饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15349 字 更新时间:2026-6-15 18:51

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 八月になったばかりの夜、事前に連絡もなく幹也がやってきた。

「こんばんは。相変わらず|気怠《けだる》そうだね、式」

 突然の来訪者は玄関口に立って、笑顔でつまらない挨拶をする。

「実はね、ここに来る前に事故に出くわしたんだ。ビルの屋上からさ。女の子が飛び降り自殺。最近多いって聞いてたけど実物に遭遇するとは思わなかったな。---はいこれ、冷蔵庫」

 玄関でブーツの紐をほどきながら、手に持ったコンビニのビニール袋を投げてよこす。中にはハーゲンダッツのストロベリーが二つ。溶ける前に冷蔵庫に封入しろ、という事らしい。

 私が緩慢な動作でビニール袋を確かめている隙に、幹也は靴を脱ぎ終えて上がり|框《がまち》を踏んでいた。

 私の家はマンションの一室だ。

 玄関から一メートルもない廊下をぬければ、すぐに寝室と居間を兼用した部屋に辿り着く。さっさと部屋へと歩いていく幹也の背中を睨みながら、私も自室へ移動した。

「式。君、今日も学校をさぼっただろう。成績なんてどうでもいいけど、出席日数だけは確保しとかないと進級できないぞ。一緒に大学に行くって約束。忘れたのか?」

「学校の事でオレに指図する権利、おまえにあるか? そもそもそんな約束は覚えてないし、おまえは大学止めちまったじゃないか」

「......。権利なんて言われると、そんな物はなんにだってないんだけどね」

 難しい口振りをして。幹也は腰を下ろした。こいつは自分が不利になると地が出る傾向にあるらしい。--最近、思い出した事だ。

 幹也は部屋の真ん中に座った。私は幹也の背後にあるベッドに腰を下ろすと、そのまま体を横にした。

幹也は私に背中を向けたままだ。

 その、男にしては小柄な背中を、私はボウと観察する。|黒桐幹也《こくとうみきや》という名前をしたこの青年は、私とは中学時代からの友人であるらしい。

 数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代の若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。

 髪も染めないし、伸ばさない。肌も焼かなければ飾り物もしない。ケータイも持たなければ女遊びもしない。背は百七十に届くか届かないか程度。温和な顔立ちは可愛い系で、黒縁の眼鏡がその雰囲気を一層強めていた。

 今は高校を卒業して平凡な服装をしているが、着飾って街を歩けば通行人の何人かは目に留めるぐらい、実は美男子ではないだろうか----

「式、聞いてる? 君のお母さんにも会ったよ。一度は両儀の屋敷に顔ぐらいださないとダメじゃないか。退院してからふた月、連絡も入れてないんだって?」

「ああ。とりわけ用が無かったから」

「あのね。用が無くても団欒するものなんだよ。家族って。二年間も話してなかったんだから、ちゃんと会って話をしないと」

「......知らないよ。実感が湧かないんだからしょうがないだろ。会ったってよけいに距離が開くだけだ。おまえとだって違和感が付きまとうっていうのに、あんな他人と会話が続くもんか」

「もう、そんなんじゃいつまでたっても解決しないだろ。式のほうから心を開かなくちゃ一生このままなんだぞ。実の親子が近くに住んでいるのに顔も合わせないなんて、そんなの駄目だ」

 責めるような言葉に私は眉をひそめる。

 駄目だって、何が駄目だというのだろう。私と両親の間にはなんら違法な物はない。たんに子供が交通事故にあって、以前の記憶を損失してしまっただけなのだ。戸籍上も血縁上も家族だと認められているんだから、今のままでも何ら問題はない筈である。

 ......幹也はいつも人の心の在り方を心配する。

 そんなの、どうでもいい事だっていうのに。

        ◇

 |両儀《りょうぎ》|式《しき》は高校時代からの友人だ。

 僕らの高校は私立で、有名な進学校だった。

 その合格発表の時、両儀式という名前があんまりに珍しいので覚えていたら、クラスが一緒になってしまった。以来、自分は式の数少ない友人の一人となった。

 うちの学校は私服オッケーっていう進学校だったので、みなそれぞれの服装で自分を表現していたと思う。そんな中、校内での式の姿はとても目立った。

 なにしろ、いつも着物なのだ。

 質素な着流しの立ち姿は式の撫で肩によく似合っていて、式が歩いているだけで教室が武家屋敷のように思えたほどだ、格好だけじゃなくて立ち居振る舞いにも一切の無駄がなく、授業中にしか言葉らしい言葉を口にしなかった。式がどんな人間かなんていうのは、この話だけで表れていると思う。

 式本人の容姿は、これまた出来すぎだった。

 髪は黒絹のように綺麗で、それを面倒くさそうにハサミで切ってほったらかしにする。それがちょうど耳を隠すぐらいのショートカットになっていて、これまたヘンに似合っているもんだから式の性別を間違える生徒も多かった。

 式は見る人が男なら女性に、女なら男性にと見間違うぐらいの美人で、綺麗というより凛々しい、という相貌をしている。

 けれどそんな特徴よりも、自分が何より魅了されたのは式の目だった。目付きは鋭いのに静謐なその瞳と、細い眉。何か、僕らには見えない物を見据えているというその在り方が、自分にとっての両儀式という人物のすべてだった。

 そう。

 式が、あんな事になるまでは。

        ◇

「飛び降り」

「え---? あ、ごめん、聞いてなかった」

「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」

 意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。

「うーん、そりゃあ事故には違いないけど......そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど自分の意志である以上。責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから----」

「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって、自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」

「式。死んだ人を悪く言うのはよくないよ」

 |窘《たしな》める風でもない、素っ気のない口調。幹也の台詞は聞く前からうんざりするほど予測出来ていた。

「コクトー。オレ、おまえの一般論は嫌いだ」

 自然、反論はきつくなる。けれど幹也は気を悪くした風もない。

「ああ。懐かしいね、その呼び方」

「そうか?」

 うん、と幹也は行儀のいい栗鼠のように頷いた。

 彼の呼び方は幹也とコクトーというふた通りがあり、私はコクトーという響きはあまり好きではなかった。......その理由はよくかわらない。

 そんな会話の空白に生まれた疑問の途中、幹也は思い出したように手を叩いた。

「そういえばさ。珍しいついで言うと、うちの鮮花が見たって」

「......? 見たって、何を」

「だから例のアレ。|巫条《ふじょう》ビルの女の子。空、飛んでるってヤツ。式も一度見かけたって言っただろう」

「-------」

 ああ、思い出した。たしか三遇間ほど前から始まった、ちょっとした怪談だ。

 オフィス街には巫条ビルという高級マンションがあり、夜になるとその上空に人らしき姿が見えるという。私だけでなく鮮花にも見えたという事は、どうもアレは本物らしい。

 交通事故で二年間昏睡状態にあった後、私はそういった『本来ありえないモノ』が見えるようになっていた。トウコあたりに言わせると見えるではなく|視《み》える、つまり脳と目の認識レベルが向上しただけらしいのだが、そのカラクリになど私は興味がない。

「巫条ビルのヤツなら一度じゃなく数回見た。もっとも最近はあのあたりには出歩いていないから、今も視えるかどうかはわからないぞ」

「ふうん。あそこはよく通るけど、僕は見かけた事はないな」

「おまえは眼鏡をかけてるから駄目だ」

 眼鏡は関係ないと思う、と拗ねる幹也。

 その仕草は温かで、邪気がない。だからこいつにはそういったモノは見えにくいのだ。

 それにしても飛ぶだの落ちるだの、つまらない現象が続く。そんな事になんの意味があるのか解らなくて、私は疑問を口にしていた。

「幹也。人が空を飛ぶ理由ってわかるか?」

 幹也はさあ、と首をすくめると、

「飛ぶワケも落ちるワケもわからないよ。だってまだ一度も、僕はやった事がないからね」

 そんな当たり前の事をしれっと言った。

       /2

 八月も終わりにさしかかった夜、散歩をする事にした。

 夏の終わりにしては外気は肌寒い。

 終電はとっくに過ぎていて、街は静まり返っていた。

 静かで寒くて、|廃《すた》れきった、見知らぬ死街のようでもある。人通りも温かみもないその光景は、一枚の写真みたいに、不治の病を連想させた。

---|病い《やまい》、|病気《びょうき》、|病的《びょうてき》。

 何もかも、明かりのない家も明かりのあるコンビニも、気を許せば咳き込んで崩れ落ちるような感じ。

 そんな中、月光は青々と夜を浮き彫りにする。

 全てが麻酔されたこの世界、月だけが生きているようで、ひどく、目が痛む。

---だから、病的とはそういう事だ。

 家を出る時、浅葱色の着物の上に黒い革製のジャンパーを羽織った。

 着物の袖が上着に巻き込まれて、体が蒸す。

 それでも暑くはない。---いや。

 私にとっては、もとから寒くもなかったのだ。

        ◇

 そんな真夜中でも歩けば人と出会った。

 |俯《うつむ》いて、ただ早足で進んでいく誰か。

 自販機の前でぼんやりとする誰か。

 コンビニの明かりに集う、幾多もの誰か。

 そこに何かしらかの意味があるのか探ってみたが、所詮部外者である私にはちっとも掴めなかった。

 そもそも、自分自身がこうやって夜に出歩く事からして意味はないのだ。

 私は、かつての私が嗜好していた行為を繰り返しているにすぎない。

 ---二年前。

 高校二年への進級が間近だった両儀式という私は、交通事故に遭ってそのまま病院に運ばれた。

 雨の日の夜の事だ。

 私は自動車に|撥《は》ねられたらしい。

 幸い身体に大きな傷はなく、出血も骨折もない綺麗な事故だったという。その反面、ダメージは頭のほうに集中してしまったのだろう。

 以来、昏睡状態が続いた。

 体がほぼ無傷だったのが災いしたのか、病院側を私を生かし続け、意識のない私の肉体はこれまた必死に生き続けた。

 そうしてつい二ヵ月前、両儀式は回復した。

 医師達は死者が蘇生するぐらいのショックをうけたそうで、なるほど、つまり私はそれぐらい回復が見込まれていなかったという事だろう。

 そして私自身も、それほど大げさではないけれど、ある衝撃を受けていた。

 自身に確証が持てない、とでも言おうか。

 自分の今までの記憶というヤツがどうもおかしいのだ。

 簡単に言うと、自分の記憶が信用できない、

 これは過去の事柄が思い出せない、という記憶障害......俗に記憶喪失と呼ばれるものとは違う。

 トウコいわく、記憶とは脳が行なう銘記、保存、再生、再認の四つのシステムだという。

『銘記』は見た印象を情報として脳に書き込む事。

『保存』はそれをとっておく事。

『再生』は保存した情報を呼び出す、つまり思い出す事。

『再認』は再生した情報が以前のものと同一かどうかを確認する事。

 この四つのプロセスの一つでも出来なければ記憶障害となる。もちろん、それぞれの故障箇所によって記憶障害のケースも変わってくる。

 けれど私の場合、このいずれも支障なく働いている。以前の記憶に実感を持てないが、自分の記憶が以前の私が受けた印象とまったく同じだ、という『再認』も働いている。

 だというのに、私にはかつての自分に自信が持てないでいた。

 私が、私であるという実感がない。

 両儀式というかつての記憶を思い出しても、それが|他人事《ひとごと》にしか思えない。私は間違いなく両儀式だというのに。

 二年間という空白は、両儀式を無にしてしまっていた。

 世間の評価ではなく、私の中身を無にしていたのだ。私の記憶と、私が持ちえていたであろう性格。その繋がりが絶望的なぐらいに断たれてしまっている。

 そうなってしまうと、記憶はただの映像にすぎなかった。ただ、その映像のおかげで私は以前の私のように装える。両親にも知人にも、彼らの知っていた両儀式として触れあえる。

 無論、今の私はおかまいなしで。

 それは我慢できない息苦しさで私を悩ませる。

---まるで擬態だ。

 私はちっとも生きていない。

 生まれたばかりの赤子と同じ。何も知らないし、何も得ていない。けれど十八年という記憶が私を一人の完成した人間たらしめている。

 本来、様々な経験によって得るはずの感情は、すでに記憶として持っている。けれど私はそれを実体験していない。だが実体験しようにも、すでにそれは|識《し》っている事なのだ。そこには感動もなければ、生きているという実感もない。......タネ明かしされた手品が、もう驚けないのと同じように。

 そうして私は生きている実感も持てないままで、かつての私らしい行動を繰り返す。

 理由は単純だ。

 そうすれば、私は昔の自分に戻れるかもしれないから。

 こうすれば、この夜歩きの意味も解るかもしれないから。

 ......ああ、そうか。

 だとすれば私は、かつての私に恋していると言えなくもないワケだ。

        ◇

 随分と歩いた気がして顔をあげると、そこは噂に聞くオフィス街だった。

 行儀よく同じ高さのビルが道に並んでいる。ビルの表面は一面の窓ガラスで、今はただ月明かりだけを反射していた。大通りに並ぶビルの群れは、怪人の緋徊する影絵の世界めいている。

 その奥に、一際高い影がある。二十階建ての梯子のような建物は、月まで届けとばかりに伸びる細長い塔に見えた。

 塔の名前は巫条という。

 マンションである巫条ビルに明かりはない。

 住人はみな眠りについているのだろう。時刻は、じき午前二時を回ろうとしているのだ。

 その時---つまらない影が網膜に映りこんだ。

 人型らしいシルエットが視界に浮かぶ。

 比喩ではなく、本当にその少女は浮いていた。

 風は亡い。

 夜気の冷たさは夏にしては異常だ。

---うなじの骨が、寒さによって|針《シン》ときしむ。

 もちろん、そんなのは私だけの錯覚。

「なんだ、今日もいるじゃないか」

 不快だが、見えるものは仕方がない。

 そうして、|件《くだん》の少女は月にもたれるように飛行していた。

俯瞰風景/

        ...

---イメージはとんぼ。忙しく飛んでいる。

 一羽の蝶がついてきたけど、|翅《はね》の速度は下がらない。蝶はいつしかついてこれなくなって、視界から消える頃、力なく落ちていった。

 弧を描いて落ちていく。

 鎌首をあたげた蛇のような落下は、けれど折れた百合に似ていた。

 その姿が、ひどく哀しい。

 一緒に行く事はできなくても、せめてあと少しは傍にいてあげたかった。

 でもそれは不可能だ。

 だって地に足がついてない自分は、立ち止まる事さえ自由ではなかったのだから。

 誰かの話し声がするので、仕方なく起きる事にした。

 ......瞼がかなり重い。二時間は寝たりない証拠だ、これは。それでも活動しようとする自分はいじらしいな、とちょっと自己陶酔してみると意識は眠気に勝ってしまった。

---ほんと、我ながら単純で困る。

 たしか昨夜は徹夜で図面を完成させて、そのまま橙子さんの部屋で眠ったはずだ。

 がば、と音をたてて体をソファーから起こすと、やっぱりここは事務所だった。

 まだ正午に差しかかっていない夏の陽尉しの中で、式と橙子さんがなにやら話し込んでいる。

 式は立ったまま壁にもたれかかっていて、橙子さんは足を組んでパイプ椅子に座っていた。

 式は相変わらず着物をさらりと着流している。

 橙子さんはと言うと、飾り気のないタイトな黒色のズボンに、新品みたいにパリッとさせた白いワイシャツ。髪は短く、首筋をあらわにした橙子さんはいかにもどこかの社長秘書、といった風だ。もっとも眼鏡を外した時の目付きの悪さは筆舌に尽くしがたいので、一生そういった職業には就けないだろう。

「おはよう黒桐」

 じろりとした橙子さんの一瞥は、まあ、いつもの事だ。......橙子さんの眼鏡が外れている所をみると、式とはあっち関係の話をしていたのだろう。

「すいません、眠ってしまったみたいです」

「つまらん事を説明するな。見れば判る」

 きっぱりと言い捨てて、煙草を口にあてる橙子さん。

「起きたなら茶を淹れてくれ。いいリハビリになる」

「.....................?」

 |社会復帰《リハビリ》って、やっぱり|更生運動《リハビリテーション》の事なんだろろうか。

 自分がどうしてそんな事を言われなくちゃいけないのかは謎だけど、橙子さんはいつもこういう風なので是非を問うのはやめておく事にした。

「式は何か飲む?」

「オレはいい。すぐ寝るから」

 そう言う式は、たしかに寝不足のようだった。

 昨日の夜、僕が帰ってから夜の散歩でもしたのだろうか。

        ◇

 事務所兼橙子さんの私室である部屋のとなりには、台所らしき部屋がある。

 もとは何かの実験室だったのか、水道の蛇口は横に三つも並んでいる。ようするに学校の水飲み場だ。うち二つは針金で縛られて使用禁止になっていた。理由は不明。判りやすくていいだろう、と橙子さんは言うが、気持ちが殺伐としていくのであまり有り難みはない。

 さて、とコーヒーメイカーを作動させる。出社してまず第一にやる事がコーヒーを滝れる事だから、今では眠ってでも出来るぐらいに上達していた。

 自分こと黒桐幹也がここに就職してもう半年近くが経つ。

 いや、就職というのはかなりおかしい。なにしろここは会社として成立していないのだ。それを覚悟で押しかけたのは、ひとえに橙子さんの作品に惚れ込んでしまったからだろう。

 式が一人で十七歳のまま時間を止めてしまった後、僕は目的もなく高校を卒業して大学生になった。

 その大学に入るのは、式との約束だった。

 式が回復の見込みのない病状にあったとしても、その約束だけは守りたかったのだ。

 けれどその後は何もなかった。大学生になった僕は、ただカレンダーの日付だけを追っていた。

 そうしてぼんやりと過ごしていた時、友人の誘いで何かの催し物に足を運び、一体の人形を見つけた。

 それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。人間をそのまま停止させたようなそれは、同時に、決して動かない人型である事を明確に提示していたと思う。

 明らかに人ではなく、同時に人にしか見えないヒトガタ。

 今にも息を吹き返しそうな人間。けれど初めから命などない人形。生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。

 その二律背反に、僕は虜になった。おそらくその在り方全てがあの時の式そのものだったからだろう。

 人形の出展者は不明だった。パンフレットにはその存在すら載っていなかった。必死になって調べてみると、それは非公式な出展物で制作者は業界では曰くつきの人物だった。

 制作者の名前は|蒼崎《あおざき》|橙子《とうこ》。彼女は、言うなれば世捨て人だった。

 人形作りが本職だというのに建物の設計もやっているらしい。とにかく物を作る事ならなんでもやるのだが、仕事を引き受ける事はまったくない。いつも自分から"こんな物を作ります"と相手に売り込みにいき、報酬を前払いでもらって制作にとりかかるというのだ。

 よっぽどの道楽者か、あるいは変人か。

 興味はいっそう深まっていき、よせばいいのに僕はその変人の住みかを調べあげてしまった。

 それは都心から離れた、住宅地とも工場地帯ともいえない、なんとも半端な住所だった。

 否。蒼崎橙子の住みかは、およそ家ではなかった。

 ズバリ廃墟だった。

 それも半端な廃墟ではない。数年前の景気がいい時に工事が始まり、景気が悪くなったので途中で放置されたという本当の廃ビル。とりあえず建物としての形は出来ているが内装はまったくなく、壁も床も素材が剥き出し。

 完成時には六階建てになったのだろうが、四階から上はない。......高い建物は最上階から造ったほうが効率がいいんだけど、このビルの建設は昔ながらの方法だったのだろう。工事が途中で放棄された為、造りかけの五階のフロアが屋上らしきモノになってしまっていた。

 ビルの敷地は高いコンクリの塀で囲まれているものの、侵入するのは容易だろう。ご近所の子供達が秘密基地にしなかったのが奇跡と言えるぐらい、ひたすらに怪しい建物だ。

 とにかく、そんな買い手のないまま放置されていたビルを蒼崎橙子は買い取ったらしい。

 今こうしてコーヒーを淹れている台所らしき部屋は、ビルの四階に位置する。二階と三階は橙子さんの仕事場なので、たいてい僕らはこの四階でコミュニケーションをとる事になっていた。

 ......と、話を戻そう。

 結局その後、僕は橙子さんと知り合い、入ったばかりの大学を止めてここで働く事になった。

 信じられない事に、きちんと給料はでている。

 橙子さんに言わせると人間には二系統二属性があり、創る者と探る者、使う者と壊す者とに別れるんだそうだ。

 幹也くんには創る者としての才能はないわねー、なんてはっきり言ったのに、橙子さんはなぜか僕を雇ってくれた。なんでも探る者としては才能があるとかなんとか。

「--遅いよ黒桐」

 隣の部屋からそんな催促が届く。

 見れば、とっくにコーヒーメイカーには黒々とした液体が満たされていた。

        ◇

「昨日で八人目らしいね。世間もそろそろ関連性に気付いてもいい頃だろうに」

 灰になった煙草をもみ消しながら、唐突に橙子さんは切り出した。

 ここ最近に連続している女子高生の飛び降り自殺の事だろう。今年の夏は断水の憂き目も見ず、橙子さん好みの悲惨な話題といったらそれしかない。

「八人目......? あれ、六人なんじゃないですか?」

「君が惚けている間に増えたんだ、六月から始まって、月に平均三人か。あと三日以内に追加一人がでるかな」

 不謹慎な事を橙子さんは口にする。ちらりとカレンダーに目をやると、八月はあと三日しか残っていない。......あと、三日......?

 なにか、そこにひっかかるものがあったが、疑問はすぐに意識の底に落ちていった。

「でも関連性はないって話ですよ。自殺してしまった娘たちはみんな学校も違うし、交友関係もなかったって。まあ警察が情報を隠蔽してるだけかもしれませんけど」

「ひねくれた事を言う。黒桐らしくないな、無闇に他人を疑うとは」

 揶揄するように橙子さんは口元をつりあげた。眼鏡を外しているとこの人はどこまでも底意地が悪くなる。

「......だって遺書が公開されてないでしょう。六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺言らしい物を公開してもいいだろうに、それをひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」

「だから、それが関連性だ。いや共通点のほうが正しいか。

 八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、妖しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。

 極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残して置きたい言葉は無く、警察もその共通点を重要視していないんだろうね」

「......遺書は公開されないんじゃなくて、初めから用意されてないって事ですか?」

 半信半疑でそう口にしてみると、橙子さんは断定はできないが、と頷いた。

 けど、そんな事があるんだろうか。

 そこには何か矛盾がある。コーヒーカップを手に

とって、その苦さを味わいながら思考を走らせてみた。

 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。

 遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。

 遺書のない自殺。

 遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。

 そして、飛び降りは完全な自殺ではない。

 人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか、だとしたら、何らかの形で遺言は用意されているのが道理だ。

 ならばどうなのだろう。それでも遺言らしき痕跡さえないというのなら---第三者が彼女達の遺書を持ち去ったか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。

 ではなにか。考えられる理由は一つ。

 つまり、文字通りソレは事故なのではないか。

 彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。ちょっとそこまで買い物に行った時に、運悪く交通事故に巻きこまれたようなものだ。昨夜、式がぽつりとこぼしたように。

 ......でも、ちょっとそこまで買い物に行くのにビルの屋上から飛び降りる理由が、僕には考えつかなかった。

「幹也、飛び降りは八人で終わりだぜ。この後にはしばらく続かない」

 と。暴走しかかっていた思考を遮って、式が話に入ってきた。

「終わりって、わかるの?」

 つい訊いてしまう。式はああ、と遠くを見ながら頷いた。

「見てきたから。飛んでいるのは八人だった」

 形のいい小さな唇が、そう囁いた。

「ほう、あのビルにそれだけいたか。式には初めから人数は判っていたんだな」

「うん。あいつは始末したけど、あの女たちはしばらく残っていると思う。気にくわないけどね。

 --なあトウコ。なまじ飛べちまうと、人間っていうのはあんな末路を迎えちまうものなのか」

「どうだろうな。個人差があるからはっきりとは言えないが、過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。だが、空に憑かれたものほどその事実が欠落していてね。結果、死んだ後も雲の上を目指して飛行するはめになるわけだ。地上に落ちる事もなく、空に墜ちていくように」

 式は納得いかなげに顔をしかめた。

 ......式は怒っている。けれど、なにに?

「あの、すみません、話が見えないんですけど」

「うん? いや、例の巫条ビルの幽霊の話さ。もっともアレが実体だったのかただのイメージだったのかは、実物を見てみないとなんともな。暇があれば見にいこうとは考えていたが、式が殺してしまったのでは確かめようがない」

 ......ああ、やっぱりそっちの話か。

 眼鏡をはずした橙子さんと式という組み合わせは大抵こういうオカルトな話をしているのだ。

「式が巫粂ビルの屋上に浮いている少女を見た、という話は聞いているだろう。その話には続きがあってな、少女のまわりには人型らしきモノがせわしなく飛行していたそうだ。巫条ビルから離れない、という事からあそこが網になっていたんじゃないかと話をしていてね」

 話の奇抜さと難解さはますますその色を濃くしていって困る。

 そんなこちらの顔色が判るのか、橙子さんは簡潔にまとめてくれた。

「巫条ビルには一人の浮いている人間がいて、そのまわりには飛び降り自殺者になってしまった少女達の姿があった。この少女達は幽霊めいたものだろうね。話としてはそれだけの、簡単な構造だ」

 ははあ、と一応頷いてみる。

 怪談の肝は解ったけれど、結局、今回も自分は終わった後で関わっているだけのようだ。式のさっきの台詞からすると、その幽霊とやらは式本人にやられてしまったのだろうし。

 橙子さんと式を知り合わせてから二ヵ月。僕はこの手の話では解決編だけを聞く立場にあった。

 二人と違い、いたってノーマルな自分としてはその手の話には関わりたくない。けれど無視されるのもなんだか所在ないものなので、このどっちつかずの立場は丁度いいと思う。世間さまでは、こういうのを不幸中の幸いというのだろうか。

        ◇

「なんか、そう聞くと三文小説みたいですね」

 だろう、と橙子さんは同意した。

 式だけがますます視線に怒気を孕ませて、流し目でこちらを睨んでいる。

「...............?」

 なにか式を怒らせるような事をしたのだろうか、僕は。

「あれ? でも、式が最初に幽霊を見たのって七月初めだったよね。じゃあその頃の巫条ビルにいたのは四人だったんだ」

 確認の為に当たり前の事を訊いてみると、式は気難しい顔つきのまま首を横に振った。

「八人。初めから飛んでいるのは八つあった。言っただろ、八人以上の飛び降りはないんだって。連中の場合、順序が逆なんだから」

「それって初めから八人の幽霊が視えたってコト? ほら、いつかの未来視の子みたいに」

「まさか。オレは正常だよ。あそこの空気がおかしいだけだ。そうだな、熱湯と氷水がぴったりと向き

合っている感じで変なんだ。だから......」

 煮え切らない式の言葉の続きを、橙子さんが間髪いれずに受け継ぐ。

「だから、あそこは時間がかしいでいるんだ。時の経過とは一種類ではない。朽ちていくまでの距離はそれこそ全てに不均等だ。ならば人間という一個体と、その一個体が持ちえた記憶にも、朽ちていく時間の差というものがあるのは道理だろう。

 人が死ねばその者の記録は消えるのか? 消えないだろう?

 |観測者《おぼえているもの》が残っているかぎり、あらゆる物は無へと突然に消失するわけではない。無へと薄れていくんだ。

 人の記憶、いや記録か。その観測者が人ではなくそれを取り巻く環境であった場合、彼女達のような特異な人種は死後も幻像として街を|闊歩《かっぽ》する、幽霊とよばれる現象の一部がこれだ。

 この幻像を視てしまうのは、その記録の一部分を共有する者......死した人物の友人や肉親になる。式は例外だがね。

 まあ、そういった『記録だけの時間の経過』があるのだが、あのビルの屋上はそれが遅い。彼女達の生前の記録が、まだ本来の彼女達の時間に追いついていないんだ。

 結果、思い出だけがまだ生きている。

 あの場所に幻像として映っているのは、きわめて遅く送られている少女遠の行動と|事実《げんじつ》なんだろうさ」

 橙子さんはそこで何本目かの煙草に火をつけた。

 ようするに何かが無くなっても、その何かの事を誰かが覚えているかぎりそれが無くなったわけではなく、覚えているという事は生きているという事なので生きている物ならば目に見えてしまう、という事だろうか。

 それではまるで幻覚だ。--いや、橙子さん本人が最後に『幻像』とまとめたのは、それがやっぱり本来ありえない物として定義しているからだろう。

「理屈はいいよ、そんなのに害はないんだ。問題はあいつだろ、手応えはあったけど、本体が有るのならまた繰り返しになっちまう。幹也のお守りはもう御免だからな、オレは」

「同感だ。|巫条《ふじょう》|霧絵《きりえ》の後始末は私がするよ。君は黒桐を送ってくれればいい。黒桐の退勤時間まで五時間はある。眠るならそこの床でも使えばいい」

 橙子さんの指差した床は、ここ半年間一度も掃除をした事がなくて、紙クズのつまった焼却炉の中みたいになっている場所だった。

 式は当然、それを無視する。

「それで。結局、あいつはなんだったんだ」

 煙草をくわえた魔術師は、ふむ、と思案したかと思うと足音もなく窓際へと歩み寄った。

 そこから外を眺める。

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