典子は藤井の顔を見返した。「何でしょう」
「じつは、見たことのある人間だったのです」
「まさか……」
「本当なんです。名前は知りませんが、顔ははっきりと覚えています」
「どこでお会いになったんですか」
「あなたのすぐそばで、です」
「えっ?」
「たしか去年の四月頃です。白状しますと、その頃僕は時間を見つけては、あなたの顔を見るために病院に行ったり、アパートのそばまで行ったりしていたんです。たぶん気づいておられなかったと思いますが」
「全く知りませんでした」典子は首を振った。そんなことをされているとは夢にも思わなかった。気味悪さに鳥肌が立った。
「でもね」と藤井は彼女の不快感には気づかぬ様子で続けた。「あなたのことを観察しているのは僕だけじゃなかったんです。もう一人、あなたのことをじっと見ている男がいました。病院にもいたし、アパートのそばにもいました。僕はなんとなくよからぬものを感じて、あなたに教えてあげようかとさえ思いました。ところがそのうちに僕も仕事や母の世話で忙しくなり、自分の時間が全くとれなくなってしまったんです。あの男のことが気になってはいたのですが、結局そのままになってしまいました」
「その男性というのが……」
「ええ、あなたが今一緒に住んでいる人です」
「そんな馬鹿な」彼女は首を振った。頬が少しひきつるのを自覚した。「何かの間違いです」
「絶対に間違いなんかじゃありません。こう見えても、僕は人の顔を覚えるのは得意なんです。彼はあの時の男です」藤井は断言した。
典子はティーカップを手に取った。だが紅茶を飲む気にはなれなかった。様々な思いが嵐のように心の中で渦巻いていた。
「もちろん、だからといってあの男性が悪い人間だと決めつけているわけではないです。もしかしたら僕と同じで、あなたへの思いが募って、ああいうことをしていたのかもしれない。ただ、何というか、さっきもいいましたように、その時の雰囲気はあまりにも不穏でした。あなたが彼と一緒にいると思うと不安でどうしようもなくなります。とはいえ僕が口出しすべきことではないと思い、今日までずっと我慢してきました。だけどつい先日、偶然あなたを見かけてしまったんです。それ以来、またしてもあなたのことが頭から離れなくなってしまいました。それで今日思い切って、打ち明けることにしたんです」
藤井の話の後半を、典子は殆ど聞いてはいなかった。彼の話の主旨は、現在同棲している相手と別れて、自分と付き合ってくれないかということらしいが、まともに対応する気にさえならなかった。馬鹿馬鹿しいからではない。そういう精神状態ではなかったのだ。
何といってその場を立ち去ったのか、典子は覚えていない。気がついた時には夜の街を歩いていた。
四月、といった。去年の四月と。
そんなはずはなかった。典子が秋吉と出会ったのは五月だった。しかもその出会いは、偶然、のはずだった。
違うのか。偶然ではないのか。
あの時のことを思い出した。腹痛に顔を歪めていた秋吉。彼はその直前までは、典子が帰ってくるのを待っていたのか。あれはすべて、典子に近づくための演技だったということだろうか。
だが何のために?
秋吉が何らかの目的のために典子に近づいたとする。なぜ彼女を選んだのか。彼女は自惚《うぬぼ》れ屋ではない。美貌によって選ばれたのでないことはたしかだと思った。
何かの条件を満たしていたからか。薬剤師? ハイミス? 独り暮らし? 帝都大?
はっとした。結婚情報サービス会社のことを思い出した。あそこに登録する時、自分に関する膨大な量の情報を提供した。あの会社のデータを調べれば、希望の条件を満たす相手を探すことは難しくない。そして秋吉ならば、あそこのデータに近づけたかもしれないのだ。彼はメモリックスというコンピュータ会社に勤めていた。その会社が、あの結婚情報サービス会社のシステムも作ったのではないか。
いつの間にかアパートに着いていた。典子はややふらつきながら階段を上がり、部屋の前まで歩いた。鍵を外し、ドアを開ける。
あなたが彼と一緒にいると思うと不安でどうしようもなくなります、そういった藤井の声が耳に蘇《よみがえ》った。
この事実を知ったら不安は消えるわね――真っ暗な部屋を見つめて彼女は呟《つぶや》いた。
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頭の中で誰かが金鎚《かなづち》を叩いている。こーん、こーん、こーん、こーん。
そしてかすかに笑い声。それを聞いて瞼《まぶた》を開けた。花模様の壁に光の線が一本。遮光カーテンの隙間から、朝の日が漏れているのだ。
篠塚|美佳《みか》は首を捻《ひね》り、枕元の時計を見る。康晴がロンドンで買ってきてくれた、文字盤に動く人形の仕掛けが施された置き時計だ。セットした時刻になると、音楽に合わせて二人の少年と少女が踊り出すのだ。美佳は午前七時半にセットしていた。針は間もなくその時刻に達しようとしていた。あと一分も待てば、いつものように軽快なメロディが鳴りだすはずだった。しかし彼女は手を伸ばし、アラームを解除した。
美佳はベッドから降りて、遮光カーテンを開けた。大きな窓とレースのカーテンを通して、太陽の光が溢《あふ》れ込んできた。薄暗かった彼女の部屋は、たちまち明るくなった。壁際に置いてあるドレッサーの鏡の中に、ネグリジェはしわだらけ、髪はぼさぼさの娘が、不機嫌の塊のような顔をして立っていた。
また、こーん、と音がした。その後で人の声。話は聞き取れない。しかしどんなやりとりかは想像がつく。どうせくだらないことだ。
美佳は窓際に寄り、まだ十分に青さの残る芝生の庭を見下ろした。思ったとおりだった。康晴と雪穂がゴルフの練習をしていた。というより、康晴が雪穂にゴルフを教えているのだった。
雪穂がクラブを持って構える。すると康晴が彼女の後ろに重なるように立ち、彼女の手の上からクラブを持つ。まるで二人羽織だ。康晴は雪穂に何か囁《ささや》きながら、彼女の手と共にクラブを動かす。ゆっくりと上げ、ゆっくりと下ろす。康晴の唇は、今にも雪穂の首筋に触れそうだ。いや、きっと時にはわざと触れることもあるに違いない。
そういったことをひとしきりやった後、ようやく康晴は彼女から離れる。彼の見守る中で、雪穂は実際にボールを打ってみせる。こーん。うまくいく時もあるが、失敗することも多い。雪穂は照れ笑いを浮かべ、康晴は何かアドバイスをする。そしてまた最初と同じだ。おかしな二人羽織から始まる。それが約三十分続くのだ。
ここ何日間か、毎日のように見られる光景だった。雪穂がゴルフを始めたいといいだしたのか、康晴が誘ったのか、詳しいことは美佳も知らない。しかしどうやら二人は、夫婦で楽しめる共通の趣味を作ろうとしているようだった。
ママがゴルフを始めようとした時は、あんなに反対したくせに――。
美佳は窓から離れ、ドレッサーの前に立った。十五歳になったばかりの少女の身体がそこにある。まだ女らしい丸みの少ない、痩せた身体だ。手足だけがやけに細長く、肩の骨が尖《とが》っている。
そこに雪穂の身体が重なった。美佳は彼女の裸体を一度だけ見たことがある。彼女がいることに気づかず、バスルームのドアを開けてしまったのだ。雪穂は全く何も身に着けていない状態だった。バスタオルさえ持っていなかった。
美佳が目にしたのは、完璧な女の肉体だった。その輪郭は、まるでコンピュータで計算されつくしたような見事な曲線で成り立っていた。そのくせ轆轤《ろくろ》で作られた花瓶のようなシンプルさも兼ね備えている。豊かな胸は形が崩れておらず、ややピンクがかった白い肌の上に細かい水滴が浮いていた。無駄な肉が全くないというわけではない。だがわずかについた脂肪は、複雑な身体の曲線を滑らかに見せる役目を果たしていた。美佳は息をのんだ。ほんの数秒のことだったが、その造形は彼女の瞼に焼き付いた。
その時の雪穂の対応も見事なものだった。彼女は少しもうろたえず、爪の先ほどの不快感も示さなかった。
「あら、美佳さん。お風呂に入る?」雪穂は笑顔でこういったのだ。あわてて裸体を隠そうともしなかった。
取り乱したのは美佳のほうだ。何もいわずに逃げだした。部屋に駆け込み、ベッドにもぐりこんだ。いつまでも心臓が騒いでいた。
あの時の醜態を思い出し、美佳は顔を歪めた。鏡の中の彼女も同じ表情を作った。彼女はヘアブラシを手に取り、乱れた髪をとかした。髪がもつれてブラシが止まる。力任せにとかそうとすると、髪が何本か切れた。
その時ノックの音がした。「美佳さん、起きてますか。おはようございます」
返事をしないでいると、三度目のノックの後でドアが開いた。葛西《かさい》妙子《たえこ》がおそるおそるといった感じで顔を出した。
「なんだ、起きてたんですか」妙子は部屋に入ってくると、美佳が出たばかりのベッドを早速直し始めた。太目の体躯《たいく》、大きな腰を包むエプロン、袖まくりしたセーター、頭の上に団子を載せたような髪形、いずれも一昔前の外国映画に出てくる家政婦そのものだと、彼女がこの家へ来て以来ずっと美佳は思っている。
「もっと寝ていたかったけど、目が覚めちゃったの。外がうるさくて」
「外?」妙子は不思議そうな顔をしてから、ああ、と頷いた。「このところ、旦那さまもすっかり早起きになられましたね」
「馬鹿みたい。こんなに朝早くから」
「お二人ともお忙しいですからね、朝でないとお時間がとれないんでしょうよ。いいことだと思いますよ、運動するのは」
「ママが生きてた時は、パパ、あんなことは絶対にしなかったのに」
「人間というのはね、年をとってくると変わるものなんですよ」
「だから若い女の人と結婚するわけ? ママより十歳も下の人と」
「美佳さん、おとうさまだってまだお若いんだから、一生お一人というわけにはいかないでしょう? 美佳さんはいつかお嫁に行ってしまうし、坊っちゃんもいずれは家を出ていかれるでしょうから」
「妙さんて支離滅裂ね。年をとると変わるといってみたり、まだお若いといってみたり」
美佳の台詞《せりふ》に、長年彼女をかわいがってきた妙子も少し気分を害したようだ。唇を閉じると、ドアに向かって歩きだした。
「朝御飯が出来てますから、早く下りてきてください。これからは遅刻しそうになっても、もう車で送っていったりはしないとおとうさまはおっしゃってますから」
ふん、と美佳は鼻を鳴らす。「それもきっとあいつの差し金なんだ」
妙子は何もいわず、出ていこうとした。それを、「ちょっと待って」といって美佳は呼び止めた。妙子はドアを閉める手を止めた。
「妙さん、あたしの味方だよね」美佳はいった。
すると妙子は戸惑ったような表情を見せてから、ふふっと笑った。
「私は誰の敵でもありませんよ」そして太った家政婦はドアを閉めた。
美佳が学校へ行く支度を終えて一階へ下りていくと、ほかの三人はすでにダイニングテーブルについて食事を始めていた。壁を背に康晴と雪穂が並んで座り、手前に美佳の弟の優大《まさひろ》がいる。優大は小学校の五年生だ。
「まだとても自信がないわ。せめてドライバーだけでもきちんと打てるようにならないと、皆さんに迷惑をかけちゃう」
「案ずるより産むが易《やす》しというじゃないか。それに君はせめてドライバーだけでもというが、あれが一番難しいんだぜ。きちんと打てればプロだよ。とにかく、まず一度ラウンドしてみよう。それが第一歩だ」
「そういわれても不安だなあ」雪穂は首を傾げてから、美佳のほうに目を向けた。「あ、おはよう」
美佳は返事をせず席についた。すると、おはよう、と今度は康晴がいった。非難する目をしている。仕方なく彼女は口の中で小さく、おはよう、と呟いた。
テーブルの上にはハムエッグとサラダとクロワッサンが、それぞれの皿に盛りつけられていた。
「美佳さん、ちょっと待ってくださいね。今、スープを持っていきますから」キッチンのほうから妙子の声がした。何かほかの用事をしているようだ。
雪穂がフォークを置いて立ち上がった。
「大丈夫よ、妙さん。あたしがやりますから」「いい。スープなんていらない」そういうと美佳はクロワッサンを掴み、かじった。そして優大の前に置いてあるミルクの入ったグラスを手にすると、ごくりと一口飲んだ。
「あっ、おねえちゃんずるいぞ」
「いいじゃないの、ケチ」
美佳はフォークを持ち、ハムエッグを食べ始めた。すると目の前にスープが置かれた。雪穂が持ってきてくれたのだ。
「いらないっていったのに」俯《うつむ》いたまま彼女はいった。
「せっかく持ってきてもらったのに、そういう言い方はないだろう」康晴がいった。
いいのよ、と雪穂が小声で夫をなだめる。気まずい沈黙が食卓に漂った。
少しもおいしくない、と美佳は思った。大好物だった妙子のハムエッグの味がわからない。おまけに食事が楽しくない。胃袋の上が少し痛くなった。
「ところで君、今夜は何か予定があるの?」康晴がコーヒーを飲みながら雪穂に訊いた。
「今夜? 別にないけれど」
「だったら、四人で食事に出かけないか。じつをいうと知り合いが四谷でイタリアンレストランを開業して、ぜひ一度来てくれといわれているんだ」
「へえ、イタリアンね。いいわね」
「美佳と優大もいいな。見たいテレビがあるなら、ちゃんと録画予約しておけよ」
「やった。じゃあ、あんまりお菓子を食べないようにしようっと」優大はうれしそうにいう。そんな弟をちらりと見てから、「あたし、行かない」と美佳はいった。
夫妻の視線が同時に彼女に注がれた。
「どうしてだ」と康晴が訊いてきた。「何か用でもあるのか。今日はピアノのレッスンもないし、家庭教師が来る日でもないだろう」
「行きたくないんだから仕方ないじゃない。別にいいでしょ、行かなくたって」
「なぜ行きたくないんだ」
「いいじゃない、何だって」
「何なんだ。いいたいことがあるなら、はっきりいいなさい」
「あなた」雪穂が横からいった。「今夜はやめましょう。よく考えたら、あたしも予定が全然ないわけじゃないし」
康晴は返す言葉をなくした様子で娘を睨みつけてきた。雪穂が美佳のことを庇《かば》っているのは明白だった。そのことが余計に美佳を苛立《いらだ》たせる。
フォークを乱暴に置き、彼女は立ち上がった。「あたし、もう出かけるから」
「美佳っ」
康晴の声を無視し、美佳は鞄《かばん》と上着を持って廊下に出た。玄関で靴を履いていると、雪穂と妙子が出てきた。
「車に気をつけてね。あまり急いじゃだめよ」
雪穂は床に置いてあった上着を拾い上げ、美佳のほうに差し出した。美佳は無言でそれを奪い取る。袖を通していると雪穂が微笑《ほほえ》みながらいった。「かわいいわね、その紺色のセーター」そして、ねえ、と妙子に同意を求める。
妙子も、「そうですねえ」と笑って頷いた。
「最近の制服は、いろいろとお洒落ができるからいいわね。あたしたちの頃はワンパターンだったけど」
わけのわからない怒りがこみあげてきた。美佳は上着を脱いだ。さらに雪穂たちが呆然とする中、ラルフ・ローレンのセーターも脱ぎ捨てた。
「ちょっと美佳さん、何をするんですか」妙子があわてていった。
「いいの。もうこれ、着たくなくなった」
「でも、寒いですよ」
「いいっていってるじゃない」
騒ぎを聞いてか、康晴が出てきた。「今度は一体何をごねているんだ」
「何でもない。行ってきます」
「あっ、美佳さん、お嬢さん」
妙子の声に重なるように、「ほっとけ」と康晴の怒鳴る声が聞こえた。その声を背に、美佳は門に向かって走った。玄関から門までの、花や木々に囲まれた長いアプローチが彼女は好きだった。季節の変化を感じるために、わざとゆっくり歩くことさえあった。しかし今はその長さが苦痛だった。
一体何がそんなに嫌なのか、美佳は自分でもよくわからなかった。心の中のもう一人の彼女が冷めた口調で問いかけてくる。あんた、どうかしてるんじゃないの、と。それに対して彼女は答える。わかんないよ、わかんないけど、むかつくんだからしょうがないじゃない――。
雪穂と初めて会ったのは、今年の春だった。康晴に連れられ、優大と二人で南青山のブティックに行った時のことだ。はっとするような美しい女性が挨拶してきた。それが雪穂だった。康晴は彼女に、子供たちに新しい服を買ってやりたいのだがといった。すると彼女は店の者に命じて、次々と奥から洋服を持ってこさせた。その時になって気づいたことだが、その店にはほかに客はいなかった。完全に貸し切り状態だったのである。
美佳と優大はまるでファッションモデルにでもなったかのように、鏡の前で次から次へと服を着替えさせられた。優大などは途中で、「僕、もう疲れちゃった」と半べそをかきだした。
無論、年頃の美佳としては、厳選された最高級品を身に着けられて、楽しくないはずはなかった。ただ、ずっとあることが心に引っかかってはいた。それは、この女の人は何者なのだろう、ということだった。同時に彼女は感づいてもいた。たぶん父親と特別な関係にある人なんだろう、と。
そして、もしかすると自分たちにとっても特別な存在になるのではないかと思ったのは、美佳のパーティドレスを選んでいる時だった。
「家族でパーティに呼ばれる時もあるでしょう? そういう時でも、この服を着た美佳さんがいれば、きっとほかの家族を圧倒できるわ。親としても鼻が高いわよ」雪穂は康晴にこういったのだ。
馴れ馴れしい口のききかたをしたことも気にはなった。だがそれ以上に美佳の神経を刺激したのは、この言い方の中に含まれていた二つのニュアンスだった。一つは、そのパーティには当然自分も出席しているはずだというものであり、もう一つは、美佳を自分たちの付属品として見ているというものだった。
洋服を一通り見た後、どれを買うかという話になった。どれが欲しい、と康晴は尋ねてきた。美佳は迷った。欲しいものばかりで、絞るのが難しかった。
「パパが決めてよ。あたし、どれでもいいから」
美佳がいうと、難しいなあ、といいながら、康晴は何着かを選んだ。その選び方を見て、パパらしいな、と美佳は思った。お嬢様風の服が多い。露出が少なく、スカートの丈も長い。それは死んだ美佳の母親の好みとも共通していた。彼女は少女趣味の残る女性で、美佳のことも人形のように着飾るのが好きだった。パパはやっぱりママの影響を受けているのだなと思うと、少し嬉しくなった。
ところが最後に康晴は雪穂に訊いた。こんなところでどうかな、と。
雪穂は腕組みをして選ばれた服を眺めていたが、「あたしは、美佳さんにはもう少し派手で溌剌《はつらつ》とした感じの服がいいと思うけど」といった。
「そうかなあ。じゃあ、君ならどれを選ぶ?」
あたしなら、といって雪穂は何着かの洋服を選び出した。大人っぽく、それでいてどこか遊び心のある服が多かった。少女趣味のものは一着もなかった。
「まだ中学生なんだぜ。ちょっと大人っぽすぎないか」
「あなたが思っている以上に大人よ」
「そうかなあ」康晴は頭を掻《か》き、どうする、と美佳に訊いた。
あたしは任せる、と彼女は答えた。それを聞いて康晴は雪穂に頷きかけた。
「よし、じゃあ全部買おう。似合わなかったら、責任をとってくれよ」
「大丈夫」康晴にそういってから、雪穂は美佳に笑いかけた。「今日からはもう、お人形さんは卒業ね」
この時美佳は、心の中の何かが土足で踏み潰されたような気がした。彼女を着せ替え人形のようにして楽しんでいた、死んだ母親のことが侮辱されたように思えた。思い起こしてみれば、この時が雪穂に対して悪感情を持った最初の瞬間かもしれない。
この日以来美佳と優大は、しばしば康晴に連れられ、雪穂と一緒に食事をしたり、ドライブに出かけたりした。雪穂といる時、康晴はいつも異様にはしゃいでいた。美佳の母親が生きていた頃には、たまにレジャーに出かけてもむっつりしていることが多かったが、雪穂の前ではじつに多弁だった。そのくせ何をするにも雪穂の意見を求め、彼女のいいなりになっていた。そんな時美佳には自分の父親が、とんでもない木偶《でく》の坊に見えた。
七月に入ったある日、康晴からついに重大な報告を聞かされた。それは相談でもなく、打診でもなく、報告だった。唐沢雪穂さんと結婚するつもりだ、という話だった。
優大はぼんやりしていた。さほど嬉しそうでもなかったが、雪穂が新しい母親になるということにも抵抗がないようだった。彼にはまだ自分の考えというものがないのだ、と美佳は思った。それに前の母親が死んだ時、彼はまだ四歳だった。
美佳は、あたしはあまり嬉しくない、と正直にいった。自分にとっては七年前に亡くなった母親だけが、唯一人のママなんだ、とも。
「それはそれでいいんだ」と康晴はいった。「死んだママのことを忘れろといってるんじゃない。この家に、新しい人がやってくるだけだ。新しい家族が増えるだけのことだ」
美佳は黙っていた。俯いて、あの人は家族じゃない、と心の中で叫んでいた。
しかし転がり始めた石を止めることはできなかった。何もかもが美佳の望まない方向に進みだした。康晴は新しい妻を迎えられるということで浮き浮きしていた。そんな父親を彼女は心の底から軽蔑した。彼をこんな凡人に落としたと思うと、余計に雪穂のことが許せなかった。
雪穂の何が気に入らないのかと問われると、美佳は困ってしまう。結局のところ、直感としかいいようがなかった。雪穂の美しさは認めるし、頭の良さにも敬服する。あの若さで店をいくつも経営するのだから、才能にも恵まれているのだろう。だが雪穂と一緒にいると、美佳は次第に自分の身体が強張《こわば》ってくるのを感じる。決して隙を見せてはならないと、心の中の何かが警告を発し続けるのだ。あの女性が発するオーラには、これまで美佳たちが生きていた世界には存在しない、異質な光が含まれているような気がする。そしてその異質な光は、決して美佳たちに幸福をもたらさないように思えるのだった。
だがもしかするとこの思いは、美佳が独自に作り上げたものではないのかもしれなかった。ある人物の影響を受けている可能性が、間違いなく何パーセントかはある。
その人物とは篠塚一成だった。
康晴が雪穂との結婚を身内に表明して以来、一成は頻繁に訪れるようになった。彼は多くの親戚の中でただ一人、きっぱりと結婚には反対だといっていた。応接室で二人が話すのを、美佳は何度か盗み聞きしたことがある。
「康晴さんは彼女の本当の姿を知らないんだよ。少なくとも彼女は家庭におさまって、家族の幸せを第一に考えるというタイプじゃない。お願いだから、考え直してくれないか」一成は懸命の口調でいった。
だが康晴は、もううんざりだという態度をとるだけで、従弟《いとこ》の話を真剣に聞こうとはしなかった。次第に康晴は一成のことを疎《うと》ましく思うようになったようだ。居留計を使って追い返したのを、美佳は何度か目撃していた。
そしてそれから三か月後、康晴と雪穂は結婚した。さほど豪華な式でもなく、披露宴もおとなしいものだったが、新郎と新婦は幸せそうだった。出席者たちも楽しそうだった。
ただ一人美佳だけが、暗い気持ちになっていた。何か取り返しのつかない事態に陥りつつあるように思えた。いや、一人だけではないかもしれない。篠塚一成も出席していたからだ。
家に新しい母親のいる生活が始まった。外見上、篠塚家には大きな変化はないように思われる。しかし確実にいろいろなものが変わっていくのを美佳は感じていた。死んだ母親の思い出は消され、生活パターンも変容した。父親の人間性も変わった。
亡くなった母親は生花が好きだった。玄関、廊下、部屋の隅に、いつもその季節に応じた花が飾られていた。今、それらの場所にあるのは、もっと豪華で美しい花だ。誰もが目を見張るほど見事なものだ。
ただしそれは生花ではない。すべて精巧な造花だ。
うちの家全体が造花になってしまうのではないか。美佳はそんなふうに思うことさえあった。
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営団地下鉄東西線を浦安駅で降りると、葛西橋《かさいばし》通り沿いに徒歩で東京方向へ少し戻った。間もなく旧江戸川というところで左折する。細い道路沿いに、殆ど真四角といいたくなるような白いビルが建っていた。SH油脂という社名の入った門柱が立っている。守衛らしき者の姿が見えなかったので、笹垣はそのまま門をくぐった。
トラックの並ぶ駐車場を横切り、建物に入った。すぐ右側に小さな受付があった。四十歳くらいの女性が何か書きものをしていた。彼女は顔を上げて笹垣を見ると、怪訝そうに眉を寄せた。
笹垣は名刺を出し、篠塚一成さんに会いたいのだがといった。受付の女性の顔は、名刺を見ても和まなかった。肩書きのない名刺では、警戒を解く気になれないようだ。
「専務とは会う約束をされているわけですか」彼女が訊いてきた。
「専務?」
「ええ。篠塚一成は、うちの専務ですけど」
「ははあ……はい、ここへ来る前に電話しました」
「ちょっとお待ちください」
女はそばの受話器を取り上げた。篠塚の部屋にかけているようだ。二言三言話した後、彼女は受話器を置きながら笹垣を見た。
「部屋に直接おいでくださいということです」
「ああ、そうですか。ええと、お部屋はどちらでしょう」
「三階です」そういうと彼女はまた書きものを始めた。見ると、年賀状の宛名書きをしているのだった。彼女のものと思われるアドレス帳を横で広げているところをみると、会社から出すものではなさそうだ。
「あのう、三階のどこですか」
笹垣が訊くと、彼女は露骨にうんざりした顔を見せた。持っていたサインペンで、彼の後方を指した。
「この奥のエレベータに乗って、三階に行ってください。廊下を歩けば、ドアの上に専務室という札が出ています」
「ああ、どうも」笹垣は頭を下げたが、彼女はすでに自分の作業に入っていた。
いわれたように三階に行くと、なぜ彼女があれほど面倒臭そうにいったのかがわかった。ロの字形の廊下が一本あり、それに面して部屋がずらりと並んでいるという簡単な配置だったからだ。笹垣はドアの上の札を見ながら廊下を歩いた。一つ目の角を曲がってすぐのところに、専務室と書かれたプレートが出ていた。笹垣はノックをした。
どうぞ、という声が聞こえた。笹垣はドアを押し開いた。
窓を背に、篠塚一成が立ち上がったところだった。茶色のダブルのスーツを着ていた。
「やあ、どうも。お久しぶりです」一成はにこやかに笑いかけてきた。
「御無沙汰《ごぶさた》しております。お元気でやっておられましたか」
「まあ、なんとか生きてますよ」
部屋の中央に応接セットが置かれていた。一成は二人掛けのソファを笹垣に勧め、自分は一人用の肘掛《ひじか》け椅子に座った。
「いつ以来ですかね、お会いするのは」一成が訊いてきた。
「去年の九月です。篠塚薬品の来客室で」
「そうでしたね」一成は頷いた。「あれから一年以上経ちますか。早いものですね」
その間笹垣は電話で彼と話はしていた。だが会うのは、あの時以来である。
「今回も一旦篠塚薬品のほうに連絡させていただいたんですけど、こちらに移られたとお聞きしました」
「ええ、まあ、この九月からですけど」一成は少し目を伏せた。何かをいいたそうな顔つきだった。
「専務さんとは驚きました。すごい出世やないですか。お若いのに大したもんですなあ」笹垣は語尾に感嘆符を付けていった。
一成は顔を上げた。かすかに苦笑していた。「そう思われますか」
「思いますよ。違うんですか」
一成は何もいわずに立ち上がり、仕事机の電話を取った。
「コーヒーを二つ持ってきてくれ。うん、至急だ」
彼は受話器を置くと、そのままの姿勢でいった。
「前に電話でお話ししたと思いますが、従兄《いとこ》の康晴がとうとう結婚しました」
「十月十日、体育の日でしたな」笹垣は頷いた。「さぞかし派手なお式やったのでしょうなあ」
「いえ、地味なものでしたよ。教会で式を挙げた後、都内のレストランで身内だけの披露宴をしました。どちらも再婚だから、あまり目立つことはしたくなかったようです。それに従兄のほうには子供もいますしね」
「篠塚さんも出席されたんでしょう?」
「それはまあ、親戚ですからね。だけど」彼は再び椅子に腰掛けた。ため息を一つついて続けた。「あの二人としては、あまり招待はしたくなかったかもしれない」
「直前まで反対したとおっしゃってましたね」
ええ、と一成は頷き、笹垣のほうを見つめてきた。真剣な思い、切実な思いが、その目には込められていた。
笹垣は、この春頃まで、篠塚一成とかなり密接に連絡を取り合っていた。一成のほうは唐沢雪穂の本性を探る手がかりを求めていたし、笹垣は桐原亮司の気配を感じさせるものがないかどうかを知りたかったのだ。だがどちらも決定的な情報を得ることはできなかった。そのうちに篠塚康晴は唐沢雪穂と婚約してしまったのだ。
「せっかく笹垣さんとお知り合いになれたのに、彼女の本当の姿を暴くことは最後まで出来ませんでした。従兄の目を覚ますことも叶《かな》いませんでした」
「無理ないでしょうな。そんな調子で今まで、たくさんの男が騙《だま》されてきました」笹垣は続けた。「私もその一人です」
「十九年……でしたっけ」
「そう、十九年です」笹垣は煙草を取り出した。「吸ってもよろしいですか」
「ああ、どうぞ」クリスタルの灰皿を一成は笹垣の前に置いた。「それで笹垣さん、前から何度も電話でお願いしましたが、今日はすべてを話していただけるんでしょうね。その十九年の長い物語を」
「ええ、もちろん今日はそのために伺わせてもらったようなもんです」笹垣は煙草に火をつけた。その時、ノックの音がした。
「ちょうどよかった。コーヒーが届いたようだ」一成は腰を上げた。
やたらに分厚いカップに入ったコーヒーを飲みながら、笹垣は話を始めた。あの建築途中で放置された廃ビルで死体が見つかったところからだ。容疑者が次々に変わり、結局最後に捜査陣が目をつけた寺崎忠夫の事故死により、捜査は事実上終結してしまった顛末《てんまつ》を、時には詳しく、時にはかいつまんで説明した。篠塚一成は最初こそコーヒーカップを手に持っていたが、途中でそれはテーブルに置き、腕組みをした姿勢で聞き入った。西本雪穂の名前が出てくるところでは、足を組み直し、深呼吸を一つした。
「……とまあ、ここまでが質屋殺し事件の概略です」笹垣はコーヒーを飲んだ。それはすっかりぬるくなっていた。
「そのまま迷宮入りしたわけですか」
「まあ、いきなりそこまでは行きませんけど、新しい証言なり情報なりはどんどん減っていくわけですから、迷宮入りも時間の問題という雰囲気はありました」
「でも笹垣さんは諦めなかった」
「いや、正直なところ、半分諦めてました」
コーヒーカップを置き、笹垣は話の続きを始めた。
笹垣がその記述に気づいたのは、寺崎忠夫が事故死してから一か月ほどが経った頃だった。寺崎が犯人だという物証を見つけることもできず、ほかに有力な容疑者を見つけることもできないという状態が続き、捜査本部内には一種の倦怠感《けんたいかん》が漂っていた。捜査本部自体が解散されるという話もあった。オイルショックにより世間全体に殺伐とした空気が流れており、強盗、放火、誘拐といった凶悪事件が続いていた。たった一つの殺人事件に、いつまでも多くの人員を割いていられないというのが、大阪府警上層部の正直な気持ちであったろう。しかもその犯人は、すでに死んでいるのかもしれないのだ。
笹垣にしても、ここまでかもしれないな、という思いを抱き始めていた。彼はそれまでに迷宮入りを三度ほど経験していた。迷宮入りする事件には、独特の雰囲気がある。何もかもが混沌《こんとん》としていて、どこから手をつけていいかわからないという場合よりも、一見簡単に犯人が割れそうに思える時ほど、そういう結果に終わるおそれが多いのだ。そしてこの時の質屋殺しは、そうした不吉な雰囲気を持っていた。
だからこの時笹垣がそれまでの調書を最初から読み直していたのも、単なる気まぐれというのが正直なところだった。それほど打つ手がなくなっていたのだ。
殆ど斜め読みに近い形で、彼は膨大な数の調書に目を通していった。数がたくさんあるからといって、手がかりが多いわけではない。むしろ、焦点の定まらない捜査が続いたせいで、無意味な報告書が増えたともいえた。
頁をめくる笹垣の手が止まったのは、死体を発見した少年の話を記録した供述調書を見た時だった。少年の名前は菊池道広。年齢は九歳とある。少年はまず小学五年生の兄に教えた。その兄が死体を確認した後、母親に知らせたらしい。実際に警察へ通報したのは彼等の母親の知子であることから、その調書は菊池母子の話をまとめた形になっていた。
そこに書かれている死体発見の経緯については、笹垣もよく知っていることだった。ビルのダクト内を移動する、『タイムトンネルごっこ』と呼ばれる遊びをしている最中、道広だけが仲間とはぐれ、でたらめに動き回っているうちに、ある部屋に到達した。ところがそこには男の人が倒れていた。おかしいなと思って、よく見ると血を流している。死んでいるらしいということにも、その時に気づいた。誰かに知らせねばと思い、急いでそこから出ようとした。
問題は、この後の記述だった。次のようにあった。
『怖くなって急いで出ようとしましたが、がらくたとかブロックが邪魔で、ドアがなかなか開きませんでした。何とかドアを開けて外に出ると、友達を探しました。でも見つからないので、急いで家に帰りました。』