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原稿には、渦《うず》電流式探傷コイルの形状、というタイトルが付けられていた。ラジエータチューブの欠陥を発見する器具に関する特許出願用の原稿だった。それを書いた技術者との打ち合わせを電話で終えた後、高宮誠は立ち上がった。そしてコンピュータの端末機が四台並んだ壁際に目をやった。すべての機械に担当者が一名ずつつき、彼のほうに背中を見せていた。担当者は全員女性だ。四人のうち東西電装の職服を着ているのは右端の一人だけで、残る三人は私服姿だった。彼女たちは派遣社員なのだ。
従来まで、この会社の特許情報はすべてマイクロフィルムに収められてきたが、今後はコンピュータで簡単に検索が行えるよう、フロッピーディスクに記録されることになった。彼女たちは、その移し換えのために雇われていた。最近では、こうした派遣社員を利用する企業が増えてきている。人材派遣業は厳密にいえば職業安定法違反の疑いが濃かったのだが、先の国会で法的に認知された。だがそのかわりに、派遣労働者の保護を目ざす「労働者派遣事業法」も同時に成立している。
誠は彼女たちに近づいていった。いや正確にいうと、一番左端の背中に向かって歩いていった。長い髪を後ろで束ねているのは、キーボードを操作するのに邪魔になるからだと、以前ちょっと立ち話をした時に誠は聞いていた。
三沢《みさわ》千都留《ちづる》は端末の画面と横に置いた紙を交互に見ながら、めまぐるしいスピードでキーを叩いていた。あまりにも速いので、生産ラインの機械が動いているように聞こえた。無論それは、他の三人についてもいえることだった。
「三沢さん」と誠は斜め後ろから呼びかけた。
まるで機械のスイッチを切ったように千都留の両手は止まった。ワンテンポ遅れて彼女は誠のほうを向いた。縁が黒く、レンズの大きい眼鏡を彼女はかけていた。そのレンズの向こうの目は、画面を見続けていたせいか、少し険しくなっていたが、誠の顔を認めると同時に、ふっと力が抜けたように優しいものに変わった。
「はい」と彼女は答えた。その時にはもう、口元にも笑みが浮かんでいた。乳白色をした肌理《きめ》の細かい肌に、明るいピンクの口紅がよく似合っている。丸顔なので少し幼く見えるが、誠より一つ年下なだけだということも、これまでの何気ない会話から彼は探り当てていた。
「渦電流探傷という項目で、これまでにどういう出願があったか調べたいんだけど」
「うずでんりゅう?」
「こういう字を書くんだ」誠は持っていた書類のタイトルを彼女に見せた。
千都留は素早くそれをメモした。
「わかりました。検索してみて見つかりましたら、プリントアウトして席までお持ちすればいいですね」歯切れのいい口調で彼女はいった。
「悪いね。忙しいのに」
「いえ、これも仕事のうちですから」千都留は微笑んだ。仕事のうち、というのは彼女の口癖だった。あるいはそれは派遣社員の口癖なのかもしれなかったが、他の女性とは殆ど話をしたことがなかったので、本当のところは誠にはわからなかった。
誠が席に戻ると、先輩の男性社員が休憩しないかと誘ってきた。この会社では、役員室や来客室などの特殊な場所を除いて、職場で女子社員にお茶くみなどをさせることは固く禁じられている。社員は休憩したくなったら、自動販売機で紙コップに入った飲み物を買うのだ。
「いえ、俺は後でいいです」誠はその先輩社員にいった。それで先輩は一人で部屋を出ていった。
高宮誠は東西電装東京本社特許ライセンス部に配属されて三年になる。東西電装は、スタータやプラグなど、自動車に使われている電気部品を製造している会社だ。そして特許ライセンス部では、自社製品に関わる全《すべ》ての工業的権利を管理していた。具体的には、技術者が考案した技術などについて特許出願しようとするのを手助けしたり、他社と特許問題で争わねばならない時に対抗措置を整えたりするのだ。
しばらくすると三沢千都留がプリントアウトされた紙を持ってやってきた。
「これでいいですか」
「助かったよ。ありがとう」誠は書類に目を通しながらいった。「三沢さん、もう休憩した?」
「いえ、まだですけど」
「じゃあ、お茶を御馳走《ごちそう》するよ」そういって誠は立ち上がり、出口に向かった。途中でちらりと後ろを見て、千都留がついてくるのを確認した。
自動販売機は廊下に置いてある。誠はコーヒーの入った紙コップを手にすると、そこから少し離れた窓際で、立ったまま飲むことにした。千都留も、レモンティーの入ったカップを両手で持ってついてきた。
「いつも大変そうだね。あんなふうにキーボードを叩《たた》きっぱなしで、肩が凝らない?」誠は訊いた。
「肩よりも目が疲れます。一日中、モニターを見続けてますから」
「ああ、そうか。目が悪くなりそうだね」
「この仕事をするようになってから、視力がずいぶん落ちました。以前は、眼鏡がなくても平気だったんですよ」
「ふうん。一種の職業病だね」
コンピュータの前に座っている時以外は、干都留は眼鏡を外している。そうすると、彼女の目がさらに大きいことも明らかになるのだった。
「いろいろな会社を渡り歩くというのは、体力的にも精神的にも疲れるだろうね」
「疲れますね。でも、システム設計で派遣されている男性なんかに比べると、ずっと楽ですよ。そういう人たちは、納期が迫れば、残業、徹夜は避けられませんもの。昼間はコンピュータを派遣先の人が通常業務に使うので、ミスの点検や手直しはどうしても夜になりますから。残業が百七十時間にもなったって人を知ってます」
「それはすごいな」
「システムによっては、プログラムをプリントアウトするだけで二、三時間もかかる場合があるんです。そんな時は、コンピュータの前で寝袋にくるまって眠るんですって。不思議と、プリンターの音がやむと目がさめるそうですよ」
「ひどい話だなあ」誠は首を振った。「でも、その分ギャラはいいんじゃないの」
だが千都留は苦笑していった。
「人件費が安くつくから、派遣社員のニーズが出てくるんですよ。いってみれば使い捨てライターみたいなものです」
「そんな悪条件に、よく耐えてるね」
「仕方ないです。食べるためですから」そういって千都留はレモンティーを啜《すす》った。彼女の唇が小さくすぼまるのを、誠はこっそり見下ろした。
「うちの会社はどうなのかな。やっぱり君たちを安く雇ってるのかな」
「東西電装さんは、とてもいいほうです。職場も奇麗で、気持ちがいいです」それから千都留は、少し眉《まゆ》を寄せた。「でも、ここで働けるのも、あとわずかなんですよ」
「えっ、そうなの?」
誠は内心どきりとしていた。初耳だった。
「来週中に、決められていた分の仕事は、ほぼ終えられそうなんです。当初の契約でも半年間ということでしたし、最終チェックの仕事をするにしても、たぶん再来週いっぱいで終わりということになると思います」
「へえ……」
誠は、空になった紙コップを握りつぶした。何かいわねばならないと思ったが、言葉が思いつかなかった。
「今度は、どういう会社に行くことになるのかな」千都留は唇に笑みを浮かべ、窓から外を眺めて呟《つぶや》いた。
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高宮誠に自動販売機のレモンティーを奢ってもらった日の終業後、三沢千都留は同じ派遣会社から来ている上野|朱美《あけみ》と二人で、青山にあるイタリアンレストランで夕食をとることにした。同い年でどちらも独り暮らしということもあり、しばしばこうして二人で食事をする。
「ようやく東西電装ともお別れだね。あのものすごい量の特許を全部整理したのかと思うと、自分たちのことながら感心しちゃうよ」蛸《たこ》とセロリのサラダを口に運び、白ワインの入ったグラスを傾けて、上野朱美はぶっきらぼうな口調でいった。化粧や服装などは女っぽいものにするくせに、しぐさや言葉遣いに粗野なところがあるのは、本人によると下町育ちだかららしい。
「だけど、条件は悪くなかったよね」千都留はいった。「その前の鉄鋼メーカーはひどかったけれど」
「ああ、あそこは論外だよ」朱美は口元を歪《ゆが》めた。「上にいる人間が馬鹿ばっかりだったもんね。派遣社員の使い方を、何もわかってなかった。奴隷か何かだと思って、無茶なことばっかりいいやがった。おまけにギャラがくそ安いときてる」
千都留は頷《うなず》き、ワインを飲んだ。朱美の話を聞くことは、ストレス解消になる。
「それで、どうするの?」朱美の話が一段落したところで千都留は訊《き》いた。「この後も、仕事を続けるの?」
「うん、まあ、それなんだけど」朱美はズッキーニのフライにフォークを突き刺し、もう一方の手で頬杖《ほおづえ》をついた。「やっぱり、辞めることになりそう」
「あ、そうなんだ」
「あっちが、うるさくってさ」朱美は顔をしかめた。「一応、働いてもかまわないというようなことをいってるんだけど、どうも本心じゃなさそうなんだよね。すれ違いになるのは嫌だとかいってんの。それでもう面倒臭くなっちゃったんだ。まあ、向こうは早く子供が欲しいようなことをいってるし、そうなれば当然あたしは働けなくなるわけだし、今辞めても同じことかなと思ってね」
朱美の話の途中から、千都留は頷き始めていた。
「それがいいと思うよ。どうせ、いつまでも続けられる仕事じゃないもの」
「まあね」朱美はズッキーニを口にほうりこんだ。
来月、彼女は結婚することになっている。相手は五歳上のサラリーマンだ。問題は、結婚後も共働きをするかどうかだったのだが、どうやら結論が出たようだ。
二人の前にパスタの皿が運ばれてきた。千都留は海胆《うに》のクリームスパゲティ、朱美はペペロンチーニを注文していた。ニンニクの臭いを恐れてちゃ美味しいものは食べられない、というのが朱美の持論だった。
「千都留はどうするの? しばらくは、今の仕事をがんばるつもり?」
「うーん、いろいろと迷っているんだけど」フォークにスパゲティを巻き付けた。だがすぐには口へ運ばなかった。「とりあえず、実家に帰ろうかと思ってるの」
「ああ、それもいいかもね」と朱美はいった。
千都留の実家は札幌だった。東京の大学に入ったのがきっかけで上京したが、のんびり帰省したことなど、学生、社会人時代を通じて一度もなかった。
「いつから?」
「わからないけど、たぶん東西電装の仕事が終わったら、すぐに帰ることになると思う」
「じゃあ、再来週の土曜か日曜だね」朱美はペペロンチーニを口に運んだ。そしてそれを飲み込んでからいった。「たしか日曜は、高宮さんの結婚式じゃないかな」
「えっ、ほんと?」
「そうだったと思うよ。この間ほかの人と話をしていて、そんなことを聞いたんだ」
「ふうん……相手は会社の人?」
「違うみたい。学生時代から付き合ってた人だってさ」
「ああ、なるほどね」
千都留はスパゲティを口に入れた。しかし味がさっぱりわからなくなっていた。
「どこの誰《だれ》だか知らないけれど、うまくやったよね。あんないい男、そうそういないよ」
「自分だって結婚直前のくせに何いってるのよ。それとも、じつはああいう人が朱美のタイプなわけ?」わざとおどけて千都留は訊いた。
「タイプっていうか、条件がいいんだよね。あの人、地主の息子なんだよ。知ってた?」
「全然知らない」
プライベートなことについて話したことなど殆《ほとん》どなかったから、知る機会がなかった。
「すごいんだよ。まず、家は成城でさあ、その近くに土地をいくつか持ってるらしいの。それからマンションも持ってるって聞いた。お父さんは死んでるらしいんだけど、家賃収入だけで、楽にやっていけるって話。まあ、それだけ恵まれているんなら、嫁に行くほうとしちゃあ、親父なんか死んでてくれて幸いって感じだよね」
「よく知ってるのねえ」千都留は感心する思いで、友人の顔を眺めた。
「特許ライセンス部の中じゃ、有名な話だよ。だから高宮さんを狙《ねら》ってる女も多かったんだってさ。でも結局、その学生時代からの彼女ってのに誰も勝てなかったわけだね」朱美の口調に、どこか痛快そうな響きがこめられているのは、彼女には最初から権利がなかったせいかもしれない。
「高宮さんなら」千都留は思い切っていった。「財産がなくても、みんな憧《あこが》れるんじゃないかな。マスクはいいし、上品だし、あたしたちに対しても紳士だった」
すると朱美は小さく掌を振った。
「あんた、馬鹿だねえ。家に金があるから、ああいう紳士が出来上がるんだよ。顔立ちにだって、気品ってものが出てくる。あの人だって、貧乏人の家に生まれてたら、もっと下品で卑しくなってたに決まってるよ」
「そうかもね」千都留は軽く笑って応じた。
この後、メインディッシュの魚料理が運ばれてきた。二人はいろいろな話をしたが、もう高宮誠のことが話題に上ることはなかった。
千都留が早稲田にあるマンションに戻ったのは、十時を少し過ぎた頃だった。朱美はどこかへ飲みに行きたい様子だったが、疲れているからといって断ったのだ。
ドアを開け、壁のスイッチを入れると、1DKの部屋に白々とした蛍光灯の光が広がった。途端に目に入る衣類や日用品の乱雑な様子に、彼女は疲れが倍加する思いだった。この部屋には、大学二年の時から住んでいる。それ以来の様々な苦悩や挫折《ざせつ》が、いたるところに溜まっているように思えた。
服を着たまま、隅のベッドに倒れこんだ。ベッドの下のほうで、軋《きし》み音がした。何もかもが、確実に古くなっているのだ。
不意に高宮誠の顔が浮かんだ。
彼に特定の相手がいるらしいということは、じつは全く知らなかったわけではない。特許ライセンス部の女子社員が、そういう意味のことを話しているのを、偶然耳にしたことがあるのだ。しかしどの程度の関係なのかということまでは知らなかった。当たり前のことだが、その時に尋ねるわけにもいかなかった。もっとも、それを知ったところで、千都留にはどうすることもできなかったのだが。
派遣社員をしていて、楽しみといえるものが一つだけある。それはいろいろな男性と巡り合う機会があるということだ。新しい職場に行くたび、今度こそ自分にふさわしい相手がいるのではと、密かにわくわくしてしまう。
だがこれまでは、そういう期待は常に裏切られてきた。自社の女子社員のライバルにならぬよう配慮したのではないかと思うほど、そんな出会いのチャンスなど全くない職場が多かった。
ところが東西電装では違った。職場に行ったその日に、彼女は自分が理想とする相手を発見していた。それが高宮誠だ。
もちろん最初に彼女の心をとらえたのは彼の外見だ。しかし単に整った顔立ちをしているというのではなく、内側から滲《にじ》み出る育ちの良さ、人間性の高さのようなものが感じられた。見た目だけを飾っている、他の若い男性社員とは、そこが明らかに違っていた。
仕事で接するうちに、千都留は自分の直感が正しかったことを確信した。彼は派遣社員たちの立場を思いやる優しさと、上司に対してさえも嘘やごまかしを認めない誠実さを備えていた。
結婚するなら、こういう人だ、と千都留は思っていた。
じつは彼女には、自惚《うぬぼ》れがあった。高宮誠のほうも、自分のことを意識しているのではないか、というものだ。彼がそれを言葉に出したことはない。しかしちょっとしたしぐさ、彼女に向ける目、言葉のかけ方などから、それを感じるようになっていた。
だがどうやら、それは錯覚だったようだ。今日の昼間のことを思い出し、千都留は自虐的に苦笑した。もう少しで恥をかくところだった。
自動販売機のお茶を飲もうといわれた時、千都留は、高宮誠がそろそろ自分のことをデートに誘ってくれるのではないかと期待した。しかし彼がそれを言い出す気配はなかった。それで彼女は、自分がこの会社にいる時間はあまりないのだということを、さりげなく話した。それを聞けば、彼も焦《あせ》るのではないかと思ったのだ。
だが高宮誠は、特別何も感じなかったようだ。じゃあ、新しい職場でがんばってくださいね――彼がいったのは、それだけだった。
朱美の話を反芻《はんすう》し、それが当然だったのだということを千都留は痛感していた。二週間後に結婚を控えている人間が、派遣社員のことなど気に留めるはずもなかった。彼が最後まで優しかったのは、あくまでも彼の人間性によるものだったのだ。
もうあの人のことは考えないでおこうと千都留は決心した。そして身体《からだ》を起こし、枕元の電話に手を伸ばした。札幌の実家に電話するためだった。突然帰るといったら、郷里の父母はどんな反応を示すだろう。正月にも帰らなかった娘のことを、今も怒っているかもしれない。
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出窓から入ってくる風は、すっかり秋のものになっていた。この部屋を初めて見に来た時には、梅雨らしい細かい雨が降っていたものだったがと、つい三か月ほど前のことを高宮誠は思い出していた。
「絶好の引っ越し日和ねえ」床を乾拭《からぶ》きしていた頼子《よりこ》が、手を休めていった。「お天気だけが心配だったんだけれど、これなら運ぶ人たちも助かるわね、きっと」
「引っ越し屋はプロだぜ。天気なんか、さほど関係ないよ」
「あらあ、そんなことないわよ。山下さんのところなんか、お嫁さんの荷物の入るのが先月だったでしょ? 台風で大変だったとおっしゃってたわ」
「台風なんか特別だよ。もう十月だぜ」
「十月だって、大雨の降ることがあるじゃない」
頼子が再び手を動かし始めた時、インターホンのチャイムが鳴った。
「誰かな」
「雪穂さんじゃないの?」
「でも彼女なら、鍵を持っているはずだけどな」そういいながら誠は、リビングルームの壁に取り付けられたインターホン用の受話器を取り上げた。
「はい」
「あたし。雪穂です」
「なんだ、やっぱり君か。鍵を忘れたのかい?」
「そうじゃないけど……」
「ふうん。とにかく開けるよ」
誠はオートロックの解錠ボタンを押した。それから玄関に行き、鍵を外すと、ドアを開けて待った。
エレベータの止まる音がし、足音が近づいてきた。やがて廊下の角から唐沢雪穂が姿を見せた。薄いグリーンのニットを着て、白いコットンパンツを穿いていた。上着を手に持っているのは、今日は特別暖かいからだろう。
「やあ」と誠は笑いかけた。
「ごめんなさい。いろいろと買い物をしていたら、遅くなっちゃった」雪穂は手に持っていたスーパーの袋を見せた。その中には洗剤やスポンジ、ゴム手袋などが入っていた。
「掃除なら、先週済ませたじゃないか」
「でもあれから一週間経っているし、家具を入れたりしたら、きっとあちこち汚れると思うから」
彼女の言葉に、誠は頭をゆらゆらと振った。
「女ってのは、同じことをいうんだな。お袋もそういって、掃除用具を一式持ってきているんだ」
「あっ、じゃあ早くお手伝いしなきゃ」雪穂はあわてた様子でスニーカーを脱ぎ始めた。それを見て誠は意外な気がした。彼女が履くのはいつも、踵《かかと》の高い靴ばかりだったからだ。そういえば雪穂のパンツルックを見るのも初めてだった。
そのことをいうと、彼女はちょっと呆《あき》れた顔をした。
「お引っ越しの日にスカートだったり、ハイヒールを履いてたりしたら、仕事が何もできないじゃない」
「そういうことよ」奥から声がした。シャツの袖をまくった頼子が、笑いながら出てきた。
「こんにちは、雪穂さん」
「こんにちは」雪穂はぺこりと頭を下げた。
「この子は昔からこうなのよ。自分で部屋の掃除をしたことがないものだから、拭いたり掃いたりするのがどれだけ大変かってことを知らないの。たぶんこれからも雪穂さんに苦労をかけると思うから、覚悟しておいてね」
「ええ、それは大丈夫です」
頼子と雪穂はリビングルームに行くと、早速掃除の段取りを決め始めた。二人のやりとりを聞きながら、誠はさっきと同じように出窓のそばに立ち、すぐ下の道路を見下ろした。そろそろ家具屋が到着する頃だった。電器屋には、家具屋にいったよりも一時間遅い時刻を指示してある。
いよいよだな、と誠は思った。あと二週間で、所帯を持つことになる。これまではなかなか実感が湧かなかったが、さすがにここまで近づくと、少し緊張感が出てきた。
雪穂は早くもエプロンをつけ、隣の和室の畳を拭き始めていた。そういう家庭的な格好をしても、彼女の美しさは少しも損なわれることがなかった。つまり本物の美人ということだ。
丸四年か、と誠は口の中で呟いた。雪穂と付き合ってきた期間のことだ。
彼が雪穂と知り合ったのは、大学四年の時だった。彼が所属していた永明大学ソシアルダンス部は清華女子大のソシアルダンス部と合同で練習を行っていたが、そこへ彼女が入部してきたのだ。
何人かいた新入生の中でも、雪穂は特別輝いて見えた。整った顔立ち、均整のとれたプロポーションは、そのままファッション雑誌の表紙を飾れそうだった。多くの男子部員が彼女にひかれ、彼女を恋人にすることを夢見た。
誠もその中の一人だった。その頃《ころ》付き合っている相手がいなかったこともあるが、一目見た時から彼女に心を奪われた。
それでもきっかけがなければ、彼が雪穂に交際を申し込むことなどなかっただろう。何人かの部員が、彼女にふられたことを知っていたからだ。自分も恥をかくことになるだけだと思い込んでいた。
ところがある時雪穂のほうから、どうしてもマスターできないステップがあるので教えて欲しいといってきた。誠にとって絶好のチャンスが訪れたわけだ。彼はマンツーマンでダンスの特訓をするという名目で、皆のアイドルを独占する時間を得ることに成功した。
さらに、そうした二人だけの練習を重ねるうちに、雪穂のほうも自分に対して悪い印象は持っていないようだという感触を、誠は抱くようになった。そこである日思い切ってデートに誘ってみた。
じっと誠を見つめてきた雪穂の返答は、次のようなものだった。
「どこへ連れていってくれるんですか」
誠は踊りだしたい気持ちを抑え、「君の好きなところ」と答えた。
結局その時にはミュージカルを見て、イタリアンレストランで食事をした。そしてもちろん彼女の家まで送った。
それから四年あまり、二人は恋人同士であり続けた。
あの時彼女のほうからダンスを教えてくれといってこなかったら、たぶん自分たちが交際することはなかっただろうと誠は思う。翌年には彼は卒業していたから、その後は全く顔を合わせなくなっていたに違いない。そう思うと、唯一のチャンスをものにしたという感じがする。
また、ある女子部員が退部したことも、二人の関係に微妙な影響を及ぼしていた。じつは誠にはもう一人、気になっている新入部員がいた。当時彼は雪穂のことを高嶺《たかね》の花のように思っていたから、そちらの彼女のほうに交際を申し込もうかと思ったりもしていた。川島江利子というその女子部員には、雪穂のような華やかさはないが、一緒にいるだけで安らぎが得られるような独特の雰囲気があった。
ところが川島江利子は、突然ダンス部を辞めた。彼女と親しかった雪穂も、その詳しい理由は知らないということだった。
江利子が退部せず、誠が交際を申し込んでいたらどうなっていたか。仮に断られたとしても、その後雪穂に乗り換えるようなことはしなかっただろうと彼は思う。そうなれば、現在の状況も全く違ったものになっていたはずだ。少なくとも、二週間後に都内のホテルで雪穂と結婚することはなかった。
人の運命とはわからないものだ――そう実感せざるをえない。
「ところで、どうして鍵を持っているのにインターホンを鳴らしたんだい?」カウンターキッチンの掃除をしている雪穂に、誠は訊いた。
「だって、勝手に入るなんてことできないじゃない」手を休めずに彼女は答えた。
「どうして? そのために君にも鍵を渡したんじゃないか」
「でも、まだ結婚式が終わってないのに」
「そんなこと、別に気にする必要ないのに」
するとまたしても頼子が横から口を挟んできた。
「けじめをつけるってことよねえ」そして二週間後には嫁になる女性に笑いかける。
雪穂は二週間後に姑になる女に頷き返した。
誠は吐息をつき、窓の外に目を戻した。彼の母親は、初めて雪穂を見た時から、彼女のことを気に入っている様子だった。
運命の糸は、自分と唐沢雪穂とを結びつけようとしているのだろうと誠は思った。そして、それに従っていれば全てうまくいくのかもしれない。
だが――。
現在彼の脳裏には、一人の女性の顔が焼き付いて離れない。考えまいとしても、ふと気づくと彼女のことを考えているのだ。
誠は頭を振った。焦りに似た感情が、彼の内面を支配していた。
数分後、家具屋のトラックが到着した。
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翌日の夜七時、誠は新宿の駅ビルの中にある喫茶店にいた。
隣のテーブルでは、関西弁の男二人が大声で野球の話をしていた。もちろんタイガースの話だ。専門家たちでさえ誰も予想していなかったことだが、ずっと低迷していたチームが、今年は優勝を目前にしている。この椿事《ちんじ》は、関西出身の人間たちを大いに元気づけているようだ。誠の職場でも、これまで阪神ファンであることをおくびにも出さなかった部長が、突然にわかファンクラブを結成し、毎日のように会社帰りに酒盛りをしているらしい。この騒ぎは当分おさまりそうもないなと、巨人ファンの誠はうんざりしていた。
しかし関西弁を聞くのは懐かしい気分がして悪くなかった。彼が卒業した永明大学は大阪にあった。四年間、千里にあるマンションで独り暮らしをしていたのだ。
彼がコーヒーを二口飲んだ時、待ち合わせの相手が現れた。グレーのスーツを見事に着こなした姿は、すっかりビジネスマンだった。
「あと二週間で独身とおさらばする気分はどうだい?」篠塚一成は、にやにやしながら向かいの席に座った。ウェイトレスが来たので、彼はエスプレッソを注文した。
「急に呼び出して悪かったな」誠はいった。
「かまわないさ。月曜日は比較的暇なんだ」篠塚は細くて長い足を組んだ。
彼とは大学が同じで、ダンス部でも一緒だった。篠塚のほうが部長で、誠は副部長だったのだ。
学生でソシアルダンスを始めようとする者は、それなりの家庭環境にいる場合が多い。篠塚は大手製薬会社の社長を伯父に持つ御曹司だった。実家は神戸にあるが、現在は上京してきて、その会社の営業部にいるという話だった。
「俺より、おまえのほうが忙しいんじゃないのか。いろいろと大変だろ」篠塚がいった。
「まあな。昨日、家具と電化製品をマンションに入れた。今夜から、とりあえず俺一人で寝泊まりするつもりなんだ」
「着々と新居が出来上がりつつあるということか。あとは花嫁が入れば完成だな」
「次の土曜日には、彼女の荷物を運び入れる」
「そうか。いよいよ、というわけだな」
「まあな」誠は目をそらし、コーヒーカップを口元に運んだ。篠塚の笑顔が、何となく眩しかった。
「それで、話ってのは何なんだ。昨日の電話じゃ、ずいぶんと深刻そうな声を出してたものだから、ちょっと気にしてたんだぜ」
「うん……」
昨夜、家に帰ってから篠塚に電話したのだった。電話では話しにくい相談事があるといったから、篠塚も心配したのだろう。
「まさか、今になって独身生活に未練が出てきたというんじゃないだろうな」そういって篠塚は笑った。
無論彼はジョークでいったのだろう。だが今の誠は、これに対して気の利いた台訶《せりふ》を返すだけの余裕がなかった。ある意味でこのジョークは、的を射ていたからだ。
誠の表情から何かを読み取ったらしく、篠塚は眉を寄せ、身を乗り出した。
「おい、高宮……」
その時ウェイトレスがエスプレッソコーヒーを運んできた。それで篠塚は身体を少しテーブルから離したが、彼の目は誠の顔を見つめたままだった。
ウェイトレスが立ち去ると、篠塚はコーヒーカップには触れようともせず、再び尋ねてきた。
「冗談だろ、なあ」
「迷ってるんだよ。じつをいうと」誠は腕組みをし、親友の目を見返していった。
篠塚は目を見開き、口を半開きにした。それから周りを気にするようにきょろきょろした後、改めて誠を見つめた。
「何を迷うことがあるんだよ、今さら」
「だから」誠は思い切っていった。「このまま結婚してもいいかどうかってことさ」
すると篠塚は表情を止め、誠の顔をしげしげと眺める目をした。それからゆっくりと頷き始めた。
「心配するな。大抵の男は結婚が近づくと逃げだしたくなるって話を、前に聞いたことがある。所帯を持つっていうことの重みと窮屈さを、急に実感するようになるんだ。大丈夫、おまえだけじゃない」
どうやら篠塚は好意的に解釈しようとしているようだった。だが誠はかぶりを振らねばならなかった。
「残念だけど、そういう意味じゃないんだ」
「じゃ、どういう意味だ」
当然の質問をしてきた篠塚の目を、誠はまともに見ることができなかった。今の正直な気持ちを告白したら、どれほど軽蔑されるだろうと不安だった。しかしこの男以外に、相談できる相手はいなかった。
誠はグラスに入った水をがぶりと飲んだ。
「じつは、ほかに好きな女《ひと》がいるんだ」思い切って彼はいった。
篠塚は、すぐには反応しなかった。表情も変わらなかった。誠は、うまく意味が伝わらなかったのだろうかと思った。それでもう一度繰り返そうと思い、息を吸い込んだ。
その時篠塚が開口した。
「どこの女なんだ?」険しい目で、じっと誠を見つめてきた。
「今は、うちの会社にいる」
「今はって?」
戸惑いを見せた篠塚に、誠は三沢千都留のことを話した。人材派遣会社は篠塚の会社でも利用することがあるらしく、事情はすぐにのみ込めたようだ。
「すると、まだ仕事上での付き合いしかないわけだな。プライベートで会ったりはしていないわけだ」話を聞き終えた後で、篠塚が質問してきた。
「今の俺の立場じゃ、デートに誘うわけにもいかない」
「そりゃあそうだ。だけどそれなら、相手の女性がおまえのことをどう思っているかもわからないということだよな」
「そういうことだ」
「それなら」篠塚は口元にかすかに笑みを浮かべた。「その女性のことは忘れたほうがいいんじゃないか。俺には一時の気の迷いとしか思えないんだけどな」
親友の言葉に、誠も薄く笑って見せた。
「そういわれるだろうと思ったよ。俺がおまえだったとしても、同じことをいっただろうからな」
「ああ、すまん」篠塚は何かに気づいたように、あわてて謝った。「この程度のことは、おまえにだってわかってるはずだよな。その上で、気持ちをどうすることもできないから、思い悩んで俺に相談してきたわけだ」
「とてつもなく馬鹿なことを考えているという自覚はあるよ」
だろうな、というように篠塚は頷いた。そして少し冷めているはずのエスプレッソコーヒーを一口飲んだ。
「いつからなんだ?」と篠塚は訊いた。
「何が?」
「その彼女のことが気になり始めた時期だよ」
「ああ」誠は少し考えてから答えた。「今年の四月ってことになるかな。彼女を初めて見た時だ」
「じゃあ半年も前じゃないか。どうして、もっと早く何とかしなかったんだ」篠塚は声に苛立ちを含ませていた。
「どうしようもなかったんだよ。式場の予約は済んでいたし、結納も控えていた。いやそれ以前に、自分で自分の気持ちが信じられなかった。さっきおまえがいった、一時の気の迷いだろうと俺自身も思ったわけだよ。だから、早くおかしな気持ちは捨てなきゃいけないと、自分にいいきかせてきたんだ」
「ところが今日まで捨てられなかったということか」篠塚はため息をつき、学生時代は軽くパーマをかけていたが、今は短く刈り込んだ髪に指を突っ込み、頭を掻《か》いた。「あと二週間って時に、厄介なことをいいだしたものだなあ」
「悪いな。こんなことを相談できる人間は、おまえしかいないからさ」
「俺はかまわないんだけどさ」そういいながらも篠塚は顔をしかめたままだった。「でも現実問題として、その相手の女性の気持ちはわからないわけだよな。つまり、おまえのことをどう思っているかは」
「もちろんそうだ」
「だったら……という言い方は変か。問題なのは、今のおまえの気持ちのほうだものな」
「こういう気持ちのままで結婚していいものかどうか、自分でもよくわからないんだ。もっと素直にいうと、今の状態では結婚式に臨みたくないってところだな」
「その気持ちはわかるよ。何となくだけど」篠塚は、またため息をついた。「で、唐沢のことはどう思っているんだ? もう、あまり好きじゃないってことか」
「いや、そんなことはない。彼女のことは今でも……」
「だけど、百パーセントではないってことだよな」
こういわれると誠としては返す言葉がない。彼はグラスに残っていた水を飲み干した。
「あまり無責任なことはいえないけれど、たしかに今の気持ちのままで結婚式をするってのは、二人にとってよくないと思うな。もちろん、おまえと唐沢の二人にとって、という意味だ」
「篠塚ならどうする?」と誠は訊いた。
「俺なら、結婚が決まったら、なるべくほかの女とは顔を合わせないようにするよ」