だが二人が目を合わせていたのは、本当に短い時間だった。一秒にも満たなかったかもしれない。どちらからともなく目を外した数秒後には、今枝は新聞の社会面の見出しを読んでいた。大型トレーラーが高速道路で事故を起こしたという記事だった。しかし今枝は男のことを完全に意識から追い出せたわけではなかった。あの男は何者だろうという思いが、糸くずのように意識の端にまとわりついていた。
マスターがホットドッグとコーヒーのセットを運んできた。今枝はホットドッグにケチャップとマスタードをたっぷりかけ、かぶりついた。前歯がウインナーの皮を破る感覚が好きだった。
ホットドッグを食べている間、今枝は男のほうを見ないようにした。見ればまた視線が合いそうな気がしたからだ。
最後の一切れを口の中に押し込んだ後、コーヒーカップを口元に運びながら、今枝はちらりと男の様子を窺った。男はちょうど首を動かし、前を向いてコーヒーを飲もうとしているところだった。
たった今まで俺のほうを見ていたのだ――今枝はそんなふうに直感した。
彼はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。ジーンズのポケットに手を突っ込み、千円札を取り出してカウンターの上に置いた。マスターは無言で釣り銭の四百五十円を返してきた。
その間男は殆ど姿勢を変えない。ぴんと背筋を伸ばした体勢でコーヒーを飲んでいた。機械仕掛けのように同じリズム、同じ動きだった。今枝のほうには見向きもしない。
今枝は店を出ると、傘をささずに走って道路を渡った。そしてマンションの階段を駆け上がった。部屋に入る前に『ボレロ』を見下ろしたが、あの初老の男は出てこなかった。
今枝はスチール製の棚に置いてあるミニコンポのスイッチを入れ、CDプレーヤーを動かした。プレーヤーにはホイットニー・ヒューストンのCDが入ったままになっている。ほどなく壁に取り付けた二つのスピーカーから迫力のある歌声が流れてきた。
彼はTシャツを脱いだ。シャワーを浴びるためだった。昨夜は結局あれからシャワーを浴びずに眠ったのだ。おかげで髪もべとついている。
ジーンズのジッパーを下ろした時、玄関のチャイムが鳴った。
いつも聞き慣れているはずのチャイム音が、今日は意味ありげに聞こえた。インターホンに答えないでいると、もう一度鳴った。
今枝はジッパーを上げ、脱いだばかりのTシャツをもう一度着た。一体いつになったらシャワーを浴びられるんだろうと思いながら玄関に出ていき、鍵を外してドアを開けた。
あの初老の男が立っていた。
ふつうならば驚くような局面だったが、今枝は殆ど動じなかった。最初のチャイムを聞いた時から、何となく予感していたことだったのだ。
男は今枝を見て、薄い笑いを浮かべていた。左手に傘を、右手に集金係が持つような黒のセカンドバッグを持っていた。
「何か?」と今枝は訊いた。
「今枝さんですね」男はいった。やはり関西風のアクセントだった。「今枝直巳さん……ですね」
「そうですが」
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんです。お時間、いただけますか」腹に響くような低い声だ。眉間を中心に彫刻刀で刻んだように皺が顔面に走っている。その中の一本が刃物による切り傷だということに今枝は気づいた。
「失礼ですが、あなたは?」
「ササガキといいます。大阪から来ました」
「それは遠くからわざわざ。でも申し訳ないんですが、これから仕事でしてね、すぐに出かけなきゃいけないんです」
「時間はそんなにとらせません。二、三、質問に答えてくれはったらええんです」
「日を改めてください。本当に急いでるんです」
「そのわりには喫茶店で呑気《のんき》に新聞を読んではりましたな」男は口元の端を曲げた。
「私が私の時間をどう使おうとあなたには関係ないはずだ。帰ってください」今枝はドアを閉めようとした。だが男はドアの隙間に、持っていた傘を差し込んだ。
「仕事熱心なのは結構ですな。しかしこっちも仕事でしてね」男は灰色のズボンのポケットに手を入れた。出してきたのは黒い手帳だった。大阪府という文字が見えた。
今枝は吐息をつき、ドアのノブを引く力を緩めた。「警察なら警察と、最初からいえばいいのに」
「玄関先で名乗られるのを嫌う人もおるんですわ。ちょっと話を訊かせてもらえますか」
どうぞ、と今枝はいった。
依頼者のための椅子に男を座らせ、今枝は自分の席についた。じつは依頼者用の椅子は少し低くしてある。それだけの工夫で、仕事に関する話し合いをする時、微妙に優位に立てるものなのだ。だがその神通力もこの男には無力かもしれないなと、皺だらけの顔を見て思った。
今枝は名刺の提示を求めた。持っていないと男はいった。嘘に決まっていたが、そんなことで口論する気はなかった。先程の警察手帳をもう一度見せてくれといった。
「その権利はあるはずですよ。あなたが本物という証拠はどこにもないし」
「もちろん権利はあります。なんぼでも見てやってください」男は手帳を開き、身分証の頁を見せた。名前は笹垣潤三となっていた。写真の顔は少し細いが、同一人物らしい。
「信じてもらえましたか」笹垣は手帳をしまった。「今は西布施警察署というところにおります。刑事課の一係です」
「一係の刑事さん? ということは殺人事件の捜査ですか」意外だった。今枝としては予想していなかった。
「まっ、そんなとこです」
「どういうことかな。私の周りで殺人事件が起きたという話は聞いていませんが」
「そら、事件にもいろいろあります。話にのぼる事件もあれば、誰も話題にせん事件もあります。けど事件には変わりがない」
「いつ、どこで、誰が殺された事件ですか」
笹垣は笑った。顔の皺が複雑な模様を描いた。
「今枝さん、まずこっちの質問に答えてもらえませんか。それを答えてもらえたら、私のほうも礼はさせてもらいます」
今枝は刑事を見た。大阪から来た老刑事は、椅子の上でかすかに身体を揺らしていた。だがその表情にはいささかの揺れもなかった。
「いいでしょう。あなたのほうから先に質問してください。何が訊きたいんですか」
笹垣は傘を身体の前で立て、その柄の上に両手をのせた。
「今枝さん、あんた、二週間ほど前に大阪に行ってきはりましたな。生野区の大江のあたりをうろついてきはった。違いますか」
今枝はいきなり急所をつかれたような気がした。大阪府警と聞いた時から、大阪行きのことを頭に思い浮かべていたのだ。同時に彼は、あの時に布施という駅を利用したことを思い出した。
「どうです?」笹垣は重ねて訊いてきた。だが答えを知っている顔だった。
「行ってきました」今枝は認めるしかなかった。「よく御存じですね」
「あのあたりのことやったら、どこの野良猫が孕《はら》んでるかということまで知ってますがな」笹垣は口を開け、しかし声は出さずに笑った。空気の漏れる奇妙な音がした。その口を一旦閉じてからいった。「何しに行きはりました?」
今枝は高速で頭を回転させながら答えた。「仕事です」
「ほう、仕事。どういう仕事ですか」
今度は今枝が笑って見せた。少しは余裕を示しておきたい。
「笹垣さん。私の職業を知らないわけじゃないでしょう?」
「面白そうな仕事をやってはりますな」笹垣はファイルがぎっしりと詰まったスチール棚を眺めた。「私の友人でも大阪で店を開いてるのがおります。儲かってるのかどうかは知りませんけど」
「つまりこの仕事のために大阪に行ったんです」
「大阪で、唐沢雪穂のことを調べるのが仕事やったわけですか」
やはりそのセンから俺を追ってきたのかと今枝は合点した。どうやって自分に辿り着けたのだろうと考え、昨日の盗聴器事件のことが思い出された。
「何のために唐沢雪穂の生い立ちやら育った環境やらを調べたか、そこのところを話していただけるとありがたいんですけどねえ」笹垣は三白眼で今枝を見た。糸をひくように粘りけのある口調だった。
「御友人がこの仕事をしておられるなら事情はおわかりでしょう。我々は依頼人の名前を明かすことはできないんです」
「つまりどなたかに頼まれて唐沢雪穂のことを調べたとおっしゃるんですな」
「そういうことです」答えながら今枝は、この刑事が唐沢雪穂のことを呼び捨てにしている理由について考えた。余程親しい仲ということか、それとも刑事という職業からくる習慣か。あるいは――。
「縁談絡みですか」笹垣がいきなりいった。
「えっ?」
「唐沢雪穂には縁談の話が持ち上がってるそうですな。先方の家の者としたら、山師みたいな女を嫁にする以上は、十分に身元を調べておきたいと思うのが当然でしょうな」
「何の話です」
「せやから縁談の話です」笹垣は口元に不気味な笑みを浮かべたまま今枝を見た。その視線を机の上に移動させた。「吸うてもかまいませんか」灰皿を指して訊いた。
どうぞ、と今枝は答えた。
笹垣は開襟シャツの胸ポケットからハイライトの箱を取り出した。箱は平たくつぶされていた。箱から抜き取った煙草は少し曲がっていた。それをくわえ、紙マッチで火をつけた。『ボレロ』で貰ったマッチのようだ。
自分にはいくらでも時間があるのだと示すように、刑事はゆったりと煙草を吸った。吐き出された煙は揺れながらのぼっていき、空気に溶け込んだ。
刑事は明らかに今枝に考える猶予を与えようとしていた。手持ちのカードを何枚か示し、相手の出方を見るというやり方が得意技なのかもしれない。喫茶店でわざと存在を示したのも、俺はおまえのことをずっと見張っていたのだと仄《ほの》めかすことで、手持ちカードをより強力なものに見せようという計算があったのだろう。無表情で煙を追う刑事の目には、底知れぬ狡猾さが秘められているようだった。
そのカードの中身を、今枝は猛烈に知りたかった。なぜ殺人を扱う刑事が唐沢雪穂を追っているのか。いや、追っているというのは正確ではない。この男が現在の彼女に関する情報をかなりたくさん持っていることは確実だ。
「唐沢さんに結婚話が持ち上がっているというのは、私も知っています」考えた末に今枝はいった。「だけどそのことと私の調査が関係あるのかと訊かれても、あるともないとも答えるわけにはいきません」
煙草を指に挟んだ格好で笹垣は頷いた。満足そうな表情だった。
笹垣は短くなった煙草を、灰皿の中でゆっくりもみ消した。
「今枝さん、マリオは覚えてはりますか」
「マリオ?」
「スーパーマリオブラザーズ。子供のおもちゃです。もっとも近頃では大人が夢中になってるという話ですけど」
「ファミコンの。ええ、もちろん覚えています」
「数年前、えらいブームがきましたな。おもちゃ屋の前に列ができるぐらいの」
「そうでしたね」戸惑いながら今枝は相槌を打った。どこに行き着く話か先が見えない。
「大阪に、あのおもちゃの偽物を売ろうとしてた男がおりましてね。実際偽物は完成してて、後は売りさばくだけの段階でした。ところがぎりぎりのところで警察が摘発したんです。偽物は押収しました。けど、その男は見つかりません。行方不明なんです」
「逃げたわけだ」
「警察内でも、そう思われてました。いや、今もそう思われてます。指名手配中です」笹垣はセカンドバッグを開け、中から折り畳んだチラシのようなものを取り出した。広げて今枝のほうに見せる。この顔にピンときたら、という馴染みの言葉の下に、髪をオールバックにした五十歳ぐらいの男の顔があった。名前は松浦勇とある。
「一応訊きますけど、この顔をどこかで見たことはありませんか」
「いや、ありません」
「そうでしょうな」笹垣は紙を畳み、再びバッグに入れた。
「あなたはその松浦という男を追っているんですか」
「そうですな。そういう言い方もできます」
「そういう言い方?」今枝は笹垣の顔を見直した。大阪から来た刑事は意味ありげに唇の端を曲げた。
今枝はその瞬間はっと気づいた。殺人を扱う刑事が、単なるゲームソフト偽造の犯人を追いかけているだけのはずがない。笹垣はその松浦という男が殺されたと睨んでいるのだ。彼が探しているのは、松浦の死体であり、松浦を殺した犯人なのだ。
「その男と唐沢雪穂さんとどういう関係があるんですか」今枝は訊いてみた。
「直接の関係はない、かもしれませんな」
「それならどうして……」
「松浦と一緒に消えた男がおるんです」笹垣はいった。「その男もスーパーマリオの偽造に関わってた可能性が大いにあります。で、その男がたぶん……」刑事は言葉を選ぶように少し黙ってから改めて口を開いた。「唐沢雪穂の周りのどこかにおるはずなんです」
「周りのどこか?」今枝は問い直した。「どういう意味ですか」
「言葉のとおりです。どこかに隠れとるはずなんです。テッポウエビっていう海老、御存じですか」刑事がまた先の読みにくい話をし始めた。
「テッポウエビ? いいえ」
「テッポウエビはね、穴を掘ってその中で生活するらしいです。ところがその穴に居候しとるやつがおる。魚のハゼです。そのかわりにハゼはふだん穴の入り口で見張りをしとって、外敵が近づいたら尾ひれを動かして中のテッポウエビに知らせるそうです。見事なコンビネーションや。相利共生というらしいですな」
「ちょっと待ってください」今枝は小さく左手を出した。「唐沢雪穂さんには、そんなふうに共生している男がいるとおっしゃるんですか」
だとしたら大変なことだが今枝は信じられない。これまで調べたかぎりでは、そういう男の存在など全く掴めなかった。
笹垣はにやりと笑った。「私の想像です。証拠なんか、何もありません」
「でも何か根拠があるから、そんなふうに想像するわけでしょう?」
「根拠といえるほどのことはありません。おいぼれた刑事の勘です。せやから当然、外れてる可能性もある。あてにはなりませんわ」
嘘だ、と今枝は思った。岩のように動かせない根拠があるはずなのだ。でなければ、こんなふうに一人で上京してきたりはしないだろう。
笹垣は再びバッグを開け、中から一枚の写真を取り出した。
「この男の顔に見覚えはありませんか」
机の上に置かれた写真に今枝は手を伸ばした。正面を向いた男の顔が写っていた。免許証の写真だろうか。年齢は三十前後ぐらい。顎が尖っている。
どこかで見た顔だ、とまず思った。それを表情に出さぬよう気をつけながら今枝は自分の記憶を探った。彼は人の顔を覚えることを得意としていた。必ず思い出せるという自信があった。
写真を見つめているうちに霧が突然晴れた。写真の男をどこで見たのかを、彼は鮮やかに思い出すことができたのだ。フルネーム、職業、住んでいた場所、そのすべてが瞬《またた》く間にプリントアウトされた。同時に声をあげそうになった。あまりにも意外な人物だったからだ。その驚きをこの場で表現したかった。だが彼はその欲望を辛うじてこらえた。
「この人物が唐沢雪穂さんの共生相手ですか」声の調子をそれまでと変えずに訊いた。
「さあどうでしょうな。で、見覚えは?」
「あるような、ないような」今枝は写真を手に唸ってみせた。「ちょっと確認したいことがあるんですが、隣の部屋に行ってもいいですか。資料と照合したい」
「どういう資料ですか」
「ここに持ってきますよ。少し待っていてください」今枝は笹垣の返事を待たずに立ち上がり、急いで隣の部屋に入って鍵を閉めた。
元来は寝室だが、じつは暗室として使うこともあった。白黒写真の現像ならここでできる。彼は棚に並んでいる写真関連の器具の中から、接写のできるポラロイドカメラを手に取った。現像後にネガとポジペーパーをはがす、ピールアパート方式の写真機だ。
今枝は笹垣の写真を床に置き、カメラを手に持った。ファインダーを覗きながら距離を調整することで焦点を合わせる。レンズのほうを調整していると時間がかかるからだ。
十分にピントが合ったと思われる位置でシャッターを押した。ストロボが光った。
フィルムを引き出し、カメラを元の場所に戻した。そのフィルムを軽く振りながら、もう一方の手で本棚から分厚いファイルを取り出した。そこには唐沢雪穂の調査のために撮影した写真がまとめられている。その中身をぱらぱらと眺め、笹垣に見せても問題がないことを確認した。
ちらりと腕時計を見て撮影から数十秒が経過していることを確認し、彼はフィルムのポジペーパーをはがした。見事に接写ができていた。オリジナルの写真の細かい汚れまでコピーされている。
その写真をそばの引き出しに入れ、オリジナルの写真とファイルを持って今枝は部屋を出た。
「すみません、手間取っちゃいまして」今枝はファイルを机の上に置いた。「見たことがあるような気がしたのは勘違いだったようです。残念ながら、見当たりません」
「このファイルは?」笹垣が訊く。
「唐沢雪穂さんに関する調査資料です。でも大した写真はありません」
「見せてもらっていいですか」
「どうぞ。ただし、どういう写真かは解説できませんのでそのつもりで」
笹垣はファイルされた写真を一枚一枚調べていった。その中身は、唐沢雪穂の実家周辺を撮影した写真や、証券会社の担当者を隠し撮りした写真だった。
最後まで見たところで刑事は顔を上げた。
「面白そうな写真が並んでますな」
「気に入ったものでもありましたか」
「単なる縁談相手の調査にしては妙やと思いますな。たとえば、何のために唐沢雪穂が銀行に出入りする写真まで撮っておかなあかんのか、理解に苦しみます」
「それはまあ、何なりと想像してください」
じつはその銀行には唐沢雪穂の貸金庫があるのだった。尾行することでそのことを突き止めた。銀行に入る前と、銀行から出た後の姿を撮影してあるのは、彼女の身なりに変化がないかどうかを確認するためだ。たとえば入る時にはなかったはずのネックレスが出てきた時にはつけられていたとしたら、それは貸金庫に預けられていたということになる。地道だが、財産をチェックする手段の一つだ。
「今枝さん、一つ約束してもらえませんかねえ」
「何でしょう」
「おたくが今後調査を続けていくうちにこの男――」そういって先程の写真を摘み上げた。「この写真の男を見つけるようなことがあったら、是非知らせてほしいんです。それも早急に」
今枝は写真と笹垣の皺だらけの顔を見比べた。
「では、一つ教えてほしいことがあります」と彼はいった。
「何ですか」
「名前です。その男の名前を教えてください。それから最後に住んでいた場所の住所も」
今枝の要求に、笹垣は初めて逡巡する顔つきになった。
「もしもこの男を見つけてくれはったら、その時にはこの男についての情報をうんざりするほどさしあげますよ」
「私は今、その男の名前と住所が欲しいんですよ」
笹垣は今枝を数秒見つめてから頷いた。机の上のメモ用紙を一枚ちぎり、備え付けのボールペンで何か書いて、今枝の前に置いた。
『桐原亮司 大阪市中央区日本橋2-×-× MUGEN』
「きりはらりょうじ……ムゲンって何です」
「桐原が経営してたパソコンの店です」
「へえ」
笹垣はもう一枚何か書いた。それもまた今枝の前に置いた。笹垣潤三という名前と電話番号らしき数字が並んでいた。ここに連絡しろという意味だろう。
「さてと、えらい長居をしてしまいました。これから仕事やというてはりましたな。どうもお邪魔してすみませんでした」
「いえ」仕事の予定がないことなど見抜いていたくせにと今枝は思った。「ところで、唐沢雪穂のことを調べているのが私だと、どうやって知ったんですか」
笹垣は薄笑いをした。「そういうことはまあ、歩きまわってるうちにわかります」
「歩きまわっているうちに? ラジオを聞いたんじゃないんですか」今枝はツマミを回すしぐさをした。盗聴器の受信機の意味だ。
「ラジオ? 何のことです」笹垣は怪訝そうな顔をした。芝居にしてはあまりにストレートな演技だった。だからこそとぼけているのではないらしいと今枝は察した。
「いや、何でもありません」
笹垣は傘を杖《つえ》のようにつきながらドアに向かった。だがそれを開ける前に振り返った。「余計なお世話ですけど、おたくに唐沢雪穂の調査を依頼しはった人に一言いいたい気分ですな」
「どういうふうにです」
すると笹垣は口元を曲げていった。
「あの女はやめたほうがよろしい。あれはふつうの女狐《めぎつね》やない」
「ええ」今枝は頷いた。「知っています」
笹垣も頷き、ドアを開けて出ていった。
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何かのカルチャースクールの帰りと思われる女性グループが、二つのテーブルを占拠していた。場所を変えたいところだったが、待ち合わせの相手はすでに事務所を出ているはずだった。仕方なく今枝は、女性グループから一番離れたテーブルに向かった。女性たちの平均年齢は四十歳前後というところだ。テーブルの上には飲みものの入れ物以外に、サンドウィッチやスパゲティなどの皿も載っていた。時刻は午後一時半。昼休みが終わった直後だから喫茶店もすいていると踏んだのだが、とんだ誤算だった。彼女たちはカルチャースクールが終わった後、ここで昼食をとりながら延々とおしゃべりするのを、最大の楽しみにしているに違いなかった。
今枝がコーヒーを二口ほど飲んだ時、益田《ますだ》均《ひとし》が店に入ってきた。一緒に仕事をしていた頃よりは少し痩せたようだ。半袖シャツを着て、紺色のネクタイを締めていた。手に大判の封筒を持っている。
益田はすぐに今枝を見つけて近づいてきた。
「久しぶりだな」そういって向かいの席についたが、注文を取りにきたウェイトレスには、「俺はいいよ、すぐに出るから」といった。
「相変わらず忙しいみたいだな」今枝はいった。
「まあな」益田はぶっきらぼうにいった。明らかに機嫌がよくなかった。ハトロン紙の封筒をテーブルに置いた。「これでいいのか」
今枝は封筒を取り、中身を調べた。A4のコピー用紙が二十枚以上入っている。その内容にさっと目を通し、大きく頷いた。見覚えのあるものだった。中には今枝自身が書いた書類のコピーもある。
「これでいい。悪かったな」
「いっておくが、もう二度とこんなことは頼まないでくれよ。事務所の資料を部外者に見せるというのがどういうことを意味するか、おまえだって何年も探偵をやってるんだからわからんわけじゃないだろう」
「すまん。本当にこれっきりだ」
益田は立ち上がった。しかしすぐには出口に向かわず、今枝を見下ろして訊いた。
「今頃になってそんなものを欲しがるとはどういうことだ。尻切れ蜻蛉《とんぼ》の尻尾でも見つけたのか」
「そんなんじゃない。ちょっと確かめたいことがあっただけだ」
「ふうん。まっ、いいけどさ」益田は歩きだした。今枝の言葉を信じているはずはなかった。しかし仕事でもないことに首を突っ込みたくはないようだった。
益田が店から出ていくのを見届けて、今枝は改めて書類に目を通した。三年前の日々がたちまち蘇る。東西電装株式会社の関係者という人物から依頼された、例の調査報告書をコピーしたものだ。
あの時調査が頓挫《とんざ》した最大の原因は、メモリックス社の秋吉雄一という人物の正体を最後まで暴けなかったことだ。本名も経歴も、どこから来た人間なのかということもわからなかった。
ところがつい先日、全く思いがけないところから秋吉の正体を知ることになった。笹垣刑事が見せた写真の男、桐原亮司は、かつて今枝が散々見張り続けた秋吉雄一に間違いなかった。
パソコンショップを経営していたという経歴も、秋吉にはふさわしいものだし、桐原が大阪から姿を消したという時期は、秋吉がメモリックスに入社した時期と合致しそうだった。
最初今枝は単なる偶然だと思った。以前追っていた人物の正体が、数年後全く別の調査をしていてひょいとわかるということも、長年こういう仕事をしていれば起こりうることなのかもしれないと解釈していた。
だが頭の中で整理するうちに、それがとんでもない錯覚だということに気づいた。偶然でも何でもなく、東西電装から依頼された調査と今回の調査は、じつは根っこの部分で繋がっているのではないかと思えてきた。
そもそも今回の唐沢雪穂に関する調査を篠塚から依頼されたきっかけは、ゴルフ練習場で高宮誠と会ったことだ。ではなぜあのゴルフ練習場に行ったかというと、三年前、秋吉を尾行していて、訪れたことがあったからだ。高宮のことも、その時に知っていた。高宮は、秋吉が追いかけていた三沢千都留という女性と親しくしていたのだ。そして高宮誠の当時の妻こそ、唐沢雪穂だった。
笹垣刑事は桐原亮司のことを、唐沢雪穂と相利共生する存在のようにいっていた。あの老刑事がそのようにいうからには、何らかの根拠があるに違いなかった。そこで実際に桐原と唐沢雪穂の間に密接な関係があると仮定して、三年前の調査を振り返ってみる。するとどうなるか。
何のことはない。答えはすぐに出る。雪穂の夫は東西電装特許ライセンス部に勤務している。社内の技術情報を管理する立場の人間だ。それはトップシークレットに関与できるということを意味する。コンピュータから極秘情報を呼び出すIDやパスワードも与えられているだろう。無論それは決して人に見せてはならないものだ。高宮もその規則を守っていたに違いない。しかし妻に対してはどうだったか。彼の妻ならば、IDやパスワードを知り得たのではないか。
三年前、今枝たちは秋吉雄一と高宮誠の繋がりを見つけだそうとした。しかし何も見つからなかった。見つからないはずだ。ターゲットにすべきは高宮雪穂のほうだったのだ。
さてそうなると今枝としては、もう一つ気になることが出てくる。三沢千都留と高宮誠のことだ。秋吉すなわち桐原は、一体何のために千都留を見張っていたのか。
雪穂に頼まれて、彼女の夫の浮気を調べていたという推理も成り立たないではない。しかしそう考えるには、腑に落ちないことが多すぎた。まずなぜそれを桐原に頼むのかということだ。浮気調査ならば探偵を雇えばいい。それにもし高宮誠の浮気を調べるということであれば、高宮を見張るのがふつうではないか。三沢千都留を見張っていたということは、すでに彼女が高宮の愛人であることは確認済みだからだろう。ならばそれ以上の調査は不要のはずだ。
そんなことを考えながら今枝は益田から受け取ったコピーを読んでいった。やがて奇妙なことに気づいた。
桐原が三沢千都留を尾行して最初にイーグルゴルフ練習場に行ったのは、三年前の四月はじめのことだ。その時ゴルフ練習場に高宮誠は現れていない。その二週間後、再び桐原はゴルフ練習場に行った。そこで初めて高宮誠が今枝たちの前に姿を見せる。彼は三沢千都留と親しそうに話していた。
その後、桐原は二度とゴルフ練習場には足を運んでいない。だが今枝たちは引き続き三沢千都留と高宮誠の様子を探っていた。彼等の仲の深まっていく様子が、当時の記録を辿るとよくわかる。調査が打ち切られる八月上旬時点で、二人は完全に不倫関係に入っている。
奇妙なのはここだ。二人の仲が深まっていくというのに、雪穂は何の手も打たなかったのだろうか。何も知らなかったとは思えない。桐原から情報が入っていたはずだ。
今枝はコーヒーカップを口元に運んだ。コーヒーはすっかりぬるくなっていた。こんなふうに冷めたコーヒーを、つい最近も飲んだことを思い出した。篠塚と銀座の喫茶店で会った時だ。
この瞬間、不意に一つの考えが今枝の頭に浮かんだ。全く別の角度からの発想だった。
雪穂が高宮誠と別れたがっていたとしたらどうだ――。
考えられないことではない。川島江利子の言葉を借りれば、高宮は最初から彼女にとって最愛の男ではなかったはずなのだ。
別れたいと思っていた夫が、うまい具合にほかの女に気持ちを寄せ始めた。ならばそれが不倫に発展するまで待ってみよう。そんなふうに雪穂は考えたのではないか。
いや、と今枝は心の中でかぶりを振る。あの女は、そういう成りゆき任せの生き方をする人間ではない。
三沢千都留と高宮との出会いやその後の進展が、すべて雪穂の計画通りだったとしたら――。
まさか、と思う。だが同時にあるいは、とも思う。そんなことはありえないと簡単には否定できない何かが、唐沢雪穂という女にはある。
しかし人間の心をそう簡単にコントロールできるものだろうかという疑問は残る。三沢千都留がこの世で最高の美女だったとしても、万人が恋に落ちるとはかぎらない。
ただし以前から恋心を抱いていた相手ならば話は別だ。
今枝は喫茶店を出ると、公衆電話ボックスを見つけて中に入った。手帳を見ながら番号ボタンを押す。かけた先は東西電装東京本社だ。高宮誠を呼び出してもらう。
しばらく待たされた後、高宮の声が聞こえた。「高宮ですが」
「もしもし、今枝です。お仕事中すみません」
ああ、と少し戸惑った声がした。探偵というのは、あまり職場には電話をかけてきてほしくない相手なのだろう。
「先日はお忙しいところ申し訳ありませんでした」唐沢雪穂の証券について尋ねた時のことを詫びた。「じつはもう一つお尋ねしたいことがありまして」
「どういったことですか」
「それはお会いしてからお話ししたいんです」あなたと今の奥さんの馴れ初めに関することだ、とは電話ではなかなかいえなかった。
「今日か明日の夜は、あいてませんか」
「明日ならいいですが」
「そうですか。じゃあ、明日もう一度お電話します。それでいいですか」
「いいですよ。ああそうだ、今枝さんに一ついっておかなきゃいけないことがあります」
「何ですか」
「じつは」と彼は声を落とした。「数日前に、僕のところに刑事が来たんです。かなり年輩の大阪の刑事でした」
「それで?」
「最近前の奥さんのことで誰かから質問を受けたことはないかと訊かれたので、今枝さんの名前を出してしまったんです。いけなかったでしょうか」
「あっ、そうでしたか……」
「やはりまずかったですか」
「いや、それはまあ、いいです。あの、私の職業のこともお話しになったんですか」
ええ、と高宮は答えた。
「そうですか。わかりました。ではそのつもりをしておきます」失礼します、といって電話を切った。
このセンがあったかと今枝は舌打ちしたい気分だった。笹垣は全く苦労せずに今枝に行き着いたのだ。
するとあの盗聴器は、どこの誰が仕掛けたものなんだ――。
今枝が自分のマンションに戻ったのは、この日の夜遅くになってからだった。別口の仕事であちこち回った後、久しぶりに菅原絵里が働いている居酒屋に寄ったからだ。
「あれからはもう部屋にいる時は絶対にチェーンをしてるから」と彼女はいった。誰かに忍び込まれた気配も、彼女が感じるかぎりではないという話だった。
マンションの前に、見慣れない白のワンボックスバンが止まっていた。それをよけるように歩き、建物の中に入った。そのまま階段を上がる。身体が重く、足を運ぶのも億劫《おっくう》だ。
部屋の前まで来て、鍵をあけようとポケットを探っている時、廊下に台車と折り畳まれた段ボール箱が立てかけてあるのが目に留まった。段ボール箱は洗濯機が入りそうなほど大きなものだった。誰が置いたのかなと一瞬思ったが、さほど気に留めなかった。このマンションの住民はマナーが悪く、廊下にゴミ袋が出したままになっていることもざらだ。今枝にしても、優等生の店子《たなこ》では決してない。
キーホルダーを取り出し、部屋の鍵を鍵穴に差し込んだ。右に捻ると、かちゃりと外れる感触があった。
この時ふと、彼は違和感を抱いた。鍵の具合に、いつもと違うものを感じたような気がしたのだ。一、二秒考えてから、彼はドアを開けた。気のせいだろうと決めつけていた。
明かりをつけ、室内を見渡す。特に変わったことはない。部屋はいつものように殺風景で、いつものように埃っぽかった。男臭さを消すために、芳香剤の香りをやや強めにしてあるのも、いつものことだった。
彼は荷物を椅子に置き、トイレに向かった。ほどよく酔っている。少し眠く、少しだるい。
トイレの明かりのスイッチを入れる時、換気扇のスイッチが入ったままになっていることに気づいた。おかしいな、と思った。こんな不経済なことをしただろうか。
ドアを開ける。洋式トイレの蓋《ふた》が、ぴったりと閉じられていた。これもまた、一瞬妙だと思った。蓋を閉じる習慣などなかった。たいてい蓋も便座も上げたままだ。
ドアを閉じ、彼は蓋を開けた。
その瞬間、全身の警報機が鳴りだした。
とてつもない危険が自分の身に襲いかかってくるのを彼は感じた。蓋を閉じようとした。一刻も早くここから出なければ――。
ところが身体は動かなかった。声も出せなかった。それ以前に呼吸ができなくなっていた。肺が自分のものではなくなっている。
ぐらり、と視界が回転した。身体が何かにぶつかるのを感じた。しかし痛みはない。すべての感覚が一瞬のうちに奪い取られていた。懸命に手足を動かそうとする。だが指先一本にすら、自分の意思を伝えられない。
誰かがそばに立っている気がした。それは気のせいだったかもしれない。視界が闇に包まれていった。
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第 十 二 章
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九月の雨は梅雨よりもしつこい。夜になれば晴れると天気予報ではいっていたが、粉のように細かい水滴が街全体を包みこんでいた。