バスを降りるとコートの裾《すそ》がはためいた。昨日までは比較的暖かかったが、今日になって突然冷え込んだ。いや、それともやはり東京は大阪に比べて気温が低いということかな、と笹垣は思った。
もうすっかり慣れた道を歩き、目的のビルの前に辿《たど》り着いた。時刻は午後四時。ほぼ予定通りだ。新宿のデパートに寄っている分だけ遅くなったが、指定された土産を買っていかないとがっかりされるだろう。
ビルの階段を二階まで上がった。右の膝が少し痛む。この痛みの具合で季節を感じるようになったのは、何年前からだろう。
二階の一室の前で足を止めた。ドアに『今枝探偵事務所』と書いたプレートが貼られている。奇麗に拭かれており、知らない人間ならば、まだちゃんと業務を行っていると思うだろう。
笹垣はインターホンを鳴らした。室内で人の動く気配がある。ドアの向こうに立ち、ドアスコープで覗《のぞ》いているに違いない。
鍵が外され、ドアが開いた。菅原絵里がにっこり笑った。「お疲れさま。わりと遅かったね」
「これを買うのに手間取ったんや」笹垣はケーキの箱を差し出す。
「わあ、ありがとう。感激」絵里は喜んで箱を両手で受け取ると、即座に蓋を開けて中を確認した。「希望通りにチェリーパイを買ってきてくれたんだ」
「店を探すのに苦労したがな。けど、それと同じケーキを買《こ》うてる女の子がほかにもおったなあ。特別おいしそうにも思えんのやけど」
「今年はチェリーパイがブームになったからね。『ツイン・ピークス』の影響で」
「それがようわからん。ケーキがブームて、どういうことやねん。ちょっと前はティラミスとかいうもんが流行《はや》ったし、女の考えることは不可解や」
「おじさんはそんな理屈を考えなくていいの。よーし、早速食べちゃおうっと。おじさんも食べる? コーヒーを淹《い》れたげるけど」
「わしはケーキはええ。コーヒーはもらおか」
オーケー、と元気よく返事して、絵里はキッチンへ行った。
笹垣はコートを脱ぎ、そばの椅子に腰掛けた。今枝直巳が探偵業務をしていた頃《ころ》と、室内の様子は殆《ほとん》ど変わっていなかった。スチール製の書架もキャビネットもそのままだ。違っているのは、テレビが持ち込まれたことと、ところどころに少女趣味の小物が置いてあることぐらいか。いずれも絵里の所持品だ。
「ねえ、今度は何日ぐらいこっちにいるの?」絵里がコーヒーメーカーをセットしながら訊いてきた。
「まだ決めてへんけど、三、四日というところかな。あんまり家を空《あ》けられへんから」
「奥さんのことも心配だしね」
「あんなもん、別にどうでもええけどな」
「ひどいこというなあ。でも三、四日じゃ、大したことできないんじゃない」
「まあな。けど、しょうがない」
笹垣はセブンスターを取り出し、マッチで火をつけた。今枝の机の上にガラス製の灰皿があったので、マッチの燃えかすはそこに捨てた。スチール机の表面は奇麗に拭かれていた。今枝が帰ってくれば、すぐにでも仕事を始められそうだった。ただ、卓上カレンダーは昨年の八月のままだった。今枝が消えた頃だ。あれから一年三か月が経っている。
笹垣は、ジーンズを穿《は》いた足でリズムを取りながら鼻歌を歌い、チェリーパイを切っている絵里の姿を眺めた。見かけ上はいつも陽気で楽天的だ。しかし彼女の心の中にある悲しみと不安を思うと、彼は胸が熱くなった。彼女が今枝の死を覚悟していないはずがなかった。
笹垣が菅原絵里と会ったのは昨年の今頃だった。今枝の周辺で何か変わったことはないかと思い、この事務所へ来てみたところ、見知らぬ若い女が住んでいた。それが絵里だった。
彼女は最初ひどく警戒していたが、笹垣が刑事だということや、今枝が行方不明になる直前に彼と会っていたことを知ると、徐々に心を開いてくれるようになった。
本人は明言しないが、絵里はどうやら今枝と恋愛関係にあったようだ。少なくとも彼女のほうはそういう対象として彼のことを見ていたらしい。それだけに彼女は彼女なりに、必死で今枝の行方を捜していた。自分のアパートを引き払い、この事務所に越してきたのも、ここが片づけられてしまうと、手がかりが全くなくなってしまうと思ったからだった。ここにいれば、今枝宛の郵便物をチェックすることもできる。時には彼を訪ねてくる人間に会うこともできる。幸い、彼女がここに住むことについて、大家に異存はなかったようである。住人が行方不明のままで放置されることを思えば、彼女の申し出は渡りに船のはずだった。
絵里と知り合って以来、笹垣は上京する際には必ずここに寄るようになった。東京の地理や最近の流行について教えてくれたりもするので、彼としてもありがたい存在だった。何より、彼女と話していると楽しかった。
絵里がマグカップ二つと小皿をトレイで運んできた。小皿には笹垣が買ってきたチェリーパイが載っていた。彼女はそのトレイを、今枝のスチール机の上に置いた。
「はい、どうぞ」青色のマグカップを笹垣のほうに差し出した。
「やあ、ありがとう」笹垣は受け取り、まず一口|啜《すす》った。冷えた身体《からだ》にありがたかった。
彼女は今枝の椅子に座り、「いただきまあす」といってチェリーパイにかじりついた。口を動かしながら笹垣に向かってオーケーサインを出した。
「その後はどうや、何かあったか?」笹垣はやや遠慮がちに訊いてみた。
明るかった絵里の顔に、ほんのわずかだが翳《かげ》りが生じた。食べかけのチェリーパイを皿に戻し、コーヒーを一口飲む。
「特におじさんに報告できるようなことはないな。このところ彼宛の郵便も殆どないし、電話がかかってきても、単なる仕事の依頼みたいだし」
今枝の電話も、まだ生かしてある。もちろん絵里が電話料金を払っているのだ。電話帳に今枝探偵事務所として記載されているから、当然仕事の依頼もあるだろう。
「直接ここへ来る客は、もうおらんようになったか」
「そうだね。今年の初め頃までは、結構多かったんだけど……」
そういうと絵里は机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出してきた。そこに彼女なりの記録がつけられていることを笹垣は知っている。
「この夏に一人、九月に入ってからもう一人来ただけだね。どっちも女の人。夏に来た人はリピーターだった」
「リピーター?」
「以前に今枝さんに仕事を頼んだことがあるという意味。カワカミっていう女性。今枝は入院中で、しばらく復帰の見込みがないっていったら、がっかりして帰っていった。後で調べてみると、二年ぐらい前に旦那《だんな》の浮気調査を依頼してた。一応その時には、決定的な証拠は掴《つか》めなかったみたい。だから、再度お願いしたいっていうことじゃないのかな。おとなしくしてた旦那の浮気の虫が動きだしたんだね、きっと」絵里は楽しそうにいう。元々他人の秘密を探るような仕事が好きで、今枝の助手的なこともしていたということだった。
「九月に来たのはどういう人や。やっぱり、前に仕事を依頼したことがある人かな」
「ううん。その女の人は違った。知り合いがここへ仕事を依頼したことがあるかどうかを調べたいみたいだった」
「えっ? どういうことや」
「つまりね」ノートから顔を上げ、絵里は笹垣を見た。「一年ほど前にアキヨシという名前の人が、何かの調査を頼みに来なかったかどうかを教えてほしい、というわけ」
「ふうん」アキヨシと聞き、どこかで聞いたことがあるような気がした。しかし思い出せなかった。「変な質問やな」
「それが、そう変でもないんだな」絵里はにやにやした。
「どういうことや」
「前に今枝さんから聞いたことなんだけどね、浮気をしている人間の中には、奥さんとか旦那がいつか探偵を雇って自分のことを調べるんじゃないかとビクビクしている人が、結構いるんだって。だからこの時に来た女性も、そのくちじゃないかと思うわけ。たぶん旦那が一年前に探偵を雇った形跡を見つけたんだよ。それで確かめに来たんだ、きっと」
「えらい自信があるんやな」
「こういうことには勘が働くんだ。それにね、すぐにはわからないから調べてこっちから連絡するといったら、自宅じゃなくて職場にしてくれっていうんだよ。変だと思わない? つまり、旦那に電話に出られることを恐れてるわけだよ」
「なるほど。するとその女の人の名字も……ええと」
「アキヨシってことになるね。でもあたしにはクリハラって名乗ってた。たぶんそれは旧姓で、職場なんかではそっちを使ってるんだよ。働く女性には、そんなふうにする人が多いから」
笹垣は若い娘の顔をしげしげと見つめ、首を振った。
「大したもんやな。絵里ちゃん、探偵もええけど刑事にもなれるで」
絵里はまんざらでもないという顔で、えっへっへと笑った。
「じゃあもう一つ推理しようか。そのクリハラさんってのは帝都大病院の薬剤師さんらしいんだよね。だから浮気の相手は病院の医者。しかも相手も妻子持ちってのが、あたしの読みなんだ。今はやりのダブル不倫ってわけだね」
「何や、それ。そこまでいったら、推理を越えて空想やがな」笹垣は顔をしかめながら笑った。
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今枝の事務所を出ると、笹垣は新宿のはずれにあるビジネスホテルに向かった。正面玄関をくぐった時には七時になっていた。
全体的に薄暗い感じのする殺風景なホテルである。まともなロビーがなく、フロントといってもただ横に長い机が置いてあるだけだ。あまり客商売には向いていなさそうな中年男が一人、無愛想な顔で立っている。しかし数日間を東京で過ごそうと思えば、この程度の宿で我慢するほかなかった。本当はここでも、笹垣としては経済的に楽ではない。ただ流行りのカプセルホテルは苦手だった。二度ほど利用したことがあるが、老体には辛《つら》かった。少しも疲れがとれないのだ。粗末でもいいから、くつろげる個室が欲しかった。
いつものようにチェックインを済ませると、無愛想なフロント係は、「笹垣様に伝言がございます」といって、キーと一緒に白い封筒を出してきた。
「伝言?」
「はい」とだけいうと、フロント係はほかの仕事にかかり始めた。
笹垣は白い封筒を手に取り、中を開けてみた。メッセージ用の紙に、『部屋に着いたら308に電話ください』と書いてあった。
なんやこれは、と彼は首を傾《かし》げた。心当たりが全くなかった。あのフロント係は無愛想な上にぼんやりしていそうだから、ほかの人への伝言を間違えて寄越したのではないかと疑った。
笹垣の部屋は321号室だった。つまり伝言の主と同じ階だ。エレベータで自分の部屋に向かう途中、その308号室があった。彼は少しためらったが、ノックしてみた。
スリッパをひきずる音がして、ドアが開いた。中にいた人物の顔を見て、笹垣は愕然《がくぜん》とした。全く予想外だった。
「今ご到着ですか。遅かったですね」そういって笑うのは、古賀|久志《ひさし》だった。
「あんた……なんで、こんなところにおるんや」笹垣は少し吃って訊《き》いた。
「まあいろいろとありましてね。おやじさんを待ってたんです。おやじさん、晩飯は?」
「いや、まだやけど」
「そしたら、これから食べに行きましょ。おやじさんの荷物はとりあえずここに置いといたらええでしょ」古賀は笹垣の荷物を自分の部屋に入れると、クローゼットを開け、背広の上着とコートを取り出した。
何か食べたいものはあるかと訊かれたので、洋食でなければ何でもいいと笹垣は答えた。すると古賀が連れていってくれたのは、ごく庶民的な小料理屋だった。奥に座敷があり、小さな四角いテーブルが四つ置いてある。その一つを挟んで向き合った。上京した際にはよく来る店だと古賀はいった。刺身と煮込みが旨いのだという。
まずは一杯、と古賀がビール瓶を向けてきた。笹垣はコップを持って、酌を受けた。反対に注いでやろうとしたが、古賀は辞退し、そのまま自分のコップにビールを注いだ。
わけもなく乾杯し、一口飲んでから笹垣は訊いた。「で、どういうことなんや」
「警察庁で、ちょっとした集まりがありましてね、本来は部長が行くところなんですけど、どうしても都合が悪いとかで、自分が代わりに出席させられたんです。参りました」
「それだけ出世したということや。喜ばなあかん」笹垣は中トロに箸を伸ばす。なるほど旨かった。
古賀はかつて笹垣の後輩刑事だった。それが今は大阪府警の捜査一課長だ。昇任試験を次々と合格していく彼のことを、点取り虫などと陰口を叩く人間がいたことを笹垣は知っている。しかし彼の見るかぎり、古賀が実務で手を抜いたことなど一度もなかった。皆と同じように実務をこなし、なおかつ難関である昇任試験の勉強に励んだのだ。ふつうの人間にできることではない。
「しかしおかしいな」と笹垣はいった。「いそがしい警視殿が、なんでこんなところで油を売ってるんや。しかもあんな安っぽいホテルなんかに泊まって」
古賀は苦笑した。
「ほんまにそうです。おやじさんも、もうちょっとましなホテルにしたらどうですか」
「あほなこといわんといてくれ。遊びに来てるのやないで」
「おやじさん、問題はそこです」古賀は笹垣のコップにビールを注いだ。「遊びに来てるのやったら何も文句はいいません。この春まで牛みたいに働いたのやから、今は大いに遊んだらよろし。おやじさんには、それだけの権利がある。しかし、上京するおやじさんの目的を考えると、自分としても、のんびり笑《わろ》てばかりはいられません。おばさんも心配してはります」
「ふん、やっぱり克子があんたに頼んだんやな。しょうがない奴《やつ》や。府警の捜査一課長を何やと思うとる」
「おばさんに頼まれて来たんと違います。いろいろと話を聞いてるうちに、おやじさんのことが心配になって来たというわけです」
「同じことや。克子に愚痴を聞かされたんやろ。それとも織江《おりえ》からか」
「ま、みんなが心配しているのは事実ですな」
「ふん。しょうむない」
古賀は今や笹垣にとって親戚でもあった。妻の克子の姪《めい》にあたる織江が、古賀の妻になっているのだ。見合いではなく恋愛だというが、二人がどのようにして知り合ったのか、笹垣は詳しく知らない。おそらく克子が糸を引いたのだろうが、最後まで自分には隠されていたということで、二十年近く経つ今になっても、彼は少し根に持っている。
二本のビールが空になった。古賀は日本酒を頼んだ。笹垣は煮込みに箸をつける。関東風の味付けだが、これはこれで旨いと思う。
運ばれてきた日本酒を笹垣の猪口《ちょこ》に注ぎながら、古賀はぽつりといった。「例の事件のこと、まだ忘れられませんか」
「わしの傷や」
「しかしお宮入りしたのは、あの事件だけやないでしょう。そもそも、お宮入りという言い方が正しいかどうかもわかりません。あの交通事故で死んだ男が、やっぱり犯人やったのかもしれません。捜査本部でも、そういう意見は強かったはずです」
「寺崎は犯人やない」笹垣は猪口の酒をぐいと飲み干した。事件から約十九年が経っているが、関係者の名前は完璧に頭に入っている。
十九年前――質屋殺しの一件についてだ。
「寺崎の周辺をなんぼ探しても、桐原が持ってた百万円は見つからんかった。隠したんやろと主張する者もおったが、わしはそうは思わん。あの頃、寺崎は借金で苦しんどった。もし百万円があったら、どこかに流しとったはずや。それをしてへんということは、理由は一つしか考えられへん。そんな金はどこにもなかった。つまり桐原を殺してもおらんというこっちゃ」
「その意見には基本的に賛成です。あの時もそう思うたから、寺崎が死んだ後も、おやじさんと一緒になって歩き回りました。けどねえ、おやじさん、もう二十年です」
「時効は過ぎてる。それはわかってる。わかってるけど、あの事件だけは、かたをつけんと死んでも死にきれんのや」
空になった笹垣の猪口に古賀が酒を注ごうとした。笹垣はそれを制し、古賀の手から徳利を奪い取った。そしてまず古賀の猪口に酒を満たし、それから自分の分を注いだ。
「たしかにお宮入りしたのは、あの事件だけやない。ほかにもっと大きな事件や残酷な事件で、結局犯人の尻尾《しっぽ》の毛にも手が届けへんかったということは多々ある。どの事件も悔しい。死ぬほど情けない。けど、特にあの質屋殺しに拘《こだわ》るのには理由がある。あの事件でわしらがしくじったばっかりに、結果的に、関係のない人間を何人も不幸にしたような気がするんや」
「どういうことです」
「あの時に摘み取っておくべき芽があったんや。それをほったらかしにしておいたから、芽はどんどん成長してしもた。成長して、花を咲かせてしまいよった。しかも悪い花を」笹垣は口元を歪《ゆが》め、酒を流し込んだ。
古賀がネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外した。「唐沢雪穂のことですか」
笹垣は上着の内ポケットに手を入れた。折り畳んだ紙を取り出し、古賀の前に置いた。
「何ですか、これは」
「まあ、見てみろや」
古賀は紙を広げた。濃い眉《まゆ》の間に皺《しわ》が刻まれた。
「『R&Y』大阪店オープン……これは……」
「唐沢雪穂の店や。大したもんやな。とうとう大阪に出すらしい。心斎橋や。しかも見てみい、今年のクリスマスイブにオープンと書いてある」
「これを悪い花やというんですか」古賀はパンフレットを奇麗に畳み直し、笹垣の前に置いた。
「これは花の実というところかな」
「いつ頃でしたかね、おやじさんが初めて唐沢雪穂に疑いの目を向けたのは。いや、あの頃はまだ西本雪穂やったか」
「まだ西本の頃や。桐原洋介が殺された翌年、西本文代が死んだやろ。あれがきっかけやな。あの事件を境に、あの娘を見る目が変わった」
「あれは事故死ということで処理されたんでしたね。しかしおやじさんは最後まで、単なる事故死やないと主張してはりましたな」
「断じて事故死なんかと違う。報告書によると、被害者はふだん飲まん酒を飲み、風邪薬を通常の五倍以上も服用しとった。そんな事故死があるかい。残念ながら、うちの班の担当やなかったから、下手な口出しはでけへんかった」
「一応自殺説も出たはずです。しかしあれは結局……」古賀は腕組みをした。記憶を探る顔をしている。
「雪穂の証言や。母親は風邪をひいてたとか、寒気がする時にはカップ酒を飲んでたとかいいよった。それが自殺説を打ち消すことになった」
「娘が嘘の証言をするとは思いませんからね、ふつう」
「けど、雪穂以外の誰《だれ》も、文代が風邪をひいてたとはいうとらん。嘘の可能性もあったわけや」
「何のために嘘をつくんです? 雪穂としては、自殺でも事故でも大して事情は変わらんのと違いますか。過去一年以内に文代が生命保険にでも入ってたのなら、保険金が欲しかったということになるかもしれませんけど、そんな話はなかった。第一、当時はまだ小学生の雪穂がそこまでは考えへんでしょう」そこまでしゃべってから古賀は、はっと気づいたような顔をした。「まさか、文代を殺したのも雪穂や、とかいうんやないでしょうね」
古賀は冗談口調だったが、笹垣は笑わなかった。
「そこまではいわんけど、何らかの作為が入ってたかもしれん」
「作為て……」
「たとえば、母親が自殺する予兆は感じてたけど気づかんふりをしてた、とかや」
「雪穂は文代の死を望んでたというわけですか」
「文代が死んで間もなく、雪穂は唐沢礼子の養女になってる。もしかしたらもっと以前から、その話はそれとなくあったのかもしれん。文代は拒んでたけど、雪穂自身は養女に出たいと思ってたということは十分に考えられる」
「でも、だからというて、じつの母親を見捨てますか」
「あの娘はそういうことを平気でする人間なんや。それともう一つ、母親が自殺したことを隠す理由がある。もしかすると、あの娘にとってはこっちのほうが大きかったかもしれん。それはイメージや。母親が事故死したとなると世間の同情をひく。ところが自殺したとなると、何かあったんやないかと色眼鏡で見られる。将来を考えた場合、どっちを取ったらええかは明白やろ」
「おやじさんのいうこともわかりますけど……やっぱりちょっと受け入れにくい話やなあ」古賀は日本酒を二本、追加注文した。
「わしにしても、あの頃すぐにここまで考えが及んだわけやない。唐沢雪穂のことを追いかけてるうちに、徐々にこんなふうに考えがまとまってきたんや。おっ、これは旨いな。何やろ、この天麩羅《てんぷら》は」小さなかき揚げを箸で挟み、眺めた。
「何やと思います?」古賀がにやにやした。
「わからんから訊いとるんやないか。何やろな。食べたことのない味や」
「それはね、納豆です」
「納豆? あの腐った豆か」
「そうです」古賀は笑いながら猪口を口元に運んだ。「納豆嫌いのおやじさんでも、これやったら食べられるやろと思いましてね」
「ふうーん、これがあのどろどろの納豆か」匂いをかぎ、もう一度眺めてから口に入れた。香ばしさが口に広がる。「うん、旨いわ」
「何事も先入観を持ってたらあかんということですな」
「そういうことやな」笹垣は酒を口に運ぶ。背中がずいぶんと暖まっていた。「そうや、先入観や。それがあったばっかりに、わしらはえらい間違いをしでかした。あの雪穂という娘がただの子供やないと思い始めてから、あの質屋殺しについてもう一回見直してみたら、とんでもない見落としをしてたことに気づいた」
「何ですか」古賀が真剣な目をして訊いた。
その目を見返して、笹垣はいった。「まず、足跡や」
「足跡?」
「あの死体が見つかった現場の足跡や。床も埃《ほこり》だらけやったから足跡がたくさん残っとった。ところがその足跡に、わしらは殆ど関心を示さんかった。その理由を覚えてるか?」
「犯人のものらしき足跡が見つからなかったから、でしたね」古賀は答えた。
笹垣は頷《うなず》いた。
「現場に残されてたのは、被害者の革靴の跡以外には、子供の運動靴の跡ばっかりやった。あそこは子供が遊び場に使うてたし、死体を発見したのも大江小学校の児童やから、子供の靴跡があるのは当然と考えられていた。しかし、そこにこそ落とし穴があった」
「犯人も子供の運動靴を履いていた、ということですか」
「そのことを全く考えへんかったのは迂闊《うかつ》やったとは思わんか」
笹垣の言葉に、古賀は口元を歪めた。手酌で自分の猪口を満たし、一気に飲み干した。「あの殺しは子供には無理でしょう」
「子供やから可能という見方もできるで。被害者は油断しとったやろからな」
「しかし……」
「それと、もう一つ見逃したことがある」笹垣は箸を置き、人差し指を立てた。「アリバイのことや」
「何か抜けがありましたか」
「西本文代に目をつけた時、文代のアリバイが確認されたら、今度は共犯の男がおるんやないかというふうに発想した。それで寺崎の名前が出てきたわけやけど、その前に目を向けるべき相手がおった」
「あの時雪穂はたしか」古賀は顎《あご》を撫《な》で、視線を上に向けた。「図書館に行っていたんでしたね」
笹垣は年下の警視の顔を見返した。「よう覚えてたな」
古賀は苦笑した。「おやじさんも自分のことを、実務のできん点取り屋やと思うてはりましたか」
「いや、そうやない。刑事の誰一人として、あの日の雪穂の行動については掴んでないと思てたからや。あんたのいうとおり、雪穂は図書館に行ってた。しかもよくよく調べてみたら、その図書館と現場のビルは目と鼻の先やった。雪穂にしてみたら、図書館からの帰り道の途中に、例のビルがある感じや」
「おやじさんのいいたいことはわかりますけど、何というても小学五年生でしょう。五年生というたら――」
「十一歳。十分に知恵を持っとる年頃やがな」笹垣はセブンスターの箱を出し、一本抜き取って口にくわえた。マッチを探す。
古賀の手が素早く伸びてきた。ライターを持っている。「そうですかねえ」といいながら、火をつけた。高級ライターは、炎を出す音も重く聞こえた。
笹垣は、どうも、といってその火に煙草の先を近づけた。白い煙を吐きながら、古賀の手元を見つめる。「ダンヒルか」
「いえ、これはカルチェです」
ふん、と鼻を鳴らし、笹垣は灰皿を引き寄せた。
「寺崎が事故で死んだ後、あいつの車から、ダンヒルのライターが出てきたやろ。覚えてるか」
「殺された質屋の持ち物やないかといわれたこともありましたね。結局、はっきりしたことはわからんままでした」
「あれは被害者のライターやった、というのがわしの考えや。ただし寺崎は犯人やない。寺崎に罪をなすりつけようとした人物が、こっそりあいつの部屋に置いといたか、何かうまいことをいうて寺崎に渡したかのどっちかやと睨《にら》んでる」
「それも雪穂の仕業やったというわけですか」
「そう考えるほうが筋が通る。たまたま被害者と同じライターを寺崎が持ってた、というよりはな」
古賀はため息をついた。そのため息がやがて唸《うな》り声に変わった。
「雪穂に目をつけたおやじさんの柔軟さには敬意を表します。たしかにあの時に、子供やからというだけの理由で、あの娘について詳しいことを何も調べへんかったのは迂闊やったかもしれません。しかしおやじさん、それも一つの可能性に過ぎんのと違いますか。雪穂が犯人やという、たしかな決め手でもあるんですか」
「決め手は」笹垣は煙草を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。煙が一瞬古賀の頭で塊を作り、すぐに拡散した。「決め手はない、としかいいようがないやろな」
「そしたら、最初からもういっぺん考え直したらどうですか。それにおやじさん、あの事件は残念ながら、もう時効なんです。これから仮におやじさんが真犯人を見つけたとしても、我々としては手を出せんのです」
「そんなことはわかってる」
「そしたら」
「まあ聞け」笹垣は煙草の火を灰皿の中でもみ消した。それから周囲を窺《うかが》い、誰も聞き耳をたてていないことを確認した。「あんたは肝心なことを誤解してる。わしはあの質屋殺しだけを追ってるんやない。ついでにいうたら、唐沢雪穂だけを追いかけてるわけでもない」
「ほかに何か追いかけてるものがあるというんですか」古賀の目に鋭い光が宿った。捜査一課長の顔になっている。
「追いかけてるで」笹垣はにやりと笑って見せた。「ハゼとエビの両方をな」
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帝都大付属病院の診察開始時刻は午前九時である。栗原典子の出勤時刻は、その直前の八時五十分頃だった。診察が始まっても、実際に薬局に処方箋が回ってくるまでには、かなりのタイムラグがあるからだ。
処方箋が回ってくると、二人一組で調剤にあたる。一人が実際に薬を調剤し、もう一人が間違いがないかどうかを確認して袋に入れるのである。確認者は薬袋に印鑑を押す。
そうした外来患者に対応した業務のほかに、入院病棟からの仕事も入る。注射薬の搬入や急な調剤などだ。
この日、典子が同僚とそうした業務に追われている間、薬局の隅で、一人の男がずっと座り込んでいた。医学部の若い助教授だった。彼が睨み続けているのは、コンピュータの画面だ。
帝都大学では二年ほど前から、他の研究機関との情報交換をコンピュータによって行おうという動きが活発になってきている。具体化したものの一つが、某製薬メーカー中央研究所とオンラインによって結ばれたことだ。それによってそのメーカーで扱う薬品については、即座に必要なデータを入手することが可能になった。
基本的には誰でも利用が可能である。ただしIDとパスワードが与えられていることが条件となる。じつは典子も、その二つを持ってはいた。しかしこの得体の知れぬ機械が搬入されて以来、一度も触れたことがない。薬について知りたいことがある場合には、製薬メーカーに問い合わせるという昔ながらの方法をとっている。彼女以外の薬剤師たちも、そうしているようだった。
現在コンピュータの前に座っている若い助教授が、某製薬メーカーと共同である研究を進めていることは周知の事実だった。こういう人間にとっては便利なシステムなのだろうと典子は考えていた。しかしコンピュータといえども完璧ではないらしい。つい先日も、どこかの技術者たちが来て、医師たちと何か議論していた。ハッカーに利用された疑いがある――そういう内容だった。もちろん典子には、何のことかさっぱりわからなかった。
午後からは入院患者への服薬指導に回ったり、医師や看護婦と各患者への投薬について話し合ったりした。そしてまた調剤に戻る。いつもと同じような一日だった。いつもと同じように動き回っているうちに五時になった。
帰る支度をしていると、同僚から呼び止められた。電話が入っているという。
胸が騒いだ。あの人かもしれない。
「はい、お電話代わりました」受話器に向かっていってみた。声が少しかすれた。
「あ……栗原典子さん?」男の声だった。しかし典子が期待した声には全く似ていなかった。腺病質を連想させる細い声だ。どこかで聞いたことがあった。
そうですけど、と答えてみる。
「覚えておられますか。僕、フジイです。フジイタモツです」
「フジイさん……」と口に出した瞬間に思い出した。藤井保。結婚情報サービス会社を通じて知り合った男性だった。唯一、三回デートした相手だ。ああ、と彼女は声を出していた。
「お元気でした?」
「ええ、何とか。栗原さんもお元気そうですね」
「はあ……」
「じつは今、病院のすぐ近くにいるんです。さっき、中に入って、ちらっとあなたの姿も見たんですよ。前よりも少しお痩せになったみたいですね」
「そうですか……」一体何の用だろうと訝しんだ。
「あの、これから少しお会いできませんか。お茶でも」
男の言葉を聞き、典子はげんなりした。何をいいだすのかと思えば――。
「申し訳ないんですけど、今日は予定があるものですから」
「少しだけでいいんです。どうしてもお話ししておきたいことがあるんです。三十分だけでもだめですか」
典子は相手に聞こえるようにため息をついた。
「いい加減にしてください。ここへ電話をかけてこられるだけでも迷惑なんです。もう切りますから」
「待ってください。では僕の質問に答えてください。あなたはまだあの男性と同棲しているのですか」
「えっ……」
「もしあなたがまだ彼と一緒に住んでおられるなら、どうしてもお話ししておかなきゃならないことがあるんです」
典子は受話器を掌で覆った。声を落として訊く。「どういったことですか」
「だからそれは直に会ってお話しします」彼女が関心を持ったという手応えを感じたか、男はきっぱりといった。
典子は少し迷った。だが聞かないわけにはいかなかった。
「わかりました。どちらに行けばいいでしょう」
藤井が指定してきたのは、病院から歩いて数分のところにある喫茶店だった。荻窪駅のすぐ近くだ。
店に入っていくと、奥のテーブルで男が手を上げた。カマキリのように細いのは前と変わっていない。グレーのスーツを着ているが、上着はまるでハンガーにかけたように見える。
「お久しぶりです」典子は藤井の向かい側に座った。
「急に変な電話をしてすみません」
「どういう話でしょう」
「その前に何か飲み物を」
「あたしは結構です。お話を伺ったら、すぐに失礼しますから」
「でも、そんなに簡単に済む話じゃないんですよ」藤井はウェイトレスを呼び、ロイヤルミルクティーを、といった。それから典子を見て、にっこり笑った。「ロイヤルミルクティーがお好きでしたよね」
たしかにこの男とデートした時、彼女はよくそれを注文したのだった。そういうことを覚えられていること自体、何となく不愉快だった。
「お母様はお元気ですか」典子は訊いた。皮肉のつもりだった。
すると藤井は途端に表情を曇らせ、かぶりを振った。
「半年前に亡くなりました」
「あっ、そうだったんですか……それは、あの、ご愁傷様です。ご病気ですか」
「いえ、事故です。喉《のど》を詰まらせましてね」
「あ、お餅《もち》か何か」
「いえ、綿です」
「わた?」
「ちょっと目を離した隙《すき》に、布団の綿を食べてしまったんです。どうしてそんなことをしたのか、全くわかりません。取り出してみたら、ソフトボールよりも大きな綿の塊が出てきたんです。信じられますか」
典子は首を振った。信じられなかった。
「悲しいやら、情けないやらで、しばらくは何も手につきませんでした。でもね。嘆きながらも、心のどこかではほっとしているんですよね。ああ、これでもう、お袋が徘徊《はいかい》することを心配しなくてもいいんだなあと思って」藤井は吐息をついた。
彼の気持ちは典子にも理解できた。職業柄、介護に疲れている家族たちの姿はいやというほど見てきている。
でも、と彼女は思う。だからといってあたしに恨み言をいわれても困る。
ロイヤルミルクティーが運ばれてきた。彼女はそれを一口啜った。その様子を見て、藤井が目を細めた。「そんなふうにあなたが紅茶を飲むのを見るのは久しぶりだな」
典子は目を伏せた。何とも答えようがない。
「じつはね、母親が死んでほっとしたこと以外に、もう一つ不謹慎なことを考えてしまったんです」藤井は続けた。「それはね、今なら彼女も付き合ってくれるんじゃないかということでした。その彼女というのが誰のことかは、おわかりですよね」
「あれからずいぶん時間が経つのに……」
「あなたのことが忘れられなかったんですよ。それで、あなたのアパートに行ってみました。お袋が死んで一か月ほどしてからです。そこで、あなたがすでに別の男性と暮らしておられることを知りました。正直、ショックでした。でもそれ以外に、彼を見て驚いたことがあったんです」