饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 七 章.2

作者:日-东野圭吾 当前章节:15264 字 更新时间:2026-6-15 18:37

 篠塚独特の冗談に、誠は笑った。だが心から笑える気分でないことはいうまでもない。

「それでも、もし結婚前に好きな女ができてしまったら」篠塚はここで一旦言葉を切り、斜め上に視線を向けてから、改めて誠を見た。「俺なら結婚を見合わせる」

「二週間前でも?」

「たとえ一日前でも、だ」

 誠は黙り込んだ。親友の言葉には重みがあった。

 その親友が、空気を和ませるように白い歯を見せた。

「自分のことじゃないから、こんな勝手なことがいえるんだろう。そう簡単にいかないのはよくわかっている。それに、気持ちの度合いの問題もある。その女性に対するおまえの思いがどれほどのものかは、俺にはわからないからな」

 誠は親友の言葉に、深く頷いた。

「参考にさせてもらうよ」

「人それぞれに価値観は違う。おまえがどんな結論を出したって、俺は何もいわないよ」

「結論が出たら報告する」

「気が向いたらでいいさ」そういって篠塚は笑った。

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 手描きの地図に記されたビルは、新宿伊勢丹のすぐそばにあった。そこの三階に、民芸居酒屋という看板が上がっている。

「どうせなら、もっと気のきいたところでやってくれりゃいいのにさ」エレベータに乗ってから、朱美が不服そうにいった。

「仕方ないよ。仕切ってるのが、おじさんだもん」

 千都留の言葉に、「それもそうか」と朱美はうんざりした顔で頷いた。

 店の入り口には、格子戸風の自動ドアがついていた。まだ七時前だというのに、早くも酔った客の大声が聞こえてくる。ネクタイを緩めたサラリーマンらしい男の姿が、ドア越しに見えた。

 千都留たちが入っていくと、「おう、こっちこっち」という声が店の奥から聞こえた。東西電装特許ライセンス部で付き合いのあった顔が並んでいる。彼等は、数脚のテーブルを独占していた。何人かは、すでに顔が赤くなっていた。

「酌なんかさせやがったら、テーブル蹴飛ばして帰っちゃおうぜ」千都留の耳元で朱美が囁《ささや》いた。実際、どんな職場に行っても、飲み会では酌を強要されることが多かった。

 まさか今日はそんなことはないだろうと千都留は踏んでいた。何しろ、彼女たちの送別会なのだ。

 お決まりの挨拶や乾杯が行われた。これも仕事のうちと諦めて、千都留は愛想笑いを浮かべた。ただし、帰りには気をつけなければと思っていた。社内の女性に妙なことをして騒がれたら面倒だが、派遣社員なら後腐れがないと思っている男が意外に多いことを、千都留はこれまでの経験で知っていた。

 高宮誠は、彼女の斜め向かいに座っていた。時折料理を口に運びながら、中ジョッキに入った生ビールを飲んでいる。ふだんでも口数の多いほうではない彼は、今日も人の話の聞き役に回っていた。

 その彼の視線が、ちらりちらりと自分に向けられているように千都留は感じた。それで彼女が彼のほうを見ると、すっと目をそらせてしまう――そんなふうに思われた。

 まさか、自意識過剰だよ、と千都留は自分にいってきかせた。

 いつの間にか朱美の結婚の話になっていた。多くの男性社員が彼女を落とそうとしていた、というお決まりのジョークが、少し酔った係長の口から発せられた。

「こんな激動の年に結婚しちゃって、この先どうなるのか心配です。男の子ができたら、是非阪神タイガースにあやかって、トラオと名付けたいと思います」朱美もアルコールが回ったのか、こんなことをいって皆を笑わせていた。

「そういえば、高宮さんも結婚されるようですね」声がぎこちないものになるのを気をつけながら、千都留は訊いた。

「うん、まあ……」高宮は、少し答えにくそうにした。

「明後日だよ、明後日」千都留の正面に座っている成田という男が、高宮誠の肩を叩きながらいった。「明後日で、こいつの花の独身生活もおしまいってわけだ」

「おめでとうございます」

 ありがとう、と高宮は小声で答えた。

「こいつはね、あらゆる面で恵まれている男なんだ。だから、おめでとうなんていってやる必要は全然ないんですよ」成田が、ややもつれた口調でいった。

「別に恵まれてませんよ」高宮は、困った顔をしながらも、歯を見せた。

「いいや、おまえは恵まれすぎている。ねえ、三沢さん、ちょっと聞いてくださいよ。こいつは俺よりも二歳も下のくせに、もうマイホームを手に入れてるんだ。こんなことが許されますか」

「マイホームじゃないですよ」

「マイホームじゃないか。家賃を払わなくていいマンションなんだろ? それがマイホームじゃなくて、何なんだよ」成田は唾を飛ばして食って掛かった。

「あれはお袋の名義なんです。そこに住まわせてもらうだけです。だから、ただの居候みたいなものですよ」

「ほらね、おかあさんがマンションを持っている。すごいと思いませんか」成田は千都留に同意を求めながら、自分の猪口《ちょこ》に酒を注いだ。それを一気に飲み干してから、また話を続けた。「しかもね、ふつうマンションを持っているといったら、2DKとか3LDKの部屋があるという意味に解釈しちゃうでしょ? ところが、こいつのところは違うんだなあ。マンションの建物全部を持ってる。で、そのうちの一部屋をいただいちゃったわけなんです。こんなこと、許されますか?」

「もう勘弁してくださいよ」

「いいや、許さんぞ。おまけにね、今度こいつがもらう嫁さんってのが、すごい美人なんだ」

「成田さん」高宮は、さすがに弱りきった表情を見せた。何とか成田を黙らせようと、彼の猪口に酒を注いでいる。

「そんなに奇麗な人なんですか」千都留は成田に尋ねた。興味のあることだった。

「奇麗、奇麗。あれは女優になってもおかしくないよ。それに、お茶だとかお華だとかも出来るんだろ?」成田が高宮に訊いた。

「まあ、一応」

「すごいよねえ。英語もぺらぺらだっていってたよな。ちくしょう、どうしておまえのところにばっかり、そういう幸運が舞い込むんだよ」

「まあ待て、成田。人間、そう良いことばかりは続かんさ。そのうちにおまえのほうに幸運が転がりこむこともあるさ」端の席に座っている課長がいった。

「へえ、そうですかねえ。それは一体いつなんです」

「まあ、来世紀半ばぐらいには、何とかなるんじゃないか」

「そんな五十年も先じゃ、生きてるかどうかもわからんじゃないですか」

 成田の言葉に全員が笑った。千都留も笑いながら、そっと高宮のほうを窺《うかが》った。すると一瞬だけ二人の目が合った。その時、彼が何かを伝えたがっているように千都留には思えた。だが、それも錯覚に違いなかった。

 送別会は九時にお開きとなった。店を出る時、千都留は高宮を呼び止めた。

「これ、御結婚のお祝いです」彼女はバッグから小さな包みを取り出した。昨日の帰りに買ったものだ。「今日、会社でお渡ししようと思ってたんですけど、チャンスがなくて」

「そんな……よかったのに」彼は包みを開いた。中に入っていたのは、ブルーのハンカチだった。「ありがとう、大事にするよ」

「半年間、どうもありがとうございました」彼女は前で手を揃え、頭を下げた。

「僕は何もしていないよ。それより、君は今後どうするの?」

「しばらく実家でのんびりするつもりです。明後日、札幌に帰るんです」

「ふうん……」彼は頷きながら、ハンカチを包みに戻した。

「高宮さんたち、赤坂のホテルで式をお挙げになるんでしょう? でも、その時にはたぶんあたし、北海道にいると思います」

「朝早く出発するんだね」

「明日の夜は品川のホテルに泊まる予定なんです。だから、早く出発しょうと思って」

「どこのホテル?」

「パークサイドホテルですけど」

 すると高宮は、また何かいいたそうな顔をした。しかしその時、入り口から声がした。「おい、何やってるんだ。もうみんな下に降りちゃったぞ」

 高宮は軽く手を上げると、歩きだした。彼の後に続きながら、もうこの人の背中を見つめることはないのだなと、千都留は思った。

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 三沢千都留たちの送別会をした後、誠は成城の実家に帰った。

 家には現在、母親の頼子と、祖父母が住んでいた。祖父母は頼子の両親だった。亡くなった父親は婿養子であり、頼子こそが代々の資産家である高宮家の直系なのだ。

「いよいよ、あと二日ね。明日は忙しいわあ。美容院に行かなきゃならないし、お願いしてあったアクセサリーは取りに行かなきゃいけないし。朝は早く起きなきゃ」アンティーク調のダイニングテーブルの上に新聞紙を広げ、リンゴの皮を剥《む》きながら頼子はいった。

 誠は彼女の向かいに座り、雑誌を読むふりをしながら時計を気にしていた。十一時になったら電話をかけようと思っていた。

「結婚するのは誠なんだから、おまえが着飾ったって仕方がないだろう」ソファに腰かけた祖父の仁一郎《じんいちろう》がいった。前にチェス盤を広げ、左手にはパイプを持っている。もう八十歳を過ぎているが、歩く時でも背中はぴんと伸びているし、声にも張りがあった。

「だって、子供の結婚式に出るなんてことは、もう二度とないのよ。少しぐらいお洒落《しゃれ》したっていいじゃないの。ねえ」

 後の「ねえ」は、仁一郎の向かいで編み物をしている文子《ふみこ》に向けられたものだった。小柄な祖母は、黙ってにこにこしている。

 祖父のチェス、祖母の編み物、そして母の陽気なおしゃべり。これらは誠が子供の頃から、この家の独特の世界を作りあげてきたものだった。彼が結婚を明後日に控えた今夜も、それは全く変わらなかった。この家に残っている、そうした不変のものを、彼は愛していた。

「しかし、誠が嫁さんをもらうとはなあ。こっちがよぼよぼの爺さんになるわけだ」仁一郎が、しみじみとした口調でいった。

「結婚するには、どちらもまだちょっと若いような気がするけれど、もう四年も付き合っているんだし、あとはいくら引き延ばしても同じことよね」そういって頼子が誠を見た。

「相手の雪穂さんも、とてもいい人で、安心しましたよ」文子がいった。

「うん。あの子はいい。若いがなかなかしっかりしている」

「あたしも、初めて誠が家に連れてきた時から気に入っちゃった。やっぱり、育ちのしっかりしている子は違うわねえ」頼子は、切ったリンゴを皿に盛った。

 初めて雪穂を頼子たちに会わせた時のことを誠は思い出した。頼子はまず彼女の容姿を気に入り、次に養母と二人暮らしという境遇に同情したようだった。さらにその養母にあたる女性が、家事全般だけでなく茶道や華道も雪穂に教えていたことを知り、大いに感心した様子だった。

 頼子が切ってくれたリンゴを二切れ食べると、誠はダイニングチェアから立ち上がった。十一時になろうとしていた。「ちょっと二階に行ってくる」

「明日の夜は雪穂さんたちとお食事だから、忘れないようにね」頼子が突然いった。

「食事?」

「雪穂さんとおかあさんは、明日の夜はホテルにお泊まりになるんでしょ? だから夕食でも御一緒にいかがですかって、あたしのほうから電話してみたのよ」

「どうしてそんなことを勝手に決めるんだよ」誠は声を尖《とが》らせた。

「あら、いけなかった? だってどうせあなたは、明日の夜も雪穂さんと会うつもりだったんでしょ」

「……何時から?」

「七時にレストランを予約したわ。あのホテルのフレンチは有名なのよ」

 誠は何もいわず、居間を出た。階段を上がり、自分の部屋に向かった。

 最近買ったばかりの洋服などを除いて、殆どの荷物はそのまま残してある。誠は学生時代から使っていた机の前に座り、その上に置いてある電話の受話器を取った。彼専用の電話だが、現在も使えるようにしてある。

 壁に貼った電話番号のメモを見ながら、彼はプッシュホンのボタンを押した。呼び出し音が二度鳴ったところで、電話が繋《つな》がった。

「もしもし」無愛想な声が聞こえた。クラシックでも聞いて、仕事の疲れを癒していたところだったのかもしれない。

「篠塚かい。俺だよ」

「ああ」声のトーンが少し高くなった。「どうした」

「今、いいかい?」

「いいよ」

 篠塚は四谷で独り暮らしをしていた。

「じつは、重要な話があるんだ。たぶん驚くだろうと思うけど、落ち着いて聞いてくれ」

 この言葉で、どういう内容の相談事か篠塚は察したようだ。すぐには声が返ってこなかった。誠も黙っていた。電話の雑音だけが、彼の耳に届いていた。三か月ほど前から雑音がひどくなり、相手の声も聞こえにくくなっていたことを彼は思い出していた。

「ひょっとして、例の話の続きかい?」篠塚が、ようやく訊いてきた。

「まあ、そういうことだ」

「おい」軽く笑い声をたてるのが聞こえた。だがたぶん顔は笑ってはいないだろう。「結婚式は明後日だろう」

「この間おまえは、たとえ一日前でも結婚を見合わせるっていったぜ」

「いったけどさ」篠塚は少し呼吸を乱していた。「おまえ、本気なのか」

「本気だ」誠は唾を飲み込んでから続けていった。「明日、彼女に俺の気持ちを打ち明けようと思う」

「彼女ってのは、その派遣社員の女性だな。三沢さん、とかいったっけ」

「うん」

「打ち明けてどうするんだ。プロポーズでもするのか」

「そこまでは考えてない。ただ、俺の気持ちを伝えたい。そうして、彼女の気持ちを知りたい。それだけのことだ」

「おまえのことなんか、何とも思ってないといったら?」

「その時はそれまでだ」

「おまえは、素知らぬ顔で次の日唐沢と結婚式を挙げるというわけか」

「卑怯《ひきょう》だってことはわかってるんだ」

「いや」少し間を置いてから篠塚はいった。「そういう狡さは必要だと思うよ。大事なことは、おまえが後悔しない道を選ぶってことだ」

「そういってくれると少し気が楽になるよ」

「問題は」篠塚は声を低くした。「その相手の女性も、おまえのことを好きだといった場合だ。その時はどうする?」

「その時は――」

「何もかも捨てられるか」

「そのつもりだ」

 ふうっと息を吐く音がした。

「高宮、それ大変なことだぜ。わかってるのか。大勢の人に迷惑をかけることになるし、何人かの心を傷つけることになる。何より、唐沢がどんな思いをするか……」

「彼女には償いをするよ。どんなことをしてでも」

 またお互いが黙り込んだ。雑音だけが電話線に乗っている。

「わかった。それだけいうからには、余程の覚悟があるんだろう。もう何もいわない」

「心配かけて、悪いな」

「俺のことなんか、別にいいさ。それより、場合によっては明後日は大騒ぎになるわけだな。何だか、こっちまで鳥肌が立ってくる」

「俺も、さすがに緊張している」

「そうだろうな」

「ところで、おまえに頼みたいことがあるんだ。明日の夜は空いてるかい?」

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 運命の日は、朝から雨模様だった。遅い朝食をすませた後、誠は自分の部屋でぼんやりと空を眺めていた。昨夜はよく眠れなかったせいで、ひどく頭が痛かった。

 誠は、どうにかして三沢千都留に連絡をとれないものかと思案していた。彼女が今夜、品川のホテルに泊まることはわかっている。だから、いざとなったら訪ねていけばいいのだが、なるべくなら昼間のうちに会い、自分の本心を打ち明けてしまいたかった。

 しかし連絡をとる手段が見つからなかった。個人的な付き合いを全くしていなかったから、電話番号も住所も知らない。派遣社員だから、当然職場の名簿にも彼女の名前は載っていない。

 課長か係長ならば、知っているかもしれなかった。だが何といって尋ねればいいのか。それに彼等にしても、彼女の連絡先を記したものを、自宅に置いているとはかぎらなかった。

 残された道は一つだった。これから会社へ行き、三沢千都留の連絡先を調べるのだ。土曜日だが、休日出勤している社員は少なくないはずだ。誠が職場で捜し物をしていても、咎《とが》められる心配はなかった。

 善は急げと誠が椅子から立ち上がった時、玄関のチャイムが鳴った。嫌な予感がした。

 約一分後、その直感が的中していたことを彼は確信した。誰かが階段を上がってくる音がした。スリッパを引きずるような独特の足音は、たぶん頼子のものだ。

「誠、雪穂さんがいらっしゃったわよ」頼子がドアの向こうでいった。

「彼女が? ……すぐに行くよ」

 下りていくと、雪穂は居間で頼子や祖父母たちと紅茶を飲んでいた。彼女の今日の服装は、ダークブラウンのワンピースだった。

「雪穂さんがケーキを持ってきてくださったの。あなたも食べる?」頼子が訊いてきた。ひどく機嫌がよさそうだった。

「いや、俺はいいよ。それより、ええと、どうしてこっちに?」誠は雪穂を見た。

「旅行に持っていかなきゃいけないもので、いくつか買い忘れてたものがあるの。それで付き合ってもらおうと思って」彼女は歌うようにいった。アーモンド形の目が、宝石のようにきらきらと輝いて見えた。もうこの娘は花嫁の表情になっているのだなと思うと、誠は胸がきりきりと痛んだ。

「そう……。じゃあ、どうしようかな。ちょっと会社に寄る用があったんだけれど」

「何よ、こんな時に」頼子が眉間《みけん》に皺《しわ》を作った。「結婚式の前に休日出勤させるなんて、あなたの会社、どうかしてるんじゃないの」

「いや、仕事ってほどのことじゃないんだ。目を通したい資料があってさ」

「じゃあ、お買い物のついでに行けば?」雪穂がいった。「そのかわり、あたしもついていっていいでしょう? 休日なら職服もいらないから、社外の人間だって自由に出入りできるって、前にいってたじゃない」

「ああ、それはまあそうだけど……」

 誠は内心うろたえていた。雪穂がこんなことをいいだすとは思いもしなかった。

「いやあねえ、会社人間は」頼子が唇を曲げた。「家庭と仕事と、どっちが大事なの?」

「わかったよ。別に急ぎでもないから、今日は会社に行くのはやめておく」

「本当? あたしならかまわないけど」雪穂がいった。

「いや、いいんだ。大丈夫だから」誠は婚約者に笑いかけた。頭の中では、三沢千都留への告白は今夜直接ホテルへ出向くことで果たそうと考えていた。

 着替えるからといって雪穂を待たせ、誠は自分の部屋に戻った。そしてすぐに篠塚に電話をかけた。

「高宮だけど、例の件、大丈夫だな」

「うん。九時頃に行くつもりだ。それより、彼女に連絡はついたか」

「いや、やっぱり連絡先を掴《つか》めそうにない。おまけに、これから雪穂と買い物なんだ」

 電話の向こうで篠塚がため息をついた。

「聞いているだけで、こっちまで辛くなる」

「すまん。いやなことに付き合わせて」

「まあ仕方ないさ。じゃ、九時に」

「よろしく」

 電話を切り、着替えを済ませると、誠はドアを関けた。すると、廊下に雪穂が立っていたので、彼はぎくりとした。彼女は背中に手を回し、壁にもたれるような格好で彼のことを見つめていた。口元にうっすらと笑みを浮かべている。それはいつもの微笑《ほほえ》みとは、少し質の違ったものに見えた。

「遅いから、様子を見に来たの」と彼女はいった。

「ごめん。服を選んでたんだ」

 さらに彼が階段を下りようとした時、雪穂は後ろから訊いてきた。「例の件って何?」

 誠は思わず足を踏み外しそうになった。

「聞いてたの?」

「聞こえてきたのよ」

「そうか……仕事の話だよ」彼は階段を下り始めた。次に彼女が何を訊いてくるのか怖かったが、それ以後質問はなかった。

 買い物は銀座ですることになった。三越や松屋といった有名デパートをはしごし、有名ブランドの専門店を覗《のぞ》いた。

 旅行のための買い物をするという話だったが、雪穂は特に何も買う気はないように誠には見えた。それでそのことを指摘すると、彼女は肩をすくめ、舌を出した。

「本当は、ゆっくりデートがしたかったの。だって、今日はお互いにとって、独身最後の日なんだもの。いいでしょ?」

 誠は小さく吐息をついた。よくない、とはいえなかった。

 楽しそうにウィンドウショッピングをする雪穂の姿を眺めながら、誠はこの四年間のことを思い出していた。そして彼女に対する自分の気持ちを、改めて見つめ直していた。

 たしかに、好きだから今日まで交際を続けてきた。しかし、結婚を決意することになった直接の理由は何だろうか。彼女への愛情の深さだろうか。

 残念ながらそうではないかもしれない、と誠は思った。結婚のことを真剣に考え始めたのは二年ほど前だが、ちょうどその頃、一つの事件があったのだ。

 ある朝、雪穂に呼び出されて、都内にある小さなビジネスホテルに行った。なぜ彼女がそんなところに泊まっていたのかは、後で知ることになる。

 雪穂は、それまでに誠が見たことのないような真剣な顔つきで彼を待っていた。

「これを見てほしいの」といって彼女はテーブルの上を指した。そこには煙草の半分くらいの長さの、透明な筒が立てて置かれていた。中に少量の液体が入っている。「触らないで、上から覗いて」と彼女はいい添えた。

 誠がいわれたように覗くと、筒の底に小さな赤い二重丸が見えた。そのことをいうと、雪穂は黙って一枚の紙を差し出した。

 それは妊娠判定器具の取扱説明書だった。それによると、二重丸が見えることは、陽性であることを意味する。

「朝起きて最初の尿で検査しろってことだったの。あたし、結果をあなたに見て欲しかったから、ここに泊まったの」雪穂はいった。その口ぶりから、彼女自身は妊娠を確信していたのだと窺えた。

 誠が余程暗い顔をしていたのだろう、雪穂は明るい口調でいった。「安心して。産むなんていわないから。一人で病院にだって行けるから」

「いいのか」と誠は訊いた。

「うん。だって、まだ子供はまずいものね」

 率直なところ、雪穂の言葉を聞いて誠は安堵《あんど》していた。自分が父親になるなどということは、想像もしていなかった。したがって、そういう覚悟があるはずもなかった。

 誠にいった通り、雪穂は一人で病院へ行き、密かに堕胎手術を受けた。その間一週間ほど姿を見せなかったが、その後はそれまでと同じように明るく振る舞った。彼女のほうから子供のことを口にすることはなかった。彼がそれについて何か尋ねようとしても、彼女はその気配を察知するらしく、いつも先にかぶりを振ってこういうのだ。

「もう何もいわないで。もういいから。本当にいいから」

 このことをきっかけに、誠は彼女との結婚を真剣に考えるようになった。それが男の責任だと思ったのだ。

 しかし、と誠は今になって思う。もっと大事なものを、あの時の自分は忘れていたのではないか――。

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 食後のコーヒーを飲むふりをしながら、誠は腕時計を見た。九時を少し過ぎていた。

 七時から始まった高宮家と唐沢家の会食は、殆ど頼子のおしゃべりで終始した。雪穂の養母である唐沢礼子も、寛容そうな笑みをたたえたまま、聞き役に徹してくれていた。知性に裏打ちされた本物の上品さを備えた女性だった。この人のことも、明日には裏切ることになるかもしれなしいと思うと、誠は心苦しかった。

 レストランを出たのは九時十五分頃だった。ここで頼子が予想通りの提案をした。まだ時間が早いから、バーにでも行かないかというのだった。

「バーはきっと混んでるよ。一階のラウンジに行こう。あそこなら、酒だって飲めるし」

 誠の意見に、まず唐沢礼子が同意した。彼女はアルコールが飲めないらしい。

 エレベータで一階に下り、ラウンジに向かった。誠は時計を見た。九時二十分を過ぎていた。

 四人でラウンジに入ろうとした時だ。「高宮」と背後から声がした。誠が振り返ると、篠塚が近づいてくるところだった。

「やあ」誠は驚いたふりをした。

「遅かったじゃないか。計画中止かと思ったぜ」篠塚は小声でいった。

「食事が長引いたんだ。でも、来てくれて助かった」

 さらに一言二言話す格好をした後で、誠は雪穂たちのところへ戻った。

「この近くで永明大出身の連中が集まっているらしい。ちょっと顔を出してくるよ」

「何もこんな時に行かなくても」頼子が露骨に嫌な顔をした。

「いいじゃないですか。友人同士のお付き合いは大事ですものね」唐沢礼子がいった。

 すみません、と誠は彼女に向かって頭を下げた。

「なるべく早く帰ってね」雪穂が彼の目を見ていった。

 うん、と誠は頷いた。

 ラウンジを出ると、誠は篠塚と共にホテルを飛び出した。ありがたいことに、篠塚は愛車のポルシェで来ていた。

「スピード違反で捕まったら、罰金は払ってくれよな」そういうなり篠塚は車を発進させた。

 パークサイドホテルは品川駅から徒歩で約五分のところにある。十時少し前には、誠はホテルの正面玄関で、篠塚のポルシェから降り立っていた。

 彼は真っ直ぐフロントへ行き、三沢千都留という女性が宿泊しているはずだがといった。髪を奇麗に刈ったホテルマンは、丁寧な口調でこういった。

「三沢様には、たしかに御予約いただいておりますが、まだチェックインされておりませんね」

 到着予定時刻は九時になっていると、そのホテルマンはいった。

 誠は礼をいい、フロントから離れた。ロビー内を見渡してから、近くのソファに腰を下ろした。フロントがよく見える位置だ。

 間もなく彼女が現れる――そのことを想像しただけで、心臓の鼓動が速くなった。

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 千都留が品川駅に着いたのは、十時十分前だった。部屋の片づけや帰省の支度に、思った以上に時間がかかってしまったのだ。

 大勢の人々と共に、彼女は駅前の交差点を渡り、ホテルに向かった。

 パークサイドホテルの歩行者用の入り口は道沿いにあったが、正面玄関に行くには、そこから敷地内の庭園を歩かねばならなかった。千都留は重い荷物を手に、曲がりくねった細い舗道を進んだ。いろとりどりの花がライトアップされているが、それらを観賞している余裕はあまりなかった。

 ようやく正面玄関に近づいてきた。タクシーが次々と入ってきては、その前で客を降ろしている。やはりこういうホテルに来る時には、車でないと格好がつかないなと千都留は思った。ホテルのボーイたちも、徒歩でやってくる客には関心がなさそうだ。

 千都留が正面玄関の自動ドアを通ろうとした時だった。

「ちょっとすみません」突然後ろから声をかけられた。

 振り返ると、黒っぽいスーツを着た若い男が立っていた。

「失礼ですが、これからチェックインされる方でしょうか」男は尋ねてきた。

「そうですけど」警戒しながら千都留は答えた。

「じつは私、警視庁の者なのですが」そういって男は上着の内側から、ちらりと黒い手帳を見せた。「折り入ってお願いがあるのです」

「あたしにですか」千都留は面食らった。自分が何かの事件に関係している覚えはなかった。

 ちょっとこちらへ、といって男は庭園のほうに歩きだした。それで仕方なく、千都留もついていった。

「今夜は一人でお泊まりですか」男が訊いた。

「そうですけど」

「それは、こちらのホテルでなければいけないのでしょうか。たとえば、この奥にもホテルがありますが、そちらではいけないのでしょうか」

「それは別にいいんですけど、このホテルに予約をとってあるので……」

「そうでしょうね。だからこそ、あなたにお願いがあるんです」

「どういうことですか」

「じつは、このホテルにある事件の犯人が泊まっているんです。それで我々としては、出来るだけ近くで監視したいのですが、生憎《あいにく》今夜は団体客の予約が入っていて、捜査に使う部屋を確保できない状態なのです」

 男のいいたいことが、千都留にもわかってきた。

「それであたしの部屋を?」

「そういうことです」男は頷いた。「すでにチェックインしたお客さんに代わっていただくのは難しいですし、あまり妙な動きをして、犯人たちに気づかれるのもまずいのです。それで、まだチェックインしていないと思われる方を、お待ちしていたというわけです」

「はあ、そうなんですか……」千都留は相手の男を見た。よく見ると、ずいぶんと若い感じがした。まだ新米なのかもしれない。しかしスーツをきっちりと着こなし、精一杯の誠意を示そうとしている点は好感が持てた。

「もし了解していただけるのでしたら、今夜の宿泊代はこちらで出させていただきますし、ホテルの前までお送りします」と男はいった。言葉のアクセントに、かすかに関西弁が混じっていた。

「この奥にあるホテルというと、クイーンホテルですよね」千都留は確認した。そこならパークサイドホテルよりも、はるかに格上だ。

「クイーンホテルの、四万円の部屋を確保してあります」彼女の内心を見抜いたように、男は部屋のクラスを述べた。

 自腹では絶対に泊まることのない部屋だ、と彼女は思った。それで気持ちが固まった。

「そういうことでしたら、あたしは構いませんけど」

「ありがとうございます。では、自分がホテルの前までお送りします」男は千都留の荷物に手を伸ばしてきた。

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 十時半を過ぎても、三沢千都留は現れなかった。

 誠は誰かが置いていった新聞を広げながらも、フロントから目を離さなかった。早く気持ちを告白したいというより、今はただ一刻も早く彼女の顔が見たかった。心臓の鼓動は依然としてピッチが上がったままだ。

 一人の女性客がフロントに近づいていった。それで一瞬はっとしたが、顔が全然違うことに気づき、がっかりして目を伏せた。

「予約していないんですけど、部屋はあるでしょうか」女性客が訊いている。

「お一人様でしょうか」フロントにいる男が尋ねた。

「はい」

「するとシングルでよろしいでしょうか?」

「ええ、それで結構」

「はい、御用意できます。一万二千円、一万五千円、一万八千円の部屋がございますが、どれになさいますか」

「一万二千円の部屋でいいわ」

 予約していなくても結構泊まれるものなのだなと誠は思った。今夜は団体客なども入っていないようだ。

 誠は一旦入り口のほうに目を向けてから、ぼんやりと新聞を眺めた。文字を読んではいるが、内容はちっとも頭に入っていかない。

 それでも一つだけ、彼の興味を引く記事があった。盗聴に関するものだ。

 昨年から今年にかけ、共産党員が警察官に電話を盗聴された事件が相次いだ。それで公安のあり方などについて、方々で議論がなされている。

 が、誠が関心を持ったのは、そういう政治的なことではない。盗聴が発覚するに至った経過が気になったのだ。

 電話の雑音が増えたことや、受話音量が小さくなったことから、電話の持ち主がNTTに調査を依頼したのがきっかけ、とある。

 うちのは大丈夫だろうな、と彼は思った。ここに書いてあるのと同じ症状を、彼の電話も示しているからだ。もっとも、彼の電話を盗聴して得をする人間がいるとも思えなかった。

 誠が新聞を折り畳んだ時だった。フロントにいたホテルマンが、彼のところに来た。

「三沢様をお待ちの方でしたよね」とホテルマンは訊いてきた。

「そうですが」誠は思わず腰を浮かせていた。

「じつは、たった今お電話がありまして、部屋をキャンセルしたいということでした」

「キャンセル?」全身が、かっと熱くなるのを誠は感じた。「彼女は今どこにいると?」「それは伺っておりません」ホテルマンは首を振った。

「それに、電話をかけてこられたのは男性でした」

「男?」

「はい」とホテルマンは頷いた。

 誠は、ふらふらと歩きだした。どうしていいのかわからなかった。しかし少なくとも、ここで待っていても無意味であることはたしかだった。

 彼は正面玄関からホテルを出た。タクシーが並んでいたので、先頭の一台に乗った。成城へ、と彼はいった。

 不意に笑いがこみあげてきた。自分の滑稽《こっけい》さに、自分でおかしくなった。

 結局、自分と彼女とは運命の糸では結ばれていなかったのだと彼は思った。泊まるつもりにしていたホテルをキャンセルすることなど、ふつうではめったにない。そんなレアケースが発生するのは、何か超自然的な力が作用したとしか思えなかった。

 だが振り返ってみれば、告白するチャンスはこれまでに何度もあった。それを逃し、今日まで来てしまったこと自体、そもそもの間違いなのかもしれなかった。

 彼はポケットからハンカチを出し、いつの間にか浮かんでいた額の汗をぬぐった。そしてしまう時、そのハンカチが千都留から貰《もら》ったものであることに気づいた。

 明日の披露宴の段取りを思い出しながら、彼は瞼《まぷた》を閉じた。

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