それから彼は、ある期待を持って彼女の茂みに手を当て、ゆっくりと中指をその下にもぐりこませていった。
軽い失望が、彼の胸に広がった。彼のペニスを受け入れてくれるべき部分が、全く濡れていなかった。彼はクリトリスを愛撫《あいぶ》することにした。だがどんなに優しく指先を動かしても、潤滑液は殆ど分泌されなかった。
誠としては、自分のやり方に問題があるとは思えなかった。少し前までは、これで十分に潤いが生じていたのだ。
やむなく彼は膣口に中指を入れてみようとした。しかしそこは固く閉ざされていた。それでも無理にこじ入れようとしたところ、「痛っ」と雪穂が漏らした。顔をしかめているのが、薄闇の中でもわかった。
「ごめん、痛かったかい」
「大丈夫。気にしないで入れちゃって」
「だけど、指でもこんなに痛がってるのに」
「平気。我慢するから。ゆっくり入れるとかえって痛いから、一気に入れて」雪穂は先程までよりも心持ち足を大きく開いた。
誠は彼女の足の間に身体を入れた。それから自分のペニスを持ち、先端を彼女の膣口に添えると、腰を前に突き出した。
あっ、と雪穂が声を出した。歯を食いしばっているのが見えた。誠は、それほど強引なことをしているつもりはないので、戸惑うしかなかった。まだ先端さえも入っていないのだ。
しばらくそんなことを繰り返しているうちに、雪穂が妙な唸り声をあげ始めた。
「どうしたんだ」と誠は訊いた。
「おなかが……痛くなってきちゃった」
「おなかって?」
「だから、子宮のあたり……」
「またか」誠はため息をついた。
「ごめんなさい。でも大丈夫、すぐによくなるから」
「いいよ、もう。今夜はやめよう」誠はベッドの下に落ちていたパンツを拾うと、穿き始めた。さらにパジャマを着ながら、「今夜は」じゃなくて、「今夜も」だなと考えていた。このところ、いつもこうなのだ。
雪穂も下着を身に着けた。そしてネグリジェを持って、自分のベッドに入った。
「ごめんね」と彼女はいった。「あたし、どうしちゃったのかな」
「やっぱり、医者に診てもらったほうがいいんじゃないか」
「うん、そうしてみる。ただ……」
「なんだ?」
「子供を堕ろしたら、こんなふうになることもあるって聞いたわ」
「濡れなくなったり、子宮が痛くなったりするのか」
「うん」
「僕は聞いたことがないな」
「あなたは男だから……」
「それは、まあね」
あまりいい方向に話題が進みそうになかったので、誠は彼女と反対側に身体を向け、布団をかぶった。ペニスはすでに萎《な》えていたが、性欲は消えていなかった。セックスができないなら、せめて口や手を使って愛情を表現してほしかったが、雪穂は決してそういうことをしない女だった。誠としても、要求はしにくかった。
やがてすすり泣きが聞こえてきた。
誠は、彼女を慰めるのも何だか面倒になり、布団の下に顔を沈め、聞こえないふりをした。
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イーグルゴルフ練習場は、四角く区画分けされた住宅地の真ん中に造られていた。『全長二百ヤード 最新式ボール供給マシン完備』という看板が出ている。緑色のネットの内側では、白く小さなボールがひっきりなしに飛び交っていた。
誠たちのマンションからだと、車で二十分ほどのところだった。四時過ぎに自宅を出た二人は、四時半には到着していた。教室の説明会は五時からだとパンフレットには書いてある。
「やっぱり早すぎた。だから、もっとゆっくり出ればいいといったんだ」BMWのハンドルを操作しながら誠はいった。
「渋滞するかもしれないと思ったのよ。でも、人が打っているのを見ていればいいじゃない。参考になるかもしれないし」助手席の雪穂が答える。
「素人が練習しているところなんか、いくら見ても同じだと思うけどね」
ゴルフブームに加えて、土曜日ということもあり、かなり客が入っているようだった。駐車場がほぼ満車の状態なのを見ても、それはわかった。
何とか空きスペースを見つけて車を止めると、二人は車から降りて、入り口に向かった。途中、電話ボックスがあった。その手前で雪穂は立ち止まった。
「ごめんなさい、一件だけ電話してもいいかしら」そういって彼女はバッグから手帳を取り出した。
「じゃあ、先に中を覗いているよ」
「そうして」といった時には、彼女はもう受話器を取り上げていた。
ゴルフ練習場の玄関は、ファミリーレストランのように明るく派手なものだった。ガラスの自動ドアをくぐり、誠は建物の中に入った。グレーのカーペットが敷かれたロビーには、手持ち無沙汰そうにしている客が何人もいた。入ってすぐ左にカウンターがあり、カラフルな制服を着た若い女性従業員二人が客の応対をしている。
「申し訳ありませんが、ここにお名前を書いていただけますか。空きましたら、順番にお呼びいたしますから」一方の従業員がしゃべっている。相手は、スポーツとはあまり縁がなさそうな太った中年男だった。傍らに、黒いキャディバッグを置いていた。
「なんだ、かなり混んでるの?」中年男が不機嫌そうに尋ねる。
「そうですねえ、二、三十分ほどお待ちいただいておりますが」
「ふうん、仕方ないなあ」不承不承といった感じで男は名前を書き始めた。
どうやらロビーで退屈そうにしている連中は、順番待ちをしているようだ。ゴルフブームというのは本当らしいと誠は再認識した。接待と無縁なせいか、彼の職場にはゴルフをする人間はあまりいない。
誠はカウンターに近づき、スクールの説明会に出たいのだがといった。女性従業員の一人が、「アナウンスいたしますから、ここでお待ちになっていてください」と笑顔で答えた。
その時雪穂が入ってきた。誠を見つけるとすぐに駆け寄ってきたが、その顔つきは先程までと少し違っていた。
「ごめんなさい、まずいことになっちゃった」
「どうしたんだ」
「お店でトラブルがあったようなのよ。あたしが行かないとまずいみたい」雪穂は唇を噛んだ。
彼女の店は日曜日は休業だが、土曜日は田村紀子とアルバイトの女性とで営業しているのだ。
「今すぐにか」誠は訊いた。声が露骨に不機嫌なものに変わってしまった。
うん、と雪穂は頷いた。
「じゃあどうするんだ、ゴルフスクールのほうは。説明会には出ないのか」
「悪いけど、あなた一人で出てくれない? あたしはここから、タクシーで店に行きますから」
「僕一人でか」誠はため息をついた。「仕方がないな」
「ごめんなさい」雪穂は顔の前で手を合わせた。「説明会を聞いていて、つまらなかったらすぐに帰ってもいいから」
「もちろんそうするさ」
「本当にごめんなさい。じゃあ、あたし、行きますから」雪穂は小走りに玄関から出ていった。
彼女の後ろ姿を見送ってから、誠はもう一度小さくため息をついた。怒りがこみあげてくるのを、何とか抑えようとした。その怒りを増殖させると結局自分が惨めになるだけだと理解していたからだ。そういう経験を、これまで何度繰り返してきたことか。
誠はロビーの一画に作られたゴルフショップを覗くことにした。店内には、ゴルフクラブや備品、アクセサリーといったものが並べられていた。それらを眺めているだけでは、ゴルフに対する興味は深まってこなかった。じつは誠は、ゴルフについては殆ど何も知らなかった。基本的なルールと、一般ゴルファーの当面の目的が百を切ることだというのを辛うじて知っているだけだ。しかしその百というスコアが、どれほどのものなのかは、全く想像できなかった。
視線を感じたのは、アイアンのセットを見ている時だった。すぐそばにパンツルックの女性の足元があった。その女性は、誠のほうを向いて立ち止まっているように見えた。
彼はちらりと視線を上げた。その女性と目が合った。
あっと彼が声を発するまでに、一、二秒の空白があった。相手の女性が誰であるかを認識し、その女性がこんなところにいるはずがないと思い直し、やはり彼女に違いないと決定するまでの時間だった。
そこに立っていたのは、三沢千都留だった。髪を切り、少し雰囲気が変わっていたが、間違いなかった。
「三沢さん……どうしてこんなところに?」誠は訊いた。
「ゴルフの、練習に……」千都留は手に持っていたクラブケースを見せた。
「ああ、そりゃそうだよね」誠は痒《かゆ》くもないのに、頬を掻いた。
「高宮さんも、ですよね。当然……」
「あ、うん、まあね」彼女が自分の名前を覚えていてくれたことを、誠は内心喜んでいた。
「一人?」
「ええ。高宮さんは?」
「一人だよ。ええと、座ろうか」
順番待ちをしている客によってロビーの椅子は殆ど塞《ふさ》がっていたが、壁際に都合よく二つ並んで空席があった。二人はそこに腰を下ろした。
「驚いたなあ、こんなところで会えるなんて」
「そうですね。あたしも一瞬、人違いかと思っちゃいました」
「今、どこにいるの?」
「下北沢《しもきたざわ》です。仕事先は、新宿にある建築会社なんですけど」
「やっぱり派遣社員として行ってるわけ?」
「そうです」
「うちの会社との契約が切れた後は、札幌の実家に帰るようなことをいってたと思うんだけど」
「よく覚えてるんですね」千都留は微笑んだ。健康そうな白い歯が覗いた。なるほど短い髪のほうがよく似合う、と誠に思わせるような笑顔だった。
「札幌には帰らなかったの?」
「一旦帰りました。でも、すぐに戻ってきちゃったんです」
「そうだったのか」誠はいいながら腕時計を見た。四時五十分になっていた。五時になれば説明会が始まる。軽い焦りを覚えた。
二年数か月前の、あの日のことが脳裏に蘇《よみがえ》った。雪穂との結婚式を翌日に控えた、あの夜だ。誠は、あるホテルのロビーにいた。そこに千都留が現れるはずだった。
彼は彼女に恋をしていた。すべてを犠牲にしてでも、自分の気持ちを打ち明けたいと思い詰めていた。三沢千都留こそ、運命の糸で結ばれた女性だと、あの瞬間は信じていた。
だが千都留は現れなかった。理由はわからない。誠にわかったのは、彼女とは結ばれる運命になかったのだ、ということだけだった。
誠はこうして再会してみて、あの時の炎が完全には消えていなかったことを自覚した。千都留のそばにいるだけで、心が浮き立つのだ。久しく抱いたことのない、甘美な高揚感だった。
「高宮さんは、今どちらに?」千都留のほうから尋ねてきた。
「僕は成城なんだ」
「成城……そういえば、前にそんなふうにおっしゃってましたよね」何かを思い出す目をして彼女はいった。「もうあれから二年半……ですよね。お子さんは?」
「いや、まだなんだ」
「作らないんですか」
「作らないというか、できないというか……」誠は苦笑して見せた。
「あ、そうなんですか」千都留は戸惑ったような顔をした。気の毒そうにすべきかどうか、迷ったのだろう。
「三沢さんは結婚したの?」
「いえ、まだ一人です」
「ふうん。予定はある……とか?」彼女の表情を窺いながら誠は訊いた。
千都留は笑ってかぶりを振った。「相手がいませんから」
「へえ、そうなのか」
自分の中に安堵する気持ちがあることを、誠は自覚していた。しかし一方で、彼女が独身だからどうだというのだと、もう一人の自分が問いかけていた。
「ここにはよく来るの?」と彼は訊いた。
「週に一度は来ます。ここのスクールに通っているんです」
「えっ、ゴルフスクールに?」
「はい」千都留は頷いた。
彼女によれば、二か月前から通い始めたということだった。毎週土曜日午後五時からの初心者コースらしい。つまり、誠たちがこれから受講しようと思っているものだ。
自分もそのコースの説明会を聞きに来たのだと誠はいった。
「そうだったんですか。ここは二か月ごとに受講生を募集しますものね。じゃあ、これから毎週お会いできるわけですね」
「そうなるね」と誠は答えた。
だが彼は、この偶然に関しては、複雑な思いで受けとめていた。ここへは雪穂も一緒に来るからだ。彼は、自分の妻を千都留には会わせたくなかった。また、妻も一緒にスクールに通うつもりなのだ、ともいえなかった。
この時、場内にアナウンスが流れた。ゴルフスクールの説明会に参加する人はカウンター前に集まってください、というものだった。
「じゃあ、あたしはスクールのほうに行きますから」クラブケースを持って、千都留は立ち上がった。
「あとで見学に行くよ」
「ええー、いやですよ、恥ずかしい」鼻の上に皺を寄せ、彼女は笑っていった。
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誠がマンションに帰ると、玄関に雪穂の靴があった。奥からは何かを炒めるような音が聞こえてくる。
彼はリビングルームに入っていった。キッチンの中には、エプロンをつけて料理をしている雪穂の姿があった。
「お帰りなさい。ずいぶん遅かったのね」フライパンを動かしながら、大声で彼女はいった。時刻は八時半を回っている。
「君は何時頃帰ってきたんだ」キッチンの入り口に立って誠は訊いた。
「一時間ぐらい前。夕食の支度をしなきゃと思って、急いで帰ってきたのよ」
「そうだったのか」
「もうすぐできるから、そこで待ってて」
「あのさあ」手際よくサラダを作っていく雪穂の横顔に彼はいった。「今日、向こうで昔の知り合いに会ったんだ」
「あら、そう。あたしの知らない人?」
「まあね」
「ふうん。それで?」
「久しぶりだったんで、食事でも一緒にどうかってことになって、近くのレストランで軽く済ませてきちゃったんだ」
雪穂の手が止まった。その手を首筋のあたりにもっていった。「そうなの……」
「君はどうせ遅くなると思ってさ。何だか厄介なことが店であったみたいだから」
「それはすぐに片づいたんだけど」雪穂は首筋を擦《さす》った。そして力のない笑みを浮かべた。「そうよねえ、あたしのことなんか、あてにできないものねえ」
「ごめん、何とかして連絡すればよかったな」
「気にしないで。じゃあ、一応作っちゃうから、もしおなかがすいたら食べて」
「そうするよ」
「それで、どうだった。ゴルフスクールのほうは」
ああ、と誠はとりあえず曖昧に頷いた。
「まあ、別にどうってことないよ。カリキュラムってものがあって、それに沿ってきちんと教えますっていうだけのことだ」
「気に入った?」
「うーん、そうだなあ」
どう説明すればいいだろう、と誠は考えた。三沢千都留があのスクールに通っている以上、雪穂を連れて行きたくはなかった。やむなく彼は、スクールに入るのは断念する決心をしていた。問題は、雪穂をどうやって説得するかだ。
「あのねえ」彼が言葉を探していると、雪穂のほうが口を開いた。「あたしがいいだして、今さらこんなことをいうのはとても申し訳ないんだけど、ちょっとまずい状態なの」
「えっ?」誠は彼女の顔を見返した。「まずいって、どういうこと?」
「今度新しく二号店をオープンするでしょ? それで、店員を募集しているんだけど、なかなかいい人が見つからなくて困ってるの。最近はほら、企業の就職も完璧な売り手市場だっていうじゃない。うちみたいなところには、なかなか来てくれないのよね」
「それで?」
「今日紀子さんと相談したんだけど、これからはあたしも、出来るだけ土曜日も出るしかないみたいなの。毎週でなくてもいいとは思うんだけど……」
「じゃあ、確実に休めるのは日曜だけか」
「そういうこと」雪穂は肩をすくめ、上目遣いに誠を見た。明らかに彼が怒りだすのを恐れていた。
しかし彼は怒りはしなかった。彼の頭の中は、全く別のことで占められていた。
「そうすると、ゴルフスクールどころじゃないな」
「そうなの。だから、あたしからいいだしたのに申し訳ないって謝ってるのよ。ごめんなさい」雪穂は前で手を揃え、深く頭を下げた。
「君は、行けないというわけだな」
うん、と彼女は小さく頷いた。
「そうか」誠は腕組みをし、その格好のままソファのほうに移動した。「じゃあ仕方がないな」どっかりと腰を下ろした。「ゴルフスクールは僕一人で入ることにするよ。せっかく説明会にも出たんだし」
「怒らないの?」夫の態度が、雪穂には意外だったようだ。
「怒らないよ。僕はもう、そういうことでは怒らないことにしたんだ」
「よかった。また怒られるんじゃないかと思って、はらはらしてたの。だけど、人手不足だけはどうにもならないし……」
「いいよ、もう。この話はこれで終わりだ。ただし、後から気が変わって、やっぱりゴルフスクールに入りたいといっても、もう遅いからな」
「うん、そんなことはいいません」
「それならいい」
誠はテーブルの上からテレビのリモコンを取り、スイッチを入れた。そしてチャンネルを野球中継に合わせた。王監督率いる巨人軍は、今年完成した東京ドームで、中日相手に苦戦していた。しかしテレビを見ながら彼が考えていることは、昨年引退した江川投手の穴を誰が埋めるかということでも、原選手は今度こそ本塁打王を取れるかということでもなかった。
いつなら、雪穂に聞かれることなく電話をかけられるか、ということだった。
この夜、誠はなかなか寝つかれなかった。三沢千都留と再会したことを思い出すと、身体が妙に熱くなってしまう。彼女の笑顔がちらつき、彼女の声が耳の奥で聞こえていた。
説明会では、実際の講習の模様を見学するというプログラムがあった。誠は、千都留たちがインストラクターに教わりながらボールを打つのを、後ろから眺めた。彼がいることに気づいた千都留は、固くなったのか、何度もミスをした。そのたびに彼のほうを振り返り、ピンク色の舌を唇から覗かせた。
それが終わった後、誠は思い切って彼女を食事に誘ってみた。
「帰っても食べるものがないから、元々外食して帰るつもりだったんだ。でも、一人で食べるのもつまらないからさ」こんなふうに言い訳した。
彼女はほんの少し逡巡《しゅんじゅん》の気配を見せたが、「じゃあ、お付き合いします」と笑顔で答えた。誠の目には、義理で仕方なくいっている、というふうには見えなかった。
千都留は電車と徒歩でゴルフ練習場に通っていた。それで誠はBMWの助手席に彼女を乗せて、何度か入ったことのあるパスタ専門店に行った。その店には雪穂を連れていったことがなかった。
照明を絞った店内で、誠は千都留と向き合って食事をした。考えてみれば、同じ会社にいた頃は、二人だけで喫茶店に入ったこともなかったのだ。誠は、とてもくつろいだ気分になっていた。彼女と過ごすのが、身体に合っているように思えた。彼女といると、じつに滑らかに話題が湧いてくる。まるで自分が話し上手になったような気さえした。彼女はころころとよく笑い、その合間にしゃべった。様々な会社を渡り歩いている彼女の体験談の中には、誠がはっとするほど示唆に富んだものがあった。
「ゴルフを始めたのはどうして? 美容のため?」途中、誠が質問した。
「何となくです。強いていえば、自分を変えるため、かな」
「変える必要があるの?」
「変えたほうがいいかなって思うことがあるんです。こんなふうに、浮き草みたいな生活をしていちゃいけないのかなって」
「ふうん」
「高宮さんはどうして始める気になったんですか」
「えっ、僕かい?」誠は答えに詰まった。妻に勧められて、とはいえない。「まあ、運動不足解消だよ」
千都留はこの答えで納得したようだ。
店を出た後、誠は彼女を家まで送っていくことにした。当然彼女は一旦辞退した。しかし嫌がっているようには見えなかったので、誠はさらに強く申し出た。すると、今度はすんなりと受け入れてくれた。
意識的だったのかどうかは不明だが、食事の間、千都留は誠の結婚生活に触れた質問は一切しなかった。彼も無論、雪穂のことや、雪穂の存在を感じさせる話題は口にしなかった。だが車が走り出して少ししてから、千都留が一度だけこんな質問をした。
「今日は、奥様はお出かけだったんですか」
心なしか、口調が少し固くなったようだ。
「仕事をしているから、留守がちなんだ」
千都留は黙って小さく領いた。それ以後、誠の妻のことを尋ねようとはしなかった。
彼女のマンションは、線路のそばに建っていた。こぢんまりとした、三階建てだった。
「ありがとうございました。じゃあ、また来週」車を降りる前に彼女がいった。
「うん……ただ、さっきもいったように、スクールには入らないかもしれない」誠はいった。この時点では、入らないつもりだった。
「そうなんですか、お忙しいんですね」千都留は残念そうな顔をした。
「まあ、でも、時々は会えると思うよ。電話してもいいよね」誠は訊いた。電話番号は、食事の時に聞き出してあった。
ええ、と彼女は頷いた。
「それじゃ」
「失礼します」
彼女が降りる時、その手を握りたい衝動に誠は駆られた。手を握り、引き寄せ、口づけしたいと思った。だがもちろんそれは想像だけに留めておいた。
彼女が見送ってくれるのをルームミラーで見ながら、彼は車を発進させた。
ゴルフスクールに入ることを知らせたら、彼女は喜んでくれるだろうか――枕に頭を埋めた姿勢で、誠は考えた。早く知らせたいと思った。今夜は結局電話をするチャンスがなかった。
これからは、毎週必ず彼女と会える。そう考えるだけで、少年のように心が弾んだ。土曜日が早くも待ち遠しくなった。
彼は寝返りを打った。気がつくと、隣のベッドから寝息が聞こえていた。
今夜は、妻を抱こうという気には、全くならなかった。
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「ちょっと集まってくれ」
成田がE班のメンバーに声をかけたのは、七月に入ったある日のことだった。窓の外では梅雨特有の細い雨がしとしとと降っている。エアコンが利いているが、成田はワイシャツの袖を肘《ひじ》の上までまくりあげていた。
「例のエキスパートシステムのことだが、システム開発部から新しい情報が入った」メンバー全員が揃うのを確認してから、成田はいった。手に一枚の報告書を持っている。
「シス開では、もしデータが盗み出されたのだとしたら、不正にエキスパートシステムにアクセスした者がいるはずだと考えて、ずっと調査を続けていたらしいんだが、先日ついにその形跡を発見したそうだ」
「やっぱり盗まれてたんですか」誠よりも三つ先輩の社員がいった。
「昨年の二月、社内のワークステーションを使って、生産技術エキスパートシステム全体をコピーした者がいたらしい。そういうことをすると通常記録が残るんだが、その記録自体も書き換えてあったそうだ。そのため、今まで見つからなかったらしい」声を落として係長はいった。
「じゃあやっぱり、うちの会社の人間が、データを持ち出したということですか」誠も、周囲に気を配りながらいった。
「そういうことになるだろうな」成田は厳しい顔つきで頷いた。「もう少し調べた上で、警察に届けるかどうかを決めるそうだ。もっとも、だからといって、例の出回っているエキスパートシステムが、うちがパクられたものだと断言することはできない。あくまでも内容を慎重に調査してからのことだ。しかし、可能性は高まったといえるだろうな」
あのう、と新入社員の山野が手を上げた。
「社内の人間とはかぎらないんじゃないですか。休日なんかに忍び込んで、ワークステーションの端末を操作できればいいわけでしょう?」
「IDが必要だろう。パスワードも」誠がいった。
「いや、じつはその点なんだが」成田が一層声をひそめた。「山野がいったことをシス開でも考えているようだ。というのは、かなりコンピュータの技術に長《た》けた人間でないと、この犯行は難しいらしい。はっきりいってプロの仕事だそうだ。だから可能性としては、二つ考えられる。一つは、社内の人間が犯人を手引きしたということ。もう一つは、何らかの理由で、犯人が誰かのIDとパスワードを手に入れたということだ。俺もそうだけど、この二つの記号の重要性をみんなあまり認識していないからな。そうした隙《すき》をつかれたのかもしれない」
誠は尻のポケットに入れた財布の感触を確かめていた。彼の場合、その中に従業員証を入れている。そしてその従業員証の裏に、ワークステーションの端末を使用する時のIDとパスワードをメモしてあるのだ。
その二つを迂闊《うかつ》に人目につくところに書かないこと――初めてパスワードをもらった時に注意されたのを誠は思い出した。これは消しておいたほうがいいかもしれないと思った。
「ふうん、東西電装でも、そんなことがあったんだ」コーヒーの入った紙コップを手に、千都留は興味深そうに頷いた。
「というと、ほかの会社でもあることなのかい」誠は訊いた。
「最近は多いわよ。とにかくこれからは、情報がお金になる時代だもの。どこの会社もコンピュータに情報を貯えるようになってきたでしょ? でもそれは、情報を盗もうと思っている人間にとっては、すごく都合のいいことなのよね。だって今までだったら膨大な量の書類だったものが、フロッピー一枚に入ってしまうんだもの。おまけに、自分が必要な部分を、キー操作一つで検索できるときてる」
「なるほどね」
「東西電装で使われているのは、基本的にはまだ社内ネットワークだけでしょ。でも、中には、それを社外のネットワークと繋いでいる会社も増えてきているのよね。そうなると、外から侵入することもできるわけだから、もっと厄介な事件も起きるかもしれない。アメリカじゃ、もう何年も前からそんなことが起きているの。勝手によそのコンピュータに侵入して悪戯《いたずら》する人のことを、ハッカーというのよ」
「ふうん」
さすがに千都留はいろいろな会社を渡り歩いているだけに、この手の知識が豊富だった。考えてみれば、誠の会社の特許情報をマイクロフィルムからコンピュータに移しかえたのも彼女だったのだ。
午後五時になろうとしていた。誠は空の紙コップをそばのゴミ箱に捨てた。イーグルゴルフ練習場のロビーは、相変わらず順番待ちの客がたくさんいた。誠たちはとうとう空いた椅子を見つけることができず、壁際で立ち話をしているのだった。
「ところで、その後アプローチショットの練習はしたの?」誠は話をゴルフに移した。
千都留は首を振った。「結局、練習に来る暇がなくて。高宮さんは?」
「僕も先週の教室以来クラブを握ってないんだ」
「でも高宮さんは上手だもの。あたしのほうが先に習い始めたのに、今ではあたしよりも難しいことを教わってるものね。やっぱり運動神経が違うのかなあ」
「要領がいいだけさ。少し不器用なぐらいのほうが、結果的には上達するっていうよ」
「それって、慰めてくれてるの? なんか、あまり嬉しくないなあ」そういいながらも千都留は楽しそうに笑った。
誠がゴルフスクールに入ってから、三か月が経とうとしていた。その間彼は一度も休んだことがなかった。思った以上にゴルフが面白かったこともあるが、千都留に会える喜びのほうが、その何倍も大きかった。
「ところで、今日の練習の後、どこへ行こうか」誠は訊いた。ゴルフスクールの後、二人で食事に行くのは、すでに習慣のようになっていた。
「あたしはどこでも」
「じゃあ、久しぶりにイタリアンにしようか」
うん、と千都留は頷いた。甘えたような表情だった。
「あのさあ」誠は少し周囲を気にしながら低い声でいった。「今度一度、別の日に会えないかな。たまには時間を気にせず話をしたいしさ」
迷惑に思われることはない、という自信はあった。問題は、千都留がどれだけ躊躇《ためら》いを感じるかということだった。他の日に会うということは、ゴルフの練習の帰りに食事をすることとは、全く意味が異なるのだ。
「あたしはいいけど」千都留はあっさりと答えた。あるいは、そう見せかけただけなのかもしれなかったが、口調に不自然さはなかった。口元の笑みも保たれたままだ。
「じゃあ、だいたいの日にちが決まったら連絡するよ」
「うん。早めにいってくれれば、仕事の調整はきくから」
「わかった」
たったこれだけのやりとりで、誠は気持ちを昂《たかぶ》らせていた。大きな一歩を踏み出したような感覚があった。
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千都留とデートする日は、七月第三過の金曜日と決まった。次の日が休みのほうがゆっくりとできるし、その日ならば千都留も会社を早めに出られるといったからだ。
しかも、もう一つ都合のいいことがあった。その前日から、雪穂が一週間ほどイタリアに行くことになっていたのだ。ただし旅行ではなく、洋服の買い付けが目的だ。彼女は数か月に一度のペースでイタリアに行っていた。
雪穂が出発するさらに前日、つまり水曜日の夜――。
誠が家に帰ると、リビングルームでは雪穂がスーツケースを広げて、旅行の準備をしていた。「お帰りなさい」と彼女はいったが、顔は彼のほうではなく、テーブルの上に広げたシステム手帳に向けられたままだった。
「晩飯は?」と誠は訊いた。
「シチューを作ってあるから、適当に食べて。見ればわかると思うけれど、あたし今、ちょっと手が離せないのよ」こういった時も、雪穂は夫のほうを見ようとしなかった。
誠は黙って寝室に行き、Tシャツとスウェットに着替えた。
最近雪穂は変わった、と彼は感じていた。少し前までは、誠の世話を十分出来ないことに対して、涙を流すほど反省したものだ。それが今は、「適当に食べて」だ。口調もぶっきらぼうになってきている。
仕事がうまくいっていることによる自信が、夫に対してもそういう態度に表れるのだろう。しかしそれ以上に、亭主があまりうるさくいわなくなったからだろう、と誠は思った。今までは、気に入らないことがあるとすぐに怒ったものだが、最近は声を荒らげたことがない。無難に毎日が過ぎていけば、それでいいと思っている。
三沢千都留との再会が、すべてを変えたのだ。あの日以来、誠は雪穂に対して関心を持たなくなったし、関心を持たれたくもなくなってしまった。心が離れていくとはこういうことを指すのだろうなと自己分析していた。
誠がリビングルームに戻ると、「ああ、そうだ」と、雪穂がいった。
「今夜、ナツミちゃんをうちに泊めてあげることにしたの。明日、一緒に出たほうが都合がいいから」
「ナツミちゃん?」
「会ったことない? 一番最初から、うちの店にいる子よ。今回は彼女と二人で行くの」
「ふうん、どこで寝てもらうんだ?」
「小さいほうの洋室を片づけたわ」
何もかも決めてあるわけだな、と嫌味をいいたいのを誠はこらえた。
ナツミという女は、十時過ぎになってやってきた。二十歳過ぎと思われる、整った顔立ちをした女だった。
「ナツミちゃん、あなた、まさかその格好で行くつもりじゃないでしょうね」赤いTシャツにジーンズという出で立ちを見て、雪穂は訊いた。
「明日はスーツに着替えます。これは荷物の中に入れていきます」
「Tシャツもジーンズも必要なし。遊びに行くんじゃないんだから。ここに置いていきなさい」雪穂の声は、誠が聞いたことのない厳しいものだった。
はい、とナツミは小声で答えた。
彼女たちがリビングルームで打ち合わせを始めたので、その間に誠はシャワーを浴びた。バスルームから出た時は、二人の姿はなかった。別室に移動したらしい。
誠はリビングボードからグラスとスコッチのボトルを出し、冷蔵庫の氷でオンザロックを作った。そしてテレビの前に座って飲み始めた。彼はビールはあまり好きではなかった。一人でゆっくり飲む時には、スコッチのオンザロックと決めていた。それが毎夜の楽しみでもあった。
ドアが開き、雪穂が入ってきた。だが誠は彼女のほうは見なかった。彼の目は、スポーツニュースに釘付けだった。
「あなた」雪穂がいった。「もう少しテレビの音を小さくして。ナツミちゃんが眠れないから」
「あっちの部屋までは聞こえないだろう」
「聞こえるわよ。聞こえるからいってるんじゃない」
棘《とげ》のある言い方だった。それが癇《かん》に障ったが、誠は黙ってリモコンを手にし、ボリュームを落とした。
雪穂は立ったままだった。彼女の視線を誠は感じた。何かいいそうな気がした。三沢千都留のことだろうか、という考えがふっと頭をかすめた。しかしそんなはずはない。
雪穂が吐息をついた。「あなたはいいわねえ」
えっ、と彼は雪穂を見ていた。「何がいいんだ?」
「だって、毎日毎日、そんなふうにしていられるんだもの。お酒を飲んで、プロ野球ニュースを見て……」
「それのどこがいけないんだ」
「別にいけないなんていってないわよ。いいわねえといっただけよ」雪穂は寝室に向かいかけた。
「ちょっと待てよ、どういう意味だ。何がいいたいんだ。いいたいことがあるなら、はっきりいえよ」
「大きな声出さないでよ。聞こえちゃうじゃない」雪穂は眉を寄せた。
「喧嘩を売ってるのはそっちだぜ。何がいいたいんだと訊いてるんだ」