饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 五 章.2

作者:日-东野圭吾 当前章节:14919 字 更新时间:2026-6-15 18:37

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 月曜日の朝、江利子が階段教室に行くと、先に席についていた雪穂が彼女の顔を見て大きく目を開き、そのまま表情を止めた。絶句しているようだった。

「……どうしたの、それ」しばらくして雪穂はいった。珍しく声がうわずっていた。

「いろいろとあってね」江利子は雪穂の隣に腰を下ろした。すでに顔見知りになっている学生たちも、彼女のほうを見て驚いた顔をしている。それがとても気持ちよかった。

「いつ、髪を切ったの?」

「金曜日。あの、雨の日」

 江利子はあの日のことを雪穂に話した。いつもは冷静な雪穂も、驚きの表情を浮かべたままだった。しかしやがてそれも笑顔に落ち着いた。

「すごいじゃない。やっぱり篠塚さんは江利子のことが気に入ったのよ」

「そうなのかな」江利子は短くなった横の髪を指先でいじった。

「それで、土曜日はどこに行ったの?」

「それが――」江利子は告白を続けた。

 土曜日の午後、江利子が篠塚一成に連れていかれたところは、高級ブランド品を扱うブティックだった。彼は馴れた調子で店に入っていくと、あの美容院の時と同じように、店長らしき女性にいったのだった。彼女に似合う服を用意してほしい、と。

 上品な身なりをしたその店長は、この一言で俄然はりきった。若い店員たちに命じて、次から次と洋服を持ってこさせた。試着室は、江利子の独占状態だった。

 行き先がブティックだとわかった時には、大人っぽい洋服の一着ぐらいは買ってもいいと思った江利子だが、自分が着せられている洋服の値段を見て目を剥《む》いた。そんな大金は持ち合わせてはいなかったし、持っていたとしても、たかが洋服のために払える金額ではなかった。

 そのことを江利子が一成に耳打ちすると、彼は何でもないことのようにいった。

「いいんだ、僕がプレゼントするんだから」

「えー、そんな、だめです。こんなに高いもの」

「男がくれるという時には、遠慮なくもらっておけばいいんだ。心配しなくても、見返りなんかは要求しないよ。君に似合う服を着てもらいたいだけなんだ」

「でも、昨日だって、美容院代を出してもらっちゃったし……」

「君の大切な髪を、俺の気紛れで切らせたんだから当然のことだ。それに、これはすべて俺のためでもあるんだ。一緒に連れて歩く彼女が、似合わない聖子ちゃんカットをしていたり、保険のセールスレディのような服を着ているのは、耐えられないからな」

「そんなにひどいですか、いつものあたし……」

「はっきりいうとね」

 一成にいわれ、江利子は情けない気持ちになった。これまでは、自分なりにお洒落《しゃれ》をしてきたつもりだったからだ。

「君は今、ようやく繭《まゆ》を作り始めたところなんだ」試着室の横に立ち、篠塚一成はいった。「どんなに奇麗に変われるのか、自分でも気づいていない。その繭作りに、俺が力を貸したいと思うわけだよ」

「繭から出てきても、あんまり変わらなかったりして……」

「そんなことはない。保証するよ」新しい洋服を彼女に渡すと、彼は試着室のカーテンを閉めた。

 結局その日はワンピースを一着買った。もう、一、二着買えばいいと一成はいったが、そこまでは甘えられない。そのワンピース一着でさえ、家に帰って、母親にどう説明しようかと悩んだ。何しろ前日の美容院での変身で、驚かせたばかりなのだ。

「大学での古着バザーで買ったといえばいいさ」一成は笑いながらアドバイスをくれた。さらにこう付け加えた。「それにしてもよく似合ってるよ。女優みたいだ」

「まさか」江利子は照れながら鏡を見た。だが、満更でもなかった。

 話を聞き終えた雪穂は、あきれたような顔でかぶりを振った。

「まるでシンデレラストーリーね。びっくりして、何といっていいのかわからない」

「あたしだって夢を見てるみたいよ。こんなにしてもらっていいのかなと思っちゃう」

「でも江利子、篠塚さんのこと好きなんでしょ」

「うん……よくわかんないんだけど」

「そんなにやけた顔して、わかんないもないでしょ」雪穂は優しく睨《にら》んだ。

 翌日の火曜日、江利子が永明大学に行くと、彼女の変貌ぶりにダンス部の部員たちも驚きの色を見せた。

「すごいわねえ、髪形と化粧でこんなに変わっちゃうんだ。あたしもトライしようかな」

「エリは、磨けば光るタマだったってこと。土台がよくなくちゃ、何やっても無駄よ」

「あっ、ひどーい」

 こんなふうに取り囲まれ、騒がれるなどということは、江利子のこれまでの人生にはないことだった。こうした場面に立ち会った時、輪の中心にいるのは常に雪穂だった。その雪穂が、今日は少し離れたところで微笑《ほほえ》んでいる。信じられないことだった。

 永明大学の男子部員たちも、彼女を見つけるとすぐに近寄ってきた。そして、様々な質問を投げかけてくる。ねえ、どうしたの、すごく変わったじゃないか。心境の変化でもあったの。恋人にふられたの。それとも恋人ができたの――。

 江利子は、注目されることがこれほど気持ちのいいものだとは知らなかった。いつも注目され続けてきた雪穂を、改めて羨《うらや》ましく思った。

 しかし誰もが彼女の変化を喜んでくれるわけではなかった。先輩の女子部員の中には、露骨に彼女を無視する者もいたのだ。倉橋香苗などは江利子の顔をしげしげと眺め、「色気づくには百年早いわよ」という台詞を吐いた。だが彼女は江利子を変えたのが自分の恋人だということには気づいていない様子だった。

 練習が始まる前に、江利子は二年生の先輩に呼ばれた。

「部費の支出を計算しといて」髪の長い先輩は、茶色の袋を差し出していった。「この中に帳簿と、前年度分の領収書が全部入ってるから、日付と金額を書いて、月別に計算しておいてほしいの。わかった?」

「いつまでにすればいいんですか」

「今日の練習が終わるまでに、やて」先輩はちらりと背後を見た。「倉橋先輩の指示や」

「あ、はい、わかりました」

 二年生の先輩がいなくなってから、雪穂が近づいてきた。

「ひどいね、江利子が練習する時間がなくなるじゃない。あたし、手伝うから」

「大丈夫、すぐにできると思うよ」

 江利子は袋の中を覗いた。細々としたレシートが、びっしり入っているのが見えた。帳簿を出して広げたが、きちんと記入されていたのは二、三年前までのようだ。

 何かが下に落ちた。拾い上げると、プラスチック製のカードだった。

「キャッシュカードじゃない」雪穂がいった。「たぶん部費を入れてある口座のものよ。いい加減ね、こんなところに放り込んでおくなんて。盗まれたら大変なのに」

「でも暗証番号を知らないと、使えないんじゃないの」と江利子はいった。父親が最近キャッシュカードを持つようになったらしいが、機械を使いこなす自信がなくて、それを使って金を引き出したことがないといっていたのを思い出した。

「それはそうだけど……」雪穂はまだ何かいいたそうだ。

 江利子はカードの表面を見た。三協銀行という文字が印刷されていた。

 練習所の隅で江利子は帳簿つけを始めたが、思いの外に時間がかかった。途中雪穂が手伝ってくれたが、計算を終え、帳簿への記入を済ませた時には、練習時間もなくなっていた。

 二人は帳簿を持って、体育館の廊下を歩いた。更衣室にいるはずの、倉橋香苗に渡すためだった。ほかの部員たちは、殆ど帰ってしまったようだ。

「今日は何のために来たかわからないわね」雪穂が、げんなりしたようにいった。

 女子更衣室の前まで来た時だった。中から声が聞こえてきた。

「だから、馬鹿にしないでっていってるでしょ」

 江利子はぎくりとして足を止めた。倉橋香苗の声に間違いなかった。

「馬鹿にしてるわけじゃない。君のことを十分に尊重しているから、こういうふうに、きちんと話しているんじゃないか」

「何が尊重よ。それが馬鹿にしてるっていうのよ」

 ドアが勢いよく開けられ、目をつり上がらせた倉橋香苗が飛び出してきた。彼女はそこに二人の新入部員がいるのも目に入らないのか、何もいわず、大股で廊下を歩いていった。江利子たちが声をかけられる雰囲気ではなかった。

 続いて篠塚一成が部屋から出てきた。彼は江利子たちを見て苦笑した。

「なんだ、君たちそこにいたのか。どうやら、つまんないやりとりを聞かれたみたいだな」

「追いかけなくていいんですか」と雪穂が訊いた。

「いいんだ」彼は短く答えた。「君たち、もう帰るんだろ? 送っていくよ」

「あっ、あの、あたしは用がありますから」即座に雪穂はいった。「江利子だけ、送ってあげてください」

「雪穂……」

「帳簿は、今度あたしが倉橋さんに渡しておく」雪穂は江利子の手から袋を取り上げた。

「唐沢、本当にいいのかい」一成は訊いた。

「ええ。じゃ、江利子のことよろしく」ぺこりと頭を下げると、雪穂は倉橋香苗と同じ方向に歩いていった。

 一成がため息をついた。「唐沢、気をきかせてくれたらしいな」

「本当に大丈夫なんですか。倉橋さんのこと」

「大丈夫。もう、いいんだ」一成は彼女の肩に手を置いた。「もう終わった」

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 黒のミニスカートを穿《は》いた娘が、鏡の中で笑っていた。今までなら絶対に着られないほど丈が短く、太股《ふともも》が露になっている。それでも江利子はくるりと一回転してみた。彼が気に入りそうだ、と思った。

 いかがですか、と女性店員がやってきた。彼女の姿を見て、わあ、とてもよく似合ってますよ、と笑顔でいう。お世辞には聞こえなかった。

 これにします、と江利子はいった。高級品ではないけれど、自分でも似合っていると思った。

 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。駅を目指し、江利子は歩を速めた。

 五月も後半に入っていた。今月はこれで四着目だなと彼女は頭の中で数えた。最近は自分一人で買い物をすることが多くなった。そのほうが気楽だからだ。一成が気に入りそうな服を、足が棒になるまで歩き回って探すことに喜びを感じている。しかしそんなことに雪穂を付き合わせるわけにはいかなかった。それに、やはり少し照れ臭い。

 デパートのショーウィンドウの横を通る時、自分の姿が反射して見えた。二か月前なら、これが自分だとはわからなかったかもしれないと思った。

 江利子は今、自分の容姿に強い関心を抱いていた。他人からどう見えるか、そして一成にはどう見えるかが、常に気になった。化粧の方法を研究し、自分に似合うファッションを調べることに余念がなかった。また、工夫すればしただけ、鏡に映る姿が美しくなっていく手応えもあった。それが嬉しかった。

「江利子、本当に奇麗になったわね。日に日に変わっていくのがわかる。蛹《さなぎ》から蝶に変わるみたい」雪穂もこんなふうにいってくれる。

「やめてよ。雪穂にそんなこといわれたら照れるよ」

「だって本当のことだもの」そういって雪穂は頷いた。

 一成が、繭という表現を使ったことを彼女は覚えていた。早く本物の女になり、繭から出たいと思った。

 その一成とのデートも、すでに十回を越えていた。正式に交際を申し込まれたのは、彼が倉橋香苗と喧嘩をした、あの日だった。車で家まで送ってもらう途中、彼にいわれたのだ。付き合ってほしい、と。

「倉橋さんと別れたから、あたしと付き合うんですか」あの時江利子はこう尋ねた。

 一成は首を振った。

「彼女とは別れるつもりだった。そこへ君が現れた。だから決心した」

「あたしが篠塚さんと付き合い始めたと知ったら、きっと倉橋さん、怒りますよ」

「しばらくは秘密にしておけばいい。俺たちがいわなきゃわからない」

「無理です。きっと、ばれちゃいます」

「その時はその時さ。俺がなんとかする。君に迷惑はかけない」

「でも――」といったきり、江利子は言葉を続けられなくなった。

 一成は車を道端に寄せた。その二分後に、江利子はキスされたのだった。

 あの時以来、江利子はずっと夢見心地でいる。こんなに素敵なことが続いていいものだろうかとさえ思う。

 二人の関係は、ダンス部内では、うまくごまかし続けられているようだった。話してあるのも雪穂だけだ。他の者には知られていない。その証拠に、江利子はここ二週間のうちに、二人の男子部員からデートに誘われていた。もちろん断ったが、そんなこともこれまでには考えられなかったことだ。

 ただ、倉橋香苗のことは依然として気になっていた。

 あの後香苗は二度練習に出ただけで、それ以外はずっと欠席している。一成と顔を合わせたくないのだろうが、彼の新しい恋人が自分だと知っているせいもあるのではないかと江利子は考えていた。女子大内で時々顔を合わせるのだが、そのたびに射るような鋭い視線を江利子に向けてくるからだ。一応先輩なので彼女のほうから挨拶するが、香苗のほうがそれに応えてきたことはない。

 このことを一成に話したことはないが、一度相談してみようかとも思っていた。

 とにかく、それを除いては、江利子は幸せだった。一人で歩いている時も、つい笑みを漏らしてしまうほどだった。

 洋服の入った紙袋を提げ、江利子は自宅の近くまで帰ってきた。あと五分ほど歩けば、二階建ての古い家屋が見えるはずだった。

 空を見上げると星が出ていた。明日も晴れのようだと知り、彼女は安堵した。明日は金曜日で、一成に会える。だから新しい洋服を着ていくつもりなのだ。

 無意識のうちに、また自分が笑っていたことに気づき、江利子は一人で照れた。

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 呼び出し音が三度鳴り、受話器が取り上げられた。もしもし、川島でございます――江利子の母親の声が聞こえた。

「もしもし、篠塚と申しますが、江利子さんはご在宅でしょうか」一成はいった。

 一瞬相手が沈黙した。いやな予感がした。

「今、ちょっと出かけておりますけど」母親はいった。何となく一成が予想した答えだった。

「いつ頃お帰りになられますか」

「それは、あの、よくわかりません」

「失礼ですが、どちらにお出かけでしょうか。いつおかけしてもお留守のようですが」

 今週に入って、三度目の電話だった。

「それが、たまたま出かけてまして、親戚の家なんですけど」母親の声には狼狽の響きがあった。それが一成を苛立《いらだ》たせた。

「じゃあ、お帰りになられたら電話をいただきたいんですが。永明大の篠塚といっていただければ、おわかりになると思います」

「篠塚さん……ですね」

「ではよろしくお願いいたします」

「あの……」

「はい?」

 一成が訊き返したが、母親はすぐには答えなかった。数秒してから、ようやく声が届いた。

「あの、まことに申し上げにくいことなんですけど、もう電話はかけてこないでいただきたいんですけど」

「はっ?」

「少しお付き合いさせていただいたようですけど、あの子もまだ子供ですし、どうか、ほかの方を誘ってあげてください。あの子も、それでいいといっておりますし」

「ちょっと待ってください。どういうことなんですか。それは彼女がいってることなんですか。もう僕とは付き合いたくないと」

「……そういう意味ではありませんけど、とにかく、もうお付き合いさせていただくわけにはいかなくなったんです。すみません。こちらの事情ですので、あまりお尋ねにならないでください。それでは」

「あっ、ちょっと――」

 叫んだが間に合わず、というより無視されて、電話は切れた。

 一成は電話ボックスを出た。わけがわからなかった。

 江利子からの連絡が途絶えて、一週間以上になっていた。最後に電話で話をしたのは先週の水曜日だった。明日は洋服を買いに行くから、金曜日の練習には新しい服を着ていくといっていた。が、その金曜日の練習を彼女は突然休んだ。

 連絡はあったらしい。唐沢雪穂が電話してきて、急に教授から雑用を命じられたから、江利子と共に今日の練習は欠席する、といったそうだ。

 その日の夜に一成は江利子の自宅に電話した。しかし今日と同じように、今夜は親戚の家に行っており、帰らないといわれたのだ。

 土曜日の夜にも電話した。その時も留守だった。言い訳をする母親の口調はぎこちなく、どこか余裕がなかった。一成の電話が迷惑そうでもあった。

 その後も何度か電話したが、いつも同じような返事しか戻ってこなかった。江利子が帰宅すれば電話してくれるよう伝言を頼んだのだが、うまく伝わっていないのか、かかってきたことはなかった。

 それ以後ダンス部の練習に江利子は出てこなかった。江利子だけでなく、唐沢雪穂も来ないから、事情を訊くこともできなかった。今日は金曜日だが、やはり彼女たちの姿がないので、練習を途中で抜けて電話をかけたら、先程のように宣告されたというわけだ。

 一成としては、どう考えても突然江利子に嫌われる理由など思い当たらなかった。江利子の母親の言葉も、そういうニュアンスではなかった。「こちらの事情」という表現を使っていたが、どういう事情なのだろう――。

 様々な考えを巡らせながら、一成は体育館内にある練習所に戻った。すると女子部員の一人が、彼を見つけて駆け寄ってきた。

「篠塚先輩、変な電話がかかってきているんですけど」

「変な電話?」

「清華女子大のダンス部の責任者を呼べって……。倉橋さんは休んでるっていったら、じゃあ永明大の部長でもいいって」

「誰なんだ」

「それが名乗らないんです」

「わかった」

 一成は体育館の一階にある事務室に行った。守衛の前に置いてある電話の受話器が外されたままになっていた。一成は守衛にことわってから受話器を取り上げた。

「電話、代わりました」と一成はいった。

「永明大の部長さんか」男の声が尋ねてきた。低い声だが、まだ若い男のようだった。

「そうですけど」

「清華に倉橋という女がおるやろ。倉橋香苗」

「いるけど、それがどうかしたのかな」相手に合わせて一成も、丁寧な言葉を遣うのはやめることにした。

「あの女に伝えてくれ。早よ金を払えてな」

「金?」

「後金《あときん》や。万事うまいことやったから、成功報酬をもらわなあかん。前金十二万、後金十三万の約束やったはずや。さっさと払えていうといてくれ。どうせ部費の管理はあの女がしてるんやろ」

「それは何の金かな。何をうまくやったっていうんだ」

「それをあんたにいうわけにはいかへんな」

「だったら、俺に伝言を頼むのも変じゃないか」

 一成が訊くと、相手の男は低く笑った。

「それが変ではないんや。あんたから伝えてもらうのが一番効果的なんや」

「どういう意味だ」

「さあな」それだけいって男は電話を切った。

 仕方なく一成は受話器を置いた。初老の守衛が怪訝そうにしているので、すぐにその場を立ち去ることにした。

 前金で十二万、後金で十三万、合計二十五万円――。

 そんな金を払って倉橋香苗は一体何を頼んだのだろう。電話で声を聞いたかぎりでは、たちの良い男とは思えなかった。一成から伝えるのが効果的だという言葉も気になった。

 あとで香苗に電話してみようかとも思ったが、気が重かった。別れて以来、一度も話をしていないのだ。しかも今は、江利子のことで頭がいっぱいだった。

 ダンス部の練習を終えると、一成は自分の車で帰宅した。彼の部屋のドアには、彼専用の郵便受けが取り付けられている。彼宛の郵便物は、お手伝いさんが、そこに入れておいてくれるのだ。中を見ると、ダイレクトメールが二通と、速達郵便が一通入っていた。速達のほうの差出人は書かれていない。住所や宛名は、定規を使って書いたような、奇妙な文字で記されていた。

 彼は部屋に入り、ベッドに腰かけると、不吉な予感を抱きながら封筒を開けた。

 中には写真が一枚入っているだけだった。

 それを見た瞬間、衝撃が彼を襲った。頭の中で嵐が吹き荒れた。

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 唐沢雪穂は約束の時刻よりも五分ほど遅れて現れた。彼女に向かって一成は小さく手を上げた。すぐに彼女は気づいて近づいてきた。

「遅くなってすみません」と彼女は謝った。

「大丈夫、俺も今来たところだから」

 ウェイトレスが来たので、雪穂はミルクティーを注文した。平日の昼間ということもあり、ファミリーレストランの中はすいていた。

「わざわざ来てもらって、すまなかった」

「いえ」雪穂は小さく首を振った。「でも、電話でもいいましたけど、江利子のことでしたら、あたしの口からはまだ何もいえないんです」

「それはわかっている。たぶん大きな秘密を抱えているんだろうね」

 彼の言葉に、雪穂は目を伏せた。長い睫《まつげ》だった。部員の中には、彼女をフランス人形のようだという者もいるが、もう少し目が丸ければそのとおりだと彼も思った。

「でも、それは俺が何も知らない場合のみ、意味をなす対応策じゃないのかな」

 えっ、と彼女は顔を上げた。その顔を見て、彼はいった。

「写真が送られてきたんだよ。匿名で、しかも速達で」

「写真?」

「こんなもの、君に見せたくはないんだけど」一成は上着のポケットに手を入れた。

「待ってください」雪穂があわてて叫んだ。「それは、あの……トラックの荷台の?」

「そう。場所はトラックの荷台の中だ。写っているのは」

「江利子?」

「そう」一成は頷いた。全裸姿で、という説明は省いた。

 雪穂は口元を手で覆った。今にも泣き出しそうな目をしたが、ウェイトレスがミルクティーを運んできたこともあり、何とかこらえてくれた。一成は安堵した。こんなところで泣かれたら、収拾がつかなくなる。

「君もこの写真を見たの?」と彼は訊いた。

「はい」

「どこで?」

「江利子の家で、です。彼女のところに送られてきたんです。びっくりしました。あんなひどい格好で……」雪穂は声を詰まらせた。

「何てことだ」一成はテーブルの上で拳を固めた。掌に脂汗が湧いた。

 気持ちを落ち着けるため、窓の外に目を向けた。外は、しとしとと細かい雨が降り続いていた。まだ六月には入っていないのだが、梅雨入りはしたのかもしれない。彼は初めて江利子を美容院に連れていった時のことを思い出した。あの時も雨が降っていた。

「話してくれないか。一体何があったんだ」

「何があったって……つまりそういうことです。そういうことがあったんです。突然襲われて……」

「それだけじゃわからない。場所はどこなんだ。いつの話なんだ」

「場所は、江利子の家の近くです。襲われたのは……先々週の木曜日です」

「先々週の木曜……間違いないね」

「間違いありません」

 一成は手帳を取り出し、カレンダーで日付を確認した。思ったとおりだった。最後に電話をくれた日の翌日だ。洋服を買いに行くといっていた日だ。

「警察には届けたのか」

「いえ」

「どうして?」

「大騒ぎして、このことが世間に知れ渡ったら、そっちのほうがよっぽど痛手だって江利子の御両親が……。あたしも、そう思います」

 一成は拳でテーブルを叩いた。苛立つ話だが、両親たちの気持ちは理解できた。

「俺や江利子のところに写真が送られているということは、犯人は通りすがりの人間じゃないぜ。それはわかってるのか」

「わかります。でも誰があんなひどいことを……」

「心当たりはある」

「えっ?」

「一人だけね」

「それは、もしかすると」

「そう」とだけ一成はいい、雪穂の目を見返した。それで彼女も理解したようだ。

「まさか……だって、女の人がそんなことを」

「男を雇ったんだよ。そういう卑劣なことができる男をね」

 一成は、先週の金曜日に、正体不明の男から電話があったことを雪穂に話した。

「電話の後にすぐ例の写真を見たものだから、俺はすぐに両者を結びつけて考えたわけだよ。それから、電話の男が妙なことをいってたことも思い出した。ダンス部の部費は香苗が管理しているんだろう、という意味のことだ」

 雪穂が息を止める気配があった。「犯人に渡す金に、部費を使ったってことですか」

「信じがたい話ではあるけれど、確認してみることにした」

「倉橋さんに、直接お訊きになったんですか」

「さすがにそれはできない。でも方法はある。口座番号はわかっているから、銀行に問い合わせて、そういう出金があったかどうかを調べればいい」

「でも通帳は倉橋さんが持っておられるんでしょう?」

「それはそうだけど、いろいろと手段はあるんだ」

 一成は言葉を濁した。実際には、家に出入りしている三協銀行の人間に、無理をいって頼んだのだ。

「で、その結果だけど」一成は声をひそめた。「先々週の火曜日に、十二万円の金がカードで引き出されている。さらに今朝確認したところでは、今週はじめにも十三万円が下ろされていた」

「だけどそれは倉橋さんが下ろしたとはかぎらないんじゃないですか。ほかの人かも」

「調べたかぎりでは、ここ三週間、彼女以外の人間はカードに触れてもいない。最後に触ったのは君だよ」そういって彼は雪穂の胸元を指差した。

「帳簿の計算を江利子がやらされた時ですね。あの二、三日後に、帳簿とカードを倉橋さんに渡したんですけど」

「それ以来、カードは彼女が持ち続けている。決まりだよ。彼女が男を雇って江利子を襲わせたんだ」

 雪穂は、ふうーっと長い息を吐いた。「とても信じられません」

「俺だって同感だよ」

「だけどそれは篠塚さんの推理ですよね。証拠はないんですよね。口座のことにしても、たまたま同額の出金があったというだけかもしれないじゃないですか」

「こんな不自然な偶然ってあると思うかい? 俺は警察に届けるべきだと思う。警察が本気になって調べれば、きっと尻尾《しっぽ》をつかまえられる」

 しかし雪穂がこの考えに同調する意思のないことは、その顔つきから明らかだった。果たして彼がいい終わると彼女は口を開いた。

「最初にいいましたように、江利子の家では、大騒ぎになることを望んでいないんです。そんなふうに警察沙汰にして、仮に誰が悪いのかがはっきりしたとしても、江利子の傷は癒されないということです」

「だからといって、このままほうってはおけない。俺の気が済まない」

「それは」といって雪穂は一成の目を見つめてきた。「それは、篠塚さんの問題じゃないですか」

 この言葉に一成は一瞬返す言葉をなくした。息をのみ、雪穂の整った顔を見返した。

「今日、あたしがここへ来たのは、江利子からのメッセージを伝えるためでもあったんです」

「メッセージ?」

「さようなら、楽しかったです、ありがとう――それが彼女からの言葉です」事務的な口調で雪穂はいった。

「ちょっと待ってくれ、一度彼女に会わせてくれ」

「無茶いわないでください。彼女の気持ちを少しは考えてあげてください」雪穂は立ち上がった。ミルクティーは殆ど口をつけられていない。「こんな役目、本当は全然やりたくなかったんです。でも彼女のためだと思って、我慢して引き受けました。あたしの気持ちもわかってください」

「唐沢……」

「失礼します」雪穂は出口に向かって歩きだした。だがすぐに立ち止まった。「あたしはダンス部を辞めません。あたしまで辞めると、彼女が気を遣うから」そして改めて歩き始めた。今度は止まる気配はなかった。

 彼女の姿が見えなくなると、一成はため息をつき、窓の外に目をやった。

 雨は相変わらず降り続いていた。

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 テレビでは、つまらないワイドショーかニュース番組しかやっていなかった。江利子は、布団の上に転がしてあったルービックキューブに手を伸ばした。昨年大流行したこのパズルも、今ではすっかり忘れ去られている。難解ということで話題になったのに、解法が知れ渡るや、小学生でもあっという間に完成させられるようになってしまったからだ。それでも江利子は、未だに悪戦苦闘している。四日前にこれを持ってきた雪穂から、ある程度のコツを教わっているにもかかわらず、全く進展なしだ。

 あたしは何をやってもだめだな、と改めて思った。

 ノックの音がした。はい、と答えると、母の声がした。「雪穂さんが来てくれたわよ」

「あっ、入ってもらって」

 間もなく、別の足音が聞こえた。ゆっくりとドアが開き、雪穂の白い顔が覗いた。

「寝てたの?」

「ううん。これをしてた」ルービックキューブを見せた。

 雪穂は微笑みながら入ってきた。椅子に座る前に、「これ」といって箱を見せた。江利子の大好物であるシュークリームの箱だった。ありがとう、と江利子は礼をいった。

「後で紅茶を持ってきてくれるって。おかあさんが」

「そう」頷いてから、江利子はおそるおそる尋ねた。「彼に会ってくれた?」

「うん」と雪穂は答えた。「会ったよ」

「それで……伝えてくれた?」

「伝えた。辛かったけど」

「ごめんね。いやなことをさせて」

「ううん、それはいいんだけど」雪穂は手を伸ばし、江利子の手を優しく握った。「気分はどう? 頭はもう痛くない?」

「うん。今日はだいぶ平気」

 襲われた時、クロロホルムを嗅《か》がされた。その時の後遺症で、しばらくは頭痛がおさまらなかったのだ。もっとも医者によると、精神的なものが大きいのではないかという話だった。

 あの夜、いつまでも帰ってこない娘のことを心配した母親が、駅まで迎えに行く途中、トラックの荷台の中で倒れていた江利子を発見したのだった。江利子はまだ昏睡状態だった。その不快な眠りから覚めた時のショックは、一生忘れられないだろうと彼女は思っている。あの時傍らでは、母が声を出して泣いていたのだ。

 さらに数日後に送られてきた、あのおぞましい写真。差出人は不明で、何のメッセージも書かれていない。それだけに、犯人の底深い悪意がこめられているようで、江利子は震撼《しんかん》した。

 もうこれからは決して目立たず、人の陰に隠れて生きていこうと彼女は決めていた。今までだってそうしてきたのだ。それが自分にふさわしい。

 悲惨極まりない出来事だったが、一つだけ救いがあった。じつに奇妙なことだが、彼女の処女は奪われていなかった。全裸にし、無惨な写真を撮ることだけが、犯人の目的だったらしい。

 両親が警察に届けないことを決心した理由はそこにある。下手に騒げば、どんな噂をたてられるかわかったものではない。事件のことが知れれば、誰もが彼女のことを、犯されたと思うだろう。

 江利子は中学時代のある事件を思い出した。帰宅途中に同級生が襲われた事件だ。下半身を裸にされていた彼女を発見したのは、江利子と雪穂だった。

 被害者である藤村都子の母親は、江利子たちにこういった。幸い、服を脱がされただけで、身体を汚されてはいなかった、と。あの時は、そんなことがあるんだろうかと思ったが、同じ目に遭ってみて、そういうこともあるのだと知った。そしてやはり自分の場合も、他人は信じてくれないに違いないと思った。

「早く元気になってね。力になるから」雪穂がいった。江利子の手を強く握ってくる。

「ありがとう。雪穂だけが支えよ」

「うん。あたしのそばにいれば大丈夫だからね」

 その時テレビからアナウンサーの声が聞こえてきた。

「銀行口座の預金が、本人の全く知らないうちに引き出されるという事件が起きました。被害に遭ったのは東京都内のサラリーマンで、今月十日に銀行の窓口で預金を引き出そうとしたところ、約二百万円あったはずの残高がゼロになっていました。調べてみると、四月二十二日までに、三協銀行府中支店で七回、キャッシュカードによって引き出されていることがわかりました。この男性は銀行の勧めるまま五十四年ごろキャッシュカードを取得しましたが、これまで一度も使ったことがなく、カードは事務所の机の中に眠っていたということです。警察では、何者かがカードを偽造した可能性があるとみて、捜査を――」

 雪穂がテレビのスイッチを切った。

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