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東西電装株式会社東京本社では、大抵の部署が月曜日の朝にミーティングを行う。それぞれの所属長から、会議で決定されたことの報告がなされたり、仕事に関して大まかな指示が出されたりするのだ。各担当者から何らかの連絡事項がある場合なども、この場が用いられる。
四月半ばの月曜日、特許ライセンス部特許一課長の長坂の話は、先日開通した瀬戸大橋のことに及んでいた。先月開業した青函トンネルの話題と併せ、これから一層日本が狭くなる、車社会にも拍車がかかる、当然競争も激しくなるだろうから心してかからねばならない、という具合にその話は落ち着いた。おそらく、先週開かれた会議で誰かがいった台詞を受け売りしているのに相違なかった。
ミーティングが終わると部下たちは自分の席に戻って、それぞれの仕事を始めた。電話をかける者がいる、書類を取り出す者がいる、慌ただしく出ていく者がいる。いわばこれが、この部署における平均的な月曜日の風景だった。
高宮誠も、いつものように始動していた。金曜日にやり残した特許出願手続きの仕上げを始めた。頭のウォーミングアップ用に、あまり急ぎでない仕事を少しだけ次の週に回すというのが、彼のやり方だった。
だがその仕事が終わらぬうちに、「E班、ちょっと集まってくれ」と声がかかった。声の主は、昨年暮れに係長に昇格したばかりの成田だ。
E班というのは、電気、電子、コンピュータ関係の特許を扱うグループの名前だった。Eはエレクトロニクスの頭文字だ。係長以下五人のスタッフで構成されている。
成田の机を囲む形で、誠たちは座った。
「重要な話だ」成田が少し固い表情でいった。「生産技術エキスパートシステムに関することだ。これがどういうものか、みんな知っているか」
誠を含めた三人が頷いた。昨年入社の山野という社員だけが、「よく知りません」と申し訳なさそうにいった。
「エキスパートシステムのことは知ってるか」と成田は訊いた。
「いえ……聞いたことはあるんですけど」
「じゃあAIは?」
「ええと、人工知能のことですよね」山野は自信なさそうに答えた。
最近急激に進歩してきたコンピュータの世界では、その働きをより人間の頭脳に近づけたものにしようという動きが活発になってきている。たとえば人間は他人とすれ違う時、相手との距離を測りながら歩いているわけではない。それまでの経験や直感などから、歩く速度や方向を、「適当に」決めているだけである。そうした柔軟性のある思考力や判断力をコンピュータに持たせたものが、人工知能と呼ばれるものだった。
「エキスパートシステムというのは人工知能の用途の一つで、専門家の代わりをさせようというものだ」成田はいった。「俗にプロフェッショナルとかエキスパートとかいわれる人ってのは、単に知識が豊富なだけじゃなくて、それぞれの分野でいろいろなノウハウを持っているだろう? それをきちんとしたシステムに構築して、それさえ使えば素人でもプロの判断ができるようになるというふうに作りあげたものがエキスパートシステムだ。実用化されているものとしては、医療エキスパートシステムとか経営診断エキスパートシステムといったものがある」
そこまで説明してから、わかったか、と成田は山野に訊いた。
なんとなく、と山野は答えた。
「うちの会社でも、二、三年前から、そのシステムに注目していたんだ。というのは、うちの会社は急成長したせいもあって、ベテランと若手社員の年齢のギャップが大きいだろう? 当然、ベテランが定年になったりしたら、本当の意味のエキスパートがいなくなってしまうわけだよな。特に金属加工だとか、熱処理、化学処理といった生産技術の分野は、職人的な知識やノウハウが要求されるから、ベテランがいなくなると厳しいわけだ。そこで今のうちにエキスパートシステムを構築して、若い技術者ばかりになっても対応できるようにしておこうということなんだ」
「それが生産技術エキスパートシステムですか」
「そういうことだ。生産技術部とシステム開発部が共同で開発した。あれはもうワークステーションに組み込まれていて、利用可能なはずだったな」成田が、他の三人に顔を向けて訊いた。
「使えるはずです」と誠が答えた。「技術情報検索のパスワードを持っていることが条件ですけど」
技術情報には社外秘の内容が多く含まれているため、従業員でもパスワード取得には特別な申請が必要だった。誠たち特許部員たちは、特許情報を検索する必要性から、全員が取得済みだった。
「さてと、説明はここまでだ」成田は座り直し、声を低くした。「ここまでの話だったら俺たちにはあまり関係がない。というより殆ど無関係だ。生産技術エキスパートシステムは、社内でのみ使用されることを前提としている以上、特許とは基本的に無縁だからな」
「何かあったんですか」と別の社員が訊いた。
成田は小さく頷いた。
「つい今しがたシステム開発部の人間がやってきた。連中の話によると、現在いくつかの中堅メーカーの間に、あるコンピュータソフトが出回っているらしい。そのソフトというのは、金属加工エキスパートシステムと呼んでもいいような代物だそうだ」
彼の言葉に、後輩たちは顔を見合わせた。
「そのソフトに何か問題が?」と誠は訊いた。
成田は少し前に乗り出した。
「たまたまそれを手に入れる機会があったので、システム開発部と生産技術部とでその内容を検討した結果、うちの生産技術エキスパートシステムの金属加工に関する部分と極めてデータが似ているということがわかった」
「じゃあ、うちのシステムのプログラムが外部に漏れたということですか」誠より一つ上の先輩が訊いた。
「まだ断言はできないが、その可能性は否定できないだろうな」
「ソフトの出所は不明なのですか」と誠は訊いた。
「いや、わかっている。都内にあるソフト開発会社だ。そこが宣伝用に配ったらしい」
「宣伝用?」
「そのソフトは、いわばお試し版といった程度のもので、ごくかぎられた情報しか入っていない。それを使ってみて気に入ったら、本物の金属加工エキスパートシステムを買ってくれということだ」
なるほど、と誠は納得した。化粧品などの試供品と同じらしい。
「問題は」成田は続けていった。「万一、うちの生産技術エキスパートシステムの内容が外に漏れて、それに基づいてこういったものが作られているのだとしたら、それをどうやって証明するか、ということだ。さらに、証明できたなら、法的な手段で製造販売を中止させられるか、ということだ」
「それを我々が調べるというわけですね」
誠の質問に、成田は頷いた。
「コンピュータプログラムが著作権の対象になることは、すでに判例が出ている。ただし、その中身が盗用されたものであることを証明するのは、それほど簡単じゃない。小説の盗作と同じだ。どこまで似ていたら犯罪なのかという線引きが難しい。しかしまあ、何とかやってみよう」
「だけど」と山野が口を開いた。「もしうちのエキスパートシステムの内容が漏れたのだとしたら、どうしてそんなことになったんでしょうね。技術情報はすべて厳重に管理されているはずなのに」
すると成田はにやりと口元を緩めた。
「ひとつ面白い話をしてやろう。ある会社が新型のターボチャージャーを極秘開発した時のことだ。部品の一つ一つを作っていって、ようやく試作品第一号が完成した。その二時間後――」成田は山野のほうに顔を近づけた。「ライバル社のターボエンジン開発担当課長の机の上に、全く同じターボチャージャーが置いてあった」
えっ、といって山野はきょとんとした。
成田はにやにやした。「それが開発競争というものなんだよ」
「……そうなんですか」
依然として腑《ふ》に落ちない顔をしている後輩を見て、誠は苦笑した。かつて自分も同じ話を聞かされた経験があるからだった。
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この日、誠が成城にあるマンションに帰ったのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。例のエキスパートシステムに関する調査が始まったため、早速残業を強いられたのだ。
だが自宅のドアを開けた時、もう少し仕事をしてきてもよかったな、と彼は思った。室内が真っ暗だったからだ。
玄関、廊下、そしてリビングという順番に、彼は明かりのスイッチを押していった。四月とはいえ、一日中火の気のなかった部屋の床の冷たさは、スリッパを履いていても十分に伝わってくる。
誠は上着を脱ぎ、ソファに腰を下ろしてネクタイを緩めた。テーブルの上のテレビ用リモコンを手に取り、スイッチを押す。数秒後、三十二インチの大型画面に、潰れた列車車両が映し出された。もう何度も見た映像だった。先月起きた中国の上海《シャンハイ》郊外での列車正面衝突事故の様子だ。番組は、その後の経過を伝えているようだった。事故に遭った列車には、私立高知学芸高校の修学旅行一行百九十三人らが乗っていて、引率教師一名と生徒二十六人が死亡していた。
犠牲者の補償をめぐって日中間で交渉が続けられているが依然難航している、という意味のことを、番組のレポーターは話していた。
誠は野球中継を見ようと思ってチャンネルを変えたが、今日が月曜日だということを思い出し、スイッチを切った。すると、テレビをつける前よりも一層静寂が深くなったような気がした。彼は壁の時計を見た。結婚祝いに贈られた花柄の文字盤のついた時計は、八時二十分をさしていた。
誠は立ち上がり、ワイシャツのボタンを外しながらキッチンを覗いた。システムキッチンは奇麗に片づいていた。シンクの中に汚れた食器などは一つもなく、使い勝手がいいように並べられた調理器具は、すべて新品のように光を放っていた。
しかしこの時彼が知りたかったことは、キッチンの掃除が行き届いているかどうかではなく、今夜の夕食を妻がどうするつもりなのか、ということだった。外出前に夕食の支度を済ませておいたのか、それとも帰ってから始めるつもりなのかを知りたかった。キッチンを見たかぎりでは、今夜は後者のようだ。
彼はまた時計を見た。先程から二分だけ長針が動いていた。
彼はリビングボードの引き出しからボールペンを取り出すと、壁に貼ったカレンダーの今日の日付に大きく×印をつけた。自分のほうが先に帰宅したということを示す印だ。今月から付け始めた。だがこの印の意味を妻には話していない。何かの機会に話そうと思っていた。
こういう行為は陰険だと自覚していたが、何らかの形で今の状況を客観的に記録しておく必要があると彼は考えていた。
×印は、すでに十個を越えていた。まだ月半ばだというのに、である。
やはり仕事することを認めたのは失敗だったかな、と何度目かの後悔を誠はする。同時に、そんなふうに考えることについて、度量の小さい男だと自己嫌悪も感じた。
雪穂と結婚して、二年半が過ぎていた。
彼女は誠が思ったとおり、妻として完璧な女だった。何をやらせても手際がよく、しかも出来映えも申し分なかった。特に料理の腕前の素晴らしさに彼は感激した。フレンチでもイタリアンでも、そして和食でも、プロの料理人かと思うほどの品を作り上げるのだ。
「こんなことはいいたくないが、おまえは本当に今世紀最高のラッキー男だよ。あれだけの美人を嫁さんにした以上は、美人ってことだけで満足してなきゃいけないはずなんだ。ところがこんなに料理上手ときてる。全く、おまえと同じ世界に生きていると思うと、ほとほと自分がいやになるね」こういったのは、結婚後にここに招いた友人グループの一人だ。他の者も、大いに同感といった様子で、妬《ねた》みの台詞を連発した。
無論誠も、彼女の料理を褒《ほ》めた。結婚当時は、殆ど毎日褒めていたといってもいい。
「母が、一流といわれる店に、しょっちゅうあたしを連れていってくれたの。若いうちにおいしいものを食べておかないと、本当の味覚は備わらないといってね。値段が高いだけで少しもおいしくない店に喜んで行ったりするのは、子供の頃においしいものを食べてない証拠ですって。おかげであたし、舌に関しては少しだけ自信があるの。でもあなたに喜んでもらえて、本当にうれしい」
誠の言葉に対して、雪穂はこんなふうにいって喜んだ。少し恥ずかしそうにする様子に、彼はいつも抱きしめたくなる衝動に駆られた。
しかし彼女の手料理に舌鼓《したつづみ》を打っていればいいだけの生活は、二か月ほどで終わった。そのきっかけとなったのは、彼女のこの一言だった。
「ねえあなた、株を買ってもいい?」
「カブ?」
この時、誠の頭に株という文字が浮かばなかったのは、それまでの雪穂の日常と、あまりにかけ離れた世界の話だったからだ。
株式のことをいっているのだとわかった時には、驚くというよりも戸惑ってしまった。
「君、株のことなんかわかるのかい?」
「わかるわよ。だって、勉強したもの」
「勉強?」
雪穂は何冊かの本を、本棚から取り出した。いずれも株式売買の入門書や解説書だった。日頃あまり本を読まない誠は、リビングルームに置かれたアンティーク調の書架に、そういう本が並んでいることに全く気づかなかった。
「どうして株をやりたいんだ?」誠は質問の方向を変えた。
「だって、家にいて家事をしているだけじゃ、時間が余って仕方がないんだもの。それに今、株はとてもいいのよ。たぶんこれからもっとよくなる。銀行なんかに預けておくより、ずっと有利なんだから」
「でも、損することだってあるんだぜ」
「それは仕方ないわよ。ゲームだもの」雪穂は爽やかに笑った。
この「ゲームだもの」という台詞で、誠は初めて雪穂に対して不快なものを感じた。何かが裏切られたような気がした。
さらに次の彼女の言葉で、それは一層くっきりとしたものになった。
「大丈夫、絶対に損しない自信がある。それに、あたしのお金を使うだけだから」
「君のお金って……」
「あたしだって、少しは蓄えがあるわよ」
「そりゃあ、あるだろうけどさ……」
あたしのお金、という考え方に、彼は抵抗を覚えていた。夫婦なんだから、どちらの金でもいいじゃないかと思っていた。
「やっぱり、だめ?」雪穂は夫を上目遣いに見た。誠が黙っていると、小さく吐息をついた。
「そうよね、やっぱりだめよね。まだあたし、主婦としても半人前だし、ほかのことに目を奪われてる場合じゃないわよね。ごめんなさい。もういいません」そして肩を落とし、株式関係の参考書を片づけ始めた。
その細い背中を見ていると、誠は自分がどうしようもなく心の狭い男に思えてきた。彼女がこれまでに無理な頼み事をしたことは一度もない。
「条件がある」雪穂の後ろ姿に向かって彼はいった。「深みにはまらないこと、借金だけは絶対にしないこと。これを守れるかい?」
雪穂が振り向いた。その目は輝いていた。「いいの?」
「約束、守れるな?」
「絶対に守る。ありがとう」雪穂は彼の首に抱きついてきた。
しかし誠は彼女の細い腰に両手を回しながら、何となくいやな予感を抱いていた。
結論からいうならば、雪穂は彼との約束を守り続けた。彼女は株によって、順調に資産を増やし続けたのだ。彼女の最初の資金がいくらであったのか、そしてどの程度の売買を行っているのか、誠は全く知らない。だが証券会社の担当者からかかってくる電話での受け答えを聞いていると、彼女が一千万以上の金を動かしているのは確実のようだった。
当然彼女の生活は、株式を中心に動くものとなった。状況を常に詳しく把握しておかねばならないから、一日に二度は証券会社に足を運ぶ。いつ担当者から連絡が入るかわからないから、めったに外出はしない。やむをえず外に出た時でも、一時間ごとに電話を入れる。新聞は最低六紙読む。そのうちの二紙は経済新聞と工業新聞だった。
「いい加減にしろよ」ある日、誠は思い余っていった。雪穂が証券会社からの電話を切った直後だった。その電話は、朝から鳴り続けていたのだ。いつもは誠は会社にいるので気にならないが、この日は会社の創業記念日だった。「せっかくの休みが台無しだ。株の売買に追われて、夫婦で外出もできないじゃないか。まともな生活もできないんなら、そんなものやめちまえ」
大声を出したのは、交際期間を含めても初めてのことだった。結婚式を挙げてから八か月が経っていた。
驚いたのか、それともショックだったのか、雪穂は茫然とした様子で立ち尽くしていた。青ざめた顔を見て、誠はすぐにかわいそうになった。
しかし彼が詫《わ》びの言葉をいう前に、「ごめんなさい」と彼女は呟いていた。
「あたし、あなたのことをないがしろにする気なんて、全然なかったの。それだけは信じてね。でも、ちょっとばかりうまくいってるからって、調子に乗りすぎてたみたい。ごめんなさい。こんなんじゃ、妻失格よね」
「いや、そういうことをいいたいわけじゃない」
「いいの。わかってる」そういうと雪穂は受話器を取り上げた。彼女がかけた先は証券会社だった。彼女はその場で、すべての株を処分するよう担当者に命じた。
電話を切った後、彼女は誠のほうを振り返った。「投資信託だけは、すぐにはどうにもできないの。でもこれで許して……」
「いいのか?」
「いいのよ。こうしたほうがすっきりするから。あなたに迷惑をかけてきたと思うと、あたし、申し訳なくって……」
雪穂はカーペットの上に正座し、俯《うつむ》いた。その肩が細かく震えていた。彼女の手の甲に、涙がぽたりと落ちた。
「もうこの話はやめようぜ」誠は彼女の肩に手を置いた。
その翌日から、株に関する資料は、完全に部屋から消えた。雪穂も株のことは口にしなくなった。
だが彼女は明らかに元気をなくしていた。手持ち無沙汰そうでもあった。外出しないから化粧もしなくなり、美容院にもあまりいかなくなった。
「あたし、何だかブスになっちゃったみたい」時折鏡を見ながら、彼女は力無く笑った。
カルチャースクールにでも通ったらどうだ、といってみたこともある。しかし彼女は、習い事にはあまり関心がないようだった。茶道に華道、そして英会話を子供の頃から習ってきたらしいから、その反動かもしれないなと誠は想像していた。
子供を作るのが一番いいということはわかっていた。子育ては、雪穂が持て余している時間をすべて奪うに違いないからだ。ところが子供はできなかった。避妊していたのは結婚後半年間だけだったが、それ以後も雪穂が妊娠する気配は全くなかった。
誠の母の頼子は、子供は若いうちに作ったほうがいいという考えなので、息子夫婦がいつまでも二人きりでいるのを不満に思っているようだった。避妊してないのにできないのなら、一度病院に行ったほうがいいという意味のことを、機会あるごとに誠にいう。
じつは彼にも、病院に行って調べてもらいたいという気持ちはあった。事実それを雪穂に提案したこともある。だがその時彼女は、珍しく強硬にそれを拒んだ。理由を問うと、少し目を赤くしながらこういった。
「だって、もしかしたらあの時の手術が原因で出来ないのかもしれないでしょ。そうだとしたら、あたし、悲しくて生きていけない」
あの時の手術とは、中絶のことをいっているのだ。
「だから、それをはっきりさせたほうがいいんじゃないか。治療すれば治るかもしれないわけだし」
誠がこういっても、彼女はかぶりを振り続けた。
「不妊治療なんて、現実にはあまりうまくいってないのよ。出来ないってことを、はっきりなんかさせたくない。それに、もし出来ないなら、それでもいいじゃない。それとも誠さん、子供が産めないような女とは一緒にいたくない?」
「いや、そんなことはないよ。子供なんか、どうだっていいんだ。わかった、もうこの話はしない」
子供ができないことについて女性を責めることがどれほど残酷なことであるかは、誠もわかっているつもりだった。実際、このやりとりがあって以来、彼のほうから子供の話を出すことは殆どなくなった。そして母の頼子には、病院に行って検査は受けた、双方とも異常はないと診断された、と嘘の説明をしておいた。
しかし時折、雪穂が独り言のように呟《つぶや》くことがあった。なぜあたしたちには子供ができないのかしら、と。そしてその呟きの後には、必ずといっていいほど次の台詞が続いた。「やっぱり、あの時堕ろさなければよかったのかな……」
誠としては、黙って聞いているしかなかった。
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玄関の鍵が外される音がした。ソファに横になり、ぼんやりしていた誠は、身体を起こした。壁の時計は九時ちょうどを示していた。
廊下を歩く足音がして、ドアが勢いよく開けられた。
「ごめんなさい、すっかり遅くなっちゃった」
モスグリーンのスーツを着た雪穂が入ってきた。両手に荷物を持っている。右手には紙袋が二つ、そして左手にはスーパーの袋が二つだ。おまけに黒のショルダーバッグを肩から提げていた。
「おなかすいたでしょ? 今すぐに支度するから」
スーパーの袋をキッチンの床に置き、彼女は寝室に入っていった。彼女が通った後には、香水の甘い匂いが残っていた。
数分後に部屋から出てきた彼女は普段着に着替えていた。手にエプロンを持っている。それをつけながらキッチンに入った。
「すぐに食べられるものを買ってきたから、そんなに待たなくてもいいわよ。スープの缶詰もあるし」やや息を弾ませた声が、キッチンの中から聞こえてきた。
新聞を読みかけていた誠だったが、不意に不快感がこみあげてきた。何が気に障ったのか、自分でもよくわからない。強いていえば、彼女の元気そうな声、ということになるだろうか。
誠は新聞を置き、立ち上がっていた。支度を始める音がするキッチンに向かっていった。「結局、出来合いのものを食べさせるわけか」
「えっ、なに?」雪穂が大声を出した。換気扇の音が邪魔で、彼の声が聞こえなかったらしい。そのことが一層彼を苛立《いらだ》たせた。
誠はキッチンの入り口に立った。ガスレンジで湯を沸かそうとしていた雪穂が、彼を見て不思議そうに顔を傾けた。
「これだけ待たせて、結局手抜き料理なのかっていってるんだよ」
あっ、という形で彼女の口は開けられた。それから換気扇のスイッチを切った。たちまち空気の流れが止まり、室内全体が静かになった。
「ごめんなさい、気に入らなかった?」
「たまになら、文句なんかいわない」誠はいった。「だけど、このところ毎晩じゃないか。毎晩遅くなって、挙げ句の果てに出来合いの料理を出す。その繰り返しじゃないか」
「ごめんなさい、だけど、あなたを待たせちゃ悪いと思って……」
「待ったさ。飽き飽きするぐらいね。インスタントラーメンでも食おうかと思っていたところさ。だけど結局出来合いの惣菜を食べさせられるわけだから、大した違いはなかったということだ」
「すみません。あの……言い訳にはならないと思うけど、本当にこのところ忙しくて……迷惑かけて、悪いと思ってる」
「商売繁盛で結構なことだね」自分の口元が醜く歪むのを、誠は自覚した。
「そんな言い方しないで。ごめんなさい。これから気をつけます」雪穂はエプロンの上に手を置き、頭を下げた。
「何度も聞いたよ、その台詞」ポケットに両手を突っ込み、誠は吐き捨てた。
雪穂はうなだれたまま黙っている。反論のしようがないからだろう。だが最近誠は、こういう時にふと感じることがある。こんなふうに俯いて、嵐が過ぎ去るのをただじっと待っていればいいと思っているのではないか、と。
「もう、やめたらどうだ」誠はいった。「やっぱり無理なんだよ、主婦業との両立なんて。君だって、大変だろう」
雪穂は何もいわない。この件について議論するのを避けているのだ。
彼女の肩が小刻みに震え始めた。彼女はエプロンの裾を両手で掴み、目を押さえた。その手の間から嗚咽《おえつ》が漏れた。
ごめんなさい、と彼女はもう一度いった。「だめよね、あたし。本当に情けない。あなたに迷惑ばかりかけて……。好きなことをやらせてもらっているのに、全然お返しができない。だめよね、だめな人間だよね。誠さん、あたしなんかと結婚しなけりゃよかったかもしれないね」涙で声を途切れさせ、時にしゃくりあげた。
ここまで反省の弁を並べられると、誠としては、これ以上責められなくなる。むしろ、些細《ささい》なことで怒りを露《あらわ》にする自分のほうが了見が狭いのかと思ってしまう。
「もういいよ」結局、彼はここで矛をおさめることになった。雪穂が何ひとついい返してこないから、喧嘩《けんか》にならないのだ。
誠はソファに戻り、新聞を広げた。その彼に雪穂が声をかけてきた。「あの……」
「何だ?」彼は振り返って訊いた。
「今夜の夕食は……どうする? 何か作るとしても、材料がないんだけれど」
「ああ……」誠は全身に鈍い疲労感を覚えた。「今夜はいいよ。買ってきたものを食べればいい」
「いいの?」
「だって仕方がないんだろ?」
「ごめんなさい。今すぐ支度しますから」雪穂はキッチンに消えた。
換気扇が再び回り始める告を聞きながら、誠は釈然としないものを感じていた。
仕事をしてもいいか、と雪穂が突然いいだしたのは、結婚一周年を一か月後に控えたある日のことだった。全く予想していなかった話なので、誠は少なからず面食らった。
彼女によると、アパレル業界にいた友人が独立して店を開くことになったのだが、その店の共同経営者にならないかと雪穂に持ちかけてきたらしい。店とは、輸入服を扱う店だった。
やりたいのかと誠が訊くと、やってみたい、と雪穂は答えた。
株をやめて以来、すっかり輝きを失っていた彼女の目が、久しぶりにきらきらと光を放っていた。それを見ていると、だめだとはいえなくなった。
無理しないように、とだけいって、誠は許可した。雪穂は胸の前で指を組み、様々な言葉を使って喜びを表現した。
彼女たちが始めた店は南青山にあった。誠も何度か行ったことがあるが、店の壁全体をガラス張りにした、華やかな感じのする店だった。通りから、たくさんの輸入婦人服や雑貨が眺められるのだ。後に誠が知ったことだが、この店のリフォームの費用は、すべて雪穂が出したものだった。
雪穂の相棒は田村紀子という女性だった。顔も身体も丸く、どこか庶民的な雰囲気を持っていた。その外観から想像できるとおり、こまめに動くことを苦にしないタイプのようだった。見ていると、客の相手は雪穂の仕事、洋服を出したり勘定を計算したりという作業は田村紀子の仕事という具合に、役割分担がなされているらしかった。
店は完全予約制をとっていた。つまり客は自分が行く日を、予《あらかじ》め連絡しておくのだ。そうすれば雪穂たちは、その客のサイズや好みに合わせて商品を揃えておくことができる。無駄に商品スペースをとらなくてもいい、合理的な手法といえた。
問題は彼女たちがどれだけの人脈を持っているかということにかかっていたが、開業以来、客足が途絶えるということはないようだった。
店の経営に夢中になり、家のことがおろそかになるのではないかと誠は少し心配していたが、この時点ではまだそういうことはなかった。たぶん雪穂としても、そんなふうに思われることを一番おそれたのだろう。店を始めてからは、それまでよりも一層家事に力を入れるようになった。料理で手抜きをすることなど全くなかったし、誠よりも遅く帰るということも、その頃はなかった。
店を始めて二か月ほどが経った頃のことだ。またしても雪穂が思わぬことをいいだした。今度は誠に、店のオーナーになってくれないかというのだった。
「オーナー? 僕が? どうして?」
「大家さんが、相続税を払うために、至急お金が必要になっちゃったらしいの。それで、あたしたちに買わないかっていってこられたのよ」
「買いたいのかい」
「というより、絶対に買ったほうが得だと思う。あの場所なら、これから値下がりすることは絶対にないもの。今いってくれている値段は、破格といってもいいのよ」
「もし僕が買わないといったら?」
「その時は仕方がないわね」雪穂は吐息をついた。「あたしが買います」
「君が?」
「あの場所なら、銀行もお金を貸してくれると思うもの」
「借金するわけか」
「そうよ」
「そんなに欲しいのか」
「それもあるけど、買わないとまずいことになるような気がする。うちが買わない以上、大家さんはたぶんどこかの業者に話を持っていくと思うのよね。そうなると下手をしたら、立ち退きを迫られるかもしれない」
「立ち退き?」
「あたしたちを立ち退かせて、更地にしてもっと高い値段で売るわけよ」
誠は小さく唸《うな》り、考え込んだ。
買えないわけではなかった。高宮家では、成城に土地をいくつか持っている。すべて将来誠が受け継ぐものだ。あれを処分すれば済む話だった。話をうまく持っていけば、母の頼子も反対はしないだろう。今持っている土地は、実質上は殆ど使っていない状態なのだ。
雪穂が借金を抱えるというのは賛成できなかった。そうなると彼女の全神経が仕事に奪われそうに思えたからだ。また、彼女が彼女名義の店を持つという状況にも、何か割り切れないものを感じるのだった。
二、三日考えさせてくれ、と誠は雪穂にいった。だがこの時点で、ほぼ気持ちは固まっていたといえるだろう。
一九八七年になって間もなく、南青山の店は誠のものになった。そして雪穂たちの稼ぎの中から彼の口座に、賃料が振り込まれるようになった。
それから少しして、雪穂の考えの正しかったことを誠は思い知った。
東京都心部のオフィスビル需要の高まりから、法外な価格による地上げが横行し、その結果、短期間で二倍増、三倍増は当たり前という異常な地価暴騰が起きたのだ。誠のところにも、南青山の店と土地を売らないかという話がひっきりなしに来るが、その言い値を聞くたびに、これは本当に現実の話なのかと思ってしまうのだった。
雪穂に対して、淡い劣等感のようなものを抱き始めたのも、ちょうどこの頃からだった。生活力、経営力、さらに大胆さといった点において、自分はこの女にとてもかなわないのではないかと思うようになった。彼女が仕事の面で、どれほどの成果を上げているのか、彼は正確には知らない。しかし順調に業績を伸ばしていることは確実だった。現在彼女は、二軒目の店を代官山にオープンする計画を立てている。
それに比べて自分はどうだ、と誠は思い、憂鬱になる。自分で何かを始める勇気など、まるでない。人に使われているほうが性に合っているとかいって、会社にしがみついているだけだ。せっかく受け継いだ土地を有効に活用することもできず、親からあてがわれたマンションに住んでいる。
さらに彼を情けない気持ちにさせていることがある。それは昨今の株ブームだ。昨年二月にNTT株が売り出され、それが異常に高騰したことに引っ張られるように、平均株価が上昇を始めた。世間では、金があるなら株をやらない手はない、とまでいわれている。
ところが高宮家に関しては株とは無縁だ。理由は無論、以前それで雪穂を非難したことにある。彼女もあれ以来、株の話はしない。だがこの空前の株ブームを、彼女がどういう思いで眺めているのかを想像すると、誠としては何とも居心地の悪い気がするのだった。
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この夜、寝る前に、雪穂が意外なことをいいだした。
「ゴルフ教室?」セミダブルのベッドの中から、ドレッサーに映る妻の顔を見ながら誠は訊いた。新婚時から、ベッドは別々だった。ただし雪穂のほうはシングルである。
「そう。土曜日の夕方なら、一緒に行けるんじゃないかと思って」雪穂は一枚のパンフレットを誠の前に置いた。
「ふうん、NGF認定ゴルフスクール……か。前からゴルフをやってみたいと思っていたのかい」
「少しね。だって今、女の人でもやる人が増えているでしょ。ゴルフなら、年をとってからでも夫婦で出来るし」
「年をとってから……ねえ。そんな先のことは考えたことがなかったな」
「ねえ、始めましょうよ。一緒に行ったら楽しいじゃない」
「そうだな」
誠は、死んだ父がゴルフ好きだったのを覚えている。休みのたびに、大きなキャディバッグを車のトランクに積んで出かけていくのだ。その時の父の顔は、ふだんと比べてずっと生き生きとしていた。婿養子ということで、家の中では萎縮《いしゅく》していたのかもしれない。
「次の土曜日に説明会があるそうよ。とりあえず行ってみない?」肌の手入れを終えた雪穂が、自分のベッドに入りながらいった。
「いいよ、行ってみよう」
「よかった」
「それはともかく、こっちに来ないか」
「あ、はい」雪穂は自分のベッドから抜け出て、するりと誠のほうに滑り込んできた。
誠は枕元のスイッチを操作し、明かりの光量を絞った。それから彼女のほうに身体を寄せ、白いネグリジェの胸元に手を入れた。彼女の乳房は柔らかく、見た目よりもずっと量感があった。
今日こそ大丈夫だろうな、と彼は思った。じつはこのところ、ある理由から、うまくいかないことが多かったのだ。
しばらく乳房を揉んだり、乳首を吸ったりした後、彼はゆっくりとネグリジェをたくし上げ、雪穂の頭から抜いた。そして自分もパジャマを脱ぎ始めた。彼のペニスは、もう十分に勃起《ぼっき》していた。
全裸になってから、改めて雪穂の身体を抱いた。弾力のある身体だった。腰のあたりを撫でると、彼女は少しくすぐったそうにした。抱いたまま、首筋に口づけしたり、乳首を噛《か》んだりした。
誠は彼女の下着に手を伸ばした。それを膝《ひざ》の下まで下げると、後は足を使って一気に脱がせた。いつもの手順だった。