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ドアを開けると、頭上でからんからんと大きな鈴の音がした。
指示された喫茶店は、短いカウンターのほかに小さなテーブルが二つあるだけの狭い店だった。しかもテーブルの一つは二人掛けだ。
園村《そのむら》友彦《ともひこ》は店内を一瞥した後、少し迷ってから二人掛けのテーブルについた。迷ったのは、四人掛けのテーブルにいるただ一人の先客が見知った顔だったからだ。話をしたことはないが、三組の村下という男子生徒だということを友彦は知っていた。痩せていて、やや異国風の顔立ちをしている。たぶん女子にももてるに違いないと思わせる容姿だ。パーマをかけた髪を長く伸ばしているのは、バンドでもしているからかもしれない。グレーのシャツの上に黒い革のベストを羽織り、細くて長い足を強調するようなスリムのジーンズを穿《は》いていた。
村下は『少年ジャンプ』を読んでいた。友彦が入っていった時に一度だけ顔を上げたが、すぐにマンガに目を戻した。待ち合わせの相手と違ったのだろう。テーブルの上にはコーヒーカップと赤い灰皿が置かれている。灰皿の上では、火のついた煙草が煙を立ち上らせていた。高校の生徒指導の教師たちも、こんなところまでは見回りに来ないと踏んでいるらしい。ここは高校の最寄り駅からは、地下鉄で二駅分離れている。
ウェイトレスはおらず、初老のマスターがカウンターから出てきて、水の入ったグラスを友彦の前に置いた。そして黙って微笑んだ。
友彦はテーブルの上のメニューには手を伸ばさず、「コーヒーをください」といった。
マスターは一つ頷いてカウンターの中に戻った。
友彦は水を一口飲み、もう一度ちらりと村下のほうを見た。村下は相変わらずマンガを読んでいたが、カウンターの奥に置いてあるラジカセから流れる曲が、オリビア・ニュートン・ジョンからゴダイゴの『銀河鉄道|999《スリーナイン》』に変わった途端、露骨に顔をしかめた。邦楽は好きではないのかもしれない。
もしかしたら、と友彦は考えていた。こいつも同じ理由で、この店にいるのではないか、と。だとしたら、同じ相手を待っていることになる。
友彦は店内を見回した。今はどこの喫茶店にも置いてあるインベーダーゲーム機が、ここにはなかった。だがそのことは大して残念ではなかった。彼はすでにインベーダーには飽きていた。どのタイミングでUFOを撃ち落とせば高得点を上げられるかなどの攻略法を熟知し、いつでも最高スコアを記録する自信があるからだった。彼がインベーダーゲームについて関心が残っている部分といえばプログラムのことだったが、それも最近ではほぼ把握しきっていた。
彼は退屈しのぎにメニューを広げてみた。それで初めてここがコーヒー専門店であることを知った。メニューには何十種類ものコーヒーの銘柄が並んでいた。注文する前にこのメニューを広げなくてよかったと彼は思った。もし先に見ていたら、単に「コーヒー」とだけ注文するのは申し訳ないような気がして、コロンビアだとかモカだとかを注文し、五十円か百円かの余分な出費をしていたに違いない。今の彼は、その程度の出費でも痛かった。もしも約束がなければ、こんなふうに喫茶店に入ることさえなかったはずだ。
とにかくあのジャケットが誤算だった、と友彦は先々週のことを思い出す。男性服専門のブティックで、友人と二人で万引きしようとしたところを、店員に見つかってしまったのだ。万引きの手口は単純で、ジーンズを試着するふりをして、一緒に持ち込んだジャケットを試着室内で自分の紙袋に隠すというものだった。ところがジーンズだけを元の棚に戻して売場を離れようとした時、若い男性店員に呼び止められた。あの瞬間は、まさに心臓の止まる思いだった。
幸いその男性店員が、不届き者を捕まえることより、自分の売り上げを伸ばすことに熱心だったおかげで、友彦たちを「ついうっかり商品を自分の紙袋に入れてしまったお客様」として扱ってくれた。それで警察沙汰にもならず、親や学校にばれることもなかったわけだが、ジャケットの代金二万三千円は支払わないわけにはいかなかった。その時そんな持ち合わせはなかったのだが、店員は彼の学生証を預かったうえで、家へ金を取りに帰っていいといった。友彦は急いで家に帰ると、その時の全財産だった一万五千円を持ち出し、さらに友人から八千円を借りて、ジャケットの支払いにあてた。
結果的に最新流行のジャケットが手に入ったわけで、少しも損はしていない。しかし元々、金を払ってまで欲しいような服でもなかった。万引きできるチャンスだと思ったから、あまりよく見ないで、適当に選んだだけのことなのだ。最初からあの店には、服を買うつもりで入ったのではなかった。
あの二万三千円が今あったなら、と友彦は何十回目かの後悔をする。あれも買えた、これも買えた。映画だって見られた。ところが今は、毎朝母親からもらう昼食代を除くと、所持金が殆どゼロの状態だ。しかも友人に八千円の借金がある。
初老のマスターが運んできた一杯二百円のブレンドコーヒーを、友彦はちびちびと啜《すす》った。うまいコーヒーだった。
本当に「なかなか悪くない話」ならいいんだけどな――壁の時計を見ながら友彦は思った。「なかなか悪くない話」というのは、ここへ彼を呼び出した、桐原亮司が使った表現だった。
その桐原は、午後五時ちょうどに現れた。
店に入ってきた桐原は、まず友彦の顔を見た。それから続いて村下に目を向け、ふっと鼻を鳴らして笑った。
「なんや、別々に座ってるのか」
この一言で友彦は、やはり村下も桐原に声をかけられたのだと知った。
村下はマンガ雑誌を閉じると、長い髪の中に指を突っ込んで、頭を掻《か》いた。
「もしかしたら俺と同じじゃないかと思ったけど、違ってたら変に思われるやろ。それで知らん顔してマンガを読んどったんや」
どうやら彼のほうも、友彦のことを無視していたわけではなさそうだ。
「俺もそうや」と友彦はいった。
「もう一人仲間がおるということをいうといたらよかったな」桐原は村下の向かいの席に座った。それからカウンターのほうを向いた。「マスター、俺にはブラジル」
マスターは黙って頷いた。桐原はこの店の馴染み客なのだなと友彦は思った。
友彦も自分のコーヒーカップを持って、四人掛けテーブルに移動した。そして桐原に促されるまま、村下の隣に座った。
桐原は、ややつり上がった目で向かいの二人を眺めながら、右手の人差し指でテーブルの表面をこつこつこつと叩いた。まるで値踏みするような目つきだったので、友彦は少し不快になった。
「二人とも、ニンニクは食ってないな」桐原は訊いた。
「ニンニク?」友彦は眉を寄せた。「食ってないけど、どうして?」
「まあ、いろいろと事情があるんや。食ってないならいい。村下は?」
「四日ぐらい前に、餃子《ギョーザ》を食うたけど」
「ちょっとこっちに顔を近づけてくれ」
「こうか」村下が身を乗り出し、桐原に顔を近づけた。
「息を吐いてくれ」と桐原はいった。
村下が遠慮がちに吐くと、「もっと思いきり」と桐原は指示した。
強く吐き出された息の臭いを、桐原はくんくんと嗅《か》いだ。それから小さく頷き、コットンパンツのポケットから、ペパーミントガムを取り出した。
「大丈夫やと思うけど、一応ここを出たら、これを噛んでくれ」
「それはええけど、一体何をするのか、はっきり教えてくれよ。なんか気味が悪い」村下が苛立った様子でいった。
こいつも詳しいことは聞いていないらしいと友彦は察した。じつは彼もそうだった。
「それは話したやないか。ある場所へ行って、女の話し相手をしてくれたらええ。ただそれだけのことや」
「それだけでは何のことか――」
村下が言葉を切ったのは、マスターが桐原のコーヒーを運んできたからだ。桐原はコーヒーカップを持ち上げると、まずじっくりと匂いを嗅ぎ、それから徐《おもむろ》に一口啜った。
「うまいね、相変わらず」
マスターは目を細めて頷くと、カウンターの中に戻った。
桐原は改めて友彦と村下の顔を眺めた。
「難しいことやない。おまえたち二人なら大丈夫や。そう思ったから声をかけた」
「だから、何がどう大丈夫なんや」と村下は訊いた。
桐原亮司はジーンズジャケットの胸ポケットからラークの赤い箱を取り出し、一本抜き取って口にくわえると、ジッポのオイルライターで火をつけた。
「相手が気に入ってくれるということや」薄い唇に笑みを滲《にじ》ませて桐原はいった。
「相手って……女か?」村下は声を低くしていった。
「そうや。でも心配するな。反吐《へど》が出るようなブスじゃないし、しわくちゃばばあでもない。十人並みの、ふつうの女や。ちょっと歳は上やけどな」
「その女と話をするのが仕事なのか」友彦は訊いてみた。
桐原は彼に向かって煙を吐いた。「そう。相手は三人や」
「わからんな。もうちょっと、きちんと教えてくれよ。どういうところで、どんな女と、どんな話をしたらええんや」友彦は少し声を大きくした。
「それは向こうへ行けばわかる。それに、どんな話をすることになるのかは、俺にもわからん。成りゆき次第やな。おまえらの得意な話をしたらええ。相手も喜ぶぞ、きっと」桐原は唇の端を曲げた。
友彦は戸惑いながら桐原の顔を見返した。こんな説明では、どういうことなのか、さっぱりわからなかった。
「俺、降りるよ」不意に村下がいった。
「そうかい」桐原はさほど驚いた様子でもない。
「わけがわからんもんな。気味が悪い。胡散臭《うさんくさ》そうだし」村下は立ち上がりかけた。
「時給三千三百円やぞ」コーヒーカップを持ち上げながら桐原はいった。「正確にいうと三千三百三十三円。三時間で一万円。こんないいバイトが、ほかにあるか?」
「だけど、ヤバい話やろ」村下はいった。「そういう話には、首を突っ込まんことにしてる」
「別にヤバいことはない。変にいいふらしたりせえへんかったら、おまえらに迷惑がかかることもない。それは俺が保証する。それからもう一つ保証しておこう。終わった後、おまえらは必ず俺に感謝する。こんなええバイトは、アルバイトニュースを隅から隅まで読んでも、絶対にない。誰だってやりたがる。ただし誰にでもできる仕事やない。そういう意味で、おまえらはすごくラッキーなんや。俺の眼鏡にかなったわけやからな」
「しかしなあ……」村下は躊躇の色を見せながら友彦を見た。友彦がどうするのかを知りたいのだろう。
時給三千円以上、三時間で一万円――これは今の友彦にとっては魅力だった。
「俺、行ってもいい」と彼はいった。「ただし、一つだけ条件がある」
「なんや」
「どこで誰と会うのかだけ、教えてほしい。心の準備が必要やから」
「そんなものは必要ないんやけどな」桐原は煙草を灰皿の中でもみ消した。「わかった。ここを出たら教えてやる。けど園村一人ではあかん。村下が降りるなら、この話はなかったことにしよう」
友彦は腰を浮かせたままの村下を見上げた。下駄を預けられた格好の村下は、心細そうな顔をした。
「本当にヤバい話やないねんな」村下は桐原に確認した。
「安心しろ。おまえらが希望せえへんかぎり、そんなことにはならへん」
桐原の意味深長な言い方に、村下は依然として決心がつかない様子だった。しかし彼を見上げる友彦の目が苛立ちと軽蔑の色を含んでいることを感じたか、最後には首を縦に振った。
「わかった。じゃあ、付き合うよ」
「賢明やな」桐原はジーンズの尻ポケットに手を突っ込みながら立ち上がり、茶色の財布を取り出した。「マスター、勘定を頼む」
マスターは尋ね顔で、彼等のテーブルを指し、大きく丸を書いた。
「ああ、そうや。三人分まとめてだ」
マスターは頷き、カウンターの向こうで何か書くと、小さな紙片を桐原のほうに差し出した。
桐原が財布から千円札を出すのを見ながら、奢《おご》ってもらえるならサンドウィッチでも注文すればよかったなと友彦は思った。
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園村友彦が通う集文館《しゅうぶんかん》高校には、制服というものがなかった。大学での学園紛争が盛んだった頃、この高校に通う友彦たちの先輩が制服撤廃の運動を起こし、見事にそれを実現させたからだ。一応昔ながらの学生服を標準服としているが、それを着て登校する者は二割にも満たなかった。特に、二年生になると、殆どの者が自分のお気に入りの洋服を身につけてくる。また髪にパーマをかけることは禁止されているが、その校則に縛られて我慢している者は全くといっていいほどいなかった。女子の化粧にしても同様だ。だから、ファッション雑誌のモデルの姿をそのままコピーしたような格好の女子生徒が、化粧品の匂いをぷんぷんさせながら席についているという図になるわけだが、授業の邪魔をしないかぎり、教師たちも見て見ぬふりをしていた。
そんな服装で通学しているわけだから、放課後に繁華街をうろついていても、補導される心配など殆どなかった。万一何か尋ねられても、大学生だ、と言い張れば、まず大丈夫なのだ。だから今日のような天気のいい金曜日には、まっすぐ家に帰る生徒のほうが圧倒的に少ないはずだった。
園村友彦も、ふつうならば仲間たちと連れだって、暇を持て余した女の子たちがいそうな繁華街に、あるいは新機種の入ったゲームセンターに直行するところだった。それをしなかったのは、例の万引き事件での出費があったからにほかならない。
桐原亮司が声をかけてきたのは、そんな事情があって、放課後になっても帰り支度をせず、教室の隅で『プレイボーイ』を読んでいる時だった。前に誰かが立つ気配があったので顔を上げると、彼が唇に意味不明の笑みを浮かべていた。
桐原は同じクラスの生徒だった。だが進級から二か月近くが経つというのに、殆ど言葉を交わしたことがなかった。友彦自身は人見知りするほうではなく、すでに大半のクラスメイトと親しくなっている。むしろ桐原のほうに、他人に対して壁を作っている気配があった。
「今日、空いてないか」というのが彼の第一声だった。
空いてるけど、と友彦は答えた。すると桐原は声をひそめていったのだ。なかなか悪くない話があるんやけど、一口乗ってみないか、と。
「女と話をするだけや。それだけで一万円。どうや。悪くないやろ」
「話をするだけ?」
「興味があるんなら、五時にここへ来てくれ」桐原は一枚のメモ用紙を差し出した。
そこに地図の描かれていた店が、先程のコーヒー専門店だった。
「相手の三人は、もう先に行って待ってるはずや」唇をあまり動かさないしゃべりかたで、桐原は友彦と村下にいった。
喫茶店を出た後、地下鉄に乗ったのだった。乗客は少なく、空席はいくらでもある。それでも桐原は座らず、ドアのそばに立った。周りの人間に話を聞かれたくないかららしかった。
「客って、どこの誰や」友彦は訊いた。
「名前は教えられへんな。まあ一応、ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃんってことにしておこう」昨年解散した三人組アイドルグループの愛称をいって、桐原は薄く笑った。
「ふざけるなよ。教えるっていうたやないか」
「名前まで教えるとはいうてない。それに勘違いするな。お互いの名前を教え合わんほうが、結局自分らのためになる。向こうにも、おまえらの名前は教えてない。念のためにいうておくけど、どんなに訊かれても、絶対に本当の名前や学校名を教えるな」
桐原の目には酷薄そうな光が宿っていた。友彦は一瞬たじろいだ。
「訊かれたら、どうするんだ」村下が訊いた。
「学校名は秘密ということでええやないか。名前のほうは偽名を使えば済むことや。まあしかし、名前を言い合うことはないと思う。あっちからも訊いてきたりはせえへん」
「一体どういう女たちや」友彦は質問の内容を変えた。
なぜか桐原の顔が少し和んだ。「主婦や」と彼は答えた。
「主婦?」
「ちょっと退屈気味の奥様方というところかな。趣味も仕事もなく、一日中誰とも口をきかへんという毎日の繰り返しで、いらいらしている。亭主も相手にしてくれへん。それで退屈しのぎに、若い男と話をしてみようっていうわけや」
桐原の話から、少し前に人気のあった日活ロマンポルノのことを友彦は思い出した。団地妻、というタイトルの一部が頭に浮かぶ。もっとも彼は見に行ったことがない。
「話をするだけで一万円か? なんか、気味が悪いな」友彦はいった。
「世の中には、変わった人間が大勢おる。気にするな。向こうがくれるというんやから、遠慮なくもろといたらええ」
「なんで俺や村下に声をかけた?」
「ルックスがええからや。決まってるやないか。自分でも、そう思うやろ?」
桐原に臆面《おくめん》もなくいわれ、友彦は返す言葉に困った。たしかに彼は自分のことを、芸能界に入っても通用する顔立ちだと思っていた。スタイルにも自信がある。
「だからいうたんや。誰にでもできるバイトやないとな」そういってから桐原は、自分の台詞に納得するように頷いた。
「ばばあじゃないっていうたよな」村下が、喫茶店での話を覚えていたらしく、確認するようにいった。
桐原は、にやりと笑った。
「ばばあやない。ただし、二十代の若妻ってこともないで。ま、三十から四十の間や」
「そんなおばさんと何の話をしたらええんや」友彦は心底心配になって訊いた。
「そんなことは、おまえは考えんでもええ。どうせ、毒にも薬にもならん話をするだけのことや。それより、地下鉄から降りたら髪をとかせよ。セットが乱れんように、ヘアスプレーもかけろ」
「そんなもの、持ってないよ」
友彦がいうと、桐原は自分のスポーツバッグを開いて見せた。中にはヘアブラシやヘアスプレーが入っていた。ドライヤーまで持っている。
「せっかくやから、とびきりの二枚目に仕上げていこうやないか。なあ」桐原は唇の右端を上げた。
なんば駅で地下鉄|御堂筋《みどうすじ》線から千日前《せんにちまえ》線に乗り換え、西長堀《にしながほり》駅で降りた。ここへは友彦も何度か来たことがある。中央図書館があるからだ。夏などは、自習室を使おうとする受験生で、入り口に列ができることもある。
その図書館の前を通り過ぎ、さらに数分歩いた。四階建ての小さなマンションの前で桐原は足を止めた。「ここや」
友彦は建物を見上げ、唾を飲み込んだ。かすかに胃が痛い。
「なんや、その顔は。表情が固いぞ」
桐原に苦笑され、友彦は思わず自分の頬を触った。
マンションにはエレベータがなかった。階段で三階まで上がると、桐原は三〇四号室のインターホンのボタンを押した。
はい、という女の声がスピーカーから聞こえた。
「俺です」と桐原はいった。
間もなく鍵の外れる音がして、ドアが開けられた。胸元が大きく開いた黒のシャツに、グレーと黄色のチェックのスカートを穿いた女が、ドアのノブを握っていた。小柄で顔も小さく、髪が短かった。
「こんにちは」と桐原は笑顔で挨拶した。
「こんにちは」女も応じた。目の周りに黒々と化粧を施している。そして耳たぶには、真っ赤な丸いイヤリングがぶらさがっていた。若作りしているのだろうが、やはり二十代には見えなかった。目の下に小皺があった。
女は友彦たちに視線を移した。その視線がコピー機の光の帯のように、二人の容姿を上から下までさっとスキャンするのを友彦は感じた。
「お友達ね」女が桐原にいった。
「そうです。二人とも、いい男でしょう」
彼の言葉に、女はふふっと笑った。そして、「どうぞ」といってドアをさらに大きく開けた。
友彦は桐原に続いて室内に入った。玄関から上がってすぐのところがダイニングキッチンになっている。一応テーブルと椅子が置いてあるが、作りつけの棚以外に食器棚らしきものはなく、調理器具も見当たらない。独身者用の小さな冷蔵庫と、その上に載っている電子レンジにも、生活感がなかった。この部屋は誰かが住むためのものではなく、別の目的のために借りられているらしいと友彦は推察した。
ショートヘアの女が、奥の襖を開けた。六畳の和室が二つあるが、今はその境界の襖が取り除かれて、長細い一室となっていた。部屋の一番端に、パイプ製の簡単なベッドが一つある。
中央にはテレビが置かれ、その前に別の女が二人座っていた。一人は茶色い髪をポニーテールにした、痩せた女だった。しかしニットのワンピースの胸は、格好よく膨らんでいる。もう一人はジーンズのミニスカートを穿き、上にもやはりジーンズのジャケットを羽繊っていた。丸顔で、肩あたりまで伸びた髪に緩やかなウェーブがかかっていた。三人の中では一番地味な顔立ちに見えたが、それはあとの二人の化粧が濃すぎるせいかもしれなかった。
「遅かったやないの」ポニーテールの女が桐原に向かっていった。だが怒っている口調ではなかった。
「すみません。いろいろと段取りがあったものですから」桐原は笑顔で謝った。
「どういう段取り? どんなおばさんが待っているか、説明してたんでしょ」
「いやあ、そんな」桐原は部屋に足を踏み入れた。畳の上で胡座をかくと、友彦たちにも、座れよ、というように目で合図した。
友彦は村下と共に座った。すると今度は桐原がすぐに立ち上がった。彼が座っていたところには、ショートヘアの女が腰を下ろした。それで友彦と村下は、三人の女たちに囲まれる形になった。
「ビールでいいですか」桐原が三人の女に尋ねた。
いいわよ、と三人は頷き合いながら答えた。
「おまえらも、ビールでええな」そういうと彼は友彦たちの返事を聞かずにキッチンへ行った。冷蔵庫からビール瓶を出してくる音がした。
「お酒、結構飲むの?」ポニーテールの女が友彦に訊いてきた。
「時々」と彼は答えた。
「強いの?」
「いやあ」彼は愛想笑いしながら首を振った。
女たちが目配せし合ったことに友彦は気づいた。その視線にどういう意味があるのかはわからなかった。だがどうやら彼女たちは、桐原が連れてきた二人の男子高校生の容姿に不満そうではなかったので、とりあえず安堵《あんど》した。
薄暗いと思ったら、ガラス戸の外に雨戸が入っていた。しかも照明は籐《とう》の笠がついた白熱灯一つだけだ。こんなふうに暗くするのは、女の歳をごまかすためかもしれないと友彦は思った。ポニーテールの女の肌は、彼の同級生の女子たちとは全く違っていた。そばで見ると、とてもよくわかる。
桐原がビール三本とグラス五つ、さらに柿の種やピーナツを盛った皿をトレイに載せて運んできた。彼はそれを皆の間に置くと、すぐにキッチンに戻った。そして次に彼が運んできたのは、大きなピザだった。
「二人は腹が減ってるやろ?」そういって友彦たちを見た。
女たちと友彦たちは酌をし合い、お互いのグラスを満たした。そしてわけもなく乾杯した。桐原はダイニングキッチンのほうで、自分のバッグの中を探っている。あいつはビールを飲まないのかなと友彦は思った。
「ガールフレンドは?」ポニーテールの女が、また友彦に訊いてきた。
「いえ、いません」
「本当? どうして?」
「どうしてって……どういうわけか、いないんです」
「かわいい子は、学校にいっぱいいるんでしょう?」
「どうかな」グラスを手にしたまま、友彦は首を傾げた。
「わかった。かなりの面食いなんだ」
「いやあ、そんなことないんやけどな」
「君なら、いくらでもガールフレンドができると思うわよ。じゃんじゃん声をかけたらいいのに」
「でも本当に、大した女の子がいないんです」
「そうなの? 残念ねえ」そういってポニーテールの女は、友彦の太股《ふともも》に右手をのせた。
女たちとの会話は、桐原がいったとおり、毒にも薬にもならないものばかりだった。内容のない言葉だけが、行ったり来たりしていた。こんなことだけで本当に金がもらえるのかなと、友彦は不思議になった。
よくしゃべるのはショートヘアの女とポニーテールの女だ。ジーンズルックの女は、ビールを飲みながら皆の話を聞いているという感じだった。笑い顔にも、どこか固いものがあった。
ショートヘアとポニーテールは、やたらにビールを勧めてきた。友彦は断らずに飲み続けた。酒や煙草を勧められたらできるだけ断るなと、ここへ来る前に桐原からいわれていた。
「話が盛り上がってるみたいですけど、ここでちょっとショータイムにしましょか」顔を合わせてから三十分ほどが経った頃、桐原がこんなふうに皆に声をかけてきた。友彦は、早くもほろ酔い気分になっていた。
「あっ、新作?」ショートヘアの女が、彼のほうを見て訊いた。目が輝いている。
「まあそうです。気に入ってもらえるかどうかはわかりませんけど」
先程から桐原がダイニングテーブルの上で小型の映写機を組み立てていることには、友彦も気づいていた。何をする気なのか尋ねようと思っていたところだった。
「何の映画?」友彦は桐原に訊いた。
「それはまあ、見てのお楽しみ」桐原はにやりと笑い、映写機のスイッチを入れた。するとそこから発せられた強い光が、五人の前の壁に大きな四角形を作った。白い壁を、そのままスクリーンにしようということらしい。桐原は友彦にいった。「すまんけど、明かりを消してくれ」
友彦は身体を伸ばし、白熱灯のスイッチを切った。同時に、桐原はフィルムを回し始めた。
それはカラーの8ミリ映画だった。音は出てこない。だがどういう種類の映画であるかは、始まって間もなく友彦にもわかった。いきなり裸の男女が出てきたからだ。しかもふつうの映画であれば、絶対に映してはいけないはずの部分までもが、完全に露出されていた。友彦は自分の心臓の鼓動が速くなるのを自覚した。それはビールによる酔いのせいだけではなかった。彼は写真でこういうものを見たことはあったが、動く映像を目にするのは初めてだった。
「わあ、すごい」
「へええ、ああいうやり方もあるんやねえ」
女たちは、照れ隠しからか、はしゃいだ声でコメントをした。しかも彼女たちの台詞は、お互いに向けられたものではなく、友彦や村下に対して発せられていた。ポニーテールの女は友彦の耳元で、「ああいうこと、したことある?」と囁いた。いいえ、と答える時、彼は無様にも声を震わせてしまった。
最初の映画は十分ほどで終わった。桐原は素早く映写機のリールを取り替えた。その間にショートヘアの女が、「なんだか暑くなってきた」といって、シャツを脱ぎ始めた。シャツの下はブラジャーだけだった。映写機の光で、白い肌が浮かんだ。
その直後だった。ジーンズルックの女が突然立ち上がった。
「あの、あたし……」そういったきり口を閉ざした。言葉に迷っているようだった。
すると映写機をセットしていた桐原が訊いた。「お帰りですか」
女は無言で頷いた。
「そうですか。それは残念」
皆が見つめる中、ジーンズルックの女は玄関に向かった。誰とも目を合わせないようにしているようだった。
彼女が出ていった後、桐原は改めて戸締まりをして戻ってきた。
ショートヘアの女がくすくす笑った。「彼女には刺激が強すぎたかな」
「三対二で、自分だけあぶれたからやないの。リョウがちゃんと相手をしてあげへんから」ポニーテールの女がいった。声に優越感のようなものが混じっていた。
「様子を見てたんですよ。けど、あの人は無理みたいでした」
「せっかく誘ってあげたのにな」とショートヘアの女。
「まあいいじゃない。それより、続きを始めてよ」
「ええ、今すぐに」桐原は映写機のスイッチを入れた。再び壁に映像が現れた。
ポニーテールの女がニットのワンピースを脱いだのは、二本目の映画の途中だった。脱ぐなり女は友彦のほうに身体をすりよせてきた。そして小声で、「触ってもいいのよ」と囁いてきた。
友彦は勃起《ぼっき》していた。だがそれが裸同然の女に迫られたからなのか、過激な映像を見ているせいなのか、自分でもよくわからなかった。ただ、このバイトの真の内容だけは、さすがにこの時点では理解していた。
彼は不安だった。といっても、これから始まることから逃げたくなったわけではない。心配だったのは、うまくこの仕事をこなせるだろうかということだ。
彼はまだ童貞だった。
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友彦の家は国鉄|阪和《はんわ》線の美章園《びしょうえん》駅のそばにあった。小さな商店街を抜けた、最初の角に建っている。木造二階建ての平均的日本家屋だ。
「おかえり。遅かったね。御飯は?」彼の顔を見て、母親の房子《ふさこ》が尋ねてきた。時刻は午後十時近くになっていた。以前は帰りが遅いと小言をいわれたものだが、高校生になってからは、あまり何もいわれなくなった。
「食べてきた」ぶっきらぼうに答え、友彦は自分の部屋に入った。
一階の三畳の和室が彼の部屋だ。かつては納戸として使われていたのだが、高校に上がった時、内装をやり直して彼に与えられた。
部屋に入ると椅子に座り、まず真っ先に目の前に置いてある機械の電源を入れた。それが彼の日課でもあった。
機械とはパーソナル・コンピュータのことだった。買えば百万円近くするものだ。もちろん彼が買ったわけではない。電子機器メーカーに勤めている父親が、コネクションを使って安く譲ってもらってきたのだ。当初父親はこれを使ってコンピュータの知識を身につけようと思ったらしいが、二、三度触っただけでほうりだしてしまった。代わりに関心を持ったのが友彦で、本を読んだりして独学で勉強し、今ではちょっとしたプログラムを作れるほどになっている。
コンピュータの起動を確認すると、傍らのテープレコーダーの電源を入れた後、キーボードを叩いた。間もなくテープレコーダーが動きだした。もっともそのスピーカーから聞こえてくるのは音楽ではない。雑音と電子音とが混ざったような音だ。
テープレコーダーは記憶媒体装置として使われていた。長いプログラムは磁気信号に変えて一旦カセットテープに記録し、使用するたびにコンピュータの記憶素子に入力してやるのである。以前は記憶媒体として紙テープが使われていた。それに比べればカセットテープを使う方式は便利だが、それでも入力に時間がかかる点は不満だった。
二十分近くをかけて入力を終えた後、友彦は改めてキーを叩く。十四インチのモノクロ画面に、『WEST WORLD』という文字が現れた。さらに、『PLAY? YES=1 NO=0』と訊いてくる。友彦は『1』のキーに続けて、リターンキーを叩いた。
『WEST WORLD』は、彼自身が作った最初のコンピュータゲームだった。しつこく追いかけてくる敵から逃げながら、迷路の出口を探すというもので、ユル・ブリンナーが主演した映画『ウエストワールド』をヒントにしている。彼がこのゲームで遊ぶ時、二つの楽しみがあった。一つはゲーム本来の楽しみで、もう一つは改造の楽しみだった。遊びながら、さらに楽しめるアイデアを探すのである。これはというアイデアが浮かんだ時には、ゲームを中断し、早速プログラムの改良に着手する。最初は単純だったゲームを次第に複雑化させていく過程には、生き物を育てているような喜びがあった。
しばらくの間、彼の指は数字入力用のテンキーを叩き続けた。それが画面上のキャラクターを動かすコントローラになっているからだ。
だがこの日は少しもゲームに没頭できなかった。途中で飽きてしまう。つまらないミスをして敵にやっつけられても、少しも悔しくない。
友彦は吐息をつき、キーボードから手を離した。椅子にもたれ、斜め上を見た。アイドルスターの水着ポスターが壁に貼ってある。大胆に露出した胸元や太股に見入った。水滴のついた肌に触る感触を想像すると、ついさっきあんな異常な体験をしてきたばかりだというのに、ペニスに変化の訪れそうな気配があった。
異常な体験――そういっていいのではないか。彼はほんの何時間か前の出来事を頭の中で反芻《はんすう》した。自分の身に起きたことだという実感が、何となく希薄だった。しかし夢でも幻想でもないことは、彼自身がよくわかっている。
8ミリ映画を三本見た後、セックスが始まった。友彦は、そしておそらくは村下も、女たちに完全にリードされていた。友彦はポニーテールの女とベッドの上で、村下はショートヘアの女と布団の中でからみあった。二人の高校生はそれぞれの相手に指導されるまま、生まれて初めてのセックスを経験した。村下も童貞だったということを、友彦は部屋を出た後で聞かされた。
友彦はポニーテールの女の中で二度射精した。一度目は何が何だかわからぬままの出来事だった。だが二度目には少し余裕を持てた。マスターベーションでは味わったことのない快感に全身が包まれ、大量の精液が吐き出される感覚があった。
途中で女たちは、相手を交換するかどうか相談し始めた。しかしポニーテールの女が気乗りしなかった様子なので、それは実現しなかった。
そろそろお開きにしよう、といいだしたのは桐原だった。友彦が時計を見ると、彼等がマンションに着いてから、ちょうど三時間が経過していた。
その桐原は、最後までセックスに加わってはこなかった。女たちも誘おうとはしなかったから、それは最初から決められていたことだったのだろう。だが彼は部屋を出ていこうともしなかった。友彦たちが汗みどろになりながら女と抱き合っている間も、ずっとダイニングの椅子に座っていた。友彦は一回目の射精を終えた後、ぼんやりとした思いでキッチンのほうを見た。桐原は薄暗い中で足を組み、壁のほうを向いたまま、静かに煙草を吸っていた。
マンションを出ると、友彦たちは桐原に近くの喫茶店に連れていかれた。そしてそこで現金八千五百円を手渡された。一万円という約束だったじゃないかと友彦と村下は揃って抗議した。