饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 十 章.4

作者:日-东野圭吾 当前章节:15454 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「唐沢雪穂さんには、それと同じ雰囲気があると?」

「自分が野良猫にたとえられたと知ったら、彼女はそれこそ猫のように怒るでしょうが」篠塚は口元を綻《ほころ》ばせた。

「でも」今枝は唐沢雪穂の猫を連想させる鋭い目を思いだしながらいった。「その特性が逆に魅力になっている場合もある」

「おっしゃるとおりです。だから女は恐ろしい」

「同感です」今枝はグラスの水を一口飲んだ。「ところで、株取引に関する報告文はお読みになりましたか」

「ざっと目を通しました。よく証券会社の担当がわかりましたね」

「高宮さんのところに少し資料が残っていたんです。そこから突き止めました」

「高宮のところに」篠塚は顔をかすかに曇らせた。様々な懸念が脳裏をよぎっている表情だ。「今回の調査について彼にはどのように説明を?」

「ざっくばらんに事情を話しました。唐沢雪穂さんとの結婚を望んでいる男性の家族から依頼されて調査しているのだとね。いけませんでしたか」

「いや、それでいいです。もし結婚ということになれば、いずれわかることですから。彼はどんな様子でした?」

「彼女にいい相手が見つかったのならよかったとおっしゃっていました」

「僕の身内だとは話さなかったのですね」

「話しませんでしたが、あなたからの依頼ではないかと薄々感づいてはおられるようでした。当然でしょうね。全くの他人が、多少なりとも高宮さんと面識のある私のところに、たまたま唐沢雪穂さんの調査を依頼してきたなんてのは、話ができすぎている」

「そうですね。じゃあ機会を見て、僕のほうから高宮に話したほうがいいかもしれない」篠塚は独り言のようにいってから再びファイルに目を落とした。「この報告書によると、彼女は株でかなり稼いだようですね」

「ええ。残念ながら彼女の担当だった女性はこの春に寿退社をしていたので、その人の記憶に頼るしかなかったのですが」

 もっとも退社していなければ顧客の秘密を他人に話すようなことはしないだろうがと今枝は思った。

「去年あたりまでは素人投資家でも結構儲けていたと聞いていますが……リカルドの株に二千万もつぎ込んだってのは本当なんですか」

「本当らしいです。担当の女性も強く印象に残っているといっていました」

 株式会社リカルドは元来半導体メーカーである。そのリカルドがフロンの代替物質を開発したと発表したのは約二年前だ。一九八七年九月に国連でフロンガス規制が採択されて以来、国内外で繰り広げられている開発競争で、リカルドがついに頭ひとつ抜け出したわけだ。一九八九年五月には、今世紀中にフロン全廃をうたったヘルシンキ宣言が採択され、以後リカルドの株は伸び続けた。

 担当者が驚くのは、唐沢雪穂が株を買った時点では、リカルドの開発状況は全く公開されていなかったということである。それどころかリカルドがそういう研究をしていることさえ、業界でも殆ど知られていなかった。国内有数のフロンメーカーであるパシフィック硝子で長年フロンガス開発に携わってきた技術者数名が引き抜かれていたと判明するのは、代替物質開発に関する記者会見が終わってからのことだった。

「同様のケースがほかにもいろいろあるようです。どういう根拠に基づいているのかは不明だが、唐沢雪穂さんが株を買った会社は、しばらくすると必ずといっていいほどヒットを飛ばす。その確率は殆ど百パーセントだったと担当者はいっています」

「インサイダー?」篠塚は声を落としていった。

「――を担当者も疑っていたようです。唐沢さんの旦那さんはどこかのメーカー勤務らしいが、特殊なルートで他社の開発状況を知ることができるのだろうか、とね。もちろん唐沢さん本人に訊くようなことはしなかったそうですが」

「高宮の部署はたしか……」

「東西電装株式会社の特許ライセンス部。たしかに他企業の技術に通暁する環境ではありますが、あくまでも公開された技術に関してだけです。未公開の、しかも開発途中にある技術の情報など得られるはずがない」

「すると単に株式に関して勘がいいということなのかな」

「勘もいいようです。その担当者の話では、株を手放すタイミングも絶妙だったということですから。まだ少し上がりそうな気配を残している段階で、すぱっと次に切り替えてしまう。それが素人投資家にはなかなかできないのだといってました。でもね、やはり勘だけでは株はやっていけませんよ」

「彼女の背後に何かある……ということなのかな」

「わかりません。しかしそんな気はします」今枝は肩をちょっとすくめて見せた。「これこそ勘にすぎないといわれそうですが」

 篠塚はもう一度ファイルに目を走らせた。首をわずかに傾げる。

「ほかに気になることが一つあるんですが」

「何ですか」

「この報告書によると、彼女は昨年あたりまで結構頻繁に株の売り買いをしていたようですね。現在も手を引いたわけではなさそうだ」

「ええ。たぶん店のほうが忙しいからでしょうが、今では一時ほど力を入れてはいないらしいです。しかし手堅い株をいくつかは持っているようです」

 篠塚は、また首を小さく捻った。「変だな」

「どうかしましたか。何か報告に落ち度がありましたか」

「いや、そうじゃないんです。高宮から聞いた話と少し違うなあと思いまして」

「高宮さんから?」

「彼等がまだ結婚していた頃、雪穂さんが株に手を出したという話は知っています。しかし家事がおろそかになるという理由で、彼女が自分の意思ですべて売り払ったと聞いているんです」

「売り払った? すべて? それは高宮さんが確認されたんでしょうか」

「さあ、そこまでは知りません。確認はしていないんじゃないかな」

「私が担当者から聞いたかぎりでは、唐沢雪穂さんが株から手を引いた時期はなかったようです」

「どうやらそうらしいですね」篠塚は不快そうに唇を結んだ。

「このように、彼女の資金運用については一応把握することができました。ただ、肝心な疑問は残ったままなんです」

「元々の資金はどこから出たか……ですか」

「そのとおりです。具体的な資料がないので正確に遡《さかのぼ》るのは難しいのですが、担当者の記憶をもとに推測していきますと、彼女は最初からかなりまとまった額の資金を持っていたことになります。それは主婦の小遣い程度の額ではありません」

「数百万レベルということですか」

「たぶんそれ以上でしょう」

 篠塚は腕を組み、低く唸った。「高宮も、彼女の財布の中身については見当がつかないといったことがあります」

「以前あなたもおっしゃっていましたが、彼女の養母である唐沢礼子さんには大した資産はないようです。少なくとも、何百万もの金を用立てるのは簡単ではないでしょう」

「それをなんとか調べられませんか」

「調べてみるつもりです。ただ、もう少し時間をいただきたいのですが」

「わかりました。お任せします。このファイルはいただいても?」

「どうぞ。コピーは手元にありますから」

 篠塚は薄いアタッシェケースを持っていた。そこにファイルをしまった。

「そうだ。これをお返ししておかなきゃいけなかった」今枝は自分の書類鞄から紙の包みを取り出した。開くと腕時計が入っている。それをテーブルに置いた。「先日お借りした時計です。服のほうは宅配便で送りましたから明日にでも届くと思います」

「時計も一緒に送ってくださってよかったんですよ」

「そういうわけにはいきません。事故があった場合、弁償してもらえませんから。カルティエの限定品だそうですね」

「そうだったかな。貰い物なんですが」腕時計の文字盤をちらりと見てから篠塚は上着の内ポケットにしまった。

「彼女がそういったんですよ。唐沢雪穂さんが」

「へえ」篠塚は一瞬視線を宙にさまよわせてからいった。「まあ、ああいう仕事をしているぐらいですから、そういったことにも詳しいんでしょう」

「それだけではないと思いますが」今枝はわざと意味深長な言い方をした。

「どういう意味です」

 今枝は尻の位置を少し前にずらし、テーブルの上で指を組んだ。

「唐沢雪穂さんはあなたの従兄さんのプロポーズに対して、なかなか色好い返事をしてくれないということでしたね」

「ええ。それが何か」

「その理由について、一つ思いついたことがあるんです」

「何ですか。是非聞きたいですね」

「彼女には」今枝は篠塚の目を見つめていった。「ほかに好きな男性がいるのではないかと思うんです」

 篠塚の顔から、すっと笑みが消えた。代わりに冷静な学者のような表情が表れた。何度か頷き、口を開いた。

「それは僕も考えないではありませんでした。単なる思いつきではありますがね。でもあなたがそんなことをおっしゃるところをみると、その相手の男性にも心当たりがあるということなんでしょうか」

「ええ」今枝は頷いた。「あります」

「誰です? 僕の知っている人間ですか。いや、もし差し障りがあるということでしたら、おっしゃらなくて結構ですが」

「差し障りはないと思います。まあ、あなた次第ですが」今枝はグラスの水を飲み、真っ直ぐに篠塚を見ていった。「あなたです」

「えっ?」

「彼女が本当に好きなのはあなたの従兄さんではなく、あなたではないかと思うんです」

 奇妙なことでも聞かされたように篠塚は眉を寄せた。それから肩をぴくりと上げ、薄く笑った。軽く首も振る。「冗談はやめてください」

「私だってあなたほどではないが、それなりに忙しいんです。つまらない冗談で時間を無駄にしようとは思いません」

 今枝の口調で、篠塚も表情を引き締めた。彼にしても本当のところは、探偵がいきなり気の利かない冗談をいったとは思っていなかったはずだ。あまりにも突飛すぎて、どう対応していいかわからなかったのだろう。

「なぜそんなふうに思うんですか?」篠塚は訊いた。

「直感だといったら笑いますか」

「笑ったりはしませんが、信用もしません。ただ聞き流すだけです」

「そうでしょうね」

「直感でおっしゃってるんですか」

「いや、根拠はあります。一つにはその時計です。唐沢雪穂さんは明らかにそれの持ち主を覚えていました。あなたの記憶にも残らないようなごく短い瞬間ちらりと見ただけで、今まで忘れずにいたのです。それはその持ち主に対して特別な感情を抱いていたせいだとはいえませんか」

「だからそれは彼女の職業からくる習性なんですよ」

「あなたがその時計を彼女の前でつけていた時、彼女はまだブティックのオーナーではなかったはずです」

「それは……」といったきり篠塚は口を閉じた。

「さらにもう一つ、私がブティックに行った時、紹介者を訊かれて篠塚さんだといったところ、彼女は真っ先にあなたの名前を出したんです。ふつうならば従兄さん――篠塚康晴とおっしゃいましたね――その方の名前が先に出るものじゃありませんか。康晴さんのほうがあなたよりも年上だし、会社での地位も上らしい。しかも最近ではかなり頻繁に店を訪れておられるという話ですから」

「たまたまでしょう。康晴の名前を出すのに照れがあったんじゃないですか。何しろ結婚を申し込まれている相手ですから」

「彼女はそういうタイプの女性ではありませんよ。もっとビジネスに関してはシビアです。失礼ですが、あなたは彼女の店に何回行かれましたか」

「二回……かな」

「最後に行かれたのは?」

 今枝の質問に篠塚は黙り込んだ。さらに「一年以上は前でしょう」と訊いてみると、小さく頷いた。

「現在彼女の店にとって篠塚さんといえば上得意客の篠塚康晴さんのことであるはずなんです。もし彼女があなたに対して特殊な感情を持っていなければ、あの場面であなたの名前が出てくることなどないはずです」

「それはちょっと」篠塚は苦笑した。

 今枝も頬を緩めてみた。「強引すぎますか」

「そう思います」

 今枝はコーヒーカップに手を伸ばした。一口飲み、いったん後ろにもたれかかる。ため息を一つついて、またさっきと同じように身体を起こした。

「大学時代からの知り合いだとおっしゃいましたね、唐沢さんとは」

「ええ、ダンス部の練習で」

「その頃のことをいろいろと思い出してみて、何か思い当たることはありませんか。つまり彼女があなたに好意を持っていたと解釈できそうなエピソードです」

 ダンス部のことが話題に上ったので、何か思いついたことがあるようだ。篠塚の顔が少し険しくなった。

「やはり彼女に会いに行ったんですか」瞬きして続けた。「川島江利子さんのところへ」

「行きました。でも御心配なく。あなたの名前は一切出していませんし、怪しまれないように振る舞いましたから」

 篠塚はため息をついた。小さく頭を振る。「彼女は元気でしたか」

「お元気そうでした。二年前に結婚しています。相手は電気工事会社に勤める事務屋さんです。見合い結婚だそうです」

「元気ならよかった」篠塚は頷いていってから顔を上げた。「彼女が何か?」

「高宮さんは唐沢雪穂にとって最愛の人ではなかったのではないか――それが川島さんの見解です。つまり最愛の人は別にいたというわけです」

「それが僕だというんですか。ばかばかしい」篠塚は笑いながら顔の前でひらひらと掌を振った。

「でも」今枝はいった。「川島さんはそう思っておられるようです」

「まさか」一瞬にして篠塚の笑いが消えた。「彼女がそういったのですか」

「いえ、それは彼女の様子から私が感じとったことです」

「感覚だけで判断するのは危険ですよ」

「わかっています。だから報告書には書いていないのです。でも確信は持っています」

 高宮は唐沢雪穂にとって最愛の男ではない――そのことを口にした時の川島江利子の表情を今枝は覚えている。明らかに、大きな後悔が彼女を襲っていた。彼女は何かを恐れていた。今枝は彼女と対峙《たいじ》していて、その理由に気づいた。彼女は、「では唐沢雪穂の最愛の人とは誰だったのか」という質問を恐れていたのだ。そう思った途端、いくつかのパズルの断片が組み合わさった。

 ふっと息を吐き、篠塚はアイスコーヒーのグラスを掴《つか》んだ。一気に半分ほど飲む。からり、と氷の動く音がした。

「そういわれても思い当たることなんか何もないです。彼女から何か告白されたこともないし、誕生日のプレゼントもクリスマスプレゼントも貰った覚えがない。辛うじて貰ったといえばバレンタインデーの義理チョコぐらいかな。だけどそれは男性部員全員が貰ったんです」

「あなたのチョコレートにだけ、特別な思いがこめられていたかもしれない」

「ないです。絶対にない」篠塚はかぶりを振った。

 今枝はマルボロの箱に指を突っ込んだ。最後の一本が入っていた。それをくわえ百円ライターで火をつけた。マルボロの空き箱は左の掌で握りつぶした。

「これもまた先程の報告書には書かなかったことですが、彼女の中学時代のエピソードで、一つ気になることがありました」

「何ですか」

「レイプ事件です。いや、レイプされたかどうかは不明ですが」

 今枝は雪穂の同級生が襲われたこと、それを発見したのが雪穂と川島江利子であったこと、被害者は元々雪穂に敵対心を持っていたことなどを話した。予想通り篠塚の顔は微妙に強張っていった。

「その事件が何か」と彼は訊いた。声も固くなっていた。

「似ていると思いませんか。あなたが学生時代に体験した事件と」

「似ているからどうなんですか」篠塚の口調には、はっきりと不快感が表れている。

「その事件では、結果的に唐沢雪穂はそのライバルを懐柔することに成功したわけです。そのことを覚えていた彼女が、今度は自分の恋のライバルを蹴落とすために、同様の事件を起こした――そういう可能性もあるわけです」

 篠塚は今枝の顔を見つめてきた。睨むと表現したほうがふさわしい視線だった。

「空想にしても、あまり楽しいものじゃないですね。川島さんと彼女は親友だったはずですよ」

「川島さんはそう思っていた。しかし果たして唐沢雪穂のほうもそう考えていたかどうか。私はね、中学時代の事件も彼女が仕組んだものじゃないかとさえ疑っているんです。そう考えたほうがすべてに辻褄《つじつま》が合う」

 篠塚は顔の前で右手の掌を広げた。

「やめましょう。僕が欲しいのは事実だけです」

 今枝は頷いた。「わかりました」

「この次の報告を待っています」

 篠塚は腰を浮かし、テーブルの端に置かれた伝票を取ろうとした。だがその前に今枝はその伝票を手で押さえた。

「もし、今の話が単なる空想でなく事実だと証明できる何かを私が発見したら、そのことを従兄さんに話す勇気がありますか」

 すると篠塚はもう一方の手で今枝の手を退かし、伝票を摘《つま》み取った。ゆっくりとした動作だった。

「もちろんありますよ。それが事実ならばね」

「よくわかりました」

「では、次の報告を待っています。事実の報告を」

 篠塚は伝票を手に歩きだした。

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 菅原絵里から電話がかかってきたのは、篠塚と銀座で会った二日後の夜だ。今枝は別の仕事で夜十一時過ぎまで渋谷のラブホテルを張り込んでいて、部屋に帰ったのは午前零時を回ってからだった。服を脱ぎ、シャワーを浴びようと思った時に電話が鳴りだしたのだった。

 ちょっと妙なことがあったので電話したのだと絵里はいった。口調に冗談の響きは含まれていなかった。

「留守番電話にさ、何もいわないで切っただけっていうのがいくつも入ってるの。なんだか気味が悪くってさあ。今枝さんじゃないよね」

「無言電話をする趣味はないな。居酒屋の客で絵里に入れ揚げてる男がかけてきたんじゃないのか」

「そんな男いないよ。大体、客に電話番号を教えたりしないもん」

「電話番号なんて、簡単に調べられるものだぜ」

 たとえば郵便受けを開けてNTTからの請求書をこっそり盗み見するとか、と自分のテクニックの一つを今枝は思い浮かべる。もっとも、今は絵里を怖がらせるだけだから口には出さない。

「それからもう一つ気になることがあるんだけど」

 なんだ、と今枝は訊いた。

「気のせいかもしれないんだけど」絵里は声を低くした。「なんだか、この部屋に誰かが入ったような気がする」

「なに……」

「さっきバイトから戻ってきて、部屋のドアを開けた瞬間にそう感じたんだ。おかしいなって」

「具体的に変なことがあるのか」

「うん。まずサンダルが倒れてた」

「サンダル?」

「ヒールの高いサンダル。玄関に置いてあったんだけど、それの片方が倒れてた。あたし、靴を倒れたままにしておくのは絶対に嫌なんだよね。だからどんなに急いでる時でも、必ずきちんと立てておくの」

「それが倒れてたわけか」

「うん。それからこの電話」

「電話がどうした」

「置いてある角度が変わってた。あたしは座ったまま左手ですぐに受話器を取れるよう、台に対してちょっと斜めに置くんだけど、どういうわけか台と平行になってる」

「それは絵里がやったことじゃないのか」

「違うと思う。こんなふうに置いた覚えないもん」

 一つの考えがすぐに今枝の頭に浮かんだ。しかしここでも彼はそれを話さなかった。

「わかった。いいか絵里、よく聞くんだ。これから俺がそっちへ行こうと思うけれど、かまわないか」

「えっ、今枝さんが来るの? ええと……まあいいけど」

「心配しなくても狼に変身したりしないよ。次に、俺が行くまでは絶対に電話を使うな。わかったか」

「わかったけど……どういうこと?」

「それは行ってから説明する。それからもう一つ。俺はドアをノックするが、必ず俺だということを確かめてからドアを開けるんだ。いいな」

「うん、わかった」絵里は電話をかけてきた時以上に不安そうな声で答えた。

 今枝は電話を切ると服を着て、スポーツバッグに手早くいくつかの道具を放り込んだ。スニーカーを履き、部屋を出た。

 外は小雨が降っていた。傘を取りに戻ろうかと一瞬思ったが、結局彼はそのまま走りだした。絵里のアパートまでなら数百メートルの距離だ。

 アパートはバス通りから一本中に入ったところに建っていた。向かい側に月極の駐車場がある。外壁に罅《ひび》の入ったアパートの外階段を駆け上がり、二〇五号室のドアをノックした。ドアが開き、絵里の憂鬱そうな顔が覗《のぞ》いた。

「どういうこと?」と彼女は訊いた。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた。

「俺にもわからんよ。絵里の思い過ごしであってくれることを祈っている」

「思い過ごしじゃない」絵里はかぶりを振った。「電話を切った後、ますます気持ちが悪くなってきた。自分の部屋じゃないみたい」

 それこそ気持ちの問題だと思ったが、今枝は黙って頷き、ドアの隙間から身体を滑り込ませた。

 玄関には三足の靴が出しっぱなしになっていた。一つはスニーカー、一つはパンプス、そして残る一つがサンダルだ。なるほどサンダルのヒールは高い。これならちょっと触れただけでも倒れてしまうだろう。

 靴を脱ぎ、今枝は部屋に上がり込んだ。小さな流し台がついているだけのワンルームだ。それでも入り口から中が丸見えにならないよう、途中にカーテンを吊してある。カーテンの向こうにはベッドとテレビとテーブルが置かれている。古いエアコンは彼女の入居時から付いていたものか。大きな音をたてながらも、一応冷風を送っている。

「電話は?」

「そこ」絵里はベッドの横を指した。

 天板がほぼ正方形をした小さな棚があり、その上に白い電話機が載っていた。最近流行のコードレスではない。この部屋では不必要だからだろう。

 今枝はバッグから黒く四角い装置を取り出した。上部にアンテナがついていて、表面には小さなメーターとスイッチ類が並んでいる。

「何それ? トランシーバー?」絵里が訊いた。

「いや、ちょっとしたおもちゃだよ」

 今枝はパワースイッチを入れた。さらに周波数調整のつまみを回す。やがて百メガヘルツ周辺でメーターに変化が表れた。感知を示すランプーも点灯した。その状態で電話に近づけたり、逆に電話から遠ざけたりする。メーターは如実に反応した。

 彼は装置のスイッチを切った。電話機を持ち上げて裏を見た後、バッグから今度はドライバーセットを取り出した。プラスドライバーを手にし、電話機のカバーを留めているプラスネジを外していく。思った通り、ネジを緩めるのに大きな力はいらなかった。一度誰かが外したせいだ。

「何やってるの? 電話機を壊しちゃうの?」

「いや、修理だよ」

「えっ?」

 ネジをすべて取ると、慎重に裏カバーを外した。電子部品の並んだ基盤が見える。彼はすぐに、テープで取り付けられた小さな箱に目をつけた。指でつまみ、取り除いた。

「何それ? 取っちゃってもいいの」

 絵里の質問には答えず、今枝は箱についている蓋《ふた》をドライバーでこじあけた。水銀ボタン電池が入っていた。それもまたドライバーの先でほじくり出した。

「よし、これでオーケーだ」

「何なのよ、それ。教えてよお」絵里が喚いた。

「別にどうってことない。盗聴器だ」電話のカバーを元に戻しながら今枝はいった。

「えーっ」絵里は目を剥いて、取り外された箱を手に取った。「どうってことあるよ。どうしてあたしの部屋に盗聴器なんかが仕掛けられてるわけえ?」

「それはこっちが訊きたいね。どこかの男につきまとわれてるんじゃないのか」

「だからそんな奴いないって」

 今枝は再び盗聴器探知機のスイッチを入れ、周波数を変えながら室内を歩き回った。今度はメーターは全く反応しなかった。

「二重三重に仕掛けるほど凝ったことはしていないようだな」スイッチを切り、探知機をドライバーセットと共にバッグにしまった。

「どうして盗聴器が仕掛けられてるってわかったの?」

「それより何か飲ませてくれよ。動き回ったんで暑くなった」

「あ、はいはい」

 絵里は腰の高さほどしかない小さな冷蔵庫から缶ビールを二つ出してきた。一つをテーブルに置き、一つは自分がプルトップを引いた。

 今枝は胡座《あぐら》をかき、ビールをまず一口飲んだ。ほっとすると同時に全身から汗が出た。

「一言でいうと経験からくる直感だよ」缶ビールを片手に彼はいった。「誰かが入った形跡がある、電話機が動かされている、となれば何者かが電話に細工したと考えるのが妥当じゃないか」

「あっ、そうか。意外と簡単」

「――といわれると、そうでもないんだがといいたくなるが、まっいいだろう」さらに一口ビールを飲み、口元を手の甲でぬぐった。「本当に心当たりはないんだな」

「ない。本当。絶対」ベッドに腰かけて、絵里は大きく頷いた。

「ということは、狙いはやっぱり俺……かな」

「狙いが今枝さん? どういうこと?」

「無言電話が留守電にたくさん入っていたといってただろ。それで絵里は気味悪がって俺のところに電話してきた。だけどそれはもしかしたら犯人の計略だったかもしれない。つまり犯人は、絵里に電話をさせるのが目的だった。そんなものが留守電に入っていたら、とりあえず心当たりにかけてみるというのが人情だからな」

「あたしに電話させてどうするの?」

「君の交際範囲を把握する。親友は誰か、いざという時に頼るのは誰か」

「そんなものを知ったって、一円の得にもならないと思うけどな。第一、知りたいなら教えてやるよ。盗聴器なんか仕掛ける必要ない」

「絵里には気づかれずに知りたいということだろう。さて以上のことを整理するとこういうことになる。犯人はある人物の名前と正体を知りたい。手がかりは絵里だ。たぶん犯人は、ある人物が絵里と親しいということだけを知っていた」今枝はビールを飲み干し、空き缶を掌の中でつぶした。「そういった状況に何か心当たりは?」

 絵里は俯き、缶ビールを持っていない右手親指の爪を噛んだ。

「この間の、南青山のブティック?」

「御明察」今枝は頷いた。「あの時絵里は連絡先を店に書き残してきた。だけど俺は何も残していない。俺の正体を知るには君から辿るしかない」

「あの店の人が今枝さんのことを調べようとしたっていうの? どうして?」

「まあそれはいろいろとあるんだよ」今枝はにやりと笑った。「大人の話だ」

 彼の頭の中では篠塚の時計の一件が引っかかっていた。唐沢雪穂は明らかにあの時計が篠塚のものであることを見抜いていた。大事な時計を借りてまで店にやってきたこの男は何者だろうと考えたとしても不思議ではない。そこで今枝と同業の人間を雇い、菅原絵里のセンから調べることにした――大いにありうることだった。

 今枝は先程の電話で絵里と交わした会話を振り返ってみた。彼女は彼のことを今枝さんと呼んでいた。盗聴器を仕掛けた人物は、時間の問題でこのアパートのそばに今枝直巳という男の経営する探偵事務所があることを突き止めるだろう。

「でもあたし、そんなに正確な住所は書かなかったよ。お金持ちのお嬢さんっていう設定なのに住所がコーポ山本じゃまずいと思ってさ。電話番号も少し変えておいた」

「本当かい」

「本当だよ。あたしだって探偵の助手をするぐらいなんだから、少しは考えてるって」

 今枝は唐沢雪穂のブティックに行った時のことを回想した。どこかに落とし穴はなかっただろうか。

「あの日、財布は持ってたか」今枝は訊いた。

「持ってたよ」

「当然、バッグの中に入れてたんだろうな」

「うん」

「あの時、やたら取っ換え引っ換え服を着ていたようだけど、その間バッグはどこに置いていたんだ」

「ええと……フィッティングルームだったと思うけど」

「置きっぱなしだったわけだ」

 うん、と絵里は頷いた。表情が心細そうなものに変わっていた。

「その財布、ちょっと見せてくれ」今枝は左手を出した。

「えー、お金は大して入ってないよお」

「金なんかどうでもいい。金以外のものを見るんだ」

 絵里はベッドの角に引っかけてあったショルダータイプのバッグを開け、中から黒い財布を取り出した。長細い形をしている。グッチのマークが入っていた。

「ずいぶん高級な品物を持ってるじゃないか」

「貰ったの。店長から」

「あのちょび髭《ひげ》の店長か」

「そう」

「ふうん。それはそれは」今枝は財布を開き、カードを入れるためのポケットを調べていった。デパートや美容院のカードと一緒に免許証も突っ込んであった。それを引き抜き内容を確かめた。住所はこのアパートのものになっている。

「えっ、それを勝手に見られたっての?」絵里が驚いていった。

「かもしれない、ということだ。確率は六十パーセント以上だな」

「ひどーい、そんなことするかなあふつう。だったら何、最初からあたしたちは疑われてたってこと?」

「そういうことだ」腕時計を見た時から唐沢雪穂は疑っていたのだ。財布の中身を調べる程度のこともあの女なら平然とやってのけるかもしれない。猫のような目を脳裏に浮かべながら今枝はそう思った。

「でもそれなら店を出る前に、どうしてあたしに住所と名前を書かせたのかな。案内状を送るからとかいっちゃってさ」

「それはたぶん確認のためだろう」

「何の?」

「絵里が本当の住所氏名を書くかどうかだよ。で、結局本当の住所は書かなかったわけだな」

 絵里は申し訳なさそうに頷いた。「番地をちょっと違えて書いちゃった」

「それによって彼女は確信したわけだ。こいつらは服を買いに来たんじゃないってな」

「ごめん。下手な小細工しないほうがよかったんだね」

「まあいいさ。どうせ疑われてたんだ」今枝は立ち上がり、バッグを持った。「戸締まりに気をつけろよ。思い知っただろうけど、プロの手にかかればこんなアパートの鍵なんてついてないも同然なんだ。部屋にいる時は必ずチェーンをかけること」

「うん、わかった」

「じゃあな」今枝はスニーカーに足を突っ込んだ。

「今枝さん、大丈夫かな。誰かが襲ってきたりしない?」

 絵里の言葉に今枝は吹き出した。

「それじゃあまるで007の世界だな。心配しなくていい。せいぜい人相の悪い殺し屋が訪ねてくる程度だ」

「えーっ」絵里は顔を曇らせた。

「それじゃあおやすみ。戸締まり、きちんとしろよ」今枝は部屋を出てドアを閉めた。しかしすぐには歩きださなかった。鍵のしまる音とドアチェーンがかけられる音を確認してからその場を離れた。

 さて、どんなやつがやってくるか――。

 今枝は空を見上げた。小雨は降り続いていた。

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 翌日、小雨は本降りの雨に変わった。そのせいで気温も幾分下がり、猛暑続きの八月の中にあって、わりと過ごしやすい朝となった。

 今枝は午前九時過ぎに寝床から這《は》い出すと、Tシャツにジーンズという出で立ちで部屋を出た。骨が一本曲がっている傘をさし、マンションの向かい側にある『ボレロ』という名の喫茶店に入った。木製ドアの上には小さな鐘がついていて、開閉するとからんからんと音がした。ここでスポーツ新聞を読みながらモーニングセットを食べるのが毎日の習慣になっている。

『ボレロ』はテーブル席が四つとカウンターがあるだけの小さな店だ。テーブルは二つが塞がり、カウンターには客が一人座っていた。頭の禿《は》げたマスターが、カウンターの中から今枝に向かって会釈した。

 今枝はちょっと迷ったが、結局一番奥のテーブル席についた。この時間帯、これから客が押し寄せてくるとは思えなかった。どうしてもテーブル席が足りなくなれば、その時カウンターに移ればいい。

 今枝は特にオーダーをしない。黙っていれば数分後には、太いソーセージを挟んだホットドッグとコーヒーをマスターが運んできてくれるはずだった。ホットドッグには炒めたキャベツも挟んであるだろう。

 すぐそばのマガジンラックには、新聞が何紙か畳んで入れてある。カウンター客がスポーツ新聞を読んでいるから、残っているのは一般紙と経済紙だけだ。今枝は諦めて朝日新聞を抜き取った。読売新聞もあったが、それは彼が購読している。

 椅子に座り直し、新聞を開こうとした時、からんからんと音がした。反射的にドアのほうを見る。男性客が一人入ってきたところだった。

 男の年齢は六十歳近くに見えた。五分刈りにした頭には白髪が混じっている。体格はいい。白い開襟シャツを着た胸は厚く、半袖から出た腕も太かった。背は百七十センチ以上あるだろう。おまけに昔の侍のように姿勢がよかった。

 しかし最も今枝の気をひいたのはそうした外見ではなく、男が店に足を踏み入れるなり、まず今枝のほうに鋭い視線を向けてきたことだった。まるでそこに彼がいることを、店に入る前から知っていたようだった。

 だがじつはそれも一瞬のことだ。男はすぐに視線を無関係な方向に移動させた。同時に男自身も動いていた。男はカウンター席に座った。

「コーヒーをください」男がマスターにいった。

 その一言を聞いて、新聞に目を戻しかけていた今枝は、また顔を上げた。男のアクセントが関西なまりのものだったからだ。意表をつかれたような感じがした。

 その時男がまた今枝のほうを見た。一瞬二人の視線が合致した。

 男の目は他人を威嚇《いかく》するようなものではなかったし、何らかの邪念を含んでいるものでもなさそうだった。しかし人間の憎悪や歪みを知り尽くした目だった。真の冷徹さともいうべき鈍い光が宿っていた。今枝は背中にぞくりとした冷たいものを感じた。

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