饭饭TXT > 海外名作 > 《白夜行(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 东野圭吾《白夜行》(日文版).txt

第 二 章.2

作者:日-东野圭吾 当前章节:15384 字 更新时间:2026-6-15 18:37

「まさか……」

「嘘みたいやろ。ところが本当の話なんや。家が貧乏というだけで、俺らは最初から疑いの目で見られとった。俺のおふくろが桐原のところの客やったということにも、警察はこだわっとったみたいや」

「けど、疑いは晴れたんやろ」

 菊池はふんと鼻を鳴らした。「そういう問題やない」

 こういう話を聞かされた後では、何をどういっていいのかわからず、雄一は両手を握りしめたまま、ただ立ち尽くしていた。

 その時だった。ドアの開く音がした。階段室から中年の男性教師が出てくるところだった。教師は眼鏡の奥の目をつり上げていた。

「おまえら、ここで何をやっとるんや」

 別に、と菊池がぶっきらぼうにいった。

「おまえ、それ何や。何を持ってる」教師は菊池の封筒に目をつけた。「ちょっと見せてみい」

 エロ写真か何かと疑ったようだ。菊池は面倒臭そうに封筒を教師に渡した。教師は中身を見て、眉のあたりの力をふっと抜いた。幾分拍子抜け、そして幾分期待外れ、というふうに雄一の目には映った。

「何や、この写真」怪訝そうに教師は菊池に訊いた。

「昔の町の写真です。秋吉から借りたんです」

 教師は雄一のほうを向いた。「ほんまか」

「本当です」と雄一は答えた。

 教師はしばらく写真と雄一の顔を見比べた後、写真を封筒に戻した。

「勉強に関係のないものを学校に持ってくるな」

「はい、すみません」雄一は謝った。

 男性教師は周囲の足元を見回した。おそらく吸殻が落ちていないかどうかを調べているのだろう。幸い、それは見つからなかった。教師は無言で、封筒を菊池に返した。

 昼休み終了のチャイムが鳴ったのは、その直後だった。

 この日の放課後、雄一はまたしても清華女子学園中等部に行ってみた。しかし今日のお目当ては唐沢雪穂ではない。

 しばらく塀《へい》に沿って歩いた。

 その足が止まったのは、彼の耳が目的の音を捉えたからだった。目的の音、すなわちバイオリンを弾く音だ。

 彼は周囲を見回し、誰も見ていないことを確認すると、迷わず金網によじ上った。すぐ目の前に灰色の校舎が建っている。一階の窓が雄一の正面にあった。窓は閉まっていたが、カーテンは開放状態だ。だから中の様子はよく見える。

 女子生徒が一人、雄一のほうに背中を向けて座っていた。彼女の前にあるのは黒いピアノだ。鍵盤に両手を置いている。

 やった、と雄一は心の中で叫んだ。ここが音楽室だ。

 雄一は身体の角度を変えたり、首を伸ばしたりした。ピアノの向こうに、もう一人立っていた。セーラー服姿で、バイオリンを弾いている。

 あれがフジムラミヤコか。

 唐沢雪穂よりは小柄に見える。髪は短めか。顔をよく見たかったが、教室の中はひどく薄暗い。窓ガラスの反射も邪魔だった。

 彼がさらに首を伸ばした時だった。バイオリンの音がぴたりとやんだ。それだけでなく、彼女が窓のほうへ近づいてくるのが見えた。

 雄一のすぐ前の窓ガラスが開けられた。勝ち気そうな顔をした女子生徒が、彼のことを真っ直ぐに睨みつけてきた。突然のことで、彼は金網から降りることもできなかった。

「ガイチュウッ」

 フジムラミヤコと思われる女子生徒が叫んだ。その声に庄倒されたように、雄一は手を離してしまった。何とか足から落ちたので、尻餅《しりもち》をついたが怪我はしないで済んだ。

 中で誰かが叫んでいる。やばい、逃げろ――雄一は駆けだした。

「ガイチュウ」とは「害虫」のことかと気づいたのは、逃げ延びて、ほっとひと息ついた時だった。

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 川島江利子は火曜と金曜の夜、唐沢雪穂と共に英会話塾に通っていた。もちろんそれは雪穂に影響されてのことだ。

 塾は七時から八時半までだった。学校から歩いて十分ほどのところにあるが、江利子は放課後いったん帰宅して、夕食をすませてから改めて出かけるのが習慣になっていた。その間雪穂は、演劇部の練習に参加している。いつも雪穂と一緒にいたい江利子だが、今さら演劇部に入るわけにはいかなかった。

 火曜日の夜、塾が終わった後、いつものように二人は並んで歩いていた。途中学校のそばまで来た時、家に電話するといって雪穂が公衆電話ボックスに入った。江利子は腕時計を見た。午後九時近くになっていた。塾の教室で、いつまでもおしゃべりをしていたからだ。

「お待たせ」雪穂が電話を終えて出てきた。「早く帰ってきなさいっていわれちゃった」

「じゃあ急がなきゃ」

「うん。近道を行かない?」

「いいよ」

 いつもならバス通り沿いを歩くところだが、二人は裏道に入った。そこを通ると、三角形の長辺を行くことになり、かなり時間を稼げるのだ。ただしいつもはあまり通らない。街灯がなくて暗いうえに、倉庫や駐車場ばかりが並んでいて、民家が少ないからだった。材木がたくさん積まれている、製材所の倉庫らしき建物の前に来た時だった。

「あれっ」といって雪穂が立ち止まった。彼女の目は倉庫のほうに向けられていた。

「どうしたの」

「あそこに落ちているの、うちの制服じゃない?」雪穂が一点を指差した。

 江利子がその指の先を目で辿《たど》っていくと、壁に立てかけられた角材のすぐ横に、白い布のようなものが落ちているのが見えた。

「えっ、そうかなあ」彼女は首を捻った。「ただの布じゃないの」

「違うよ。うちの制服だよ」雪穂は近づいていき、その白い布のようなものを拾い上げた。

「ほら、やっぱりそうだった」

 彼女のいうとおりだった。破れてはいるが、制服に間違いなかった。ライトブルーの襟は江利子たちにとって馴染み深いものだ。

「どうしてここにそんなものが落ちてるのかな」と江利子はいった。

「わからない……あっ」制服を調べていた雪穂が声をあげた。

「なに?」

「これ」雪穂は制服の胸のあたりを見せた。

 そこには名札が安全ピンで留められていた。名札には『藤村』と書かれていた。

 江利子はわけもわからず恐ろしくなり、背中に悪寒が走るのを感じた。一刻も早くこの場から逃げだしたくなった。

 だが雪穂は破れた制服を持ったまま、周囲をきょろきょろと見回した。さらにそばの倉庫の小さな扉が半開きになっているのを見つけると、大胆にも中を覗いた。

 早く帰ろうよ、と江利子がいいかけた時だった。きゃっ、と雪穂が叫び、口を手で押さえてたじろいだ。

「どうしたの?」江利子は訊いた。声が震えていた。

「誰か……倒れてる。死んでるかもしれない」と雪穂はいった。

 倒れていたのは清華女子学園中等部三年二組の藤村|都子《みやこ》だった。だが死んではいなかった。両手両足を縛られ、猿ぐつわをかまされていたうえに気を失っていたが、助けられて間もなく意識を取り戻した。

 発見したのは江利子たちだったが、助けたのは彼女たちではなかった。彼女たちはてっきり死体だと思い込み、警察に連絡した後は倉庫に近づかず、二人で手を握り合って震えていたのだ。

 藤村都子は上半身が裸で、下もスカート以外すべて脱がされていた。それらの衣類は、すぐそばに捨ててあった。また一緒に黒いビニール袋も見つかった。

 間もなくやってきた救急隊員によって都子は救急車に乗せられたが、とても口をきける状態ではなかった。江利子たちを見ても、何の反応も示さず、虚無の目をしていた。

 江利子は雪穂と共に、近くの警察署に連れていかれ、そこで簡単な事情聴取を受けた。パトカーに乗るのは初めてだったが、藤村都子の悲惨な姿を見た後だけに、そんなことを楽しめる気分ではなかった。

 彼女たちにあれこれと質問してきたのは、白髪頭を五分刈りにした中年男だった。寿司屋の板前という外観ではあるが、身体から発する雰囲気は全く違っていた。できるだけ優しく接するよう気を遣っているのだろうが、それでも目の鋭さには江利子を萎縮《いしゅく》させるものがあった。

 刑事の質問は、江利子たちが都子を発見するに至った経過と、事件について何か思い当たることはないかということに絞られていた。経過については、江利子は雪穂と時折顔を見合わせたりしながら、できるかぎり正確に話した。刑事も特に疑問を感じた点はないようだった。だが心当たりとなると、江利子たちに答えられることなど何もなかった。夜道は危ないので、クラブ活動などで遅くなった場合、何人かで、必ずバス通りを歩くよう学校から指導されているが、実際に何らかの事件が起きたという話は聞いたことがなかった。

「学校からの帰りなんかに、変な人を見たとか、誰かに待ち伏せされたことはない? あなたたちでなくても、お友達がそういう経験をしたとか」刑事の横にいた、婦人警官が尋ねてきた。

「あたしはそういう話、聞いたことありませんけど」と江利子は答えた。

「でも」隣で雪穂がいった。「学校の中を覗いていたり、あたしたちが下校するところを待っていて、写真を撮ったりする人はいます」彼女は江利子を見て、「ねえ」と同意を求めてきた。

 江利子は頷いた。連中のことを忘れていた。

「それはいつも同じ男?」と刑事が訊いた。

「覗いてる人は何人かいます。写真を撮ってる人は……わかりません」と江利子は答えた。「でも学校は同じだと思います」

「学校? 相手は学生なの?」婦人警官が目を丸くした。

「大江中学の人だと思います」雪穂がいった。その断定的な口調に、江利子も少し驚いて彼女を見た。

「大江? 間違いない?」婦人警官が念を押す。

「あたし、前に大江に住んでたことがあるからわかるんです。あの校章は大江中学だと思います」

 婦人警官は刑事と顔を見合わせた。

「ほかに何か覚えてることはあるか?」刑事が訊いてきた。

「この間、あたしのことを写真に撮った人の名字ならわかります。胸に名札をつけてましたから」

「何という名字やった?」刑事は目を剥いた。獲物に食いつく顔になっていた。

「たしか、アキヨシだったと思います。秋冬の秋に、大吉の吉です」

 横で聞いていて、江利子は意外な思いがした。この前の様子では、雪穂は連中のことなどまるで無視していた。しかしじつは相手の名前をチェックしていたのだ。江利子は相手の名札など記憶になかった。

「あきよし……か」

 刑事は婦人警官に何か耳打ちした。婦人警官は席を立った。

「最後にこれを見てもらいたいんやけどね」刑事はビニール袋を出してきて、江利子たちの前に置いた。「現場に落ちていたもんやけど、見覚えはないかな」

 ビニール袋の中に入っていたのは、キーホルダーの飾りのようだった。小さな達磨《だるま》に鎖がついているが、その鎖が途中で切れていた。

「知りません」と江利子は答えた。雪穂も同様の答えだった。

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「あれ、鎖が切れてるぞ」

 菊池の財布を見て雄一はいった。昼休みに、売店でパンを買おうとしている時だった。すぐ前に立っている菊池が財布を手にしているのだが、そこにいつも付いているキーホルダーの飾りが消えていた。小さな達磨だったと雄一は記憶していた。

「そうなんや。昨日の夕方気づいた」菊池は渋い顔をした。「あれ、結構気に入ってたんやけどな」

「どこかに落としたわけか」

「そうらしい。しかし、この鎖がそう簡単に切れるかなあ」

 安物なんだろ、といいかけて雄一は言葉をのみ込んだ。そういう軽口は、この男には厳禁だった。

「ところで」菊池が声を落としていった。「昨日、『ロッキー』を見てきた」

「へえ、そらよかったな」雄一は相手の顔を見返した。ほんの少し前は、入場料の高さを嘆いていたくせに、と思った。

「意外なところから映画館の特別優待券が手に入ってなあ」雄一の疑問を見抜いたように菊池はいった。「おふくろが客からもろたらしい」

「ふうん。それはついてるなあ」

 菊池の母親が近くの市場で働いているという話を雄一は聞いていた。

「ところが調べてみたら、有効期限が昨日までや。あわてて出かけたがな。何とか最終の上映に間に合《お》うたからよかったけど、あぶないところやった。まあ考えてみたら、期限が切れる寸前やなかったら、そんな優待券をくれるわけないな」

「かもしれんな。で、映画はどうやった?」

「めちゃくちゃよかった」

 この後しばらく映画の話で盛り上がった。

 昼休みが終わりそうになって教室に戻った時だった。同級生の一人が雄一に声をかけてきた。担任教師が呼んでいるという。担任はクマという渾名《あだな》の理科教師だ。本名は熊沢という。

 職員室に行くと、熊沢は深刻そうな顔をして雄一を待っていた。

「天王寺《てんのうじ》署から刑事さんが来てる。おまえに話を聞きたいそうや」

 雄一はびっくりした。「何のことですか」

「おまえ、清華の女子生徒の写真を撮ってるそうやな」熊沢は濁った眼球で、雄一の顔をじろりと見た。

「あっ、いえ……」突然の指摘に、雄一は口ごもってしまった。肯定したも同然だ。

「まったく」熊沢は舌打ちをして立ち上がった。「ばかたれがつまらんことしくさって。学校の恥じゃ」そして、ついてこいとばかりに顎をしゃくってから立ち上がった。

 応接室で待っていたのは三人の男だった。一人はいつか屋上で出会った生徒指導の教師だ。教師は眼鏡の奥から、じろりと雄一のことを睨みつけてきた。

 後の二人は知らない男たちだった。一方が若く、もう一方が中年だ。どちらも黒っぽい地味な背広を着ていた。この二人が刑事らしい。

 熊沢が雄一のことを彼等に紹介した。その間刑事たちは彼のことを、爪先から頭の先まで舐めるように観察していた。

「清華女子学園中等部の近くで生徒の写真を盗み撮りしとったというのは君か」中年の刑事が訊いてきた。穏やかな口調に聞こえるが、底にこもった凄みは教師たちにはないものだった。この声だけで雄一は気持ちが萎縮してしまった。

「いえ、あの……」舌がもつれそうになった。

「向こうの生徒が見てるんや、君のその名札をな」刑事は雄一の胸元を指差した。「わりと変わった名字やから、記憶に残ったらしい」

 まさか、と雄一は思った。

「どうなんや。正直にいうたほうがええで。写真を撮ってたんやろ?」刑事は重ねて訊いた。隣で若い刑事も雄一を睨みつけてくる。生徒指導の教師は苦りきっていた。

「はい……」雄一は仕方なく頷いた。熊沢が大きくため息をついた。

「おまえは、そんなことして、恥ずかしないんか」生徒指導の教師が吃りがちにいった。後退した額が赤くなっていた。

「まあまあ」中年刑事は教師をなだめるしぐさをしてから雄一のほうに目を戻した。「写真を撮る相手は決まってるのか」

「はあ」

「名前は知ってるな」

 はい、と雄一は答えた。声がかすれた。

「ここに名前を書いてくれへんか」刑事は白いメモ用紙とボールペンを出した。

 雄一はそこに、『唐沢雪穂』と書いた。刑事はそれを見て納得した顔をした。

「ほかには?」刑事は訊いた。「ほかにはおれへんのか。この子を撮ってただけか」

「そうです」

「この子が君のお気に入りというわけか」刑事は意味有りげに薄笑いをした。

「俺の……僕のお気に入りというより、友達のお気に入りなんです。それで僕が写真を撮ってやってただけです」

「友達の? なんでわざわざ君が撮ってやるんや」

 雄一は俯き、唇を噛《か》んだ。それを見て刑事は、何かに気づいたようだ。

「ははあ」刑事はおかしそうにいった。「その写真を売るわけか?」

 いい当てられ、雄一はぴくりと身体を動かしてしまった。

「おまえというやつは」熊沢が吐き捨てるようにいった。「あほか」

「写真を撮ってたのは君だけか。ほかに同じようなことをしていた者はおれへんのか」中年の刑事が訊いてきた。

「知りません。いないと思います」

「すると時々清華のグラウンドを覗いていたのも君か。よう覗いている者がいたと、あちらの生徒さんたちがいうてるんやけどな」

 雄一は顔を上げた。「それは僕と違います。本当です。僕は写真を撮ってただけなんです」

「すると覗いていたのは誰なんやろ? 君、心当たりはないか」

 それは牟田たちだろうと思ったが、雄一は黙っていた。しゃべったことが後で連中にばれたら、どんな目にあわされるかわかったものではなかった。

「心当たりはあるけど、いいたくないという感じやな。下手に隠したら君のためにようないんやけどなあ。まっ、ええやろ。そしたら昨日の放課後からの行動を、できるだけ詳しく話してもらおか」

「えっ」

「昨日の行動や。どうした? いわれへんのか」

「いったい何があったんですか」

「あきよしっ」熊沢が怒鳴った。「訊かれたことに答えろ」

「まあいいじゃないですか」ここでもまた中年刑事が、興奮気味の教師をなだめた。刑事はかすかに笑みを浮かべて雄一を見た。「清華の近くで、あそこの女子生徒が悪戯《いたずら》されそうになったんや」

 雄一は顔が強張るのを感じた。「僕、何もやってません」

「君が犯人やというてるわけやない。ただ先方の生徒さんの口から、君の名前が出てきたからねえ」刑事は相変わらず穏やかな口調でいった。だがその言葉の下には、現時点ではおまえのことを最も疑っているのだぞというニュアンスがこめられていた。

「僕、知りません。本当に……」雄一は首を振った。

「だったら、昨日どこで何をしていたか、話せるんやないのかな」

「昨日は……学校の帰りに、本屋とレコード屋に寄りました」

 思い出しながら雄一はいった。それが六時過ぎで、その後はずっと家にいたのだ。

「家では御家族と一緒?」

「はい。母と一緒でした。九時頃には父も帰ってきました」

「家族以外の人はいなかったわけや」

「はあ……」答えながら雄一は、家族の証言ではだめなのかなと思った。

「さて、どうするかな」中年の刑事は、隣にいる若い刑事に相談するように呟いた。「写真を撮ったのも自分のためやないと秋吉君はいうてるわけやけど、その言葉を信用する根拠もないしなあ」

「そうですね」若い刑事は同意した。口元に嫌な薄笑いが滲《にじ》んでいた。

「本当に友達のために撮ったんです」

「そしたら、その友達の名前を教えてもらおか」中年刑事がいった。

「えっ……」

 雄一は迷った。ここで黙り続けて、妙な疑いをかけられるのは嫌だった。

 その時、絶妙のタイミングで刑事はいった。「大丈夫や。君がしゃべったことは誰にもいわへんから」

 まるで雄一の心を見透かしたような一言だった。この台詞で、彼は決心した。

 雄一はおそるおそる牟田の名前を口に出した。それを聞いた途端、生徒指導の教師がうんざりした顔を見せたのは、何か問題が起きた時に、必ず出てくる名前だったからだろう。

「清華のグラウンドを覗いてた者の中にも、牟田君は入ってたのかな」中年刑事は訊いた。

「それは、わかりません」雄一は、ぱりぱりに乾いた唇を舐めた。

「牟田君に頼まれたのは唐沢さんの写真だけ? ほかの女の子の写真は頼まれへんかったのかな」

「ほかには、ええと」どうしようかなと思ったが、雄一は隠さずに話すことにした。ここまできたら、もう同じだ。「最近になって、もう一人頼まれました」

「どういう子かな」

「フジムラミヤコという子です。僕はよう知らんのですけど」

 この瞬間、部屋の空気がぴんと張りつめたように雄一には感じられた。刑事の顔つきにも変化があった。

「それで、その子の写真は撮ったんか」低い声で訊いてきた。

「まだです」

 そう、と刑事は頷いた。

「もう撮りに行くなよ」熊沢が横から怒りを含んだ声でいった。「そんなあほなことをするから、妙な疑いをかけられるんや」雄一は黙って頷いておいた。

「もう一つ確認しておきたいことがあるねん」刑事がビニール袋を出してきた。「この中のものを見たことはないか」

 袋の中には小さな達磨が入っていた。雄一は驚いた。それは菊池が持っていたキーホルダーの飾りに間違いなかった。

「知ってるようやな」刑事が彼の表情に気づいていった。

 またしても雄一は心が揺れた。これが菊池のものであるといえば、どういう事態を招くことになるのだろう。今度は菊池が疑われることになるのだろうか。しかしここで下手に嘘をつくと、益々まずいことになるかもしれない。それにこれが菊池のものだということは、自分がしゃべらなくてもいずれわかるかもしれないのだ――。

「どうや?」刑事が机をこつこつと指先で叩きながら促してきた。その音が針のように雄一の心をちくちくと刺した。

 雄一は唾を飲み込むと、その小さな達磨の持ち主の名前を小声でいった。

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 クラブ活動等の理由で学校に残る場合も、遅くとも五時までには下校すること――こういう通達が出されたのは、木曜日の朝のことだった。ホームルーム時にも、担任教師がそのことを念押しした。

 当然だろうな、というのが川島江利子の感想だ。一昨日の出来事を考えれば、五時どころか、放課後すぐに生徒全員を帰すべきだと思った。

 しかし他の生徒たちは、この突然の指示に不平を漏らすだけだった。というのも一昨日の事件のことは、見事なまでに隠蔽されていたからだ。あの夜、学校の近くの倉庫で何が起こったか、彼女たちは全く知らなかった。

 無論、いくつかの憶測が流れ、その中には事実と多少似通ったものもなくはなかった。たとえば、「変質者がいて、下校途中に誰かが悪戯されそうになった」というものだ。だがこの噂にしても、誰かが学校側の通達から推理して生み出したものに違いなかった。教師たちが口を滑らせたとは思えなかったし、江利子たちも黙っていたからだ。だから彼女たちが事件の被害者を発見したという事実も、生徒たちは誰も知らないはずだった。

 江利子が事件のことを一切しゃべらないのは、学校側からそのように指示されたからではなかった。いやもし彼女がおしゃべりであったなら、すでに噂は大きく広がっていたに違いない。学校側の対応は、それほど遅いものだった。

 事件のことは黙っていようと江利子にいったのは唐沢雪穂だった。事件の夜、家に帰ってから電話があったのだ。

「あんな目に遭って、藤村さんはすごいショックを受けていると思う。そのうえこのことが学校中に知られたりしたら、自殺しちゃうかもしれない。だからあたしたちは何もしゃべらないで、変な噂が流れないよう気をつけましょ」

 雪穂の提案はもっともなものだった。自分もそうするつもりだったと江利子は答えた。

 藤村都子は二年生の時の同級生だ。勉強がよくできたし、積極的な性格だったので、クラスのリーダー的な存在だった。ただ江利子は彼女のことを少し苦手にしていた。ブライドを少しでも傷つけられると、すぐむきになって怒るところがあった。またその反面、人を貶《おとし》めるようなことを平気で口にすることもあった。当然、彼女のことを快く思っていない者も少なくない。そういう者たちに今度のことを知られたら、忽《たちま》ち学校中の噂になってしまうに違いなかった。

 この日の昼休み、江利子は雪穂と一緒に弁当を食べた。彼女たちの席は窓際で、縦に並んでいる。近くに人はいなかった。

「藤村さんは交通事故に遭って、それでしばらく休むということになっているらしいよ」雪穂が小声で教えてくれた。

「ああ、そうなんだ」

「今のところ、誰も変だとは思ってないみたい。このままうまくごまかせるといいんだけれど」

「そうね」と江利子は頷いた。

 弁当を食べ終えた雪穂が、パッチワークの材料を取り出しながら、窓の外を見た。

「今日は、あの変な人たち、来てないみたい」

「変な人?」

「いつも金網越しに覗いてる人たち」

「ああ」江利子も外に目を向けた。いつも金網にヤモリのような格好ではりついている男子生徒の姿が今日はなかった。「今度の事件のことが伝わって、注意されたのかもしれないね」

「かもね」

「今度のこと、やっぱり連中が犯人なのかな」小声で江利子はいってみた。

「わからない」と雪穂はいった。

「あの連中が通ってる学校って、ものすごく悪いんでしょ?」江利子は顔をしかめてみせた。「あたしやったら、絶対にそんな学校には入りたくないな」

「でも、中にはやむを得ず通ってる人もいるんじゃないかな」雪穂はいった。

「そうかなあ」

「家庭の事情とかでね」

「それはわかるけど」江利子は曖昧《あいまい》に頷いた後、雪穂の手元を見て微笑んだ。先日彼女の家で見せてもらった小物入れが、もう殆ど縫い終わっている。「もうすぐ完成やね」

「うん。あとは仕上げをするだけ」

「でもそれ、イニシャルがRKになってるね」縫いつけられたアルファベットを見て江利子はいった。「雪穂だから、YKやないの?」

「いいの、これはおかあさんへのプレゼントだから。おかあさんの名前はレイコなの」

「ああそうか。ふうん。親孝行なんだね」器用に針を動かす雪穂の指を見ながら、江利子はいった。

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 清華女子学園中等部の生徒が悪戯された事件で、菊池文彦が警察から疑われているのは明白だった。まず木曜日の午前中、彼は応接室で刑事から質問を受けた。何を訊かれたのか、それについてどう答えたのか、彼は誰にも教えなかった。教室に戻ってきてからも、暗い顔でずっと黙っているだけだった。無論、そんな彼に話しかける者などいない。連日刑事がやってくる異常事態に、誰もがただならぬ気配を感じとっていた。

 雄一も菊池には言葉をかけづらかった。達磨のキーホルダーのことを刑事に話したという負い目もあった。

 金曜日の午前中、またしても菊池は呼ばれて教室を出ていった。出口に向かって机の間を歩いていく時、彼は誰とも目を合わせなかった。

「清華の女が襲われたらしいな」菊池が出ていった後で同級生の一人がいいだした。「それであいつが疑われてるそうや。現場にあいつの持ち物が落ちてたらしい」

「誰に聞いたんや、そんな話」と雄一は訊いた。

「先公らの話を立ち聞きした奴がおるんや。かなりやばい事件みたいやで」

「襲われたってどういうことやねん。姦《や》られたてことか」別の男子が訊いた。目に好奇の光が宿っている。

「そういうことやろ。それに、金もとられてるそうやぞ」いいだしっぺは、声をひそめて情報を流した。

 なるほど、という顔を周りにいる全員がしたように雄一は感じた。菊池の家が豊かでないことを、皆が思い出したのだろう。

「でも菊池は、やってないというてるんやろ」雄一はいってみた。

「本人はその時間、映画に行ってたというてるみたいやな」

 そいつは怪しいと一人がいい、何人かが頷いた。正直に白状するわけがない、という者もいた。

 集まった者の中に桐原がいるのを見て、雄一は少し意外な気がした。こういうことには首を突っ込まないタイプだと思っていたからだ。それとも先日の写真の件で、菊池のことが気になっているのだろうか。

 そんなことを考えながら雄一が見ていると、やがて桐原と目が合ってしまった。桐原はほんの一、二秒間雄一のことを見つめると、同級生たちの輪からすっと抜け出した。

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 事件から四日が経った土曜日、江利子は雪穂と共に藤村都子を見舞うため、彼女の家を訪れた。雪穂が提案したことだった。

 だが応接間で待っていても、都子は現れなかった。代わりに彼女の母親がやってきて、娘はまだ誰にも会いたくないらしいと、申し訳なさそうにいった。

「怪我、ひどいんですか」と江利子は尋ねた。

「怪我はそれほどでも……ただねえ、精神的なショックがやっぱり……」都子の母親は、小さく吐息をついた。

「犯人はわかったんでしょうか」雪穂が訊いた。「あたしたちも、警察からいろいろと訊かれたんですけど」

 だが都子の母親は首を振った。

「まだ何もわからないみたい。あなたたちにも御迷惑をかけてるみたいね」

「それは構いませんけど……藤村さん、犯人の姿は見ていないんですか」雪穂が呟くようにいった。

「それが、急に後ろから黒いビニール袋をかぶせられたから、何も見てないらしいの。後は頭を殴られて気絶してたみたいで……」都子の母親は目を赤くし、口元を両手で覆った。

「文化祭の準備とかで、毎日遅かったから心配やったんよ。あの子は音楽部の部長をしてたから、いつも居残りをして……」

 泣きだされると、江利子としては辛かった。早く帰りたいなという気さえした。すると雪穂も同じ思いなのか、彼女のほうを見て、「もう失礼しましょうか」といってきた。

「そうね」と、江利子は尻を浮かせる準備をした。

「本当にごめんなさいね。せっかくお見舞いに来ていただいたのに」

「いいえ。藤村さん、早く立ち直れるといいですね。怪我も早く治って」雪穂が立ち上がりながらいった。

「ありがとう。あっ、でも」都子の母親は、ここで急に目を大きく見開いた。「あんなことになってたけれど、服を脱がされただけで、あのう、身体を汚されてはいなかったのよ。これは信じてね」

 彼女が何をいいたいのかは江利子にもよくわかった。それで少し驚いて雪穂と顔を見合わせた。はっきりと口に出したことはないが、二人で事件のことを話す時には、都子は犯されたのだろうということを前提にしてきたからだ。

「ええ、信じます」だが雪穂は、そんなことは考えたこともないという口調で答えた。

「それから」と都子の母親はいった。「これまでも、お二人は事件のことを秘密にしてくださったみたいだけど、これからもそのようにしてほしいの。何しろあの子には将来があるし、こんなことが世間に知れたら、どんな陰口を叩かれるかわかれへんでしょう」

「はい、わかっています」雪穂はきっぱりと答えた。「決して誰にもいいません。そんな噂が流れ始めても、あたしたちさえ否定したら済むことですから。藤村さんに伝えてください。あたしたちが絶対に守ってみせるから、安心してくださいって」

「ありがとう。都子はいい友達を持って幸せね。一生この恩を忘れるなっていっておくわね」そういって都子の母親は涙ぐんだ。

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 菊池の疑いが晴れたのは土曜日のことらしかった。らしかった、という表現になるのは、雄一がそのことを知ったのは月曜日だからだ。友人たちの間で噂になっていた。それによると、今朝は牟田俊之が刑事の質問を受けているということだった。

 それを聞いて、雄一は菊池本人に尋ねてみた。菊池は彼の顔をじろりと見返した後、黒板のほうに目をそらし、ややぶっきらぼうな口調で答えた。「疑いは晴れた。あの話は、もうあれで終わりや」

「それはよかったやないか」雄一は明るくいった。「どうやって疑いを晴らしたんや?」

「別に俺は何もしてない。あの日に映画館に行ってたことが証明されただけや」

「どうやって証明されてん」

「そんなことは」菊池は腕組みをし、大きくため息をついた。「そんなことはどうだってええやろ。それとも俺が捕まったほうがよかったのか」

「なにいうてるねん。そんなあほなこと、あるわけないやないか」

「そしたら、もう今度のことには触れんといてくれ。思い出すだけでも、むかむかしてくる」菊池は黒板のほうを向いたままで、雄一を見ようとはしなかった。明らかに、彼のことを恨んでいるようだった。例の達磨の持ち主をしゃべったのが誰か、薄々感づいているのだろう。

 雄一はなんとか菊池の機嫌を直させる方法はないかと思った。そこでこんなことをいってみた。

「例の写真のことやけど、何か調べたいことがあるんなら付き合うで」

「何の話や」

「何の話って……ほら、桐原のおふくろさんが男と写ってる写真のことや。なんか面白そうやないか」

 だがこれに対する菊池の反応は、雄一の期待を裏切るものだった。

「あれか」菊池は口元を歪めた。「あれはもうやめた」

「やめたって……」

「興味なくなった。よう考えてみたら、俺にはどうでもええことやった。昔の話やし、今では誰も覚えてないし」

「けど、おまえのほうから……」

「それに」雄一の言葉を遮って菊池はいった。「あの写真、なくした」

「なくした?」

「どこかで落としたらしい。もしかしたらこの間家の掃除をした時に、間違えて捨ててしもたのかもしれん」

「そんな……」

 困るやないか、と雄一としてはいいたいところだった。だが菊池の能面のような表情を見ると、何もいえなくなった。大切な写真を紛失したことについて、申し訳ないと思っている様子は全くなかった。この程度のことでおまえに詫《わ》びる必要はない、とでもいいたげに見えた。

「別にかめへんやろ、あんな写真」そういって菊池は雄一を見た。睨んだ、と表現してもいい目つきだった。

「うん、ああ、まあええけど」仕方なく雄一は答えた。

 菊池は立ち上がり、席を離れた。もうこれ以上話をしたくないという意思表示のようだった。

 雄一は戸惑いながら菊池の背中を見送った。その時、別の方向からの視線を感じた。そちらに目を向けると、桐原が彼を見ていた。冷たく観察するような目に、雄一は一瞬寒気を感じた。

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