「最近はあまり練習場で会わないですね」椅子に座ってから篠塚はいった。
「コースに出る予定がないと、つい面倒くさくなって」今枝はコーヒーを出しながらいった。例のホステスたちとのラウンド以来、一度しか練習場に行っていない。その一度にしても、修理の終わった五番アイアンを受け取りにいったついでのことだった。
「それなら今度一緒に回りませんか。いくつか融通のきくコースがあるんですが」
「いいですね。是非誘ってください」
「じゃあ、高宮にも声をかけておきましょう」そういって篠塚はコーヒーカップを口元に運んだ。しぐさや口調に依頼人特有の固さがあることに、今枝は気づいていた。
篠塚はカップを置き、吐息を一つついてから口を開いた。「じつは妙なことをお願いしたいんです」
今枝は頷いた。「ここに来られる方は大抵、自分の依頼は妙なものだと思っておられるようです。どういったことですか」
「ある女性のことです」と篠塚はいった。「ある一人の女性について調べていただきたいのです」
「なるほど」小さな落胆を今枝は感じた。やっぱり女の話か。「篠塚さんの恋人ですか」
「いえ、自分とは直接関係のない女性なんですが……」篠塚はスーツの内側に手を入れ、写真を一枚取り出してきた。それを机の上に置いた。「この女性です」
「拝見します」今枝は手を伸ばした。
そこに写っているのは奇麗な顔だちをした女だった。どこかの屋敷の前で撮ったものらしい。コートを着ているところを見ると、季節は冬だろう。白い毛皮のコートだ。カメラに微笑《ほほえ》みかけてくる表情はじつに自然で、プロのモデルだといわれてもおかしくはない。「美人ですね」今枝は、まずそう感想を述べた。
「僕の従兄《いとこ》が現在交際している女性です」
「いとこさん……というと、篠塚社長の?」
「息子です。今は常務のポストについてます」
「おいくつですか」
「四十五……だったかな」
今枝は肩をすくめた。その年齢で大手製薬会社の常務になることなど、ふつうのサラリーマンでは考えられないことだ。
「奥さんはいらっしゃるんでしょう」
「いえ、今はいないんです。六年前に飛行機事故で亡くなりました」
「飛行機事故?」
「日航ジャンボ機の墜落事故です」
「ああ」今枝は頷《うなず》いた。「あの飛行機に乗っておられたんですか。それはお気の毒でしたね。ほかにお身内で亡くなられた方はいらっしゃるんですか」
「いえ、身内で乗っていたのは彼女だけでした」
「お子さんはいらっしゃらなかったのですか」
「二人います。男の子と女の子です。でも幸い例の飛行機には乗っていなかったんです」
「不幸中の幸い、というわけだ」
「まあそうです」と篠塚はいった。
今枝は改めて写真の女性を見た。大きく少しつり上がり気味の目は猫を連想させた。
「奥さんがお亡くなりになっているのなら、その従兄さんが女性と交際すること自体には何も問題はないわけですよね」
「もちろんそうです。僕たち親戚としても、できるだけ早く良い相手と巡り合ってほしいと願ってはいるんです。何しろ彼は、近い将来うちの会社を背負って立つ人物ですから」
「すると」今枝は写真のすぐ横を、とんとんとんと指先で叩《たた》いた。「この女性に何か問題があるわけですか」
篠塚は椅子に座り直し、身を乗り出してきた。
「はっきりいいますと、そういうことです」
「へえ」今枝は再び写真を手に取った。見れば見るほど美人だ。肌などは、陶器で作られたかのように白くて滑らかそうだ。「どういうことですか。差し支えなければ教えていただけませんか」
篠塚は小さく頷き、机の上で指を組んだ。
「じつは、この女性は過去に結婚歴があるんです。でももちろんそんなことは問題ではありません。問題なのは、結婚していた相手です」
「誰なんですか」今枝も、つい声をひそめていた。
篠塚は一度ゆっくり呼吸をしてからいった。
「あなたもよく知っている人物です」
「はあ?」
「高宮です」
「えっ」今枝は背中をぴんと伸ばした。そしてしげしげと篠塚の顔を見た。「高宮さんって、あの高宮さんですか」
「そうです。あの高宮誠です。彼の奥さんだったんです」
「それはまた、なんと……」今枝は写真を見て、首を横に振った。「驚きました」
「でしょうね」篠塚は微苦笑を浮かべた。「お話ししたかもしれませんが、僕と高宮とは大学のダンス部で一緒だったんです。で、この写真の女性は、うちと合同練習をしていた女子大ダンス部の部員でした。二人はそれをきっかけに交際し、結婚したんです」
「離婚したのは?」
「八八年だから……三年前になるかな」
「離婚の原因は千都留さん?」
「詳しいことは聞いていませんが、まあそういうことなのだろうと思います」篠塚は唇の端を微妙に歪《ゆが》めた。
今枝は腕組みをし、三年前のことを回想した。すると彼等が調査を打ち切った直後に、高宮は妻と別れたらしい。
「それで、この高宮さんの元奥さんが、今度はあなたの従兄さんと交際しているわけですね」
「そうです」
「それは偶然だったのですか。つまりあなたの全く知らないところで従兄さんと高宮さんの前の奥さんが出会い、付き合い始めたわけですか」
「いや、偶然とはいえません。結果的には、やっぱり僕が従兄と彼女を引き合わせてしまったということになります」
「といいますと?」
「僕が従兄を彼女の店に連れていったんです」
「店?」
「南青山にあるブティックです」
篠塚によると、この唐沢雪穂という名前の女性は、高宮と結婚していた頃からいくつかのブティックを経営しているらしい。その頃篠塚は一度も行ったことがなかったが、彼女が高宮と離婚してしばらくした頃、特別セールの招待状が来たのを機に、初めて足を運んだのだという。その理由について彼は、「高宮から頼まれたんですよ」と説明した。「別れたとはいえ、かつては妻だった女性が一人で生きていこうとするのを、陰ながら少しでも後押ししてやろうと思ったようです。離婚の原因はどうやら彼のほうにあったようですから、詫《わ》びる気持ちもあったんじゃないですか」
今枝は頷いた。よくある話ではあった。こういう話を聞くたびに、つくづく男というのはお人好しな生き物だと思う。時には、離婚の原因が妻のほうにあったにもかかわらず、別れた後も何かと力になってやろうとする男さえいる。ところが女のほうは、仮に自分に非があったとしても、別れた男のその後の人生には全く無関心だ。
「僕も彼女のことは多少気になっていましたからね、元気にしているかどうかを確かめる目的で行ってみることにしたんです。ところがその話を従兄にしてみたら、自分も行ってみたいといいだしたんです。ちょっとしゃれた普段着を探している、というような理由だったと思います。それで一緒に行ったわけです」
「そして運命の出会いがあったわけだ」
「どうやらそういうことのようです」
篠塚は、その康晴《やすはる》という従兄が唐沢雪穂に強くひかれたことには、全く気づかなかったという。しかし後に康晴から、「恥ずかしい話だが一目惚れだった」と告白されたらしい。自分にはこの女性しかいない、とまで思ったそうだ。
「その唐沢雪穂という女性が、あなたの親友の前妻だということは御存じないのですか」
「いえ、知っています。初めてブティックに連れていく前に話しておきました」
「それでもひかれてしまったわけだ」
「そうなんです。元々従兄は情熱家でしてね、思い込んだら、誰が何をいってもブレーキがきかないんです。僕は全く知らなかったんですが、初めて連れていって以来、従兄は彼女のブティックに通い詰めのようです。着もしない服がずいぶん増えたと、お手伝いさんがぼやいていました」
篠塚の話に、今枝は軽く吹き出した。
「目に浮かぶようだ。それは大変ですね。で、康晴さんのアタックは実ったわけですか。交際していると、先程おっしゃったようですが」
「従兄のほうは結婚を望んでいます。ところが彼女のほうが、はっきりとした答えを出してくれないみたいです。従兄は、年齢差と子持ちということが、彼女を迷わせていると思っているらしいですが」
「それもあるでしょうが、一度結婚に失敗しているから慎重になっているんでしょう。無理もない話です」
「そうかもしれません」
「それで」今枝は腕組みをほどき、机に両手をのせた。「この女性の何を調査すればいいのですか。今伺ったかぎりでは、あなたはこの唐沢雪穂という女性について、かなりよく知っておられるようですが」
「ところがそうでもないんです。はっきりいって謎だらけです」
「そりゃあ、あなたにとっては他人なのだから、謎だらけなのは当然でしょう。それじゃあいけませんか」
すると篠塚はゆっくりとかぶりを振った。
「謎の質の問題です」
「謎の質?」
篠塚は唐沢雪穂の写真をつまみあげた。
「僕はね、従兄がそれで本当に幸せになれるというなら、この女性と結婚したらいいと思うんです。友人の前の奥さんだというのはちょっと抵抗があるけれど、時間が経てば馴れるだろうとも思いますしね。ただ――」彼は写真を今枝のほうに向けて続けた。「この女性を見ていると、何だか得体の知れない不気味さを感じてしまうんです。この女性が単に健気《けなげ》なだけの女性だとは、とても思えないんです」
「健気なだけの女性なんて、この世にいるんですかね」
「彼女は一見すると、そんなふうに見えます。苦しいことや辛いことをじっと我慢して乗り越えて、懸命に笑顔を作っている、そういう印象を人に与えます。従兄も、彼女の美貌以外に、内面から来る輝きにひかれたのだといっています」
「その輝きが偽物だと、あなたはいいたいわけだ」
「それを調べてほしいんです」
「難しいな。あなたがそんなふうに疑いの目でその女性を見る具体的な理由が、何かあるんですか」
今枝が訊くと、篠塚はいったん俯《うつむ》いて少し黙り込んだ後、また顔を上げた。
「あります」
「何ですか」
「金です」
「ほう」今枝は椅子にもたれた。改めて篠塚の顔を眺める。「どういうことですか」
篠塚は軽く息を吸った。
「高宮が不思議がっていたことなんですが、どうも彼女の資産には不透明なところが多いようなんです。たとえばブティックの開業に関して、高宮は全く援助していないというんです。当時彼女は株に凝っていたという話ではあるんですが、素人投資家が、短期間にそれほど稼げるとはとても考えられません」
「実家が金持ちとか?」
一応今枝はいってみた。だが篠塚は首を振った。
「高宮から聞いたかぎりでは、そういうことはなさそうです。実家ではおかあさんが茶道を教えているということですが、年金と合わせて、何とか食べていけるという状態だという話でした」
今枝は頷いた。興味が湧いてきた。
「篠塚さん、するとあなたはどういう可能性を疑っているんですか。その唐沢雪穂という女性のバックに、パトロンでもいるとお考えですか」
「わかりません。結婚していながらパトロンと繋がりを持っていたというのは解《げ》せないですし……ただ彼女には裏の顔があるような気がしてならないんです」
「裏の顔、ね」今枝は小指の先で鼻の横を掻《か》いた。
「それからもう一つ気になることがあります」
「もう一つ?」
「彼女と深く関わった人間は」篠塚は声を落としていった。「皆何らかの形で不幸な目に遭っているんです」
「えっ?」今枝は彼の顔を見返した。「まさか」
「一人は高宮です。現在彼は千都留さんと結ばれて幸せになってはいますが、離婚というのは、やはり一つの不幸な結末だと思います」
「原因は彼のほうにあったわけでしょう」
「見かけ上はね。でも真相はわからない」
「ふうん……まあいいでしょう。ほかに不幸な目に遭った人というのは?」
「僕の恋人だった女性です」そういって篠塚は唇をぎゅっと結んだ。
「ははあ……」今枝はコーヒーを一口含んだ。すっかりぬるくなっていた。「どんなことがありましたか。差し支えなければ……」
「ひどい目に遭ったんです。女性として、とても辛い目にね。そのことが原因で僕たちは別れることになってしまいました」
だから、といって彼は続けた。「僕もまた、不幸な目に遭った一人ということになります」
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薄汚れたプレリュードは、店から少し離れた路上に止めた。新車に買い換える余裕もないことが見抜かれれば、せっかく篠塚から高級スーツや腕時計を借りてきた意味がない。「ねえ、マジで何も買ってくれないわけ? 安いものがあってもだめ?」横を歩いている菅原《すがわら》絵里《えり》が訊いた。彼女も一応、手持ちの中で一番いい洋服を着て来ている。
「安いものなんてないな、たぶん。どれもこれも目が飛び出るような値段がついているはずだ」
「ええーっ、欲しくなっちゃったらどうしよう」
「絵里が自分の金で買う分にはかまわんさ。だけど俺は関知しないからな」
「ちぇっ、ケチ」
「文句いうなよ。バイト代は払うといってるだろ」
やがて二人はブティック『R&Y』の前に着いた。店の前面はガラス張りで、店内いっぱいに婦人服やアクセサリー類が置かれているのが見える。
「ひゃあ」今枝の隣で、絵里が感嘆の声をあげた。「やっぱ、高そうなもんばっか」
「言葉遣いに気をつけろよ」彼は絵里の脇腹を肘で突いた。
菅原絵里は、今枝の事務所のそばにある居酒屋で働いている。昼間は専門学校に通っているというが、何を勉強しているのかは今枝もよく知らなかった。ただ信用できる娘なので、カップルで活動したほうが都合のいい場合などは、彼女にバイト代を払って手伝ってもらうことが時々ある。絵里のほうも、今枝の仕事を手伝うのは好きらしい。
ガラス製のドアを開け、今枝は店内に足を踏み入れた。空調が適度に利いている。下品でない程度に、香水の匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませ」奥から若い女が出てきた。白いスーツを着て、スチュワーデスのように型にはまった笑顔を浮かべている。唐沢雪穂ではなかった。
「予約しておいた菅原ですが」
今枝がいうと、「お待ちしておりました」といって女は頭を下げた。
絵里が一緒の時には、なるべく菅原を名乗ることにしている。別の名字を使った場合、人に呼ばれても絵里が反応しないことがあるからだ。
「今日はどういったものをお探しでしょうか」白いスーツの女は訊いてきた。
「彼女に似合いそうな服を」今枝はいった。「夏から秋にかけて着られそうな服で、お洒落で、しかも会社に着ていっても浮き立たない程度に華美でないものがいい。何しろ彼女は社会人一年目だから、変に目立つといじめられるそうなんだ」
「ああ」白いスーツの女は納得した顔で頷いた。「じゃあ、ちょうどいいのがございます。今お持ちいたします」
女が背を向けると同時に、絵里が今枝のほうを振り向いた。彼は小さく頷いて見せた。その直後、奥からもう一人誰かが現れた。今枝はそちらに目を向けた。
唐沢雪穂が洋服の間を縫うように、ゆっくりと近づいてくるところだった。唇に微笑を浮かべている。しかもそれは作られたものには見えなかった。彼女の目にも、優しさに満ちた柔らかい光が宿っていたからだ。この店を訪れた客を精一杯もてなそうとする気持ちが、オーラのように全身から溢《あふ》れていた。
「いらっしゃいませ」彼女は軽く会釈しながらいった。その間も目は今枝たちに向けられたままだった。
今枝は黙って頷き返した。
「菅原様ですね。篠塚様のご紹介と伺っておりますが」
「そうです」今枝はいった。予約を入れる際、紹介者を訊かれたのだ。
「篠塚……一成様の?」雪穂はわずかに顔を傾けた。
「ええ」頷いてから、なぜ康晴ではなく一成の名前が先に出るのだろうと今枝は思った。
「今日は奥様のお召し物を?」
「いや」今枝は笑って手を振った。「姪《めい》なんです。社会人になったお祝いを、まだあげてなかったものですから」
「ああ、さようでございますか。どうも失礼いたしました」雪穂は微笑んだまま、長い睫《まつげ》を伏せた。その時前髪がはらりと顔に落ちた。それを彼女は薬指で上げた。その動作はじつに優雅で、今枝は古い外国映画で見た貴族の女性を思い出した。
唐沢雪穂は二十九歳になったばかりのはずだった。その年齢で、どうやってこの雰囲気を身につけたのだろうと不思議に思った。今枝は、篠塚康晴という人物が一目惚れした心境が理解できた。男ならば大抵の者がひかれるに違いない。
白いスーツの女が何着かの洋服を持って戻ってきた。このあたりなんかはいかがでしょう、と絵里に勧めている。
「せいぜい相談に乗ってもらって、似合うのを選ぶといい」今枝は絵里に声をかけた。
絵里は彼のほうを振り返り、眉《まゆ》をぴくりと動かし、奇妙な笑みを浮かべた。どうせ買ってくれる気なんかないくせに――目がそう語っていた。
「篠塚様はお元気にしておられますでしょうか」雪穂が訊いてきた。
「ええ、相変わらず忙しい男ですがね」
「失礼ですが、篠塚様とはどういった御関係で?」
「友人です。ゴルフ仲間ですよ」
「ああ、ゴルフの……そうなんですか」彼女は頷いた。アーモンド形の目が、今枝の手首に向けられた。「素敵な時計ですね」
「えっ? ああ……」今枝は腕時計を右手で隠していた。「人から贈られたものです」
雪穂はまた頷いた。だが唇に浮かぶ微笑の種類が変わったような気がした。篠塚から借りたものだということがばれたのだろうかと一瞬今枝は思った。しかしこれを貸してくれる時に篠塚は、「大丈夫、この時計を彼女の前でつけていたことは一度もないはずだから」といったのだ。ばれるはずがなかった。
「それにしてもいい店ですね。これだけ一流の品物だけを揃えるとなると、かなりの経営手腕が必要でしょう。お若いのに大したものだ」店内を見回して今枝はいった。
「ありがとうございます。でも、なかなかお客様の御要望にお応えしきれなくて苦労しております」
「ご謙遜を」
「本当なんです。あ、それより何か冷たい物をお持ちしましょうか。アイスコーヒーとかアイスティーとか。もちろん温かい物もございますけど」
「そうですか。ではコーヒーをいただきます。温かいほうを」
「かしこまりました。ではあちらでお待ちになっていてください。すぐにお持ちいたします」雪穂はソファやテーブルの置かれた一画を掌で示しながらいった。
今枝はイタリア製と思われる猫脚のついたソファに腰を下ろした。テーブルは陳列台を兼ねたもので、ガラス製の天板の下には、ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが奇麗に並べられていた。値札はついていないが、もちろん売り物だろう。洋服選びに疲れた客が、ひと休みする間にでも目を留めてくれれば、という計算らしい。
今枝は上着のポケットからマルボロのパッケージとライターを出した。ライターも篠塚から借りたものだ。それを使って煙草に火をつけ、肺いっぱいに煙を吸い込んだ。凝り固まっていた神経が、徐々にほぐれていく感覚がある。なんということだ、俺は緊張していたらしいぞと今枝は気づいた。たかがあんな女一人を前にしただけで――。
あの女の気品や優雅さはどこから来るのだろうと彼は考えた。一体どのようにして形成され、なおかつ磨きをかけられていったのだろう。
今枝の脳裏に、古びた二階建てのアパートが浮かんだ。吉田ハイツ。築年はなんと三十年だ。建っているのが不思議になるような代物だった。
今枝は先週、その吉田ハイツに行ってきた。そこが唐沢雪穂の住んでいた場所だからだ。篠塚の話を聞き、彼はまず、彼女の生い立ちから追ってみようと思ったのだ。
アパートの周辺には、戦前からあったと思われるような小さくて古い家がいくつも建っていた。そして住民の中には、吉田ハイツ一〇三号室に住んでいた母子のことを覚えている人も何人かはいた。
母子の姓は西本といった。酉本雪穂が、彼女の生まれた時の名前だ。
父親が早く亡くなったため、実母の文代と二人暮らしをしていた。文代はパートに出たりして収入を得ていたという。
その文代が死んだのは雪穂が小学六年生の時だ。ガス中毒死だったらしい。一応事故ということになってはいるが、「自殺じゃないかという噂もあった」と近所に住む主婦が教えてくれた。
「西本さんは薬を飲んでたらしいんです。ほかにもいろいろとおかしいことがあったそうです。急に旦那さんに死なれて、ずいぶんと苦労されてたみたいでしたしねえ。でもまあはっきりしたことは結局わからなくて、事故死ということで落ち着いたみたいですけど」その地に三十年以上住んでいるという主婦は、声をひそめていった。
改めて吉田ハイツの前を通る時、今枝は少し近づいてみた。裏に回ると、ひとつの窓が全開されていて、中の様子がよく見えた。
台所のほかには狭い和室が一つあるだけの間取りだった。古い箪笥《たんす》、傷んだ籐の籠などが壁際に並べられ、和室の中央には、卓袱台《ちゃぶだい》代わりにしていると思われるこたつの台が置いてあった。台の上には眼鏡と薬袋が載っている。今ではあのアパートに住んでいるのは老人ばかりだと近所の主婦がいっていたのを今枝は思い出した。
目の前にある部屋で、小学生の女の子と、おそらく三十代後半だったであろう母親が暮らしていた情景を彼は想像した。女の子はこたつの台を机代わりにして学校の宿題をしていたかもしれない。そして母親は疲れきった様子で晩御飯の支度をする――。
胸の奥にある何かが締めつけられたような感覚を、その時今枝は味わった。
この吉田ハイツ周辺の聞き込みで、彼はもう一つ妙な話を掴んでいた。
殺人事件の話だ。
文代が死ぬ一年ぐらい前に、近くで殺人事件が起こり、彼女も警察から取り調べを受けていたというのだ。殺されたのは質屋の店主で、西本文代もしょっちゅう出入りしていたということで容疑者リストに加えられたらしい。無論、逮捕されなかったわけだから、疑いはすぐに晴れたのだろう。
「けど、取り調べを受けたという噂は、あっという間に広がってしもたからね、その影響で働き口がなくなって、余計に苦労することになったんやないかなあ」この話をしてくれた近くの煙草屋の老人は、気の毒そうにいった。
この殺人事件について、今枝は新聞の縮刷版で探してみた。文代が死ぬ一年前というと一九七三年である。しかも秋だったとわかっている。
記事はさほど苦労せずに見つかった。それによると死体が見つかったのは大江にある未完成ビルの中で、身体に数箇所の刺傷があったらしい。凶器は細いナイフのようなものと推定されているが、発見はされなかったようだ。殺されていた桐原洋介は、前日の昼間に出ていったきり帰らず、妻も警察に届けを出そうとしていた。その時に所持していたはずの現金約百万円がなくなっていることから、金目当ての犯行、それも桐原洋介が大金を所持していることを知っていた人間によるものではないかと警察では見たようだ。
この事件が解決したという記事のほうは、今枝が探したかぎりでは見つからなかった。あれはたしか犯人が捕まらなかったはずだ、と煙草屋の主人もいっていた。
もし本当に西本文代がその質屋にしばしば通っていたとしたら、警察が目をつけるのも無理はなかった。顔見知りであれば質屋店主のほうも気を許していただろうから、女であっても隙《すき》を見て刺し殺すことはできるだろう。
しかし一度でも警察に呼ばれるようなことになれば、世間の見る目は当然変わってしまう。その意味では西本母子も、その事件の被害者といえなくもなかった。
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すぐそばに人の立つ気配があり、今枝は我に返った。続いてコーヒーの香りが鼻孔をかすめた。エプロンをつけた二十歳過ぎに見える女性が、トレイにコーヒーカップを載せて運んできてくれたところだった。エプロンの下には、身体の線がくっきりと出るTシャツを着ていた。
「これはどうも」といって今枝はコーヒーカップに手を伸ばした。こういう場所にいると、コーヒーの香りまでもが重厚に感じられた。「この店は三人でやっておられるんですか」
「ええ、大抵は。唐沢は、もう一つの店に行っていることも多いですけど」エプロンの娘はトレイを持ったまま答えた。
「もう一つというのは……」
「代官山です」
「ふうん。しかしすごいな。あの若さで二軒も店を持っているなんて」
「今度、自由が丘に子供服の専門店を出す予定なんです」
「三軒目を? そいつは参った。唐沢さんは金のなる木でも持っているのかな」
「社長はすごくよく働きますから。いつ寝ているのかと思うぐらい」小声でそういってから彼女は奥のほうをちらりと見た。それから、「どうぞごゆっくり」といって下がっていった。
今枝はコーヒーをブラックで飲んだ。下手な喫茶店よりも旨いコーヒーだった。
もしかすると唐沢雪穂という女は、見かけ以上に金に執着するタイプなのかもしれないなと今枝は思った。そうでないタイプの人間は、まず商売では成功しないからだ。そして雪穂のそういう特性は、間違いなくあの吉田ハイツに住んでいた頃に形成されたのだろうと彼は踏んだ。
実母をなくした雪穂は、近くに住んでいた唐沢礼子に引き取られた。彼女は雪穂の父親の従姉《いとこ》だった。
今回今枝は、その唐沢家のほうも見てきた。小さな庭のある上品な日本家屋だった。茶道裏千家と書かれた札が、門に出ていた。
その家で雪穂は、義母から茶道、華道、その他女性として身につけておいて損のない技術を、いくつか教わったらしい。現在の雪穂が全身から醸《かも》し出す女らしさの源は、その時期に萌芽したのだろう。
唐沢礼子がまだ住んでいることもあり、その周辺の聞き込みはあまり思うようにはできなかった。しかし唐沢家に引き取られてからの雪穂の生活は、さほど特殊なものではなかったようだ。地元の住民たちにしても、「奇麗で、おとなしそうな女の子がいた」という程度の記憶を持っているだけだった。
「おじさん」
声をかけられ、顔を上げた。菅原絵里が黒いベルベットのワンピースを着て立っていた。裾《すそ》がどきりとするほど短く、形のいい足が露出している。
「それ、会社に着ていけるかい?」
「やっぱり無理かな」
「こちらなんかはいかがでしょうか」白いスーツの女が、別の洋服を見せた。地がブルーで、襟だけが白いジャケットだった。「スカートでもキュロットでも合わせられるようになっているんですけど」
「うーん」と絵里は唸《うな》った。「よく似ているのを持っているような気がするのよね」
「じゃあだめだな」と今枝はいった。そして時計を見た。そろそろ引き上げ時だ。
「ねえおじさん、出直しちゃだめ? あたし、今自分がどんな服を持っているのか、よくわかんなくなっちゃったの」打ち合わせ通りに絵里がいった。
「仕方がないな。じゃあそうしようか」
「ごめんなさいね、いっぱい見せてもらっちゃったのに」絵里が白いスーツの女に謝った。いいえ、かまわないんですよ、と女は愛想笑いをしながら答えている。
今枝は立ち上がり、絵里が自分の服に着替えるのを待った。すると、奥からまた唐沢雪穂が現れた。
「姪御さんのお気に召すものがなかったようですね」
「どうもすみません。気まぐれで困ります」
「いいえ、お気になさらないでください。自分に合ったものを探すというのは、とても難しいことですから」
「そのようですね」
「洋服や装身具というのは、その人の内側にあるものを隠すものではなく、むしろ引き立たせるためのものだと考えています。ですからお客様の服を選ぶ時でも、その人の内面も理解しないといけないと思っています」
「なるほど」
「たとえば、本当に育ちのいい人が着ると、どういうものでも気品に溢れて見えるものなんです。もちろん――」雪穂は真っ直ぐに今枝の目を見て続けた。「その逆もございます」
今枝は小さく頷き、顔をそむけた。
俺のことをいっているのか、と考えた。スーツが似合っていなかったのか。それとも絵里のほうが不自然だったのか。
その絵里が着替えを終えて戻ってきた。
「お待たせ」
「案内状をお送りいたしますから、こちらに御連絡先を書いていただけますか」雪穂が一枚の紙を絵里に渡した。絵里は不安げな目で今枝を見た。
「君のところがいいんじゃないか」
彼がいうと、絵里は頷き、ボールペンを受け取って書き込みはじめた。
「本当に素敵な時計ですね」雪穂がいった。また今枝の左手首を見ていた。
「この時計が気に入られたようですね」
「ええ。カルティエの限定品です。その時計を持っている人は、ほかには一人しか知りません」
「へえ……」今枝は左手を後ろに隠した。
「またのご来店を、心よりお待ちしております」雪穂はいった。
是非近いうちに、と今枝は答えた。
店を出た後、今枝は車で絵里をアパートまで送った。バイト代は一万円だ。
「高級品を身につけて一万円だ。悪くないバイトだろ」
「蛇の生殺しだよ。この次は何か買ってもらうからね」
「この次があればな」そういって今枝はアクセルを踏んだ。この次はたぶんないだろうと彼は考えていた。調査のためではなく、唐沢雪穂という人物に直に会っておきたくて、今日わざわざ行ったにすぎない。
それに――。
あの店に近づくのは危険だと思った。唐沢雪穂は思った以上に油断のならない相手かもしれない。
自分の部屋に戻ってから、篠塚に電話をした。
「どうでした」電話をかけてきたのが今枝だと知ると、即座に彼はこう訊いてきた。
「あなたのおっしゃってた意味が少しわかりましたよ」
「どういうことですか」
「たしかに得体の知れない女性です」
「そうでしょう」
「でもすごい美人だ。従兄さんが惚れたのもわかる」
「……まあね」
「とにかく調査を続けてみます」
「よろしくお願いします」
「ところで、一つ確認しておきたいんですがね、お借りした腕時計のことです」
「何ですが」
「この時計、本当に彼女の前では一度もはめてませんか。はめてないにしても、この時計のことを彼女に話したことはあるんじゃありませんか」
「いやあ、ないはずだけどなあ……何かいわれましたか」
「いわれたというほどではないんですが」今枝は店でのことをかいつまんで話した。篠塚は唸り声をあげた。
「彼女が知っているはずはないんだけどなあ」そういってから篠塚は、「ただ……」と小声で続けた。
「何ですか」
「厳密なことをいえば、彼女のいる場所ではめていたことはあります。でも彼女からは絶対に見えなかったと思うし、仮に見たとしても記憶に残るような局面ではなかったと思うんですが」
「どこでの話ですか」
「披露宴会場です」
「披露宴? どなたの?」
「彼等のです。高宮と雪穂さんの結婚披露宴に、その時計をはめていきました」
「あっ……」
「でも僕は高宮のそばにはいきましたけれど、彼女には殆ど近づかなかった。一番接近したのは、キャンドルサービスの時じゃなかったかな。だから彼女が僕の時計を覚えているなんてことは、ちょっと考えられないんです」
「キャンドルサービス……じゃあやっぱり気のせいなのかな」
「だと思いますよ」
受話器を持ったまま今枝は頷いた。篠塚は頭の悪い男ではない。彼がそういうからには、記憶違いということはないだろう。
「面倒なことをお願いして申し訳ありません」篠塚が詫びてきた。
「いえ、これも仕事ですから」それに、と今枝は続けた。「個人的にも、あの女性に興味が湧いてきました。といっても誤解しないでください。惚れたという意味ではありません。あの女性には何かがある、そう感じるんです」
「探偵の勘、ですか」
「まあ、そういうところです」
電話の向こうで篠塚が沈黙した。その勘の根拠について考えているのかもしれない。
やがて彼はいった。「では、ひとつよろしく」
「ええ、がんばってみます」そういって今枝は電話を切った。
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二日後、今枝は再び大阪に来ていた。その目的の一つは、ある女性に会うことだった。その女性のことは、前回唐沢家の近所で聞き込みをした時に偶然知った。
「唐沢さんのお嬢さんのことやったら、モトオカさんのところの娘さんが知ってはるかもしれませんわ。清華女子に通ってたと聞いたことがありますから」こう教えてくれたのは、小さなパン屋のおばさんだった。
今枝はその女性の年齢を訊いてみた。パン屋のおばさんはさすがに首を捻《ひね》った。
「唐沢さんのお嬢さんと同い年ぐらいやないかと思うんですけど、はっきりしたことはちょっと……」
元岡|邦子《くにこ》というのが、その女性の名前だった。そのパン屋に時々来るという。大手不動産会社と契約しているインテリアコーディネーターだということまで、おばさんは知っていた。
東京に帰ってから、彼はその不動産会社に問い合わせてみた。いくつかの手順が必要だったが、最終的には元岡邦子と電話で話ができた。
今枝は自分のことをフリーライターだといった。ある女性向け雑誌に載せる記事の取材をしているのだと説明した。