饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 十 章.12

作者:日-东野圭吾 当前章节:15403 字 更新时间:2026-6-15 18:37

 これを読んだ時、変だな、と笹垣は思った。「がらくたとかブロックが邪魔で」という部分が引っかかったのである。

 彼は現場のドアを思い出した。あれは内開きだった。菊池少年が、「ドアがなかなか開きませんでした」と述べているのだから、ドアの開閉を妨げる位置に、「がらくたとかブロック」が置いてあったということになる。

 それは犯人が意図してやったことだろうか。死体の発見を遅らせるために、ドアの内側に物を置いたのか。

 だがそれはありえなかった。ドアを開けて外に出た後、ドアの内側に何かを置くなどということは不可能だ。では、この少年の供述はどう解釈すればいいのか。

 すぐにたしかめてみることにした。供述調書には取調官として、西布施警察署の小坂という警部補の名前が記されていた。

 小坂警部補は、当然その部分についてはっきりと覚えていた。ただし説明は明瞭なものではなかった。

「ああ、そのことね。その点については、ちょっと曖昧《あいまい》なんですわ」小坂警部補は顔をしかめていった。「本人があまりよく覚えてないんです。ドアを開けようとしたら、いろいろなものが足元にあって邪魔やったらしいんですが、ドアを全く開けられへんかったのか、それとも人が通れる程度には開けられたのかはわからんというんですな。まあ、気が動転しとったでしょうから、無理もない話ですけど」

 犯人が通ったわけだから、その程度にはドアは開けられたのだろう、と小坂警部補は付け加えた。

 笹垣はそれに関する鑑識の報告書にも目を通してみた。だが残念ながら、ドアと「がらくたとかブロック」の位置関係については、詳しいことはわからなかった。菊池少年がそれらを動かしたせいで、痕跡がわからなくなってしまったからである。

 結局笹垣は、これに関しての調査はやめてしまった。小坂警部補と同様に、そのドアを犯人がくぐったはずだ、と思い込んでいたからである。そして彼以外の捜査員たちも、誰一人この点に拘《こだわ》らなかった。

 この小さな疑問のことを笹垣が思い出すのは、ほぼ一年後のことだ。西本文代の死をきっかけに、雪穂に疑いの目を向け始めた頃だった。笹垣はこう考えたのだ。仮に問題のドアの内側に障害物が置いてあったとすると、どの程度までドアが開いたかによって、通れる人間が限定される。つまり容疑者を絞れる。無論この時彼の頭にあったのは、雪穂のことである。彼女ならば、相当狭い隙間でも通れるのではないかと考えていた。

 一年前のことをどの程度覚えているかは怪しいが、笹垣は一応菊池道広少年に会ってみることにした。少年は四年生になっていた。

 そして四年生になった少年から、笹垣は驚くべき告白をされることになった。

 菊池少年は一年前のことを忘れていないといった。あの頃よりも今のほうが、はっきりといろいろ説明できるとさえいった。そうかもしれないなと笹垣は思った。死体を見つけたことで混乱している九歳の少年に、発見の状況を詳しく述べろといっても酷に違いなかった。しかしこの一年間で、彼も成長している。

 ドアのことを覚えているかと笹垣は訊いた。少年はためらいながら頷いた。

 できるだけ詳しく、その時の状況を話してほしいと笹垣はいってみた。少年はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「ドア、全然開けへんかったと思う」

「えっ?」笹垣は聞き直した。「全然て……どういうこと?」

「僕、早よ誰かに知らせなあかんと思て、すぐにドアを開けようとしたんや。けどその時には、ドアはびくともせえへんかった。それで下を見たら、ブロックが置いてあった」菊池道広の言葉に、笹垣は衝撃を受けた。

「それ、ほんまか?」

 少年はこっくりと頷いた。

「なんですぐにそういわへんかったんや。今になって思い出したということか?」

「あの時も、最初はそういうてたんや。そやけどおまわりさんが僕の話を聞いて、それはおかしいんと違うかていうから、だんだん自信がなくなってきて、何が何だかわからんようになってしもたんや。けど、あの後ゆっくり考えたら、やっぱりドアは全然開けへんかったと思うねん」

 菊池少年の話を聞き、笹垣は歯ぎしりする思いだった。一年前、貴重な証言が存在したのだ。ところが取調官の思い込みによって、それがねじ曲げられていた。

 笹垣はすぐにこのことを上司に報告した。だが上司の反応は冷淡なものだった。子供の記憶など当てにならないというのである。一年も経ってから修正されたような証言を鵜呑《うの》みにするほうがどうかしている、とまでいった。

 この時の笹垣の上司は、事件発生時に班長だった中塚ではなかった。中塚は少し前に異動になっていた。代わりにやってきた上司は、極めて功名心の強い人物だった。質屋殺しという地味な事件、しかも半分迷宮入りになったような事件を追うより、もっと派手な事件を解決して名を上げたいと考える男だった。

 笹垣は質屋殺しについては一応継続捜査員として名を連ねていたが、あくまでも兼務だった。彼の上司は部下が大して実績になりそうもない事件を追っていることに難色を示していた。

 仕方なく笹垣は、独自に捜査を行うことにした。彼には自分の進むべき方向が見えていた。

 菊池少年の証言によれば、桐原洋介を殺した犯人はドアを開けて出ていくことは不可能だったはずである。しかも現場の窓はすべて内側から施錠されていた。建築途中で放置されたビルではあるが、ガラスは割れていないし、壁に穴も開いていなかった。となると考えられることは一つしかない。

 犯人は菊池少年とは逆に、ダクトから脱出したということになる。

 犯人が大人ならば、そんなことを思いつくはずがない。ダクトで遊んだことのある子供だからこそ、出てくるアイデアだと思われた。

 こうして笹垣のターゲットは、完全に雪穂に絞られたのだ。

 しかし彼の捜査は、思ったようには進まなかった。彼はまず、雪穂がダクトの中を這《は》い回って遊ぶ、いわゆる『タイムトンネルごっこ』をしたことがあるという確証を得ようとした。ところが、ここで壁に当たってしまったのだ。雪穂と親しい子供たちに当たってみても、そんな遊びをしたことは一度もないという。また問題のビルでよく遊んだという子供たち何人かに訊いてみたが、女の子の姿を見たことがあるという者は一人もいなかった。その中の一人は、笹垣にこんなふうにいった。

「あんな汚いビルで、女が遊ぶわけないやろ。ネズミの死骸はあるし、変な虫がいっぱいおるねんで。おまけにダクトの中をいっぺん通ったら、服はどろどろや」

 この意見には、笹垣としても首肯せざるをえなかった。また、何十回もダクトの中を這い回ったというある男子は、そもそも女子にあの遊びは無理ではないかという意見を述べた。彼によれば、ダクトの途中には急勾配《きゅうこうばい》や、時には何メートルもよじのぼらねばならないところもあり、余程体力と運動神経に自信がなければ、縦横無尽に動き回ることなどできないらしいのだ。

 笹垣はその少年を現場に連れていき、死体が見つかった部屋からダクトを通って脱出できるかどうかを実験してみた。少年は約十五分かかって、ビルの玄関とは反対側にある排気ダクトから出てきた。

「めちゃくちゃしんどい」というのが少年の感想だった。「途中にすごい登らなあかんところがある。腕の力がないと、たぶん上がられへんと思う。やっぱり女子には無理やで」

 笹垣はこの少年の意見を無視する気にはなれなかった。もちろん小学生の女子の中には、体力的にも運動神経の面でも男子に劣らない者がいる。だが西本雪穂という少女のことを思い出すと、彼女がダクトの中を猿のように動き回ったとはとても思えなかった。笹垣が調べたかぎりでは、西本雪穂は特別優れた運動能力の持ち主というわけでもなさそうだった。

 やはり十一歳の少女が人殺しの犯人というのは自分の妄想なのか、菊池少年の証言も子供の錯覚にすぎないのか――笹垣はそう思い直し始めていた。

「そのダクトがどういうものかは知りませんが、女の子がそういう遊びをするというのは、たしかに考えにくいですね。特に、それがあの唐沢雪穂ということになると」篠塚一成は考え込む顔つきでいった。雪穂のことを唐沢と旧姓で呼んだのは、単に癖が出ただけなのか、彼女が自分と同じ名字になったことを認めたくないからなのかは笹垣にはわからなかった。

「それですっかり行き詰まってしまいました」

「でも答えは見つかったんでしょう」

「これが答えやといいきっていいかどうかはわかりませんけどね」笹垣は二本目の煙草に火をつけた。「初心に帰ってみたんです。いったん先入観を全部捨ててみました。すると、今まで全く見えてなかったものが見えてきました」

「というと?」

「簡単なことです」笹垣はいった。「女の子にはダクトを通るのは無理。つまりダクトを通って現場から脱出したのは男の子、ということです」

「男の子……」その言葉の意味を吟味するように少し黙ってから篠塚一成は訊いた。「桐原亮司がじつの父親を殺したと?」

「そう」笹垣は頷いた。「そういうことになります」

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 もちろん、すぐにそんな突飛な考えが浮かんだわけではなかった。ある些細《ささい》なことがきっかけで、笹垣は桐原亮司という少年に改めて目を向けることになったのだ。

 久しぶりに『きりはら』へ行った時のことだった。

 笹垣は世間話を装って、松浦から生前の桐原洋介に関することをいろいろと聞き出そうとしていた。松浦は露骨にうんざりした態度を見せ、笹垣の質問に対しても、あまり熱心に答えようとはしなかった。一年以上、こうした訪問を受けていれば、愛想笑いを続けていられなくなるのも無理はない。

「刑事さん、もうここへ来ても何も出てきませんで」松浦は顔をしかめながらいった。

 その時、カウンターの隅に一冊の本が置いてあるのが笹垣の目に留まった。彼はそれを手に取った。「これは?」と松浦に訊いた。

「ああそれはリョウちゃんの本ですわ」と彼は答えた。「さっき何かしている時に、ちょっとそこへ置いて、そのまま忘れたんでしょう」

「亮司君は、よう本を読むのかな」

「結構よく読んでますよ。その本は買《こ》うたみたいですけど、前は図書館にもよう行ってました」

「よう行ってた? 図書館に?」

 はあ、と松浦は頷いた。それがどうしたんだ、という表情だった。

 ふうん、と頷いて笹垣は本を元のところに置いた。胸騒ぎがし始めていた。

 そこにあった本は『風と共に去りぬ』だった。笹垣たちが西本文代に会いに行った時、雪穂が読んでいた本だ。

 共通点といえるほどのものかどうか、笹垣にもよくわからなかった。たまたま読書好きの小学生が二人いれば、同じ本を読んでいるということは大いにありうるだろう。それに雪穂と亮司は同時期に『風と共に去りぬ』を読んでいるわけではない。雪穂のほうが一年早く読んでいる。

 しかし気になる偶然ではあった。笹垣はその図書館へ出向いてみた。桐原洋介の死体が見つかったビルから、北に二百メートルほど歩いたところに、小さな灰色の建物があった。それが図書館だった。

 かつては文学少女だったろうと思わせる眼鏡をかけた図書館員に、笹垣は西本雪穂の写真を見せた。彼女は写真を見るなり、大きく頷いた。

「この女の子やったら、以前よく来ました。いつもたくさん借りていくから、よう覚えてます」

「一人で来るんですか」

「ええ、いつも一人でしたよ」そういってから図書館員は、小さく首を傾げた。「あっ、でも、時々友達と一緒におったこともありましたわ。男の子と」

「男の子?」

「はい、同級生みたいな感じでしたけど」

 笹垣はあわてて一枚の写真を取り出した。それは桐原夫妻と亮司の写っているものだった。その亮司の顔を指して、彼は訊いた。「この子やないですか」

 図書館員は眼鏡の奥の目を細めて写真を見た。

「ああ、そうですねえ、こういう感じの子でした。はっきりとは断言できませんけど」

「二人、いつも一緒にいたんですか」

「いつもではなかったと思います。時々、です。よく一緒に本を探してました。ああそれから、何か紙を切って遊んでたこともあります」

「紙を切って?」

「男の子のほうが、器用に何かの形に紙を切って、それを女の子に見せてました。切った紙を散らかさんといてねと注意した覚えがあります。でも、しつこいようですけど、この写真の子やったかどうかは断言はできませんよ。こういう感じの男の子やったというだけで」

 自分の意見が何かの決定力を持つことを恐れたのか、図書館員の口調は慎重だった。だが笹垣は確信に近いものを得ていた。亮司の部屋で見た、見事な切り絵が瞼に浮かぶ。雪穂と亮司はここで会っていたのだ。事件が起きた時、二人には面識があった。

 笹垣にとってそれは、世界がひっくり返るような話だった。事件に対する見方は一八〇度変わった。

 ここで再び彼は、犯人がダクトから脱出したという推理にこだわることになる。

 桐原亮司ならば、ダクトの中を動き回ることも可能だっただろう。事実、亮司の通う大江小学校で、三年と四年の時に彼と同じクラスだったという少年は、彼とよくダクトの中を動き回る遊びをしたといった。その少年によれば、亮司はビルの中をダクトがどのように走っているかを熟知していたらしい。

 アリバイについてはどうか。桐原洋介の死亡推定時刻に、亮司は弥生子や松浦と共に自宅にいたことになっている。だが彼等が亮司を庇っている可能性は十分にあるのだ。それについて捜査陣が検討したことは一度もなかった。

 しかし、である。

 息子が父親を殺すということがあるだろうか。無論、犯罪の長い歴史の中には、そうした事件も数多く存在はする。だがそれほどの異常事態が起きるからには、それなりの背景、動機、そして条件が揃わねばならないはずだった。桐原父子の間に、その中のどれか一つでも存在しているかと問われれば、何ひとつないと笹垣としては答えざるをえなかった。彼が調べたかぎりでは、父と子の間に軋轢《あつれき》のようなものは見当たらなかったのである。それどころか、桐原洋介は一人息子を溺愛《できあい》していたし、亮司は父親を慕っていたという証言が殆どだった。

 やはり単なる想像なのかと、地道な聞き込みを続けながら笹垣は思った。闇《やみ》の中に迷い込んでしまったという焦《あせ》りが生んだ妄想に過ぎないのかと。

「人に話したところで、奇想天外な思いつきといわれるだけやということは自覚してました。それで亮司犯人説については、同僚の刑事にも上司にもいいませんでした。もし口にしてたら、頭がおかしなったと思われて、その時点で一線から退くことになってたかもしれませんな」笹垣は苦笑混じりにいった。冗談半分、本気半分だった。

「それで、動機についてはどうなんですか。何か考えられるようなことはあったんですか」一成が訊いてきた。

 笹垣はかぶりを振った。「その時点では見つかれへんかったと申し上げたほうがいいでしょうな。亮司が百万円欲しさに、まさか父親殺しまではせんでしょうから」

「その時点はなかった、ということは、今は何かあるということですね」

 身を乗り出してきた一成を、まあまあ、と笹垣は手を出して制した。

「順番に話をさせてください。こんなような具合で、私の単独捜査も挫折してしもうたわけですけど、あの二人のことは、その後もずっと追いかけてはいたんです。というても、ずっと見張ってるというわけではありませんけどね。時々近所で聞き込みをして、どんなふうに育ってるかとか、どこの学校に行ってるかとかを、一応把握するようにはしておったんです。あの二人が、いつかどこかで、きっと接触すると思うたわけです」

「で、どうでした?」

 一成の質問に対し、笹垣はわざと深いため息をついた。

「二人の接点を見つけることはできませんでした。上から見ても下から見ても、表から見ても裏から見ても、全くの赤の他人です。もしあのままの状態が続いてたら、さすがの私も諦めてたでしょうな」

「何かあったんですか」

「ありました。連中が中学三年の時にね」笹垣は煙草の箱に指を入れた。だが最後の一本を吸い終えたところだった。すると一成はテーブルの上にあったクリスタルケースの蓋を開けた。KENTがびっしりと入っていた。どうも、といって笹垣は一本取った。

「中学三年の時……というと、唐沢雪穂の同級生が襲われた事件と何か関係があるんですか」一成は、笹垣の煙草に火をつけながらいった。

 笹垣は青年の顔を見返した。「あの事件のこと、御存じでしたか」

「今枝さんから聞いたんですよ」

 中学時代にレイプ騒動があったことや、被害者を最初に見つけたのが雪穂だったことなどは今枝から教わったと一成はいった。さらに一成は、彼自身が学生時代に体験した同様の事件のことを話し、今枝は二つの出来事の共通項として雪穂のことを捉《とら》えていたらしいといった。

「さすがに本職の探偵さんですな。そこまで調べてはりましたか。私が今いおうとしたのも、そのレイプ事件のことです」

「やっぱり」

「ただし私は、今枝さんとはちょっと違う角度から見てますけどね。そのレイプ事件、結局犯人は捕まらんかったんですけど、一人容疑者はおったんです。ほかの中学の三年生でした。ところがアリバイが証明されて、その生徒の疑いが晴れたわけです。問題は、その容疑者とアリバイ証言をした人物です」笹垣は彼にとって高級な煙草の高級な煙を吐いて続けた。

「容疑者の名前は菊池文彦。先程お話しした、死体を発見した少年の兄です。そしてアリバイ証言をしたのは桐原亮司でした」

 えっ、と声を漏らし、一成はソファから身体を少し浮かせた。その反応に笹垣は満足した。

「奇々怪々な話ですよ、これは。偶然なんかで片づけられることやおません」

「どういうことなんです」

「じつは私がレイプ事件のことを聞いたのは、事件から一年以上経ってからなんです。菊池文彦君本人から聞きました」

「本人から……」

「例の死体発見絡みで、菊池兄弟とは顔見知りでしたからね。たまたま久しぶりに会うた時、そういえば一年前に変なことがあったというて、レイプ事件のこととか、その時に自分が疑われたことなんかを話してくれたんです」

 笹垣が菊池文彦と出会ったのは、大江小学校のそばにある神社の前だった。彼はその時すでに高校生になっていた。学校でのことを少し話した後、彼が急に思い出したように、レイプ事件のことをいいだしたのだ。

「かいつまんでいうと、こういうことです。レイプ事件が起きた時、菊池君は映画を見てました。そのことが証明できずに困ってたわけですけど、桐原亮司が名乗り出てきたんです。映画館の向かいに小さな本屋があって、その日桐原はその店で、小学校時代の友達と一緒におったそうです。で、菊池君が映画館に入っていくのを偶然見かけたというわけです。警察は、桐原と一緒にいた友達にも確認をとりました。その結果、証言に嘘がないことがわかりました」

「それで無罪放免というわけですね」

「そうです。菊池君としては、ついてたと思ったそうです。ところがしばらくして、桐原から連絡がありました。自分に恩義を感じているんやったら、おかしなことをするなという内容でした」

「おかしなこと?」

「菊池君によれば、その頃彼は一枚の写真を友達から入手してました。そこには桐原の母親と質屋の店員が密会してる場面が写ってたらしいです。菊池君はその写真を桐原に見せたこともあるそうです」

「密会写真を……するとやはり二人はできていたわけですね」

「そうでしょうな。けど、とりあえずその話は横に置いときましょ」笹垣は頷き、煙草の灰を落とした。「桐原は菊池君に、その写真を自分に渡すことと、今後一切質屋殺しについては嗅《か》ぎ回らんことを誓わせました」

「ギブアンドテイクというわけだ」

「そういうことです。ところがじっくりと出来事を振り返ってるうちに、そう単純な話ではなかったかもしれんという考えが菊池君の頭に浮かんできたんです。それで私に話す気にもなったみたいですな」

 話しながら、菊池文彦のニキビ面を笹垣は思い出していた。

「単純でないというと」

「何もかも仕組まれたことやないか、というわけです」笹垣の指の間では、煙草がすっかり短くなっていた。それでも彼は吸った。「そもそも菊池君が疑われたのは、現場に彼のキーホルダーが落ちてたからでした。しかし菊池君によると、そんなところに行った覚えはないし、そのキーホルダーにしてもそう簡単に落ちるようなものやなかったそうです」

「桐原亮司がキーホルダーをこっそり盗み、現場に落としておいたと?」

「菊池君はそう疑ってるみたいでした。真犯人は桐原本人やというわけです。映画館の前で友達と一緒に菊池君の姿を目撃した後、自分はすぐに現場に行って、目をつけてた女の子を襲う。その上で菊池君に疑いがかかるよう、証拠を残しておく」

「菊池君がその日映画館に行くということを、桐原は知っていたのですか」一成は当然の疑問を口にした。

「問題はそこです」笹垣は人差し指を立てた。「菊池君としては、そのことを桐原に話した覚えはないそうです」

「じゃあ、桐原がそういうトリックを仕掛けることは不可能じゃないですか」

「そういうことになりますな。菊池君の推理も、そこで行き詰まってるみたいでした」

 けどやっぱりあいつが仕組んだことみたいな気がするねんけどな――悔しそうにそういった菊池文彦の表情を、笹垣は今でも鮮明に思い出すことができた。

「ただ私としても気になりましたからね、菊池君の話を聞いた後、そのレイプ事件について記録を調べてみたんです。そうしたらびっくりすることが出てきました」

「唐沢雪穂が絡んでたというわけだ」

「そういうことです」笹垣は深く頷いた。「被害者は藤村都子という女の子ですけど、発見者は唐沢雪穂やったんです。これは絶対に何かあると思いました。それでもう一度菊池君に会うて、詳しいことを確認してみたんです」

「詳しいことというと?」

「あの日、彼が映画に行った経緯についてです。そうしたら、面白いことがわかりました」

 喉が渇いたので、笹垣は冷たくなったコーヒーを飲み干した。「当時菊池君のおかあさんは市場の菓子屋で働いてたそうですけど、そのおかあさんが客から映画の特別優待券をもらってきたらしいです。しかもその頃菊池君が見たがってた、『ロッキー』とかいう映画の券でした。ただし、有効期間はその日までやったんです。そうなったら、彼としてはその日に見に行くしかありませんわな」

 ここまで聞いて、一成は笹垣の意図を悟ったようだ。

「その特別優待券をくれた客というのは?」

「名前はわかりません。けどおかあさんがこういってたのを菊池君は覚えてました。品のいい身なりをした、中学三年か高校生ぐらいの女の子やった――」

「唐沢雪穂……」

「――と考えることは突飛やないと思いますな。菊池君の口を封じるために、唐沢雪穂と桐原亮司がレイプ事件を仕組んだと考えたら、奇麗に辻褄が合います。そのために関係のない女の子を犠牲にしたというのは、冷酷としかいいようがありませんけど」

「いや、その藤村という女の子も、全く無関係とはいえないかもしれませんよ」

 この言葉に、笹垣は相手の顔を見直した。「といいますと?」

「その女の子を選んだことにも、それなりの理由があったというわけです。これは今枝さんから聞いたことですが」

 一成は、襲われた女子生徒が雪穂に対抗心を持っていたこと、雪穂の経歴について吹聴していたこと、ところが事件を境にすっかり雪穂に対して従順になったらしいことなどを話した。いずれも笹垣の知らないことだった。

「それは初耳でしたな。なるほど、あの事件は唐沢と桐原が同時に目的を果たす、一石二鳥の計画やったわけや」笹垣は唸り声を上げていた。それを止めてから篠塚を見た。

「こんなことは申し上げにくいんですけど、先程の篠塚さんのお話にあった学生時代の事件、ほんまに偶然起きた事件なんですかねえ」

 一成は笹垣を見返した。「唐沢雪穂が意図したものだったと?」

「そうでないとはいいきれません」

「今枝さんも、そんな推理を述べておられました」

「そうですか、やっぱり」

「もしそうだとしたら、どうしてそんなことを……」

「そういうやり方が、相手の魂を奪う手っ取り早い方法やと信じてるからです」

「魂を奪う……」

「はい。で、あの二人がそう信じる根元に、たぶん質屋殺しの動機がある」

 一成が目を見張った時、机の上の電話が鳴りだした。

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 篠塚一成は舌打ちをした。ちょっと失礼、といって彼は席を立った。

 低い声でぼそぼそと何かをしゃべった後、彼はすぐに戻ってきた。「すみませんでした」

「お時間は大丈夫ですか」

「ええ、平気です。今の電話は会社の仕事ではなく、僕が個人的に調査している件でして」

「調査?」

「ええ」一成は頷いてから、ほんの少し逡巡の気配を見せたが、やがて口を開いた。「先程笹垣さんは僕に対して、出世しましたね、とおっしゃいましたよね」

 はあ、と笹垣は答える。何かいけないことをいったのかと思った。

「じつはね、これは一種の左遷なんです」

「左遷? まさか」笹垣は笑った。「篠塚一族の御曹司が」

 だが一成は笑わなかった。

「笹垣さんはユニックス製薬という会社を御存じですね」

「知ってますけど」

「去年から今年にかけて、じつに奇妙なことが続いたんです。うちとユニックスとは、かなり多くの分野で競合しているんですが、いくつかの研究に関して、篠塚薬品の社内情報があっちに漏れている節があるのです」

「えっ、そんなことが」

「ユニックスからの内部告発で明らかになったことです。もっともユニックス自体は認めていませんがね」そういって一成は薄笑いを浮かべた。

「研究業務に携わっていると、いろいろ複雑なこともあるんですなあ。しかし、なぜ篠塚さんが?」

「そのユニックスからの内部告発によると、情報提供者は僕ということになっているらしいんですよ」

 一成の言葉に、笹垣は目を剥いた。「嘘でしょう?」

「嘘だろ、ですよ。全く」彼は頭をゆらゆらと振った。「何が何だか、さっぱりわけがわかりません。その内部告発者の正体についても、はっきりしたことはわかっていないんです。電話と郵便だけで接触してきましたからね。ただ、篠塚薬品の内部情報が持ち出されているのはたしかなようでした。告発者が送ってきた資料を見て、研究開発の連中は青くなっていました」

「しかし篠塚さんがそんなことをするはずがない」

「何者かに罠《わな》にはめられたということでしょう」

「お心当たりは?」

「ありません」一成は即座に否定した。

「そういうことでしたか。しかし、それが原因で左遷というのは、どうにも……」笹垣は首を捻った。

「役員たちも、まさかとは思ってくれているようでした。しかしこうした問題が起きると、会社としては何らかのアクションをとらねばなりませんからね。それに、罠にはめられるということは、それなりの原因が当人にあるからだという意見もありました」

 笹垣はいうべき言葉が思いつかず、ただ唸った。

「それからもう一つ」といって一成は指を一本立てた。「役員の中に一人、僕のことを遠くにやりたいと思っている人間がいました」

「それは……」

「従兄の康晴です」

「ああ……」そういうことか、と笹垣は合点がいった。

「自分の婚約者に対してあれこれいう邪魔者を追い出す、いいチャンスだと思ったようです。まあ僕には一応、この異動は一時的なもので、すぐに呼び戻すといってくれましたがね。一体いつのことになるやら」

「そうしますと、調査というのは」

 笹垣の問いに、一成は厳しい顔つきに戻った。

「ええ、内部情報がどのようにして漏れたのかを調べているわけです」

「何かわかりましたか」

「ある程度は」と一成はいった。「犯人はコンピュータに侵入したようです」

「コンピュータに?」

「篠塚薬品ではコンピュータ化が進んでいましてね、社内すべてがネットワークで繋《つな》がれているだけでなく、社外のいくつかの研究施設とも常時データのやりとりができるようになっているんです。どうやらそのネットに侵入された模様です。いわゆるハッカーというやつです」

 笹垣はどう答えていいかわからず黙り込んだ。苦手な分野の話だった。

 一成はそんな元刑事の内心を悟ったようだ。口元に笑みを浮かべていった。

「難しく考えなくてもいいです。要するに、電話回線を通じて篠塚薬品のコンピュータに悪さをしたということです。これまでの調査で、どこから入ってきたかは、大体判明しました。帝都大学薬学部のコンピュータが中継点になっていました。つまり犯人は一旦帝都大のシステムに侵入し、改めてそこから篠塚薬品のコンピュータに入り込んだわけです。ただし、犯人がどこから帝都大のシステムに入ったかを突き止めるのは至難の業でしょうけどね」

「帝都大学……ですか」

 どこかで聞いたような気がした。少し考えて、菅原絵里とのやりとりを思い出した。今枝を訪ねてきた女性客が、帝都大学付属病院の薬剤師だったという話だ。

「薬学部とおっしゃいましたね。すると付属病院の薬剤師なんかも、そのコンピュータを使うんでしょうか」

「ええ。使える体制にはなっているはずです。ただ篠塚薬品のコンピュータが社外の研究施設と繋がっているといっても、すべての情報をオープンにしているわけじゃありません。システムのあちこちに防壁が設けてあって、社外秘などは外部に漏れないようになっているはずなんです。ですから犯人は、コンピュータについて相当な知識を持っている人間ということになります。たぶんプロでしょう」

「コンピュータのプロ、ですか」

 笹垣の頭の中で、何かが引っかかった。コンピュータのプロには、一人だけ心当たりがある。今枝の事務所にやってきたという帝都大付属病院の薬剤師、篠塚一成を罠にかけた謎のハッカー――単なる偶然か。

「どうかしましたか」一成が怪訝《けげん》そうに訊いてきた。

「いや」笹垣は手を振った。「何でもありません」

「変な電話のせいで、話が途切れてしまいましたね」一成は座った状態で背筋を伸ばした。「よろしければ話の続きを」

「ええと、どこまで話しましたかな」

「動機のことです」と一成はいった。「それが彼等の考えの根元になっている、とか」

「そうでしたな」笹垣も姿勢を正した。

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 それはエアポケットのような時間だった。

 土曜日の午後。美佳は部屋で音楽を聞きながら雑誌を読んでいた。いつもと変わらぬ時間だった。ベッドの横のサイドテーブルには、空になったティーカップと、クッキーが少し載った皿が置いてある。二十分ほど前に、妙子が持ってきてくれたものだ。

 その時に彼女はいった。

「美佳さん、私これからちょっと出かけますけど、お留守番お願いしますね」

「鍵はかけていってくれるんでしょ」

「ええ、それはもちろん」

「だったらいいよ。誰が来ても出ていかないから」ベッドで寝そべって雑誌を読みながら、美佳は答えた。

 妙子が出かけると、広い邸宅で美佳は一人きりになった。康晴はゴルフだし、雪穂は仕事だ。そして弟の優大は祖父の家へ遊びに行って、今夜は泊まってくるらしい。

 別段珍しいことではなかった。実の母親が死んで以来、しょっちゅう一人ぼっちにされる。最初は寂しかったが、今では一人のほうが気楽だ。少なくとも、あの雪穂と二人きりにされるよりはずっといい。

 CDを入れ替えようと起き上がった時だった。廊下から電話の音が聞こえてきた。彼女は顔をしかめた。友達からなら楽しいが、たぶんそうではないだろう。この家には回線が三本ある。一本は康晴専用。一本は雪穂専用。そして残る一本が篠塚家全体のものだ。早く自分専用の電話が欲しいと康晴にねだっているが、なかなか聞き入れてもらえない。

 美佳は部屋を出て、廊下の壁に引っかけてあるコードレス電話機の子機を取り上げた。

「はい、篠塚ですけど」

「あ、もしもし。カッコウ運送ですけど、篠塚美佳さんはいらっしゃいますか」男の声がした。

 あたしですけど、と彼女は答えた。

「あ、えーと、菱川《ひしかわ》朋子《ともこ》さんからのお荷物をこれからお届けしたいんですけど、いいですか」

 これを聞いた時、おかしいな、と美佳は思った。宅配便を届ける時、こんなふうに事前に了解を得ることなどあっただろうか。だがそういう特別なシステムの配達方法なのかと思い、彼女はそれ以上深くは考えなかった。それよりも菱川朋子という名前を聞いて興味が湧いた。朋子は中学二年の時の同級生だった。今年の春に、父親の仕事の都合で名古屋に引っ越していた。

 いいですよ、と彼女は答えた。では今すぐ伺います、と電話の相手はいった。

 電話を切ってから数分して、チャイムの音がした。リビングルームで待っていた美佳は、インターホンの受話器を上げた。テレビカメラには、運送屋の制服を着た男性が映っていた。みかん箱ぐらいの大きさの箱を両手で抱えている。

「はい」

「どうも、カッコウ運送です」

「どうぞ」美佳は解錠ボタンを押した。これで門の横の通用口のロックが外れるのだ。

 印鑑を手に、玄関ホールに出ていった。間もなく、二度目のチャイムが鳴った。美佳はドアを開けた。段ボール箱を持った男がすぐ外に立っていた。

「どこに置きましょう。結構重いんですけど」と男はいった。

「じゃあここに置いてください」美佳は玄関ホールの床を指した。

 男が入ってきて、そこに段ボール箱を置いた。男は眼鏡をかけ、帽子を深くかぶっていた。

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