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チャイムが鳴ってから数分して、ざわめきが聞こえてきた。
秋吉《あきよし》雄一《ゆういち》は右手に一眼レフのカメラを持ったまま、中腰になって外の様子を窺った。思ったとおり、清華《せいか》女子学園中等部の正門から、女子生徒がぞろぞろと出てくるところだった。彼はカメラを胸の前で構え、少女たち一人一人の顔を凝視した。
彼が隠れているのはトラックの荷台の中だった。正門から五十メートルほど離れた道端に止めてあったのだ。下校時には清華女子学園の生徒の大半が目の前を通過するという絶好の位置で、しかも荷台には幌《ほろ》をつけてあった。今日の目的を考えた場合、雄一にとってこれほど好都合な隠れ場所はなかった。これでうまく狙いのショットを撮れたなら、六時限目をエスケープしてまでやってきた甲斐《かい》がある。
清華女子学園中等部の制服はセーラー服だった。夏服は白地に襟の部分だけがライトブルーになっている。ひだの細かいスカートもそれと同じ色だ。幌の陰から覗き見る雄一の目の前を、そんなスカートの裾《すそ》をひらひらさせながら何人もの女子生徒が通り過ぎていった。まだ小学生かと思うほど幼い顔立ちの少女もいれば、すでに大人の女に足を踏み入れているような娘もいる。後者のような女子生徒が近づいた時には雄一はシャッターを押したくなったが、肝心な時にフィルムが足りなくなっては大変と思い、我慢した。
彼の目が唐沢雪穂の姿を捉《とら》えたのは、そういう体勢で道行く少女たちを睨み始めてから十五分近くが経った頃だった。彼はあわててカメラを構え、レンズ越しに彼女の動きを追った。
唐沢雪穂は例によっていつもの友人と二人で歩いていた。いつもの友人というのは、メタルフレームの眼鏡をかけた、やけに痩せた娘だった。顎が尖っていて、額にこキビがある。そして身体つきもごつごつしていた。雄一としてはこちらの娘を被写体にする気はなかった。
唐沢雪穂はやや茶色がかった髪を肩まで伸ばしていた。まるで何かをコーティングしてあるように、見事な光沢を放っていた。その髪を自然なしぐさでかきあげる彼女の指は細かった。同様に身体も細いのだが、胸や腰の曲線には十分に女性を感じさせるものがあった。彼女のファンの中には、この点を魅力の第一に挙げる者も少なくなかった。
上品な猫を連想させる彼女の目は、隣の友人に向けられていた。下唇がわずかに厚めの口は、かわいい笑みを浮かべている。
雄一はカメラを構え直し、唐沢雪穂が近づいてくるのを待ち受けた。もう少しアップで撮りたかった。彼は彼女の鼻が好きだった。
雄一の家は、狭い路地に面して建っている棟割り住宅の一番端だった。引き戸を開けて中に入ると、すぐ右側に台所がある。築三十数年というだけあって、味噌汁やらカレーやらが混ざったような奇妙な臭いが、古い壁や柱にしみついていた。下町の臭いだと彼は思い込み、嫌っていた。
「菊池君が来てるで」
流し台に向かって夕飯の支度をしながら雄一の母がいった。その手元をみて、今夜もまたジャガイモの天ぷららしいぞと思い、雄一はうんざりした。母の郷里から先日大量に送られてきて以来、三日に一度はジャガイモが食卓に出る。
二階の部屋へ行くと、菊池|文彦《ふみひこ》が四畳半の真ん中に胡座《あぐら》をかいて映画のパンフレットを見ていた。雄一が四日前に見た『ロッキー』のものだ。
「この映画、面白かったか?」雄一を見上げて菊池は訊いた。パンフレットは、シルベスタ・スタローンのアップが写っている頁が開かれていた。
「面白かったで。結構感動した」
「ふうん。みんなそういうてるなあ」
菊池は背中を丸め、なおもパンフレットを眺めていた。欲しいのかなと思ったが、雄一は黙ったまま着替えを始めた。このパンフレットをやるわけにはいかなかった。欲しければ自分だって映画館に行けばいいのだ。
「けど映画代、高いもんなあ」菊池がぽつりといった。
「そうやな」
雄一はスポーツバッグから出したカメラを机の上に置くと、背もたれを抱えるように椅子に跨《またが》った。菊池は仲のいい友人の一人だが、彼と金の話をするのは苦手だった。菊池の家は母子家庭で、生活が苦しいことはその身なりからもわかる。自分のところはとりあえず父親がまともに働いているだけでも幸せだと思っていた。父は鉄道会社の社員だ。
「また撮影か?」カメラを見て菊池が訊いた。にやにやしているのは、雄一が何を被写体にしているのかを知っているからだろう。
「まあな」雄一もにやにや笑いを返した。
「ええ写真、撮れたか」
「どうかな。けどわりと自信はある」
「それでまた一儲《ひともう》けか」
「そんなに高く売れるもんか。材料費がかかるし、ちょっとでもプラスが出ればええほうや」
「けどそういう特技があるのはええで。うらやましいわ」
「特技ていうほどでもない。このカメラの使い方もようわかれへんし、適当に撮って、適当に現像してるだけや。何しろ全部貰|《もら》い物やから」
現在雄一が自分の部屋として使っているこの部屋には、かつて父の弟が住んでいた。写真を趣味にしている人物で、カメラをたくさん持っていた。白黒写真の現像や焼き付けができる程度の簡単な道具も備えていた。その叔父が結婚して家を出た時、それらの一部を雄一に残していってくれたのだ。
「ええよなあ、そういうものをただでくれる人がいて」
菊池がまた妬《ねた》みめいたことを口にしそうな気がしたので、雄一は少し憂鬱になった。こういう話の流れになるのを避けているのだ。ところが菊池のほうは、わざとかそれとも無意識か、時々自分から貧富に関する話に持っていく。
しかし今日は違った。菊池は続けていった。「この前、叔父さんが撮った写真を見せてくれたやろ」
「町の写真か」
「うん。あれ、まだあるか」
「あるよ」
雄一は椅子を半回転させて机に向かうと、本棚の端にさしてあるスクラップブックに手を伸ばした。それは叔父が置いていったものの一つだった。中には写真が数点挟まれていた。いずれも白黒で、どうやらこの家の近所を撮影したもののようだった。先週菊池が遊びに来た時、写真の話のついでにそれを彼に見せたのだった。
スクラップブックを渡すと、菊池はずいぶん熱心に写真を一枚一枚眺め始めた。
「何や、いったい」雄一は、菊池の少し太めの身体を見下ろして訊いた。
「いや、ちょっとな」はっきりしたことをいうかわりに、菊池はスクラップブックから写真を一枚抜き取った。「この写真、貸してくれへんか」
「どの写真?」
雄一は菊池の手元を覗き込んだ。やはり町中を写したものだった。どこかで見たことがある細い通りを、二人の男女が歩いている。電柱のポスターは剥《は》がれそうになって風に揺れ、手前のポリバケツの上には猫がうずくまっていた。
「こんな写真、どうするんや」と雄一は尋ねた。
「うん、ちょっと、見せたい奴《やつ》がおるんや」
「見せたい奴? 誰や」
「それは、その時に教える」
「ふうん」
「貸してくれよ。かめへんやろ」
「まあええけど、変な話やな」雄一は菊池の顔を見ながら写真を渡した。菊池はそれを受け取ると、大事そうに自分の鞄に入れた。
この夜夕飯を食べ終えると、雄一は自室にこもって昼間撮影した写真の現像を始めた。フィルムの現像に関しては、暗室がわりの押入の中でフィルムを専用容器に収めてしまえば、後は明るいところで作業ができる。定着を終えたところで、彼はフィルムを容器から取り出して、一階の洗面所で水洗いを始めた。本来なら水を出しっぱなしにして一晩放置しておきたいところだったが、そんなことが母に見つかったら文句をいわれるのはわかりきっていた。
水洗いの途中で、雄一はフィルムを蛍光灯で透かしてみた。唐沢雪穂の髪の艶《つや》が、見事に陰画となっているのを確認して彼は満足した。大丈夫、これなら客も満足するに違いないと自信を深めた。
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眠る前に日記を書くことは、川島|江利子《えりこ》の長く続いている習慣の一つだった。初めて書いたのは小学校の五年生に上がった時だから、足掛け五年ということになる。彼女はこのほかにもいくつか習慣を持っていた。登校前に庭の植木に水をやること、日曜日の朝には部屋の掃除をすることなどだ。
ドラマチックなことを書く必要はなく、素気ない文章でも構わないというのが、江利子が五年間で学んだ日記を続けるコツだ。本日は特に変わったことはなし、でもいい。
しかし今日は書くべきことがたくさんあった。放課後、唐沢雪穂の家へ遊びに行ったからだ。
雪穂とは中学三年になって初めて同じクラスになった。だが彼女のことを江利子は、一年生の時から知っていた。
理知的な顔立ち、上品だが隙のない身のこなし。江利子は彼女に、自分や自分の周りにいる友人たちにはないものを感じていた。それは憧《あこが》れといってもよかった。何とか彼女と友達になれないだろうかと、ずっと思い続けてきたのだ。
だから三年で同じクラスになった時には自らを祝福した。そして始業式の直後、思い切って話しかけてみたのだ。
「友達になってくれない?」
これに対して唐沢雪穂は怪訝そうな素振りは全く見せず、江利子が期待した以上の笑顔を浮かべた。
「あたしでよければ」
いきなり話しかけてきた相手に対して、精一杯の好意を示そうとしてくれているのがよくわかった。無視されるのではと不安だった江利子は、その微笑みに感激さえ覚えた。
「あたしは川島江利子」
「唐沢雪穂よ」ゆっくりと彼女は名乗った後、一つ小さく頷いた。自分のいったことに対して、確認するように頷くのが彼女の癖だということを、江利子はその後少ししてから知った。
唐沢雪穂は江利子が遠くから眺めて想像していた以上に素晴らしい『女性』だった。感性が豊かで、一緒にいるだけで多くのことを再発見できた。また雪穂は会話を楽しくすることでも天性の才能を持っていた。彼女と話していると、自分までもが話し上手になったような気がするのだ。しばしば江利子は、彼女が自分と同い年であることを忘れた。だから彼女のことを日記で何度も、『女性』と表現するのだった。
そんな素晴らしい友人を持っていること自体が江利子には誇らしかったのだが、当然彼女と友達になりたがる生徒は少なくなく、彼女の周りにはいつも同級生たちが群がっていた。そんな時江利子は軽い嫉妬《しっと》を感じた。大切なものを奪われたような気になるのだ。
だが何より不快なのは、近くの中学校の男子生徒が雪穂の存在に気づいて、まるでアイドルタレントでも追うように彼女の周りに出没するようになったことだった。先日も体育の授業中、金網によじのぼってグラウンドを覗いている男子生徒がいた。彼等は雪穂の姿を見つけると、ほぼ例外なく下品な声をあげるのだった。
今日も下校時に、トラックの荷台に隠れて雪穂の写真を撮っている者がいた。ちらりと見ただけだが、ニキビ面の、不健康な顔つきをした男子生徒だった。いかにも低俗な妄想で頭をいっぱいにしていそうなタイプに見えた。その妄想の材料に雪穂の写真が使われるかもしれないと思うと江利子などは吐き気を催しそうになるのだが、当の雪穂は全く意に介さない様子だ。
「ほうっておけばいいよ。どうせそのうちにあきるだろうから」
そしてまるでその男子に見せつけるように髪をかきあげるしぐさをする。向こうの男子があわててカメラを構えるのを、江利子は見逃さなかった。
「でも不愉快やないの? 勝手に写真を撮られるのなんて」
「不愉快だけど、むきになって文句をいったりして、結果的に連中と顔見知りみたいになってしまうほうが余程いやだもの」
「それはそうだけど」
「だから無視すればいいの」
雪穂は真っ直ぐ前を向いたまま、そのトラックの前を通過した。江利子はその男子の撮影を少しでも邪魔しようと、彼女の脇から離れなかった。
江利子が雪穂の家へ遊びに行くことが決まったのは、この後だった。先日借りた本を持ってくるのを忘れたから、家まで来ないかと誘われたのだ。本のことなどどうでもよかったが、雪穂の部屋を訪れるというチャンスを逃す気はなく、迷わずにオーケーした。
バスに乗り、五つ目の停留所で降りてから一、二分歩いた。静かな住宅地の中に唐沢雪穂の家はあった。決して大きな屋敷ではないが、こぢんまりとした前栽《せんざい》のある上品な日本家屋だった。
その家で雪穂は母親と二人で住んでいた。居間に行くと、その母親が出てきたのだが、彼女を見て江利子は少々戸惑った。この家にふさわしく、品のいい顔立ちと身のこなしをした人だったのだが、祖母といわれても不思議ではないほどの年齢に見えたからだ。地味な色調の和服を着ているせいとも思えなかった。
江利子は最近耳にした、ある不愉快な噂話を思い出していた。それは雪穂の生い立ちに関するものだった。
「ゆっくりしていってくださいね」穏やかな口調でそういうと、雪穂の母親は居間を出ていった。どこか病弱な印象を江利子は受けた。
「優しそうなおかあさんやね」二人きりになってから江利子はいってみた。
「うん、とても優しいよ」
「門のところに裏千家の札が出てたよね。お茶を教えておられるの?」
「うん。茶道のほかに華道も。あと、お琴も教えられるんじゃないかな」
すごーい、と江利子は身体を後ろにのけぞらせた。「スーパーウーマンやね。じゃあ、雪穂もそういうことできるの?」
「一応、お茶とお華は教えてもらってる」
「わあいいな。ただで花嫁修業ができるんだ」
「でも結構厳しいよ」そういって雪穂は、母親の淹《い》れてくれた紅茶にミルクを入れて飲んだ。
江利子も彼女に倣った。いい香りのする紅茶だった。きっと単なるティーバッグじゃないんだろうなと想像した。
「ねえ、江利子」雪穂が大きな目で、じっと見つめてきた。「あの話、聞いた?」
「あの話って?」
「あたしに関すること。小学生時代のこと」
突然切り込まれ、江利子はうろたえた。「あ、ええと」
雪穂はかすかに微笑んだ。「やっぱり聞いたんだね」
「ううん、そうじゃなくて、ちょっと耳にしただけというか……」
「隠さないで。大丈夫だから」
そういわれ、江利子は目を伏せてしまった。雪穂に見つめられると、嘘をつけない。
「結構、噂になってるのかな」彼女は訊いてきた。
「そんなことはないと思う。まだ殆ど誰も知らないと思うよ。あたしに教えてくれた子も、そういってた」
「だけど、そういう会話が成り立つこと自体、ある程度広まってるってことだよね」
雪穂に指摘され、江利子は返す言葉がなくなる。
「ねえ」雪穂が江利子の膝に手を置いた。「江利子が聞いたのは、どういう話?」
「どういうって、そんなに大した話やないよ。つまんない話だった」
「あたしが昔すごい貧乏で、大江の汚いアパートに住んでたとか?」
江利子は黙り込んだ。
雪穂はさらに尋ねてくる。「本当の母親が変な死に方をしたとか?」
江利子はたまらず顔を上げた。「信用なんか全然してないよ」
その懸命な口調がおかしかったのか、雪穂は頬を緩めた。
「そんなに必死に否定しなくてもいいよ。それに、その噂、全くの嘘でもないもの」
えっ、と声を出し、江利子は親友の顔を見返した。「そうなの?」
「あたし、養女なの。中学に上がる前に、この家に来たのよ。さっきのおかあさんは、あたしのじつの母親ではないの」気負った様子もなく、自然な口調で、何でもないことのようにいった。
「あ、そうなんだ」
「大江に住んでたのは本当。貧乏だったのも本当。お父さんがずっと前に死んじゃってたからね。それからもう一つ、母親が変な死に方をしたというのも本当。あたしが六年生の時だった」
「変な死に方って……」
「ガス中毒」雪穂はいった。「事故死よ。でも、自殺じゃないかと疑われたこともあった。それくらい貧乏をしてたからね」
「そうだったの」
どのように相槌《あいづち》を打っていいかわからず江利子は戸惑ったが、雪穂のほうは特に重要なことを告白したつもりもなさそうだった。もちろんそれは友人にいらぬ気遣いをさせてはならないという、彼女らしい配慮に違いなかった。
「今のおかあさんはおとうさんのほうの親戚で、あたし、昔から時々一人でここへ遊びに来ていたから、あたしのことをすごくかわいがってくれてたの。それであたしが孤児になった時に、かわいそうだといってすぐに引き取ってくれたというわけ。自分も独り暮らしで寂しかったみたい」
「そういうことだったんだ。大変だったんだね」
「まあそうね。でも幸運だったと思ってるの。本当だったら施設に入らなきゃいけなかったんだもの」
「そうかもしれないけど……」
同情めいたことをいおうとし、江利子は言葉をのみ込んだ。ここで何をいっても、雪穂に軽蔑されるだけのような気がした。彼女の苦しみがどれほどのものであったかを、苦労知らずで育ってきた自分に理解できるはずがないと思った。
それにしても、そんな苦境を乗り越えてきたというのに、この雪穂の優雅さはどうだろうと、江利子としては改めて感嘆するしかなかった。それともそれらの体験が、彼女を内面から輝かせているのだろうか。
「ほかにはどういうことが噂になってるのかな」雪穂が訊いてきた。
「知らない。そんなに詳しくは聞いてないもの」
「きっと、あることないこと噂されてるんだろうな」
「気にすることないよ。そんな噂を流してる連中は、雪穂に嫉妬してるだけなんやから」
「別に気にしてるわけじゃないの。ただ、噂の発信源は誰なのかなと思って」
「さあね。どうせどっかの馬鹿女じゃないの」江利子はわざと乱暴な口調を使った。この話題は早く終わりにしたかった。
江利子が聞いた噂話には、もう一つエピソードが含まれていた。雪穂の本当の母親はかつて誰かの妾《めかけ》をしていたが、相手の男が殺された時には警察から疑われた、というものだった。自殺したのは捕まりそうになったからだという、まことしやかな尾鰭《おひれ》もついていた。
だがもちろん、こんな話を雪穂に聞かせるわけにはいかなかった。彼女の人気に嫉妬した者によるでまかせに決まっていた。
この後、江利子は雪穂が最近凝っているというパッチワークの作品を見せてもらった。座布団カバーやポシェットなどだ。色とりどりの布の組み合わせが、雪穂のセンスのよさを物語っていた。一つだけ、まだ未完成らしいが、少し色合いの違うものがあった。小物入れにでも使うつもりらしいその袋は、黒や紺といった寒色の布だけで作られていた。こういうのもいいね、と江利子は本心から褒《ほ》めた。
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国語担当の女性教師は、教科書と黒板以外には目を向けまいとしていた。機械的に授業を進めながら、この地獄の四十五分間が早く過ぎ去ってくれることだけを祈っているように見えた。生徒に本を朗読させることも、名指しして質問することもしなかった。
大江中学校三年八組の教室内は、前後二つの集団に分かれていた。多少なりとも授業を聞く気のある者は、教室の前半分に座っている。全くその気のない者たちは、後ろ半分のスペースを使って、好き勝手なことをしていた。トランプや花札で遊んでいる者、大声で雑談している者、昼寝をしている者などいろいろだ。
以前はそうした授業妨害者たちに向かって注意を続けていた教師たちも、一か月、二か月と経つうちに何もいわなくなってしまった。もちろんその背景には、教師たち自身が何らかの被害に遭っているという事情があった。ある英語教脚は授業中にマンガを読んでいた生徒の手からそのマンガ本を取り上げ、それで頭を殴って叱りつけたところ、その数日後に何者かに襲われ、肋骨を二本折られた。報復に違いなかったが、叱られた生徒にはアリバイがあった。また数学担当の若い女性教師は、黒板のチョーク置きにずらりと並べてあるものを見て悲鳴をあげた。そこに並んでいたのは精液の入ったコンドームだった。彼女はその少し前に、不良生徒たちを非難する言葉を吐いていたのだ。妊娠中の彼女は、ショックのあまり流産しそうになった。その直後から彼女は休職している。たぶん今の三年生が卒業するまでは、現場に戻ってこないと思われた。
秋吉雄一は、教室のほぼ真ん中の席に座っていた。つまりその気になれば授業を聞くこともできるし、簡単に妨害組にも加われるという位置だ。その時の気分によって立場を変えられるコウモリのようなポジションを、彼は気に入っていた。
牟田《むた》俊之《としゆき》が入ってきたのは、国語の授業が半分近く終わった頃だった。がらりと戸を開けると、誰の目を気にした様子もなく、悠然とした態度で、いつもの自分の席まで歩いていった。彼の席は窓際の一番後ろだ。国語教師は何かいいたそうな顔をして彼の動きを目で追っていたが、彼が椅子に座るのを見て、結局そのまま授業の続きを始めた。
牟田は机の上に両足をのせると、鞄から雑誌を取り出した。俗にエロ雑誌と呼ばれるものだった。おい牟田、こんなところでせんずりかくなよ、と仲間の一人がいった。牟田は岩のような顔に、不気味な笑いを浮かべた。
国語の授業が終わると、雄一は鞄の中から大きい封筒を取り出し、牟田に近づいていった。牟田は両手をポケットに突っ込み、机の上で胡座をかいていた。背中を雄一のほうに向けているので表情は見えない。だが一緒にいる仲間たちの笑い顔から推測すると、機嫌は悪くなさそうだった。彼等は最近ブームになっているテレビゲームのことを話していた。ブロック崩しという言葉が耳に入った。たぶん今日も途中で学校を抜け出して、ゲームセンターに直行するつもりなのだろう。
牟田の向かいにいる男子が雄一を見た。その目の動きにつられたように牟田も振り返った。眉を剃った跡が青い。ごつごつした顔面の窪《くぼ》みの奥に、小さいが鋭い目があった。
「これ」といって雄一は封筒を差し出した。
「なんや」と牟田は訊いた。低い声だった。息に煙草の臭いが混じっている。
「昨日、清華に行って撮ってきた」
これで封筒の中身に察しがついたらしく、牟田の顔から警戒の色が消えた。封筒を雄一の手から奪い取り、中を覗き込んだ。
封筒の中身は唐沢雪穂の写真だった。今朝、まだ暗いうちに早起きして、焼き付けをしてきたのだ。雄一としては自信作だった。白黒写真ではあるが、肌や髪の色を感じさせる出来になったと思っている。
舌なめずりしそうな顔つきで封筒の中を見ていた牟田は、雄一を見ると片方の頬だけに不気味な笑いを浮かべた。「なかなかええやんけ」
「そうやろ? 結構苦労したで」雄一はいった。顧客が満足してくれた様子なので、内心ほっとしていた。
「けど、数が少ないやないか。たったの三枚しかあれへんのか」
「とりあえず気に入ってもらえそうなのを持ってきただけや」
「あと何枚ある?」
「よさそうなのは五、六枚」
「よし、明日それを全部持ってこい」そういうと牟田は封筒を自分の脇に置いた。雄一に返す気はないようだった。
「一枚三百円やから、三枚で九百円」雄一は封筒を指差していった。
牟田は眉間に皺を寄せ、斜め下から舐《な》めるように雄一の顔を睨んだ。そんなふうにすると、右目の下にある傷痕が凄《すご》みを出した。
「金は写真が全部揃ってから払《はろ》たる。それで文句ないやろ」
文句があるなら拳《こぶし》で聞いてやろうかという口振りだった。無論雄一に文句をいう気はなかった。ええよ、といってその場を立ち去ることにした。
雄一が歩きかけると、「おい、ちょっと待てや」といって牟田が呼び止めた。
「秋吉、おまえフジムラミヤコって知ってるか」
「フジムラ?」雄一はかぶりを振った。「いや、知らんけど」
「やっぱり清華の三年や。唐沢とは別のクラスらしいけどな」
「知らん」雄一はもう一度首を振った。
「そいつの写真も撮ってきてくれ。同じ値段で買《こ》うたる」
「けど、顔も知らんのに」
「バイオリンや」
「バイオリン?」
「その女は、放課後いつも音楽室でバイオリンを弾いてる。見たらわかる」
「音楽室の中なんか、見えるのかな」
「そんなもん、自分の目でたしかめたらええやんけ」そういうと牟田は、もう用はなくなったといわんばかりに仲間たちのほうに顔を戻した。
ここで余計なことをいうと牟田がヒステリーを起こすことを知っている雄一は、黙ってそこを離れた。
牟田が、上品で金持ちの娘が通うことで有名な清華女子学園中等部の女子生徒に目をつけ始めたのは、一学期の半ばだった。どうやら彼等不良グループの間で、清華の女子を追い回すことが流行《はや》っているらしい。もっとも、実際にお嬢様をものにした者がいるのかどうかはさだかではない。
目当ての女子生徒の写真を撮ることについては、雄一のほうから牟田に話を持ちかけた。彼等が彼女たちの写真を欲しがっているという話を耳にしたからだ。趣味の写真を続けるには小遣いが足りないという、雄一なりの事情もあった。
牟田が最初に依頼してきたのが唐沢雪穂の写真だった。雄一の感触では、牟田は本気で雪穂のことが気に入っているようだった。その証拠に、少々出来のよくない写真でも、彼は決していらないとはいわなかった。
それだけにフジムラミヤコという別の名前が出てきたのは意外だった。唐沢雪穂はとてもものにできそうにないので、ほかの女にも目をつけ始めたのかもしれないと思った。いずれにしても雄一にとっては関係のないことだった。
昼休みに雄一が弁当を食べ終え、空の弁当箱を鞄にしまっていると、菊池がそばにやってきた。手に大きな封筒を持っている。
「これからちょっと屋上まで一緒に行ってくれへんか」
「屋上? 何のために?」
「例の話や」菊池は封筒の口を開き、雄一に中を見せた。そこには、昨日雄一が貸した写真が入っていた。
「ふうん」興味が湧いた。「そら、付き合《お》うてもかめへんけど」
「よし、行こう」
菊池に促され、雄一は腰を上げた。
屋上には誰もいなかった。少し前までは不良生徒たちの溜まり場だった。しかし大量の吸殻が見つかったことがきっかけで、生徒指導の教師が頻繁に見回るようになり、誰も寄りつかなくなったのだ。
数分して、階段室のドアが開いた。そこから現れたのは、雄一たちと同じクラスの男子生徒だった。名前は知っている。だが雄一は殆ど話をしたことはなかった。
桐原、といった。下の名前までは覚えていない。
雄一に限らず、誰もあまり彼とは親しくしていないようだった。何をする時でも特に目立つことはなく、授業中に発言することもめったにない。昼休みや休憩時間は、いつも一人で本を読んでいる。陰気な奴、というのが雄一の印象だ。
桐原は雄一と菊池の前で立ち止まると、二人の顔を交互に見つめた。その目にはこれまで見せたことのない鋭い光が宿っているようで、雄一は一瞬どきりとした。
「俺に何の用や」ぶっきらぼうな口調で桐原は訊いた。菊池が彼を呼び出したらしい。
「見せたいものがあってな」その菊池がいった。
「見せたいもの?」
「これや」菊池は例の封筒から写真を取り出した。
桐原は警戒した様子で近づき、写真を受け取った。白黒の画面を一瞥《いちべつ》した彼の目が大きく見開かれた。「なんや、これ」
「何かの参考になるんやないかと思てね」菊池はいった。「四年前の事件について」
雄一は菊池の横顔を見た。四年前の事件とは何だ。
「何がいいたい」桐原が菊池を睨んだ。
「わかれへんか。その写真に写ってるのは、おまえのおふくろさんやろ」
えっ、という声を漏らしたのは雄一だった。そんな彼を桐原はじろりと見てから、再び鋭い目を菊池に向けた。
「違う。うちの母親やない」
「なんでや。よう見てみろよ。おふくろさんやないか。それに一緒に歩いてるのは、前におまえのところにおった店員やろ」菊池はややむきになっているようだ。
桐原はもう一度写真を見てから、ゆっくりとかぶりを振った。
「何のことか、さっぱりわからんな。とにかくここに写ってるのはおふくろやない。つまらんことをいうのはやめてくれ」そして写真を菊池に返すと、くるりと向きを変えてそのまま歩きだした。
「これ、布施駅の近くやろ。おまえの家からも近いやないか」菊池は早口で桐原の背中にいった。「それにこの写真は四年前のもんや。電柱に貼ってある映画のポスターでわかった。これ、『ジョニーは戦場へ行った』や」
桐原の足が止まった。しかし彼は菊池とゆっくり話をする気はないようだった。
「うるさいな」彼は顔を少し後ろに捻っていった。「おまえには関係のないことやろ」
「親切でいうてやってるんやないか」
菊池はいい返したが、桐原は再び二人を睨みつけただけで、そのまま階段室に向かって歩きだした。
「せっかく手がかりになると思ったのに」桐原の姿が消えてから菊池はいった。
「何の手がかりや」雄一は訊いた。「四年前の事件て何やねん」
すると菊池は雄一を見て不思議そうな顔をし、その後で頷いた。
「そうか、秋吉はあいつとは小学校が違うから、あの事件のことは知らんのやな」
「だからどういう事件や」
雄一がいらいらして訊くと、菊池は周りを見回してからいった。
「秋吉、真澄公園って知ってるか。布施駅の近くにあるんやけど」
「マスミ公園? ああ……」雄一は頷いた。「昔、一回だけ行ったことがある」
「あの公園の横にビルがあるのを覚えてるか。ビルというても、建築途中でほったらかしになってるようなやつやけどな」
「そこまでは覚えてへんなあ。そのビルがどうしたんや」
「四年前、そのビルの中で桐原の親父さんが殺された」
「えっ……」
「金をとられてたから強盗の仕業やろうといわれてた。その頃はすごかったで。毎日毎日、町中を警察官がうろうろしとった」
「犯人はつかまったんか」
「一応、犯人らしき男は見つかったけど、はっきりしたことはわからんままや。そいつ、死んでしもた」
「死んだ? 殺されたんか」
いやいや、と菊池は首を振った。
「交通事故や。で、警察がその男の持ち物を調べたら、桐原の親父さんが持ってたのと同じライターが見つかってんて」
「ふうん、ライターを。それやったら決定的やないか」
「そうとはいいきれんで。同じライターだというだけのことで、桐原の親父さんのものと決まったわけやない。で、問題はここからや」菊池は階段室のほうをちらりと見て、声を低くした。「しばらくしてから変な噂が流れた」
「変な噂?」
「犯人は奥さんと違うか、という噂やった」
「奥さん?」
「桐原のおふくろさんや。店の者とできてて、それで親父さんが邪魔になったんやないかという話やった」
菊池によると、桐原の家は質屋をしているらしい。店の者というのは、その質屋で働いていた男のことを指すようだ。
だが雄一としては、友人の口からこういう話を聞かされても、テレビドラマの筋を聞いているようで実感が湧かなかった。「店の者とできてて」という台詞も、ぴんとこない。「それで、どうなった?」雄一は先を促した。
「結構長い間、そういう噂は流れとった。けど、結局は大して根拠のないことやし、そのうちにうやむやになってしもた。俺も忘れかけとった。ところがこの写真や」菊池は先程の写真を見せた。「これ見てみろ。後ろに写ってるのは連れ込みホテルやで。この二人、きっとここから出てきよったんやぞ」
「この写真があったら、何か違ってくるのか」
「違ってくるに決まってるやないか。桐原のおふくろさんが店員と浮気してたことの証拠や。つまり親父さんを殺す動機があるということになる。そう思たから、この写真を桐原に見せたったのに」
菊池は図書館の本をよく読んでいる。動機などという言葉がすんなり出てくるのも、その賜物《たまもの》なのだろう。
「そうはいうても、桐原にしてみたら、自分の母親のことを疑うわけにはいかんやろ」雄一はいった。
「その気持ちはわかるけど、どんなにいやなことでも、はっきりさせなあかん場合というのがあるんと違うか」菊池はやけに熱っぽい口調でいった後、小さく吐息をついた。
「まあええ。ここに写ってるのが桐原のおふくろさんやということを何とか証明してやる。そうしたらあいつも、知らん顔はでけへんはずや。この写真を警察に持っていったら、絶対に捜査のやり直しが始まるで。俺、あの事件のことを捜査してる刑事と知り合いなんや。あのおっさんに、この写真を見せたろ」
「なんでそんなにその事件にこだわる?」不思議になって雄一は訊いた。
菊池は写真をしまいながら、上目遣いに見返してきた。
「死体を見つけたのは、俺の弟や」
「弟? 本当か」
ああ、と菊池は頷いた。
「弟の話を聞いて、俺もそこへ見に行った。そうしたら本当に死体があったから、おふくろに知らせて、警察に連絡してもろたんや」
「そういう関係があったんか」
「発見者ということで、俺らは何遍も警察から質問された。しかしな、警察の連中は単に発見した時のことだけを訊きたかったわけやない」
「どういう意味や」
「警察はこういうことも考えとった。被害者は金を盗まれている。犯人が奪ったと思われる。けど、第三者が盗んだ可能性もある」
「第三者て……」
「死体発見者が、警察に知らせる前に金目のものをネコババするということは、珍しい話ではないそうや」菊池は口元に薄笑いを浮かべていった。「いや、それだけやない。警察の奴等は、もう一歩進んだことも考えとった。自分で殺しておいて、自分の息子に死体を発見させる――そういう手もあるやないかと」