そして弥生子の話には続きがあった。
「そのうちに主人は、妙なことを始めたんです。よその子を養女にするにはどういう手続きが必要かとか、そういうことを、知り合いの弁護士さんに問い合わせてましたわ。あたしがそのことで問い詰めたら、えらい怒って、おまえには関係ないていうんです。その挙げ句、あたしとは別れるとかいい出しましてん。あの頃のあの人は、頭がちょっとおかしかったんやないかと思います」
これで決定的だと笹垣は思った。
桐原洋介が西本母子が住むアパートに通っていたのは、西本文代が目当てではなかった。彼の狙いは娘のほうにあったのだ。おそらく彼は何度か、娘の身体を買ったに違いない。あの古いアパートの一室は、そういう醜悪な商売の場として使われていたのだ。
そこで笹垣は当然一つの疑問を抱いた。
果たして客は桐原洋介だけだったのか、ということだ。
たとえば交通事故死した寺崎忠夫はどうだったか。彼のことを捜査陣は西本文代の愛人だと決めつけていた。しかし寺崎が桐原洋介と同じ性癖の持ち主ではなかったといいきることはできないのである。
残念ながらそれについては、今では明らかにできなかった。他に客がいたとしても、もはや突き止めることは不可能だろう。
はっきりしているのは桐原洋介についてだけだ。
桐原洋介の百万円は、やはり西本文代に対する取引の金だった。しかしそれは彼女に愛人になれという話ではなく、彼女の娘を養女にしたいという話だった。何度か娘を買ううちに、彼は何としてでも自分一人のものにしたくなったに違いない。
洋介が帰った後、文代は一人で公園のブランコに揺られていたという。彼女の胸中では、どんな思いが揺れていたのか。
そして洋介は文代との話を終え、図書館へ行った。自分が心を奪われている美少女を迎えに行くためだった。
それからどんな経過があったのかを、笹垣ははっきりと頭に描くことができる。桐原洋介は少女を連れ、あのビルの中に入った。少女は抵抗しただろうか。あまりしなかったのではないかというのが、笹垣の推理だ。洋介は彼女にこういったに違いないからだ。百万円をおまえのおかあさんにやったからな――。
どのようなことがあの埃だらけの部屋で行われたのかは想像するのもおぞましい。だがその光景を見ている者がいたとしたら。
その時にたまたま亮司がダクトの中で遊んでいたとは思えない。家の二階から抜け出した彼は、図書館に向かった。おそらく彼はしばしばそのようにして雪穂と会っていたのだろう。そして彼は自慢の切り絵を見せてやった。あの図書館だけが、二人にとって心の休まる場所だったのだ。
しかしあの日亮司は、図書館のそばで奇妙な光景を見た。父親が雪穂と歩いている。彼は二人を尾行した。二人はあのビルに入っていった。
中で何をしているのだろう。少年はいいようのない不安を感じた。覗く方法はただ一つだ。彼は迷わずダクトに侵入した。
このようにして彼はたぶん最悪のシーンを目にしたのだ。
その瞬間少年にとって父親は、醜い獣以外の何者でもなかっただろう。悲しみと憎悪が、彼の肉体を支配したに違いない。笹垣は死体が受けた傷を今も思い出すことができる。あの傷は、少年の心の傷でもあったのだ。
父親を殺害した後、亮司は雪穂を逃がした。ドアの内側にブロックを置いたのは、少しでも事件が発覚するのを遅らせようという子供の知恵だろう。その後で彼は再びダクトにもぐった。彼がどんな思いでダクトの中を這い回ったかを考えると、笹垣も胸が痛くなる。
その後二人の間にどういう取り決めがなされたかはわからない。おそらく取り決めらしいものはなかっただろうと笹垣は想像している。彼等は自分たちの魂を守ろうとしているだけなのだ。その結果、雪穂は本当の姿を誰にも見せず、亮司は今も暗いダクトの中を徘徊している。
亮司が松浦を殺害した直接の動機は、アリバイの秘密を知る人間だからだろう。松浦は何らかのきっかけで、亮司が父親殺しを犯した可能性に気づいたのかもしれない。そのことを仄《ほの》めかし、例のゲームソフト偽造に加担するよう命じたことは大いに考えられる。
だが笹垣は動機はもう一つあったと思っている。桐原洋介の幼女趣味が、弥生子の浮気に起因していないとはいいきれないからである。亮司はあの二階の密室で、何度となく母と松浦の痴態を聞かされたに違いない。あの男のおかげで俺の両親は狂った――そう受け止めたとしても不思議ではない。
「笹垣さん、行きましょう」
刑事に声をかけられ我に返った。見渡すと、喫茶店の客はほかにはいない。
現れなかったか――。
虚しさが胸に広がった。今日ここで桐原を見つけられなければ、もう二度と捕まえられないような気がした。しかしいつまでもここに居座っているわけにはいかない。
「行きましょか」仕方なく重い腰を上げた。
喫茶店を出て、笹垣は二人の男女と共にエスカレータに乗った。客はぞろぞろと帰り始めている。店員たちは開店初日のセールが大成功に終わったことに満足そうだ。店頭でカードを配っていたサンタクロースが上りのエスカレータに乗っていた。彼もまた心地よく疲れているように見えた。
エスカレータを降りた後、笹垣はそっと店内を見回した。雪穂の姿はなかった。今頃は今日の売り上げの計算を始めているのかもしれない。
「お疲れ様でした」店を出る前に男の刑事が囁いた。
どうも、と笹垣は小さく会釈する。後は彼等に任せるしかない。若い彼等に。
他の客たちと共に笹垣は店を出た。カップルに化けた刑事たちは、すっと彼から離れ、別の場所で見張りを続けている刑事に近づいていった。これから雪穂のところへ行き、事情聴取をするつもりかもしれない。
笹垣はコートの前を合わせ、歩きだした。すぐ前を母子連れと思える二人が歩いていた。彼女たちもまた同じ店から出てきたようだ。
「いいものもらったねえ。帰ったらお父さんに見せたげてね」母親が話しかけている。
うん、と頷いているのは三、四歳の少女だ。その手に何か持っている。ひらひらしたものだ。
その瞬間、笹垣は目を剥いた。少女が持っているのは赤い紙だった。それはトナカイの形に見事に切り抜かれていた。
「これ……これ、どうしたっ」
彼は後ろから少女の腕を掴んでいた。母親らしき女は怯《おび》えを露《あらわ》にし、自分の娘を守ろうとした。
「な……何ですか」
少女は今にも泣きだしそうだ。通りかかる人々がじろじろと見た。
「あっ、すみません。あの、これ……どうしたんですか」女の子の持っている紙を指して笹垣は訊いた。
「どうしたって……もらったんですけど」
「どこで?」
「あの店で、です」
「誰からもらったんですか」
サンタさん、と女の子が答えた。
笹垣は踵《きびす》を返した。寒さで膝が痛むのをこらえ、全力で走った。
店の入り口はもう閉じられかけていた。その前にはまだ刑事たちの姿があった。彼等は笹垣の形相を見て、顔色を変えた。
「どうしました」と中の一人が訊いた。
「サンタクロースや」笹垣は叫んだ。「あれがあいつや」
刑事たちは事情を察知した。すでに閉じられているガラス扉を強引に開け、中に入った。引き留める店員を無視し、停止しているエスカレータを駆け上がっていく。
笹垣も彼等に続こうとした。しかし次の瞬間、別の考えが浮かんだ。彼は建物の脇にある細い路地に入った。
あほや、わしはあほや、何年あいつを追いかけてきた? あいつはいつも、人には見えへんところから、雪穂を見守っとったやないか――。
建物の裏に回ると、鉄製の手すりがついた階段があった。その上には扉がある。彼は階段を上がり、扉を開けた。
目の前に男が立っていた。黒い服を着た男だった。相手もまた、突然正面に人間が現れたことで驚いているようだった。
奇妙な時間だった。笹垣は、すぐ前にいる人物が桐原亮司であることを認識していた。にもかかわらず身体は動かず、声も出なかった。そのくせ頭の片隅で、こいつもわしが誰か思い出しよった、と冷静に判断している。
しかしその時間はたぶん一秒もなかったのだろう。相手の男はくるりと向きを変え、反対側に走りだした。
「待てっ」笹垣は後を追った。
廊下を抜けると売場に出た。刑事たちの姿が見えた。バッグを並べた棚を縫うように桐原は逃げる。そいつや、と笹垣は叫んだ。
刑事たちが一斉に追った。ここは二階だ。桐原は、今は動いていないエスカレータに向かっている。捕まえられる、と笹垣は確信した。
だが桐原はエスカレータには乗らなかった。その手前で足を止めると、ためらうことなく一階に向かって飛び降りた。
店員たちの悲鳴が聞こえた。何かが壊れる、ものすごい音が続いた。刑事たちは止まっているエスカレータを駆け下りていった。
数秒遅れて、笹垣もエスカレータに達した。心臓が苦しい。痛む胸を押さえながら、彼はゆっくりと下りていった。
巨大なクリスマスツリーが倒れていた。そのすぐ横に桐原亮司の姿があった。大の字になったまま動かない。
刑事が近寄り、彼を起こそうとした。だがその手を刑事は止めた。そのまま笹垣のほうを振り返った。
「どうした?」笹垣は訊いた。しかし答えは返ってこなかった。
笹垣は桐原に近づいた。仰向けにさせようとした。その時、再び悲鳴が上がった。
桐原の胸には何かが刺さっていた。血に染まって判別しにくかったが、それが何であるか笹垣にはすぐにわかった。彼が宝物のように大切にした鋏《はさみ》、彼の人生を変えた鋏だ。
病院を、と誰かがいい、誰かが走る足音がした。しかしそれももう無駄であることを笹垣は悟った。彼は死体を見慣れていた。
気配を感じ、笹垣は顔を上げた。すぐそばに雪穂が立っていた。雪のように白い顔をして見下ろしていた。
「この男は……誰ですか」笹垣は彼女の目を見て訊いた。
雪穂の顔は人形のように表情がなかった。その顔のままで彼女は答えた。
「全然知らない人です。アルバイトの採用は店長に任せておりますから」
その台詞が終わらぬうちに、傍らから若い女が現れた。青ざめていた。店長のハマモトです、と彼女はか細い声でいった。
刑事たちが行動を起こし始めた。ある者は現場保存の段取りをし、またある者は店長の女から事情聴取をしようとした。そしてある者は笹垣の肩に手を置き、彼を死体から遠ざけようとした。
笹垣はふらふらと刑事たちの輪から離れた。見ると、雪穂がエスカレータを上がっていくところだった。その後ろ姿は白い影に見えた。
彼女は一度も振り返らなかった。
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単行本 一九九九年八月 集英社刊
底本
集英社文庫
二〇〇二年五月二五日 第一刷
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