「まあ、そういう時が来たらええですけどな」
二人が帰りかけた時、家政婦が駆け付けてきた。
「どうかされましたか。何かすごい音がしましたけど」
「康晴さんの投げたゴルフボールが、どこかに当たったみたいだよ」
「えっ、それでお怪我は?」
「怪我をしたのは鉢植えだよ。人間は無傷だ」
家政婦は、あらあら、といいながら並べてある鉢植えの様子を見た。
「大変、奥様のサボテンが」
「彼女の? サボテン?」
「大阪から持ってこられたものなんですよ。あーあ、完全に鉢が割れちゃってる」
一成が家政婦のところまで見に行った。
「彼女、サボテンを育てるのが趣味なのかい」
「いえ、亡くなったおかあさんの御趣味だったそうですよ」
「ああ、そういえばそんなことをいってたな。おかあさんの葬式の時に聞いた」
再び一成が離れかけた時、「あらっ」と家政婦がいった。
「どうした?」と一成が訊く。
家政婦は割れた鉢植えの中から何か摘みだした。「こんなものが入ってたんです」
一成は彼女の手の中を見た。「ガラスだな。サングラスのレンズじゃないのか」
「そうみたいですね。元々の土の中に混じってたんでしょ」家政婦は首を捻りながらも、それを鉢植えの破片の上に置いた。
「どうしました」笹垣も少し気になり、彼等に近づいた。
「いや、大したことじゃありません。鉢植えの土の中に、ガラスの破片が入っていたんですよ」一成は割れた鉢植えを指差していった。
笹垣はそのほうを見た。平たいガラスの破片が目に留まった。たしかにサングラスのレンズらしい。半分ほどのところで割れている。彼はそれを慎重に拾い上げた。
一瞬後、全身の血が騒ぎだしていた。いくつかの記憶が蘇り、めまぐるしく交錯した。間もなくそれは一つの道筋となった。
「サボテンは大阪から持ってきたとおっしゃいましたな」彼は抑えた声で訊いた。
「そうです。彼女のおかあさんの家にあったものです」
「鉢植えは庭に置いてあったんですか」
「そうです。庭に並べてありました。笹垣さん、それが何か?」一成も、元刑事のただならぬ様子に気づいたようだ。
「いや、まだわかりませんけどな」笹垣は摘《つま》んだガラス片を日に透かした。
それは薄い緑色をしていた。
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『R&Y』大阪一号店オープンの準備は、午後十一時近くまでかかった。浜本夏美は、最後のチェックを入念に行う篠塚雪穂の後について店内を歩いた。店舗の広さに関しても、品数の豊富さにしても、東京の本店をはるかに凌いでいる。宣伝活動も、もはやこれ以上はないといえるほど十全に行った。あとは結果を待つだけである。
「九十九パーセントまではこぎつけたわけね」すべてのチェックを終えた後で雪穂がいった。
「九十九パーセント? まだ完璧じゃありませんか」夏美は訊いた。
「いいのよ、一パーセントの不足があることで、明日への目標ができるから」雪穂はそういってにっこりした。「さあ、後は身体を休めるだけよ。今夜はお互い、アルコールはほどほどにね」
「祝杯は明日ですね」
「そういうこと」
赤いジャガーに二人で乗り込んだ時には、十一時半になっていた。夏美がハンドルを握り、雪穂は助手席で深呼吸を一つした。
「がんばりましょうね。大丈夫、あなたならきっとうまくやれる」
「そうでしょうか。だといいんですけど」夏美は少し弱気になっている。この大阪店の経営は、実質的に夏美に任されているのだ。
「自信を持ちなさい。自分がナンバーワンだと思うこと。いいわね」雪穂は夏美の肩を揺すった。
はい、と答えてから、夏美は雪穂を見た。
「だけど正直いって怖いです。社長みたいにやれるかどうか、とても不安です。社長は怖いと思ったことありませんか」
すると雪穂は大きな目を真っ直ぐに向けてきた。
「ねえ、夏美ちゃん。一日のうちには太陽の出ている時と、沈んでいる時があるわよね。それと同じように、人生にも昼と夜がある。もちろん実際の太陽みたいに、定期的に日没と日の出が訪れるわけじゃない。人によっては、太陽がいっぱいの中を生き続けられる人がいる。ずっと真っ暗な深夜を生きていかなきゃならない人もいる。で、人は何を怖がるかというと、それまで出ていた太陽が沈んでしまうこと。自分が浴びている光が消えることを、すごく恐れてしまうわけ。今の夏美ちゃんがまさにそうよね」
いわれていることは何となくわかった。夏美は頷いた。
「あたしはね」と雪穂は続けた。「太陽の下を生きたことなんかないの」
「まさか」夏美は笑った。「社長こそ、太陽がいっぱいじゃないですか」
だが雪穂は首を振った。その目には真摯《しんし》な思いが込められていたので、夏美も笑いを消した。
「あたしの上には太陽なんかなかった。いつも夜。でも暗くはなかった。太陽に代わるものがあったから。太陽ほど明るくはないけれど、あたしには十分だった。あたしはその光によって、夜を昼と思って生きてくることができたの。わかるわね。あたしには最初から太陽なんかなかった。だから失う恐怖もないの」
「その太陽に代わるものって何ですか」
「さあ、何かしらね。夏美ちゃんも、いつかわかる時が来るかもしれない」そういうと雪穂は前を向いて座り直した。「さっ、帰りましょ」
それ以上訊くことはできず、夏美はエンジンをかけた。
雪穂の宿泊場所は、淀屋橋にあるホテルスカイ大阪だった。夏美はすでにこちらに部屋を借りている。北天満《きたてんま》のマンションだ。
「大阪の夜は、本当はこれからが本番なのよね」車から外を眺めながら雪穂がいった。
「そうですね。大阪は遊ぶところには困りませんから。あたしも、昔はよう遊びました」
夏美がいうと、隣で雪穂がふっと笑う気配があった。
「やっぱりこっちにいると、大阪弁に戻ってしまうみたいね」
「あっ、すみません。つい……」
「いいのよ。ここは大阪なんだから。あたしもこっちに来た時ぐらいは、大阪弁を使おうかな」
「それ、すごくいいと思います」
「そう?」雪穂は微笑んだ。
やがてホテルに到着した。エントランスの前で、雪穂を降ろした。
「じゃあ社長、明日はよろしく」
「うん、今夜のうちに急用があったら携帯電話にかけてね」
「はい、わかっています」
「夏美ちゃん」雪穂は右手を出してきた。「勝負はこれからやで」
はい、と答えて、その手を握った。
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時計の針が十二時を回り、今日はもうここまでかと思った時、木製の古いドアが軋《きし》み音をたてながら開いた。濃い灰色のコートを羽織った初老の男が、のっそりと入ってきた。
客を見て、桐原弥生子は愛想笑いしかけていた顔を元に戻した。小さく吐息をつく。
「なんや、笹垣さんかいな。福の神かと思たのに」
「何いうてるねん。福の神やないか」
笹垣はマフラーとコートを勝手に壁にかけた。詰めれば十人が座れるL字形カウンター席の、ほぼ真ん中に腰をのせた。コートの下にはくたびれた茶色の背広を着ていた。刑事を引退した後も、この人物のスタイルは変わらない。
弥生子はグラスを彼の前に置き、ビール瓶の栓を抜いて酌をした。彼はここではビールしか飲まないことを知っている。
笹垣は旨そうに一口飲み、弥生子が出した粗末なつまみに手を伸ばした。
「景気はどうや。そろそろ忘年会シーズンやろ」
「見ての通り。うちは何年も前からバブルが弾けてますねん。というより、バブルが膨らんだこともおません」
弥生子は自分もグラスを出し、手酌でビールを注いだ。笹垣に、いただきます、ともいわないで、一気に半分ほど飲んだ。
「相変わらず、ええ飲みっぷりやな」笹垣が手を伸ばしてきてビール瓶を掴んだ。そのまま彼女のグラスに注ぎ足す。
どうも、と弥生子は頭を下げた。「これだけが楽しみ」
「弥生さん、ここに店を出して何年になる?」
「ええと、何年やろ」彼女は指を折った。「十四年……かな。ああ、そうや。来年の二月で十四年や」
「結構長いこと続いてるやないか。やっぱりこの仕事が一番|合《お》うてたんと違うか」
ははは、と彼女は笑った。
「かもしれませんわ。その前の喫茶店は、三年で潰してしもたからね」
「質屋の仕事は全く手伝わずやろ?」
「ああ、あれは一番嫌いな仕事。あたしの性に全然合えへんかった」
それでも十三年近く、質屋の女房をしていた。あれが自分の人生にとって最大の間違いだったと彼女は思っている。桐原と結婚などせず、キタ新地のバーで働き続けていたら、今頃はどんなに大きな店を切り回していただろう。
夫の洋介が殺された後、しばらくは松浦が店のことをしてくれた。だがやがて親族会議が開かれ、店は洋介の従弟がみることになった。もともと桐原家は代々質屋を営んでおり、親戚の何軒かは『きりはら』の看板をあげて商売をしていた。洋介が死んだからといって、弥生子が好きにしていいというものではなかったのだ。
間もなく松浦は店を辞めた。新たに経営者となった従弟によれば、松浦は店の金をかなり使い込んでいた形跡があるというが、数字の話は弥生子にはわからなかった。正直なところ、彼女にとってはどうでもいいことだった。
弥生子は家と店を従弟に譲り、その金で上本町《うえほんまち》に喫茶店を開くことにした。この時彼女にとって計算外だったことは、『きりはら』の土地は洋介のものではなく、洋介の実兄の名義になっていたことだった。つまり土地は借り物だったということになる。そのことを弥生子は、この時まで知らなかったのだ。
喫茶店経営は開店当初こそ順調だったが、半年ほど経つ頃から客が減り始め、やがて行き詰まるようになった。原因はよくわからなかった。新しいメニューを作ってみたり、店の内装を変えたりもしたが、特効薬にはならなかった。やむなく人件費を削ろうとするとサービス低下に繋がり、ますます客足が遠のくという有り様だった。
結局、店は三年足らずで閉めた。その頃、ホステス時代の友人から、天王寺に小さな店があるからやってみないかと声をかけられた。権利金はなし、居抜きで借りられるという好条件だった。彼女はすぐに飛びついた。それが現在のこの店である。以来十四年間、弥生子の生活を支えてきた。この店がなかったらと思うと、彼女は今も鳥肌が立つ。もっとも、この店を開いた直後にインベーダーゲームのブームが訪れて、コーヒーではなくゲーム目当ての客が喫茶店に押し掛けるようになった時には、奥歯をきりきりと鳴らすほど悔しがったのだが。
「息子はどうや。相変わらず、連絡なしか」笹垣が訊いてきた。
弥生子は口元を緩め、首を振った。「もう諦めてます」
「今は何歳になってるんかな。ちょうど三十か」
「さあ、どうでしたやろ。忘れてしまいましたわ」
この笹垣という男は、弥生子が店を開いて四年目あたりから、ごくたまに訪れるようになった。元は洋介が殺された事件を担当していた刑事だが、その話をすることは殆どない。しかしいつも決まって口にするのは亮司のことだった。
亮司は中学を卒業するまで、『きりはら』の家で生活していた。弥生子としては喫茶店経営で頭がいっぱいの時だったから、息子の面倒を見なくていいのは助かった。
弥生子がこの店を始めたのと相前後して、亮司は『きりはら』を出てきた。しかし仲むつまじい母子生活が始まったわけではなかった。彼女は夜中まで酔客の相手をせねばならず、その後はただひたすら眠るだけだ。起きるのはいつも昼過ぎで、それから簡単な食事を済ませ、風呂に入って化粧をした後、店の準備にとりかかる。息子のために朝食を作ってやったことなど一度もないし、夕食も店屋物が殆どだ。そもそも母子が顔を合わせること自体、一日に一時間あるかどうかというところだった。
やがて亮司の外泊が増えた。どこに泊まったのかと尋ねても、曖昧な答えしか返ってこない。しかし学校や警察から注意を受けることもなかったので、弥生子はあまり気にしなかった。何よりも彼女は毎日の暮らしに疲れていた。
高校の卒業式の朝、亮司はいつものように出かける支度をした。珍しく目を覚ましていた弥生子は、布団の中から彼を見送ることにした。
いつもは黙って出ていく彼が、その日にかぎって部屋の入り口から振り返った。そして弥生子に向かっていった。「じゃあ、俺、行くからな」
「うん、行ってらっしゃい」寝ぼけた頭で彼女は答えた。
結局これが母子の最後の会話となった。弥生子が化粧台の上のメモに気づくのは、それから数時間後だ。そのメモには、『もう帰らない』とだけ書いてあった。その宣言通り、彼は帰ってこなかった。
もちろん捜す方法はあったのだろう。しかし弥生子は積極的に彼を見つけ出そうとはしなかった。寂しいと思う反面、こうなるのは無理ないかもしれないという気持ちもあった。彼女は自分がただの一度も母親らしいことをしてやらなかったことを自覚していた。また亮司が自分のことを母親だと認めていないことも知っていた。
元々自分には母性というものが欠如していたのではないかと弥生子は思っている。亮司を産んだのも、子供が欲しかったからではなく、堕胎する理由がなかったからにほかならない。洋介と結婚したのも、これで働かなくても生活できると思ったからだ。ところが妻や母という立場は、当初予想したよりも窮屈で退屈なものだった。彼女は妻や母親ではなく、いつまでも女でありたかった。
亮司が出ていって三か月ほどした頃、一人の男と深い仲になった。輸入雑貨を扱う男だった。彼は弥生子の寂しい心を癒してくれた。また女でありたいという彼女の思いを叶えてくれた。
男とは約二年間、一緒に暮らした。別れることになったのは、男が本来の家に帰らねばならなくなったからだ。彼は結婚しており、堺市に家を持っていた。
その後も何人かの男と付き合い、そして別れた。今は一人だ。気楽ではあるが、どうしようもなく寂しくなることもある。そんな夜には、亮司のことを思い出した。だが会いたいなどという気持ちを抱くことを、彼女は自分に禁じていた。そんな資格などないことはわかっていた。
笹垣がセブンスターをくわえた。弥生子は使い捨てライターを素早く手にし、煙草の先で点《つ》けた。
「なあ、あれから何年になると思う? おたくの御主人が殺されてからや」煙草を吸いながら笹垣は訊いた。
「二十年ほど……かな」
「正確にいうと十九年や。えらい前のことになってしもうたなあ」
「そうですね。笹垣さんは引退したし、こっちはもうおばあさんや」
「これだけ時間が経ったんやから、どうや、そろそろ話せることもあるんと違うか」
「どういう意味です」
「あの頃はしゃべられへんかったけど、今やったらしゃべれるということもあるやろというてるんや」
弥生子は薄く笑い、自前の煙草を取り出した。火をつけ、染みの出た天井に向かって、灰色の煙を細く吐く。
「けったいなことをいわはるわ。あたし、何も隠してません」
「そうか? わしには、いろいろと腑《ふ》に落ちんことがあるんやけどなあ」
「まだあの事件にこだわってはるの? 気ぃ長いなあ」指先に煙草を挟んだまま、弥生子は後ろの棚に軽くもたれた。どこからか有線の音楽が聞こえてくる。
「事件の日、あんたは店員の松浦と息子の亮司君と三人で家におったていうたわな。あれはほんまの話か」
「ほんまですよ」弥生子は灰皿を手に持ち、その中に煙草の灰を落とした。「それについては笹垣さんらも、しつこいほど調べはったやないですか」
「調べた。けど、具体的に証明できたのは松浦のアリバイだけや」
「あたしがあの人を殺したていわはるんですか」弥生子は鼻から煙を吐いていた。
「いや、あんたも一緒におったやろ。わしが疑《うたご》うてるのは、三人が一緒やったという話や。実際には、あんたと松浦と二人きりやった。違うか?」
「笹垣さん、何がいいたいんですか」
「あんたと松浦、できとったやろ?」笹垣はグラスのビールを飲み干した。弥生子が注ごうとするのを制して、自分で注いだ。「もう隠さんでもええやろ。昔の話や。今さら、誰かに何かいわれるわけでもない」
「昔の話を今さら聞いて、どうするんですか」
「どうもせえへん。ただ納得したいだけや。事件が起きた頃、お宅の店に訪ねていった客が、入り口には鍵がかかってたというてた。それについて松浦は金庫室に入ってたというし、あんたは息子とテレビを見てたというた。けど、それは本当やない。ほんまは、あんたと松浦は奥の部屋で布団に入ってた。違うか?」
「さあ、どうですやろ」
「やっぱり図星か」笹垣はにやにやしながらビールを飲んだ。
弥生子はせわしなく煙草を吸い続けた。漂う煙を見ながら、ふと思いを馳せた。
松浦勇のことをそれほど好きだったわけではない。ただ毎日が退屈だった。このままでは女でなくなってしまうのではないかと焦ってもいた。だから松浦に迫られた時、あっさりと受け入れた。彼にしても、彼女のそういう本音を見抜いていたから、誘いをかけてきたのだろう。
「息子は二階か?」笹垣が訊いてきた。
「えっ?」
「亮司君や。あんたと松浦は一階の奥の間におった。その時あの子は二階におったんやろ? で、あんたらはあの子が急に入ってこんように、階段の戸に掛け金錠をかけておいたというわけや」
「掛け金錠?」口に出していってから、弥生子は大きく頷いた。「そうや。そういうたら、階段の戸にそんな錠がついてた。さすがは刑事さんや。よう覚えてはるわ」
「どうやねん。あの時、亮司君は二階におったんやろ。けど、あんたと松浦の関係をごまかすために、あの子も一緒におったことにした。そういうことやろ?」
「そう思いたいんやったら、それでかまいませんよ。あたしは何ともよういいません」弥生子は短くなった煙草を灰皿の中でもみ消した。「ビール、もう一本開けましょか?」
「ああ、もらおか」
新しく開けたビールを、笹垣はピーナッツをつまみながら飲んだ。弥生子も付き合った。しばらく二人は無言だった。
再びあの時のことを弥生子は思い出していた。笹垣のいうとおりだった。事件が起きた頃、彼女は松浦と情事にふけっていた。亮司は二階だ。階段の戸には錠をかけてあった。
だが、警察からアリバイを訊かれた場合には、亮司も一緒にいたことにしようと提案したのは松浦だった。そのほうが妙に勘ぐられなくて済むというのだった。相談の結果、弥生子と亮司はその時間テレビを見ていたことにした。少年向けのSFドラマだ。番組の内容は、当時亮司が購読していた少年雑誌に、かなり詳しく紹介してあった。それを弥生子と亮司は読んで覚えた。
「ミヤザキ、どうなるやろな」笹垣がぽつりといった。
「ミヤザキ?」
「宮崎勤や」
「ああ」弥生子は長い髪をかきあげた。抜け毛が手についた感触があったので見ると、白髪が中指にからみついていた。笹垣に気づかれぬよう足元に落とした。「死刑でしょ、あんなもん」
「何日か前の新聞に、公判のことが載っとったな。事件の三か月前に慕ってた爺さんが死んで、心の支えを失った、とかいうとるらしい」
「しょうむない。そんなことで人殺しをされたらかなわんわ」弥生子は新しい煙草に火をつけた。
八八年から八九年にかけて埼玉と東京の幼女四人が次々と殺害された、いわゆる「連続幼女誘拐殺人事件」の裁判が行われていることは、弥生子もニュースなどで知っている。精神鑑定の結果を巡って弁護側が反論しているらしいが、幼い女の子を狙ったということについては、彼女はさほど異常性は感じなかった。そういう歪んだ本能を持つ男が決して少なくないということを彼女は知っていた。
「あの話、もうちょっと早よ聞いてたらな」笹垣が呟いた。
「あの話?」
「おたくの旦那の趣味の話や」
「ああ……」弥生子は笑おうとした。しかし奇妙な具合に頬がひきつった。
その話題を出したくて、宮崎勤のことを口にしたのだなと合点がいった。
「あんな話、何かの足しになるんですか」と彼女は訊いた。
「足しになるどころやない。事件直後に聞いてたら、捜査の内容は一八〇度変わっとった」
「へえ、そうなんですか」弥生子は煙を吐く。「そういわれても……」
「まあ、あの時はしゃべれんわな」
「そうです」
「そら、そうやなあ」笹垣は広くなった額に手を当てた。「おかげで十九年や」
どういう意味かと訊きたいのを弥生子はこらえた。おそらく笹垣は何かを胸に秘めているのだろう。しかし今さらそれを知りたくはなかった。
またしばらく沈黙が続いた。二本目のビールを三分の一ほど残したところで笹垣は立ち上がった。「ほな、帰るわ」
「寒い中、どうもありがとうございました。また、気が向いたら来てください」
「そうやな。また来さしてもらうわ」笹垣は勘定を済ませると、コートを羽織り、茶色のマフラーを首に巻いた。「ちょっと早いけど、よいお年を」
「よいお年を」弥生子は愛想笑いをした。
笹垣は古いドアの把手に手をかけた。だがそれを引く前に振り返った。
「ほんまに二階におったんかな」
「はっ?」
「亮司君や。ほんまに、ずっと二階におったんやろか」
「何をいわはるの」
「いや、何でもない。邪魔したな」笹垣はドアを開けて出ていった。
弥生子はしばらくドアを見つめた後、そばの椅子に腰を下ろした。鳥肌が立っている。外から入りこんだ冷たい空気のせいだけではなかった。
リョウちゃん、またお出かけみたいやな――松浦の声が蘇った。彼は弥生子の上にいた。こめかみに汗が浮いていた。
瓦《かわら》を踏む音を聞いて、松浦はそういったのだ。亮司が窓から外に出て、屋根つたいにどこかへ行くことは、弥生子も前から知っていた。だがそのことで亮司に何かいったことはない。出ていってくれたほうが、情事に没頭しやすい。
あの日もそうだった。彼が戻ってきた時も、瓦の音がかすかにした。
しかし――。
それが何だというのだ。亮司が何をしたというのだ――。
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入り口ではサンタクロースがカードを配っていた。店内には、クラシック風にアレンジされたクリスマスソングが流れ続けている。年末とクリスマス、そして開店セールという要素が複合的に作用し、ふつうに歩くのも困難なほどの混雑ぶりだった。見たところ、客は殆どが若い女性だった。まるで花に群がる虫のようだと笹垣は思った。
篠塚雪穂が経営する『R&Y』大阪一号店は、本日華々しくオープンした。東京にある店とは違い、ここはビル全体が一店舗となっている。洋服だけでなく、アクセサリーやバッグ、靴のフロアもある。笹垣にはよくわからないが、高級ブランド品ばかりだという。世間ではバブルが弾けたといわれているのに、その雰囲気に逆行するような商法だった。
一階から二階に上がるエスカレータのすぐ横に喫茶スペースがあり、ひと休みできるようになっている。笹垣は一時間ほど前から、端のテーブル席に腰を落ち着け、一階のフロアを見下ろしていた。夜になっても客足は一向に衰える様子がない。この喫茶店に入るのにも、ずいぶんと並んだのだ。今も入り口に長い列が出来ている。店員から疎ましがられるのを恐れ、笹垣は二杯目のコーヒーを頼んでいた。
彼とテーブルを挟む形で、一組の若いカップルが座っていた。傍目には、若夫婦とどちらかの父親というふうに見えるだろう。そのカップルの男のほうが、小声で話しかけてきた。
「やっぱり現れませんね」
うん、と小さく笹垣は頷いた。その目は依然として階下に注がれている。
若い男女はどちらも大阪府警本部の警察官だった。特に男のほうは、捜査一課の刑事だった。
笹垣は時計を見た。閉店時刻が近づいている。
「まだ、わからん」相手に聞かせるためではなく、自分に向かって彼は呟いた。
彼等が待ち受けているのは、いうまでもなく桐原亮司だった。発見すれば、即座に捕捉することになっている。逮捕はまだできないが、とにかく身柄を拘束しなければならない。刑事を引退している笹垣は、彼のことをよく知っているということで、協力者としてここにいる。無論、捜査一課長である古賀が、そのように取り計らってくれたのだ。
桐原の容疑は殺人である。
例のサボテンの鉢植えから出てきたガラス片を見た瞬間、笹垣の頭に閃《ひらめ》くものがあった。それは松浦勇の失踪《しっそう》時の服装についてだった。何人かの人間が、「彼はよく、緑色のレンズが入ったレーバンのサングラスをかけていた」と供述していたのだ。
笹垣は古賀に頼み、ガラス片を調べてもらった。彼の直感は正しかった。それはレーバンのレンズに間違いなく、わずかに付いていた指紋は、松浦の部屋から採取した彼の指紋と、非常に似通っていたのだ。その一致率は九十パーセント以上という高いものだった。
なぜあの鉢植えに松浦のサングラスの破片が入っていたのか。推測できることは、サボテンの元々の持ち主である唐沢礼子が鉢植えに土を入れる時、その中に混じってしまったということである。ではその土をどこから持ってきたのか。専用の土を購入したのでなければ、自宅の庭の土を入れたと考えるのが最も妥当であろう。
とはいえ唐沢家の庭を掘り返すとなると捜索令状が必要になる。これだけの根拠で、それを敢行するかどうかは判断の難しいところだった。しかし結局、古賀捜査一課長は決断した。現在唐沢家に居住者がいないということが、その背景にあったことはたしかである。だが笹垣は、年老いた元刑事の執念を信頼してくれたのだろうと解釈していた。
捜索は昨日、実施された。唐沢家の庭の、最も塀寄りのところに、地面が露出した場所があった。捜索のベテランたちは、殆ど迷わずにそこから掘り始めた。
着手から約二時間後、一体の白骨死体が見つかった。着衣はない。死後、七、八年は経過していると見られた。
現在大阪府警では、科学捜査研究所の力を借りて、死体の身元を明らかにしようとしている。その方法はいくらでもある。少なくとも、松浦勇かどうかを確かめるのは難しくないはずだった。
そして笹垣は、死体が松浦であることを確信していた。白骨死体の右手小指に、プラチナの指輪がはまっていたという話を聞いたからだった。その指輪をはめた松浦の手が動いていた様子を、彼は昨日のことのように思い出すことができた。
さらに死体の右手は、もう一つ別の証拠を掴んでいた。白骨化した指に、数本の人毛がからみついていたのだ。格闘した際、相手の髪の毛を掴んだものと想像できた。
問題はそれが桐原亮司のものと断定できるかどうか、だった。通常の場合ならば、毛の色調、光沢、硬さ、太さ、髄指数、メラニン色素顆粒の分布状態、血液型などの要素から、個人識別に近いことも可能である。しかし今回見つかった毛髪は、何年も前に落ちたものであり、どの程度の判定ができるかは不明であった。ところがそれについて古賀は一つの覚悟を決めていた。
「いざとなれば科警研に依頼しましょう」というのだった。
古賀が考えているのはDNA鑑定のことらしかった。遺伝子の本体であるDNAの配列の違いで個人を識別する方法で、ここ一、二年、いくつかの事件で使われている。警察庁では、今後四年間で全国の都道府県警察に導入する予定だというが、現在は科学警察研究所で一手に引き受けている形だ。
時代は変わった、と思わざるをえない。質屋殺しから十九年。その年月が何もかもを変貌させた。捜査手段までも。
だが問題は、桐原亮司を見つけ出すことだった。どんなに証拠が揃っても、逮捕できないのでは意味がない。
そこで笹垣が進言したのが、篠塚雪穂の身辺を見張ることだった。エビはハゼのそばにいる――彼は今もそう信じている。
「雪穂の店がオープンする日、桐原は絶対に現れる。奴等にとって大阪に店を開くということには特別の意味がある。それに東京に店を持ってる雪穂は、そうしょっちゅう大阪には来られへん。狙いはオープン初日や」笹垣は古賀に主張した。
この元刑事の意見に古賀は同調してくれた。今日は開店時から、複数の捜査員が交代で、時折場所を変えながら、この店を見張り続けている。笹垣も朝から同行していた。約一時間前までは、向かいの喫茶店にいたのだ。しかし一向に桐原の現れる気配がないので、こうして乗り込んできた。
「桐原は、今も秋吉雄一の名前を使っているんでしょうか」男の刑事が小声で訊いてきた。
「さあ、それはわかりません。もうそろそろ別の名前を騙《かた》ってるかもしれませんな」
答えてから笹垣は、全く別のことを考えていた。それは秋吉雄一という偽名についてだった。
どこかで聞いたことのある名前だと、ずっと思っていた。その理由が、つい先日わかったのだ。
あの少年――菊池文彦から聞いていた名前だった。
菊池文彦はレイプ事件で容疑を受けたが、桐原亮司の証言によって助かった。しかしそもそもなぜ彼に容疑がかかったのか。
現場に落ちていたキーホルダーが菊池文彦のものだと警察に告げ口した者がいたからだった。菊池によれば、その「裏切り者」の名前が秋吉雄一だった。
桐原がなぜそんな名前を偽名として選んだのか。その理由は本人に訊くしかないが、笹垣としては想像していることがある。
たぶん桐原は、自分の生き様が、すべてのものを裏切ることで成り立っていることを自覚していたのだ。そんな幾分自虐的な思いを込めて、秋吉雄一と名乗ったのではないだろうか。
もっとも、今となってはどうでもいいことだった。
桐原が菊池を罠にはめた理由については、笹垣はほぼ解明した自信があった。菊池が持っていたという写真は、桐原にとっては極めて都合の悪いものだったのだ。そこには桐原弥生子と松浦勇の逢い引きの様子が写っていたという。菊池がもしそんなものを警察関係者に見せればどうなるか。それによって捜査がやり直される可能性が出てくる。桐原が恐れたのは、事件当日のアリバイが崩れることだった。弥生子と松浦が情交中だったとなれば、桐原は一人だったということになる。客観的に考えれば、警察が当時小学生だった彼を疑うことはありそうもなかったが、彼としてはそのことは隠しておきたかったのだ。
昨夜、桐原弥生子と会って、笹垣は自分の推理に確信を持った。あの日、桐原亮司は一人で二階にいたのだ。しかしずっと居続けていたわけではない。あの住宅が密集した地域では、泥棒が二階から侵入するのがたやすいように、二階から外に出ることもまた簡単だった。彼は屋根づたいにどこかへ行き、また屋根づたいに戻ったのだ。
その間、彼は何をしていたか――。
店内に、閉店時刻が近づいたことを知らせるアナウンスが流れ始めた。それが合図のように、人の流れが急に向きを変え始めた。
「だめですかねえ」男の刑事がいった。婦人警官も浮かない顔で周りを見回している。
もし桐原亮司を発見できない場合には、今日中に篠塚雪穂から事情聴取するという手筈になっているようだった。しかし笹垣は反対だった。雪穂が何か有益なことをしゃべるとはとても思えなかった。誰もが欺かれるほどの純粋な驚きの表情を作り、「母の家の庭から白骨死体ですって? とても信じられません。嘘でしょう?」とでもいうに決まっていた。そして彼女にそういわれれば、警察としては手の出しようがない。松浦が殺されたと思われる七年前の正月、唐沢礼子が雪穂たちの家に招かれていたことは、高宮誠の証言で判明している。しかし桐原と雪穂が通じていたという証拠は何もないのだ。
「笹垣さん、あれを……」婦人警官が目立たぬように指差した。
そのほうを見て笹垣は目を見張った。雪穂が店内をゆっくりと歩いていた。真っ白なスーツを身に着け、一級品といっていい微笑を浮かべていた。その美しさというよりも輝きに、周りの客も店員も一瞬目を奪われているようだった。通り過ぎた後で振り返っている者がいる。彼女を見て、ひそひそと言葉を交わしている者がいる。そして憧《あこが》れの眼差しを向けている者もいた。
「女王ですね」若い刑事が呟いた。
だが笹垣は女王のような雪穂に、全く別の姿を重ね合わせていた。あの古いアパートで会った時の彼女だ。何ものも寄せつけず、心を開こうとしなかったあの少女だ。
あの話をもっと早くに聞いていたら――昨夜、弥生子にいったのと同じ台詞を彼は心の中で繰り返した。
その話を弥生子から聞いたのは五年ほど前だった。彼女はかなり酔っていた。もちろん、だからこそ打ち明けてくれたのだろう。
「今やからいいますけどね、主人はあっちのほうはまるでだめやったんですよ。いえ、前はそんなこともなかったんですけど、だんだんとね。そのかわりに何というか、おかしな趣味に走りだしたんです。幼女趣味っていうんですか。小さい女の子に興味を持ちましてね。その手の変な写真なんかも、その筋の人からたくさん買《こ》うてましたわ。その写真? そら、あの人が死んだ後、すぐに処分しました。当たり前やないですか」
彼女の話は、この後さらに笹垣を驚愕させた。
「ある時松浦から、変なことを聞きましてん。旦那さんはどうやら、女の子を買《こ》うてるらしいで、ていうんです。女の子を買うてどういうことやと訊いたら、金を出して、年端のいかん子に相手をさせるんやと教えてくれましたわ。そんな店あるんかとびっくりしましたけど、奥さんは水商売上がりのくせに何も知らんねんな、今は親が娘をそうやって食い物にする時代やでていうて笑《わろ》てました」
この話を聞いた時、笹垣の頭の中で嵐が吹き荒れた。すべての思考がいったん混乱した。しかしその後は、それまで絶望的に見えなかったものが、霧が晴れるように見えてきた。