった。雪穂は最も競争率が高いといわれる英文科を希望していた。確実に合格を勝ち取るには、学年でもトップグループに入っている必要があった。
雪穂は殆《ほとん》どの科目で優秀な成績をおさめていたが、数学だけは少し苦手にしていた。それで心配した礼子が、家庭教師を雇うことを思いついたというわけだ。
何とか高校三年の一学期までは、上位に食い込める成績をとらせてやってほしい――それが最初に話をした時、礼子が出した希望だった。三年生の一学期までの成績が、推薦入学の際の参考資料になるからだ。
「雪穂もねえ、もしあのまま公立の中学に行かせていたら、たぶん来年は受験勉強でもっと大変だったと思うんです。それを考えると、あの時に今の学校に入れておいて、本当によかったと思っているんですよ」麦茶の入ったガラスコップを両手で持ち、唐沢礼子はしみじみとした口調でいった。
「そうですね。受験なんか、しなくていいに越したことはありませんから」正晴はいった。彼自身が日頃から考えていることであり、これまでに家庭教師として教えた子供たちの親にもいってきたことだった。「だから、お子さんの小学校入学の段階から、すでにそういう私立の付属を選ぶ親御さんも、最近は増えてますよね」
礼子は真顔で頷《うなず》いた。
「ええ、それが一番いいと思います。姪《めい》や甥《おい》にも、そんなふうに話しているんです。子供の受験は、早い段階に一度きりというのが一番だって。後になればなるほど、いい学校に入るのが大変ですから」
「おっしゃるとおりです」正晴も頷いた。それからちょっと疑問に思うことがあって尋ねた。「雪穂さんは、小学校は公立ですよね。受験はされなかったのですか」
すると礼子は、考え込むように首を傾《かし》げ、少し黙り込んだ。何か迷っているように見えた。
やがて彼女は顔を上げた。
「もし私がそばにいたなら、そんなふうに進言したと思うんですけど、その頃は会ったこともありませんでしたからねえ。大阪というところは、東京なんかに比べて、子供を私立に進ませるという発想をする親は少ないんです。何より当時のあの子の境遇は、私立受験なんてことを希望しても、到底かなえてはもらえないようなものでしたし」
「あ、そうなんですか……」
微妙な問題に触れてしまったのかなと、正晴は少し後悔した。
雪穂が唐沢礼子の実子でないということは、最初にこの仕事を引き受けた時に聞いていた。だがどういう経緯で彼女が養女になったのかについては、全く知らされていなかった。これまで話題に上ったこともない。
「雪穂の本当の父親が、私の従弟《いとこ》にあたるんです。でもあの子が小さい頃に事故で亡くなりましてね、それで金銭的にもかなり苦労していたようです。奥さんが働きに出ておられたんですけど、女手一つで子育てまでするのは、大変なことですからね」
「その本当のおかあさんのほうは、どうされたんですか」
正晴が訊《き》くと、礼子は一層顔を曇らせた。
「その方も事故で亡くなったんです。たしか雪穂が六年生になって、すぐの頃だったと思います。五月……だったかしら」
「交通事故ですか」
「いえ、ガス中毒だったんですよ」
「ガス……」
「コンロに鍋をかけている途中で、うたた寝してしまったそうなんです。そのうちに鍋の中身がふきこぼれて火が消えてしまったらしいんですけど、それに気づかないで、結局そのまま中毒を起こしてしまったということでした。きっと、相当疲れていたんだろうと思いますよ」礼子は悲しそうに細い眉《まゆ》を寄せた。
ありそうなことだなと正晴は思った。最近では都市ガスが徐々に天然ガスに切り替えられてきているので、ガスそのもので一酸化炭素中毒に陥ることはないが、当時は今聞いた話とよく似た事故が頻繁に起きていた。
「特にかわいそうなのは、死んでいるのを見つけたのが雪穂だということでしてね。その時のショックがどんなふうだったかを考えると、胸が痛くなるようで……」礼子は沈痛な表情のまま、かぶりを振った。
「一人で見つけたんですか」
「いえ、部屋に鍵がかかっていたので、不動産屋の人に開けてもらったという話でした。だから、その人と一緒に見つけたんだと思います」
「へえ、不動産屋の人と」
その男も災難だったなと正晴は思った。死体を見つけた時には、さぞかし青ざめたことだろう。
「その事故で雪穂さんは、完全に身寄りがなくなってしまったわけですね」
「そうなんです。お葬式には私も出ましたけれど、雪穂はお棺にすがりつくようにして、わあわあと声を出して泣いていました。それを見ていると、こちらもたまらなくなりましてねえ……」
その時の情景が脳裏に浮かんだのか、礼子は目をしょぼしょぼさせた。
「それで、ええと、唐沢さんが彼女を引き取ることにされたわけですね」
「そうです」
「それはやっぱり、唐沢さんが一番親しくしておられたからですか」
「じつをいいますとね、雪穂を産んだおかあさんとは、さほど深い付き合いはなかったんです。家が比較的近いということはありましたけれど、それでも歩いて行き来できる距離ではなかったですしね。でも雪穂とは、文代さんが亡くなるずっと前から、しょっちゅう会っていたんですよ。あの子のほうから遊びに来てくれましてね」
「へえ……」
母親が親しくしているわけでもない親戚の家へ、なぜ雪穂は一人で遊びに行ったのだろうと正晴は疑問に思った。その思いが顔に出たのだろう、礼子が次のように説明した。
「私が雪穂と初めて顔を合わせたのは、あの子の父親の七回忌の時です。その時に少し話をしましたところ、あの子は私が茶道をしていることに、ずいぶんと興味を持った様子でした。あんまり熱心にいろいろと尋ねてくるので、それなら一度遊びにいらっしゃいといってみたんです。あの子のおかあさんが亡くなるより、一、二年前だったと思います。そうしたら、その後すぐにやってきたので、ちょっとびっくりしました。私としては、ほんの軽い気持ちでいったことでしたからね。でも茶道をやってみたいという気持ちは本気のようでしたし、私も独り暮らしで寂しい思いをしていましたから、半分遊びの気分でお茶を教えてあげることにしたんです。そうしたらあの子はほぼ毎週、バスに乗って一人でやってきました。私がたてたお茶を飲みながら、学校での出来事なんかを話してくれるんです。そのうちに、あの子の来るのが、私にとっての一番の楽しみになりました。都合が悪くて来てくれなかった時なんかは、ひどく寂しい気持ちになったものです」
「じゃあ雪穂さんは、そんな頃からお茶を?」
「そうです。でもそのうちにお華なんかにも興味を示しましてね、私が生けているのを、横で面白そうに眺めたり、時には少し手を出したりもしてきました。着物の着方を教えてほしいといわれたこともありますよ」
「まるで花嫁教室ですね」正晴はそういって笑った。
「本当にそういう感じでしたね。まあ子供相手ですから、花嫁教室ごっことでもいいましょうか。あの子ったら、私の言葉遣いの真似までするんですよ。恥ずかしいからやめてって頼んだら、家でおかあさんがしゃべっているのを聞いていたら、自分まで汚い言葉を遣ってしまいそうになるから、私のところで直していくんですって」
雪穂の、最近の女子高生には珍しい上品な物腰は、その頃からの蓄積らしいなと彼は納得した。もちろん、そんなふうになりたいという本人の願望があってこそだろうが。
「そういえば雪穂さんの話し方も、あまり関西弁っぽくないですよね」
「私は中道先生と同じで、ずっと以前、関東に住んでいたんです。それで殆ど関西弁を話せないんですけど、あの子はそこがいいとかいってくれます」
「僕もうまく話せないんですよ、関西弁」
「ええ。だから雪穂は、中道先生と話すのは楽だといっておりました。汚い大阪弁を遣う人と話していると、うつらないように気をつけるのが大変だと」
「ふうん、大阪生まれなのになあ」
「あの子はそのこと自体も嫌なんだそうですよ」
「本当ですか」
「ええ」初老の婦人は口をすぼめて頷いてから、少し首を傾げた。「ただねえ、ちょっと心配になることもあるんです。あの子はずっと私みたいな年寄りと一緒に生活していますから、最近の女の子らしい溌剌《はつらつ》としたところが少ないんじゃないかとかね。あまり無茶をしてくれると困りますけど、少しぐらいは羽目を外してもいいと思っているぐらいなんです。中道さんも、もし気が向くことがあれば、どこか遊びにでも連れて行ってやってください」
「えっ、僕がですか。いいんですか」
「ええ。中道さんでしたら安心ですから」
「そうですか。じゃあ、ちょっと今度誘ってみようかな」
「是非そうしてやってください。喜ぶと思います」
礼子の話が一段落したようなので、正晴は再びガラスコップに手を伸ばした。退屈な話ではなかった。彼としては雪穂について、もっと詳しく知りたいと思っていたところなのだ。
だがどうやらこの義母も、彼女のことを完全にわかっているとはいえないらしいと彼は思った。唐沢雪穂という娘は、礼子が思っているほど古風ではないし、おとなしすぎることもない。
印象的なことがある。あれは七月だった。いつものように二時間ほど勉強を教えた後、出されたコーヒーを飲みながら雪穂と雑談をしていた。そういう時に正晴が話すことは、大学生活に関することと決まっていた。彼女がその話題を最も好むと知っているからだ。
彼女に電話がかかってきたのは、雑談を始めてから五分ほど経った頃だ。礼子が呼びに来て、「英語弁論大会事務局の者です、といっておられるんだけど」といったのだ。
「ああ、わかった」雪穂は頷いて、階段を下りていった。それで正晴はコーヒーを飲み干し、腰を上げた。
彼が下りていくと、廊下の途中にある電話台のそばに立ち、雪穂は話していた。その顔は少し深刻そうに見えた。だが彼が帰ることを合図すると、にっこりして会釈し、小さく手を振った。
「すごいですね、雪穂さん。英語の弁論大会に出るんですか」玄関まで見送りに出てくれた礼子に正晴はいった。
「さあ、私は全然聞いてないんですけど」礼子は首を傾げていた。
唐沢家を辞去した後、正晴は四天王寺前駅のそばにあるラーメン屋に入り、遅い夕食をとった。火曜日は、そうするのが習慣になっている。
餃子《ギョーザ》とチャーハンを食べながら店のテレビを見ていたが、ふと何気なくガラス窓越しに外を眺めた時、若い女性が一人、通りに向かって小走りに駆けてくるのが見えた。正晴は目を見張った。それは雪穂にほかならなかったからだ。
何事だろう、と彼は思った。彼女の表情にただならぬ気配を感じたからだ。彼女は通りに出ると、急いだ様子でタクシーを拾った。
時計の針は十時を指している。どう考えても、何か突発的なことがあったらしいとしか思えなかった。
心配になり、正晴はラーメン屋の電話を使って唐沢家にかけてみた。何度か呼び出し音が鳴った後、礼子が出た。
「あら、中道先生。どうかされました?」彼の声を聞き、彼女は意外そうに訊いてきた。緊迫した様子は感じられなかった。
「あの……雪穂さんは?」
「雪棺ですか。代わりましょうか」
「えっ? 今、そばにいらっしゃるんですか」
「いえ、部屋にいます。明日はサークルの用事があって、早朝に集合しなければならないとかで、早く寝るとかいってました。でも、たぶんまだ起きてるんじゃないかしら」
これを聞いた途端、ぴんときた。まずいことをしたらしいと気づいた。
「あっ、それなら結構です。この次にお邪魔した時、直接話します。急ぎの用ではありませんから」
「そうなんですか。でも……」
「いえ、本当に結構です。どうか、そのまま寝させてあげてください。お願いします」
「そうですか。じゃあ、明日の朝にでも電話があったことだけ伝えておきます」
「ええ。そうしてください。どうも夜分失礼しました」正晴は急いで電話を切った。腋《わき》の下が汗でびっしょりになっていた。
たぶん雪穂は母親に内緒で、こっそり家を出たのだ。先程の電話が関係しているのかもしれない。彼女がどこへ行ったのかは大いに気になったが、邪魔はしたくなかった。
自分の電話のせいで雪穂の嘘がばれなければいいが、と彼は思った。
その心配は翌日解消された。雪穂から電話がかかってきたのだ。
「先生、昨夜電話をくださったそうですね。ごめんなさい。あたし、今朝サークルの早朝練習があったものだから、昨日はすごく早く寝ちゃったんです」
この言葉を聞いて、どうやら礼子にはばれなかったらしいと察した。
「いや、別に用はなかったんだ。ただ、何かあったのかと思って、心配になってさ」
「何かあったのかって?」
「血相変えてタクシーに乗るところを見たからさ」
案の定、彼女は一瞬絶句した。その後、低い声で訊いてきた。「先生、見てたんだ」
「ラーメン屋の中からね」正晴はくすくす笑った。
「そうだったんですか。でも、そのことは母には内緒にしてくれたんですね」
「ばれるとヤバそうだったからね」
「ええ、そう。ちょっとヤバい」彼女も笑っていた。
そう深刻なことでもなかったのか、と彼女の様子から正晴は思った。
「一体何があったんだ? その前の電話が関係ありと見ているんだけどな」
「先生、鋭い。その通り」そういってから彼女は声を低くした。「じつはね、友達が自殺未遂を起こしちゃったの」
「えっ、本当かい」
「彼氏にふられたショックで衝動的にやっちゃったみたい。それで仲間たちが急いで駆け付けたってわけ。でもこんなこと、おかあさんには話せないものね」
「だろうな。で、その友達は?」
「うん、もう大丈夫。あたしたちの顔を見たら、正気を取り戻したから」
「それはよかった」
「ほんとに馬鹿だよね。たかが男のことで死ぬなんて」
「そうだね」
「というわけで」雪穂は明るく続けた。「このことは内密にお願いします」
「うん、わかってるよ」
「じゃあ、また来週ね」といって彼女は電話を切った。
あの時のやりとりを思い出すと、正晴は今も苦笑してしまう。彼女の口から、「たかが男のことで」などという台詞《せりふ》が飛び出すとは夢にも思わなかった。若い女の子の内面など、他人には想像もできないものだということを思い知った。
大丈夫、あなたの娘さんはあなたが思っているほどやわではありませんよ――目の前にいる老婦人にそういいたかった。
彼が麦茶を飲み干した時、格子戸の開けられる音が玄関のほうから聞こえた。
「帰ってきたようですね」礼子が立ち上がった。
正晴も腰を上げた。素早く庭に面したガラス戸に自らの姿を映し、髪形が乱れていないことをチェックする。
馬鹿野郎、何をどきどきしているんだ――ガラスに映った自分に活を入れた。
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中道正晴は北大阪大学工学部電気工学科第六研究室で、グラフ理論を使ったロボット制御を卒業研究テーマに選んでいた。具体的には、一方向からの視覚認識のみで、その物体の三次元形状をコンピュータに推察させるというものだった。
彼が自分の机に向かってプログラムの手直しを行っていると、大学院生の美濃部《みのべ》から声をかけられた。
「おい、中道。これを見てみろよ」
美濃部はヒューレット・パッカード社製のパーソナル・コンピュータの前に座っていた。そのディスプレイ画面を見ながら正晴を呼んだのだ。
正晴は先輩の後ろに立ってモノクロの画面を見た。そこには細かい升目が並んだ三つの画像と、潜水艦を模した絵が映っていた。
この画面には見覚えがあった。『サブマリン』と、彼等が呼んでいるゲームだ。海底に潜んでいる相手方潜水艦を、極力早く撃沈しようとするものである。三つの座標に現れるいくつかのデータから、相手の位置を推測するというところが、このゲームの楽しみどころだ。もちろん攻撃に手間取っていると、敵にこちらの位置を悟られ、魚雷攻撃を受けることになる。
このゲームは、正晴たち第六研究室の学生と大学院生が、自分たちの研究の合間に作ったものだった。プログラムを組むのも、それを打ち込むのも、すべて共同作業で行った。いわば裏の卒業研究といえるものだ。
「これがどうかしたんですか」と正晴は訊いた。
「よう見てみろよ。俺らの『サブマリン』と、ちょっと違うやろが」
「えっ」
「たとえば、この座標を表す模様とか。それに潜水艦の形もちょっと違う」
「あれ?」正晴は目を凝らして、それらの部分を観察した。「そういえばそうですね」
「変やろ?」
「ええ。誰《だれ》かがプログラムを書き換えたんですか」
「ところが、そうやないんや」
美濃部はコンピュータを一旦リセットすると、横に設置してあるカセットデッキのボタンを押し、中のテープを取り出した。このカセットデッキは音楽を聞くためのものではなく、パーソナル・コンピュータの外部記憶装置だった。平たい円形の磁気ディスクに記憶させる方式をIBMがすでに発表しているが、パーソナル・コンピュータのレベルでは、まだカセットテープを記憶媒体として使うのが主流である。
「これを入れて、動かしてみたんや」美濃部はテープを正晴に見せた。
テープのレーベルには、『マリン・クラッシュ』とだけ書いてあった。手書きではなく、印刷されたもののようだ。
「マリン・クラッシュ? 何ですか、これ」
「三研の永田が貸してくれた」と美濃部はいった。三研とは第三研究室の略だ。
「どうしてこんなものを?」
「これや」
美濃部はジーンズのポケットから定期入れを取り出すと、さらにそこから折り畳まれた紙切れを引っ張り出した。雑誌の切り抜きのようだった。彼はそれを広げた。
パーソナル・コンピュータ用ゲーム各種通信販売いたします――そういう文字が目に飛び込んできた。
さらにその下に、製品名とそのゲームの簡単な説明文、そして価格を記した表が付けられている。製品は全部で三十種類ぐらいあった。価格は安いもので千円ちょっと、高いもので五千円強というところだ。
『マリン・クラッシュ』は表の中程にあった。ただし、他のものより太い文字が使われ、おまけに『面白度★★★★』と説明文にはある。太い文字で書かれているものは、他にも三つほどあるが、星が四つ並んでいるのはこれだけだった。販売主が、強く売ろうとしているのがよくわかる。
売っているのは、『無限企画』という会社だった。正晴は見たことも聞いたこともない社名だった。
「何ですか、これ? こんな通信販売をしているところがあるんですか」
「最近時々見かける。俺はあんまり気にとめてへんかったけど、三研の永田は前から知ってたそうや。それでこの『マリン・クラッシュ』のゲーム内容が、俺らの作った『サブマリン』と似てるんで、気になってたらしい。で、知り合いに、ここへ注文して買《こ》うた者がおったから、試しに借りてみたんやて。そうしたらこのとおり、中身がそっくりやろ。びっくりして俺に知らせてくれたというわけや」
正晴は唸《うな》った。何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。
「どういうことでしょう」
「『サブマリン』は」といって美濃部は椅子にもたれた。金具のきしむ音がぎしぎしと鳴った。「俺らのオリジナルや。まあ、正確にいうとマサチューセッツの学生が作ったゲームを下敷きにしてるんやけど、俺ら独自のアイデアで成り立っていることは間違いない。そんなアイデアを、全く別の人間が、別の場所で思いついて、しかも形にしてしまうなんていう偶然は、ちょっとありえへんのとちがうか」
「ということは……」
「俺らの中の誰かが、この『無限企画』っていう会社に、『サブマリン』のプログラムを流したとしか考えられへん」
「まさか」
「ほかにどういうことが考えられる? 『サブマリン』のプログラムを持ってるのは、作ったメンバーだけで、めったなことでは他人に貸さへんことになっているんやぞ」
美濃部に問われ、正晴は黙り込んだ。たしかに、ほかに考えられることなどなかった。現実に『サブマリン』の類似品が、こうして販売されているのだ。
「みんなを集めましょうか」と正晴はいってみた。
「その必要があるやろな。もうすぐ昼休みやから、飯を食うたらここに集まることにしょうか。全員から話を聞いたら、何かわかるかもしれへん。もっとも、張本人が嘘をつかへんかったら、の話やけどな」美濃部は口元を歪め、金縁の眼鏡を指先で少し上げた。
「誰かが抜けがけして、あれを業者に売ったなんて、とても考えられませんけど」
「中道がみんなを信用するのは勝手や。けど誰かが裏切ったのは確実やねんからな」
「わざとやったとはかぎらないんじゃないですか」
正晴の言葉に、大学院生は片方の眉を動かした。
「どういう意味や」
「本人が知らないうちに、誰かにプログラムを盗まれたということも考えられます」
「犯人はメンバーやのうて、その周りにいる人間というわけか」
「そうです」
犯人という言い方には抵抗はあったが、正晴は頷いた。
「どっちにしても、全員から話を聞く必要があるな」そういって美濃部は腕組みをした。
『サブマリン』の製作に関わったのは大学院生の美濃部を含めて六人だ。その全員が昼休みに第六研究室に集まった。
美濃部が事の次第を皆に報告したが、やはり誰もが心当たりはないといいきった。
「第一そんなことをしたら、こんなふうにばれるに決まってるやないですか。それがわからんほどあほやないですよ」四年生の一人は、美濃部に向かってこういった。
また別の一人は、「どうせ売るなら、自分たちの手で売りますよ。みんなに相談してね。だって、そのほうが絶対に儲《もう》かるから」といった。
プログラムを他人に貸さなかったか、という質問を美濃部がした。これについては三人の学生が、友達を遊ばせてやるために、短期間貸したといった。だがいずれも当人がその場におり、プログラムの複製を作る暇はなかったはずだと断言した。
「すると、あと考えられるのは、誰かのプログラムが勝手に持ち出されたということか」
美濃部はいい、プログラムの入ったテープの管理について全員に尋ねた。だがそれを紛失したといった者はいなかった。
「全員、もういっぺんよう思い出してみてくれ。俺らでなかったら、俺らの周りにいる誰かが、勝手に『サブマリン』を売り飛ばしたということなんやからな。で、それを買い取った奴が、堂々とそれを売って商売しとるということや」美濃部は悔しそうな顔でそういい、皆を見回した。
解散した後、正晴は自分の席に戻って、もう一度記憶を確認した。だが少なくとも自分のテープが誰かに持ち出された可能性はないという結論に達していた。彼は他のデータが入ったテープと一緒に『サブマリン』のテープも、ふだんは自宅の机の引き出しにしまっている。持ち出した時でも、常に手元からは離さなかった。研究室にすら放置したことは全くない。つまりほかの誰かが盗まれたとしか考えられなかった。
それにしても、と彼は全く別の感想を今度のことで持っていた。自分たちが遊ぶ目的で作ったプログラムが、こんなふうに商売になるとは全く思わなかった。もしかしたらこれは、新しいビジネスなのかもしれない――。
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正晴が唐沢雪穂の生い立ちについて思い出したのは、礼子の話を聞いてから半月程が経った頃だ。中之島《なかのしま》にある府立図書館で、友人の調べものに付き合っている最中だった。友人というのはアイスホッケー部の同期で垣内《かきうち》といった。彼はあるレポートを書くために、過去の新聞記事を調べていた。
「ははは、そうやそうや、あの頃や。俺もよう買いに行かされたわ、トイレットペーパー」垣内は広げた縮刷版を読み、小さな声でいった。机の上には十二冊の縮刷版が載っていた。昭和四十八年七月から四十九年六月までの分で、一か月ごとに一冊に纏《まと》めてある。
正晴は横から覗き込んだ。垣内が読んでいたのは、四十八年十一月二日の記事だ。大阪の千里ニュータウンのスーパーマーケットで、トイレットペーパーの売場に約三百人の客が殺到したとある。
いわゆるオイルショックの話だ。垣内は電気エネルギー需要について調査しているので、この時期のこういう記事にも目を通す必要があるのだろう。
「東京でもあったのか? 買い占め騒ぎ」
「あったらしいよ。でも首都圏では、トイレットペーパーよりも洗剤じゃなかったかな。いとこが何度も買いに行かされたと言ってた」
「ふうん、たしかにここに、多摩のスーパーで四万円分の洗剤を買《こ》うた主婦がおるて書いてあるわ。まさか、おまえのところの親戚やないやろな」垣内がにやにやしていう。
馬鹿いうなよ、と正晴は笑って応えた。
自分はあの頃何をしていたかなと正晴は考えた。彼は当時高校一年だった。大阪に越してきてからまださほど間がなく、地域に慣れるのに苦労していた。
ふと雪穂は何年生だったのかなと考えた。頭の中で数えると、小学五年生ということになった。だが彼女の小学生姿というのは、あまりうまくイメージできなかった。
唐沢礼子の話を思い出したのは、その直後だ。
「事故で亡くなったんです。たしか雪穂が六年生になって、すぐの頃だったと思います。五月……だったかしら」
雪穂の実母に関する話だ。彼女が六年生ということは、昭和四十九年だ。
正晴は縮刷版の中から四十九年五月の分を選び、机の上で開いた。
『衆議院本会議 大気汚染防止法改正を可決』、『ウーマンリブを主張する女性ら優生保護法改正案に反対し衆院議員面会所で集会』といった出来事がこの月にはあったようだ。日本消費者連盟発足、東京都江東区にセブン-イレブン一号店がオープンといった記事も目についた。
正晴は社会面を見ていった。やがて一つの小さな記事を見つけた。『ガスコンロの火が消えて中毒死 大阪市生野区』という見出しがついている。内容は次のようなものだ。
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『二二日午後五時ごろ、大阪市|生野《いくの》区大江西七丁目吉田ハイツ一〇三号室の西本文代さん(三六)が部屋で倒れているのをアパートの管理会社の社員らが見つけ、救急車を呼んだが、西本さんはすでに死んでいた。生野署の調べでは、発見当時部屋にはガスが充満しており、西本さんは中毒死を起こしたと見られている。ガス漏れの原因については調査中だが、ガスコンロにかけたみそ汁がふきこぼれており、それにより火が消えたことに西本さんが気づかなかった可能性があるという。』
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これだ、と正晴は確信した。唐沢礼子から聞いた話とほぼ一致している。発見者に雪穂の名前が出てこないが、それは新聞社が配慮したのだろう。
「何を一所懸命に読んでるんや」垣内が横から覗き込んできた。
「いや、別に大したことじゃないんだけど」正晴は記事を指し、バイトで教えている生徒の身に起きた事件だということを話した。
垣内はさすがに驚いたようだ。「へえ、新聞に載るような事件に関係してるとは、すごいやないか」