ベンツが動きだすのを見てから、「奈美江に電話してみてくれ」と桐原がいった。
友彦は頷き、ダイニングキッチンに置いてある電話で、西口奈美江の部屋にかけた。しかし呼び出し音が聞こえるだけで、奈美江は出なかった。受話器を置きながら、彼は首を振った。
「部屋にいてるんなら、連中がこんなところに来るはずがないか」桐原がいった。
「銀行にもいないということやろうな」友彦はいった。奈美江の本来の職場は、大都銀行昭和支店だ。
「休んでるのかもしれんな」桐原は小型冷蔵庫のドアを開け、製氷器を取り出した。そして流し台に氷をぶちまけると、その中の一つを左手で握った。
「火傷、大丈夫か」
「どうってことない」
「あいつら何者かな。ヤクザみたいに見えたけど」
「それはたぶん間違いない」
「どうして奈美江さんが、あんな連中と……」
「さあな」桐原は、ひとつ目の氷を掌の中で溶かしてしまうと、また新たな氷を握りしめた。「とりあえず友彦は家に帰れ。何かわかったら連絡する」
「桐原はどうするつもりや」
「俺は、今夜はここに泊まる。奈美江が連絡してくるかもしれん」
「じゃあ俺も――」
「おまえは帰れ」桐原は即座にいった。「さっきの連中の仲間が、見張ってるかもしれん。俺ら二人が泊まったら、変に思うやろ」
たしかにそのとおりだった。友彦は諦めて帰ることにした。
「銀行で何かあったのかな」
「さあな」桐原は左手の火傷を右手で触った。激痛でも走ったのか、苦しそうに顔を歪めた。
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園村友彦が帰った時、すでに家族たちの夕食は終わっていた。電子機器メーカーに勤める父親は、和室の居間でプロ野球のナイター中継を見ており、高校生の妹は自分の部屋にこもっていた。
友彦の生活について、両親は最近では全く干渉しなくなった。彼等は息子が有名大学の電気工学科に進んだことを喜んでいたし、世間の大学生と違って、講義もきちんと受け、単位を確実に取得していることに満足していた。友彦は桐原の仕事を手伝うことについて、両親には、マイコンショップのアルバイトと説明してあった。無論、反対されるはずがなかった。
三人分の食器を洗う合間に母親が食卓に並べてくれたのは、焼き魚と野菜の煮物と味噌汁だった。御飯だけは友彦が自分でよそった。母親の手料理を食べながら、桐原は夕食をどうするのだろうと彼は思った。
付き合いが三年になるというのに、桐原の生い立ちや家族について、友彦は詳しいことを殆ど知らなかった。知っていることといえば、かつて父親が質屋を経営していたということや、その父親が今は没しているということぐらいだ。兄弟姉妹は、たぶんいない。母親は生きているようだが、一緒に住んでいるかどうかは曖昧《あいまい》。親しい友人というのも、友彦の知るかぎりはいない。
西口奈美江という女に関してもそうだ。経理事務を任せてはいるが、プライベートなことを彼女の口から聞いたことは殆どない。ふだんは銀行に勤めているようだが、どんな仕事をしているのかも知らなかった。
その西口奈美江がヤクザに追われている――。
どういうことだろうと思った。奈美江の小さくて丸い顔を思い浮かべた。
夕食を終え、友彦も自分の部屋に行こうとした。その時、居間のテレビから流れるニュースが耳に入った。いつの間にかナイター中継は終わっていたらしい。
「今朝八時頃、昭和町の路上で中年の男性が胸などから血を出して倒れているのを、通行人が発見し、警察に通報しました。男性はすぐに病院に運ばれましたが、間もなく死亡しました。この男性は、此花《このはな》区西九条に住む銀行員|真壁《まかべ》幹夫《みきお》さん四十六歳で、胸などを鋭い刃物のようなもので刺されているということです。通行人が真壁さんを見つける直前、現場付近では出刃包丁のようなものを持った不審な男性が目撃されており、警察では事件と何らかの関係があるとみて、その行方を追っています。真壁さんは現場から百メートルほどのところにある、大都銀行昭和支店に出勤する途中でした。次に――」
途中までは、最近急増している通り魔殺人かと思って友彦は聞いていた。だが最後の部分を聞き、ぎくりとした。大都銀行昭和支店。どこかで聞いたことがある、どころではない。西口奈美江が勤務している銀行だ。
友彦は廊下に出ると、その途中に置いてある電話の受話器を取り上げた。気持ちが逸《はや》るまま、番号ボタンを押した。
しかし事務所にいるはずの桐原が、一向に電話に出なかった。呼び出し音を十回鳴らし、友彦は受話器を置いた。
少し考えて、友彦は居間に戻った。父親が十時からのニュース番組を見ることを知っていたからだ。
しばらく父親と並んでテレビを見た。友彦は番組に熱中するふりをし、父親から何か話しかけられるのを防いだ。彼の父は何の話をしていても、すぐに息子の将来の話などに結びつけてしまう癖があった。
番組の終わり頃になって、ようやく例の事件に関するニュースが流された。しかしその内容は、先程聞いたものと殆ど変わりがなかった。番組の司会者は、理由なき無差別殺人の一つではないかという推理を述べていた。
電話が鳴ったのは、その直後だった。友彦は反射的に腰を浮かした。俺が出るよ、と両親にいって廊下に出た。
受話器を取り、「はい、園村ですが」といった。
「俺や」受話器から、予想通りの声が聞こえてきた。
「ついさっき電話をかけた」声を落として友彦はいった。
「そうか。ニュースを見たんやな」
「ああ」
「俺も、ニュースは今見たところや」
「ニュースはって?」
「説明すると長《なご》うなる。それより、ちょっと出られへんか」
「えっ」友彦は居間のほうを振り返った。「今すぐか」
「そうや」
「それはなんとかなると思うけど」
「ちょっと出てきてくれ。相談したいことがある。奈美江のことや」
「連絡があったのか」友彦は受話器を握りしめた。
「今、横におる」
「えっ、どうして?」
「せやから説明は後や。とにかくすぐに来てくれ。というても事務所のほうやない。ホテルや」桐原は、そのホテル名と部屋番号をいった。
それを聞いて友彦は、少し複雑な気持ちになった。高校二年の時に、例の事件があったホテルだった。
「わかった、すぐに行く」部屋番号をもう一度復唱し、友彦は電話を切った。
バイト先のマイコンショップでトラブルが起きたのでこれから出かける、とだけ母親にいって、友彦は家を出た。母親は何も疑っている様子はなく、大変やねえ、と感心したようにいった。
急いで家を出たので、まだ電車は動いていた。友彦は、花岡夕子とデートしていた頃のことを思い出しながら、あの時と同じ道程を辿《たど》った。乗り換え口も、ホームで電車を待つ位置も、ほろ苦さを伴いながらも懐かしいものだった。あの人妻が、彼にとっては最初の女性だったのだ。彼女が死んでからは、昨年コンパで知り合った某女子大生とセックスするまで、友彦は女性とキスすることさえなかった。
その思い出のホテルに到着すると、彼は真っ直ぐエレベータホールに向かった。このホテル内の位置関係については熟知している。
二十階で降りると、2015という表示が出ているドアを探した。それは廊下の一番奥にあった。友彦はドアをノックした。
「はい、どなた?」桐原の声がした。
「平安京エイリアン」と友彦は答えた。コンピュータゲームの名前だ。
ドアが内側に開いた。無精髭を生やした桐原が、入れよ、というように親指を立てた。
部屋はツインルームだった。窓の近くにテーブルと二つの椅子が置いてある。その一つに、チェックのワンピースを着た西口奈美江が座っていた。
「こんばんは」と奈美江のほうから声をかけてきた。微笑《ほほえ》んでいるが、ずいぶんやつれて見えた。本来は丸顔タイプだが、顎が尖《とが》っている。
「こんばんは」友彦は応え、ちょっと室内を見回してから、まだ少しも皺の寄っていないベッドに腰かけた。「ええと、それで」桐原を見た。「どういうこと?」
桐原はコットンパンツのポケットに両手を突っ込んだまま、壁際に置いてある机に尻をのせた。
「園村が出ていってから一時間ぐらいして、奈美江から電話があった」
「うん」
「もう俺らのほうの仕事は手伝われへんから、帳簿だとか関係書類を返しておきたいっていうことや」
「手伝えないって?」
「逃げる気らしい」
「えっ、どうして」友彦は奈美江を見た。それから先程のニュースを思い出した。「あの、同じ銀行の人が殺されたっていう事件と関係あるのか?」
「まあそういうことや」桐原はいった。「けど、奈美江が殺したわけやない」
「いや、そんなことは思ってないけど」
友彦はいったが、じつは一瞬考えたことだった。
「殺したのは、夕方事務所に来た連中らしい」
桐原の言葉に、友彦は息をのんだ。
「何のためにそんなことを……」
奈美江は黙って俯《うつむ》いたままだ。それを見て、桐原は改めて友彦のほうを向いた。
「紺色のジャケットを着た身体の大きなヤクザ、エノモトというそうやけど、奈美江はあいつに貢《みつ》いでたらしい」
「貢ぐって……金を?」
「貢ぐという以上は、もちろん金や。ただし、自分の金やなかった」
「えっ、ということは、もしかしたら……」
「ああ」桐原は顎を引いた。「銀行の金や。オンラインシステムを利用して、エノモトの口座に勝手に振り込んでたらしい」
「いくら?」
「総額でいくらになるかは、奈美江にもわからんそうや。何しろ、多い時で二千万円以上動かしたっていうんやからな。それが一年以上続いてたらしい」
「そんなことができるの?」友彦は奈美江に訊いていた。だが彼女は下を向いたままだ。
「できるということやろ。本人がやったというてるねんから。けど、奈美江の不正に感づいた人間がおった。それが真壁や」
「マカベ……さっきのニュースの……」
桐原は頷いた。「真壁は奈美江が犯人とは思わず、自分の疑問を話したらしい。それで奈美江は観念して、エノモトに連絡したそうや。とうとうばれてしまいそうやてな。エノモトとしては、無限に金を引き出せる打ち出の小槌《こづち》を失いとうなかった。それで仲間だか子分だかに命じて、真壁を殺したというわけや」
聞いているうちに、友彦は急速に喉が渇いてきた。心臓の鼓動が大きくなる。
「そうだったのか……」
「けど奈美江としては、万々歳という気分にはなられへん。いうてみたら真壁は、奈美江のせいで死んだようなもんや」
桐原がいうと、奈美江が嗚咽《おえつ》を漏らし始めた。細い肩が小さく揺れていた。
「そういう言い方をせんでもええやろ」友彦は彼女を気遣っていった。
「こういうことは、オブラートに包んでしゃべっても、意味がないやろうが」
「だけど――」
「いいの」奈美江が口を開いた。瞼《まぶた》は腫れているが、その目には何らかの決意が込められているようだった。「本当のことなんだから。リョウのいうとおりなんだから」
「そうかもしれんけど……」そういったきり、後が続かなかった。仕方なく友彦は、話の先を促す目的で桐原を見た。
「それで奈美江も、いよいよエノモトとは縁を切らなあかんと思たそうや」桐原は、机の横を指差した。そこには大きめの旅行バッグが二つ、ぱんぱんに膨れた状態で置かれていた。
「道理で、あの連中が血相を変えて奈美江さんのことを捜してたわけや。奈美江さんがいなくなったら、その真壁っていう人を殺した意味がなくなってしまう」
「それだけでなく、エノモトは至急大金を必要としているらしい。本来なら昨日の昼間に、奈美江がいつものように金を振り込むことになってたそうや」
「あの人、いくつかの事業に手を出してるのよ。でも、どれもあまりうまくいってないみたい」奈美江が呟いた。
「どうしてあんな男に……」
「今ここでそんなことを訊いて何の意味がある」桐原がぶっきらぼうにいった。
「それはそうだけど……」友彦は頭を掻いた。「で、これからどうする?」
「何とか逃がすしかないやろ」
「そうやな」
自首するという案は、この場合口にできないのだろうなと友彦は解釈した。
「というても、当面どこに身を置くかも決まってない。いつまでもこんなホテルにおったら、いつかは見つかってしまう。エノモトからは逃げられても、警察からはそう簡単には逃げられへんからな。長期間隠れてても平気そうなところを、今日と明日の二日間で俺が探してみる」
「見つかるかな」
「見つけるしかない」桐原は冷蔵庫を開け、中から缶ビールを一つ取り出した。
「ごめんね、二人とも。もし警察に捕まっても、あなたたちに協力してもらったことは絶対にしゃべらないから」奈美江が申し訳なさそうにいった。
「お金はあるの?」と友彦は訊いた。
「うん、それはまあなんとか」彼女の口調は、どこか歯切れが悪かった。
「さすがは奈美江や。ただエノモトに操られてるだけやない」桐原が缶ビールを片手にいった。「こういう日が来ることを予想して、秘密の口座を五つも持ってたというんや。で、それぞれの口座に、こっそり不正送金していたというんやから、感心するわ」
「へえ」
「威張れることじゃないから、あんまりいわないで」奈美江は額に手をあてた。
「でも、金はないより、あったほうがいいよ」友彦はいった。
「そういうことや」そういって桐原はビールを飲んだ。
「それで俺は何をしたらええ?」奈美江と桐原の顔を交互に見て、友彦は訊いた。
「おまえには二日間、ここで奈美江と一緒にいてほしい」
「えっ……」
「奈美江は迂闊《うかつ》には外に出られへん。買い物なんかを誰かが代わりにやるしかない。で、こういうことを頼めるのは、おまえしかおらん」
「そうか……」
友彦は前髪をかきあげ、奈美江を見た。彼女はすがるような目をしていた。
「わかった。任せてくれ」強い口調でいった。
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土曜日の昼間、友彦はデパートの地下食料品売場で買った弁当を、ホテルの部屋に持ち帰った。五目御飯に焼き魚や鶏の唐揚げがついた弁当だった。さらにホテルに備え付けのティーバッグで日本茶を入れ、小さなテーブルで昼食をとることにした。
「ごめんね、こんな食事に付き合わせちゃって」奈美江がすまなそうにいった。「園村君は、外で食べてきてもよかったのに」
「ええよ。一人で食べるより、誰か相手がいたほうが、俺も楽しいから」割り箸で焼き魚をほぐしながら友彦はいった。「それにこの弁当、結構うまいし」
「うん、おいしいね」奈美江は目を細めた。
弁当を食べ終えると、友彦は次にプリンを冷蔵庫から取り出した。食後のデザート用に買ってきたものだ。それを見て奈美江は少女のように喜んだ。
「すごく気がつくのねえ、園村君、きっといい旦那さんになるわよ」
「えっ、そうかなあ」プリンを口に運びながら友彦は照れた。
「園村君、恋人はいなかったっけ」
「うん。去年、ちょっと付き合ったけど、別れた。はっきりいうと、ふられた」
「へえ、どうしてかな」
「もっと遊び方をよう知ってる男がええていわれた。俺は地味すぎるらしい」
「みんな、男を見る目がないのねえ」奈美江はかぶりを振った。だがその後彼女は、自嘲《じちょう》するように笑った。「そんなことをいう資格、あたしにはなかったんだ」そしてカップの中のプリンを、スプーンで崩した。
その手つきを見ながら、友彦はある質問をしようとした。しかし結局やめておいた。訊いても仕方のないことだと思ったからだ。
だが奈美江のほうは、そんな彼の表情を見逃さなかった。
「エノモトとのこと、訊きたいんでしょ」と彼女はいった。「どうしてあんな男に引っかかったのか、どうして一年以上も金を貢いでいたのかって」
「いや、別に……」
「いいの。訊いてくれて。だって、誰が聞いたって馬鹿な話やもの」奈美江は、まだ中身の入っているプリンのカップをテーブルに置いた。「煙草、持ってる?」
「マイルドセブンやけど」
「うん。それでいい」
友彦からもらった煙草に、友彦の使い捨てライターで火をつけ、奈美江は深々と一服した。白い煙が、優雅に空間を舞った。
「一年半ほど前、車でちょっとした事故を起こしてしまったの」窓を見ながら話し始めた。「接触事故よ。といっても、ほんの少しこすっただけ。それに、こっちに落ち度があるとも思えなかった。でもね、何しろ相手が悪かった」
友彦はぴんときた。「ヤクザ?」
奈美江は頷いた。
「取り囲まれちゃってね、一時はどうなることかと思った。そんな時、別の車の中からエノモトが現れたの。彼は相手のヤクザと顔見知りみたいだった。そうして、後日あたしが修理代を払うってことで話をつけてくれたの」
「ものすごい弁償金を要求されたとか」
奈美江は首を振った。
「たしか十万円そこそこだったと思う。それでもエノモトは、下手な交渉をして申し訳なかったといって謝ったのよ。信じられないと思うけど、あの頃エノモトは本当に紳士だったの」
「信じられへんな」
「身なりもきちんとしていたし、自分のことをヤクザじゃないといってた。事業をいくつかしているとかで、その名刺をもらった」
今は全部捨てちゃったけれど、と彼女は付け足した。
「で、好きになってしもたわけ?」友彦は訊いた。
奈美江はすぐには答えず、しばらく煙草を吸っていた。その煙の行方を追う目をした。
「言い訳するみたいだけど、本当に優しかったの。あたしのことを、心底愛してくれているように思えた。そうして、そんな気分になれたのは、四十年近くも生きてきて、あの時が初めてだった」
「だから奈美江さんも、相手に何かしてやりたくなったわけや」
「というより、エノモトから関心を持たれなくなるのが怖かった。自分が役に立つ女だということを示したかった」
「それで金を?」
「愚かよねえ。新しい事業に金が必要なんだという話を、全然疑わなかった」
「でも、エノモトがやっぱりヤクザだってことには気づいたんやろ?」
「それはまあね。でも、もうその時には関係がなかった」
「関係がないって?」
「相手がヤクザであろうとなかろうと関係ない、という意味よ」
「ふうん……」友彦はテーブルの上の灰皿を見つめた。返すべき言葉が思いつかない。
その灰皿の中で、奈美江は煙草をもみ消した。
「結局あたしは変な男に捕まってしまうのよねえ。男運がないっていうのかな」
「以前にも、何かあったの?」
「まあね。煙草、もう一本もらえる?」友彦が差し出した箱から、彼女は一本抜き取った。「前に付き合ってた男はバーテンだったの。だけど、まともに働いてくれたことなんか殆どなかった。博打好きでね、あたしから巻き上げたお金を、きれいさっぱり賭事《かけごと》に使ってくれた。で、あたしの預金がすっかり底をつくと、もう用はないとばかりに姿を消したというわけ」
「いつ頃の話?」
「う……ん。三年前」
「三年前……」
「そう、あの頃。園村君とも初めて会ったよね。そういうことがあって、生きてることに嫌気がさしてたから、ああいうところにも行ってみようと思ったの」
「ふうん」
ああいうところ――若い男と乱交するところ、だ。
「この話は、ずっと前にリョウにもしたことがある。だからたぶんリョウは、今度のことで呆《あき》れてると思う」奈美江はテーブルの上に置いてあった使い捨てライターを取り、煙草に火をつけた。
「どうして」
「だって、同じ間違いを繰り返してるから。リョウは、そういうの、嫌いでしょ」
「ああ」たしかにそうだと友彦は思った。「一つ訊いてもいいかな」
「なあに?」
「銀行での不正送金って、そんなに簡単にできるものなのか」
「難しい質問」奈美江は足を組み、立て続けに煙草を吸った。説明の仕方を考えているようだった。煙草が二センチほど短くなったところで、彼女は口を開いた。「簡単だったってことなのよね、結局。でもそれが落とし穴だった」
「どういうこと?」
「一言でいってしまえば、送金伝票を偽造すればいいだけのことなの」奈美江は煙草を二本の指に挟んだまま、こめかみを掻いた。「伝票に金額と送金先の口座を記入して、事務集中課の係長と課長の印を押せばいいわけ。課長は席を立っていることが多いから、無断で判子を使うのは難しくない。係長の職印は偽造したわ」
「それでばれへんの? チェックする人はいないの?」
「資金の残高を示す日計表というのがあるの。経理部職員が、それを点検することになってるんだけど、その職員の印鑑さえあれば、照合済みの書類も偽造可能なのよ。こうしておけば、とりあえずはごまかせる」
「とりあえずって?」
「この方法だと、決済資金が急に減ってしまうから、時間の問題で発覚してしまうわけ。それであたしは仮払金を流用することにしたの」
「何それ?」
「金融機関相互の送金だとか入金は、振り込みを受けた金融機関が一時的に顧客に立て替え払いした後、相手方の金融機関が決済する仕組みになってるの。その、立て替え払いのお金のことを仮払金といって、どんな金融機関でも特別にプールしてあるわけ。あたしは、そのお金に目をつけたのよ」
「何だか複雑やな」
「仮払金の操作というのは、専門的知識が必要で、長年実務を担当してきた係員にしか全体を把握できないの。大都銀行昭和支店でいえば、あたしということになるわね。だから、本来は経理部や検査部で二重、三重のチェックがされるはずなんだけど、実質的には何もかもあたし任せだった」
「要するに、チェックが規則通りに行われていないということか」
「早い話がそういうこと。たとえばうちの銀行の場合、百万円以上の送金をする時には、役席承認簿に振り込み先と金額を記入して、課長の許可を受けてキーを借り、コンピュータの端末機を操作することになっているの。しかもこの送金結果は、翌日、日報としてコンピュータから打ち出され、課長がそれを点検すると決められている。ところが、こんなふうにきっちりとチェックされることなんて殆どないのよ。だから、不正送金の伝票やその日の日報なんかは隠してしまって、正常な日の伝票や日報だけを上司に見せておけば、誰も騒いだりはしないというわけなの」
「ふうん。聞くからに難しそうやけど、結局は上司が怠慢やったということか」
「まあそうね。でも――」奈美江は首を傾げ、大きくため息をついた。「真壁さんみたいに、いずれは気づく人が出てくるものなのよね」
「それがわかっていても、不正送金をやめられへんかったんやな」
「うん。麻薬……みたいなものかな」奈美江は煙草の灰を灰皿に落とした。「キーボードをちょこちょこっと操作するだけで、大金がこっちからあっちへ移動する。まるで魔法の手を持っているような気になっていた。でも全部錯覚だったのよね」
奈美江は最後に、「コンピュータを騙《だま》すのは、ほどほどにしたほうがいいわよ」と友彦にいった。
家には、しばらくバイト先で泊まり込むから、といってあった。友彦は、二つ並んだベッドの片方を借りることにした。まず彼がシャワーを浴び、浴衣を着てベッドにもぐりこんだ。その後で奈美江がバスルームに入っていった。その時にはフットライト以外の明かりは消されていた。
奈美江がバスルームから出てきて、ベッドに入る気配があった。それを友彦は背中で聞いた。石鹸の匂いが漂っているような気がした。
暗闇《くらやみ》の中で、友彦はじっとしていた。眠れそうになかった。とにかく気持ちが高ぶっていた。何とか奈美江を無事に逃がさなければならないという意識が、彼を興奮させているのかもしれなかった。今日は結局、桐原からの連絡はなかった。
「園村君」背中のほうから奈美江の声がした。「眠った?」
「ううん」彼は目を閉じたまま返事した。
「眠れないね」
「うん」
奈美江が眠れないのは当然だろうと友彦は思った。先のことが全く読めない逃避行に出なければならないのだ。
「ねえ」と彼女が再び呼びかけてきた。「あの人のこと、思い出す?」
「あの人?」
「花岡夕子さん」
「あ……」その名前を聞くと平静ではいられなかった。動揺を悟られぬよう気をつけて彼は答えた。「時々」
「そう、やっぱりね」奈美江は予想通りという声を出した。「好きだったの?」
「わからん。あの頃は若かったし」
友彦がいうと、ふふっと彼女は笑った。
「今だって若いくせに」
「そうやけど」
「あの時」と彼女はいった。「あたしは逃げだしちゃった」
「そうやったね」
「変な女と思ったでしょうね。あんなところまで行っておきながら逃げるなんて」
「いや……」
「時々ね、後悔することがある」
「後悔?」
「うん。あの時、帰らないほうがよかったかなって。帰らないで、すべてを成りゆきに任せていたら、生まれ変われたかもしれない」
友彦は唇を閉じていた。彼女の呟きに重い意味があることは彼にもわかった。軽率な受け答えはできなかった。
重苦しい空気の中で、彼女がさらにいった。「もう、遅いのかな」
この問いかけの意味は友彦にもよくわかった。じつは彼も同じ思いに支配されつつあったからだ。
「奈美江さん」ついに彼は思い切って話しかけた。「しますか?」
彼女は黙り込んだ。それで友彦は、おかしなことをいってしまったのかなと思った。だがやがて彼女は訊いた。「こんなおばさんでもいいの?」
友彦は答えた。「三年前から、奈美江さんは変わってないよ」
「三年前からおばさんっていうこと?」
「いや、そうじゃなくて……」
奈美江がベッドから出る気配がした。数秒後、友彦のベッドの中に彼女はもぐりこんできた。
「生まれ変われるといいな」と彼女は友彦の耳元でいった。
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月曜日の朝、桐原が迎えに現れた。彼はまず奈美江に謝った。いい隠れ家が確保できなかったから、しばらく名古屋のビジネスホテルで身を潜めていてほしいというのだった。
「昨日は、そういう話やなかったやないか」友彦はいった。昨夜桐原から、いい場所が見つかったから明日の朝出発しようという内容の電話が入っていたのだ。
「今朝になって、急に都合が悪なった。長い間やないから、ちょっと我慢してくれ」
「あたしはいいわよ」と奈美江はいった。「名古屋なら、昔ちょっと住んでたから土地鑑もあるし」
「その話を聞いてたから名古屋にした」桐原がいった。
ホテルの地下駐車場には、白のマークⅡが止めてあった。レンタカーだと桐原はいった。仕事に使っているライトエースを動かすと、エノモトたちが怪しむからだという。
「これ、新幹線の切符。それからビジネスホテルの地図」車に乗り込んでから、封筒と白いコピー用紙を桐原は奈美江に渡した。
「いろいろとありがとう」彼女は礼をいった。
「それからもう一つ。これを持っていったほうがええ」桐原が紙袋を出してきた。
「何これ?」紙袋の中を覗き込み、奈美江は苦笑した。
友彦も横から覗き込んだ。袋の中には、やたら強いカールをつけた女性用のカツラと大きなサングラス、そしてマスクが入っていた。
「例の架空口座の金を、キャッシュカードでおろさなあかんやろ」車のエンジンをかけながら桐原がいった。「その時には、できるだけ変装したほうがええ。多少不自然でも、カメラに顔が写らんようにせんとな」
「至れり尽くせりね。ありがとう。使わせてもらう」奈美江は紙袋を、すでに満杯と思われるボストンバッグに押し込んだ。
「向こうへ着いたら連絡してくれよな」友彦がいった。
「うん」と奈美江は笑顔で頷いた。
桐原が車を発進させた。
奈美江を新幹線に乗せた後、友彦は桐原と共に事務所に引き返した。
「うまいこと逃げのびられたらええんやけどな」
友彦がいってみたが、桐原は何とも答えなかった。そのかわりに、こんなことを訊いてきた。
「エノモトとの話、聞いたか」
うん、と友彦は答えた。
「あほやろ、あの女」
「えっ……」
「エノモトは最初から奈美江に近づくつもりやったんや。奈美江の銀行での立場を利用しようと企んだんやろ。彼女が交通事故を起こしてヤクザにからまれたというのも、全部エノモトが仕組んだことに決まってる。そんな単純なことにも気づかへんのやから、どうかしてるで。あの女は昔からそうや。男に溺《おぼ》れて、まともな判断がでけへんようになる」
何もいい返せず、友彦は唾を飲んだ。だがまるで鉛を飲み込んだように胃袋が重くなった。桐原のような発想は全くなかった。
この日、友彦は早めに帰宅した。そうして奈美江からの電話を待った。
だが電話はなかった。
西口奈美江の死体が、名古屋のビジネスホテルで発見されたのは、友彦が彼女を見送ってから四日目のことだった。胸部と腹部をナイフのようなもので刺されていた。この時点で、死後七十二時間以上が経過していると判断された。
奈美江が勤務する銀行には、二日間の休暇届が出されていた。三日目からは無断欠勤となり、行内でも彼女の行方を捜していたという。
奈美江の持ち物の中には、五つの預金通帳が入っていた。そこに入っていた預金総額は月曜日の時点では二千万円をはるかに越えるものだった。それが死体発見時には、殆どゼロになっていた。
銀行が調査した結果、彼女は長年にわたって不正送金を行っていた。五つの預金通帳も、その目的に使われたものらしかった。
警察は、西口奈美江が送金していた口座から、会社役員|榎本《えのもと》宏《ひろし》を横領の疑いで逮捕した。また西口奈美江が殺された事件についても、榎本を取り調べる方針だということだった。
ただ、奈美江が五つの口座から引き出したはずの金は、まだ見つからなかった。奈美江自身がカードで下ろしたことは確実だった。現金自動預入支払機の防犯カメラに、変装した女が映っていたのだが、用いられたカツラ、サングラス、マスクが、彼女の荷物の中から見つかっているからだ。
以上の内容を載せた新聞を読んだ後、園村友彦はトイレに駆け込み、胃の中がからっぽになるまで嘔吐《おうと》した。
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