饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 十 章.3

作者:日-东野圭吾 当前章节:15594 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「じつは今度、名門女子校出身者の自立度、という特集を組もうということになったんです。それで東京や大阪の女子校出身で、現在ばりばりと仕事をこなしておられる方を探していたところ、ある人が元岡さんのことを教えてくださったんです」

 元岡邦子は電話口で意外そうな声をあげた。そんなあたしなんか、と謙遜の言葉を漏らした。しかしまんざらでもない様子が伝わってきた。

「一体誰があたしのことを?」

「申し訳ありませんが、それはいえないんです。約束でしてね。それよりええと、元岡さんは清華女子学園を何年に御卒業ですか」

「あたしですか? 高等部を出たのが五十六年ですけど」

 今枝は心の中で歓声を上げた。期待通り、唐沢雪穂とは同級生ということになる。

「すると唐沢さんを御存じじゃないですか」

「カラサワさん……唐沢雪穂さん?」

「そうです、そうです。御存じなんですね」

「ええ、同じクラスになったことはありませんけど。彼女が何か?」元岡邦子の声になぜか警戒の色が表れた。

「あの方のことも取材する予定なんですよ。唐沢さんは現在東京でブティックを経営しておられましてね」

「そうなんですか」

「ええとそれで」今枝は声に力を込めていった。「小一時間ほどで結構ですから、一度お目にかからせていただくわけにはいきませんか。現在のお仕事を含めて、ライフスタイルなどについて、お話を聞かせていただけるとありがたいのですが」

 元岡邦子は少し迷ったようだが、仕事に支障のない時ならば構わないと答えた。

 元岡邦子の勤務先は、地下鉄御堂筋線|本町《ほんまち》駅から徒歩で数分のところにあった。俗に船場《せんば》と呼ばれる大阪市の中央部である。問屋街、金融街で知られるだけあって、ビジネスビルが林立している。バブルが弾けたなどといわれているが、歩道を行くビジネスマンやウーマンたちは、誰も皆一秒を惜しむように早足だった。

 不動産会社が所有するビルの二十階が、『デザインメイク』という会社の事務所になっていた。今枝は地下一階にある喫茶店で元岡邦子を待った。

 ガラス製の掛け時計が午後一時五分を示した時、白いジャケットを着た女性客が入ってきた。やや大きめの眼鏡をかけている。女性にしては身長が高い。電話で聞いていた特徴を、すべて満たしていた。おまけに足が細く、なかなかの美人でもあった。

 今枝は立ち上がり、彼女を迎えた。そして挨拶しながらフリーライターの肩書きがついた名刺を差し出した。名前も無論偽名である。

 その後で東京で買った菓子の包みを出した。元岡邦子は恐縮しながら受け取った。

 彼女はミルクティーを注文してから席についた。

「お忙しいところをすみません」

「いえ。それより、あたしのことなんか取材する価値があるんですか」元岡邦子は釈然としない様子で訊いた。当然のことながら、アクセントは関西弁だ。

「ええ、もう、いろいろな方のお話を聞きたいと思っているんです」

「その記事って、実名が出るんですか」

「原則的には仮名を使います。もちろん実名が御希望ならばそういうふうにも……」

 いえ、と彼女はあわてて手を振った。「仮名で結構です」

「では早速ですが」

 今枝は筆記具を取り出し、『名門女子校出身者の自立度を検証する』という記事にふさわしそうな質問を始めた。新幹線の中で考えてきたものだ。元岡邦子は嘘の取材とも知らず、一つ一つ真面目に答えてくれた。その様子を見ていると今枝は何だか申し訳なくなり、せめて真剣に聞くことにした。ユーザーがインテリアコーディネーターを利用するメリットについての話や、不動産会社が彼女らの働きによって得る副次的利益は意外に少なくないことなどは、聞いていて損のない内容ではあった。

 約三十分で一通りの質問は終わった。元岡邦子のほうも、一息つくといった感じでミルクティーを口元に運んだ。

 今枝は、唐沢雪穂の話題を出すタイミングを計っていた。先日の電話で伏線は張ってある。だが不自然になってはいけなかった。

 すると元岡邦子のほうからこんなことをいいだした。

「唐沢さんのことも取材するとおっしゃってましたよね」

「ええ」意表をつかれた思いで今枝は相手の顔を見返した。

「ブティックを経営しているとか」

「はい。東京の青山でね」

「ふうん……がんばってるんですね」元岡邦子は目をあらぬ方向にそらせた。少し表情が固くなっている。

 今枝の頭の中で直感が働いた。この女性は唐沢雪穂に対して、あまりいい印象を持っていないのではないか、というものだった。ならば好都合だった。昔の雪穂について尋ねるにしても、本音を語ってくれそうにない相手では意味がない。

 彼は上着のポケットに手を入れながら、「あの、煙草を吸わせていただいてもよろしいでしょうか」と訊いた。ええ、どうぞ、と彼女はいった。

 マルボロをくわえ、ライターで火をつけた。ここからは雑談だ、というポーズを示しているつもりだった。

「唐沢さんのことですがね」今枝はいった。「ちょっと問題が出てきまして、頭を悩ませているんです」

「何か?」元岡邦子の表情に変化があった。明らかに関心を持っている。

「大したことではないのかもしれないのですが」今枝は灰皿に灰を落とした。「人によっては、あの人のことをあまり良くいわない場合があるんです」

「良くいわないって?」

「まあ、あの若さで店を何軒か経営しているわけですからね、人に妬《ねた》まれることはあると思うんですよ。それに実際、そうそう上品なことばかりをしてきたわけでもないでしょうしね」今枝は、ぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。「要するにまあ、お金に汚いとか、商売のためには平気で人を利用するとか、そういったことなんですけどね」

「へええ」

「こちらとしては若き女性実業家ということで取り上げたいんですがね、人間的にあまり評判が良くないとなると、見合わせたほうがいいんじゃないかという声も編集部内で出てくるわけです。それで悩んでいるところでして」

「雑誌のイメージにもかかわりますしね」

「そうです、そうです」今枝は頷きながら元岡邦子の表情を観察した。かつての同級生のことを悪くいわれて不快に感じている、というふうには見えなかった。

 今枝は短くなった煙草を灰皿の中で揉み消し、すぐにまた新しい煙草に火をつけた。煙が相手の顔にかからぬよう気をつけながら吸った。

「元岡さんは、彼女とは中学と高校が同じなんでしたね」

「そうです」

「ではその頃の記憶で結構なんですけど、どうなんですかね、あの方は」

「どう、といわれますと?」

「つまり、そういうところがありそうな人でしたか。これは記事にはしませんから、率直な御意見をお聞かせいただきたいんですけど」

「さあ」元岡邦子は首を傾げた。自分の腕時計をちらりと見る。時間を気にしているようだ。

「電話でもいいましたけど、あたしは彼女とは同じクラスになったことがないんです。ただ、唐沢さんは有名人でした。他のクラスの人間もそうですけど、別の学年の人たちも、彼女のことは知っていたんじゃないかと思います」

「どうして有名だったのですか」

「そりゃあ」といって彼女は瞬《まばた》きをした。「あの容姿だから、やっぱり目立つでしょう? ファンクラブみたいなのを作ってた男の子たちもいるし」

「ファンクラブねえ」

 考えられないことではないなと今枝は雪穂の顔を思い出していた。

「成績も、かなり優秀だったみたいですよ。中学時代に彼女と同じクラスだった友達がいってましたから」

「才媛というわけですね」

「でも性格とか人間性については知りません。話したことも、たぶんないと思うし」

「彼女と同じクラスだったというお友達の評価はどうなんですか」

「その子は特に唐沢さんの悪口はいってませんでした。あんなふうに美人に生まれたらラッキーだって、冗談半分に妬みみたいなことをいってたことはありますけど」

 元岡邦子の台詞《せりふ》に微妙なニュアンスが込められていたのを今枝は聞き逃さなかった。

「その子は……とおっしゃいましたね」彼はいった。「ほかの人で、彼女のことをあまり良くいってない人がいるのですか」

 言葉尻を捉えられたことが不本意そうに、元岡邦子はかすかに眉を寄せた。だが今枝は、それが決して彼女の本音でないことを見破っていた。

「中学時代、彼女について妙な噂が流れたことがあります」元岡邦子はいった。声が極端に低くなっていた。

「どういう噂ですか」

 彼が訊くと、彼女は一旦疑わしそうな目を向けてきた。

「本当に記事にはしませんよね」

「もちろん」彼は深く頷いた。

 元岡邦子は一つ息を吸ってから口を開いた。

「彼女は経歴詐称をしている、という噂でした」

「経歴詐称?」

「本当はひどい家庭で生まれ育ったくせに、そのことを隠してお嬢様ぶっている、というわけです」

「ちょっと待ってください。それは彼女が小さい頃、親戚の女性の養女になったことを指しているわけですか」

 それならば大したことではない、と今枝は思った。

 すると元岡邦子はほんの少し身を乗り出した。

「そうなんですけど、問題は生まれ育った家のほうなんです。噂によれば彼女の実のお母さんは、男性と特別な関係になることでお金を稼いでいた、ということでした」

「ははあ……」今枝は敢えて大げさには驚かないでいた。「誰かの愛人だったということですか」

「かもしれません。でも相手は複数だったということです。噂によれば、ですけど」

 噂、という部分を元岡邦子は強調した。

 しかも、と彼女は続けた。「相手の男性の一人が殺されたそうなんです」

 えっ、と今枝は声を出していた。「本当ですか」

 彼女はこっくりと頷いた。

「それで唐沢さんの実のお母さんも警察の取り調べを受けたということでした」

 今枝は返事をするのを忘れ、じっと煙草の先端を見つめた。

 例の質屋殺しだ、と思った。警察が西本文代に目をつけたのは、単に彼女が質屋の馴染み客だったからだけではないらしい。その噂が真実であったならば、だが。

「あたしがこんな話をしたことは、誰にもいわないでくださいね」

「いいません。大丈夫です」今枝は彼女に笑いかけた。だがすぐ真顔に戻った。「でもそんな噂が流れたら、結構大騒ぎになったんじゃないんですか」

「いえ、それはさほどでもありませんでした。噂といいましたけど、実際にはごく限られた範囲だけで広まった話ですから。噂を流した張本人もわかっていましたし」

「えっ、そうなんですか」

「その人は、知り合いが唐沢さんの生まれ育った家のすぐ近所に住んでいたとかで、今いったようなことを知ったそうです。あたしはその人とはあまり親しくないんですけど、友達を通じて聞いたんです」

「その人も清華女子学園の……」

「同級生でした」

「何という方ですか」

「それはちょっと……」元岡邦子は下を向いた。

「そうですね。失礼しました」今枝は煙草の灰を落とした。あまり詮索して不審に思われることは避けたかった。「でもそういう噂を流すというのは、どういうことなんでしょうね。本人の耳に入ることは考えてなかったのかな」

「その人は当時、唐沢さんに対して敵対心を持ってたみたいです。その人も才媛と呼ばれてましたから、ライバル視したのかもしれません」

「女子校らしいエピソードですね」

 今枝がいうと、元岡邦子は白い歯を覗かせた。

「今から考えると本当にそうですね」

「その二人のライバル関係は結局どうなったのですか」

「それが……」といった後、彼女は少し沈黙し、徐《おもむろ》に口を開いた。「ある事件がきっかけで仲良くなってしまったんです」

「ある事件、といいますと?」

 元岡邦子は周囲を見回すように視線を動かした。彼等の周りのテーブルには客がいなかった。

「その時を流した女の子が襲われたんです」

「襲われた?」今枝は身を乗り出していた。「と、いいますと?」

「その子が長い間学校を休んでいたことがあるんです。交通事故に遭ったという話でしたけど、実際には学校の帰りに襲われて、それで心身のショックから立ち直れなくて休んでいたそうです」

「それは、あの、暴行されたということですか」

 元岡邦子は首を振った。

「詳しいことはわかりません。レイプされたらしいという噂も流れましたけど、未遂だったという話もあるんです。ただ襲われたのは事実のようです。事件現場近くに住んでいた人が、警察が来ていろいろと調べていたのを見たといってましたから」

 何かが今枝の頭の中で引っかかった。聞き流すべき話ではないと思った。

「その事件をきっかけに、その人と唐沢さんが親しくなったとおっしゃいましたね」

 元岡邦子は頷いた。

「倒れている彼女を発見したのが、唐沢さんだったんです。その後も唐沢さんはお見舞いに行ったりして、いろいろと面倒をみていたらしいです」

 唐沢雪穂が――。

 今枝の思考を刺激するものがあった。平静を装っていたが、全身が熱くなるのを感じていた。

「発見したのは、唐沢さんお一人だったんでしょうか」

「いえ、お友達と二人だったと聞きましたけど」

 元岡邦子の答えに、今枝は唾を飲み込みながら頷いた。

 夜は梅田駅のそばにあるビジネスホテルに泊まることにした。今枝はマイクロカセットレコーダーから聞こえる元岡邦子の話を、レポート用紙にまとめていった。彼女は、彼が上着の内ポケットにレコーダーを仕込んでいたことには気づかなかったようだ。

 今日からしばらくの間、元岡邦子は自分の話が載るはずの女性雑誌を買い続けるかもしれないな、と今枝は思った。少し気の毒だが、ささやかな夢を与えたと思うことにした。一区切りしたところで彼はナイトテーブル上の電話に手を伸ばした。手帳を見ながら番号ボタンを押す。

 呼び出し音が三回鳴った後、相手が出た。

「もしもし、篠塚さんですか。……ええ、そうです、今枝です。今、大阪に来ているんですよ。……はい、例の調査でね。じつは、どうしても会っておきたい人物がいるので、連絡を取ろうと思うんです。それで、あなたに連絡先を教えていただこうと思いまして」

 その人物の名前を今枝はいった。

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 玄関のチャイムが鳴ったのは、乾燥機から洗濯物を取り出し始めた時だった。江利子は両手に抱えていたシーツと下着をそばの籠にほうりこんだ。

 インターホンの受話器はダイニングの壁に取り付けられていた。それを取り上げ、「はい」と返事した。

「手塚さんですか。私、東京から来ました前田といいます」

「あっ、はい。今行きます」

 江利子はエプロンを外し、玄関に向かった。中古で買ったばかりのこの家の廊下は、ところどころぎしぎし鳴るところがあった。早く直してほしいと前々からいっているが、夫の民雄《たみお》はなかなか動いてくれない。ややものぐさなところが彼の欠点だった。

 チェーンをつけたままドアを開けた。半袖のワイシャツにブルーのネクタイという出で立ちの男が立っていた。年齢は三十過ぎというところか。

「突然申し訳ございません」男はその場で頭を下げた。奇麗に整髪された頭だった。「あの、おかあさまのほうから話は聞いておられますか」

「はい、聞いております」

「そうですか」男は安堵したような笑みを浮かべ、名刺を出してきた。「こういう者です。よろしくお願いいたします」

 その名刺には、『ハート結婚相談センター調査員 前田和郎』とあった。

「ちょっとすみません」江利子は一旦ドアを閉め、チェーンを外してから改めて開けた。しかし知らない男を家に上げる気にはなれなかった。「あの……家の中は散らかっているので……」

 いやいや、と前田は手を振った。

「ここで結構です」そういってワイシャツの胸ポケットから手帳を取り出した。

 結婚問題専門の調査員が訪ねてくるということは、今朝、母親からの電話で知った。どうやら調査員は、まず江利子の実家に行ったらしい。

「唐沢さんのことを聞きたいて、いうてはったよ」

「雪穂のこと? あの子は離婚したはずやけど」

「せやからよ。どうも、また縁談の話があるらしいわ」

 その縁談相手の依頼で、調査員は雪穂のことを調べているようだと母はいった。

「昔の友達から話を聞きたいということで、うちに訪ねてきはったみたいやけど、江利子は結婚してここにはいませんていうたら、嫁ぎ先を教えてもらうわけにいきませんかていいはるんよ。教えてもかめへんやろか」

 その調査員を待たせた状態で電話をしてきたらしかった。

「それは別にかめへんけど」

「それで、よかったら今日の午後にでも訪ねていきたいていうてはるんやけど」

「ふうん……ええよ、あたしは」

「そしたら、そう答えるからね」

 調査員の名前は前田だと母は教えてくれた。

 いつもならば、そういうわけのわからない相手と会うのはいやだから断ってくれと頼むところだった。そうしなかったのは、相手の調べている人間が唐沢雪穂だったからだ。江利子は江利子なりに、現在彼女がどうしているのかを知りたかった。

 それにしても、結婚相手の調査というのは、もっと密かに行われるものだと思っていた。調査員が堂々と名乗って訪ねてくるというのは意外だった。

 前田は半開きのドアに身体を挟むように立ったまま、江利子と雪穂のこれまでの付き合いについて質問してきた。清華女子学園中等部の三年時に同じクラスになったことをきっかけに親しくなり、大学も同じところに行ったことなどを彼女はかいつまんで話した。調査員はボールペンで手帳にメモしていった。

「あの……お相手はどういう方なんですか」質問が一段落したところで江利子から訊いてみた。

 前田は虚をつかれた顔をした後、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「申し訳ないんですが、今はそれをお教えするわけにはいかないんですよ」

「今はって……」

「この話が正式に進められれば、いずれあなたの耳にも入ると思います。でも、残念ながら現段階では、その前にこの話が消えてしまう可能性もありますからね」

「その相手の方の花嫁候補は、何人かいらっしゃるということですか」

 前田は少し迷った様子を見せてから頷いた。「そのように解釈していただいて結構です」

 どうやら相手は、かなり格式ある家の人間らしい。

「こんなふうに質問を受けたことは、唐沢さんには内緒にしておいたほうがいいでしょうね」

「ええ、そのようにしていただけると助かります。自分のことを調べられたと知って、いい気分になる人はいませんからね。ええと、唐沢さんとは今でも交流があるのですか」

「今は殆どありません。年賀状をやりとりする程度です」

「ははあ。失礼ですが、手塚さんが御結婚されたのはいつですか」

「二年前です」

「その結婚式に唐沢さんは出席されなかったのですか」

 江利子は首を振った。

「式は挙げましたけど、大げさな披露宴はせず、内輪だけのパーティで済ませたんです。だから彼女には招待状を出さず、結婚報告の通知だけを送りました。彼女は東京だし、それに何というか、ちょっとタイミングが悪くて、招待しにくかったものですから……」

「タイミング?」といってから前田は合点したように首を大きく縦に動かした。「唐沢さんは離婚された直後だったんですね」

「その年にもらった年賀状に、別れたということだけ簡単に書いてありました。それでちょっと気を遣ってしまったんです」

「なるほど」

 離婚のことを知った時には、電話して事情を知りたいと江利子は思った。だがあまりにも無神経な気がして、結局かけないでおいたのだ。いずれ彼女のほうから何か連絡があるかもしれないとも思っていた。しかし連絡はなかった。だから何が原因の離婚なのか、よく知らないままだった。年賀状には、『これでまたスタートラインに逆戻り。再出発です。』とだけ書いてあった。

 大学二年まで、江利子は中学時代や高校時代と同様に、雪穂と一緒にいることが多かった。買い物に行く時も、コンサートに行く時も、彼女に付き合ってもらった。一年生の時に起きた忌まわしい事件の影響で、見知らぬ男性と付き合うのは無論のこと、新しい知り合いを増やすことにさえも臆病になっていたから、雪穂だけが頼りだった。いわば彼女は江利子と外社会を結ぶパイプだった。

 しかしその状態をいつまでも続けられるはずがなかった。そのことは江利子が一番よくわかっていた。また、雪穂を巻き込んではいけないという思いもあった。もちろん彼女が不平らしきものを漏らしたことなど一度もない。だが彼女がダンス部の先輩である高宮と交際していることを江利子は知っていた。彼と一緒にいる時間を長く持ちたいと考えるのは当然のことだった。

 さらにもう一つ本音がある。雪穂が高宮と交際を始めたことで、江利子はある男性のことを思い出すことが多くなってしまった。その男性とは篠塚一成だ。

 雪穂は江利子の前で高宮のことを話したりはしなかったが、何気ない言葉の断片は、恋人の存在を浮かび上がらせた。そのたびに江利子は胸に灰色のベールがかかるのを自覚した。深い闇の底まで心が落ち込んでいくのを止められなかった。

 大学二年の半ば頃から、江利子は意識的に雪穂と会う頻度を減らすよう努力した。雪穂は戸惑っていたようだが、次第に彼女のほうからも接触してこなくなった。頭のいい女性だから、江利子の意図を察したのかもしれない。今のままでは江利子がいつまでも自分の足で立てないと思ったのかもしれない。

 友人関係を白紙にしたわけではないから、連絡が全く絶えたわけではない。会えばおしゃべりをするし、時には電話をかけ合ったりもした。しかしそれは他の友人と此べて際立ったものではなかった。

 大学を卒業し、二人の交際はさらに疎遠になった。江利子は親戚の世話で地元の信用金庫に就職し、雪穂は上京して高宮と結婚したからだ。

「これはあなたの印象で結構なのですが」前田が質問を続けた。「唐沢さんはどういったタイプの女性でしょうか。内向的で神経質であるとか、勝ち気で大雑把《おおざっぱ》だとか、そういった言い方でいいんですけど」

「難しいですね、そういう言い方をするのって」

「ではあなたの言葉で結構です」

「一言でいうと」江利子は少し考えてからいった。「強い女性です。特に活動的というわけではないんですけど、そばに近づくとパワーが放射されているような気がします」

「オーラみたいに?」

「そうです」江利子は真顔で頷いた。

「ほかには?」

「ほかには……そうですね、何でも知っている女性、かな」

「ほほお」前田は目を少し見開いた。「それはおもしろいですね。何でも知っている女性。物知りというわけですか」

「単に知識が豊富というんじゃなくて、人間の本質だとか世の中の裏を知っているという感じがするんです。だから彼女といると、その、とても」迷ってから言葉を継いだ。「勉強になりました」

「勉強にね。それほど物事をよく知っている女性が、結婚には失敗した。そのことをどうお考えになられますか」前田は矢継ぎ早に質問してきた。

 江利子は調査員の目的を理解した。結局、雪穂が離婚していることにこだわっているのだなと察知した。その本質的な原因が彼女にあったのではないかと心配しているわけだ。「あの結婚に関しては、彼女は間違いを犯したかもしれません」

「といいますと」

「彼女には珍しく、雰囲気に流されるみたいに結婚を決めてしまったような気がするんです。彼女がもっと自分の意思を通していたら、結婚しなかったんじゃないかと思います」

「すると相手の男性のほうが強引に結婚を決めてしまったというわけですか」

「いえ、強引だったというわけではないんですけど」江利子は慎重に言葉を選んだ。「恋愛結婚の場合には、お互いの気持ちの昂《たかぶ》りが、やっぱりある程度バランスのとれた状態でないといけないと思うんです。その点でちょっと……」

「高宮さんに比べて、唐沢さんのほうの気持ちはさほどでもなかった、ということですか」

 前田は高宮の名前を出してきた。雪穂の前夫について調べていないわけはないから、これは驚くことではなかった。

「うまくいえないんですけど……」江利子は表現に迷った。迷いながら話していた。「最愛の人ではなかった、と思うんです」

「ははあ」前田が目を見張った。

 直後に江利子は後悔した。つまらないことをいってしまった。安易に口にすべきことではなかった。

「すみません。今のはあたしの勝手な想像です。気にしないでください」

 なぜか前田は黙り込み、彼女の顔を見つめていた。やがて何かに気づいたように、はっとした顔を見せた。それからゆっくりと笑みを取り戻した。

「いいんですよ。さっきも申し上げたでしょう。あなたの印象を話してくださって結構なのです」

「でも、もうやめておきます。いい加減なことをいって、彼女に迷惑をかけたくないですから。あの、もういいですか。彼女のことなら、もっとほかによく知っている人がたくさんいると思いますよ」

 江利子はドアノブに手を伸ばしかけた。

「待ってください。最後にひとつだけ」前田は人差し指を立てた。「中学時代のことで、教えていただきたいことがあるんです」

「中学の時?」

「ある事件についてです。あなた方が三年生の時、一人の生徒さんが襲われたそうですね。それを発見したのが唐沢さんとあなただったというのは本当ですか」

 江利子は自分の顔から血の気が引くのを感じた。「それが何か……」

「その頃の唐沢さんについて、何か印象に残っていることはありませんか。彼女の人となりを示すようなエピソードが」

 相手が話し終える前に、江利子は激しくかぶりを振っていた。

「何もありません。あの、お願いですから、これぐらいにしてください。あたしも忙しいですから」

 その剣幕に圧倒されたのか、調査員はあっさりとドアから身体を離した。

「わかりました。どうもありがとうございました」

 それに対してろくに返事もせず、江利子はドアを閉めた。動揺を見せてはいけないと思いつつも、平静を装えなかった。

 彼女は玄関マットの上に腰を下ろした。鈍い頭痛がする。右手で額を押さえた。

 どす黒い記憶が胸に広がり始めていた。もう何年も経つというのに、心の傷は殆ど癒されていない。ただそこに傷があることを忘れていただけだ。

 あの調査員が藤村都子のことをいいだしたせいもある。しかしじつはその前から、あの忌まわしい出来事が脳裏に蘇る気配はあった。

 雪穂について話をしていた時からだ。

 ある時期から江利子は、一つの想像を胸に秘めるようになった。それは最初、単なる思いつきにすぎなかったが、次第にストーリーを持ったものへと発展していった。

 だがそれを決して口に出してはいけなかった。その想像を邪悪なものと思っていたから、胸に抱いていることを気づかれてもいけなかった。自分でも、何とかそんな馬鹿げた妄想を振り払おうとした。

 ところがそれは彼女の心の中に定着し、決して消えなくなった。そのことで彼女は自己嫌悪に陥った。優しく接してくれる雪穂と一緒にいる時など、自分はなんと卑しい人間だろうと思った。

 しかし一方で、その想像を吟味している自分もいるのだった。本当に想像に過ぎないのだろうか、真理ではないのだろうか――。

 雪穂から離れようとした最大の理由は、そこにあるというべきだった。江利子は自分の中に広がる疑惑と自己嫌悪の重みに耐えられなくなったのだ。

 江利子は壁に掴まって立ち上がった。全身がひどくだるい。身体の中に澱《おり》が溜まっていくようだった。

 顔を上げると玄関ドアの鍵があいたままになっていた。彼女は手を伸ばして施錠し、ドアチェーンもしっかりとかけた。

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第 十 一 章

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 約束の店は銀座中央通りに面していた。時刻は午後六時十三分前。会社帰りと思われる男女と、買い物客らしき人々が混在している。皆それなりに満ち足りた表情をしていた。バブルが弾けた影響は、まだ一般市民にまでは及んでいないのかもしれないな、と今枝は感じた。

 前を若い男女が歩いている。二十歳を辛うじて越えたというところだろう。男が羽織っている夏用ジャケットはアルマーニか。つい先程この男女が、路上駐車したBMWから降りるのを今枝は目撃していた。あの車も好景気に乗じて買ったものだろう。尻の青いガキが高級外車に乗る時代など、早いところ去ってくれたほうがいい。

 一階がケーキ売場になっている店の階段を上がる時、彼の腕時計は六時十分前を指した。予定よりも少し遅れていた。約束の時刻よりも十五分から三十分は先に着いておくというのが、彼の信条だった。それは心理的に相手よりも優位に立つためのテクニックでもあった。もっとも今日彼が会う相手は、そういう駆け引きを必要としない人物だった。

 店内をさっと見渡したところ、篠塚一成はまだ来ていなかった。今枝は中央通りを見下ろせる窓際の席に落ち着いた。客の入りは五十パーセントというところだった。

 東南アジア系の顔立ちをしたウェイターが注文を取りにきた。バブル景気で人件費が高騰した際、外国人を雇う経営者が増えた。この店もそうして生き残ってきたくちなのかもしれない。威張りながら働いているような日本の若者を使うよりは余程いい。そんなことを瞬時に考えながらコーヒーを注文した。

 マルボロをくわえ火をつけてから通りを見下ろした。この数分間で、一層人が増えたようだ。各業界で接待費が削られつつあるといわれているが、一部の話なのだろうかと疑問に感じた。それともろうそくが消える前の最後の輝きか。

 通りを行き来する人混みの中から一人の男を今枝は見つけた。ベージュのスーツの上着を手に持ち、大股で歩いている。時刻は六時五分前。やはり一流の人間は遅刻をしないものだと再認識した。

 浅黒い顔のウェイターがコーヒーを運んでくるのと、篠塚一成が片手を上げながらテーブルに近づいてくるのがほぼ同時だった。篠塚は座りながらアイスコーヒーを注文した。「暑いですね」篠塚は掌を団扇《うちわ》代わりにして顔をあおいだ。

「全く」今枝も同意した。

「今枝さんたちの仕事に、お盆休みとかはあるんですか」

「特にありません」今枝は笑いながらいった。「仕事のない時には休んでいるようなものですからね。それにお盆というのは、ある種の調査に適しているともいえます」

「ある種の調査とは?」

「浮気です」そういって今枝は頷いた。「たとえば夫の浮気調査を依頼していた女性に、こんなふうに提案します。お盆にどうしても実家に帰らなければならなくなったと旦那さんにいってください。もし旦那さんが難色を示したら、あなたの都合が悪いのなら一人で行ってきます、といってみてください――」

「なるほど、もし旦那さんに愛人がいるのなら……」

「この機会を逃すはずはありませんよね。奥さんが実家でやきもきしている間に、私は旦那さんが愛人と一泊二日のドライブに出かけているところを撮影するというわけです」

「実際にそういう経験が?」

「あります。何度かね。亭主が罠《わな》にかかった率は百パーセントです」

 篠塚は声をたてずに笑った。どうやら少し緊張がほぐれたようだ。喫茶店に入ってきた時には、顔が何となく強張《こわば》っていた。

 ウェイターがアイスコーヒーを運んできた。篠塚はストローを使わず、またガムシロップもミルクも入れずにがぶりと飲んだ。

「それで、何かわかりましたか」先程からずっと口にしたくてたまらなかったはずの台詞を彼はいった。

「いろいろと調べました。あなたが期待するような報告書にはなっていないかもしれませんが」

「とにかく見せていただけますか」

「わかりました」

 今枝は書類鞄《しょるいかばん》の中からファイルを取り出し、篠塚の前に置いた。篠塚はすぐにそれを開いた。

 依頼主が報告書に目を通す様子を、今枝はコーヒーを飲みながら観察した。唐沢雪穂の生い立ち、経歴、そして現在について調査するという目的は、ほぼ達せられているはずだという自負はある。

 やがて篠塚は報告書から顔を上げた。

「彼女の実の母親が自殺しているとは知らなかったな」

「よく読んでください。自殺とは書いていません。自殺とも考えられたが、決定的な証拠は見つからなかったんです」

「でも自殺をはかったとしてもおかしくないような境遇だったわけだ」

「そのようです」

「意外だったな」そういってから篠塚はすぐに続けた。「いや、そうでもないか」

「というと?」

「いかにも生まれも育ちもお嬢さんという雰囲気ではあるんですが、時折見せる表情やしぐさに、何といったらいいか……」

「育ちの悪さが滲み出ている?」今枝はにやにやしてみせた。

「そこまではいいません。単に上品なだけではないもの、隙のなさのようなものを感じることがあるんです。今枝さんは猫を飼ったことがありますか」

 いえ、と今枝は首を振った。

「僕は子供の頃、猫を何匹か飼ったことがあるんです。血統書付きではなく、すべて拾った猫でした。ところが同じように接しているつもりでも、拾った時期によって猫の人間に対する態度は大きく違ってくるんです。赤ん坊の時に拾った猫というのは、物心ついた時からずっと家の中にいて人間の庇護の下で暮らしているわけだから、人間に対して警戒心をあまり持っておらず、無邪気で甘えん坊です。ところがある程度大きくなってから拾った猫というのは、なついているようでいても、じつは警戒心を百パーセント解いてはいないんです。餌《えさ》をくれるからとりあえず一緒に暮らしてはいるが、決して油断をしてはならない――そんなふうに自分にいいきかせているようなふしがあります」

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