饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 十 章.6

作者:日-东野圭吾 当前章节:15417 字 更新时间:2026-6-15 18:37

 栗原《くりはら》典子《のりこ》は西武池袋線練馬駅の前の商店街を歩き始めた。商店の前の歩道には屋根がついている。駅からアパートまで徒歩で約十分だ。

 途中電器屋の前を通ると、通りに面して置かれたテレビからチャゲ&飛鳥の『SAY YES』が流れていた。人気番組の主題歌で、CDも大ヒットしているという話だ。そういえば今日が最終回だというようなことを同僚たちが話していたのを典子は思い出した。彼女はテレビドラマは殆ど見ない。

 商店街が途切れると雨を防いでくれるものはなくなった。ブルーとグレーのチェック柄のハンカチを取り出し、それを頭に載せて典子は再び歩きだした。少し行くとコンビニエンスストアがあった。彼女はその店に入り、豆腐と葱《ねぎ》を買った。ビニール傘も買いたかったが、値段を見て我慢した。

 アパートは西武池袋線のそばに建っていた。2DKで家賃八万円だ。独り暮らしならば、もっと狭くてもよかった。しかし部屋を探していた頃、彼女はある男と一緒に住むつもりでいた。実際、その男は何度か彼女の部屋で寝泊まりした。だがそれだけだった。その「何度か」が過ぎてしまうと彼女は一人になった。広い部屋は不要になった。しかし引っ越す気力もなく、そのまま住み続けてきた。

 引っ越さなくてよかったと、今の彼女は思っている。

 古いアパートの壁は、雨に濡れて泥のような色に変わっていた。その壁に服を触れさせぬよう気をつけながら、彼女は外階段を上がった。建物の一階と二階に四つずつ部屋がある。典子の部屋は二階の一番奥だった。

 鍵を外し、ドアを開けた。相変わらず、室内は薄暗い。入ってすぐの台所も、奥の和室も、明かりがついていなかった。

「ただいま」声をかけながら、台所の明かりをつけた。留守でないことは、玄関の沓脱《くつぬ》ぎを見ればわかる。薄汚れたスニーカーが脱ぎ捨てられている。『彼』はほかには靴を持っていない。

 奥には和室のほかにドアのついた洋室がある。そのドアを彼女は開いた。その部屋もやはり薄暗かったが、光を発しているものがあった。窓際に置かれたパソコンのモニターだ。その前で『彼』が胡座をかいている。

「ただいま」典子は男の背中に向かって、もう一度声をかけた。

 キーボードを叩いていた男の手が止まった。彼は身体を捻ると、本棚に置いた目覚まし時計を見てから彼女のほうに顔を向けた。

「遅かったな」

「居残りさせられちゃった。おなかすいたでしょ。今すぐ晩御飯にするからね。今日も湯豆腐だけど、構わない?」

「何でもいい」

「じゃ、ちょっと待ってね」

「典子」

 台所に戻ろうとする彼女を、男は呼び止めた。彼女は振り返った。男は立ち上がり、近づいてきた。彼女の首筋に掌を当てた。

「濡れたのか」

「少しだけ。でも大丈夫」

 彼女の声は男の耳には入っていないようだった。彼は手を彼女の首筋から肩に移動させた。ニットの生地を通し、典子は強い握力を感じた。

 そのまま彼女は抱きすくめられた。男は彼女の耳の下を吸った。彼は彼女が感じる部分を熟知している。唇と舌を荒々しく、そして巧みに操った。典子は背中に電気が走るのを感じた。立っているのが辛くなった。

「立って……られないよ」喘《あえ》ぎながら彼女はいった。

 それでも男は答えない。座り込もうとする彼女を、強い力で支えていた。

 やがて彼は腕の力を緩めると、くるりと彼女の身体を後ろ向きにさせた。そのままスカートをまくりあげ、ストッキングと下着を引き下げた。膝下までずらした後は、右足で踏むようにして一気に下げた。

 男が腰を抱いているので、典子はしゃがむこともできなかった。彼女は身体を前に折り曲げ、ドアのノブを両手で掴んだ。ドアの金具が軋《きし》み音をたてた。

 彼は左手で彼女の腰を拘束したまま、最も敏感な部分を愛撫《あいぶ》し始めた。快感のパルスが典子の中心を突き抜けた。彼女は身体をのけぞらせた。

 男が慌ただしくズボンと下着を下ろす気配があった。固く熱いものがあてがわれるのを典子は感じた。圧力を受けると同時に、鋭い痛みが広がった。歯をくいしばって耐える。この姿勢ですることを男が好むことを彼女は知っている。

 男のものが完全に挿入された後も、痛みはまだ去らない。男が動き始めると、その痛みは一瞬増幅された。しかし苦痛のピークはそこまでだった。典子がぐっと奥歯を噛みしめた後、急速に快感が迫ってきた。痛みは嘘のように消えている。

 男は彼女のニットをたくしあげた。ブラジャーを上にずらし、乳房を両手で揉んだ。指先で乳首を弄《もてあそ》んだ。典子は彼の息づかいを聞いた。彼が息を吐き出すたび、首のあたりが暖かくなるような感じがした。

 やがて遠くから雷鳴が近づくように絶頂の予感が迫ってきた。典子は四肢を突っ張った。男の律動が激しさを増した。その動きと快感の周期が、彼女の体内で共鳴を始めた。そして雷が典子の中心を貫いた。彼女は声を上げ、全身を痙攣《けいれん》させた。平衡感覚が狂い、視界がぐるりと回転した。

 典子はドアのノブから手を離した。立っているのは、もう無理だった。足ががくがくと震えた。

 男は彼女の膣《ちつ》からペニスを抜いた。典子は床に崩れ落ちた。両手を床につき、肩で息をした。頭の中で耳鳴りがしていた。

 男は下着とズボンを一緒に引き上げた。彼のペニスはまだ屹立《きつりつ》したままだったが、それに構わず彼はズボンのファスナーを閉めた。そして何事もなかったかのように、パソコンの前に戻っていった。胡座をかき、キーボードを叩く。そのリズムからは、些《いささ》かの狂いも感じられない。

 典子はのろのろと身体を起こした。ブラジャーを戻し、ニットを下ろす。そして下着とストッキングを右手に掴む。

「晩御飯の支度、しなきゃ」壁に寄り掛かりながら、彼女は立ち上がった。

 男の名前は秋吉雄一といった。ただしそれが本名なのかどうか、典子は知らなかった。本人がそう名乗っている以上、彼女としてはそれを信じるしかなかった。

 典子が秋吉と出会ったのは、今年の五月半ばだ。少し肌寒い日だった。彼女がアパートの近くまで帰ってくると、男が道端でうずくまっていた。三十歳前後と思われる、痩せた男だった。黒いデニムのパンツを穿き、黒い革のジャンパーを羽織っていた。

「どうかしたんですか」彼女は男の様子を覗き込みながら訊いた。男の顔は歪《ゆが》み、前髪の垂れた額には脂汗が浮かんでいた。

 男は右手で腹を押さえていた。もう一方の手を、大丈夫だ、というように振った。しかしとても大丈夫そうには見えなかった。

 腹を押さえる手の位置から類推すると、どうやら胃が痛んでいるらしかった。

「救急車、呼びましょうか」

 ここでも男は手を振った。首も一緒に横に振った。

「時々、こういうことがあるんですか」彼女は訊いた。

 男は首を振り続ける。

 典子は少し迷った後、「ちょっと待っててくださいね」といって、アパートの階段を上がった。そして自分の部屋に入ると、ポットの湯を一番大きいマグカップに入れ、水を少し足した後、それを持って再び男のところへ戻った。

「これ、飲んでください」彼女はマグカップを男の顔の前に差し出した。「とにかく胃の中を奇麗にすることが先決だから」

 男はマグカップに手を伸ばそうとはしなかった。そのかわりに意外なことをいった。

「酒、ないかな」

「えっ?」と彼女は訊き返した。

「洒……ウイスキーがあると一番いい。ストレートで飲めば、たぶん痛みはなくなる。前に一度、そんなふうにして治った」

「馬鹿なこといわないでよ。そんなことしたら、胃がびっくりしちゃうわよ。とにかく、これを飲みなさい」典子は再びマグカップを差し出した。

 男は顔をしかめたままマグカップを見つめていたが、とにかく何もしないよりはましだとでも思ったか、渋々といった調子でマグカップに手を伸ばした。そして中の白湯《さゆ》を一口飲んだ。

「全部飲みなさい。胃の中を洗うんだから」

 典子がいうと、男はげんなりした顔を作った。だが文句はいわず、マグカップの中のぬるま湯を一気に飲み干した。

「気分はどう? 吐き気は?」

「少しする」

「じゃあ、吐いたほうがいい。吐ける?」

 男は頷き、ゆっくりと立ち上がった。腹を押さえながら、アパートの裏に回ろうとしている。

「ここで吐いていいよ。大丈夫、あたしはそういうの見るの、慣れてるから」

 典子の言葉が耳に届いていないはずはなかったが、男は黙ってアパートの裏に消えた。

 彼はしばらく出てこなかった。呻《うめ》き声が時折聞こえた。典子はほうっておくわけにもいかず、その場で待っていた。

 やがて男が出てきたが、先程までよりは幾分楽になったような顔をしていた。置いてあったゴミ箱の上に腰をのせた。

「どう?」と典子は訊いてみた。

「少しましになった」と男は答えた。ぶっきらぼうな口調だった。

「そう、よかった」

 男は相変わらず顔をしかめていたが、ゴミ箱に座ったまま足を組むと、ジャンパーの内ポケットに手を入れた。取り出したのは煙草の箱だった。一本を口にくわえ、使い捨てライターで火をつけようとした。

 典子は急ぎ足で彼に近づき、その口から素早く煙草を奪った。男はライターを持ったまま、意外なものを見る目で彼女を見た。

「自分の身体が大事だったら、煙草なんか吸わないほうがいいわよ。煙草を吸うと胃液の分泌が通常の何十倍にもなるってこと知ってる? 満腹すると煙草を吸いたくなるのは、そのせいよ。でも胃に食べ物が入ってない状態だと、胃壁そのものを傷めることになるの。その結果、胃潰瘍《いかいよう》になる」

 典子は男から取り上げた煙草を二つに折った。それからそれを捨てるところを探した。それが男の尻の下にあることに気づいた。

「ちょっと立って」

 男を立たせ、彼女はゴミ箱に煙草を捨てた。それから男のほうを向き、右手を出した。

「箱を出して」

「箱?」

「煙草の箱」

 男は苦笑を浮かべた。それから内ポケットに手を入れ、箱を取り出した。典子はそれを受け取り、ゴミ箱に放り込んだ。蓋を閉め、ぱんぱんと両手をはたいた。

「どうぞ。座っていいわよ」

 典子がいうと、男は再びその上に腰掛けた。彼女に少し関心を持った目をしていた。

「あんた、医者かい?」と彼は訊いた。

「まさか」彼女は笑った。「でも、当たらずとも遠からずってやつ。医者じゃなくて薬剤師」

「なるほど」男は頷いた。「納得した」

「家はこの近く?」

「近くだ」

「そう。自分で歩いて帰れる?」

「帰れる。おかげで、もう痛みはなくなった」男はゴミ箱から立ち上がった。

「時間があったら、病院できちんと診てもらったほうがいいわよ。急性胃炎というのは、案外怖いんだから」

「病院はどこだ?」

「そうね。この近くなら、光が丘の総合病院がいいと思うけど」

 典子が話している途中で男は首を振った。

「あんたの勤めている病院だ」

「ああ」典子は頷いた。「帝都大付属病院。荻窪《おぎくぽ》にある……」

「わかった」男は歩きだした。だが途中で立ち止まり、振り返った。「ありがとう」

 お大事に、と典子はいった。男は片手を上げ、再び歩きだした。今度はそのまま夜の街に消えていった。

 その男と、もう一度会えるとは、彼女は考えていなかった。それでも次の日から、病院にいる間も、何となく彼のことが気になって仕方がなかった。まさか本当に病院に来ることはないだろう。そう思いながらも、彼女は時折内科の待合室を覗きに行ったりした。薬局に回ってくる処方箋が胃の病気に対応するもので、患者が男性だったりすると、調剤しながら、あれこれ想像を膨らませた。

 だが結局、男は病院には現れなかった。彼が彼女の前に姿を見せたのは、最初に会ったのと同じ場所でだった。ちょうど一週間が経っていた。

 この日、彼女がアパートに帰ったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。典子の職場では日勤と夜診がある。この時は夜診に当たっていた。

 男は前と同じようにゴミ箱に座っていた。暗かったので、それが彼だとは最初気づかず、典子は無視して通り過ぎようとした。率直にいえば、気味が悪かった。

「帝都大付属病院は人使いが荒いようだな」男が声をかけてきた。

 その声を典子は覚えていた。彼女は彼を見て、驚きの声をあげた。

「どうしてこんなところにいるの?」

「あんたを待っていた。この間の礼をしようと思ってな」

「待ってたって……いつから?」

「さあ、いつからだったかな」男は腕時計を見た。「ここへ来たのは六時頃じゃなかったかな」

「六時?」典子は目を見開いた。「じゃあ、五時間も待ってたの」

「前にあんたと会ったのが、六時頃だったからな」

「先週は日勤だったから」

「日勤?」

「今週は夜診なの」典子は自分の職場には二つの勤務時間が存在することを説明した。

「そうか。まあ、無事に会えたんだから、どうでもいいことだ」男は腰を上げた。「飯でも食いに行こう」

「このあたり、もう食事のできる店なんかないわよ」

「新宿ならタクシーで二十分もあれば着く」

「遠くには行きたくない。疲れてるの」

「そうか。それなら仕方がないな」男は両手を小さく上げた。「またそのうちにってことにしよう」

 じゃ、といって男は歩き始めた。その後ろ姿を見て、典子は軽い焦りを覚えた。

「待って」彼女は男を呼び止めていた。振り向いた彼にいった。「あそこなら、まだ大丈夫よ」道路を挟んで向かい側にある建物を指差した。

 その建物には『デニーズ』の看板が上がっていた。

 ビールを飲みながら、ファミリーレストランに入るのは五年ぶりぐらいだと男はいった。彼の前にはソーセージやフライドチキンを盛った皿が並んでいる。典子は和風のセットメニューを注文した。

 秋吉雄一というのは、この時彼がいった名前だ。彼が出してきた名刺にも、その名前が印刷されていた。だからこの時には彼が偽名をかたっている可能性など、典子は全く考えなかった。

 名刺にはメモリックスという社名が入っていた。コンピュータのソフト開発の会社ということだったが、その会社名を典子は当然知らなかった。

「要するにコンピュータ専門の下請け業者だ」

 秋吉が自分の会社や仕事について典子に語った内容は、これだけだった。その後、彼はこういった話題については、一切口にしなくなった。

 逆に彼は典子の仕事の内容について、細かく知りたがった。勤務形態、給与、手当、そして日々の仕事内容などだ。こんな話は退屈だろうと思うのだが、話を聞いている間、彼の目は真剣な光を放っていた。

 典子にしても男性と交際した経験がないわけではない。しかしそれまでの相手とのデートでは、彼女は専ら聞き役だった。どういう話をすれば相手が喜ぶのかまるでわからなかったし、元来話し下手でもあった。ところが秋吉は彼女に話すことを要求した。またどんな話をしても、強い関心を示してくれた。少なくともそのように見えた。

「また連絡する」帰り際に彼はいった。

 実際、その三日後に秋吉は電話をかけてきた。今度は新宿に出た。カフェバーで酒を飲みながら、典子はまたしても彼相手にいろいろな話をすることになった。彼が次々に質問してくるからだった。故郷のこと、生い立ち、学生時代。

「あなたの実家はどこなの」典子のほうから訊いてみた。

 彼の答えは、「そんなものはない」だった。少し不機嫌になっていた。それで彼女はこのことに触れるのはよそうと思った。ただ、彼が関西の出身だということは、言葉のアクセントからわかっていた。

 店を出た後、秋吉は典子をアパートまで送ってくれた。アパートが近づくにつれ、迷いが彼女の心の中を駆けめぐっていた。このままふつうに挨拶して別れるべきか、彼を部屋に上げるべきか、だった。

 その決断のきっかけは、秋吉が与えてくれた。アパートのそばまで来たところで、彼は自動販売機の前で立ち止まった。

「喉《のど》が渇いたの?」と彼女は訊いた。

「コーヒーが飲みたいんだ」

 彼は硬貨を機械に投入した。ディスプレイを一瞥《いちべつ》した後、缶コーヒーのボタンを押そうとした。

「待って」と彼女はいった。「コーヒーなら、あたしが淹《い》れてあげるから」

 彼の指先がボタンの手前で止まった。彼は特に驚いた顔もせず、一つ頷いてから硬貨の返却レバーを捻った。からんからん、と硬貨の戻る音がした。彼は何もいわず返却口から硬貨を取った。

 部屋に入ると、秋吉はじろじろと室内を眺めた。コーヒーを淹《い》れながら、典子は気が気でなかった。「前の」男の痕跡を彼が発見するのではないかと思ったからだ。

 典子が淹《い》れたコーヒーを彼はおいしそうに飲んだ。そして部屋が奇麗に片づいていることを褒《ほ》めた。

「でも最近、あまり掃除をしてないの」

「そうか。本棚の上の灰皿に埃がかぶっているのも、そのせいかな」

 彼の台詞にぎくりとした。典子はその灰皿を見上げた。それは前の男が使っていたものだった。彼女は煙草を吸わない。

「あれは……掃除をしてないせいじゃない」

「ふうん」

「二年ぐらい前まで、付き合っていた人がいて」

「そういう告白は、特に聞きたくもない」

「あ……ごめんなさい」

 秋吉が椅子から立ち上がった。それで帰るのかなと思い、典子も腰を浮かせた。その直後、彼の腕が伸びてきた。声を出す暇もなく、彼女は抱きすくめられていた。

 しかし彼女は抵抗しなかった。彼が唇を寄せてくると、身体の力を抜いて目を閉じたのだった。

[#ここから7字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 オーバーヘッドプロジェクタの光が、発表者の横顔を斜め下から照らしていた。発表者は海外直納部に所属する男性社員だ。年齢は三十代前半、係長の肩書きを持っている。

「――というわけで、高脂血症治療剤『メバロン』につきましては、米国食品医薬品局の製造認可を受けられることが確実となっております。したがいまして、お手元の資料にありますとおり、米国での販売を進めていきたいと考えております」やや固い口調で発表者はいい、背筋を伸ばして会議室内を見渡した。彼が唇を舐《な》めるのを、篠塚一成は見逃さなかった。

 篠塚薬品東京本社内にある二〇一会議室で、新薬の海外展開に関する会議が行われていた。出席者は十七名。殆どが営業本部の人間だが、開発部長や生産技術部長の姿もある。出席者の中で最も地位が高いのは常務の篠塚康晴だ。四十五歳の常務取締役は、コの字形に並べた会議机の中央に座り、射るような目を発表者に向けていた。一言一句聞き逃してなるものかという気迫に満ちている。やや力みすぎだなと一成などは思うのだが、それも仕方のないことかもしれなかった。親の七光で常務の席に納まっているにすぎないという陰口を本人が知らないはずがなく、こうした場で欠伸《あくび》の一つでも漏らすことの危険性も、十分に承知しているに違いなかった。

 その康晴が徐《おもむろ》に口を開いた。

「スロットルマイヤー社へのライセンスアウトの契約日程が、前回会議で報告された時よりも二週間も遅れていますね。これはどういうことでしょう?」資料から顔を上げ、発表者を見た。メタルフレームの眼鏡のレンズが、きらりと光った。

「輸出形態に関して、少し確認に手間取ったところがありまして」答えたのは発表者ではなく、前のほうに座っている小柄な男だった。声が少しうわずっていた。

「原末の形で輸出するんじゃないんですか。ヨーロッパへの輸出と同様」

「はい、そうです。その原末の扱いについて、少し行き違いがございまして」

「聞いてないなあ。それに関する報告書は、私のところに回してくれましたか」康晴は自分のファイルを開いた。こんなふうに、自分のファイルを会議に持ち込む取締役は少ない。というより、一成の知る限りでは康晴だけだった。

 小柄な男は焦《あせ》った様子で隣の男や発表者と何やらひそひそ言葉を交わした後、常務のほうを向いた。

「すぐに関連資料をお届けします」

「そうしてください。大至急」康晴はまた自分のファイルに目を落とした。「『メバロン』についてはわかりましたが、抗生物質と糖尿病治療薬のほうはどうなっていますか。米国での販売申請は終わっているはずでしたが」

 これについては発表者が答えた。

「抗生物質『ワナン』、糖尿病治療薬『グルコス』共、現在治験段階です。来月はじめには、レポートが届くことになっております」

「うん、それもなるべく急いだほうがいいですね。他社でも、新薬を開発して海外からの工業所有権収入を増やそうという動きが活発のようですから」

 はい、と発表者を含め、何人かが頷いた。

 会議は一時間半ほどで終わった。一成が自分の荷物を片づけていると、康晴が近づいてきて耳元でいった。「後で部屋に来てくれないか。話がある」

「あ……はい」と一成は小声で答えた。

 康晴は即座に離れていった。従兄弟《いとこ》関係ではあるが、だからこそ社内では私的な会話は慎むようにと、双方の父親から厳しくいわれている。

 一成はいったん企画管理室の席に戻った。彼の肩書きは副室長だった。もともとこの職場に副室長というポストはない。つまり彼のために作られたものだ。一成は去年まで営業本部、経理部、人事部といった職場を渡り歩いてきた。様々な職場を経験した後、企画管理室に入るというのは、篠塚一族の男の標準的なコースだった。一成としては、各部署を総合的に監督する現在の職場よりも、他の若い社員と同じように実務にあたりたかった。実際そのように父親たちに希望したこともある。しかし篠塚一族の血を受け継いでいる以上それは無理だということは、会社に入って一年も経つ頃には理解できていた。複雑なシステムを円滑に機能させるためには、上司にとって使いづらい歯車が存在してはいけないのだ。

 一成の机のすぐ横に、黒板式の行先表示板が置いてある。その内容を二〇一会議室から常務室に書き換え、改めて部屋を出た。

 常務室のドアをノックすると、「はい」という低い声で返事があった。一成はドアを開けた。康晴は机に向かって本を読んでいるところだった。

「やあ、わざわざすまん」康晴は顔を上げていった。

「いいえ」といいながら一成は室内を見回す。ほかに人がいないことを確認したのだ。といっても、机とキャビネットと簡単な応接セットを置いてあるだけの、決して広いとはいえない部屋だ。

 康晴はにやりと笑った。「さっき、海外直納部の連中、あわててたな。俺がライセンス契約の日程まで覚えているとは思わなかったんだろう」

「そうでしょうね」

「責任者の俺に、あんな大事なことを報告しないとは、奴等もいい根性をしている」

「若い常務を甘く見てはいけないと少しは思い知ったんじゃないですか」

「だといいがな。ま、しかし、それも一成のおかげだ。礼をいうよ」

「いや、そんなことはいいです」一成は苦笑して手を振った。

 ライセンス契約の日程変更のことを康晴に教えたのは、たしかに一成だった。彼は海外直納部にいる同期生から聞き出したのだ。時折このようにして各部署の細かい情報を康晴に流すのも彼の仕事の一つだった。あまり楽しい仕事ではないが、若い常務の手足になってほしいと現社長つまり康晴の父親からも頼まれている。

「で、ご用というのは?」一成は訊いた。

 康晴は顔をしかめた。

「二人きりの時には、そういう堅苦しい話し方はやめてくれといってるじゃないか。それに、話というのは仕事のことじゃないんだ。プライベートなことだ」

 いやな予感がした。一成は思わず右手を握りしめていた。

「まあちょっと、そこへ座ってくれ」康晴が立ち上がりながらソファを勧めた。

 それでもまず康晴がソファに座るのを見届けてから、一成も腰を下ろした。

「じつは今、これを読んでいたんだ」康晴が一冊の本をテーブルに置いた。表紙に『冠婚葬祭入門』というタイトルが印刷されている。

「何かおめでたいことでも?」

「それならいいんだが、反対だよ」

「じゃあ悪いほうですか。どなたかお亡くなりに?」

「いや、まだ亡くなっちゃいない。そのおそれがあるということだ」

「どなたですか。差し支えなければ……」

「黙っていてくれれば差し支えはないよ。彼女のお母さんだ」

「彼女というと……」訊くまでもないと思ったが、一成は確認していた。

「雪穂さんだ」康晴は幾分照れ臭そうに、しかしきっぱりとした口調でいった。

 やはり、と一成は思った。意外でも何でもなかった。

「彼女のお母さん、どこか悪いんですか」

「昨日、彼女から連絡があってね、大阪の家で倒れたそうだ」

「倒れた?」

「いわゆるクモ膜下出血というやつだ。彼女のところへは、昨日の朝連絡があったらしい。電話してきたのは茶道のお弟子さんで、お茶会の打ち合わせをするつもりで家に行ったところ、庭で雪穂さんのお母さんが倒れているのを見つけたということだ」

 唐沢雪穂の母親が大阪で独り暮らしをしているということは一成も知っていた。

「すると今は病院に?」

「すぐにそのまま病院に運ばれたらしい。雪穂さんは病院から俺のところに電話してきたんだ」

「なるほど。それで、容体のほうは?」一成は訊いたが、無意味な質問だった。順調に回復しているのであれば、康晴が『冠婚葬祭入門』などを読んでいるはずがなかった。

 予想通り康晴は小さく首を振った。

「さっきもちょっと連絡をとってみたんだが、ずっと意識が戻らないということだ。医者も、あまりいい話はしてくれないみたいだな。危ないかもしれないと彼女も電話でいっていた。珍しく気弱な声を出していたな」

「年齢はおいくつなんですか」

「ええと、もう七十歳ぐらいという話だったんじゃないかな。彼女はほら、本当の娘じゃないだろう? だから、年齢が離れているわけだよ」

 一成は頷いた。そのことなら知っている。

「それで、どうして常務がこういうものをお読みになっているんですか」テーブルの上の『冠婚葬祭入門』を見ながら尋ねた。

「常務、というのはやめろよ。少なくともこういう話をしている間だけでも」康晴は、うんざりした顔を見せた。

「康晴さんが彼女のお母さんの葬式の心配までする必要はないんじゃないかな」

「それは、まだ亡くなってもいないのに、葬式のことを考えるのは気が早すぎるという意味かい?」

 一成はかぶりを振った。「康晴さんがすべきことではないという意味だよ」

「どうしてだ」

「康晴さんが彼女にプロポーズしたのは知ってるよ。でも彼女のほうからは、まだ何も返事をしてきてないわけだろう。つまり現時点では何というか……」一成は言葉を選ぼうとし、結局思いついたままをいった。「彼女はまだ赤の他人ということだ。そんな人の母親が亡くなったからといって、天下の篠塚薬品の常務取締役がばたばたと動くのは問題だといっているわけだよ」

 赤の他人と聞いた瞬間、康晴は大きく後ろにのけぞった。そのまま天井を見上げ、声を出さずに笑い顔を作った。やがてその顔を一成に向けた。

「赤の他人とは驚いたな。たしかに彼女のほうからイエスという返事はもらっていない。だけどノーという返事も聞いてはいないんだ。脈がないなら、すでにふられているはずじゃないかな」

「その気があるなら、すでに答えているよ。イエスとね」

 康晴は首と一緒に掌もひらひらと振った。

「一成はまだ若いし結婚したことがないから、そんなふうに思うんだ。俺もそうだが彼女にしても、すでに結婚経験がある。そういう人間の場合、もう一度改めて所帯を持つとなると、どうしても慎重になってしまうものなんだ。特に彼女は、前の旦那さんとは死別したわけじゃない」

「それはわかっているけど」

「第一だ」康晴は人差し指を立てた。「自分の母親が危ないということを、赤の他人に知らせてくるか? 辛い時に彼女が俺を頼ったというのは、一つの回答でもあるかなと、俺は考えているんだけどね」

 それで先程から機嫌がいいのかと、一成は合点がいった。

「何より、知人が困っている時に手を差し伸べてやるのは当然のことじゃないのかな。これは社会人としてだけでなく、人間として」

「彼女は困っているわけかい。困って、康晴さんに電話してきたのかい」

「もちろん気丈夫な彼女だから、泣き言なんかはいわなかったし、俺に助けを求めたりもしなかった。彼女は単に状況を報告してきただけだ。だけど困っていることは簡単に想像がつく。考えてもみろ、故郷とはいえ、大阪には身寄りもないんだぞ。もしお母さんがこのまま亡くなったりしたら、悲しい上に葬式の準備やら何やらで、さすがの彼女もパニックになってしまうかもしれない」

「葬式というのはね」一成は従兄の顔を見つめていった。「その準備段階も含めて、遺族が悲しんだり嘆いたりする暇がないようにプログラムされているんだ。彼女は葬儀屋に一本電話をすればいい。それだけで、あとはすべてプロがやってくれる。彼女はプロにいわれるまま、書類にサインしたり、金を用意したりするだけでいいんだ。そうして少し暇ができれば遺影に向かって泣けばいい。どうということはないさ」

 康晴は、理解できない、というように層を寄せた。

「よくそんな言い方ができるな。雪穂さんはおまえの大学の後輩でもあるんだろ」

「大学の後輩じゃない。ダンス部で合同練習をしていたというだけのことだ」

「細かいことはどうだっていい。どっちにしろ、彼女を俺に会わせたのはおまえなんだぞ」康晴は一成を見据えていった。

 だからそのことを後悔している、といいたいのを一成は我慢して黙り込んだ。

「とにかく」康晴は足を組み、ソファにもたれた。「こんなことをあまり手回しよく準備するのもよくないだろうが、彼女のお母さんにもしものことがあった場合のことを、俺としては考えておきたい。だけどさっき一成もいったように、俺には俺の立場というものがある。お母さんがなくなったからといって、すぐに大阪に飛んでいけるかどうかはわからない。そこでだ」そういって彼は一成の顔を指差した。「場合によっては、一成に大阪へ行ってもらいたい。おまえなら土地鑑がある。雪穂さんも気心が知れていて安心だろう」

 話を聞くうちに、一成は顔をしかめていた。

「康晴さん、それは勘弁してくれ」

「どうして?」

「それは公私混同というものだよ。ただでさえ、篠塚一成は常務の個人秘書だと陰口を叩かれている」

「役員の補佐をするのも、企画管理室の業務のはずだぞ」康晴は睨みつけてきた。

「これは会社とは関係のないことだろ」

「関係があるかないかなんてことは、後から考えればいい。おまえが考えるべきことは、誰に命令されているのかということだけだ」そういってから康晴はにやりと口元を緩め、一成の顔を覗き込んだ。「違うか?」

 一成はため息をついた。二人きりの時には常務と呼ぶなといったのは誰だっけ、といいたいところだった。

 自分の席に戻ると、一成は受話器を取り上げた。もう一方の手で机の引き出しを開け、システム手帳を取り出す。アドレスノートの一番最初のページを開いた。氏名欄に今枝と書いてあるところを目で探す。

 電話番号を確認しながら番号ボタンを押し、受話器を耳にあてて待った。呼び出し音が一回、二回と鳴る。右手の指先で机の表面をこつこつと叩いた。

 呼び出し音が六回鳴ったところで電話の繋がる気配があった。だが一成は、だめだな、と思った。今枝の電話機は、呼び出し音六回で留守番機能が作動するようにセットされているのだ。

 予想通り、この後受話器から聞こえてきたのは、今枝の低い声ではなかった。コンピュータで合成された、鼻がつまったような女性の声だった。ただ今出かけております、御用の方は、発信音の後、お名前、電話番号、御用件をお話しください――一成は発信音が聞こえる前に受話器を置いた。

 思わず舌打ちをした。その音がやけに大きかったせいか、すぐ前の席に座っている女性社員がぴくりと首を動かした。

 どういうことだ、と彼は思った。

 今枝直巳と最後に会ったのは八月の半ばだ。あれから一か月以上が経つというのに、何の連絡もない。何度か一成のほうから電話してみたが、いつも留守なのだ。留守番電話には、二度ほどメッセージを吹き込んである。連絡してほしい、という内容だ。ところが今枝からは電話一本かかってこない。

 旅行にでも出ているのだろうかと一成は考えた。だとしたら、ずいぶんといい加減な仕事のやり方をする探偵だ。こまめに連絡することは、最初に仕事を依頼した時から頼んでおいたことだった。

 あるいは、と一成は思った。あるいは唐沢雪穂を追って大阪に行っているのか。その可能性もなくはないが、それにしても依頼主に連絡してこないのはおかしかった。

 机の端に書類が一枚載っているのが目に入った。彼はそれを手に取った。二日前に行われた会議の議事録が回ってきているのだ。物質の化学構造を自動的に決定するコンピュータシステムの開発についての会議だった。興味ある研究で一成も会議に出たのだが、今は機械的に目を通しているだけだ。頭の中では全く別のことを考えている。康晴のこと。そして唐沢雪穂のこと。

 彼女の店に康晴を連れていったことを一成は心底悔やんでいた。高宮誠に頼まれ、一度だけ覗いてみる気になったのだが、ごく軽い気持ちで康晴を誘ってみた。それが間違いだった。

 康晴がはじめて雪穂と会った時のことを、一成は鮮明に覚えている。あの時の康晴の様子は、とても恋に落ちたようには見えなかった。むしろ不機嫌そうでさえあった。雪穂から話しかけられても、無愛想な受け答えしかしていなかった。しかし後から考えてみると、あれこそが心を激しく揺さぶられた時に康晴が見せる反応だったのだ。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页