「別に……」といってから雪穂は誠のほうを向いた。「あなたには夢ってものがないのかなと思ったのよ。野心だとか、向上心といったものがね。自分を磨く努力というものを一切しないで、そんなふうに毎日毎日同じことを繰り返しながら年をとっていくつもりなのかなって」
さすがにこの台詞《せりふ》は誠の神経を刺激した。全身がかっと熱くなるのを彼は感じた。
「自分には野心も向上心もあるといいたそうだな。ビジネスウーマンの真似事をしてるだけじゃないか」
「あたしはちゃんとやってるわ」
「誰の店でだ。俺が買ってやった店だぞ」
「家賃は払ってるでしょ。それに、親から貰った土地を売ったお金で買ったんじゃない。威張らないで」
誠は立ち上がり、雪穂を睨みつけた。彼女も険しい目で見返してきた。
「あたし、もう寝る。朝が早いから」彼女はいった。「あなたも、もう寝たほうがいいんじゃない? お酒はほどほどにして」
「ほっとけよ」
「じゃ、おやすみなさい」片方の眉をぴくりと動かし、雪穂は寝室に消えた。
誠はソファに座り直すと、スコッチのボトルを掴んだ。そしてもうあまり氷の残っていないグラスにどぼどぼと注いだ。
ごくりと飲むと、いつもよりも苦い味がした。
目を覚ました途端、ひどい頭痛が襲ってきた。誠は顔をしかめ、かすんだ目をこすった。ドレッサーの前で化粧をしている雪穂の後ろ姿が見えた。
彼は目覚まし時計を見た。そろそろ起きてもいい時刻だった。だが身体は鉛のように重かった。
雪穂に声をかけようと思ったが、言葉が思いつかなかった。彼女の姿が、なぜかひどく遠くにあるように感じられた。
だがドレッサーに映る彼女の顔を見て、おや、と思った。片方の目に眼帯をつけているのだ。
「どうしたんだ、それ」と彼は訊いた。
口紅をひきおえ、化粧ポーチを片づけていた雪穂の手が止まった。「それって?」
「左目だよ。眼帯してるじゃないか」
雪穂はゆっくりと振り返った。能面のように表情がなかった。「ゆうべのあれよ」
「あれ?」
「覚えてないの?」
誠は黙った。昨夜の記憶を呼び覚まそうとした。雪穂と口論になり、その後少し多めに酒を飲んだところまでは覚えている。だがその後どうしたのか、思い出せなかった。ひどく眠くなったことは、おぼろげに記憶している。しかしその時の状況は、まるっきりわからなかった。頭痛が記憶の回復を妨げてもいた。
「おれ、何かしたのか」と誠は訊いた。
「ゆうべあたしが寝ていたら、突然布団をはがして……」雪穂は唾を飲み込んでから続けた。「何か怒鳴ってから、あたしのことを殴ったのよ」
「えっ」誠は目を剥いた。「そんなこと、してない」
「何いってるの、殴ったじゃない。頭だとか顔だとか……。だからこんなことになったのよ」
「……全然覚えてない」
「酔ってたみたいだものね」雪穂は椅子から立ち上がり、ドアに向かって歩きだした。
「待ってくれ」誠は彼女を呼び止めた。「本当に覚えてないんだ」
「そう。でも、あたしは忘れないから」
「雪穂」彼は息を整えようとした。頭の中が混乱していた。「もしそれを僕がやったのだとしたらあやまるよ。すまん……」
雪穂は立ったまましばらく俯いていたが、「来週の土曜日に帰ります」というと、ドアを開けて出ていった。
誠は枕に頭を沈めた。天井を見つめ、もう一度記憶を辿ろうとした。
しかし、やはり何も思い出せなかった。
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9
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千都留の持つタンブラーの中で、氷がからからと鳴った。彼女は少し目の下を赤くしていた。
「今日は本当に楽しかったわ。いろいろと話もできたし、おいしいものも食べられたし」千都留は歌うように首を左右にゆっくりと振った。
「僕も最高に楽しかった。こんなにいい気分を味わったのは久しぶりだよ」カウンターに肘を置き、彼女のほうに身体を向けた姿勢で誠はいった。「君のおかげだ。今日は付き合ってくれて本当にありがとう」誰かに聞かれたら赤面しそうな台詞だったが、幸いバーテンダーはそばにはいなかった。
赤坂にあるホテルのバーに二人はいた。フレンチレストランで食事した後、ここへ来たのだ。
「お礼をいうのは、あたしのほう。何だか、ここ何年間かのもやもやが、いっぺんに消えたみたい」
「何か、もやもやするようなことがあったの?」
「そりゃあ、あたしだっていろいろと悩みはあるもの」そういって千都留はシンガポールスリングを飲んだ。
「僕はね」シーバスリーガルの入ったロックグラスを揺らしながら誠はいった。「君と会えたことを、本当に喜んでいるんだ。神様に感謝したいぐらいだよ」
聞きようによっては大胆な告白だった。千都留は微笑んだまま、少し目を伏せた。
「君に打ち明けたいことがある」
彼がいうと、千都留は顔を上げた。その目は少し潤んで見えた。
「三年ほど前、僕は結婚した。だけどじつは結婚式の前日、僕はある重大な決心をして、ある場所に行ったんだ」
千都留は首を傾げた。その顔からは笑みが消えていた。
「その内容について、君に打ち明けたい」
「はい」
「ただし」と彼はいった。「それは二人きりになれる場所で」
はっとしたように目を見張った彼女の前に、誠は開いた右手を出した。その手の上にはホテルのキーが載っていた。
千都留は下を向き、黙りこんだ。心の揺れが、誠には手に取るようにわかった。
「その、ある場所というのは」彼はいった。「パークサイドホテルだ。あの夜君が泊まるはずだった、あのホテルだ」
再び彼女は顔を上げた。今度はその目は赤く充血していた。
「部屋に、行こう」
千都留は彼の目を見つめたまま、小さく首を縦に動かした。
部屋に向かいながら、これでいいんだと誠は自分にいいきかせていた。自分はこれまで間違った道を歩いてきた。今ようやく、正しい道標を見つけたのだ。
部屋の前で立ち止まると、鍵穴にキーを差し込んだ。
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10
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相談者の名前は高宮雪穂といった。女優にしてもおかしくないぐらい、奇麗な顔をした女性だった。ただしその表情は、他の相談者と同様に暗かった。
「すると、旦那さんのほうから離婚してくれといってきているわけですね」
「そうです」
「ところがその理由については、はっきりしたことをいってくれないわけですね。ただ、あなたとはやっていけないというだけで」
「はい」
「あなたには何も心当たりがないのですか」
この質問に対し、相談者は少し迷いを見せてから口を開いた。
「ほかに好きな女性ができたようなんです。あの、ある人に調べてもらったんです」
彼女はシャネルのバッグから写真を数枚取り出した。そこには、様々な場所で密会している男女の姿が、はっきりと写っていた。髪を七・三に分けた生真面目な会社員に見える男性と、ショートカットの若い女性は、どちらもとても幸福そうに見えた。
「この女性について、御主人に尋ねましたか」
「いえ、まだです。とにかく一度こちらで相談してからと思いまして」
「そうですか。あなたのほうに、別れる意思はあるんですか」
「はい。もう、だめだと思います。だめだと思いました」
「何かあったんですか」
「この女性と付き合うようになってからだと思うんですけど、時々暴力を……。酒に酔った時ですけど」
「それはひどいですね。そのことを知っている人はいますか。証人という意味ですが」
「誰にも話してません。ただ、一度だけ、店の女の子が泊まりに来た時にもそういうことがありました。だから彼女なら覚えているはずです」
「わかりました」
女性弁護士はメモを取りながら、これなら攻め方はいくらでもあると考えていた。こういう一見人が好さそうでいながら、妻に対して横暴だというタイプを、彼女は最も嫌っていた。
「あたし信じられないんです。あの人がこんなことをするなんて。あんなに、前は優しかったのに」高宮雪穂は白い手で口元を覆い、すすり泣きを始めた。
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