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駐車場に入ったところで今枝《いまえだ》直巳《なおみ》は顔をしかめた。数十台分のスペースが殆《ほとん》ど埋まっていたからだ。バブルはもう弾けたんじゃなかったっけ、と彼は独り言を呟《つぶや》いた。
一番奥の駐車スペースに愛車のプレリュードを止め、今枝はトランクからキャディバッグを引っ張り出した。うっすらと埃《ほこり》をかぶっているのは、二年ほど部屋の隅に置きっぱなしだったからだ。職場の先輩に勧められてゴルフを始め、多少打ち込んだ時期もあったが、独立して一人で仕事をするようになってからは、クラブをキャディバッグから出すことさえなくなってしまった。忙しいからではなく、コースに出る機会がないからだ。一匹狼には向かないスポーツだと、つくづく思う。
安手のビジネスホテルを連想させるイーグルゴルフ練習場の正面玄関から中に入り、今枝は改めてうんざりした。ロビーでは、順番持ちのゴルファーたちが退屈そうにテレビを見ていた。その数は十人弱というところか。
出直したい気分だったが、平日にでも来ないかぎり状況は変わらないだろう。仕方なく彼はフロントカウンターで順番持ちの手続きをした。
空いているソファに腰掛け、今枝はぼんやりとテレビに目を向けた。相撲中継が流れていた。大相撲夏場所だ。まだ時間が早いので、画面に映っているのは十両の取組だった。しかし最近は相撲の人気が上がり、十両や幕内前半の取組にも注目するファンが増えた。若貴兄弟や、貴闘力、舞の海といった新スターが台頭してきたからだろう。特に貴花田は先場所史上最年少で三賞力士になったのに続き、今場所初日にはこれまた史上最年少金星を千代の富士から奪っている。千代の富士は、その二日後には貴闘力にも敗れ、それを最後に引退を決意した。
時代は間違いなく変化しているのだなと今枝はテレビ画面を見ながら思った。マスコミは連日、バブル景気の終焉《しゅうえん》を伝えている。株や土地で大儲けしていた連中も、今後はその夢が泡の如く弾けていくのを見て、顔色を変えることになるだろう。これでこの国も少しは静かになるかもしれないなと今枝は期待していた。ゴッホの絵に五十億円以上を支払うなんてのは、世の中が狂っている証拠だ。
ただし若い女性のリッチぶりには変化がないらしいぞと、ロビーを見渡して感じた。一昔前は、ゴルフといえば男の遊びだった。しかもある程度の地位を築いた大人の男の楽しみだった。ところが最近では、すっかり若い女性たちにゴルフ場が占拠された形らしい。事実、順番待ちをしているゴルファーの半分は女性だった。
もっとも、だからこそ俺も久しぶりにクラブを握ることになったのだが、と彼は心の中で苦笑する。学生時代の友人が電話をかけてきたのは四日前だ。ホステス二人をゴルフに連れていくことにしたのだが、一緒に行かないかと話を持ちかけてきたのだ。どうやら、一緒に行くはずだった男の都合がつかなくなったらしい。
最近は運動らしいことを何もしていないなと思い、話に乗ることにした。もちろん若い女性が一緒と聞いて、下心が芽生えたのも事実だ。
一つ気になることは、しばらくクラブを握っていないことだった。それでここに練習場があったことを思い出し、やってきたというわけだった。コースに出るのは二週間後だ。それまでに恥をかかない程度には勘を取り戻しておきたいと考えていた。
タイミングがよかったのか、三十分ほど待っただけで今枝の名前がアナウンスされた。フロントカウンターで打席番号を書いた札と玉出し用のコインを受け取り、レンジに出ていった。
指定された打席は一階の右サイドにあった。近くのボール貸出機にコインを入れ、とりあえず二籠《ふたかご》分ほどボールを出した。
軽く柔軟体操らしきものをしてから打席についた。久しぶりなので、かつて得意にしていた七番アイアンから始めることにした。しかもフルスイングではなく、コントロールショットだ。
最初少し戸惑ったが、次第に感覚が蘇ってきた。二十球ほど打った頃《ころ》には、大きく振れるようになっていた。体重移動もスムーズだし、フェースのスウィートスポットでボールを捉《とら》えている感覚がある。目測したところでは、七番アイアンで百五、六十ヤードは飛んでいそうだ。なんだ、ブランクがあっても結構大丈夫なものだなと、今枝は悦に入った。ゴルフに熱中していた頃は、知り合いのレッスンプロに教わっていた。
クラブを五番アイアンに換えて何球か打った頃、斜め横からの視線を感じた。今枝のすぐ前の打席で打っていた男が、椅子に座って休憩しているのだが、どうやら先程から彼のショットを見ているようなのだ。悪い気はしないが、打ちにくいのも事実である。
今枝はクラブを取り換えながら男のほうをちらりと見た。若い男だった。三十歳にはなっていないかもしれない。
おや、と今枝は小さく首を傾げた。どこかで会ったような気がしたからだ。彼はもう一度、横目で盗み見た。やはりそうだ。見覚えがある。どこで会ったのだろう。しかし男の様子を見たかぎりでは、向こうは今枝のことを知らないようだった。
思い出せぬまま、今枝は三番アイアンの練習を始めた。程なく、前の男も打ち始めた。なかなかの腕前だった。しかもフォームもいい。ドライバーを使っているが、二百ヤード先にあるネットに、真っ直ぐぶつかっていく。
男が顔を少し右に回した時、首の後ろに二つ並んだ黒子《ほくろ》が見えた。それを見て今枝は、あっと声を出しそうになった。男が誰《だれ》だったかを不意に思い出したのだ。
高宮誠だった。東西電装株式会社特許ライセンス部所属――。
ああそうか、と今枝は合点した。この男とここで会うのは、偶然でも何でもなかった。ゴルフの練習をしようと思って、すぐにこの練習場を思い出したのは、三年前の件があったからだ。そして高宮のことも、あの時に知ったのだ。
高宮のほうは今枝のことを知っているはずがない。それは当然のことだった。
あの後、どうなったのだろうなと今枝は思った。あの女性とは、今も付き合っているのだろうか。
三番アイアンがどうしてもうまくいかないので、今枝はひと休みすることにした。自動販売機でコーラを買うと、椅子に腰掛け、高宮が打つのを眺めた。高宮はピッチングショットの練習をしている。狙《ねら》いはどうやら五十ヤード程先にある旗のようだ。ハーフショットされたボールが、ふわりと上がって旗のそばに落ちていく。見事なものだった。
視線を感じたのか、高宮が振り返った。今枝は目をそらし、缶コーラに口をつけた。
高宮が今枝のほうに近づいてきた。
「それ、ブローニングですよね」
えっ、と今枝は顔を上げた。
「アイアンです。ブローニングじゃないですか」高宮は今枝のキャディバッグの中を指していった。
「ああ」今枝はアイアンのヘッドに刻印されたメーカー名を確認した。「そうみたいですね。よく知らないんですけど」
ふらりと立ち寄ったゴルフショップで衝動買いしたものだった。そこの店主が、お奨めの品だといって出してきたのだ。このクラブがどう優れているかを延々と述べた後、あんたのような細めの体形の人に向いているともいった。だが今枝が買う気になったのは、その講釈を信じたからではなく、ブローニングというメーカー名が気に入ったからだ。彼は以前、銃に凝っていた時期があった。
「ちょっと見せてもらっていいですか」高宮は訊《き》いた。
「どうぞ」と今枝はいった。
高宮は五番アイアンを抜き取った。
「友人で急にうまくなった奴《やつ》がいましてね、そいつがブローニングを使っているんです」
「へえ。でもそれは、その人の腕がいいということでしょう」
「でもアイアンを換えてから急にうまくなったんですよ。それで僕も、自分に合ったものを探し直したほうがいいかなと思いましてね」
「なるほど。でも、十分にお上手じゃないですか」
「いや、本番になるとだめなんです」そういいながら高宮は、構えたり、軽く振ったりした。「ふうん、グリップが少し細いんだな……」
「何でしたら、打ってみたらどうですか」
「いいですか」
「どうぞどうぞ」
では、といって高宮は今枝のクラブを持ったまま打席に入った。そして一球二球と打ち始めた。いかにもスピンのよくきいていそうなボールが、勢いよく上がっていく。
「素晴らしいですね」と今枝はいった。お世辞ではなかった。
「いい感じです」と高宮も満足そうにいった。
「どうぞお好きなだけ打ってください。私はウッドを練習しますから」
「そうですか。ありがとうございます」
高宮は再び打ち始めた。ミスショットが殆《ほとん》どない。それはクラブのおかげではなく、彼のフォームがしっかりしているからだ。やはりスクールに通っていただけのことはあると今枝は思った。
そう、高宮はここのゴルフスクールに通っていたのだ。そしてそこで一緒だった女性と付き合っていた。
少し考えてから今枝は彼女の名前を思い出した。三沢千都留という名前だった。
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三年前、今枝は東京総合リサーチという会社にいた。企業や個人に関する調査全般を請け負う会社で、全国に十七の事務所を持っていた。今枝が勤務していたのは目黒事務所だった。その会社の特徴は、企業からの依頼が多いことだった。依頼内容は、取引を考慮中の会社について実績や経営の実態について調べてくれというものから、自分のところのある社員にヘッドハンターが近づいている可能性があるので探ってほしいというものまで様々だ。若社長がどの女子社員と関係を持っているかを調べてくれという依頼が来たこともある。役員室付きの女子社員四人全員が若社長のお手つきだと判明した時には、調査に当たっていた今枝たちも苦笑したものだ。
東西電装株式会社の関係者と名乗る男が持ってきた話も奇妙なものだった。ある会社の、ある製品について調べてほしいというのだ。ある会社とは、メモリックスという名のソフトウェア開発の会社だった。そしてある製品とは、そこが売り出し中の金属加工エキスパートシステムというソフトのことだった。
つまりそのソフトの開発経緯や、中心になって開発した人間の略歴、交際範囲などを調査するというのが依頼内容だった。
調査の目的について、その依頼人は詳しいことを話さなかった。だがいくつかの言葉の断片から、漠然とではあるが窺《うかが》い知ることはできた。どうやら東西電装では、そのソフトを自社開発ソフトの内容を盗用したものと睨《にら》んでいるらしい。だが製品を比べただけでは立証は困難と判断し、誰が盗んだのかを明らかにしようと思ったわけだ。コンピュータソフトを盗むには東西電装内に共犯者が必要なので、メモリックスの開発担当者の周辺を探れば、どこかに東西電装関係者との接点が見つかるのではないかというのが、依頼人たちの考えのようだった。
東京総合リサーチ目黒事務所には約二十人の調査員がいた。そのうちの半数が、この仕事にあてられた。今枝もその一人だった。
調査を始めて二週間ほどで、メモリックスという会社の実態はほぼ明らかになった。設立は一九八四年で、元プログラマーの安西《あんざい》徹《とおる》という男が社長だ。アルバイトを含め、十二名のシステムエンジニアを抱えている。主にメーカーから依頼を受け、様々なシステム開発を行うことで実績を伸ばしていた。
だが問題の金属加工エキスパートシステムには、たしかに不可解な点が多かった。その最大のものは、金属加工に関する膨大なノウハウやデータを、どこから入手したのかということだった。一応ソフト開発にあたり、ある中堅の金属材料メーカーが技術協力をしたことにはなっている。しかし今枝たちが詳しく調査してみると、先にすでに開発されたソフトがあり、金属材料メーカーでは確認作業をしただけのようなのだ。
一番考えられるのは、これまでの顧客から得たデータを流用したということだった。メモリックスはいろいろな会社と協同で仕事をする関係から、相手会社の技術情報に接する機会がある。当然それらの中には金属加工に関する情報も含まれていただろう。
しかしやはりこれは考えにくかった。情報管理については、顧客との間で細かい契約がいくつも交わされており、メモリックスの人間が無断で情報を社外に持ち出したり、それを外部に漏らしたことが発覚した場合には、メモリックスに厳重なペナルティが科されることになっているのだ。
それだけに東西電装のソフトが盗まれたというのは、ありそうな話に思われた。メモリックスは東西電装とは全く接点がない。しかも東西電装のソフトは社外には出ていない。仮にソフトの内容に酷似したところがあったとしても、メモリックスとしては偶然の一致を主張できるわけだ。
調査を続けるうち、やがて一人の男が浮かびあがってきた。メモリックスの主任開発員という肩書きを持つ男で、名前を秋吉雄一といった。
この男がメモリックスに入ったのは一九八六年だ。その直後から、突然メモリックスで金属加工エキスパートシステムの研究が始まっている。さらに翌年には、ほぼ開発が終わっている。常識ではとても考えられないスピードだ。ふつうならば短くても三年はかかる研究だった。
秋吉雄一は、金属加工エキスパートシステムのベースになる情報を手土産にメモリックスに入ったのではないか――それが今枝たちの立てた推論だった。
ところがこの秋吉については、殆ど何もわからなかった。
住んでいたのは豊島区内の賃貸マンションだが、住民登録をしていなかった。そこで今枝たちはマンションの管理会社にあたり、秋吉の入居前の住所を調べてみた。それは何と名古屋になっていた。
早速調査員がその場所に行ってみた。だがそこに建っていたのは、煙突のように背の高いビルだけだった。調査員は近所の人間に尋ねてまわった。しかしそのビルが建つ前に秋吉という人間が住んでいたという話を聞くことはできなかった。区役所で調べた結果も同じだった。秋吉雄一は住民登録などしていなかったのだ。また秋吉が部屋を借りる際、彼の保証人になった人物も名古屋に住んでいるはずだったが、その住所の場所には誰もいなかった。
どうやら部屋を借りる際に秋吉が管理会社に提出した書類は、偽造されたものである可能性が高かった。つまり秋吉雄一という名前も、本名ではないかもしれないのだ。
秋吉とは一体何者なのか。それを明らかにするため、最も基本的な調査が行われた。すなわち行動を見張り続けたわけだ。
豊島区のマンションには、秋吉の留守中に盗聴器が仕掛けられた。部屋での会話を聞くものと、電話を盗聴するものの二つだ。また彼のところに届く郵便物は、書留や速達を除き、殆どすべて開封して中を調べた。調べた後は、封を閉じ直して郵便受けに戻しておく。もちろんこれらの手段で得られた情報は、たとえば裁判などでは使えない。だがとにかく彼の正体を暴くことが先決だった。
秋吉は会社と自宅とを往復するだけの生活をしているように見えた。部屋に訪ねてくる者もなく、電話の内容も特に意味のありそうなものはなかった。というより、殆ど電話はかかってこなかった。
「あいつは一体何が楽しくて生きているんだろうな。まるで孤独じゃないか」今枝とコンビを組んでいた男が、モニターに映る部屋の窓を見ながらいったことがある。クリーニング店のバンに見せかけた車の中でのことだ。カメラは車の屋根に備え付けてあった。
「何かから逃げているのかもしれないぜ」と今枝はいった。「だから正体を隠している」
「人を殺したとか?」相棒がにやりと笑った。
「かもしれない」今枝も笑って応じた。
秋吉に、連絡を取るべき相手が最低一人は存在することがわかったのは、それから少し経ってからだった。彼が部屋にいる時、けたたましく電子音が鳴りだしたのだ。ポケットベルの音だった。今枝は緊張し、ヘッドホンに神経を集中させた。秋吉がどこかに電話すると思ったからだ。
ところが秋吉は部屋を出てしまった。そしてマンションからも出て、歩きだした。今枝たちは急いで尾行した。
秋吉は酒屋の表にある公衆電話の前で立ち止まり、どこかに電話をかけた。無表情のまま何かを話している。話している間も、周囲に視線を配ることを忘れない。だから今枝たちも近づけなかった。
こんなことが何度か続いた。ポケットベルが鳴った後には、必ず秋吉は電話をかけに外に出る。決して部屋の電話を使わないことから、盗聴器に気づいているのだろうかとも思ったが、それならば早々に取り外してしまうはずだった。おそらく秋吉は、重大な電話をかける時には外の電話を使う習慣を身につけていたのだろう。その公衆電話にしても、一箇所に決めず、その時によって違う場所の電話を使う徹底ぶりだった。
ポケットベルを鳴らしてくるのはどこの誰か。それが当時の最大の謎《なぞ》だった。
しかしその謎が解けぬまま、事態は別の方向に動きだした。秋吉が不可解な行動をとり始めたのだ。
まず、ある木曜日に秋吉は、会社が終わった後で新宿に出た。珍しいというより、今枝たちが調査を開始して以来初めてのことだった。秋吉は新宿駅西口のそばの喫茶店に入った。
そこで彼は、ある男と会った。年齢は四十代半ば、痩せて小柄で、能面のように表情の読みにくい顔をしていた。今枝はその男を一目見て、胸騒ぎのようなものを感じた。
秋吉は男から大型封筒を受け取っていた。彼は中身を確かめると、交換するように小さな封筒を渡した。男が封筒から出したのは現金だった。それを手早く数え、上着の内ポケットに入れると、一枚の紙を秋吉に差し出した。
領収書だな、と今枝は思った。
秋吉と男はその後数分言葉を交わし、同時に立ち上がった。今枝は相棒と二手に分かれ、二人を尾行した。今枝がつけたのは秋吉のほうだった。秋吉はその後真っ直ぐに自宅に帰った。
相棒が尾行していた男は、都内に事務所を構える探偵事務所の所長だった。所長といっても、他には妻という名の助手がいるだけだ。
やはり、と今枝は合点した。あの男からは、同業者特有の臭いのようなものが発せられていたのだ。
秋吉が探偵を使って何を調べたのかを知りたかった。東京総合リサーチと何らかの繋《つな》がりのある調査会社ならば、手段がないわけではない。だが秋吉が雇った探偵は、全くのフリーで商売をしている男だった。下手に接触して、自分たちの調査内容を探られでもしたら、取り返しのつかないことになる。
とりあえず秋吉をマークし続けようということになった。
その週の土曜日、秋吉が再び動きを見せた。
例によって今枝たちがマンションを見張っていると、ブルゾンにジーンズというラフな格好をした秋吉が出てきた。今枝は相棒と共に彼の後をつけた。この時今枝には、ある予感があった。単なる外出とは思えない不穏な気配が秋吉の背中には漂っていた。
秋吉は電車を乗り継ぎ、下北沢の駅に降り立った。鋭い視線を常に周囲に向けてはいたが、尾行に気づいている様子はなかった。
彼は小さなメモのようなものを手に持ち、時折住所表示を見ながら、駅の周辺を歩いていた。どこかの家を探しているらしいと今枝は見当をつけた。
やがて彼の足が止まった。線路脇にある三階建ての小さな建物の前だ。独身者用のワンルームマンションといった感じだった。
秋吉はその建物には足を踏み入れず、向かい側の喫茶店に入っていった。今枝は少し迷ってから、一緒にいた相棒を喫茶店に入らせた。もしかすると秋吉はここで誰かと待ち合わせをしているのかもしれないと思ったからだ。自分は近くの書店で待つことにした。
一時間後、相棒は一人で店から出てきた。
「待ち合わせじゃねえな」と彼はいった。「あれは張り込んでるんだ。あそこに住んでる誰かを見張ってるんだろう」顎《あご》で向かいのマンションを示した。
今枝は探偵のことを思い出していた。秋吉はこのマンションに住んでいる人間のことを調べさせていたのではないか。
「すると俺たちも、ここでじっとしてなきゃならないわけか」今枝はいった。
「そういうことだ」
今枝はため息をつき、公衆電話を探した。事務所に連絡して、車を持ってきてもらうためだった。
だがその車が到着しないうちに秋吉が店から出てきた。今枝がマンションのほうを見ると、一人の若い女が駅のほうに歩きだしたところだった。手にゴルフのクラブケースを持っていた。秋吉はその女から十数メートル離れてついていく。その秋吉を、今枝たちが尾行した。
女の行き先はイーグルゴルフ練習場だった。秋吉も中に入っていったので、今度は今枝が後を追うことにした。
見張っていると、女はゴルフ教室に参加していた。秋吉はそれを確認するように見送ると、ゴルフ教室に関するパンフレットを一枚取り、出ていった。そしてその日はもうイーグルゴルフ練習場には戻ってこなかった。
女について調査してみた。身元はすぐに判明した。人材派遣会社に籍を置く、三沢千都留という人物だった。今枝たちはその会社に問い合わせ、彼女がかつて東西電装に派遣されていたことを突き止めた。つまり、とうとう秋吉と東西電装とが繋がったわけだ。
今枝たちは勢い込んで、引き続き秋吉をマークすることにした。いずれ三沢千都留と接触する時が来ると信じていた。
ところが事態は意外な方向に傾いていった。
しばらく目立った動きを見せなかった秋吉が、ある土曜日に再びイーグルゴルフ練習場に足を向けた。ちょうど三沢千都留が参加しているゴルフ教室の始まる時間帯だった。
だが秋吉は三沢に近づこうとはしない。相変わらず、陰から彼女を見張っていた。
やがて別の男が三沢千都留の横に座り、親しげに話し始めた。二人はまるで恋人同士のように見えた。
そして秋吉は、それを見届けることが目的だったかのようにゴルフ練習場を後にした。
結果的に、秋吉が三沢千都留に接近したのはこの時が最後になった。その後彼は一度もイーグルゴルフ練習場には足を向けなかったのだ。
今枝たちは、三沢千都留と一緒にいた男のことを調べた。男は高宮誠という名前で、東西電装の社員だった。所属は特許ライセンス部だ。
当然、何かあると思った。二人の関係や、秋吉との繋がりについて調査を行った。
だがソフト盗用に関連しそうな手がかりは、何ひとつ得られなかった。判明したのは、妻のある高宮誠が三沢千都留を相手に不倫をしているらしい、ということだけだった。
そのうちに依頼人のほうから調査の打ち切りを要請してきた。調査費がかさむばかりで有益な情報が少しも得られないのでは無理もない話だった。東京総合リサーチでは、分厚い調査報告書を依頼人に渡したが、それがどの程度活用されたかは不明だ。たぶん即座にシュレッダーにかけられたのだろうと今枝は推測している。
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奇妙な金属音がして今枝は我に返った。顔を上げると高宮誠が呆然とした顔で立ち尽くしていた。
「あ、ああ……」高宮は持っていたクラブの先を見て、口を大きく開いた。クラブの先端がぽっきりと折れていた。
「あっ、折れちゃいましたか」今枝は周囲を見回した。高宮がいる場所から三メートルほど先に、クラブのヘッドが落ちていた。
周りの客たちも事態に気づいたらしく、打つのをやめて高宮を見ている。その間に今枝は前に出ていき、折れたクラブヘッドを拾った。
「あっ、どうもすみません。どうしてこんなことになっちゃったんだろう」高宮は先端のないクラブを握ったまま、途方にくれた様子でいった。顔が青ざめている。
「金属疲労というやつでしょう。この五番アイアンは、かなり酷使しましたからね」今枝はいった。
「申し訳ありません。ちゃんと打ってたつもりなんですけど……」
「ええ、わかっています。昔、私がちゃんと打たなかったことのツケが、今日こういう形で出たということでしょう。私が打っていても折れていたはずです。どうか気にしないでください。それより怪我はありませんか」
「はい、それは大丈夫です。あの……これは僕に弁償させてください。折ったのは僕ですから」
高宮がいったが、今枝は顔の前で手を振った。
「そんな必要はありません。どうせ時間の問題で折れていたものなんですから。弁償なんかしてもらったら、こっちが恐縮します」
「でもそれでは僕の気が済みませんから。それに弁償するといっても、僕の懐が痛むわけではないんです。保険を使うんです」
「保険?」
「ええ。ゴルファー保険に入っているんですよ。しかるべき手続きをすれば、全額保険金で賄えるはずです」
「でもこれは私のクラブだから、保険は使えないんじゃないのかな」
「いや、たぶん使えるはずです。ここのプロショップで訊いてみましょう」
高宮が折れたクラブを手にロビーのほうに向かったので、今枝も後を追った。
プロショップはロビーの一画に作られていた。高宮は顔馴染《かおなじ》みらしく、日焼けした顔の店員が彼を見て挨拶した。高宮は折れたクラブを見せて事情を説明した。
「ああ、それなら大丈夫です。保険金は出ますよ」店員は即座にいった。「保険金を請求するのに必要なのは、破損があった場所の証明書と、折れたクラブの写真、それから修理代金の請求書だったと思います。そのクラブが本人のものかどうかなんてことは証明できませんものね。うちのほうで必要な書類は揃えますから、高宮さんは保険屋さんに連絡しておいてください」
「よろしくお願いします。あの、それで修理には何日ぐらいかかりますか」
「そうですね。同じシャフトを見つけなきゃいけないから、二週間ぐらいはかかるかもしれません」
「二週間……」高宮は困った顔で今枝のほうを振り返った。「それでかまいませんか」
「ええ、平気です」今枝は笑いながらいった。二週間後となると、次のラウンドには間に合わないかもしれなかったが、クラブの一本ぐらいなくてもスコアにさほどの違いが出るとは思えなかった。何より、これ以上この男に気を遣わせたくなかった。
その場でクラブの修理を依頼し、今枝たちは店を出た。
「あら、誠さん」
二人が再び練習場に向かおうとした時、誰かが高宮に声をかけてきた。声の主を見て、今枝は思わず口元を引き締めた。知っている顔だった。三沢千都留だ。彼女の後ろに長身の男が立っていたが、こちらは知らない顔だ。
「よお」と高宮は二人にいった。
「もう練習は終わったの?」と千都留は訊いた。
「いや、それがちょっとしたアクシデントがあってね。こちらの方に大変な迷惑をかけちゃったんだ」
高宮は事情を千都留たちに話した。聞いているうちに彼女の顔は曇っていった。
「そうなんですか。どうもすみませんでした。クラブを借りるだけでも厚かましいのに、折っちゃうなんて……」千都留は今枝に頭を下げた。
「いや、本当にいいんです」今枝は手を振ってから、「ええと、奥さんですか」と高宮に訊いた。
ええまあ、と高宮は少し照れを滲《にじ》ませた顔で答えた。
すると不倫は無事に成就したわけか、珍しいこともあるものだと今枝は思った。
「怪我をした人はいないのかな」千都留の後ろに立っていた男が訊いた。
「それは大丈夫だ。あ、それより、名刺をお渡しするのを忘れていました」高宮はゴルフスラックスのポケットから財布を出し、そこに入れてあった名刺を今枝のほうに差し出した。
「高宮といいます」
「あ、これはどうも」
今枝も財布を出した。彼もそこに名刺を入れていた。だが一瞬迷った。どの名刺を渡せばいいだろうかと考えたのだ。彼は常時数種類の名刺を持ち歩いている。いずれも名前や肩書きが違うのだ。
結局彼は本物の名刺を渡すことにした。ここで偽名を使っても無意味だし、今後高宮たちが顧客になってくれないともかぎらないからだ。
「へえ、探偵事務所の方だったんですか」今枝の名刺を見て、高宮は不思議そうな顔をした。
「何かありましたら、是非ご用命を」今枝は軽く頭を下げた。
「浮気調査とかなさるんですか」千都留が訊いてきた。
「ええ、それはもう」今枝は頷いた。「一番多い仕事といえるでしょうね」
彼女はくすりと笑い、高宮にいった。「じゃあそのお名刺、あたしが預かっておいたほうがよさそうね」
「かもしれないな」高宮は、にやにやして応じた。
今枝は、そうですよ、特に今の時期が一番危険だから注意したほうがいいですよ、と千都留にいいたい気分だった。
彼女の下腹部は、大きくせり出していたのだ。
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今枝直巳の事務所兼住居は西新宿にある。細い道路に面した五階建てビルの二階だ。すぐそばにバスの停留所があり、新宿駅からは数分で来られる。しかしそれでも客にとっては便利とはいえないらしい。電話で道順を教えた途端、彼等は決まって憂鬱そうな声を出す。何とか足を運んでもらおうと、今枝は懸命に愛想よく受け答えをするが、電話を切った後には、いつもどっと疲れが出た。
駅のそばに移れば有利なのはわかっている。依頼人は大抵、あれこれ迷いながら探偵事務所に向かっているものだ。バスに乗っている数分間に、やはり探偵なんかを雇うのはやめようと心変わりすることも、大いにありうることだった。
しかし地価高騰に伴い、家賃も異常に上昇していた。今枝は狭い事務所一つを借りるために、毎月目の飛び出るほどの大金を払う気にはとてもなれなかった。賃貸料は結局調査費の値上げに繋がる。なるべくリーズナブルな値段で依頼人の期待に応えたいというのが、この仕事を始めた時からの彼の考えだった。
その事務所に篠塚一成から電話がかかってきたのは、七月を間近にした水曜日のことだった。窓の外では、糸のように細い雨が降り続いていた。だから今日も客は来ないかもしれないなと諦めていた時でもあった。
電話の主が篠塚とわかった瞬間、仕事の話だなと今枝は直感した。依頼人の声には、独特の響きがあるのだ。
案の定彼は、折り入って話があるのでこれから行ってもいいですか、と訊いてきた。待っています、と今枝は答えた。
電話を切ってから、今枝は首を傾げた。篠塚一成は独身のはずだ。ということは単なる浮気調査ではないかもしれない。また彼は、恋人の浮気を察知したとしても、その確認を他人に任せるような男には見えなかった。
高宮誠とゴルフ練習場で偶然出会ったあの日、高宮の妻となった千都留の後ろに立っていたのが篠塚一成だった。あの日彼等は三人で食事をするつもりで、ゴルフ練習場で待ち合わせたらしい。さすがに今枝はその食事にまでは付き合わなかったが、練習場のロビーで紙コップに入ったインスタントコーヒーを飲みながら、三人と少し会話を楽しんだ。篠塚の名刺も、その時に貰《もら》った。
その後、今枝は彼とゴルフ練習場で二度ほど会った。篠塚もゴルフの腕前はなかなかのものだった。
今枝の仕事についても、少し話をしたことがある。篠塚はあまり関心があるように見えなかったが、あの時すでに考えるところがあったのかもしれない。
今枝はマルボロの箱から煙草を一本抜き取り、使い捨てライターで火をつけた。乱雑に書類を置いた机に足を載せ、椅子に大きくもたれて一服した。灰白色の煙が薄暗い天井で漂った。
篠塚一成はただのサラリーマンではない。伯父が社長をしている篠塚薬品の幹部候補生だ。となると企業に関係した調査依頼である可能性もなくはない。
そんなふうに想像した途端、今枝は全身の血の流れが速まるのを感じた。久しぶりに味わう感覚だった。
今枝が東京総合リサーチを辞めて独立したのは二年前だった。安い給料で人にこき使われるのが嫌になったし、一人でやっていけるという自信もついたからだ。各方面へのコネクションも、かなり構築できた。
実際経営状態は悪くなかった。男一人が食べていける程度には、安定して仕事の依頼が来る。少しは貯金もしているし、月に一度ゴルフを楽しむ程度の余裕はある。
ただ満足度は低かった。現在の彼の仕事の大半は浮気調査だ。東京総合リサーチにいた頃にはしょっちゅうあった企業絡みの調査依頼など、皆無といえた。来る日も来る日も、男と女の愛憎の臭いを嗅いでまわっている。それが嫌なのではない。ただ以前のようには緊張していない自分に、今枝は気づいていた。
かつて彼には警察官になろうとした時期があった。試験に合格し、警察学校にまで入ったのだ。しかしそこでの無意味としか思えない規律の厳しさに嫌気がさし、途中で退学した。二十代前半の話だ。
その後アルバイトをいくつか経験し、ある日新聞で東京総合リサーチの社員募集広告を見つけた。警察がだめなら探偵になるか、そんな半分冗談のような気持ちで面接を受けに行った。採用にはなったが、最初はアルバイト待遇だった。それが半年続いて正社員になった。
調査員をしてみて、この仕事が自分に向いていることを発見した。映画やドラマに出てくる私立探偵のような派手さは全くない。孤独で地味な作業の繰り返しだ。警察のような権力を持っていないから、どんな世界にも正面玄関から入っていくわけにはいかない。加えて依頼人の秘密を守る義務がある。調査した形跡を可能なかぎり残さず、それでいて調査に漏れがあってはならない。しかし苦労の末に目的の情報を手に入れた時の喜びと達成感は、ほかでは味わえなかった。
あの興奮を取り戻せるのではないか――篠塚の電話を受け、今枝はそんなふうに期待し始めていた。良い予感があるのだった。
だが彼は首を振り、煙草を灰皿の中で潰した。やめておけ、下手に期待してもがっかりするだけだ。どうせまた女の素行調査さ。そうに決まっている――。
コーヒーを淹《い》れようと彼は立ち上がった。壁の時計は二時を指していた。
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篠塚一成は二時二十分頃にやってきた。薄いグレーのスーツを着ており、雨にもかかわらずヘアスタイルもぴしりと決まっていた。ゴルフ練習場にいる時よりも、四、五歳は年上に見えた。エリートの貫禄というやつかなと今枝は思った。