無論彼に好きな女性ができること自体は喜ばしいことだった。まだ四十五歳だというのに、子供二人を抱えて一生独身を通さねばならぬ理由などどこにもない。適当な相手がいれば再婚すべきだと一成は思っている。
だがとにかく相手が気に食わなかった。
唐沢雪穂のどこが気に食わないのか、じつをいうと彼自身にもよくわからなかった。今枝に話したように、彼女の周りに得体の知れない金の動きがあることはたしかに不気味だ。しかしどちらかというとそれも、後から付けた理由だったようにも思える。やはり、大学のダンス練習場で初めて彼女を見た時の印象が、そのまま残っているのだとしかいえなかった。
一成は、彼女との結婚だけは見合わせてほしいと思っている。だが康晴を説得するには、それなりの理由が必要だった。あの女は危険だ、やめたほうがいい、と何度いったところで、彼はとりあってはくれないだろう。いや、たぶん怒りだすに遠いなかった。
それだけに一成は、今枝の調査に期待していた。彼が唐沢雪穂の正体を暴いてくれることに、すべてを賭けているといってもよかった。
つい先程、康晴から頼まれたことが脳裏に蘇った。万一の時には、一成は大阪に行かねばならない。しかも唐沢雪穂を助けるために。
冗談じゃない。彼は心の中で呟いた。そして一方で、いつか今枝からいわれたことを思い出していた。
彼女が本当に好きなのはあなたの従兄さんではなく、あなたではないか――。
「冗談じゃない」今度は小さく声を出して彼はいった。
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「二、三日留守にする」
秋吉が突然いいだした。典子が風呂から上がり、ドレッサーに向かっている時だった。
「どこに行くの?」と彼女は訊いた。
「取材だ」
「行き先ぐらい教えてくれたっていいでしょ」
秋吉は少し迷ったようだが、面倒臭そうに答えた。「大阪だ」
「大阪?」
「明日から行く」
「待って」典子はドレッサーの前を離れ、彼のほうを向いて座った。「あたしも行く」
「仕事があるだろ」
「休めばいいだけのことよ。あたし、去年から一日も休んでないのよ」
「遊びで行くんじゃない」
「わかってる。あなたの邪魔はしない。あなたが仕事をしている間は、あたし一人で大阪見物をしているから」
秋吉は眉間に皺を寄せてしばらく考えていた。明らかに困惑している様子だった。いつもの典子なら、これほど強硬な態度には出なかっただろう。だが大阪と聞いた途端、どうしても行かねばならないと思った。一つには彼の故郷を見たいという気持ちがあった。実家については何ひとつ教えてくれないが、どうやら大阪で生まれたらしいということは、これまでの会話から察せられた。
しかしそれ以上に、典子には一緒に行きたい理由があった。そこに彼のことを知るための何かがあるに違いないと直感したのだ。
「きちんとした計画を立てて行くわけじゃない。どんなふうに予定が変わるかわからない。極端なことをいえば、いつ帰るかも決めてないんだぞ」
それでもいい、と典子は答えた。
「じゃ、好きにしろ」彼は面倒臭そうにいった。
パソコンに向かう彼の背中を見つめながら、典子は息苦しいほどの胸騒ぎを感じていた。取り返しのつかないことになるのではないかという気がした。しかし、何とかしなければ、という思いのほうが強かった。このままでは二人の仲はだめになる――同棲を始めてまだ二か月ほどしか経っていないのに、典子はその強迫観念に苦しんでいた。
二人が一緒に住むことになったきっかけは、秋吉が会社を辞めたことだった。
はっきりとした理由を彼の口から聞くことはできなかった。ちょっと休みたくなっただけだ、彼はそういった。
「貯金があるから、しばらくは食っていける。後のことは、また考える」
この男が、おそらく誰にも頼ることなく生きてきたのだろうということは、これまでの付き合いでわかっていた。それにしても、自分にさえも何も相談してくれないのだなと典子は寂しさを感じた。だからこそこれからは力になれればと思った。彼にとって必要な存在でありたかった。
同棲を提案したのは典子のほうだ。秋吉は最初あまり乗り気ではないようだった。だが結局一週間後に彼は引っ越してきた。パソコン関連の一式と段ボール箱六個が彼の荷物だった。
愛する男性と二人で暮らせるという、典子が夢見た生活が始まった。朝起きた時、隣に彼がいるのを確認し、この幸せがいつまでも続いてほしいと思った。
結婚ということにはこだわらなかった。それを望んでいないといえば嘘になる。だがそのことをいいだすことで、二人の間に何らかの変化が生じることが怖かった。
ところが不吉な風は、間もなくやってきた。
いつものように薄い布団の上で交わった時のことだ。典子は二度、絶頂を迎えた。その後、秋吉が達する、というのが彼等のセックスのパターンだった。
秋吉は最初の時からコンドームを使わなかった。激しく動いた後、彼女の膣からペニスを抜き、ティッシュペーパーの中に射精するというのが彼のやり方だった。それについて彼女が何かいったことは一度もない。
その時なぜそのことに気づいたのか、彼女にはうまく説明できない。直感としかいいようがなかった。強いていえば、彼の表情から察知したということになるだろうか。
事を終えた後、彼はごろりと横になった。その彼の股間に典子は手を伸ばした。ペニスに触れようとした。
「よせよ」といって彼は身体を捻った。彼女に背中を向けた。
「雄一さん、あなた……」典子は上体を起こし、彼の横顔を覗き込んだ。「あなた、出してないんじゃないの?」
彼は答えなかった。表情も変えなかった。ただ瞼を閉じただけだ。
典子は布団から出て、ゴミ箱に手を伸ばした。彼が捨てたティッシュの塊を探そうとした。
「やめろ」ぶっきらぼうな声が聞こえた。典子が振り向くと、彼も身体を彼女のほうに向けた。「くだらないことをするな」
「どうして?」と彼女は訊いた。
彼は答えず、頬を掻いた。ふてくされているように見えた。
「いつから?」
これに対しても答えはなかった。
典子は、はっとした。「最初から……今までずっと、そうだったの?」
「どうだっていいだろ」
「よくないわよっ」彼女は全裸のまま、彼の前に座った。「どういうこと? あたしじゃだめってこと? あたしなんかが相手じゃ、ちっともよくないってこと?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どうしてなの? 説明してよ」
典子は本気で腹を立てていた。馬鹿にされているような気がした。惨めであり、悲しくもあった。そして同時に、ひどく恥ずかしかった。これまでの彼とのセックスを思い出すと、顔を覆いたくなった。ヒステリックな声を出したのは、一種の照れ隠しでもあった。
秋吉が、ふっと息を吐いた。それから小さく首を振った。
「典子に対してだけ特別というわけじゃない」
「えっ」
「今まで、女の身体の中に出したことは一度もない。出そうと思っても、出せないんだ」
「遅漏……ってこと?」
「それのひどい症状ってことだろう」
「信じられない。冗談をいってるんじゃないのね」
「納得したかい」
「医者には診てもらったの?」
「いいや」
「どうして行かないの」
「これでいいと思っているからだ」
「いいわけないじゃない」
「うるさいな。俺がいいといってるんだ。ほっといてくれ」彼は再び彼女に背を向けた。
もしかすると、もうセックスをすることはないかもしれないと典子は思ったが、その三日後に彼のほうから求めてきた。彼女はされるがままになっていた。彼が達しないのなら自分も感じないでおこうと思ったが、肉体を騙《だま》すことはできなかった。恥ずかしさと悲しさが彼女を包んだ。
「これでいいんだ」彼は珍しく優しい声でいい、彼女の髪を撫でた。
それでも一度だけ、口と手を使ってみてくれないかと彼のほうからいったことがある。もちろん彼女はいわれたようにした。濃密に舌を絡ませ、指を蠢《うごめ》かした。ところが彼のペニスは勃起しても、一向に射精する気配を示さなかった。
「もういい。やめてくれ。すまなかった」彼はいった。
「ごめんなさい」
「典子のせいじゃない」
「どうしてだめなのかな……」
秋吉は答えなかった。彼のペニスを握った彼女の手を見つめていた。
やがて彼がぽつりといった。「小さいんだな」
「えっ?」
「手だ。典子は手が小さい」
彼女は自分の手元を見た。同時に、はっとした。
誰かと比べられたのではないかと思った。こんなふうに彼のペニスを愛撫する女性がほかにいて、その女性の手と比較されたのではないか。
そして――。
その女性の手と口ならば、彼も射精するのではないか。
彼のペニスは典子の掌の中で、すっかり萎《な》えてしまっていた。
そんなことがあり、典子の中で不安と疑惑が渦巻き始めた頃だ。秋吉が思いもかけぬことをいいだした。
青酸カリが手に入らないか、というのである。
小説のためだ、と彼はいった。
「ミステリ小説を書こうと思っている。ぶらぶらしていても仕方がないからな。で、その中に青酸カリを登場させる。だけどこの目で見たことがないし、性質もよく知らない。それで実物が手に入らないかと思ってね。典子のところのような大きな病院なら、置いてるんじゃないか」
意外な話だった。彼が小説を書くことなど想像もしなかった。
「それは……調べてみないとよくわからないけど」
とりあえずこういったが、じつは特殊な保管庫に入っていることを典子は知っていた。何かの治療に使うわけではなく、研究用のサンプルとして置いてあるのだ。その保管庫に近づけるのは、病院内でもごく一部の人間だけである。
「見るだけでいいのね」
「ちょっと貸してくれればいい」
「貸すって……」
「まだどういうふうにするかは決めていない。とにかく実物を見てからだ。何とか手に入れてほしい。もちろん、典子がどうしても嫌だというなら無理強いはしない。その場合は別のルートを当たる」
「別のルートなんてあるの」
「前の仕事柄、いろいろな会社と繋がりがある。そのコネを使えば、何とかならないこともない」
この別ルートという話を聞かなければ、もしかすると典子は拒否したかもしれない。だが、そういう危険なものの授受を他人とはしてほしくないという思いから、結局承諾してしまった。
薬局から持ち出した青酸カリの瓶を彼の前に差し出したのは、八月半ばのことだ。
「本当に何かに使うわけじゃないんでしょ。ちょっと見るだけでいいんでしょ」彼女は何度も念を押した。
「そうだ。何も心配することはない」秋吉は瓶を手にした。
「蓋は決して取らないで。見るだけなら、そのままでもいいでしょ」
彼女の言葉に、彼は答えなかった。瓶の中の無色の粉末を見つめていた。
「致死量はどれぐらいだ」彼が訊いてきた。
「百五十ミリグラムから二百ミリグラムといわれてるけど」
「わかりにくいな」
「耳かき一杯とか二杯とか、まあそのぐらいよ」
「猛毒だな。水には溶けるんだろう」
「溶けるけど、たとえばジュースに仕込んで飲ませるというような方法を考えているんだとしたら、耳かき一杯とか二杯じゃだめだと思うわよ」
「どうして?」
「ふつうなら、一口飲んで変だと思うからよ。舌を刺激するような味なんだって。あたしは飲んだことないけど」
「その最初の一口で絶命するぐらい、たっぷり入れておかなきゃだめだということか。しかしそうするとさらに味がおかしくなるから、被害者は飲み込まずに吐き出すかもしれない」
「それに独特の臭いがあるから、鼻のいい人だと飲む前に気づくかもしれない」
「アーモンド臭というやつだな」
「といってもアーモンドナッツの臭いじゃないわよ。アーモンドの実の臭いってこと。アーモンドナッツはその種」
「青酸カリの水溶液を切手の裏に塗っておくという手が小説にあったが……」
典子は首を振り、苦笑した。
「非現実的ね。そんなわずかな水溶液じゃ、致死量には遠く及ばないもの」
「口紅に混ぜておくという手もあった」
「それもやっぱり致死量にはならないわね。あまり濃くしちゃうと、青酸カリは強アルカリだから、皮膚がただれちゃうんじゃないかな。第一その方法じゃ、青酸カリが胃の中に入らないから、毒性を発揮できないわね」
「というと」
「青酸カリ自体は安定した物質なのよ。それが胃に入ると、胃酸と反応して青酸ガスを発生させる。それで中毒症状が起きるわけ」
「飲ませなくても、青酸ガスを吸わせればいいんだな」
「そうだけど、現実にはやり方が難しいわよ。犯人自身も死んじゃうおそれがある。青酸ガスは皮膚呼吸によっても吸収されてしまうから、息を止めていたぐらいじゃだめかもしれない」
「なるほど」
それならば少し考えてみよう、と秋吉はいった。
実際それから二日間ほど、彼はパソコンの前に座って考え事をしていた。
「殺したい相手の家のトイレが洋式だったとする」夕食の最中に彼がいった。「その相手が帰宅する直前、部屋に忍び込み、便器に青酸カリと硫酸を放り込み、蓋を閉める。即座にトイレを出れば、犯人が中毒を起こすことはないんじゃないか」
「大丈夫でしょうね」と典子はいった。
「そこへターゲットが帰ってくる。トイレに入る。便器の中では化学反応が起きて、大量の青酸ガスが発生し続けている。それを知らずに蓋を開ける。青酸ガスが一気に溢れだし、ターゲットはそれを吸い込んでしまう――こういうのはどうだ」
少し考えてから、悪くないんじゃない、と典子は答えた。
「基本的にはいいと思う。どうせ小説なんだから、その程度でいいんじゃない。細かいことをいったらきりがないものね」
この言葉が秋吉は気に食わなかったようだ。彼は箸を置き、メモ用紙とボールペンを持ってきた。
「俺はいい加減なことはしたくない。何か問題があるのなら、きっちりと教えてくれ。そのために相談しているんだ」
典子は頬をぱちんと叩かれたような気がした。彼女は座り直した。
「問題があるというほどではないの。あなたのいった方法でうまくいくかもしれない。でも下手をしたら、相手は死なないかもしれない」
「なぜだ」
「青酸ガスが漏れ出ると思うからよ。便器に蓋をするといっても、きっちりと密封できるわけじゃないでしょう。漏れ出た青酸ガスはトイレに満ちて、次第にトイレの外にも出ていくと思う。そうすると、狙われた相手はトイレに入る前に異常に気づくかもしれない。ううん、気づくというのは適切じゃないわね。わずかな青酸ガスを吸って、何らかの中毒症状を示すかもしれない。それで死んでくれればいいわけだけど……」
「青酸ガスそのものが微量だから、死には至らない可能性があるというわけか」
「あくまでも推論だけど」
「いや、そのとおりかもしれない」秋吉は腕組みをした。「便器の蓋の密閉度を高める工夫が必要だな」
「さらに換気扇を回しておけばいいかもしれない」彼女はいってみた。
「換気扇?」
「トイレの換気扇よ。そうすれば漏れ出た青酸ガスは排出されるから、ドアの外には漏れないんじゃないかな」
秋吉は黙って考え込んでいたが、やがて典子の顔を見て頷いた。
「よし、それでいこう。典子に相談してよかった」
「いい小説が書けるといいね」と典子はいった。
一抹《いちまつ》の不安を抱きながら青酸カリを病院から持ち出したのだが、この時にはその不安も消えていた。彼の役に立ったらしいという手応えを感じ、素直に喜んでいた。
ところがその一週間後のことだ。典子が病院から帰った時、秋吉の姿がなかった。どこかへ飲みにでも行ったのかと思ったが、深夜になっても帰らず、連絡もなかった。彼女は心配になり、行方を捜そうとした。だが心当たりといえるものが何ひとつないことに彼女は気づいた。秋吉の知人というものを誰一人知らなかったし、立ち寄りそうな場所についても見当がつかなかった。彼女が知っている秋吉という男は、いつも部屋でパソコンに向かっているだけだったのだ。
明け方になって彼は帰ってきた。それまで典子は起きていた。化粧も落とさず、食事もとっていなかった。
「今までどこに行ってたの?」玄関で靴を脱ぐ彼に、典子は尋ねた。
「小説の取材をしていた。生憎《あいにく》公衆電話のないところで、連絡できなかった」
「すごく心配したのよ」
秋吉はTシャツにジーンズという出で立ちだった。その白いTシャツがひどく汚れていた。彼は提げていたスポーツバッグをパソコンの横に置き、Tシャツを脱いだ。身体が汗で光っていた。
「シャワー、浴びたいな」
「ちょっと待ってくれたら、お風呂を沸かすけど」
「シャワーでいい」彼は脱いだTシャツを持って、バスルームに入った。
典子は彼のスニーカーを揃えようとした。その時、スニーカーもずいぶん汚れていることに気づいた。さほど古くはなかったはずなのに、縁に土がべったりと付着している。まるで山の中を歩き回ったようだ。
一体どこへ行っていたのだろう。
典子は、秋吉が今夜の行き先については話してくれないような気がしていた。またそれを尋ねにくい雰囲気が彼にはあった。小説の取材なんてきっと嘘だと直感していた。
彼が提げていたバッグが気になった。あの中を調べれば、どこに行っていたかがわかるのではないか。
バスルームからはシャワーの音が聞こえてくる。ためらっている時間はなかった。彼女は奥の部屋に入ると、彼がさっき置いたスポーツバッグを開いた。
まず目に入ったのは、数冊のファイルだった。典子はそのうちの一番分厚いものを取り出した。ところが中身は空っぽだった。他のファイルを調べてみたが、いずれも同じだった。ただ、一冊のファイルには、次のように書かれたシールが貼られていた。
今枝探偵事務所――。
何だろう、と典子は首を傾げた。なぜ探偵事務所のファイルを秋吉が持っているのか。しかも中身のないファイルを。それとも何か理由があって、中身を処分したのか。
典子はさらにバッグの中を調べてみた。一番下に入っているものを見て、彼女は一瞬息をのんだ。それは例の青酸カリの瓶だった。
おそるおそるそれを取り出した。瓶の中には白い粉末が入っている。ところがその量は、前に見た時の半分ほどに減っていた。
胸騒ぎがし、気分が悪くなった。心臓の鼓動も激しくなる。
その時、シャワーの音が止まった。彼女はあわてて瓶やファイルを元に戻し、バッグを閉じた。
思った通り、秋吉はその夜の行き先について、何ひとつ典子には話してくれなかった。バスルームから出た後は、窓のそばに座り、いつまでも外を眺めていた。その横顔には、それまで典子が見たことのない暗さと険しさが滲んでいた。
また典子にしても、質問することはできなかった。質問すれば、きっと彼は何らかの答えを述べてくれるだろうとは思った。しかしそれが明らかに嘘とわかる説明であることを彼女は恐れた。この人はあの青酸カリを何に使ったのだろう。それを想像すると、足がすくむような恐怖に襲われた。
この後、秋吉は突然典子の身体を求めてきた。それまでにない荒々しさだった。まるで何かを忘れ去りたいかのようだった。
もちろんその時も彼は射精しなかった。二人のセックスは、典子が達しないかぎり終わらない。
その日典子は、初めて快感に身をよじる演技をした。
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その男から電話がかかってきたのは、雪穂の母のことで康晴から相談を受けた三日後のことだった。一成が営業会議から戻って席につくなり、電話が鳴りだした。電話機に並んだ小さなランプの一つが、それが外線であることを示していた。
ササガキ、と男は名乗った。全く聞いたことのない名だ。年配という印象を、一成は声から受けた。アクセントは明らかに関西弁のものだった。
さらに一成を戸惑わせたのは、男が大阪府警の刑事だということだった。
「篠塚さんのお名前は、高宮さんから伺ったんです。それで、お仕事中申し訳ないと思いましたが、お電話させていただきました」男はやや粘着質な口調でいった。
「どういった御用件でしょうか」一成は訊いた。声が少し固くなった。
「ある事件の捜査のことで、ちょっとお話を伺いたいんです。三十分でいいですから、お時間、いただけませんか」
「ある事件というのは?」
「それはお会いしてからお話しするということで」
低い笑い声のようなものがかすかに聞こえた。大阪の、いかにも狡猾《こうかつ》そうな中年男のイメージが、一成の頭の中で膨らんだ。
どういう事件に関係していることか、気になった。大阪から刑事が来るからには、些細なことではないのだろう。
そんな彼の内心を見透かしたように男はいった。
「じっは今枝さんに関することでもあるんですわ。今枝直巳さん、御存じでしょう?」
一成は受話器を握る手に力を込めた。緊張感が足元から這いあがってきた。同時に不安な思いが胸に広がる。
なぜこの男が今枝のことを知っているのか。いや、今枝と自分の関係を知っているのだろうか。ああした職業に携わっている人間が、仮に警察官に尋ねられたとしても、容易に依頼人の名前を明かすとは思えなかった。
一つだけ考えられることがある。
「今枝さんに何かあったのですか」
「さあ、そこです」と男はいった。「それも含めてお話があるんです。是非お目にかからせていただけませんか」男の声は、先程よりも幾分凄みを増したようだった。
「今、どちらにいらっしゃいますか」
「おたくの会社のすぐそばです。白い建物が見えます。七階建て、みたいですな」
「受付で、企画管理室の篠塚一成に会いたいとおっしゃってください。それでわかるようにしておきます」
「企画管理室……ですか。わかりました。すぐに伺います」
「お待ちしています」
いったん電話を切った後、一成は再び受話器を上げた。今度は内線だ。正面玄関の受付に電話し、ササガキという人物が来たら、七番来客室に通すよう命じた。そこは取締役たちが主に私的な用件で使うための部屋だった。
七番来客室で一成を待っていたのは、年齢のわりに体格のいい男だった。髪は短く刈り込まれていたが、それでも白いものが混じっていることが遠目にもわかった。一成がドアを開ける前にノックしたからか、男は立ち上がっていた。まだ蒸し暑い日が続いているにもかかわらず、茶色の背広を着て、ネクタイも締めていた。関西弁で話す口調から、一成は図々しく無神経な人物を漠然とイメージしていたのだが、少し訂正する必要があるかもしれないと思った。
「お忙しいところ、すみません」男は名刺を出してきた。
一成も自分の名刺を出し、男と交換した。だが手にした名刺を見て、少し戸惑った。そこには警察署名もなければ、所属も肩書きも記されていなかった。ただ笹垣潤三とあり、住所と電話番号が印刷されているだけだ。住所は大阪府八尾市となっていた。
「余程のことがないかぎり、警察の名前が入った名刺は使わん主義なんです」笹垣は笑いで顔の皺を一層深くしていった。「昔、そういう名刺を人に渡したところ、悪用されたことがありましてね。それ以来、個人的な名刺を使うようにしてます」
一成は黙って頷いた。隙《すき》を見せることを許されない世界に生きているということなのだろう。
笹垣は背広の内ポケットに手を入れ、手帳を出してきた。写真の貼ってある身分証明書のページを開き、一成のほうに見せた。「御確認ください」
一成は一瞥《いちべつ》してから、「どうぞおかけになってください」といってソファのほうを掌で示した。
どうも、といって刑事は腰を下ろした。膝を折る一瞬、彼は顔を少ししかめた。初老に入っていることを示した瞬間だった。
二人が向き合って座った直後、ドアをノックする音がした。入ってきたのは女子社員だった。トレイに湯飲み茶碗を二つ載せている。それをテーブルに置き、一礼してから出ていった。
「立派な会社ですな」笹垣はそういいながら湯飲み茶碗に手を伸ばした。「立派な会社は、応接室も立派ですな」
「おそれいります」一成はいった。だがじつのところ、この来客室はさほど立派でもないと思っていた。取締役専用とはいえ、ソファやテーブルなどは他の来客室と同じものである。ここを取締役専用にしてあるのは、防音工事を施してあるからだった。
それで、といって一成は刑事の顔を見た。
「お話というのはどういったことでしょうか」
ふむ、と頷いて、笹垣は湯飲み茶碗をテーブルに置いた。
「篠塚さん、あなた、今枝さんに仕事を依頼されましたね」
一成は軽く奥歯を噛んだ。なぜこの男が知っているのか。
「警戒されるのも無理ないと思います。けど、正直に答えていただきたいんです。私は今枝さんからあなたのことを聞いたわけやないです。じつは今枝さん、行方不明なんです」
「えっ」思わず一成は声を漏らした。「本当ですか」
「本当です」
「いつから?」
「さあ、それが……」笹垣は白髪混じりの頭を掻いた。「それがはっきりせんのです。ただ、先月の二十日に高宮さんのところに、今日か明日会いたいという内容の電話があったそうです。高宮さんは、明日ならいいとお答えになりました。それで今枝さんは、明日もう一度電話するとおっしゃったらしいです。ところが結局次の日、高宮さんのところに電話はかかってこなかったという話です」
「ということは、二十日か二十一日以後、行方がわからないと……」
「今のところ、そういうことです」
「そんな……」一成は腕組みをした。知らぬ間に唸り声を漏らしていた。「どうして彼が行方不明なんかに……」
「じつは私、それより少し前にあの人と会っているんです」笹垣はいった。「ある事件の捜査で訊きたいことがあったんです。その後、もう一度連絡を取ろうとしていたんですけど、何回電話しても誰も出えへん。それでおかしいと思いましてね、昨日上京して、今枝さんの事務所を訪ねてみたんですわ」
「誰もいなかったわけですか」
一成の問いに、笹垣は顎を引いた。
「郵便受けを覗いてみたら、郵便物が結構溜まってました。それでおかしいと思って、管理人に頼んで部屋を開けてもろうたわけです」
「部屋の中はどうなってました?」一成は身を乗り出した。
「どうもなってませんでした。何か事故らしきことが起きた形跡もありません。一応地元の警察に知らせておきましたけど、今のままでは積極的に今枝さんを捜すということはないかもしれませんな」
「彼は自分の意思で姿をくらましたということですか」
「そうかもしれません。けど」笹垣は自分の顎をこすった。「そのセンは薄い、と私は見てます」
「といいますと」
「今枝さんの身に何かが起きた、と考えたほうが妥当やないかと思うわけです」
一成は唾を飲み込もうとした。だが口の中はからからに渇いていた。彼は湯飲み茶碗を取り、茶を啜《すす》った。
「何か危険な仕事でもしていたんでしょうか」
「問題はそこですな」笹垣は再び内ポケットに手を入れた。「ええと、煙草を吸うてもかまいませんか」
「ああ、どうぞ」彼はテーブルの端に寄せられていたステンレス製の灰皿を笹垣の前に置いた。
笹垣が取り出したのはハイライトだった。今時珍しい、と白地に青のパッケージを見ながら一成は思った。
刑事は煙草を指にはさみ、濃い乳白色の煙を吐き出した。
「私が前回今枝さんに会《お》うた時の感触では、このところの主な仕事は、ある女性に関する調査やったと思うわけです。その女性というのが誰か、篠塚さん、もちろんあなたも御存じですね」
たった今まで人の良ささえ醸し出していた笹垣の目が、突然|爬虫類《はちゅうるい》を思わせる鈍い光を放った。その視線はねっとりと一成の身体にからみついてくるようだった。
ここでとぼけても無意味だと一成は感じた。そしてこう感じさせるところが、いわゆる刑事の持つ迫力というものなのだろうと解釈した。
彼はゆっくりと頷いた。「ええ、知っています」
結構、というように頷き、笹垣はステンレスの灰皿の中にハイライトの灰を落とした。「唐沢雪穂さん……に関する調査を依頼されたのはあなたですね」
それには敢えて答えず、一成は少し自分のほうからも質問してみることにした。
「私の名前は高宮からお聞きになったとおっしゃいましたね。そのあたりの繋がりが、どうもよく把握できないのですが」
「なあに、そう難しいことやないです。あまり気にされる必要はありません」
「でもそれがはっきりしないことには」
「質問に答えにくい?」
ええ、と一成は頷いた。数々の修羅場を経験してきたに違いない刑事を睨みつけても何の効果もないだろうが、せめて真っ直ぐに目を見つめた。
笹垣は唇を緩め、煙草を吸った。
「ある事情があって、私も唐沢雪穂という女性に強い興味を持ってるわけです。ところが最近になって、彼女のことを調べ回っている人間がおることに気づきました。当然、どこの誰がそんなことをしているのか気になりますわな。それで、唐沢雪穂さんの前の夫である高宮さんに会いにいきました。今枝さんの名前を聞いたのは、その時です。唐沢雪穂さんには縁談話が進んでいて、今枝さんは相手の男性の家族から彼女に関する調査を依頼されたらしいと、高宮さんはおっしゃってました」
高宮には率直に本当のことを話したと今枝がいっていたのを一成は思い出した。
「それで?」と彼は先を促した。
すると笹垣は傍らに置いていた古い鞄を膝の上に置き、ファスナーを開いた。中から出てきたのは小さなテープレコーダーだった。彼は意味ありげな笑いを浮かべ、それをテーブルの上に置いて再生ボタンを押した。
ピーという発信音が雑音混じりにまず聞こえた。その後に声が続いた。
「……ええと、篠塚です。唐沢雪穂の調査の件、その後どうなっていますか。連絡を待っています」
笹垣がストップボタンを押した。そのままテープレコーダーを鞄に戻した。
「昨日今枝さんの電話機から拝借してきたんですわ。これを吹き込んだのは篠塚さん、あなたですね」
「たしかに、今月のはじめ頃、こういうメッセージを留守電に入れました」一成はため息混じりに答えた。ここでプライバシーのことをいっても始まらないと思った。
「これを聞いて、改めて高宮さんに連絡したわけです。篠塚という人に心当たりはありませんかと尋ねてみました」
「すると彼は即座に、私のことをあなたに話したわけだ」
「そういうことです」笹垣は頷いた。「さっきもいうたとおりでしょう。難しいからくりなんか、何もありません」
「なるほどね。おっしゃるとおりだ。難しくない」
「改めて訊きますが、唐沢雪穂さんの調査を依頼されましたね」
ええ、と一成は頷いた。
「彼女と結婚することになっているのは……」
「親戚の者です。ただし結婚は決まっていません。本人がそう望んでいるだけです」
「その方のお名前を教えていただけますか」笹垣は手帳を開き、ボールペンを構えた。
「そんなことを知る必要があるんですか」
「それはわかりません。警察の人間というのは、どんなことでも一応知っておきたいんですわ。もし教えていただけんということになりますと、いろいろな人に尋ねて回ることになります。唐沢雪穂さんと結婚したがっているのは誰か、と」
一成は口元を歪めた。そんなことをされたらたまらない。
「従兄で、篠塚康晴といいます。康は健康の康、晴は晴天の晴」
笹垣はそれを手帳にメモしてから、「やっぱりこの会社で働いてはるんでしょうなあ」と訊いてきた。
常務取締役ですと一成がいうと、老刑事は目を見張り、首を小刻みに振った。そして手帳にそのことも記録した。
「いくつかわからないことがあるんですが、質問してもいいですか」一成はいった。
「どうぞ。もっとも、答えられるかどうかはわかりませんけど」
「あなたは先程、ある事情があって唐沢雪穂さんに興味を持っている、とおっしゃいましたよね。その事情とは何ですか」
すると笹垣は苦笑いを浮かべ、首の後ろを二度叩いた。
「残念ながら、それを今ここで説明するわけにはいきませんな」
「捜査上の秘密、というわけですか」
「そう解釈してくださっても結構ですけど、一番大きな理由は、不確かな部分が多すぎて、とても口にできる段階ではないということです。何しろ、十八年近くも前の事件に関わる話です」
「十八年……」口にしてから、一成はその言葉が意味する時間の長さを頭に描いた。そんなはるか昔、一体何があったのか。「その十八年前の事件というのは、どういった種類の事件ですか。それも教えてはいただけませんか」
彼がいうと、老練な刑事の顔に迷いの気配が浮かんだ。数秒後、刑事は瞬きを一つしていった。「殺人です」
一成は背筋を伸ばしていた。ふうーっと長い息を吐き出した。「誰が殺されたんです?」
「そこまではご勘弁を」笹垣は一成のほうに掌を向けた。
「その事件に彼女……唐沢雪穂さんが関係しているわけですか」