饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 八 章.2

作者:日-东野圭吾 当前章节:15421 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「親戚やない。けど、親戚みたいなもんかな」男はそういってから、自分の答えに納得したように、うんうんと何度も頷いた。その動きを止めてから、逆に訊いてきた。「リョウのやつ、相変わらず陰気か?」

 えっ、と友彦は聞き直した。

「陰気かって訊いてるんや。ガキの頃から暗いやつでな、何を考えてるのか、さっぱりわからへんかった。今はちょっとはましになったのかと思ってね」

「別に……ふつうですよ」

「そうか。ふつうか」何がおかしいのか、男は含み笑いをした。「ふつうねえ。そいつはよかった」

 仮にこの男が本当に桐原の親戚だったとしても、決して付き合いたくないと友彦は思った。

 男が腕時計を見て、両足の太股《ふともも》をぱんと叩き、腰を浮かせた。

「帰ってきそうにないな。出直すとしょうか」

「何かお言付けがあるなら、聞いておきますけど」

「いや、ええ。会ってじかに話したい」

「じゃあ、お客さんのお名前だけでも伝えておきます」

「ええというとるやろうが」男は友彦をじろりとひと睨みし、玄関ドアに向かった。

 まあいいか、と友彦は思った。この男の特徴をいえば、桐原ならわかるに違いない。それより今は、この男を早く帰すことが先決だ。

「またお越しください」

 友彦が声をかけたが、男は何もいわずにドアの把手《とって》に手を伸ばした。

 だがその手が届く前に、把手がくるりと回転した。さらにドアが外側に開けられた。

 ドアの向こうには桐原が立っていた。驚いた顔をしていたのは、すぐ目の前に人がいたからだろう。

 しかしその目が男の顔に焦点を結ぶと、彼の表情は一変した。驚きを示していることに違いはなかったが、それの質が全く違っているようだった。

 顔全体がぐにゃりと歪んだかと思うと、次にはコンクリートで作ったマスクのように固まった。その顔には暗い影が落ちていた。目にはどんな光も宿らず、唇はこの世のすべてを拒絶していた。そんな彼の様子を見るのは、友彦は初めてだったので、一体何が起きたのかわからなかった。

 ところが桐原のこの変化は、ほんの一瞬のことだった。次の瞬間には、彼はなんと笑顔を見せていたのだ。

「マツウラさんやないか」

 おう、と男も笑いながら応じた。

「久しぶりやったなあ、元気にしてるか」

 二人は友彦の見ている前で、握手をした。

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 松浦、というのが男の名字だった。やはり昔からの知り合いらしい。だが桐原が友彦に教えてくれたことは、それだけだった。それだけ説明すると、二人で隣の部屋へ行ってしまった。

 友彦は戸惑っていた。桐原が見せたあの笑顔から察すると、会って嫌な相手ではなさそうだ。となると、会わせないほうがいいと思った友彦の直感は、間違っていたことになる。

 しかし彼は、笑顔よりも、その直前に見せた桐原の表情のほうが気に掛かっていた。ほんの一瞬ではあったが、負のエネルギーを凝縮したような凄《すご》みが桐原の全身から発せられていた。あの様子とその後の笑顔が、どうにも結びつかなかった。もしかすると自分の思い過ごしだったのかという気もするのだが、あの異様な気配が勘違いの産物だとは、どうしても思えなかった。

 弘恵が戻ってきた。彼女は隣の部屋に日本茶を運んで行ったのだ。

「どうやった?」と友彦は訊いた。

 弘恵は一度首を捻《ひね》ってから、「なんだか楽しそうやったけど」といった。「あたしが入っていったら、つまらない冗談をいい合って笑ってた。あの桐原さんが、駄洒落《だじゃれ》をいうてるんよ。信じられる?」

「信じられへんな」

「でも事実なの。あたし、耳を疑ったわ」弘恵は、自分の右耳をほじるしぐさをした。

「松浦の用件が何なのかはわかった?」

 友彦が訊くと、彼女は申し訳なさそうにかぶりを振った。

「あたしがいる前では雑談してるだけやった。他人に話を聞かれたくないみたい」

「ふうん」

 胸が、ざわざわと騒いだ。隣で二人は、どんなやりとりを交わしているのか。

 それから約三十分後、隣のドアの開く気配がした。さらに十秒ほどすると、店のドアが開けられ、桐原が顔を覗かせた。

「俺、ちょっと松浦さんを、そのへんまで送ってくるから」

「あ、お帰りか」

「うん。すっかり長話になった」

 桐原の向こうにいた松浦が、どうもどうも、といって手を振った。

 ドアが再び閉じられると、友彦は弘恵を見た。彼女も友彦を見ていた。

「どういうことやろ」と友彦はいった。

「あんな桐原さんを見たの、初めて」弘恵も目を丸くしていた。

 しばらくして桐原が戻ってきた。ドアを開けるなり、「園村、ちょっと隣に来てくれ」といった。

「ああ……わかった」友彦が答えた時には、もうドアは閉まっていた。

 友彦は弘恵に店番を頼んだ。彼女は怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げた。友彦は首を振るしかなかった。長年の付き合いではあるが、桐原について知らないことは山ほどあった。

 隣の部屋に行くと、桐原が窓を開け放ち、空気を入れ換えているところだった。その理由はすぐにわかった。部屋中に煙草の煙が充満しているのだ。桐原が、ここへ来た人間に喫煙を許可したのは、友彦の知るかぎりではこれが初めてだった。コンビニで買った鍋焼きうどんのアルミ鍋が、灰皿代わりに使われていた。

「義理のある相手や。何の愛想もでけへんから、煙草ぐらいは吸わせてやろうと思ってな」友彦の疑念を晴らすように桐原はいった。言い訳がましく聞こえたので、これまたこいつらしくない、と友彦は感じた。

 空気が入れ替わり、室内がすっかり十二月の外気温に変わると、桐原は窓を閉めた。

「何の話かと後で弘恵ちゃんに訊かれたら」ソファに腰を下ろしながら彼はいった。「松浦さんのところにパソコンを二台、卸しの値で流してやる話やったと答えといてくれ。たぶん今頃は、俺らがどんな話をしているのか、あれこれ想像してるやろうからな」

「ということはつまり、本当はそういう話ではないということか」友彦はいった。「彼女には聞かせられへん話ということか」

「まあそういうことや」

「あの松浦という人が関係してるんやな」

 ああ、と桐原は頷いた。

 友彦は両手で髪を後ろにかきあげた。

「なんていうか、俺としてはあんまり面白い気分やないな。あの人が何者なのかも知らんしな」

「使用人や」桐原がいった。

「えっ?」

「うちの使用人だった男や。昔、俺の家が質屋をしてたことは話したやろ。その頃、働いてた男や」

「質屋に……そうか」友彦としては全く予想外の答えだった。

「親父が死んだ後も、うちが店じまいをするまで働いてた。つまり俺やお袋は、実質的にあの人に養われてたということになる。松浦さんがおれへんかったら、俺らはすぐにも路頭に迷ってたやろな」

 桐原の言葉を聞き、友彦はどう答えていいのかわからなくなった。こんなふうに三文小説風にしゃべるというのも、いつもの桐原からは考えられないことだった。昔の恩人に会って、神経が昂《たかぶ》っているということだろうかと思った。

「で、その大切な恩人が何のために今頃やってきたんや。いやそれより、桐原がここにいるということがなんでわかったんやろう。桐原のほうから連絡したのか?」

「そうやない。あの人のほうが、俺がここで商売をしてることを知って、訪ねてきたんや」

「どこで知ったんや?」

「それがな」桐原は片方の頬を微妙に歪めた。「金城から聞いたらしい」

「金城?」嫌な予感が胸に広がるのを友彦は感じた。

「この間、おまえと話したな。仮にスーパーマリオの海賊版を作れたとして、どうやって売るつもりなのかということを。その答えが見つかった」

「何か、からくりでもあるのか」

「からくりなんていう大層なものやない」桐原は身体を揺すった。「簡単な話や。要するに、ガキにはガキなりの裏取引の場があるということらしい」

「どういうこと?」

「松浦さんは、ちょっとやばい商品専門のブローカーをしてるという話や。扱う品物に制限はない。どんなものでも金になると思たら仕入れるし、売りさばくそうや。特にこのところ力を入れているのが、子供向けのゲームソフトらしい。スーパーマリオなんかは正規の店では品薄やから、実際の価格よりさほど値下げせんでも飛ぶように売れていくという話やった」

「あの人は、どこからマリオを仕入れてるんや? 任天堂に何か特別なパイプでも持ってるのか」

「そんなものはない。ただし特別な仕入先があるらしい」桐原は意味ありげに、白い歯を見せた。「それはふつうのガキや。ガキが、松浦さんのところに持ち込んでくるらしい。ではそのガキ共は、どこで入手してくるか。お笑いやぞ。ガキ共は万引きしたり、持ってるガキのをカツアゲするんや。松浦さんの手元には、三百人以上の悪ガキの名前を載せたリストがあるそうや。その連中が、定期的に自分らの獲物を売りに来る。それを市価の一割から三割程度の値段で買い取って、別のガキに七割程度の値段で売るわけや」

「偽物のスーパーマリオも、その店で売りさばくということか?」

「松浦さんはネットワークを持ってる。似たようなブローカーが何人もいるそうや。そういった連中に任せたら、スーパーマリオなら五千や六千は、たちどころに売りつくしてしまうという話やった」

「桐原」友彦は小さく右手を出した。「やらないという話だったよな。今度ばかりは、危なすぎるということで、俺らの意見は一致してたよな」

 友彦の言葉に、桐原は苦笑を浮かべた。その笑いの意味を友彦は汲《く》み取ろうとしたが、真意はわからなかった。

「松浦さんは」桐原が話し始めた。「金城から俺のことを聞いて、昔自分が働いていた質屋の息子だと気づいた。それで、俺の説得係としてここへ来たわけや」

「それでまさか、説得されたわけやないやろ?」友彦は、しつこく尋ねた。

 桐原は太いため息をついた。それから少し身を乗り出した。

「これは俺一人でやる。おまえは一切ノータッチでええ。俺のすることには、完全に無関心でいてくれ。弘恵にも、俺が何をしてるかは気づかれんようにしてくれ」

「桐原……」友彦は首を振った。「危険やぞ。この話はやばい」

「やばいことはわかってる」

 桐原の真剣な目を見つめ、友彦は絶望的な気分になった。こんな目をした時の彼を説得することなど、自分には到底無理だと思った。

「俺も……手伝うよ」

「断る」

 だけど、やばいよ、と友彦は口の中で呟いた。

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『MUGEN』は、十二月三十一日まで店を開けることになっていた。その理由を桐原は二つ挙げた。一つは、年末ぎりぎりになって年賀状を書こうとする連中が、ワープロなら楽ができるのではないかと期待して買いに来る可能性があるということで、もう一つは、年末になっていろいろと金の計算をしなければならない人間たちが、突然パソコンの調子がおかしくなって駆け込んでくることもあるだろうというものだった。

 しかし実際にはクリスマスが過ぎると、店には殆ど客が来なくなった。たまに来るといえば、ファミコン屋と間違えて入ってくる小学生や中学生ぐらいだ。暇な時間を友彦は、弘恵とトランプをして過ごした。机の上にカードを並べながら、これからの子供たちは、もしかすると七並べやババ抜きも知らなくなるかもしれないと二人で話したりした。

 客は来なかったが、桐原は連日忙しそうに出歩いていた。『スーパーマリオブラザーズ』の海賊版作りに動いていることは間違いなかった。桐原さんはいつもどこへ行くのかしらと疑問を口にする弘恵に対し、友彦はうまい言い訳を探すのに苦労した。

 松浦が顔を見せたのは、二十九日のことだった。弘恵は歯医者に出かけており、店には友彦しかいなかった。

 松浦の顔を見るのは、最初に会った時以来だった。相変わらず、顔色はくすみ、目は濁っていた。それをごまかすかのように、この日は色の薄いサングラスをかけていた。

 桐原は出かけているというと、例によって、「ほな、待たせてもらおか」といってパイプ椅子に腰を下ろした。

 松浦は、襟に毛のついた革のブルゾンを着ていた。それを脱ぎ、椅子の背もたれにかけながら店内を見渡した。

「年の瀬やというのに、しぶとう店を開けとるなあ。大晦日までか?」

 そうです、と友彦が答えると、松浦は肩を小さく揺すって笑った。

「遺伝やな。あいつの親父も、大晦日の夜遅うまで店を開けとく主義やった。年末は、掘り出し物を安う叩くチャンスやとかいうてな」

 桐原の父親についての話を、桐原以外の人間から聞くのはこれが初めてだった。

「桐原の親父さんが亡くなった時のこと、御存じですか」

 友彦が質問すると、松浦はぎょろりと目玉を動かして彼を見た。

「リョウから話を聞いてへんのか」

「詳しいことは何も。通り魔に刺されて死んだというようなことを、以前ちらっとだけ……」

 その話を聞かされたのは、数年前だ。親父は道端で刺されて死んだ――桐原が父親について語ったことのすべては、殆どこれだけだったといっていい。友彦は強烈に好奇心を刺激されたが、何一つ尋ねることはできなかった。この話題に触れることを許さない雰囲気が、桐原にはある。

「通り魔かどうかはわからんな。何しろ、犯人が最後まで捕まらんかった」

「そうなんですか」

「近所の廃ビルの中で殺されとったんや。胸をひと刺しやった」松浦は口元を歪めた。「金がとられとったから、強盗の仕業やろうと警察は踏んでいたようや。しかも、その日にかぎって大金を持ってたから、顔見知りやないかと疑ってたみたいやな」何がおかしいのか、途中でにやにや笑い始めた。

 その笑いの意味を友彦は察した。「松浦さんも疑われたんですか」

「まあな」といって松浦は声を出さぬまま、表情をさらに崩した。人相の悪い顔は、どんなに笑っても不気味にしか見えなかった。松浦はそんな笑いを浮かべて続けた。「リョウのおふくろさんはまだ三十代半ばで女っぷりもよかった。そんな店に、男の店員がおったわけやから、いろいろとあることないこと勘ぐられる」

 友彦は驚いて、目の前にいる男の顔を見返した。この男と桐原の母親の仲が怪しまれたということか。

「本当のところはどうやったんですか」と彼は訊いてみた。

「何がや? 俺が殺《や》ったわけやないぞ」

「そうじゃなくて、桐原のおふくろさんとの仲は……」

 ああ、と松浦は口を開けた。それからちょっと迷うように顎《あご》を撫《な》でた後、「何にもなかったで」と答えた。「何の関係もなかった」

「そうですか」

「そうや。信じられへんか」

「いえ」

 友彦は、この点についてこれ以上深く詮索するのはやめておくことにした。

 だが彼なりの結論は出ていた。松浦と桐原の母親には、おそらく何らかの関係があったのだろう。もっとも、それが父親が殺された事件に関係しているかどうかはわからない。

「アリバイとかも調べられたんですか」

「もちろんや。刑事はしつこいからな。生半可なアリバイでは納得してくれへんかった。ただ俺がついてたのは、ちょうど親父さんが殺された頃、店に電話がかかってきたことや。事前に打ち合わせがでけへん電話やったから、警察もようやく俺から目を離してくれたというわけや」

「へえ……」

 まるで推理小説の世界だなと友彦は思った。

「その頃桐原はどうしてたんですか」

「リョウか。あいつは被害者の息子やからな、世間からしきりに同情されとったわ。事件が起きた時は、俺やおふくろさんと一緒におったことになってるしな」

「なってる?」その言い方が引っかかった。「それ、どういう意味です」

「いや、別に」松浦は黄色い歯を見せた。「なあ、リョウは俺のことを、あんたにはどんなふうにしゃべってるんや。昔の使用人やというてるだけか」

「どんなふうにって……恩人だというてましたよ。養ってもらってたと」

「そうか、恩人か」松浦は肩を揺すらせた。「それはええ。たしかに恩人やろな。せやからあいつは俺には頭が上がらん」

 意味がわからず友彦が質問をしようとした時だ。

「えらい古い話をしてるやないか」不意に桐原の声が聞こえた。入り口の前に彼が立っていた。

「あ、お帰り」

「昔話なんか聞かされても、退屈なだけやろ」そういいながら桐原はマフラーをほどいた。

「いや、初めて聞く話やから、かなり驚いている。正直なところ」

「あの日のアリバイの話をしとったんや」松浦がいった。「覚えてるか、ササガキという刑事。あいつ、しつこかったなあ。俺とリョウとリョウのおふくろさんの三人に、一体何回アリバイの確認をしよった? うんざりするほど、何遍もおんなじ話をさせられたで」

 桐原は店の隅に置いた電気温風ヒーターの前に座り、両手を暖めていた。その姿勢のまま、松浦のほうに顔を向けた。「今日は何か用があったんか?」

「いや、特に用はない。年越しの前にリョウの顔を見とこうと思うてな」

「それなら、そのへんまで送るわ。悪いけど、今日はいろいろとやらなあかんことがあるから」

「なんや、そうか」

「うん、マリオのこととかな」

「おう、それはあかん。しっかりやってもらわんとな。で、順調か」

「予定通り」

「それはよかった」松浦は満足そうに頷いた。

 桐原は立ち上がって、再びマフラーを首に巻き付けた。松浦も腰を上げた。

「さっきの話の続きは、また今度な」松浦は友彦に向かってそういった。

 二人が出ていってしばらくしてから、弘恵が戻ってきた。下で桐原と松浦を見たといった。松浦の乗ったタクシーが動きだすまで、桐原は道路脇に立っていたらしい。

「桐原さん、どうしてあんな人を慕うのかな。昔世話になったというけど、要するにお父さんが亡くなった後も、そのまま働いていたというだけのことやないのかなあ」

 不可解だといわんばかりに、弘恵はゆらゆらと頭を振った。

 友彦も全く同感だった。先程の話を聞いて、ますます解《げ》せなくなった。松浦と桐原の母親の間に何かあったのなら、あの勘の鋭い桐原が気づかないはずがない。そして気づいていたのなら、現在のような態度を松浦に対してとるとは思えなかった。

 松浦と桐原の母親との間には、何もなかったということか――ついさっき確信したばかりのことについて、友彦は早くも自信を失いかけていた。

「桐原さん、遅いね」事務机に向かっていた弘恵が、顔を上げていった。「何してるのかな」

「そういうたらそうやな」松浦がタクシーに乗って立ち去るのを見送っていたとしても、とっくに戻ってきているはずだった。

 気になって友彦は部屋を出た。そして階段を下りようとしたところで、その足を止めた。

 桐原が、一階と二階の中間にある踊り場に立っていた。二階にいる友彦からは、彼の背中を見下ろす形になる。

 踊り場には窓がついていた。そこから外を眺めることができる。すでに午後六時近くになっているので、通りを走る車のヘッドライトの光が、彼の身体をスキャンするように通過していく。

 友彦は声をかけられなかった。じっと外を見つめる桐原の背中に、ただならぬ気配を感じた。

 あの時と同じだ、と友彦は思った。桐原が松浦と再会した時のことだ。

 友彦は足音を殺し、部屋の前まで戻った。そして音をたてぬよう気をつけてドアを開き、身体を中に滑り込ませた。

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『MUGEN』の一九八五年の営業は、十二月三十一日午後六時で終了となった。大掃除をした後、友彦は桐原や弘恵とささやかな乾杯をした。来年に向けての抱負を弘恵から訊かれ、「ファミコンに負けへんパソコンゲームを作りたいな」と友彦は答えた。

 桐原の答えは、「昼間に歩きたい」というものだった。

 小学生みたい、といって弘恵は桐原の回答を笑った。「桐原さん、そんなに不規則な生活をしてるの?」

「俺の人生は、白夜《びゃくや》の中を歩いてるようなものやからな」

「白夜?」

「いや、何でもない」桐原はハイネケンを飲んだ後、友彦と弘恵の顔を交互に見た。「ところでおまえら、結婚はせえへんのか」

「結婚?」ビールを飲みかけていた友彦はむせそうになった。そんなことをいわれるとは予想していなかった。「まだあんまり考えたことないな」

 桐原は腕を伸ばし机の引き出しを開けた。そこからA4のプリンタ用紙を一枚と、細く平たい箱を取り出した。その箱を友彦は見たことがなかった。古い箱で、縁が擦れたようになっていた。

 桐原は箱を開け、中のものを出した。それは鋏《はさみ》だった。刃の部分が十センチ以上ある。先端はかなり鋭利だ。銀色に光っているが、その輝きには年代物の風格があった。

「すごい上等そうな鋏」弘恵が率直な感想を述べた。

「昔、うちの店で質流れした品物や。ドイツ製らしい」桐原は鋏を手にして、刃を二、三度合わせた。しゃきしゃきという心地よい音が鳴った。

 彼は左手に持った紙を、その鋏で切り始めた。小刻みに、そして滑らかに紙を動かす。友彦はその手元をじっと見つめた。右手と左手のコンビネーションは絶妙だった。

 やがて紙を切り終えると、桐原はそれを弘恵に渡した。彼女は切り上がったものを見て目を丸くした。「わあ、すごい」

 それは男の子と女の子が手を繋《つな》いでいる形になっていた。男の子は帽子をかぶり、女の子は頭にリボンをつけていた。見事な出来|映《ば》えだった。

「大したものやな」友彦はいった。「こんな特技があるとは全然知らんかった」

「結婚の前祝いということにしとこか」

 ありがとう、と弘恵は礼をいい、その切り絵を慎重にそばのガラスケースの上に置いた。

「なあ友彦」と桐原はいった。「これからはパソコンの時代や。やりようによっては、この商売はまだなんぼでも金になる」

「そうはいうても、この店はおまえの店やしな」

 友彦がいうと、桐原はすぐに首を振った。

「これからこの店がどうなるかは、おまえらにかかってる」

「何やそれ。えらいプレッシャーをかけてくれるやないか」友彦は笑いとばした。桐原の台詞が、妙に深刻な響きを持っていたからだ。

「冗談でいうてるんやない」

「桐原……」友彦はもう一度笑って見せようとしたが、頬がひきつったようになった。

 その時電話が鳴った。いつもの習慣からか、電話から一番遠くに座っていた弘恵が、受話器を取り上げた。「はい、ムゲンです」

 次の瞬間、彼女の表情が曇った。受話器を桐原のほうに差し出した。「金城さんです」

「こんな時にどうしたのかな」と友彦はいった。

 桐原が受話器を耳に当てた。「はい、桐原です」

 数秒後、桐原の表情が険しくなった。受話器を手にしたま立ち上がっていた。それだけでなく、空いたほうの手を椅子にかけたスタジアムジャンパーに伸ばしていた。

「わかりました。俺のほうは自分で何とかします。ケースとパッケージは……はい、お願いします」受話器を置くと、二人に向かっていった。「ちょっと出かける」

「どこへ?」

「説明は後や。時間がない」桐原はいつものマフラーを首に巻き、玄関に向かった。

 友彦は彼の後を追った。しかし桐原の足が速いので、追いついたのは、ビルを出てからだった。

「桐原、一体何があった?」

「あったんやない。これからあるんや」業務用のバンが置いてある駐車場目指し、大股で歩きながら、桐原は答えた。「海賊版のマリオで足がついたらしい。明日の早朝、防犯課が工場や倉庫を捜索するそうや」

「海賊版が? なんでばれた?」

「さあな。誰かがタレ込んだのかもしれん」

「たしかか? 明日の朝に警察が捜索するって、なんでわかるんや」

「物事にはどんなことにも、特別なルートというものがある」

 駐車場に着いた。桐原はバンに乗り込み、エンジンキーを回した。十二月の寒さにさらされたエンジンは、なかなかかかってくれなかった。

「何時になるかわからんから、適当に帰ってくれ。戸締まりを忘れるな。それから弘恵ちゃんには、適当に説明しといてくれ」

「一緒に行かんでもええんか」

「これは俺の仕事や。最初にそういうたやろ」タイヤを鳴らし、桐原はバンを発進させた。そして乱暴とさえいえるハンドルさばきで、夜の闇に消えた。

 友彦は仕方なく店に戻った。店では弘恵が心配そうに待っていた。

「桐原さん、こんな時間に一体どこへ行ったの?」

「アーケードゲームの下請けメーカーのところや。以前桐原がタッチしたゲーム機のプログラムに、ちょっとしたトラブルが発生したらしい」

「でも、もう大晦日やのに」

「ゲーム機メーカーにとって一月は書入れ時やから、一刻も早く解決しておきたいということやろ」

「ふうん」

 明らかに弘恵は、友彦の話を嘘だと見抜いていた。だが今はそれを責めている場合ではないということも、了解しているようだった。浮かない顔つきで窓の外に目を向けた。

 それからしばらく、二人でテレビを見た。どのチャンネルも、二時間以上の枠を取ったスペシャル番組だった。今年を振り返る、というコーナーがあった。阪神タイガースの監督が胴上げされる映像が流れた。一体何回この映像を見ただろうと友彦は思った。

 桐原が戻ってきそうな予感はなかった。二人は殆ど無言だった。友彦もそうだが、弘恵の意識もテレビ以外のところにあるに違いなかった。

「弘恵は先に帰ったほうがええ」NHKの紅白歌合戦が始まったのを機に友彦はいった。

「そうかな」

「うん、そのほうがいい」

 弘恵は少し逡巡《しゅんじゅん》したようだが、わかったそうする、といって立ち上がった。

「友彦さんは待ってるつもりやの?」

 うん、と友彦は頷いた。

「風邪ひかんように気をつけてね」

「ありがとう」

「今夜、どうする?」弘恵がこう尋ねてきたのは、大晦日の夜は一緒に過ごそうと前々から約束していたからだ。

「行くよ。ちょっと遅くなるかもしれんけど」

「うん。じゃあ、お蕎麦《そば》の用意をしとくから」弘恵はコートを羽織り、部屋を出ていった。

 一人になると、様々な想像が友彦の脳裏を駆けめぐった。テレビでは恒例の年越し番組が放送されていたが、内容が全く頭に入らなかった。気がつくと番組は新年を祝うものに変わっていたのだが、友彦はいつ零時を過ぎたのかもわからなかった。彼は弘恵のアパートに電話をかけ、もしかしたら行けないかもしれないといった。

「桐原さん、まだ帰ってけえへんの?」弘恵の声は少し震えていた。

「うん、ちょっと手こずってるみたいやな。もう少し待ってみる。弘恵は、眠たかったら先に寝ててもええぞ」

「ううん、平気。今夜は朝まで面白そうな映画をやってるから、それを見てるわ」たぶん意識的なものだろう、弘恵は明るい声を出した。

 部屋のドアが開いたのは、午前三時を過ぎた頃だった。深夜映画をぼんやりと眺めていた友彦は、物音に気づいて顔を向けた。桐原が暗い表情で立っていた。さらに彼の格好を見て友彦は驚いた。ジーンズは泥だらけで、スタジアムジャンパーは袖が少し破れていた。マフラーは手に持っている。

「一体どうしたんや、その格好……」

 桐原は答えなかった。そのかわり、友彦がここにいることについても何もいわなかった。とにかくひどく疲れているように見えた。彼は床の上にしゃがみこみ、首をうなだれた。

「桐原……」

「帰れ」俯き、目を閉じたまま桐原はいった。

「えっ」

「帰れというとるんや」

「だけど」

「帰れ」これ以外の台訶を発する気は、桐原にはないようだった。

 仕方なく友彦は帰り支度を始めた。その間桐原は姿勢を全く変えなかった。

「じゃあ俺、行くから」最後に友彦が声をかけたが、桐原は返事をしなかった。それで諦めて友彦は出口に向かった。しかしドアを開けようとした時、「園村」と声をかけてきた。

「なんや」

 だが桐原はすぐには答えず、じっと床を見つめていた。それで友彦がもう一度口を開きかけた時、彼はいった。

「気ぃつけて帰れよ」

「ああ……うん。桐原も、早よ帰って寝たほうがええぞ」

 しかし返事はなかった。友彦は諦めてドアを開け、部屋を出た。

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 一月三日の朝刊に、『スーパーマリオ――』の海賊版ソフトが大量に見つかったという記事が出た。見つかった場所は、あるブローカーの自宅の駐車場だ。そのブローカーは、ファミコンソフトの古物商も営んでいるということだった。

 友彦が記事を読んだかぎりでは、そのブローカーが松浦であることは間違いなさそうだった。そして松浦は、行方をくらましているらしかった。海賊版ソフトを作った犯人や流通ルートについては、暴力団が関わっている可能性が高いということ以外、警察は掴んではいないようだった。無論、桐原の名前も全く出てこなかった。

 友彦はすぐ桐原に電話をしてみたが、呼び出し音が鳴るだけで誰も出なかった。

 一月五日、予定通りに『MUGEN』は店を開けた。だが桐原は現れず、友彦は弘恵と二人で仕入れや販売をこなした。まだ冬休みということもあり、中学生や高校生の客が多かった。

 仕事の合間に友彦は桐原に何度も電話をかけた。だが向こうの受話器が取り上げられることはなかった。

「桐原さん。何かあったんやろか」客がいない時、弘恵も不安そうにいった。

「あいつのことやから心配する必要はないと思うけど、帰りに寄ってみるわ」

「そうやね、そのほうがええね」

 弘恵は、いつも桐原が座っていた椅子に目を向けた。その椅子の背もたれにはマフラーがかけてあった。大晦日の夜、桐原が首に巻いていたマフラーだ。

 そしてその椅子の少し上の壁には、小さな額がかけてあった。これは弘恵が持ってきてかけたものだ。額に入れられているのは、あの夜桐原が見事な鋏さばきで作った少年と少女の切り絵だった。

 友彦はふと思いついて、桐原が使っていた机の引き出しを開けた。例の鋏を入れた箱が消えていた。

 この時友彦はある予感を抱いた。桐原はもう自分の前には現れないのではないか、というものだった。

 この日仕事が終わると、友彦は桐原の部屋に寄ってみた。しかしチャイムを鳴らしても、ドアの向こうで人の動く気配はなかった。外に出て窓を見上げてみたが、明かりは消えていた。

 翌日も、そのまた次の日も桐原は店に来なかった。やがて桐原の電話は解約の期限が来たらしく不通になった。友彦は彼のマンションに行ってみた。すると見知らぬ男たちが彼の部屋から家具や電化製品を運び出しているところだった。

「何をしてるんですか」リーダーらしき男に訊いた。

「何してるて……部屋の片づけです。ここに住んでた人から頼まれましてね」

「おたくらは?」

「便利屋ですけど」相手の男は怪訝そうに友彦を見た。

「桐原は引っ越したんですか」

「そういうことでしょうね。部屋を引き払うわけやから」

「引っ越し先はどこですか」

「さあ、それは聞いてません」

「聞いてないって……この荷物を運ぶんでしょ?」

「これは全部処分するようにいわれてます」

「処分? 何もかも?」

「そうです。代金も前金で貰ってます。すんません。こっちは仕事中なんですわ」そういうと男は他の者たちに指示を与え始めた。

 友彦は一歩下がり、桐原の荷物が次々に運び出される様子を眺めた。

 そのことを聞くと、弘恵は困惑と狼狽《ろうばい》を見せた。

「そんなあ……なんで急にそんなことを」

「あいつにはあいつの考えがあるんやろ。とにかく今は俺らだけで、何とか店を支えていくしかない」

「いずれ桐原さんから連絡があるやろか」

「あるに決まってる。それまでは二人でがんばろ」

 友彦の言葉に弘恵は心細そうな顔をしながらも頷いた。

 店を開けて五日目の午後、店に一人の男が現れた。古いヘリンボーンのコートを羽織った五十歳前後の男だった。その年代のわりに背が高く、肩幅も広かった。分厚い一重瞼の目は、鋭さと柔らかさの両方を備えていた。

 パソコンの客ではない、と友彦はすぐに思った。

「おたくがここの責任者?」男は尋ねてきた。

 はあ、と友彦は答えた。

「ふうん、お若いね。桐原君と同い年ぐらい……かな」

 桐原の名を出され、友彦はつい目を見開いた。その反応に男は満足したようだ。

「ちょっとええかな、話を訊きたいんやけど」

「お客さんは……」

 すると男は顔の前で手を振った。

「客やない。こういう者ですわ」男は上着の内側から手帳を取り出した。

 友彦がそれを見るのは初めてではなかった。高校二年の時、一度刑事の訪問を受けたことがある。あの時の刑事たちと同じ種類の臭いを、目の前にいる男も発していた。

 弘恵が出かけている時でよかったと思った。

「桐原のことで何か?」

「はあ、ちょっとね。ここ、座らせてもらってもええかな」男は友彦の正面に置いてあったパイプ椅子を指した。

「どうぞ」

「ほな、失礼して」男は椅子に腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。その格好で店内を見回した。「難しそうなものを売ってはるなあ。こういうの、子供が買《こ》うていくの?」

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