饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 十 章.8

作者:日-东野圭吾 当前章节:15498 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「重大な鍵を握っている可能性がある、とだけ申し上げておきましょう」

「でも……」重大なことに一成は気づいた。「十八年なら殺人の時効は過ぎている」

「そうですな」

「それでもあなたはその事件を追っておられるのですか」

 刑事はハイライトの箱を取り上げた。指を突っ込み、二本目の煙草を出す。一本目の煙草をいつ灰皿の中でもみ消したのか、一成は覚えていなかった。

 笹垣は使い捨てライターで煙草に火をつけた。一本目の時より、ずいぶんとゆっくりとした動作だった。意識してそうしているのだろう。

「長い物語みたいなものです。それが始まったのが十八年前。けど、物語はまだ終わっとらんのですわ。決着をつけるには最初に戻らんといかん。ま、そういうことです」

「その物語全体を話していただくことは……」

「それはやめときましょ」笹垣は笑った。口から煙が吐き出された。「ここで十八年間の話をしてたら、時間がなんぼあっても足りません」

「じゃあ、いつかは話していただけますか。たっぷり時間をとれる時に」

「そうですな」刑事は彼の目を真正面から受けとめ、煙草を吸いながら頷いた。真顔に戻っていた。「いずれお話ししましょう。ゆっくりと」

 一成は湯飲み茶碗を取ろうとし、それが空であることに気づいて手を止めた。見ると、笹垣も茶を飲み干していた。

「お茶のおかわりを持ってこさせましょうか」

「いえ、私は結構。それより、私のほうからも質問してよろしいですか」

「何でしょう」

「あなたが今枝さんに、唐沢雪穂さんのことを調べるよう依頼した、本当の理由を教えていただきたいんです」

「それはすでに御存じでしょう。本当も嘘もない。身内の人間が結婚を考えている相手のことを調査するというのは、世間ではよくあることじゃないですか」

「たしかにそういうことは多いでしょう。特にあなたがたみたいに、伝統のある家を引き継がなあかん立場の人が結婚する場合はね。けど、両親が調査を依頼したというならわかりますが、従弟が独断で探偵まで雇うというのは、ちょっと聞いたことがない」

「だからといって、いけないということはないでしょう」

「不自然な点はまだあります。そもそも、あなたが唐沢雪穂のことを調べようとすること自体が奇妙です。あなたと高宮さんは古くからの親友で、彼女はその親友の妻やったわけでしょう。もっと古いことをいうたら、大学のダンス部で一緒に練習した仲間やったそうやないですか。つまり今さら調べるまでもなく、あなたは唐沢雪穂のことを、かなりの程度知っているはずなんです。それなのに、なぜ探偵を雇う必要があったのか」

 笹垣の声はいつの間にか少しトーンが高くなっていた。防音効果のある部屋にしてよかったと一成は頭の隅で考えていた。

「今、私は、あの女性のことを呼び捨てにしました。唐沢雪穂、とね」笹垣は一成の反応を確かめるように、ゆっくりといった。「けど、どうです、篠塚さん。あなたにしても、さほど不自然な感じはせえへんかったのと違いますか。特に違和感はなかったと思いますけど」

「さあ……あなたが何といったのか、大して気には留めませんでしたけど」

「彼女の名前を呼び捨てにすることについて、抵抗はないはずなんです。なぜかというと、篠塚さん、あなた自身がそうしてるからです」そういって笹垣は先程の鞄をぽんぽんと叩いた。「さっきのテープ、もう一回聞きますか。あなたはこうおっしゃってるんです。唐沢雪穂の調査の件、その後どうなっていますか、連絡を待っています」

 かつて彼女はクラブの後輩だったから、その時の癖が出たのだ、一成はそう説明しようとした。だが彼が声を発する前に笹垣のほうが口を開いた。

「唐沢雪穂と呼び捨てにしたあなたの口調には、何ともいえん警戒心みたいなものが込められてました。じつをいいますとね、これを聞いた時にぴんときたんです。刑事の直感というやつです。このシノヅカという人から話を聞く必要がある、と思いました」刑事は二本目の煙草を灰皿の中で消した。それから身を乗り出し、テーブルに両手をついた。「ほんまのことを話していただけませんか。今枝さんに調査を依頼した真意はどこにあるんです」

 笹垣の目には相変わらず凄みがあったが、威圧的な感じはしなかった。むしろ包容力を感じさせた。取調室で容疑者と向き合った時、こういう雰囲気を利用するのかもしれないと一成は思った。そして、要するにこの刑事は、今日これを訊きにきたのだと理解した。唐沢雪穂と結婚したがっているのが誰であろうと、おそらくどうでもいいのだ。

「笹垣さん、あなたのおっしゃっていることは半分は当たっています。でも残りの半分は的外れです」

 ほう、と笹垣は唇をすぼめた。「まず的外れというところからお聞きしたいですな」

「それは、私が今枝さんに彼女の調査を依頼したのは、純粋に従兄のためだということです。もし従兄が彼女との結婚を望んだりしなければ、彼女がどんな女性で、どんな人生を送っていようと、全く関心がありません」

「なるほど。で、当たっている部分というのは?」

「私が彼女のことを特別に警戒している、ということです」

「ははあ」笹垣はソファにもたれ、一成の顔を見つめてきた。「その理由は?」

「極めて主観的で、漠然としていますけど、構いませんか」

「構いません。そういうあやふやな話というのが大好きでして」笹垣はにやりと笑っていった。

 今枝に仕事を依頼する時にした説明とほぼ同じ内容を、一成は笹垣にも話した。金銭面などで唐沢雪穂の後ろに何か見えない力の存在を感じること、彼女と関わった人間が何らかの形で不幸を背負うことになっている印象を受けることなどだ。まさに主観的で漠然としていると一成自身が話しながら思ったが、笹垣は三本目の煙草を吸いながら、真剣な顔つきで聞いていた。

「お話、よくわかりました。話してくださって、感謝します」煙草を消しながら笹垣は五分刈りの頭を下げた。

「くだらない妄想だと思われたんじゃないですか」

「とんでもない」笹垣は何かを払うように、自分の顔の前で手を振った。「正直なところ、篠塚さんがあんまり的確に状況を把握しておられるんで、少々驚いているところです。いや、お若いのに大したもんです」

「的確……と思われますか」

「思いますな」笹垣は頷いた。「あの唐沢雪穂という女性の本質を、じつによく見抜いておられる。大抵の人間は、あなたほどの目は持ってないものです。かくいう私も、ずいぶん長い間、全く何も見えていなかったも同様なんです」

「私の直感は間違っていないとおっしゃるのですね」

「間違ってませんな」笹垣はいった。「あの女と関わると、ろくなことがない。それは、十八年間、追い続けてきた私の結論でもあります」

「従兄に笹垣さんを会わせたいですね」

「私も是非お会いして進言したい。しかし、まあ、相手にはされんでしょうな。じつをいいますと、ここまで包み隠さず話ができた相手は、あなたが初めてです」

「何とか決定的なものを掴みたいですね。だからこそ今枝さんの調査に期待していたのですが」一成は腕を組み直した。

「今枝さんからは、どの程度報告を受けてたんですか」

「それが、まだ調査が始まったばかりというところでした。彼女の証券取引の実績などは報告してもらいましたが」

 唐沢雪穂が本当に好きなのはあなただ、と今枝からいわれたことは、ここでは黙っていることにした。

「これは私の想像ですけど」笹垣が低い声でいった。「もしかすると今枝さんは、何か掴んでたのかもしれません」

「何か根拠でも?」

 ええ、と刑事は頷いた。「昨日、今枝さんの部屋をざっと調べてみたんですけどね、唐沢雪穂に関する資料はすべて消えてました。写真一枚残ってませんでした」

「えっ」一成は目を見張った。「それはつまり……」

「現在の状況で、今枝さんが篠塚さんに断りもなく行方をくらますはずがない。となると、考えられる最も妥当な答えは一つしかありません。今枝さんの失踪《しっそう》は何者かによって起こされた、いうことですわ。さらにいうなら、その何者かは、今枝さんの調査を恐れたということですな」

 笹垣がいっていることが何を意味するのか、無論一成にも理解できた。飛躍した考えでもないと認識できる。だがやはり非現実的な感覚が残った。

「まさか」と彼は呟いた。「まさかそこまでは……」

「それほどの悪女ではないと思いますか」

「失踪は偶然じゃないでしょうか。何か事故に巻き込まれたとか」

「いや、事故のセンはありません」笹垣はきっぱりといいきった。「今枝さんは新聞を二紙購読されてるんですけどね、販売店に確認したところ、先月の二十一日に、しばらく旅行に行くから配達を停止してほしいという連絡があったそうなんです。男の声で電話があったということでした」

「男の声……ということは、今枝さんが自分で電話した可能性もあるんじゃないですか」

「もちろんそうです。けど、私はそうではないと思います」笹垣は首を振った。「今枝さんの失踪を仕組んだ人間が、なるべく騒ぎが大きくならんよう、手を打ったんやと思います。配達された新聞が郵便受けの前に山積みにされてたら、近所の人間や管理人が、何かおかしいと思い始めますから」

「でも、もしあなたのいっていることが当たっているのだとしたら、その人物はとんでもない犯罪者ということになりますよ。だって、今枝さんが生きていない可能性もあるわけでしょう?」

 一成の言葉に、笹垣は能面のように表情をなくした。その感情をシャットアウトした顔でいった。

「生きている可能性は低い、と私は考えてます」

 ふっと息を吐き出し、一成はいったん横を向いた。神経がくたびれる会話だ。心臓の鼓動は、とっくの昔に速まっている。

「だけど男の声で新聞屋に電話があったのなら、唐沢雪穂とは無関係かもしれない」

 いいながら、妙なものだと自分で思った。彼女がふつうの健気なだけの女性でないことを証明したかったはずなのに、人の生き死にが関わるほどの展開になってくると、逆に弁護するような発言ばかりしている。

 笹垣がまたしても背広の内ポケットに手を入れた。だが今度はこれまでとは反対のポケットだった。彼が取り出してきたのは一枚の写真だった。

「この男を見たことはありませんか」

「ちょっと拝見」一成は写真を受け取った。

 そこに写っているのは、細い顔をした若い男だった。肩幅は広く、それで黒っぽい色の上着がよく似合っている。どこか冷徹な印象を受けた。

 一成の全く知らない男だった。笹垣にもそう答えた。

「そうですか。それは残念」

「誰なんですか」

「私が追い続けている男です。先程お渡しした名刺を、ちょっと貸してもらえますか」

 一成は笹垣潤三と印刷された名刺を彼に渡した。彼はその裏にボールペンで何か書き込んでから、どうぞ、と返してきた。一成は裏を見た。『桐原亮司 きりはらりょうじ』と書いてあった。

「きりはら……りょうじ。何者ですか」

「幽霊みたいなものです」

「幽霊?」

「篠塚さん、その写真の顔と、この名前を、どうか頭に叩き込んどいてください。そうして、もしもどこかで見かけることがあったら、どういう時であっても、すぐに私に連絡してほしいんです」

「そうおっしゃられても、一体どこにいるんですか、この男は。それがわからなければ、単なる指名手配と同じですよ」一成は小さく両手を広げた。

「現在どこにいるかは全く不明です。しかし、確実にこの男が現れるところがある」

「どこですか」

「それは」笹垣は唇を舐めて続けた。「唐沢雪穂の周辺です。ハゼはエビのそばにおると相場が決まってます」

 老刑事のいった意味が、一成はすぐには理解できなかった。

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 田園風景が窓の外を流れていく。時折、企業名や商品名の入った看板が田畑に立っていたりする。単調で退屈な風景だ。町並みを眺めたいと思うが、新幹線がそういうところを走る時には防音壁に囲まれてしまって何も見えない。

 窓枠に肘をついたまま、典子は隣の席を見た。秋吉雄一は目を閉じたまま動かない。眠ってはおらず、何か考えごとをしているのだということに彼女は気づいていた。

 彼女は再び目を外に向けた。重苦しいような緊張感が、心をずっと圧迫し続けている。この大阪行きが、またしても不吉な風を呼ぶことになるのではないかという思いが頭から離れない。

 しかしこれが秋吉という男のことを知る、最後のチャンスではないかとも思う。振り返ってみれば、典子は彼のことを殆ど何も知らぬまま、今日まで来てしまった。彼の過去に興味がなかったわけではない。だが、そんなことはどうでもいい、大事なのは現在だという考えがあったのも事実だ。ほんの短期間で、彼は彼女にとってかけがえのない存在になっていた。

 窓の外の風景が少し変わった。愛知県に入ったようだ。自動車関連メーカーの看板が増えている。典子は実家のことを思い出した。彼女は新潟の出身だった。彼女の家のそばにも、自動車部品を作っている小さな工場があった。

 栗原典子が上京してきたのは十八の時だ。特に薬剤師になりたかったわけではない。自分に受かりそうなところをいくつか受験した結果、たまたま某大学の薬学部に合格したというだけのことだ。

 大学卒業後は、知人の紹介があって、すんなりと今の病院での勤めが決まった。大学時代と、病院勤めが始まった五年間ほどが、自分が一番輝いていた時期ではなかったかと典子は思っている。

 勤めて六年目、恋人ができた。同じ病院で事務をしている三十五歳の男だった。その彼とは真剣に結婚のことまで考えた。障害はあった。彼には妻と子供がいたのだ。きちんと別れるつもりだ――彼はそういった。その言葉を典子は信じた。信じたからこそ、今の部屋を借りた。離婚すれば彼には行き場がなくなる。彼が家を出た時、すぐに身体を休められる場所を与えてやりたかった。

 だが多くの不倫がそうであるように、女が覚悟を決めると男は及び腰になった。彼は、会っている間中、いろいろと言い訳を漏らした。子供のことが気になる、今のままでは莫大な慰謝料を取られるだろう、時間をかけてじっくりと攻めるのが賢明――。そんな話を聞きたくてあなたと会っているんじゃないと、彼女は何度いったことか。

 その男との別れは、じつに意外な形で訪れた。ある朝、病院に行ってみると、彼の姿がなかった。別の事務員に尋ねてみると、辞めたらしい、という答えが返ってきた。

「あの人、患者さんが支払ったお金を着服していたらしいの」女性事務員は声をひそめていった。ゴシップを楽しむ顔になっていた。彼女はその男と典子の関係を知らなかった。

「着服って……」

「患者さんの治療費とか入院費の計算とか入金結果は、全部コンピュータで管理されてるでしょ。ところがあの人は、打ち込みミスがあったみたいに操作して、入金記録を消しちゃって、その分のお金を自分の財布に入れてたわけ。ちゃんと支払ったはずなのに督促状が送られてきたっていう患者さんからの問い合わせが何件かあって、そのことが発覚したのよ」

「いつからそんなことを……」

「正確なところはわからないんだけど、どうやら一年以上も前からそういうことが行われていた形跡があるの。というのは、その頃から、患者さんの入金が遅れ気味になっているのよ。もう少し遅れれば督促状を発行するという期限ぎりぎりだったケースが、いくつもあるの。どうやら犯行がばれないように、次々に患者さんのお金をネコババしては、入金記録の穴を埋めていたらしいわね。もちろんその代わりに、別の新しい穴が生まれていたわけ。で、その新しい穴が雪ダルマ式に大きくなって、とうとう埋めようがなくなって、ばれちゃったってことよ」

 楽しそうに話す女性事務員の赤い唇を、典子は放心状態で眺めていた。悪夢を見ているような気分だった。現実とは思えなかった。

「着服していた金額はいくらぐらいなの」必死で平静を装いながら典子は訊いた。

「二百万円ぐらいって聞いてるけど」

「そんなお金、何に使っていたのかしら」

「マンションのローンに回してたって話よ。あの人、よりによって、地価が一番高騰してる時に買ったみたいよ」女性事務員は目を輝かせて答えた。

 病院側も警察沙汰にする気はないようだ、と彼女は教えてくれた。金さえ払ってもらえれば、穏便に済ませるつもりらしい。マスコミに取り上げられて、病院の信用に傷がつくことのほうを恐れているのだろう。

 それから数日、彼からは何の連絡もなかった。その間、彼女は仕事がろくに手につかなかった。ぼんやりすることが増え、一緒に仕事をしている仲間たちから大いに訝《いぶか》しがられた。自宅に電話しようかとも思ったが、彼以外の人間が受話器を取った時のことを考えると、決心がつかなかった。

 ある日の夜中、電話が鳴りだした。呼び出し音を聞いて、彼に違いない、と典子は思った。果たして、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼の声だった。ただしそれはひどくか細かった。

 元気だったかい、と彼はまず訊いてきた。あまり、と彼女は答えた。だろうな、と彼。自嘲したような笑みが目に浮かんだ。

「話は聞いていると思うけど、もう病院には行けなくなった」

「お金、どうするの」

「払うよ。分割だけどね。そういうことで話がついた」

「返せるの」

「さあ……でも、返さなきゃ。いざとなれば、ここを売ってでも」

「二百万、だって?」

「ええと、二百四十万ほど、かな」

「それ、あたしが何とかしようか」

「えっ」

「あたし、少し貯金があるの。二百万円ほどなら、何とかしてあげられるけど」

「そう……」

「だから、それを払っちゃったら、あの……奥さんと……」

 離婚して、といいかけた時、彼はいった。

「いいよ、そういうのは」

 えっ、と今度は彼女が声を漏らした。「いいって、どういうこと?」

「君の世話になる気はないよ。自分で何とかする」

「だけど」

「女房の」と彼はいった。「父親から金を借りてるんだ。マンションを買う時に」

「いくら?」

「一千万」

 ずきん、と胸に衝撃を受けた。腋《わき》の下を汗が一筋流れた。

「離婚するとしたら、それを何とかしなきゃならない」

「でもあなた、これまで一度もそんなこといわなかったじゃない」

「君にいったって仕方ないだろ」

「奥さんは何といってるの? 今度のことについて」

「そんなこと聞いてどうするんだよ」男の声は不機嫌になっていた。

「気になるのよ。奥さんは怒ってないの?」

 今回の事件で彼の妻が腹を立て、もしかしたら離婚をいいだすのではないかという期待が典子の胸にはあったのだ。しかし彼の答えは意外なものだった。

「女房は謝ってくれたよ」

「奥さんが?」

「マンションを欲しいといいだしたのは女房なんだ。俺はあまり乗り気じゃなかった。返済計画にも少し無理があった。そのことが今度のことの原因だとわかっているんだろう」

「そうなの……」

「金を返すため、女房もパートに出るといっている」

 いい奥さんね、という台詞が喉元まで出かかった。それをこらえると、苦みが口の中に残った。

「じゃあ、当分は何の進展も望めないわけね。あたしとの関係については」

 辛うじてそういうと、男は一瞬黙り込んだ。それからため息が聞こえた。

「やめてくれよ、そういうの」

「そういうのって?」

「嫌味ったらしくいうのはって意味だよ。どうせ君だって、わかってたんだろ」

「何が?」

「俺が離婚するわけないってことだよ。君のほうだって、単なる不倫ごっこのつもりだったんだろ」

 男の言葉に、典子は一瞬声を失った。あたしは本気だったわよ、と怒鳴りたかった。しかしその台詞を口にした瞬間、いいようのない惨めな思いが襲ってくることもわかっていた。彼女としては黙っているしかなかった。もちろんそうした彼女のブライドの高さを見越した上で、彼はそんなことをいったのだろう。

 こんな夜中に誰と話してるのよ、と彼の後ろで声がした。彼の妻だろう。友達だよ、心配して電話してきてくれたんだ、と彼。

 少ししてから、先程までよりも一層細い声で、「じゃあ、そういうことだから」と彼は典子にいった。

 何が「そういうこと」なのか、と典子は問い詰めたかった。だが胸いっぱいに広がった虚しさは、彼女に声を出させなかった。男はそれで目的を果たしたと思ったか、彼女の返事を待たずに電話を切った。

 いうまでもなく、それが彼と交わした最後の会話だった。それ以後彼は二度と彼女の前に姿を現さなかった。

 典子は部屋に置いてあった彼の日用品を処分した。歯ブラシ、剃刀《かみそり》、シェービングクリーム、そしてコンドーム。

 捨て忘れていたのは灰皿だ。それだけは本棚の上に置いたままになっていた。それが埃に覆われる様子は、心の傷口が塞がっていくのを示しているようだった。

 それ以後、典子は誰とも付き合わなかった。しかし一人で生きていこうと決心したわけではなかった。むしろ、結婚願望は強まっていた。適当な相手と結婚し、子供を育て、平凡な家庭を築きたいと切実に思うようになった。

 事務員と別れてからちょうど一年が経つ頃、彼女は結婚情報サービス会社を訪れた。コンピュータによって最適な相手を決定するというシステムにひかれたのだ。彼女は恋愛感情とは切り放された部分によって、人生の伴侶を決めようとしていた。恋愛はもうこりごりだった。

 いかにも人当たりの良さそうな中年女性が、いくつかの質問をし、それに対する彼女の答えをコンピュータに入力していった。途中何度も、「大丈夫、きっといいお相手が見つかりますよ」という言葉をかけてくれた。

 その言葉通り、そこの情報サービス会社は、次々と典子に合いそうな男性を紹介してくれた。彼女はその中から、通算して六人の相手と実際に会ってみた。しかしそのうちの五人は、最初に一度会ったきりだった。会うなり幻滅させられる相手ばかりだったのだ。写真と本人と全く似ていないという人物がいた。情報サービス会社には結婚経験なしと登録されているが、じつは子供が一人いるといきなり告白してきた男性もいた。

 ある会社員とは三回デートを重ねた。年齢は四十を少し過ぎていたが、真面目そうだったので、典子も結婚を真剣に考えてみる気になっていた。ところが三回目のデートの時、老人性痴呆症の母親と二人暮らしであることを知らされた。「あなたなら僕たちの力になってくれると思って」と、その男性はいった。何のことはない。彼は母親の世話をしてくれる女性を探していたに過ぎないのだ。聞いてみると、彼は情報サービス会社に対して、「医療関係の仕事に従事している女性」という希望を出していたらしい。

「どうぞお大事に」という言葉を残し、典子はその男性と別れた。もちろん、それ以後は二度と会わなかった。馬鹿にしている、と思った。自分だけでなく、女性全体を。

 六人と会った後、その結婚情報サービス会社との契約を解除した。ひどい時間の無駄をしたような気がした。

 秋吉雄一と出会ったのは、それから約半年後のことだった。

 大阪に着いたのは夕方だった。ホテルでチェックインを済ませた後、秋吉は典子に大阪の街を案内してくれた。一緒に行きたいと彼女がいった時には難色を示した彼だったが、今日はなぜか優しかった。生まれた場所に戻ってきたせいかもしれないと典子は想像した。

 二人で心斎橋を歩き、道頓堀《どうとんぼり》橋を渡り、たこ焼きを食べた。一緒に旅行らしきことをするのは初めてだった。これから何が起きるのか不安ではあったが、典子としてはそれなりに心浮き立つものがあった。彼女は大阪に来るのは初めてだった。

「あなたが生まれた家はここから遠いの?」道頓堀を見下ろせるビアホールでビールを飲みながら、典子は訊いてみた。

「電車で駅五つほどだ」

「近いのね」

「大阪は狭いからな」秋吉も窓を見ていた。グリコの巨大な看板が光っている。

「ねえ」少し迷ってから典子はいった。「今から連れていってくれない?」

 秋吉が彼女を見た。眉間に皺ができていた。

「あたし、あなたが住んでた町を見てみたい」

「遊びはここまでだ」

「でも」

「俺には俺の予定がある」秋吉は目をそらした。明らかに機嫌が悪くなっていた。

「……ごめんなさい」典子は俯いた。

 二人で黙ってビールを飲んだ。典子は道頓堀を渡っていく人々の流れを眺めていた。時刻は八時を過ぎたところだ。大阪の夜は、まだ始まったばかりのようだ。

「どうってことのない町だ」不意に秋吉がいった。

 典子は横を向いた。彼は窓の外に目を向けたままだった。

「くすんだ町だ。埃っぽくて、薄汚れていて、ちっぽけな人間たちが虫みたいに蠢《うごめ》いている。そのくせ連中の目だけはぎらぎらしている。隙を見せられない町だ」彼はビールを飲み干した。「そんなところに行きたいのか」

「行ってみたい」

 秋吉は黙って何か考えていたが、ビールのグラスから手を離すと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。直に入れてあった一万円札を掴みだした。「支払いをしてきてくれ」

 典子はその一万円を受け取り、レジに向かった。

 店を出ると秋吉はタクシーを拾った。彼が運転手に告げた行き先は、典子には全くわからない地名だった。それよりも彼が大阪弁でしゃべったことのほうが興味深かった。それもまた典子にとっての初体験だった。

 タクシーの中で秋吉は殆ど無言だった。じっと車窓の外を見つめていた。典子は、彼が後悔しているのではないかと思った。

 タクシーは狭く薄暗い道に入っていった。途中から秋吉が道順を細かく指示した。それもまた大阪弁だった。やがて車は止まった。公園のすぐそばだった。

 車を降りると秋吉は公園の中に入っていった。典子も後に続いた。公園は、野球の試合ができる程度の広さがあった。ブランコ、ジャングルジム、砂場、昔ながらの公園だ。噴水はない。

「子供の頃、ここでよく遊んだ」

「野球をして?」

「野球もした。ドッジボールもした。サッカーも少ししたな」

「その頃の写真は?」

「ない」

「そう。残念」

「このあたりには、ほかに広い遊び場所なんかないから、この公園は貴重だった。だけど、この公園と同じぐらい貴重だったのが、ここだ」秋吉は後ろを振り返った。

 典子もつられて振り向いた。すぐ後ろには古びたビルが建っていた。

「ビル?」

「ここも俺たちの遊び場だった」

「こんなところで遊べるの?」

「タイムトンネル」

「えっ?」

「俺が子供の頃、このビルは未完成だった。建築途中でほうり出されていたらしい。このビルに出入りするのは、どぶネズミと、俺たち近所のガキだけだった」

「危なくなかったの?」

「危なくなきゃ、ガキたちは集まってこない」秋吉はにやりと笑った。だがすぐに真顔に戻った。ため息を一つつき、改めてビルを見上げた。「ある日、ガキの一人が死体を見つけた。男の死体だった」

 殺されていた、と彼は続けた。それを聞いた瞬間、典子は胸に鈍い痛みを覚えた。

「知っている人だったの?」

「少しだけ」と彼は答えた。「金に汚い男だった。だからみんなに嫌われていた。俺も嫌いだった。殺されていい気味だと、たぶん誰もが思っただろう。警察は、この町に住んでいる人間全員を疑っていた」

 それから彼はビルの壁を指差した。「壁に何か描いてあるのが見えるだろう」

 典子は目をこらした。すっかり色あせて見えにくいが、たしかに灰色の壁に何か絵のようなものが描いてあった。どうやら裸の男女のイラストのようだった。絡み合い、愛撫し合っている。芸術的な壁画とはとても思えなかった。

「殺人事件が起きた後、このビルは完全に立入禁止になった。それから間もなく、そんな忌まわしいビルでも借り手がいたらしく、一階の一部分で工事が始まった。同時にビルの壁にビニールシートがかけられた。工事が終わった時、ビニールシートも外された。下から出てきたのが、この猥褻《わいせつ》なイラストだった」

 秋吉は上着の内ポケットに手を入れ、煙草を一本取り出した。それを口にくわえ、先程のビアホールでもらったマッチで火をつけた。

「やがて胡散臭《うさんくさ》い男たちが集まってきた。こそこそと人目を気にしながらビルの中に入っていった。ビルの中に何ができたのか、俺は最初わからなかった。ほかのガキたちに訊いても、誰も知らなかった。大人たちも教えてくれなかった。だけどそのうちに、ガキの一人が情報を仕入れてきた。あそこは男が女を買う店らしい、とそいつはいった。一万円払えば女に対して何をしてもいい、ビルの壁に描いてあるようなことだってできる――そういう話だった。俺はすぐには信じられなかった。当時一万円は大金だったが、それでもやはり、そんなことを商売にする女がいるとは思えなかった」煙を吐き、秋吉は低く笑った。「純粋だったってことになるかな。何しろ俺はまだ小学生だった」

「小学生の時なら、あたしもショックを受けたと思う」

「俺は別にショックなんか受けちゃいなかったんだよ。ただ、学習した。この世で一番大切なものは何かってことをね」彼は、まだそれほど短くはなっていない煙草を地面に捨てた。それを踏みつぶした。「つまらない話を聞かせたな」

「ねえ」と典子はいった。「その犯人は捕まったの?」

「犯人?」

「殺人事件の犯人よ」

「ああ」秋吉は首を振った。「さあな。知らない」

「ふうん……」

「行くぞ」秋吉は歩きだした。

「どこへ行くの」

「地下鉄の駅が、この先にある」

 細くて暗い道を、彼と並んで典子は歩いた。古くて小さな民家が、びっしりと並んでいた。いわゆる棟割り住宅というものが多いようだ。おのおのの家の玄関ドアが、道路のすぐそばにある。この地には建蔽率《けんぺいりつ》の基準なんてないのかなとさえ思った。

 数分歩いたところで秋吉の足が止まった。彼は道の反対側にある家を見つめていた。それはこのあたりでは大きいほうに属する家だった。日本家屋の二階建てだ。ただし何か商売をしているのか、表の一部がシャッターになっていた。

 典子は何気なく家の二階を見上げた。古い看板が出ていた。『質きりはら』と書かれた文字が消えかけている。

「知っている家なの?」

「ちょっとだけな」と彼は答えた。「ほんのちょっとだけだ」そしてまた歩き始めた。

 質屋の前から十メートルほど行った時だった。一軒の家から五十歳前後の太った女が出てきた。その家の前には、小さな鉢植えが十個ほど並べてあった。そのうちの半分以上は道路にはみだして置いてある。女はそれらに水をやるつもりらしく、手に如雨露《じょうろ》を持っていた。

 くたびれたTシャツを着た女は、通りかかったカップルに興味が湧いたらしく、まずじろじろと典子の顔を見た。自分の目的のためには相手の不快感など意に介さない目つきだった。

 その蛇のような目が秋吉に向けられた。すると女は意外な反応を見せた。鉢植えに水をやろうと少し前屈みになっていたのだが、その身体をぴんと立てたのだ。

 彼女は秋吉の顔を見ながらいった。「リョウちゃん?」

 だが彼のほうは女のことなど見向きもしなかった。声をかけられたことにも気づかない様子だった。足の速度を変えることもなく、彼は真っ直ぐに進んだ。典子は後に続いていくしかない。やがて二人は女の前を通過した。女がいつまでも秋吉の顔を眺めていることに典子は気づいた。

「なんや、違うんかいな」通り過ぎてから、典子の背後で声がした。女が独り言をいったらしい。その声にも秋吉は全く反応しなかった。

 しかし「リョウちゃん」といった女の声が、典子の耳からいつまでも離れなかった。それどころか共鳴するように、彼女の頭の中で大きく響いていた。

 大阪での二日目は、典子は一人で過ごさねばならなくなった。朝食の後、いろいろと取材があるから今日は夜までホテルには戻らないといって、秋吉は出かけていったのだ。

 ホテルにいても仕方がないので、前日秋吉に案内してもらった心斎橋などを、もう一度歩いてみることにした。銀座にある高級ブティックが、ここにも並んでいた。銀座と違うところは、そうした店と同じ並びに、パチンコ屋やゲームセンターがあることだ。大阪で商売をするには格好をつけていられないということかもしれない。

 少し買い物をしたが、それでもまだ時間はたっぷりあった。彼女は昨夜のあの場所にもう一度行ってみようという気になった。あの公園、そしてあの質屋だ。

 なんば駅から地下鉄に乗ることにした。駅の名前は覚えている。駅からの道順も、たぶん記憶に残っているはずだった。

 切符を買った後、ふと思いついて売店に寄り、使い捨てカメラを一つ買った。

 典子は目的の駅で降り、前日秋吉の後をついて歩いた道を、逆に進んだ。町は夜と昼とでは大きく違っていた。商店がいくつも開いていたし、歩いている人の数が多い。そして商店主や通りかかる人々の目には力があった。無論、単に精力的なだけではない。誰かが隙を見せたらつけ込んでやろう、出し抜いてやろうという企みが、その目の光には宿っているようだった。彼のいうとおりだと再確認した。

 道をゆっくりと歩き、時折気まぐれにカメラのシャッターを押した。秋吉の生まれ育った町を、自分なりに記録しておきたかったのだ。ただしこのことは彼にはいえないなと彼女は考えていた。

 例の質屋の前に来た。だが店は閉まっていた。もうずっと営業していないのかもしれない。夜だと気づかないが、昼間見ると、どこか廃墟のような雰囲気があった。

 そのさびれた家も彼女はカメラに収めた。

 そしてあのビルである。公園では子供たちがサッカーをしていた。彼等の声を聞きながら、典子は写真を撮った。あの品のない壁画もきっちりと撮影した。その後でビルの正面に回ってみた。今はいかがわしい商売をしているようには見えなかった。バブル崩壊後に増えた、用途不明のビルと何ら変わるところがない。違うのは、ひどく古いことだけだ。

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