饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 四 章.2

作者:日-东野圭吾 当前章节:14528 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「俺が関係してるわけじゃないよ」

「けど、その子供を教えてるわけやろ」

「それはそうだけどさ」

 ふうん、と妙に感心したように鼻を鳴らしながら、垣内はもう一度記事を見た。

「生野区大江か。内藤の家の近所やな」

「へえ、内藤の? 本当かい」

「うん。たしかそうやった」

 内藤というのはアイスホッケー部の後輩だ。正晴たちよりも一学年下である。

「じゃあ今度、内藤に訊いてみるかな」正晴はそういいながら、新聞記事に記載されている吉田ハイツの住所をメモした。

 しかし彼がこのことで内藤に話をしたのは、それからさらに二週間後だった。四年生になれば、実質的にアイスホッケー部を引退しているため、めったに後輩たちと顔を合わせないのだ。正晴が部室を訪ねたのも、運動不足のせいで太りかけてきたため、少し身体を動かそうと思ったからだった。

 内藤は小柄で痩せた男だ。スケーティングの技術は高いものを持っているが、体重が少ないためにコンタクトプレーをするにしても当たりが弱い。要するに、あまり強い選手ではなかった。だがよく気がつくし面倒見もいいので、幹部職として主務を担当していた。

 グラウンドでのトレーニングの合間に、正晴は内藤に話しかけた。

「ああ、あの事故ですか。知ってますよ。ええと、何年前やったかなあ」内藤はタオルで汗を拭きながら頷いた。「僕の家の、すぐ近くです。目と鼻の先というほどではないですけど、まあ歩いて行ける距離です」

「事故のこと、地元じゃわりと話題になったのか」正晴は訊いた。

「話題というかねえ、変な噂が流れたことがあったんです」

「変な噂?」

「ええ。事故やのうて自殺やないか、という噂です」

「わざとガス中毒死したっていうのか」

「はい」返事してから、内藤は正晴の顔を見返した。「何ですか、中道さん。あの事故がどうかしたんですか」

「うん、じつは知り合いが絡んでるんだ」

 彼は内藤にも事情を説明した。内藤は目を丸くした。

「へええ、中道さんがあそこの子供を教えてるんですか。へええ、それはすごい偶然ですねえ」

「別に俺にとっては偶然でも何でもないよ。それより、もう少し詳しい話を教えてくれよ。どうして自殺だっていう噂が流れたんだ」

「さあ、そこまでは知りません。僕もまだ高校生でしたし」内藤はいったん首を傾げたが、すぐに何かを思い出したように手を叩いた。「あっ、そうや。もしかしたら、あそこのおっさんに訊いたら、何かわかるかもしれへん」

「あそこのおっさんって、誰だ」

「僕が駐車場を借りてる不動産屋のおっさんです。アパートでガス自殺をされて、えらい目に遭《お》うたことがあるというようなことを、前にいうてました。あれ、あそこのアパートのことと違うやろか」

「不動産屋?」正晴の頭の中で閃《ひらめ》くものがあった。「それ、死体の発見者じゃないのか」

「えっ、あのおっさんがですか」

「死体を見つけたのは、アパートを貸してた不動産屋らしいんだ。ちょっとたしかめてくれないか」

「あ……それはかまいませんけど」

「頼むよ。もう少し詳しいことを知りたいんだ」

「はあ」

 体育会において先輩後輩の関係は絶対的だ。厄介な頼み事をされて内藤は困惑したようだが、頭を掻きながら頷いた。

 翌日の夕方、正晴は内藤の運転するカリーナの助手席に座っていた。内藤が従兄《いとこ》から三十万円で買い取った中古車だということだった。

「悪いな。面倒臭いことを頼んで」

「いや、僕は別に構いませんよ。どうせ家の近所ですし」内藤は愛想よくいった。

 前日の約束を、後輩は即座に果たしてくれたらしかった。このカリーナ用の駐車場を仲介した不動産屋に電話し、五年前のガス中毒事件の発見者かどうかを確認してくれたのだ。その答えは、死体を発見したのは自分ではなく息子のほうだ、というものだった。その息子は現在、深江橋《ふかえばし》で別の店を出しているらしい。深江橋は東成《ひがしなり》区であり、生野区よりも少し北にある。簡単な地図と電話番号を書いたメモが、今は正晴の手の中にある。

「けど、中道さんはやっぱり真面目ですねえ。やっぱりあれでしょ。教え子のそういう生い立ちのことも知っておいたほうが、家庭教師で教える上で役に立つということでしょ。僕はバイトでは、とてもそこまで出来ませんわ。もっとも、僕に家庭教師のくちは来ませんけど」

 内藤は感心したようにいった。彼なりに納得しているようなので、正晴は何もいわないでおいた。

 じつのところ、自分でも何のためにこんなことをしているのかよくわからなかった。もちろん彼は自分が雪穂に強くひかれていることを自覚している。しかし、だからといって彼女のすべてを知りたいと思っているわけではなかった。過去のことなどどうでもいいというのが、ふだんの彼の考え方だった。

 たぶん現在の彼女を理解できていないからだろうなと彼は思った。身体が触れるほど近くにいながら、そして親しげに言葉を交わしていながら、彼女の存在をふっと遠くに感じることがあるのだ。その理由がわからなかった。わからずに焦っている。

 内藤がしきりに話しかけてきた。今年入った新入部員のことだ。

「どんぐりの背比《せいくら》べというところですわ。経験者が少ないですから、やっぱり今度の冬が勝負です」自分の取得単位数よりもチームの成績のほうが気になるという内藤は、少し渋い顔でいった。

 中央大通と呼ばれる幹線道路から一本内側に入ったところに、田川不動産深江橋店はあった。阪神高速道路東大阪線高井田出入口のそばである。

 店では痩せた男が机に向かって書類に何か記入しているところだった。見たところ、ほかに従業員はいないようだ。男は二人を見て、「いらっしゃい。アパート?」と訊いてきた。部屋探しの客だと思ったらしい。

 内藤が、吉田ハイツの事故について話を聞きたくて来たという意味のことをいった。

「生野の店のおっちゃんに訊いたら、事故に立ち会《お》うたんは、こっちの店長やと教えてくれはったんです」

「ああ、そうやけど」田川は警戒する目で、二人の若者の顔を交互に見た。「今頃なんでそんな話を聞きたいんや」

「見つけた時、女の子が一緒だったでしょ」正晴はいった。「雪穂という子です。その頃の名字は西本……だったかな」

「そう、西本さんや。おたく、西本さんの親戚の人?」

「雪穂さんは、僕の教え子なんです」

「教え子? ああ、学校の先生かいな」田川は納得したように頷いてから、改めて正晴を見た。「えらい若い先生ですな」

「家庭教師です」

「家庭教師? ああ、そうか」田川の視線に見下したような色が浮かんだ。「どこにいるの、あの子。母親が死んでしもうて、身寄りがなくなったんやなかったかな」

「今は親戚の人の養女になってますよ。唐沢という家ですけど」

「ふうん」田川はその名字に関心はないようだった。「元気にしてるんかな。あれ以来、会《お》うてへんけど」

「元気ですよ。今、高校二年です」

「へえ。もうそんなになるか」

 田川はマイルドセブンの箱から一本抜き取り、口にくわえた。それを見て、意外にミーハーなところがあるらしいと正晴は思った。マイルドセブンが発売されたのは二年ちょっと前だが、味が悪いという評価のわりに、新しもの好きの若者を中心にうけている。正晴の友人も、大半がセブンスターから乗り換えた。

「で、あの子があの事件のことでおたくに何かいうたんか」煙をひと吐きしてから田川は訊いた。この男は相手が年下だと見ると、横柄な口調になるらしい。

「田川さんには、いろいろと世話になったといってましたよ」

 無論、嘘だ。雪穂とは、この話をしたことはない。できるはずがなかった。

「まあ、世話というほどでもないけどな。とにかくあの時はびっくりした」

 田川は椅子にもたれ、両手を頭の後ろで組んだ。そして西本文代の死体を見つけた時のことを、かなり細かいところまで話し始めた。ちょうど暇を持て余していたところだったのかもしれない。おかげで正晴は事故の概要を、ほぼ掴《つか》むことができた。

「死体を見つけた時よりも、その後のほうが面倒やったな。警察からいろいろと訊かれてなあ」田川は顔をしかめた。

「どんなことを訊かれたんですか」

「部屋に入った時のことや。俺は、窓を開け放して、ガスの元栓を閉めた以外には、どこにも触ってないっていうたんやけど、何が気に入らんのか、鍋に触れへんかったかとか、玄関には本当に鍵がかかってたかとか訊かれてなあ、あれはほんまに参ったで」

「鍋に何か問題でもあったんですか」

「よう知らん。味噌汁がふきこぼれたんなら、鍋の周りがもっと汚れてるはずやとかいうてたな。そんなこといわれたかて、事実ふきこぼれて火が消えとったんやからしょうがないわな」

 田川の話を聞きながら、正晴はその状況を思い浮かべていた。彼もインスタントラーメンを作る時など、うっかりして鍋の湯をふきこぼしてしまうことがある。そんな時、たしかに鍋の周りは汚れてしまう。

「それにしても、そんなふうに家庭教師までつけてくれる家にもらわれていったんやったら、結果的にあの子にとってはよかったんやないか。あんな母親と暮らしてたんでは、苦労するばっかりやったと思うしな」

「何か問題のある人だったんですか」

「人間的に問題があったかどうかはわからんけど、何しろ生活が苦しかったはずや。うどん屋か何かで働いてたようやけど、家賃を払うのがやっとやったんじゃないか。その家賃にしても、なんぼか溜まってたしな」田川は煙草の煙を宙に向かって吐いた。

「そうなんですか」

「そんな苦労をしてたせいかもしれんけど、あの雪穂ていう子も、妙に醒《さ》めたところがあった。何しろ母親の死体を見つけた時も、涙は見せへんかったんやからな。あれはちょっとびっくりしたで」

「へえ……」

 正晴は意外な気持ちで不動産屋の顔を見返した。文代の葬式では、雪穂はわあわあ泣いたという話を、礼子から聞かされていたからだった。

「あれは一時、自殺やないかっていう説も出ましたよね」内藤が横から口を挟んだ。

「ああ、そうやったな」

「どういうことですか」正晴は訊いた。

「そう考えたほうが筋が通るということが、いくつかあったらしいわ。俺のところへ何遍もやって来た刑事から聞いた話やけどね」

「筋が通るって?」

「何やったかな。もうだいぶ前のことやから、忘れてしもたなあ」田川はこめかみのあたりを押さえていたが、やがて顔を上げた。「ああ、そうや。西本の奥さん、風邪薬を飲んでたんやった」

「風邪薬? それがどうかしたんですか」

「ふつうの量ではなかったんや。空き袋から考えると、一回にふつうの五倍以上飲んだ形跡があったらしい。たしかあの時は解剖もされて、そのことが裏づけられたとかいう話やった」

「五倍以上……というのはおかしいですね」

「眠るために飲んだんやないかと警察では疑うたわけやな。ガスを出して、睡眠薬を飲むという自殺方法があるやろ? 睡眠薬はなかなか手に入らへんから、風邪薬で代用したんと違うかと考えたわけや」

「睡眠薬代わり……か」

「かなり酒を飲んだ形跡もあったらしいで。カップ酒を空けたやつが、ゴミ箱に三つほど入ってたそうや。あの奥さん、ふだんは殆ど酒を飲まへんかったという話やから、これもまた眠るためと考えられるやろ?」

「そうですね」

「ああ、そうや。それから窓のことがある」記憶が蘇ってきたせいか、田川は雄弁になってきた。

「窓?」

「部屋の鍵が全部かかってたのはおかしい、という意見があったようや。あの部屋の台所には換気扇がついてなかったから、炊事をする時には窓を開けるのがふつうやないかというわけや」

 田川の話に正晴は頷いた。そういわれれば、なるほどそうだ。

「でも」と彼はいった。「うっかりしていた、ということもありえますよね」

「まあな」田川は頷いた。「せやから、自殺説を強力に押すほどの根拠とはいわれへん。風邪薬やカップ酒にしてもそうや。ほかに説明がつかんわけやない。それに何より、あの子の証言があったしな」

「あの子というのは……」

「雪穂ちゃんや」

「どういう証言ですか」

「別にさほど特別なことはいうてへん。おかあさんは風邪をひいてたて証言しただけや。寒気がする時には日本酒を飲むこともあったともいうてた」

「あ、そういうことですか」

「刑事なんかは、それにしてもあの薬の量はおかしいというてたけれど、どういうつもりで飲んだのかは、死んだ本人に尋ねてみんことにはわからんしな。それに自殺するのに、わざわざ鍋の味噌汁をふきこぼすなんちゅうことはせんやろ。まあ、そういうようなわけで、結局事故ということで片づいたわけや」

「警察は、その鍋のふきこぼしにも疑問を持ってたんですかね」

「さあな、どうなんかなあ。まあ、そんなことはどっちでもええことや」田川は短くなったマイルドセブンを、灰皿の中でもみ消した。「警察の話では、発見があと三十分早かったら助かったかもしれんということやった。自殺にしろ事故にしろ、あの人は死ぬ運命にあったということと違うか」

 彼が話し終えるのとほぼ同時に、正晴たちの後ろから客が入ってきた。中年の男女だった。いらっしゃい、と田川は新たな客を見て声をかけた。営業用の愛想笑いになっていた。もうこれ以上は自分たちに付き合ってくれることはないだろうと思い、正晴は内藤に目配せして店を出た。

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 やや栗色《くりいろ》を帯びた長い髪が、雪穂の横顔を隠した。彼女はそれを左の中指で耳にかけ直したが、何本かは残った。こんなふうに髪をかきあげるしぐさが、正晴は大好きだった。白く滑らかな頬を見ていると、思わずキスしたくなる衝動に駆られる。初めて彼女の家庭教師をした時からそうだった。

 空間上の二つの面が交わった時に出来る直線の式を求める、という問題に雪穂は取り組んでいた。解き方は教えてあるし、彼女も理解している。彼女が持っているシャープペンシルは、殆ど動きを止めることはなかった。

 制限時間をたっぷり残して、「できました」といって彼女は顔を上げた。正晴はノートに書かれた数式を念入りに見た。数字や記号の一つ一つが丁寧に書かれていた。答えのほうも間違いがなかった。

「正解だよ。完璧だ。文句のつけようがない」雪穂の顔を見ながら彼はいった。

「ほんとう? うれしい」彼女は胸の前で小さく手を叩いた。

「空間座標については、ほぼ理解したようだね。この問題が出来れば、後は全部この応用と考えてもいい」

「じゃあ、ちょっと休憩しません? 新しい紅茶を買ってきたの」

「いいよ。少し疲れただろうからね」

 雪穂は微笑み、椅子から立ち上がると、部屋を出ていった。

 正晴は彼女の机の横に座ったまま、部屋の中を見回した。彼女がお茶を淹《い》れに行った時は、こんなふうに一人で取り残されるわけだが、この時間が、彼としては極めて落ち着かなかった。

 本音をいうと、部屋のあちこちを探索してみたい気持ちがある。小さな引き出しを開けたいし、本棚に挟んであるノートを開いてもみたい。いや、雪穂が使っている化粧品の銘柄を知るだけでも、かなりの満足度が得られるはずなのだ。しかし動き回ったり、部屋のものに触れたことが、万一彼女にばれた時のことを考えると、じっとしているしかなかった。彼女に軽蔑されたくはなかった。

 こんなことならあの雑誌を持ってくればよかったなと彼は思った。今朝、駅の売店で男性向けファッション雑誌を買ったのだ。だが雑誌を入れたスポーツバッグは、一階の玄関を上がったところに置いてある。汚れているうえに、アイスホッケー部にいた頃使っていた巨大なバッグなので、雪穂を教えている間は下に置いておくことが習慣になっている。

 仕方なく彼は、ただ室内を眺めることになった。本棚の前に、ピンク色をした小型のラジカセが置いてある。そばにはカセットテープが数本積まれていた。

 正晴は腰を浮かせ、カセットのレーベルをたしかめた。荒井由実、オフコースという文字が見えた。

 彼は椅子に座り直した。カセットテープから、全く別の連想を始めていた。例の『サブマリン』のことだ。

 美濃部を中心に、今日も情報交換を行ったが、どこからプログラムが流出したのかは全くわからなかった。また美濃部は、テープを販売している『無限企画』という会社に電話したらしいが、何も収穫はなかったという。

「どうやってプログラムを入手したのかって訊いてみたんやけど、そういうことには答えられへんの一点ばりや。電話に出たのは女やったから、技術の人間に代わってくれというたんやけど、けんもほろろというやつや。たぶん確信犯やな。カタログに載ってたほかの商品も、どこかでパクってきたプログラムと違うか」

「直接会社に行ってみたらどうでしょう」正晴は提案してみた。

「意味はないな。たぶん」即座に美濃部は却下した。「プログラムが盗まれたと騒いだところで、相手にしてもらわれへんやろ」

「『サブマリン』を持っていって、見せたら?」

 それでも美濃部は首を振った。

「『サブマリン』のほうがオリジナルやという証拠がどこにある? 『マリン・クラッシュ』を真似て作ったんやろといわれたらそれまでや」

 彼の話を聞いているうちに、正晴は頭をかきむしりたくなってきた。

「そんなことをいったら、いくらでもプログラムを盗んで商売ができるじゃないですか」

「そういうことや」美濃部は冷めた顔でいった。「いずれはこの分野でも著作権というものが必要になるやろな。じつをいうと、法律に詳しい友達に、今度のことを話してみたんや。で、俺らのプログラムが盗まれたことを証明できたとして、どの程度まで賠償請求できるかと訊いてみたところ、そいつの答えはノー、つまりそれは難しいという答えやった。何しろ判例がないからな」

「そんな……」

「だからこそ、俺は犯人を見つけだしたい。見つけたら、ただではすまさへん」美濃部は凄みのある声でいった。

 犯人を見つけたとしても、一、二発殴るぐらいしかできないのかと、正晴は空しい思いがした。そして、プログラムを盗まれるようなドジなことをしたのは誰だろうと、仲間たちの顔を思い浮かべた。そいつにも恨み言をいいたいところだった。

 プログラムというのは財産なんだな――正晴は改めてそう思った。これまではあまりそんなふうに意識したことはなかった。自分にとって大切なものだから取り扱いに気をつけてはきたが、他人から盗まれることを想定したことは殆どない。

 美濃部は、これまでに『サブマリン』を見せた相手、『サブマリン』について話した相手を列挙しようと提案した。「『サブマリン』のプログラムを盗もうと思いつくからには、『サブマリン』について知っていたということやからな」というわけである。

 全員が、思いつくかぎり名前を挙げていった。その数は数十人に上った。研究室の人間、サークルやクラブの仲間、高校時代の友人、いろいろだ。

「この中に、『無限企画』と何らかの形で繋《つな》がってる人間がおるはずなんや」美濃部はそういって名前の並んだレポート用紙を見つめ、ため息をついた。

 彼がため息をつく理由が正晴にもよくわかった。繋がっていたとしても、それは直接とはかぎらない。この数十人から、さらに枝分かれしていることも考えられた。その場合には、現実的に追跡調査は不可能だった。

「各自、自分が『サブマリン』のことを話した相手に当たってみることにしようや。どこかで絶対に手がかりが見つかるはずや」

 美濃部の指示に仲間たちは頷いた。だが頷きながら正晴は、そんなことで果たして見つけられるだろうかという気もしていた。

 彼自身は、『サブマリン』のことを他人に話したことは殆どない。彼にとってはゲーム作りも研究の一環であり、そういう専門の話など、門外漢にはつまらないだろうと思うからだ。ゲーム自体の面白さも、インベーダーゲームには足元にも及ばない。

 ただ、一度だけそういうゲーム作りの話を、全くの部外者に話したことはある。その相手は、ほかならぬ雪穂だった。

「先生は大学でどんな研究をしているの?」

 このように訊かれ、まずは卒業研究のことを話した。だが画像解析やグラフ理論の話が高校二年生の娘にとって面白いはずがない。雪穂は露骨につまらなさそうな顔はしなかったが、明らかに途中で退屈し始めた。そこで彼女の気をひこうとゲームの話をした。途端に彼女は目を輝かせた。

「わあ、面白そう。どんなゲームを作ってるの?」

 正晴は紙に『サブマリン』の画面の絵を描き、ゲームの内容を説明した。雪穂は真剣に聞き入っていた。

「へえ、すごいなあ。先生は、そんなすごいものが作れるんですねえ」

「俺一人で作ったわけじゃないよ。研究室の仲間たちと作ったんだ」

「だけど、仕組みは理解してるわけでしょ」

「それはまあね」

「じゃあ、やっぱりすごい」

 雪穂に見つめられ、正晴は心が熱くなるのを感じた。彼女に尊敬の言葉をかけられることは、最大の喜びだった。

「そのゲーム、あたしもやってみたいな」彼女はいった。

 その願いを叶《かな》えてやりたかった。だが彼自身はコンピュータを持っていなかった。研究室にはあるが、彼女を連れていくわけにはいかない。そのことをいうと、彼女はがっかりした表情を見せた。

「なんだ、残念だな」

「どこかにパーソナル?コンピュータがあればいいんだけどね。だけど俺の友達でも持っているやつはいない。高いからね」

「それがあればできるの?」

「できるよ。テープに記録したプログラムを入れてやればいい」

「テープ? どんなテープ?」

「ふつうのカセットテープだよ」

 正晴は記憶媒体としてテープが使われていることを雪穂に説明した。彼女はなぜかそんなことに興味を示した。

「ねえ先生、そのテープを一度見せてくれない?」

「えっ、テープを? そりゃあいいけどさ、見たって仕方ないぜ。だってふつうのカセットなんだから。君が持ってるのと同じだよ」

「いいから、一度見せて」

「ふうん。まあいいよ」

 たぶん雪穂は、コンピュータに使うほどのものだから、何か少しぐらいは違ったところがあると思ったのだろう。がっかりされるのを承知で、正晴はその次の時にテープを家から持ってきた。

「へえ、本当にふつうのカセットテープなんだね」プログラムを収めたテープを手に取り、彼女は不思議そうな顔をした。

「だからそういったじゃないか」

「このテープに、そういう使い途《みち》があるなんて初めて知った。ありがとう」雪穂はテープを彼に返した。「大事なものなんでしょ。忘れるといけないから、今すぐバッグに入れてきたほうがいいよ」

「ああ、そうだな」たしかにそのとおりだと思い、正晴は部屋を出て、一階に置いてあるバッグの中にテープをしまった。

 雪穂とプログラムの関わりはそれだけである。以後、彼女のほうから『サブマリン』の話をしてきたことは一度もない。また彼も、それを話題にしたことはなかった。

 以上のことは、美濃部たちにも話していなかった。話す必要がないからだ。雪穂がプログラムを盗んだ可能性など、かぎりなくゼロに等しいと確信している。というより、はじめから全く考えていない。

 もちろん雪穂がその気になれば、あの日スポーツバッグからテープを抜き取ることはできただろう。トイレに立つふりをして、こっそり一階に行けばいい。

 だがそれからどうする? 盗み出すだけではいけないのだ。ばれないためには、二時間でそのテープの複製を作り、元のテープをバッグに戻しておかねばならない。無論設備さえあればそれは可能だ。しかしこの家にパーソナル・コンピュータが置いてあるとは思えなかった。テープの複製を作るのは、オフコースのテープをダビングするようなわけにはいかないのだ。

 彼女が犯人というのは、空想としては面白いけれどな――そんなふうに考え、正晴は頬を緩めた。

 ちょうどその時ドアが開いた。

「どうしたの、先生。にやにやして」トレイにティーカップを載せた雪穂が笑いながらいった。

「いや、なんでもないんだ」正晴は手を振った。「いい匂いだね」

「ダージリンよ」

 彼女が机の上にティーカップを並べて置いたので、一つを彼は取り上げた。そして一口|啜《すす》って机に戻す時、手元が狂ってジーンズに少しこぼしてしまった。

「わっ、ドジだな」

 あわててポケットからハンカチを取り出した。その時一緒に、二つ折りにした紙が一枚、床に落ちた。

「大丈夫?」雪穂が心配そうに訊いた。

「平気さ。どうってことない」

「これ、落ちたけど」そういって彼女は床に落ちた紙を拾った。そしてそれを見た瞬間、アーモンド形の彼女の目が、さらに大きく開かれた。

「どうした?」

 雪穂はその紙を正晴のほうに差し出した。そこには略地図と電話番号が書いてある。さらに田川不動産と記してある。内藤が生野店の店主から書いてもらってきたメモを、正晴はポケットに入れたままにしていたのだ。

 しまった、と彼は心の中で唇を噛《か》んだ。

「田川不動産って、生野区にある、あの田川不動産?」彼女は訊いた。表情が強張《こわば》っていた。

「いや、生野区じゃない。東成区だよ。ほら、深江橋って書いてあるだろ」正晴は地図を見せていった。

「でもそこ、生野区にある田川不動産の支店か何かだと思うよ。あの店、お父さんと息子さんがいたから、たぶん息子さんが店を出したんだね」

 雪穂の推理は当たっていた。正晴は狼狽《ろうばい》を顔に出さぬよう気をつけながら、「へえ、そうなのか」といった。

「先生、どうしてそこに行ったの? 部屋でも探してるの?」

「いや、友達に付き合っただけだよ」

「そう……」彼女は遠くを見る目をした。「変なこと思い出しちゃった」

「変なこと?」

「あたしが前に住んでたアパートを管理してたのが、生野区にある田川不動産なの。あたし、前は生野区の大江にいたの」

「ふうん」正晴は彼女の顔を見ないで、ティーカップに手を伸ばした。

「あたしのおかあさんが死んだ時の話、先生、知ってる? 本当のおかあさんのほうだけど」彼女の声は落ち着いていた。いつもより、低く聞こえた。

「いや、知らないな」カップを持ったまま、彼は首を横に振った。

 すると彼女はくすりと笑った。

「先生、芝居が下手」

「いや……」

「わかってる。この前あたしが遅れた時、おかあさんとずいぶん長いこと話をしてたそうじゃない。その時に聞いたんでしょ?」

「いや、まあ、少しね」彼はカップを置き、頭を掻いた。

 今度は雪穂が自分のティーカップを持ち上げた。二口三口紅茶を飲んだ後、ふうーっと長い吐息をついた。

「五月二十二日」と彼女はいった。「それが母の死んだ日。一生忘れない」

 正晴は黙って頷いた。頷くことぐらいしかできなかった。

「ちょっと肌寒い日だった。だから母の編んでくれたカーディガンを着て、学校に行ったの。あのカーディガン、今でもしまってある」

 彼女は整理ダンスのほうに目を向けた。たぶんその中に、辛い思い出の品が入っているのだろう。

「ショックだっただろうね」正晴はいった。何かいわねばと思ったからだが、何というつまらないことを訊いてしまったのだろうと、直後に後悔した。

「夢を見てるみたいだった。もちろん悪夢のほうだけど」雪穂はぎこちなく笑ってから、また元の悲しげな表情に戻った。「あの日、学校が終わってから、友達と遊んじゃったの。それで、帰るのが少し遅くなったの。遊ばなかったら、一時間ぐらい早く帰れたかもしれない」

 彼女のいいたいことが、正晴にもなんとなくわかった。その一時間というのには、重大な意味があるのだ。

「もしそうしていたら……」雪穂はいったん唇を噛んでから続けた。「そうしていたら、たぶんおかあさんは死なずに済んだと思う。それを思うと……」

 彼女の声が涙声に変わっていくのを、正晴は身体を固くして聞いていた。ハンカチを出そうかと思ったが、手を動かすきっかけがつかめなかった。

「まるであたしが殺したように思うこともあるの」と彼女はいった。

「そんなふうに考えるのはよくないよ。だって、知ってて家に帰るのが遅れたわけじゃないじゃないか」

「そういう意味じゃないの。おかあさんはね、あたしに苦労させないために、すごく大変な思いをしていたの。だからあの日もくたびれて、あんなことになってしまったんだと思う。あたしがもうちょっとしっかりして、おかあさんに苦労させなければ、あんなひどいことにはならなかったと思う」

 大粒の涙が白い頬をつたっていくのを、正晴は息を詰めて見つめていた。無性に彼女を抱きしめたくなったが、ここでそんなことができるはずもなかった。

 俺は馬鹿だ、と正晴は心の中で自分を罵倒していた。不動産屋の田川から事件の概要を聞いて以来、じつにおぞましい想像が、ずっと彼の脳裏に潜み続けていたからだった。

 その想像とは、真相はやはり自殺だったのではないか、というものだった。

 過剰な量の風邪薬の空き袋、カップ酒、不自然に施錠された窓、いずれも自殺と考えたほうがすっきりする話だ。それを阻んでいるのは、ふきこぼれた鍋だけである。

 だがその鍋は、ふきこぼれたわりには周りが汚れていなかったと警察ではいっているらしい。

 そこで正晴が考えたのは、実際には自殺であったが、何者かが鍋の味噌汁をこぼし、事故死に見せかけたのではないか、ということだ。

 ここでの何者かとは、雪穂以外には考えられない。風邪薬やカップ酒の不自然さについて彼女が説明しているという点とも辻褄《つじつま》が合う。

 ではなぜ事故死に見せかけたのか。それは世間体を気にしたからだ。今後の人生を考えた場合、母親が自殺したというのは、マイナスイメージにしかならない。

 ただし、この想像には恐ろしい疑問がつきまとう。

 雪穂が最初に母親を発見した時、彼女はすでに死んでいたのか、それともまだ助かる段階だったのか、ということである。

 田川はいっていた。あと三十分発見が早ければ助かったらしい、と。

 当時雪穂には、すでに唐沢礼子という頼るべき人物がいた。もしかしたら雪穂は付き合ううちに、じつの母親に何かあった場合には、この上品な婦人に引き取ってもらえるかもしれないという手応えを感じていたかもしれない。となると、西本文代が瀕死の状態にあるのを見つけた場合、雪穂はどう行動しただろう。

 この想像のおぞましいところは、まさにこの点にある。だからこそ正晴は、これ以上推理を進めるのはやめることにした。しかし、ずっと頭から離れなかったのも事実だ。

 今、彼女の涙を見ているうちに、自分がいかにひねくれた精神の持ち主であるかを、正晴は痛感していた。この娘に、そんなことができるわけがないではないか。

「君のせいじゃないよ」彼はいった。「君がそんなふうにいったら、天国のおかあさんだって悲しむよ」

「あの時に、あたしが鍵さえ持っていればって思うの。それなら不動産屋さんに行ったりしなくてもよくて、もっと早くに見つけてあげられたはずだもの」

「運が悪かったんだ」

「だからあたし、今では絶対に家の鍵を離さないことにしているの。ほらこんなふうに」

 雪穂は立ち上がり、ハンガーにかけてある制服のポケットから、鍵を取り出して見せた。

「古いキーホルダーだね」と正晴はそれを見ていった。

「そうでしょ。これ、あの時にも鍵に付けてあったの。でもあの日にかぎって、家に置き忘れてたのよ」そういって彼女は鍵を元の場所に戻した。

 その時、キーホルダーについていた小さな鈴が、ちりんと鳴った。

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