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喧噪《けんそう》は改札を出た時から始まっていた。
男子大学生たちが、競うようにチラシを配っている。よろしくお願いします、××大学テニスサークルです――ずっと声を張り上げているせいか、誰もがハスキーボイスになっていた。
川島江利子は、無事、チラシを一枚も受け取ることなく駅の外に出られた。そして、一緒に来た唐沢雪穂と顔を見合わせて笑った。
「すごいね」と江利子はいった。「よその大学からも勧誘に来てるみたい」
「あの人たちにとっては、今日が一年で一番大切な日なのよ」と雪穂は答えた。「でも、こんなところでチラシを配ってるようなのに引っかかっちゃだめよ。あんなのは下っ端なんだから」そして彼女は長い髪をかきあげた。
清華女子大学は豊中市にある。学舎は、古い屋敷などが残る住宅地の中に建てられていた。文学部と家政学部、それから体育学部があるだけなので、ふだんは道を行き来する学生数もさほどではない。しかも当然のことながら女子学生ばかりなので、道端で騒いだりすることもないはずだった。だが今日にかぎっていえば、この近辺に住んでいる人々は、大学がそばにあることを疎ましく思っているに違いないと江利子は思った。清華女子大学と最も交流が多いとされる永明《えいめい》大学などから、自分たちのクラブやサークルに新鮮で魅力的なメンバーを入れようと、男子学生たちが大挙して押しかけてきているからだ。彼等は通学路をものほしそうな目で徘徊《はいかい》し、これはと思う新入生を見つけては、所構わず勧誘を始めていた。
「幽霊部員でいいよ、コンパの時だけ来てくれれば。部費だっていらない」というような台詞が、あちこちで飛び交っていた。
江利子たちも、歩けばたった五分で到達できるはずの正門まで行くのに、二十分以上を要した。もっとも、しつこく勧誘してくる男子学生たちの狙《ねら》いが雪穂のほうにあることは江利子も十分に承知していた。そんなことは中学で同じクラスになった時から慣れっこだった。
勧誘合戦は、正門をくぐると一段落した。江利子と雪穂は、とりあえず体育館に行った。そこで入学式が行われるからだった。
中にはパイプ椅子が並べてあり、列の一番前に学科名を書いた札が立てられていた。二人は英文科の席に並んで腰を下ろした。この学科の新入生は約四十名いるはずだが、その半分も席は埋まっていなかった。入学式は、特に出席が義務づけられていない。多くの新入生たちは、この後に行われるクラブ、サークル紹介に間に合うように出てくるのだろうと江利子は予想した。
入学式は学長や学部長の挨拶だけで構成されていた。眠気に耐えるのが苦痛なほど、つまらない話ばかりだった。江利子は欠伸《あくび》を噛み殺すのに苦労した。
体育館を出ると、キャンパスには机が並べられ、各クラブやサークルの部員たちが大声で新入部員を誘っていた。中には男子学生の姿もある。どうやら合同で活動している永明大学の学生たちらしかった。
「どうする? どこかに入る?」歩きながら江利子は雪穂に尋ねた。
「そうねえ」雪穂はそれぞれのポスターや看板を眺めている。全く関心がないわけでもなさそうだった。
「テニスとかスキーのサークルが多いみたいだけど」江利子はいった。実際二つに一つが、このどちらかだった。正式なクラブでも同好会でもない、単にテニスやスキーが好きな者が集まったというだけのグループばかりだ。
「そういうのには、あたし、入らない」雪穂はきっぱりといった。
「そう?」
「だって、日に焼けちゃうもの」
「ああ、そりゃそうだろうけど……」
「知ってる? 肌というのは、すごく記憶力がいいの。その人が浴びてきた紫外線の量を、きちんと覚えているんだって。だから日焼けして黒くなった肌が、たとえ白く戻ったとしても、歳をとってから、そのダメージが現れるの。要するにシミになるわけ。日焼けできるのは若いうちだけなんていうけど、本当は若いうちだってだめなのよ」
「へえ、そうなの」
「でも気にしないでね。江利子がスキーやテニスをしたいっていうなら、それを止めたりしないから」
「ううん、別にしたいわけじゃない」江利子はあわてて首を振った。
その名が暗示している、雪のように白い親友の肌を見て、それぐらい気をつけて守るだけの価値があるだろうと彼女は思った。
こんなふうに話している間も、ケーキにたかる蠅《はえ》のように、男子学生が次々に寄ってきた。テニス、スキー、ゴルフ、サーフィン――よりによって日焼けを逃れられないものばかりで江利子はおかしかった。当然のことながら、雪穂が彼等の話に耳を傾けることはない。
その雪穂が足を止めた。猫のように少しつり上がった目を、彼女はあるサークルのポスターに向けていた。
江利子も同じ方向を見た。そのサークルが置いている机の前で、新入生らしき娘が二人、部員たちの話を聞いているところだった。部員たちは他のサークルのようなスポーツウェアを着ていなかった。女子部員も、永明大学から来ていると思われる男子部員も、濃い色の上着を羽織っていた。皆、他のサークルにいる学生よりも大人びて見えた。また、垢抜《あかぬ》けてもいた。
ソシアルダンス部、とポスターには書いてある。括弧《かっこ》がついていて、永明大学合同、と但し書きがしてあった。
雪穂のような美女が立ち止まったことに男子部員たちが気づかぬはずはなく、早速その中の一人が近づいてきた。
「ダンスに興味があるんですか」彫りが深く、ハンサムといえぬこともない学生は、歯切れのいい口調で雪穂に問いかけた。
「少しだけ。でも、やったことないんです。それに何も知らないし」
「誰だって最初は初心者だよ。大丈夫、ひと月もすれば踊れるようになる」
「見学できるんですか」
「もちろんだよ」そういうと学生は、雪穂を受付の机の前まで連れていった。そしてそこで待ち受けている清華女子大の女子部員に、彼女のことを紹介した。それから彼は振り向いて江利子にいった。「君も、どう?」
「いえ、あたしは結構です」
「そう」
江利子を誘ったのは単なる儀礼だったらしく、彼はすぐに雪穂のところへ戻っていった。せっかく自分が獲得してきたのに案内役をほかの者に取られてはならないと焦っているのだろう。実際、すでに別の男子学生三人が雪穂の周りに集まっていた。
「見学だけでもすれば?」
ぼんやりと立っていた江利子の耳元に、誰かが話しかけてきた。彼女はびっくりして横を見た。背の高い男子学生が彼女を見下ろしていた。
「あっ、いえ、あたしはいいんです」江利子は顔の前で手を振った。
「どうして?」長身の学生は笑いながら尋ねてきた。
「だって……ダンスなんて、あたしの柄じゃないですから。あたしがダンスなんかを始めたら、家族が腰を抜かします」
「柄なんてのは関係ないよ。君の友達が見学に参加するんだろう? だったら一緒に覗いてみたらいいじゃないか。見るのはタダだし、見学したからって強制的に入部させたりはしないからさ」
「え、でも、やっぱりだめです」
「ダンスはしたくないの?」
「そうじゃないんです。ああいうこと、できたら素敵だなって思います。でも、あたしには無理です。だめです、きっと」
「どうしてかなあ」長身の学生は怪訝《けげん》そうに首を傾げた。だがその目は笑っていた。
「だって、あたし、すぐに酔っちゃうんです」
「酔う?」
「車とか船とかに、です。とにかく揺れるものに弱いんです」
彼女の言葉に、彼は眉を寄せた。
「わからないな。そのこととダンスと、どういう関係があるの?」
「だって」江利子は声をひそめて続けた。「ソシアルダンスって、女の人が男の人に、ぶんぶん振り回されたりするじゃないですか。『風と共に去りぬ』で、喪服姿のスカーレットが、レット・バトラーと踊るシーンがあるでしょう? あれなんか、見ているだけで目が回っちゃうんです」
江利子は真面目に話しているつもりなのだが、相手の学生は途中から吹き出していた。
「ダンスっていうと敬遠されることが多いけど、そんな理由を聞いたのは初めてだな」
「でも冗談じゃないんです。本当にそれが心配なんです」
「本当に?」
「はい」
「よし、じゃあ本当に目が回って酔ってしまうかどうか、その目で確かめてみるといい」そういうと彼は江利子の手を引いて、サークルの受付に連れていった。
名簿に名前を書き終えた雪穂が、三人の男子学生から何かいわれて笑っていた。雪穂は江利子が手を引かれているのを見て、少し驚いたようだ。
「彼女にも見学させてやってくれ」長身の学生がいった。
「あっ、シノヅカさん……」受付にいた女子部員が呟いた。
「どうやらダンスに対して、大きな誤解をしているようだからね」彼は江利子に白い歯を見せた。
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ダンス部の見学会は午後五時ちょうどに終わった。その後、永明大の何人かの男子部員は、これはと目をつけた見学者たちを喫茶店に誘ったようだ。それだけが楽しみで、この部に籍を置いているという部員も結構いる。
この夜、篠塚|一成《かずなり》は大阪のシティホテルにいた。窓のそばに置いてあるソファに座り、大学ノートを開いた。
二十三人の名前が並んでいた。まあまあだなと一成は頷いた。とびきり多いというわけではないが、昨年の数は上回った。問題は何人が入ってくれるかだ。
「男の子たち、例年以上に舞い上がってたわね」ベッドのほうから声がした。
倉橋|香苗《かなえ》が煙草に火をつけ、灰色の煙を吐いた。裸の肩が露《あらわ》になっているが、胸元は毛布で隠している。ナイトスタンドの淡い光が、異国風の彼女の顔に、濃い陰影を作っていた。
「例年以上? そうかな」
「そう感じなかった?」
「いつもあんなものだと思ったけどな」
香苗は首を振った。長い髪が揺れた。「今日は特別だった。たった一人のせいでね」
「一人?」
「あの唐沢って子、入部するんでしょ?」
「唐沢?」一成は名簿に並んでいる名前を指でなぞった。「唐沢雪穂……英文科か」
「覚えてないの? まさかね」
「忘れてたわけじゃない。でも、顔とかはあまりはっきりと覚えてないな。何しろ、今日は見学者が多かった」
香苗は、ふふんと鼻を鳴らした。
「一成は、ああいうタイプ、好みじゃないものね」
「ああいうタイプ?」
「いかにもお嬢様っていうタイプ。ああいうんじゃなくて、ちょっと育ちの悪そうなのが好きなんでしょ。あたしみたいに」
「別に、そういうわけじゃない。それに唐沢って子、そんなにお嬢様タイプだったかな」
「長山君なんて、あれは絶対に処女だとかいって、ずいぶん興奮してた」香苗は、くすくす笑った。
「あほだな、あいつ」一成は苦笑し、ルームサービスで注文したサンドウィッチをほおばった。
今日見学に来た新入生たちのことを考えた。
彼は本当に、唐沢雪穂のことをよく覚えていなかった。奇麗な女の子だという印象を持ったのは事実だ。だが、それだけだった。どういう顔だったのかは、今では正確には思い出せない。一言二言、言葉を交わしただけだし、しぐさなどをじっくりと観察したわけでもないから、お嬢様タイプだったのかどうかさえ判断できなかった。同輩の長山がはしゃいでいたのは覚えているが、それがあの娘のせいだったということさえ、今初めて知った。
むしろ一成の記憶に残っているのは、唐沢雪穂の付き添いのようにしてやってきた、川島江利子のほうだった。化粧気は全くなく、洋服もおとなしい、素朴という言葉がぴったりの娘だった。
あれはたぶん唐沢雪穂が、見学者名簿に名前を書いている時だったのだろう。川島江利子は少し離れたところで、一人ぽつんと立って友人を待っていた。すぐそばを人が通りかかろうと、どこかで誰かが大声を出そうと、全く気に留めていないようだった。まるでそんなふうに待っているのが快適なようにさえ見えた。そんな様子は、花をつけた雑草を思わせた。道端で風に揺れている、正式な名前など誰も知らないような小さな花だ。
そういう花をちょっと摘んでみたくなるのと同じような心理で、一成は彼女に声をかけた。本来は、ダンス部の部長である彼自らが、新入部員を勧誘することはない。
川島江利子はユニークな娘だった。一成の言葉に対して、彼が全く予期しない反応を見せた。言葉も表情も、極めて新鮮に見えた。
見学会の間も、彼は江利子のことを気にしていた。なぜか気にしてしまった、といったほうが正確かもしれない。つい彼女のほうに目が向いてしまうのだ。
それは、見学者の中でも彼女が最も真剣な目をしていたせいかもしれない。しかも彼女は、ほかの者がパイプ椅子に腰掛けていたにもかかわらず、最後まで立ったままだった。座って見るのは先輩たちに対して失礼だと思ったのかもしれない。
彼女たちが引き上げる時、一成は追いかけていって声をかけた。感想を訊くためだった。
「すっごくよかったです」胸の前で両手を握りしめ、川島江利子はいった。「ソシアルダンスなんて、時代遅れなものだと思ってたんですけど、ああいうのが踊れるってすごいことですよね。選ばれた人たちっていう気がしちゃいます」
「それは違うよ」一成は首を振って否定した。
「えっ、そうですか」
「選ばれた人間がソシアルダンスを習うんじゃない。いざという時にダンスの一つぐらい踊れるような人間が選ばれていくんだ」
「はあ、そうなんですか……」川島江利子は牧師の話を聞く信者のように、感心と憧《あこが》れの混じったような目で一成を見上げてきた。「すごいですね」
「すごい? 何が?」
「何がって、そういう言葉が出てくることです。選ばれた人間が踊るんじゃなくて、踊れる人間が選ばれるなんて、すごい名言だと思います」
「やめてくれ、ちょっと思いついたことを、格好つけていってみただけだ」
「いいえ、忘れません。この言葉を励みに、がんばります」江利子は、きっぱりといいきった。
「ということは、入部の決心がついたってことかい」
「はい。彼女と二人で決めたんです。お世話になります」そういって江利子は、隣にいた友人を見た。
「そう。じゃあ、こちらこそどうぞよろしく」一成は江利子の友人のほうに顔を向けた。
「よろしくお願いいたします」その友人は、丁寧に頭を下げた。それから、じっと一成の顔を見つめてきた。
彼が唐沢雪穂の度を真正面から見るのは、これが最初だった。整った顔立ちをしている、という印象を持った。
だがこの時彼は、彼女の猫のような目に対して、もう一つ別の感想を抱いた。そして今改めて考えてみて、それのせいで、彼女のことを単なるお嬢様とは思えないのだと気づいた。
彼女の目には、言葉ではいい表せないような微妙な刺《とげ》が含まれていた。だが、ダンス部の部長が自分を無視して友人とだけ話していたからプライドを傷つけられた、というわけでもないようだった。あの目に宿る光は、そういう種類のものではなかった。
あれはもっと危険な光だった、というのが一成の感想だ。卑しさを秘めた光、ともいえた。そして本物のお嬢様ならば、ああいう光を目に宿らせることはないはずだ、というのが彼の考えだった。
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入学式から二週間が経った。
英文科の四講目を受け終えると、江利子は雪穂と連れだって永明大学に向かった。清華女子大学からだと、電車を使って三十分ほどで行ける。ダンス部の合同練習は火曜日と金曜日だが、実際には清華女子大の部員だけで練習することはないので、彼女たちが参加するのは今日で四回目ということになる。
「今日こそ、きちんと踊れますように」電車の中で江利子は祈るふりをした。
「踊ってるじゃない」雪穂がいう。
「だめよ。足が全然思うように動かないんだもん。落ちこぼれそう」
「そんな泣き言いうと、篠塚さんが失望しちゃうわよ。あんなに熱心に勧誘してもらったくせに」
「それをいわれるとつらい」
「部長が直々に勧誘した部員って、江利子だけという話よ。つまりはVIPというわけ。期待に応えなきゃ」雪穂が冷やかす目をした。
「そんなこといわないで。プレッシャーに弱いんだから。でもどうして篠塚さん、あたしにだけ声をかけたのかな」
「気に入ったんでしょ、きっと」
「そんなことあるわけないじゃない。雪穂ならわかるけど。それに部長には倉橋さんという人がいるし」
「倉橋さんね」雪穂は頷いた。「ずいぶん長く付き合ってるみたいね」
「長山先輩の話だと、一年の時からですって。倉橋さんのほうからアタックしたって話だけど、本当かな」
「かもしれないわね」雪穂はもう一度頷いた。あまり驚いてはいないようだった。
篠塚一成と倉橋香苗が公然の仲だということは、江利子が初めて練習に参加した時に知った。何しろ香苗は篠塚のことを、名前で呼び捨てにするのだ。しかも新入部員たちに見せつけるかのように、身体を密着させて踊っていた。そのことについて他の部員たちが何もいわないでいるのが、却《かえ》って二人の仲を証明していた。
「倉橋さん、あたしたちにアピールしたかったのかもしれないわね」雪穂がいった。
「アピールって?」
「篠塚さんは、あたしのものよっていう意思表示」
「ああ……」江利子は頷いた。それはあるかもしれないと思った。またその気持ちはよくわかった。
篠塚一成のことを考えると、江利子は胸のあたりが少し熱くなる。それが恋愛感情なのかどうかはわからない。だが彼が倉橋香苗と恋人らしく振る舞っているのを見た時、少し落胆する気持ちがあったのは事実だった。それが香苗の狙いであったなら、見事に成功したといえた。
しかし篠塚一成がどういう人物なのかを二年生の先輩から聞かされた時、恋愛感情を抱くことなど笑い話にすぎないと思った。彼は、製薬会社では日本でも五指に入る篠塚薬品の、専務の長男だった。現社長は伯父にあたる。つまり掛け値なしの御曹司ということになる。そういう人物が自分の身近にいること自体、江利子には信じられないことだった。だから声をかけてきたのも、御曹司の気紛れだろうと解釈していた。
永明大前の駅で江利子は雪穂と共に電車を降りた。駅を出ると、なま暖かい風が頬を撫《な》でていった。
「今日はあたし、先に失礼することになると思う。ごめんね」雪穂がいった。
「デート?」
「そんなんじゃないの。ちょっと用があるから」
「ふうん」
いつからだったか、時々雪穂がこんなふうにいって、江利子と別行動を取るようになった。どういう用があるのか、今は尋ねたりしない。以前しつこく訊いたことがきっかけで、彼女から交際を断たれたことがあるのだ。雪穂との仲が気まずくなったのは、その時だけだ。
「なんだか雨になりそうね」
どんよりと曇った空を見上げて雪穂が呟いた。
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考えごとをしていたので気づかなかったが、いつの間にかフロントガラスに細かい水滴がついていた。降ってきたのかなと思っていると、みるみるガラスは濡れ始め、前が見えにくくなった。一成はワイパーを動かそうと急いで左手をレバーにかけたが、すぐに気づいてハンドルを持ち換え、右側にあるレバーを操作した。外国車は、右ハンドルでも、レバー類は日本車と反対の位置についている場合が殆どだ。先月買ったばかりのこのフォルクスワーゲン・ゴルフも例外ではなかった。
大学の門を出ると、駅を目指す学生たちが、鞄や紙袋などを傘代わりに頭上にかかげて駆けていた。
ふと見ると川島江利子が歩道を歩いていた。白いジャケットが濡れるのも気にならぬ様子で、いつもののんびりした調子で足を運んでいる。いつもは彼女の横にいるはずの唐沢雪穂が、今日はいなかった。
一成は車を歩道に寄せ、江利子が歩くのと同じ速度まで落とした。だが彼女は一向に気づかない。同じペース、同じリズムで歩く。何か楽しいことでも考えているのか、唇にかすかな笑みが浮かんでいる。
一成はクラクションを軽く二度鳴らした。それでようやく江利子は車のほうを見た。
彼は左側のドアの窓を開けた。
「やあ、濡れネズミ。助けようか」
だが江利子はこの冗談に笑顔を見せず、逆に顔を強張らせたかと思うと、足早に歩きだした。一成はあわてて車で追いかけた。
「おい、どうしたんだ。逃げるなよ」
声をかけたが、彼女は立ち止まるどころか、却って足の速度を上げた。彼のほうを見もしない。どうやら勘違いされているらしいと彼は気づいた。
「俺だよ、川島」
名前を呼ばれ、ようやく彼女は足を止めた。そして驚いた顔で振り返る。
「ナンパなら、晴れた日にするよ。弱みにつけこみたくはないからね」
「篠塚さん……」彼女は目を大きく見開き、口元を手で覆った。
川島江利子は白いハンカチを持っていた。真っ白というわけではなく、白地に小さな花の模様が入っている。そのハンカチで彼女は、濡れた手と顔を拭き、最後に首筋のあたりをぬぐった。びしょぬれの上着は脱いで、膝の上に置いている。後ろの席に置けばいいと一成はいったのだが、シートが濡れるからといって手放さないのだ。
「本当にすみません。暗くて、顔がよく見えなかったんです」
「もういいよ。たしかに、ああいう声のかけ方だと、ナンパだと思われるかもしれない」運転しながら、一成はいった。彼女の家まで送っていくつもりだった。
「すみません。ときどき、あんなふうに誘われることがあるものですから」
「へえ、もてるんだな」
「あ、いえ、あたしじゃないんです。雪穂と一緒にいると、街とかでも声をかけられてばっかりで……」
「そういえば、今日は珍しく唐沢と一緒じゃないんだな。彼女、練習には来てたみたいだけど」
「用があるからって、途中で帰っちゃったんです」
「そういうことか。それで一人だったんだな。それにしても」一成はちらりと彼女のほうを見た。「どうして歩いてたの?」
「歩いてた?」
「さっきだよ」
「だって、家に帰らなきゃいけないから」
「そうじゃなくて、走らずに歩いていた理由を訊いているんだ。周りの人間は、みんな走ってただろう?」
「ああ、でも、別に急いでなかったですから」
「濡れちゃうじゃないか」
「だけど、走ると顔に当たる雨を強く感じちゃうでしょう。こんなふうに」彼女はフロントガラスを指差した。先程まで小降りだった雨が、今は本格的に降りだしている。ガラスに当たって弾けた水滴を、ワイパーがこすりとっていく。
「でも濡れる時間は少なくて済むぜ」
「あたしの足だと、三分ぐらい短くなるだけです、きっと。その程度の時間を短縮するために、濡れた道を走りたくありません。転んじゃうかもしれないし」
「転ぶ? まさか」一成は笑いだした。
「冗談でなく、あたし、よく転んじゃうんです。ああ、そういえば、今日も練習中に転んじゃいました。おまけに山本さんの足を踏んづけちゃって……山本さん、気にしないでいいよっていってくれたけど、痛かったんじゃないかなあ」江利子はプリーツスカートから覗いた足を右手でこすった。
「ダンスには馴れた?」
「少し。でも、やっぱり全然だめです。新入部員の中で、あたしが一番物覚えが悪いですよね。雪穂なんか、もうすっかりレディという感じなのに」江利子はため息をついた。
「すぐにうまくなるさ」
「そうでしょうか。だといいんですけど」
信号が赤になったので一成は車を止め、江利子の横顔を見た。相変わらず化粧気が全くないが、街灯の光を浴びた頬の表面には、全くといっていいほど凹凸がなかった。まるで陶器のようだなと彼は思った。その頬に濡れた髪が数本はりついている。彼は手を伸ばしてそれを取り除こうとした。すると彼女は驚いたように身体をびくりと動かした。
「ああ、ごめん。髪がついてるから」
あっと声を漏らして、江利子はその髪を後ろにかきあげた。頬が少し上気しているのが、暗がりの中でもわかった。
信号が青に変わったので、彼は車を発進させた。
「その髪形はいつから?」前を向いたまま彼は訊いた。
「えっ、これですか」江利子は濡れた頭に手をやった。「高校を卒業する、ちょっと前からですけど」
「だろうね。最近の流行らしいから。ほかの新入部員の中にも何人かいたな。聖子ちゃんカットっていうんだろ。似合う似合わないにかかわらず、誰でもかれでも、その髪形をしている」
長さはセミロングで、前髪を下ろし、横の髪を後ろに流したスタイルだった。昨年デビューした新人歌手のトレードマークでもあるその髪形が、一成はあまり好きではなかった。
「これ、似合いませんか」江利子は、怖《お》ず怖《お》ず尋ねてきた。
「そうだなあ」一成はギアチェンジをし、カーブを曲がった。ハンドル操作を終えてからいった。「はっきりいって、あまり似合うとはいえないね」
「そうですか……」彼女はしきりに髪を撫で始めた。
「気に入ってるの?」
「そういうわけじゃないんですけど、あの、雪穂が勧めてくれて、それで、よく似合うっていってくれるし……」
「また彼女か。なんでも唐沢のいいなりなんだな」
「そんなことありませんけど……」
江利子が目を伏せるのを一成は横目で見た。不意に一つのアイデアが浮かんだ。彼はちらりと腕時計を見た。七時少し前だった。
「君、これから何か予定があるの? バイトとか」
「いえ、ありませんけど」
「じゃあ、少し付き合ってくれないかな」
「どこへ行くんですか」
「心配しなくても、いかがわしいところに連れていったりしないさ」そういうと一成はアクセルを踏み込んだ。
途中、電話ボックスを見つけて、彼はある場所に連絡した。それがどこであるかは江利子にはいわなかった。彼女が少し不安そうにしている様子を、彼は楽しんだ。
車を止めたのはビルの前だった。その二階に目的の店はあった。店の前に立った時、江利子は口を両手で覆い、後ずさりをした。
「えっ、どうして美容院に?」
「僕が何年も世話になっている店だ。腕はたしかだから安心していい」それだけいうと、彼は彼女の背中を押しながら、店のドアを開いた。
マスターは鼻の下に髭《ひげ》を生やした、三十過ぎの男性だった。様々なコンテストで入賞を果たしており、その技術とセンスには定評があった。そのマスターが一成に挨拶した。「こんばんは、お待ちしておりました」
「遅くにごめんね」
「いえいえ、一成さんのお友達ということでしたら、何時まででも待ちます」
「じつは彼女の髪を切ってやってほしいんだ」一成は江利子のほうに掌を向けた。「似合う髪形に」
「なるほど」マスターは江利子の顔をじろじろと眺めた。頭の中でイマジネーションを広げている目だった。江利子はさすがに恥ずかしそうだ。
「それから」一成はそばにいた助手の女性のほうを向いた。「少し化粧もしてやってくれないか。髪形が、より一層映えるように」
「わかりました」助手の女性は目を輝かせて頷いた。
「あの、篠塚さん」江利子が居心地悪そうに、もじもじした。「あたし、今日はあまりお金を持ってないんです。それにお化粧なんて殆どしたことないし……」
「そういうことは君が心配しなくていい。ただ黙って座っていればいいんだ」
「でも、あの、美容院に行くなんてこと、家にいってこなかったから、遅くなると心配すると思うんです」
「それはそうかもしれないな」一成は頷き、再び助手の女性を見た。「電話を借りられるかな」
はい、と返事すると、助手はカウンターテーブルの上に置いてあった電話機を持ってきた。髪を切られている最中の客が呼び出されることもあるのか、長いコードが付いていた。一成はそれを江利子のほうに差し出した。
「さっ、家にかけるんだ。美容院に寄るから遅くなるといっても叱《しか》られることはないだろう?」
もはや抵抗は無駄だと悟ったか、江利子は少し泣きだしそうな顔をしながら、受話器を取り上げた。
店の隅にあるソファに座り、一成は江利子の髪が切られるのを待つことにした。高校生だと思われるアルバイトの娘が、コーヒーを持ってきてくれた。その娘が、まるで刈り上げのような頭をしているのを見て一成は少し驚いたが、それなりに似合っているのを見て妙に感心した。これからはこういうスタイルが流行《はや》るのかもしれないとも思った。
江利子がどのように変身するか、一成は楽しみだった。自分の直感に狂いがなければ、彼女の中の秘められた美貌が開花するはずだと思った。
なぜ川島江利子のことがこれほど気になるのか、一成自身にもよくわからなかった。はじめて見た時からひかれていたのはたしかだが、どこにひきつけられたのか、うまく説明できないのだ。はっきりといえることは、彼女は、誰かに紹介されたわけでもなく、向こうから接近してきたわけでもない、彼自身の目で見つけだした女性だということだった。そしてその事実に彼は大いに満足していた。これまでに付き合ってきた娘は、必ず、そのどちらかだったからだ。
考えてみれば、それは男女交際にかぎらなかったなと、一成はこれまでのことを回想した。玩具も洋服も、すべて与えられてきただけだった。自分で見つけ、欲し、手に入れたものなど何ひとつない。与えられるほうが先だったから、それが自分の求めていたものなのかどうかさえ考えないことも多かった。
永明大学の経済学部を選んだのも、彼の意思とはいいがたかった。親戚にあの大学の出身者が多かったことが最大の理由だ。選んだというより、ずっと以前から決められていたことと表現したほうがふさわしい。
サークル活動にダンス部を選んだことさえも、一成が自分で決めたことではなかった。彼の父親は学業の妨げになるという理由で、サークル活動をすることには反対だったが、社交界で役立つだろうということから、ダンス部だけは認めてくれたのだ。
そして――。
倉橋香苗は、彼が選んだ女ではなく、彼を選んだ女だった。清華女子大の部員の中でも、一年生の時から彼女は際立って美しかった。新入部員にとっての最初の発表会で、誰が彼女のパートナーになるか、男子部員の最も関心のあることだったが、ある日彼女のほうから一成にいってきたのだ。自分をパートナーに選んでほしい、と。
彼女の美しさには一成も目を見張っていたから、この申し出に彼は有頂天になった。そしてコンビを組んで練習を重ねるうち、即座に恋愛関係に陥った。
しかし、と彼は思う。
香苗に対して恋愛感情を持っていたかどうか、彼としては自信がなかった。単に美しい娘と交際できること、肉体関係を持てることで、はしゃいでいただけのように思えるのだ。その証拠に、ほかに楽しそうな遊びの計画があった時などは、彼女と会うほうを犠牲にすることも少なくなかった。そうすることが大して苦痛でもなかった。彼女はよく、一日に一度は電話してくれといったが、それが煩《わずら》わしいと思うこともしばしばだ。
また香苗にしても、本当に自分のことを愛してくれているのかは怪しいと思った。彼女はただブランドが欲しいだけではないのか。時折彼女は将来という言葉を口にするが、仮に自分との結婚を望んでいたにしても、それは彼女が彼の妻になりたいからではなく、篠塚一族の中に食い込みたいからではないかと一成は推測していた。
いずれにしても、香苗との関係はそろそろ終わりにしようと彼は考えていた。今日の練習中でも、彼女は他の部員に見せつけるように身体をすりよせてきた。あんなことは、もうたくさんだと思った。
そんなことを考えながらコーヒーを飲んでいると、助手の女性が目の前に現れた。
「終わりましたよ」といって彼女は微笑んだ。
「どんなふうに?」と彼は訊いた。
「それは御自分の目で、おたしかめになってください」助手の女性は、意味ありげな目をしていった。
江利子は一番端の椅子に座らされていた。一成はゆっくりと近づいていった。鏡に映った彼女の顔を見て、彼は思わず息をのんだ。
髪は肩の少し上まで切られていた。耳たぶが少し覗いている。それでもボーイッシュにはならず、女らしさを感じさせる仕上がりとなっていた。さらに化粧を施された彼女の顔に、一成は見とれた。肌の美しさが一段とひきたてられたようだ。切れ長の目は、彼の心を揺さぶった。
「驚いたな」と彼は呟いた。声が少しかすれた。
「変じゃないですか」江利子は不安そうに訊いた。
「とんでもない」彼は首を振り、マスターを見た。「すごいね。大したもんだ」
「素材がいいということですよ」マスターは、にっこりした。
「ちょっと立ってみてくれよ」一成は江利子にいった。
彼女はおそるおそる立ち上がった。恥ずかしそうに上目遣いに彼を見る。
一成は彼女の姿をじっくりと眺めた。それからいった。「明日の予定は?」
「明日?」
「土曜日だろ。講義は午前中だけ?」
「あ、あの、あたし、土曜の講義は選択していないんです」
「それはちょうどよかった。何か予定は入ってるの? 友達と会う約束とか」
「いいえ、特にありませんけど」
「じゃあ決まった。僕に付き合ってもらおう。君を連れていきたいところがいくつかあるんだ」
「えっ、どこですか」
「それは明日になってからのお楽しみだよ」
一成は改めて江利子の顔と髪形を観賞した。予想以上だった。この個性派美人には、どういう洋服を着せたらいいだろうか――早くも明日のデートに思いを馳せていた。