饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 十 章.13

作者:日-东野圭吾 当前章节:15380 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「印鑑をお願いします」

 はい、と答えて彼女は印鑑を構えた。男が伝票を出してくる。「これにお願いします」

「どこに押せばいいんですか」彼女は男のほうに近づいた。

「ここです」男も彼女に近づいてきた。

 美佳は印鑑を押そうとした。

 その時突然、目の前から伝票が消えた。

 あっと声を出しそうになった時、その口が何かで塞がれた。布のようなものだ。驚きのあまり、彼女は息を吸い込んだ。その瞬間、意識が遠くなった。

 時間の感覚がおかしくなっていた。ひどい耳鳴りがする。だがそれも意識がある時だけだ。意識は感度の悪いラジオのように、頻繁に途切れた。身体は全く動かない。手足が自分のものでなくなっていた。

 夢か現実かわからない中で、激痛だけは自覚していた。それが自分の身体の中心にあることに、すぐには気づかなかった。あまりに痛みがひどく、全身が痺《しび》れるような感じだったのだ。

 男がすぐ目の前にいる。顔はよくわからない。息がかかっている。熱い息だ。

 彼女は犯されていた――。

 それはじつは美佳自身の認識でもあった。自分の身体が凌辱《りょうじょく》されていることを理解しながら、まるで遠くからそれを見ているような気持ちになっていた。そしてそんな自分を、さらにもう一段階上の意識が観察していて、あたしはどうしてこんなにぼんやりしているんだろう、などと考えている。

 無論その一方で、これまでに体験したことのない巨大な恐怖が彼女を包み込んでいた。底に何があるのかわからない深い穴に落ちていく恐怖だった。この地獄がいつまで続くのかという恐怖だった。

 嵐がいつ去ったのか、彼女にはよくわからなかった。その時には意識を失っていたのかもしれない。

 まず視力がゆっくりと正常になっていった。ずらりと並んだ鉢植えが見えた。サボテンの鉢植えだ。雪穂が大阪の実家から持ってきたものだという。

 次に聴覚が戻ってきた。どこかで車の音がする。風の音も聞こえる。

 不意にここが屋外であることを認識した。庭にいる。美佳は芝生の上で寝かされていた。ネットが見える。康晴がゴルフの練習をする時に使うものだ。

 美佳は上体を起こした。全身が痛かった。切り傷の痛みがあり、打ち身の痛みがあった。そしてそのどちらでもない、内臓をえぐられた後のような鈍く重い痛みが、身体の中心にあった。

 空気の冷たさを意識した。それで自分が殆ど裸に近い状態であることに気づいた。身に着けているものはあったが、それはもはやボロ布に過ぎなかった。このシャツ、お気に入りだったのにと、またしても別の意識が冷めた感想を抱いた。

 スカートは穿いていたが、下着が脱がされていることは見なくてもわかった。美佳はぼんやりと遠くを見た。空が赤みを帯びかけていた。

「美佳さんっ」突然声がした。

 美佳は声のしたほうに首を回した。雪穂が駆け寄ってくるところだった。その光景もまた現実感のない思いで彼女は眺めていた。

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 コンビニエンスストアの袋が指に食い込んだ。ミネラルウォーターのペットボトルと米袋が重いのだ。それらを持った状態で、玄関のドアを苦労して開けた。

 ただいま、といいたくなる。しかし声は出さなかった。その声を聞いてくれる人間が奥にはもういないことを知っている。

 栗原典子は買ってきたものをとりあえず冷蔵庫の前に置くと、奥の洋室のドアを開けた。部屋の中は暗く、空気は冷えきっていた。薄い闇の中に、白いパソコン機器が浮かび上がる。以前はいつもディスプレイが光を放ち、本体からはファンの音が漏れていた。今はそのどちらもない。

 典子はキッチンに戻り、買ってきたものを整理した。生もの、冷凍ものは冷蔵庫へ。乾物は隣の棚へ。冷蔵庫を閉める前に、三五〇㏄入りの缶ビールを一つ取り出した。

 和室に行くと、テレビをつけ、電気ストーブのスイッチもオンにする。部屋が暖まるのを待つ間、隅に丸めて置いてあった毛布を膝《ひざ》にかけた。テレビの中ではお笑いタレントたちがゲームに挑戦していた。最も成績の悪いタレントが罰としてバンジージャンプをやらされるという趣向になっている。低俗な番組だ、と思う。以前の彼女なら決して見なかっただろう。今は、このばかばかしさがありがたかった。深刻な気持ちにさせられるものなど、こんなに薄暗く寒い部屋で、一人ぼっちで見たくはなかった。

 缶ビールのプルトップを開け、ごくりと飲んだ。冷えた液体が喉から胃袋へと流れていく。全身に鳥肌が立ち、震えが走った。しかしそれが快感でもある。だから冬になっても冷蔵庫の中にビールを欠かさないでいる。昨年の冬と同じだ。彼は寒い時ほどビールを飲みたがった。神経が研ぎすまされるのだといっていた。

 典子は膝を抱えた。夕食をとらなければ、と思う。何も特別な調理をする必要はないのだ。先程コンビニエンスストアで買ってきたものを電子レンジで温めるだけでいい。だがたったそれだけのことがひどく面倒だった。気力が湧いてこない。それに何より、食欲が全くなかった。

 テレビのボリュームを上げた。部屋に音がないと、寒さが増すような気がした。電気ストーブに少し近づく。

 原因はわかっている。自分は寂しいのだ。静かな部屋でじっとしていると、孤独感につぶされそうになる。

 前はこうではなかった。一人のほうが気楽だし、快適だった。そう思ったからこそ、結婚情報サービス会社との契約も解除した。

 しかし秋吉雄一との生活が、そんな典子の思いを一変させた。愛する人間と一緒にいる喜びを、彼女は知ってしまった。いったん与えられたものを奪われるということは、元々それがなかった頃に戻ることではない。

 典子はビールを飲み続けた。彼のことを思い出すまいとした。しかし頭の中に浮かぶのは、パソコンに向かっている彼の後ろ姿ばかりだった。当然のことだ。この一年間、彼のことだけを考え、彼のことだけを見てきたのだ。

 缶ビールはたちまち空になった。彼女はそれを両手で潰すと、テーブルの上に置いた。そこには同じように潰された缶がすでに二つ載っていた。昨日の分と一昨日の分だ。このところ、部屋の掃除もろくにしていない。

 とりあえずコンビニの弁当でも食べよう――そう思って重い腰を上げた時、玄関のチャイムが鳴った。

 ドアを開けると、くたびれたコートを着た初老の男性が立っていた。体格がよく、目つきが鋭い。典子は直感的に男の職業を察知していた。いやな予感がした。

「栗原典子さんですね」男は尋ねてきた。関西弁のアクセントだった。

「そうですけど、あなたは?」

「ササガキというものです。大阪から来ました」男は名刺を出してきた。笹垣潤三と印刷されていた。しかし肩書きはない。それを補うように彼は付け足した。「この春まで刑事をしておりました」

 やはりそうか、と典子は直感が正しかったことを確認した。

「じつはお伺いしたいことがあるんです。ちょっとよろしいですか」

「今すぐですか」

「ええ。すぐそこに喫茶店がありますよねえ。あそこででも」

 どうしようかなと典子は思った。知らない男を部屋に上げることには抵抗がある。しかし今から外に出るのは億劫《おっくう》だった。

「何についての話でしょうか」と彼女は訊いてみた。

「それはまあいろいろと。特に、今枝探偵事務所に行かれたことについて」

 あっ、と彼女は思わず声を漏らしていた。

「行きはったでしょ。新宿の今枝さんのところへ。そのことについて、まずちょっとお訊きしたいんです」自称元刑事は愛想笑いをした。

 不安な思いが彼女の胸に広がった。この男は何を訊きに来たのだろう。だが一方で、何かを期待する気持ちもある。彼について何か手がかりが得られるのではないか。

 数秒間迷ってから、彼女はドアを大きく開けた。「どうぞ、お入りになってください」

「よろしいんですか」

「ええ、散らかってますけど」

 では遠慮なく、といって男は入ってきた。年老いた男の匂いがした。

 典子が今枝探偵事務所に行ったのは九月のことだった。その約二週間前に、秋吉雄一は彼女の部屋から姿を消していた。前触れらしきものは何もなく、突然いなくなったのだ。何かの事故に遭ったわけでないことはすぐにわかった。ドアの郵便受けに、この部屋の鍵を入れた封筒が入っていたからだ。彼の荷物は殆どそのままだったが、元々大した数ではないし、貴重品もなかった。

 秋吉がここに住んでいたことを示す唯一のものはパソコンだった。しかし典子はそれを扱うことができなかった。悩んだ末彼女は、パソコンに詳しい友達を家に招き、不審に思われるのを承知で、彼のパソコンの中に何が入っているのか調べてもらうことにした。フリーライターをしている友人は、パソコン本体だけでなく、放置してあったフロッピーディスクなども調べていたが、「だめだよ、典子。何も残ってないよ」と結論づけた。彼女によれば、システムそのものが真っ白な状態だし、フロッピーもすべて空っぽだということだった。

 典子は何とか秋吉の居場所を突き止める方法がないものかと考えた。思い出したのは、いつか彼が持っていた空のファイルだった。あれには今枝探偵事務所と記されていた。

 電話帳で調べると、その事務所はすぐに見つかった。何かわかるかもしれない、そう思うとじっとしていられなかった。典子は翌日には新宿へ出かけていた。

 だが残念ながら彼女は、かけらほどの情報も手に入れることはできなかった。秋吉という人物に関する記録は、依頼人としても調査対象としても残っていないというのが、若い女性事務員からの返答だった。

 これでもう彼を探す道はなくなった――典子はそう思っていた。それだけに、笹垣が探偵事務所からのルートで会いに来たというのは、意外なことだった。

 笹垣の質問は、彼女が今枝探偵事務所へ行ったことに関する事実確認から始まった。典子は少し迷ったが、事務所へ行くに至った経過を、かいつまんで話した。同居していた男が突然いなくなったという話には、笹垣も少し驚いたようだ。

「今枝探偵事務所の空のファイルを持っていたというのが奇妙ですな。それで、全く何の手がかりもなしなんですか。その男性の知人友人とか、家族には連絡したんですか」

 彼女はかぶりを振った。

「連絡しようにも、連絡先がわかりません。あの人については、あたし何も知らなかったんです」

「妙な話ですなあ」笹垣は当惑しているようだ。

「あのう、笹垣さんは一体何をお調べになっているんですか」

 典子が訊くと、彼は少し逡巡《しゅんじゅん》する様子を見せた後でいった。

「じつは、これもまた変な話なんですけど、今枝さん自身が行方不明なんです」

「えっ」

「それでいろいろと紆余曲折《うよきょくせつ》があって、私が行方を調べることになってしもうたわけですが、全く手がかりがありません。そんなわけで、藁《わら》にもすがる気持ちでこうして栗原さんのところへ来たというわけです。どうもすみません」笹垣は白髪混じりの頭を下げた。

「そうだったんですか。あの、今枝さんはいつ頃から行方不明に?」

「去年の夏です。八月です」

「八月……」

 典子はその頃のことを思い出し、はっと息をのんだ。秋吉が青酸カリを持って、どこかへ出かけていったのがその頃だ。そして帰ってきた時に持っていたファイルに、今枝探偵事務所の名が書かれていたのだ。

「どうかされましたか」元刑事が目敏《めざと》く気づいて尋ねてきた。

「あ、いえ、何でも」典子はあわてて手を振った。

「ところで」笹垣がポケットから一枚の写真を取り出してきた。「この男性に見覚えはありませんか」

 写真を受け取り、そこに写っている男の顔を見た途端、彼女は声をあげそうになった。幾分若い感じだが、秋吉雄一に間違いなかった。

「どうですか」と笹垣は訊いてきた。

 典子は心臓が跳《は》ねるのを抑えるのに苦労した。頭の中で様々な考えが飛び交った。本当のことをいったほうがいいのか。だが元刑事が写真を持ち歩いているという事実が気になった。秋吉は何かの容疑者ということか。今枝殺しの? まさか。

「いいえ、知らない人です」彼女はそう答えながら写真を返した。指先が震える。頬が赤くなっているのが自分でもわかった。

 笹垣はそんな典子の顔をじっと見つめてきた。刑事の視線になっていた。彼女は思わず目をそらした。

「そうですか。それは残念」笹垣は柔らかい口調でそういって、写真をしまった。「さてと、ではこのへんで失礼します」腰を上げてから、ふと思い出したようにいった。「一応、その人の持ち物を見せていただけますか。何かの参考になるかもしれませんので」

「えっ、持ち物をですか」

「はい。いけませんか」

「いえ、構いませんけど」

 典子は笹垣を洋室に案内した。彼はすぐにパソコンに近づいた。

「ははあ、秋吉さんはパソコンをお使いになれたんですか」

「ええ。小説を書くのに使っていたようです」

「ほう。小説をね」笹垣はパソコンやその周りを、じろじろと眺め回した。「ええと、秋吉さんが写っている写真はありませんか」

「あ……写真はないんです」

「小さいものでもええんですよ。顔さえわかれば」

「それが、あの、本当に一枚もないんです。撮らなかったんです」

 嘘ではなかった。典子は何度か二人で撮ろうと思ったことがあるが、そのたびに秋吉が拒絶したのだ。だから彼がいなくなった今は、思い出すことでしか彼の姿を蘇らせることができない。

 笹垣は頷いていたが、明らかに何かを疑っている目だった。どんな考えがその頭の中で巡らされているのかと思うと、ひどく不安になった。

「じゃあ何か、秋吉さんが手書きされたものはないですか。メモとか日記とか」

「そういうものはなかったと思います。あったとしても、ここには残っていません」

「そうですか」笹垣はもう一度部屋を見回してから、典子を見てにっこり笑った。「わかりました。どうもすみませんでした」

 お役に立てなくて、と彼女はいった。

 笹垣が玄関で靴を履いている間、典子の中では迷いが渦巻いていた。この人は秋吉について何かを知っている。それを訊いてみたい。しかしあの写真の人物が秋吉であることを話すと、秋吉にとって取り返しのつかない結果になるような気もした。もう会えないと覚悟していても、彼は彼女にとってこの世で最も大切な人間だった。

 靴を履き終えた笹垣が、彼女のほうを向いた。「お疲れのところすみませんでした」

 いえ、と典子はいった。喉が詰まったような感じになった。

 その直後だった。最後の見直しをするように室内を見回していた笹垣の目が、ある一点で止まった。「おや、それは?」

 彼が指しているのは冷蔵庫の横だった。小さな棚があり、その上に電話やメモなどが乱雑に載っている。

「それはアルバムやないんですか」と彼は訊いた。

 ああ、と典子はいい、彼が目をつけたものに手を伸ばした。写真屋で貰った、簡単な写真入れだ。

「大したものじゃありません」と典子はいった。「去年、大阪に行った時のものです」

「大阪に?」笹垣の目が光ったようだ。「見せてもらえますか」

「いいですけど、人は写ってませんよ」彼女は写真入れを彼に渡した。

 秋吉に連れられて大阪に行った時、典子が一人で撮影したものだ。いかがわしいビルや、ただの民家などが写っているだけで、見て楽しいというものでもない。ほんの悪戯心から撮っただけのものだ。これらの写真を秋吉に見せたこともない。

 ところが笹垣の様子がおかしくなった。写真を見る目が大きく剥かれた。口が半開きのままで固まっている。

「あの……それが何か?」彼女は訊いた。

 笹垣はすぐには答えず、しばらく写真を睨んでいた。やがて開いていたページを彼女のほうに向けた。

「この質屋の前に行きはったわけですな。なんで、この質屋の写真を撮ったんですか」

「それは……別に、大した意味はありません」

「このビルも気になりますな。どこが気に入って、写真を撮ろうという気になったんですか」

「それが、どうかしたんですか」声が震えた。

 笹垣は胸ポケットに手を入れ、先程の写真を出した。秋吉の顔写真だ。

「ええことを教えてあげましょ。ここに写っている質屋の看板には『きりはら』とありますわな。この男の名字が、きりはら、です。きりはらりょうじ、が本名です」

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 手足の先が氷のように冷たかった。ベッドに入って、いくら待っていても、少しも暖かくなってくれなかった。美佳は枕に頭を埋め、猫のように身体を縮こまらせた。

 奥の歯が、かちかちと鳴っている。全身の震えは止まらなかった。

 目を閉じて、眠ろうとする。しかし眠りに入りかけると同時に、顔のない男にのしかかられる夢を見る。恐怖のあまり目を覚ます。身体中から冷や汗が出て、胸が潰れそうになるほど心臓が暴れる。その繰り返しだ。

 もう何時間同じことをしているのだろう。やすらぎを得られる時は来るのだろうか。

 今日の出来事が、現実に起こったことだとは信じたくなかった。昨日や一昨日と同じように、何も変わらぬ一日だったと思いたかった。しかしあれは夢ではない。下腹部に残る鈍い痛みがその証《あかし》だ。

「あたしに任せて。美佳さんは何も考えなくていいから」雪穂の声が耳に蘇る。

 あの時彼女がどこから現れたのか、美佳はよく覚えていない。彼女に対してどんなふうに事情を話したのかもさだかではない。たぶんあの時は何も話せなかったはずだ。しかし雪穂は何が起きたのかを瞬時に察知したらしかった。気がつくと美佳は服を着せられ、雪穂のBMWに乗せられていた。雪穂は車を運転しながら、どこかへ電話をかけていた。彼女の口調が速くなっていることと、美佳自身の思考能力が鈍っていることから、その話の内容を理解することは美佳にはできなかった。ただ、「絶対に極秘で」と雪穂が繰り返していたことはおぼろげに覚えている。

 連れて行かれたところは病院だった。だが正面玄関からではなく、裏口のようなところから中に入った。なぜ表から入らないのだろうというような疑問は、その時は湧かなかった。美佳の魂は彼女の身体にはなかったのだ。

 検査が行われたのか、何らかの治療らしきことが行われたのか、美佳自身にはよくわからない。彼女はただ身体を横たえ、じっと目をつぶっていただけだ。

 一時間後には病院を後にしていた。

「身体のことは、これでもう何も心配しなくていいからね」車を運転しながら雪穂は優しくいった。何と答えたのか、美佳は覚えていない。おそらく黙ったままだったのだろう。

 雪穂は警察への通報については、一言も触れなかった。それどころか、詳しい事情を美佳から聞き出そうとさえしなかった。それらのことは彼女にとって些細なことででもあるかのようだった。それが美佳としてはありがたかった。とても話などできる状態ではなかったし、何が起きたのかを見知らぬ人間に知られるのは怖かった。

 家に帰ると、康晴の車が車庫に戻っていた。それを見た途端、心が押し潰されそうになった。パパにこのことを何と話したらいいだろう――。

 すると雪穂が、この程度の嘘は何でもないという顔でいった。「おとうさんには、ちょっと風邪気味だから、病院に連れていってきたと話しておくわね。夕食も、妙さんにお願いして、お部屋に運んでもらいましょう」

 この時美佳は、すべてが二人だけの秘密になるのだと知った。自分がこの世で一番嫌いな女性との、二人だけの秘密に――。

 康晴を前にした雪穂の演技は見事だった。彼女は美佳に話したとおりの説明を夫にした。康晴は少し心配そうな顔をしたが、「大丈夫。病院でお薬をもらってきたから」という妻の台詞に安心したようだった。そして美佳の明らかにいつもと違う様子についても、格別疑問を抱いたふうでもなかった。むしろ、美佳が日頃嫌っている雪穂に連れられて病院に行ったという事実に満足しているようだった。

 その後は美佳はずっと部屋にいた。雪穂に指示されたらしく、夕食は妙子が運んできてくれた。妙子がテーブルに料理を並べている間、美佳はベッドの中で眠っているふりをした。

 食欲などまるでなかった。妙子が出ていった後、美佳はスープとグラタンを少しずつ胃に入れてみたが、今にも吐き戻しそうになり、食べるのをやめた。その後はずっとベッドの中で丸くなっている。

 夜が深まるにつれ、恐怖は徐々に増大した。部屋の明かりはすべて消していた。暗闇の中に一人でいるのは怖いが、明かりの中に自分の姿を晒《さら》しているのはもっと不安だった。誰かが自分のことを見ているような気がするのだ。海の小魚のように、岩陰でひっそりと生きていたかった。

 一体今は何時なのだろう。夜明けまで、どれほどの苦痛を味わわねばならないのだろう。そしてこんな夜がこれからいつまで続くのだろう――不安に押しつぶされそうになり、彼女は親指を噛《か》んだ。

 その時だった。かちゃり、とドアのノブの回る音がした。

 ぎくりとし、美佳はベッドの中から入り口を見た。ドアが静かに開くのが、闇の中でもわかった。誰かが入ってくる。銀色のガウンがかすかに見える。「誰?」と美佳は訊いた。声がかすれた。

「やっぱり起きてたのね」雪穂の声が聞こえた。

 美佳は目をそらした。忌まわしい秘密を共有する相手に、どういう態度をとっていいかわからなかった。

 雪穂が近づいてくる気配があった。美佳は横目で見た。雪穂はベッドの足元に立っていた。

「出ていって」と美佳はいった。「ほうっておいて」

 雪穂は何も答えなかった。黙ったままガウンの紐をほどき始めた。するりとガウンを脱ぎ捨てると、白い裸体がぼんやりと浮かび上がった。

 美佳が声を出す間もなく、雪穂はベッドの中にもぐりこんできた。美佳は逃げようとした。しかし強引に押さえ込まれた。思ったよりも、ずっと強い力だ。

 ベッドの上で美佳は大の字にされた。その上にのしかかってくる。豊かな乳房が二つ、美佳の胸の上で揺れた。

「やめて」

「こんなふうにされたの?」雪穂は訊いてきた。「こんなふうに押さえ込まれたの?」

 美佳は顔をそむけた。するとその頬を掴まれ、ぐいと戻された。

「目をそらさないで。こっちを見なさい。あたしの顔を見て」

 美佳はおそるおそる雪穂を見た。ややつり上がり気味の大きな目が、美佳を見下ろしていた。息がかかりそうなほど、顔が近くにある。

「眠ろうとすると、襲われた時のことが蘇るんでしょう?」雪穂はいった。「目を閉じるのが怖くて、眠って夢を見るのも怖い。そうでしょう?」

 うん、と美佳は小さく返事した。雪穂は頷いた。

「今のあたしの顔を覚えておきなさい。男に襲われた時のことを思い出しそうになったら、あたしのことを思い出すのよ。あたしにこんなふうにされたことを」雪穂は美佳の身体に跨《またが》り、彼女の両肩を押さえ込んだ。美佳は全く動けなくなった。「それとも、あたしの顔を思い出すくらいなら、襲った男のことを思い出したほうがまし?」

 美佳は首を横に振った。それを見て、雪穂はかすかに微笑んだ。

「いい子ね。大丈夫。すぐに立ち直れる。あたしが守ってあげるから」雪穂は両手で美佳の頬を包み込んだ。そして肌の感触を楽しむように、掌を動かした。「あたしもね、あなたと同じ経験があるの。ううん、もっとひどい経験」

 美佳は驚いて声を出そうとした。その唇に、雪穂が人差し指を当てた。

「今の美佳さんよりも、もっと若い頃よ。まだ本当に子供。でも子供だからといって、悪魔に襲われないとはかぎらないのよね。しかも悪魔は一匹じゃなかった」

 うそ、と美佳は呟いた。だが声にならなかった。

「今のあなたは、あの時のあたし」雪穂は美佳に覆い被さってきた。両腕で美佳の頭を抱きかかえてきた。「かわいそうに」

 その瞬間、美佳の中で何かが弾けた。これまで断ち切られていた何かの神経が繋がるような感覚があった。その神経を通じて、悲しみの感情が洪水のように美佳の心に流れ込んできた。

 美佳は雪穂に抱かれたまま、わあわあと声をあげて泣きだした。

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 笹垣が篠塚一成と共に、篠塚康晴の邸宅を訪れることにしたのは、十二月半ばの日曜日のことだった。この用件のため笹垣は、先月に続いて上京してきたのだ。

「会ってもらえますかね」車の中で笹垣はいった。

「まさか追い返されるようなことはないでしょう」

「留守やなかったらええんですけどね」

「その点は大丈夫です。スパイから情報を得てあります」

「スパイ?」

「家政婦さんですよ」

 午後二時過ぎ、一成の運転するベンツが篠塚邸に到着した。門のすぐ脇に、来客用のカースペースがある。一成はそこに車を止めた。

「外から見ただけでは、どれぐらいの広さかわからんぐらいのお屋敷ですな」門から屋敷を見上げて笹垣はいった。門や高い塀の向こうには木しか見えなかった。

 門の脇についているインターホンのボタンを一成が押した。すぐに返事があった。

「お久しぶりです、一成さん」中年の女の声だ。どうやらカメラで見ているらしい。

「こんにちは、タエコさん。康晴さんはいるかな」

「ええ、いらっしゃいます。ちょっとそのままお待ちください」

 いったんインターホンが切れた。一、二分して、またマイクから声が聞こえた。

「お庭のほうに回ってくださいとのことです」

「わかりました」

 一成が答えると同時に、門の横の通用口の扉から、かちりと金属音がした。解錠されたようだ。

 一成の後について、笹垣は敷地内に足を踏み入れた。石を敷いた長いアプローチが屋敷に向かって延びていた。外国映画みたいやなと笹垣は思った。

 玄関のほうから、二人の女性が歩いてくるところだった。一成に紹介されるまでもなく、それが雪穂と篠塚康晴の娘であることを笹垣は察知した。娘の名が美佳ということも、すでに知っている。

「どうしますか」一成が小声で尋ねてきた。

「私のことは適当にごまかしてください」笹垣も彼の耳元でいった。

 二人はゆっくりとアプローチを歩いた。雪穂が微笑みながら会釈してきた。そしてちょうどアプローチの半ばあたりで、全員が足を止めた。

「こんにちは、お邪魔します」一成が口火を切った。

「お久しぶりですね。お元気でした?」雪穂が尋ねる。

「まあ何とか。あなたもお元気そうだ」

「おかげさまで」

「大阪の店、いよいよオープンですね。どうですか、準備のほうは」

「計算通りに行かないことが多くて困っています。身体がいくつあっても足りないくらいで。今日もこれからそのことで打ち合わせを」

「そうですか。大変ですね」一成は隣の少女のほうを向いた。「美佳ちゃんも元気だった?」

 少女は笑って頷いた。どこか影が薄いような印象を笹垣は受けた。雪穂のことを受け入れていないらしいと一成から聞いていたが、見たかぎりではそんな雰囲気はなく、少し意外だった。

「ついでに美佳のクリスマス用の服を探してあげようと思って」雪穂がいった。

「なるほど。それはいい」

「一成さん、こちらの方は?」雪穂の目が笹垣のほうに向けられた。

「ああ、この人はうちの社に出入りしている業者の人です」淀みなく一成はいった。

 はじめまして、と笹垣は頭を下げた。顔を上げると、雪穂と目が合った。

 十九年ぶりの対峙《たいじ》だった。もちろん笹垣は大人になった彼女を何度も見ているが、こんなふうに向き合ったことはない。あの大阪の古いアパートで初めて会った時のことを彼は思い出した。あの時の少女が目の前にいる。あの時と同じ目をして。

 覚えてますかい、西本雪穂さん――笹垣は心の中で呼びかけた。私はあんたのことを、十九年間追いかけてきたんですよ。夢に見るほどにね。だけどまさかあんたは覚えてはいないでしょうねえ。こんな老いぼれのことなんか。うまく騙した馬鹿な人間の一人に過ぎないんでしょうからねえ。

 雪穂がにっこりしていった。「大阪の方かしら?」

 不意をつかれたような気分だった。アクセントでわかったらしい。「ええ、はい」と少しうろたえながら答えた。

「そう、やっぱり。今度心斎橋にお店を出すんです。ぜひ一度、お立ち寄りください」

 彼女はバッグの中からハガキを一枚出してきた。オープンの案内状だった。

「はあ、そしたら、親戚の者にでも声をかけてみます」笹垣はいった。

「懐かしい」雪穂はそういってじっと彼の顔を見つめてきた。「思い出します。昔のことを」その表情に笑みはなかった。遠い何かを見つめる目だった。

 その唇がふっとほころんだ。

「主人なら庭にいます。昨日のゴルフの成績が気に入らなかったらしくて、猛練習中なんですよ」一成にいった。

「じゃあ、邪魔しない程度にお時間をいただきましょう」

「いいえ、どうぞごゆっくり」雪穂は美佳に頷きかけ、歩きだした。彼女たちのために、笹垣と一成は道を開けた。

 雪穂の後ろ姿を見送りながら、あの女は自分のことを覚えているのかもしれない、と笹垣は思った。

 雪穂がいったように、康晴は南側の庭でゴルフボールを打っていた。一成が近づいていくとクラブを置いて笑顔で応対した。その顔からは、従弟《いとこ》を子会社に追い出した非情さは感じられなかった。

 だが一成が笹垣を紹介すると、康晴の顔に警戒の色が宿った。

「大阪の元刑事さん? ははあ」笹垣の顔をしげしげと眺めた。

「どうしても康晴さんの耳に入れておきたい話があってね」

 一成がいうと、康晴はすっかり笑みの消えた顔で、「じゃあ家の中で話を聞こうか」と室内を指した。

「いや、ここでいいよ。今日は比較的暖かいし、話をしたらすぐに帰るつもりだから」

「こんなところでか」康晴は二人の顔を交互に見てから頷いた。「まあいいだろう。タエさんに何か温かい飲み物でも持ってきてもらおう」

 庭には白いテーブルと椅子が四脚置いてあった。天気の良い日には、家族で英国風のティータイムを楽しむのかもしれない。家政婦が持ってきてくれたミルクティーを飲みながら、笹垣は幸福そうな家族の姿を思い浮かべた。

 しかしこの場は和やかなティータイムとはいかなかった。一成の話が始まるなり、康晴の顔がみるみる険しくなっていったからだ。

 一成の話とは――。

 雪穂に関するエピソードだった。笹垣と一成が話し合い、整理した、彼女の本性を暗示させる様々な出来事だった。当然桐原亮司という名前も、何度か登場することになった。

 だが予想通り、話の途中で康晴は激昂《げっこう》した。テーブルを叩き、立ち上がった。

「くだらん、何をいいだすかと思えば」

「康晴さん、とにかく最後まで聞いてくれ」

「聞かなくてもわかる。そんな戯《ざ》れ言《ごと》に付き合っている暇はない。そんなくだらんことをしている暇があったら、おまえのところの会社を立て直す方法でも考えろ」

「そのことについても情報があるんだ」一成も腰を上げ、康晴の背中にいった。「僕を陥れた犯人がわかった」

 康晴は振り返った。口元を歪めた。「まさかそれも雪穂の仕業だとでもいうんじゃないだろうな」

「篠塚薬品のネットワークにハッカーが侵入したことは聞いているだろう? そのハッカーは帝都大学付属病院のコンピュータを経由していた。そこの薬剤師がつい最近まで同棲していた男が、今までに何度も名前の出ている桐原亮司だった」

 一成の言葉に、康晴の目がかっと見開かれた。咄嗟《とっさ》に言葉が出ないのか、口を半開きにしたまま動かない。

「ほんまのことなんです」笹垣が横からいった。「その薬剤師が認めました。桐原亮司に間違いありません」

 康晴が何かいったようだ。関係ない――笹垣の耳にはそんなふうに聞こえた。

 笹垣はコートのポケットから一枚の写真を取り出した。

「これをちょっと見ていただけますか」

「何だ、これは。どこの写真だ」

「先程一成さんから説明していただいた、二十年ほど前に殺人事件のあったビルです。つまり大阪です。その薬剤師が桐原亮司と大阪に行った時に撮影したそうです」

「それがどうかしたのか」

「大阪に行った時の日付を聞きました。去年の九月十八日から二十日までの三日間です。これがどういう日やったか、当然覚えておられるでしょうな」

 康晴が思い出すまでに、少し時間を要した。だが彼はたしかに思い出した。あっと小さく漏れた声が、それを示していた。

「そうです」と笹垣はいった。「九月十九日は、唐沢礼子さんが亡くなった日です。なぜ急に呼吸が止まったのかは、病院でも不思議がってたそうですな」

「馬鹿なことをっ」康晴は写真を投げ捨てた。「一成、この頭のおかしい爺さんを連れて、さっさと帰ってくれ。今後、こういうことをまたいいだしたら、二度とうちの社には戻れないと思えよ。いっておくが、もうおまえのところの親父さんも、うちの社の役員じゃないんだからな」

 さらに彼は足元に転がっていたゴルフボールを拾い上げると、思い切りネットに向かって投げつけた。そのボールはネットを支える鉄柱に当たり、大きく弾んだ。そしてテラスに並べてある鉢植えにぶつかった。ぐしゃりと何かの潰れる音がした。しかし彼はそちらには見向きもせず、テラスから家に上がり、ガラス戸をぴしゃりと閉めた。

 一成がため息をついた。笹垣を見て、苦笑する。「半ば予想通りでしたね」

「唐沢雪穂にとことん惚れてはるんでしょう。あれがあの女の武器です」

「従兄も今は頭に血が上っていますが、冷静になれば、我々の話を吟味する気になるはずです。それを待つしかありません」

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