「台風が来るっていうんで、交通機関が麻痺する前に帰ってきたんです」
そうか、と難しい顔をして橙子さんは頷く。何か、都合の悪い事でもあるのだろうか?
いや、今はそんな事より―――
「橙子さん。浅上藤乃についてですけど、彼女は後天的な無痛症です。六歳までは普通の体質だった」
「なんだそれは。そんな馬鹿な話があるか。いいか、浅上藤乃は痛覚麻痺を起こしているにもかかわらず、運動麻庫を起こしていない。後天的というのならやはり脊髄空洞症あたりが有力だが、それでは運動能力に支障をきたすんだ。あんな感覚だけがない、なんて特殊なケースは先天的な物以外あるまい」
「ええ、彼女の主治医もそんな事を言ってました」
長野の山奥での出来事を一から話したかったが、そんな時間はない。
僕は旧浅上……いや、浅神家での藤乃の話を端的に説明する。
「浅神家というのは長野の名家だったんですけど、藤乃が十二歳の頃に破産しています。その折に母親に引き取られて今の浅上家にやってきた。浅上は浅神家の分家筋らしくて、土地の利権欲しさに借金を肩代わりしたようです。
それでですね。子供の頃の藤乃にはきちんと痛覚があったんです。ただ、そのかわりに不思議な能力があったらしくて。手を触れずに物を曲げる事が出来た、と」
「―――で?」
「里では鬼子と忌み嫌われてたそうです。ひどい迫害も受けていた。けれど藤乃が六歳の頃から、その能力は消えています。彼女の感覚と一緒に」
「………」
橙子さんの目付きが変わる。皮肉げに釣り上がった口元から興奮している事が判る。
「そこから彼女に主治医があてがわれるんですけど、浅神家にその記録は残っていませんでした。なにしろもう廃墟でしたから」
「なんだそりゃ。そこから先が重要だっていうのに、話はここで終わりか!」
「まさか。その主治医を捜し出して話を聞き出しましたよ」
「む―――えらく手際がいいな、黒桐」
「はい。記録をたどって秋田まで行きました。医師免許のない闇医なんで、話を聞き出すのに一日かかりましたけど」
「……呆れた。ここを|馘《くび》になったら探偵になれ、黒桐。私の専属にしてやるから」
考えときます、と返して話を続ける。
「この主治医自体は、薬品を提供していただけらしいんです。どうして藤乃が無痛症になったのかは知らないという。アレは藤乃の父が一人でやった、と」
「一人でやった―――? 治療をか、それとも薬物投与をか」
その微妙な言葉の違いに、僕は頷く。
「無論、薬物投与です。主治医の話では、藤乃の父親は無痛症を治す気はなかった、と。
主治医が流した薬品の大部分はアスピリンやインドメタシン、ステロイドですね。主治医自身の診察では藤乃は視神経脊髄炎の可能性が高かった、と話しています」
「視神経脊髄炎―――デビック病か」
デビック症。脊髄炎の一つで、これも感覚の麻痺を起こす病気だ。おもな症状は両下肢の運動?感覚麻痺。それと両眼の視力低下。失明の|虞《おそれ》さえあるという。
この病気には早い時期のステロイド治療が必要とされる。ステロイドっていうのは、前に橙子さんが言っていた副腎皮質ホルモンの事らしい。
「そのくせ、痛覚を麻庫させる為のインドメタシンなんぞを使う。ははあ、なるほど。たしかにそれならああいう人間になる。先天的でも後天的でもない。浅上藤乃は人工的に感覚を無くされた。まるっきり式の反面という事だ!」
あははは、と橙子さんは笑いだす。
なんだか昨日訪ねた教授みたいで、ちょっと恐い。
「橙子さん、インドメタシンってなんですか?」
「痛みを和らげる物質だよ。
末梢性であろうと関連痛であろうと、痛みというのは外部からの“生命活動に異常をきたす刺激”に反応して起こる。発痛物質が体内で生成されて疼痛を司る神経末端を刺激、脳に痛みの信号を送るんだ。このままじゃ死んじゃうぞ、ってね。
発痛物質は知っているだろう。キニンやアミンの他、この二つを強化するアラキドン酸代謝産物がある。アスピリンやインドメタシンというのね、このアラキドンに含まれるプロスタグランジンを抑制する。キニンやアミン単体での痛みなどたかがしれているから、インドメタシンの大量投与で痛みはほとんど消失するんだ」
よほど楽しいのか、橙子さんはかなりハイだ。
正直、アラキドンとかキニンドンとかいわれても怪獣の名前としか思えない。
「つまり痛みをなくしてしまう薬なんですね?」
「直接的じゃないがな。たんに痛みをなくすのならオピオイドっていう麻薬のほうがいい。有名な所でエンドルフィンがあるだろう? 脳内麻薬と言われる、脳が勝手に痛みを麻痺させる為に分泌させるアレだ。それと同じで、オピオイドは中枢神経を鎮痛させるんだが―――ああ、そんな事はどうでもいいか。
なるほどな、藤乃の父は感覚を閉じる事で能力を封じる事にした。必死になって能力者を発現させようとする両儀とはまったく逆の純血家だ。しかし悲しいかな、そうした事によってよけい藤乃の能力は強まった。エジプトあたりの魔術師はね、魔力を体内から逃さないように目を縫いつけるんだ。浅上藤乃とどこが違う」
……橙子さんの言葉は、覚悟していたというのにショックだった。
僕も、とうに解っていたのだ。
浅神の血族には、藤乃のような超能力者―――異なるチャンネルを生まれながらにして持つ子供が生まれる。彼らはそれを鬼子と嫌い、その力をなんとか封じようとした。
その結果が―――無痛症。
超能力というチャンネルを閉ざす為に、感覚という機能をも閉ざしたんだ。
だから浅上藤乃は、痛みが蘇ると超能力を発現してしまう。……閉ざされていた感覚が繋がって。
「……酷いですよ、そんなの。異常である事が、唯一正常でいられる事への条件だったなんて」
そうだ。浅上藤乃は無痛症という異常でなければ、僕らと同じ世界にはいられなかった。
けれど無痛症である以上、彼女は何も得られない。ただ世界に住んでいる事を許されていただけの、幽霊にすぎなくなった。
「痛みさえしなければ―――彼女も人を殺す事はなかったのに」
「おいおい、痛みを悪いものみたいに扱うな。痛みはいいものだ。悪いのはあくまで傷。前後を間違えてはいけない。
私達には痛みが、必要なんだ。それが、どんなに苦しいものだとしてもね。
人間は痛みがあるから危険が判る。火に触れて手を引っ込めるのは手が燃えるからか? 違うだろう。手が熱い、つまり痛いからだ。そうでなければ、我々は手が燃えつきるまで火という物の危険性が判らない。
傷は痛むのが正しいんだ、黒桐。それが無いものは人の痛みが分からない。
浅上藤乃は背骨を強打され、一時的に痛覚を取り戻した。その後に受けた痛みで、初めて防衛をしたんだ。今まで危険と感じなかった若者達を、痛みによって危険なモノと理解できた。―――まあ、だからといって殺すのはやりすぎだがね」
……けど、その藤乃には痛覚がない。
彼女の防衛によって若者達は死んでしまったが、その責任の一端は彼女を襲った連中にもあるじゃないか。彼女一人を悪者にはできない。
「―――橙子さん。彼女は治りますか」
「治療できない傷はない。治らない傷は傷ではなく死と呼ぶべきだろうね」
遠回しに、彼女は浅上藤乃の傷を死と呼んだ。
けど、今回の事件の原因は腹部の刺し傷だ。その痛みが蘇るというのだから、その原因さえ分かれば―――
「黒桐。彼女の傷は治らないよ。ただ痛み続けるだけだ」
「え?」
「だからさ。もともと傷ついてなどいないんだよ、あの娘はね」
――予想もしていなかった事を橙子さんは言った。
「あの…それって、どういう意味ですか…?」
「考えてもみろ。腹部をナイフで刺されたら、傷は独りでに治るものなのか? それも 日二日で」
……それは―――そうだけど。
根底からどばっと足場を崩す橙子さんの指摘に、僕はぐらぐらと困惑した。
くっくっく、と橙子さんは笑いを噛み殺す。
「おまえが浅上藤乃の過去を調べにいったように、私も浅上藤乃の現在を調べてみた。
藤乃は二十日から都心内のどの病院にも通っていない。彼女が秘密裏に通っていた専属医の所にも来ていなかったそうだ」
「専属医って、えぇ―――!?」
橙子さんは呆れた顔で眉を下げる。
「……君は物捜しは一流だが、洞察力に欠けるな。
いいか、無痛症患者にとって一番恐ろしいのは身体の異常なんだ。痛みがない彼らは、自分でどんな病気にかかっているか判らない。結果として定期的に医師の診察を受ける事になる」
そうか。まったくその通りだ。
けど、それじゃあ―――浅上藤乃の今の両親は、藤乃の無痛症を知らないのか。
「きっかけは些細な勘違いなんだ、黒桐。
藤乃はナイフを持った若者に組み伏せられ、刺されると思った。いや、事実刺される寸前までいっていただろう。その時に彼女の痛覚はすでに戻っていたんだから、その能力も発現できる。
切るか捻るかは[#「切るか捻るかは」に傍点]、藤乃のほうが先だった[#「藤乃のほうが先だった」に傍点]のさ。
結果、若者の首はねじ切られ、その血が押さえ付けられていた藤乃の体に散らばった。藤乃は思ったろうね。お腹を刺されてしまった、と」
その時の映像が克明にイメージできてしまい、僕はぶんぶんと頭を振った。
「それはヘンです。痛覚が戻っていたのなら、そんな勘違いはしないでしょう。刺されてないなら痛まない」
「初めから痛かったんだ、藤乃は」
………え?
「今の藤乃の主治医にカルテを見せてもらった。彼女は慢性の虫垂炎……俗にいう盲腸炎だ。もっとも、だからこそ医者にかかっていたんだろう。あの子の腹部の痛みはね、ナイフの痛みではなく内臓の痛みなんだよ。
彼女の痛覚は回復と麻痺を繰り返していた。ナイフで刺される直前に痛覚が回復したなら―――間違いなく刺されたと勘違いする。痛みを知らないで育ったのなら、傷なんてあるかどうかも確認しまい。藤乃は刺された自分の腹部を見て、その傷がなくてもこう思ったに違いない。ああ、傷が塞がってくれた、とね」
「勘違い―――なんですか」
「傷の種類そのものはね。だが、事実は変わらない。
実際彼女は追い詰められていた。ナイフがあろうがなかろうが、彼女は彼らを殺害する以外に抜け道はなかったんだ。殺さなければ殺される。体ではなく心がね。
けれど湊啓太が運悪く逃げ出してしまった。復讐があの場で済んでいたのなら、ここまではならなかったろうに。式の言う通りさ。どちらにせよ浅上藤乃は手遅れだ」
そういえば、式はそれを繰り返し言っていた。
なんで―――手遅れなのだろう。藤乃が殺人を犯してしまったという事か。でもそれなら、四人を殺してしまった時にすでに手遅れだという筈だ。
僕には、そこがどう考えても分からない。
「手遅れって、どうして」
「式の言っていたのは精神面での話だろう。藤乃の殺人はね、五人までなら殺人なんだ。それ以外の行為は殺人ではなく殺戮。そこには大義名分がないって、式は怒っていたんだよ。
……あの子は自分が殺入嗜好症のくせに、死というものがいかに大切なものか無意識に感じ取っている、だから浅上藤乃のように無差別な殺人行為はしない。そんな彼女にとってみれば、好き放題やってる藤乃は許せないんだろうね」
好き放題―――やっているんだろうか、浅上藤乃は。僕には必死になって逃げているようにしか思えないのに。
「だが、私が言う手遅れとは肉体面での話だ。
虫垂炎は放っておくと穿孔して腹膜炎になる、腹膜の炎症は虫垂とは比べものにならない激痛をともなうんだ。ナイフで刺されたぐらいには、まあ匹敵するかな。こうなると高熱を発したりチアノーゼを起こしたり、果ては血圧低下によるショックも起こす。十二指腸あたりにいってしまえば最悪、半日で死亡するよ。二十日から今日まで五日。とうに穿孔している頃だろう。
気の毒だが――――間違いなく致死傷だ」
なんでこの人は、涼しい顔でそんな事実を口にできるのか。
「まだ手遅れじゃないでしょう。急いで浅上藤乃を保護しないと……!」
「黒桐。今回の依頼主はね、浅上藤乃の父親なんだ。彼は幼い頃の藤乃の能力を知っていたんだろう。だから事件の惨状を聞いて、それが藤乃の仕業だと感づいた。その父親が、あの怪物を殺してくれと言ったんだ。彼女を唯一守れる父親が、彼女の死を望んでいる。ほらね、黒桐。あらゆる意味で彼女には救いがない。
それに、もう式が行ってしまった」
「―――――馬っ鹿野郎……………!」
誰に対してでもなく、僕はそう叫んでいた。
6
ブロードブリッジは巨人の手で絞られたように歪んでいた。
嵐の中橙子さんのバギーで駆けつけて警備員ともめていると、片腕を血塗れにした式が橋の地下からひょっこり出てきた。
警備員は式に走り寄ったが、式はあっけなく警備員に当て身を食らわせて気絶させた。
「よう。いるとは思ってたんだ、なんとなく」
式は青白い顔のまま、眠っているように言った。
言いたい事が山ほどあったのに、そんな弱々しい彼女の姿を見せられたら何も言えない。
近寄って触ろうとすると、式はひどく嫌がって支えさせてもくれなかった。
「片腕ですんだのか、式」
橙子さんは意外そうだ。式は不満そうに睨む。
「トウコ。あいつ、最後に透視能力まで発現しやがったぞ。ほっとけばとんでもない能力者になる」
「透視能力―――クレアボイアンスか。たしかに彼女の能力に千里眼が加われば、それは無敵だ。物陰に隠れても回転軸が作られてしまう。あん―――ほっとけば、だと?」
「……最後にあいつ、無痛症に戻りやがった。汚いよな、そんな浅上藤乃は対象にならない。仕方ないんで、ハラん中の病気だけ殺しておいた。急げばまだ助かるかもしれない」
式は、浅上藤乃を殺さなかった。
その事だけ理解すると、急いで病院に電話をする。この嵐の中でやって来てくれるかは不明だけど、、そうなったらこっちが連れていくだけの話だ。
幸い、彼女の主治医だったお医者さんは二つ返事で了承してくれた。行方不明の浅上藤乃を心配していたそのお医者さんは、電話越しで涙ぐんでいるようだ。少ないけれど、彼女にも味方がいてくれる。
感動している僕の後ろでは、ふたりが何やら物騒な会話をしていた。
「その腕は止血してあるのか? 血が出ていないが」
「ああ。使いものにならないんで殺しちまった。トウコ、義手ぐらい作れるだろ。人形師を自称してんだから」
「よかろう、今回の報酬はそれだな。おまえは直死の魔眼を持っているくせに肉体面が普通すぎるとかねがね思ってたんだ。その左手、霊体ぐらいは掴めるようにしておこう」
……なんか、そういうのやめてほしいな。
「救急車が来てくれるそうです。ここにいたら何かと面倒くさいから、離れませんか?」
もっともだ、と橙子さんは頷くけれど、式は無言だった。……たぶん浅上藤乃が無事に運ばれるのを見届けたいんだろう。
「連絡した手前、僕は最後までいます。結果は報告しますから、橙子さんは帰っていいですよ」
「この豪雨の中、黒桐も物好きだな。式、帰るぞ」
橙子さんの誘いを、式は遠慮する、とつっぱねた。
ははあ、とイヤな笑みをうかべて橙子さんは車両違反としか思えないオフロード用のバギーに乗り込む。
「式、浅上藤乃を殺せなかったからって、黒桐を殺すなよ」
あははは、と本気で言って橙子さんは車を走らせる。
夏の雨の中、僕と式は手近な倉庫の下で雨宿りする事にした。
救急車はほどなくやってきて、浅上藤乃を運んでいった。
この嵐の中だったので、顔は見れない。あの夜の少女だったのか確証は得られないけれど、そのほうがいいと思った。
式はぼんやりと夜を見つめていた。
雨に濡れて寒そうに佇んでいる。
彼女はずっと、浅上藤乃を睨んでいた。
雨音に紛れるように、彼女の心に問いかける。
「式、今でも浅上藤乃が許せないか」
「―――一度殺したヤツの事なんて、興味がない」
きっぱりと式は言う。
そこには憎しみも何もない。式にとって藤乃は知らない人になってしまったんだろう。……悲しいけど、それは彼女達にとって一番カタチのいい結末かもしれない。
式はちらり、と瞳を向けてきた。
「おまえはどうなんだ。どんな理由があっても人殺しはいけない事なんだろ」
彼女は、まるで自分について問いただしているようだった。
「……うん。けど、僕は彼女に同情する。正直にいって、彼女を襲った連中が死んだ事に何の感情も浮かばない」
「意外だ。オレ、おまえの一般論を期待してたのに」
……自分を責めてほしいのか、式。でも君は、誰も殺さなかったじゃないか。
僕は瞼を閉じて、雨音を聞く。
「そうかな。でも、これが僕の感想。
だってね、式。自分を見失っていたにせよ、浅上藤乃は普通の子なんだ。自分がしてしまった事を、誤魔化しもできずに受けとめてしまうだろう。たとえ自首したにせよ、あの子のやった事は立証できず、社会的な罪は問われない。それがよけい辛い」
「なんで?」
「……罰っていうのは、その人が勝手に背負うものなんだと思うんだ。その人が犯した罪に応じて、その人の価値観が自らに負わせる重荷。それが罰だ。
良識があればあるほど自身にかける罰は重くなる。常識の中に生きれば生きるほど、その罰は重くなる。浅上藤乃の罰はね、彼女が幸福に生きれば生きるほど重くて辛いものになる」
お人好し、と式はもらす。
「それじゃあ、良識のないやつは罪の意識も罰の重みもないってことかよ」
「無い事はないんじゃないかな。
それはその人にとって軽いだけだけど、やっぱり在るんだ。とても薄い良識の中に生まれたもっと薄い罪の意識。僕らからみればそんなもの、道端で転んだぐらいの感情だろうけど、その人にとってみればそれは枷になる。僕なら笑い飛ばせる感傷も、薄い良識しかない人にはとても居心地の悪い感傷となる。
大きさは違っても、罰という意味は同じだから」
……そう。例えば、唯一生き残った湊啓太が発狂寸前まで怯えていたのも、彼流の罪の意識が生み出した罰ということだと思う。
後悔も罪悪感も。畏れも恐怖も焦燥も。それを償う事もできず、でも償おうと頑張っていくしかない。
「たしかにさ、社会的に罪を問われないのは楽だろうけど。誰かに裁かれないのなら、罰は自分で負うしかない。自責はずっと消えてくれないものだろ。ふとした弾みで思い出される。誰も許してくれなかったから、自分でさえも許せない。
心の傷は蒼いままでずっと痛み続けるんだ。あの子の痛覚が残留していたように、永遠に癒える事はない。式が言うように心には形がないから――――もってしまった傷の治療はできないんだと思う」
式は黙って聞いている。浅上藤乃の過去を調べてきたせいだろうか、僕は柄にもなく詩的だった。
式は突然、倉庫の屋根から出て雨に打たれる。
「幹也はこう言うんだな。常識があればあるほど、罪の意識を覚えるって。だから悪人はいないんだって。
でもさ、オレにはそんな上等なものはないよ。そういうヤツを野放しにしていいの?」
言われてみればその通りだ。
式は善人とか悪人とかいうその前に、常識ってものが稀薄な子だった。
「そっか。じゃあ仕方ない。式の罰は、僕が代わりに背負ってやるよ」
それはまったくの本心だった。
式は不意を衝かれたように止まって、雨の中できょとんとしている。
しばらく雨に打たれて、式は不愉快そうに俯いた。
「……ようやく思い出した。おまえ、昔からその手の冗談を真顔で言うんだよな。白状すると。そういうの、式はすごく苦手だった」
「―――はあ、そうですか。女の子ひとりぐらいは抱えられるって思ってるんですけどね、僕は」
いじけて抗議すると、式は楽しそうに笑った。
「もうひとつ白状するとさ。……オレも、今回ので罪を背負ったと思う。けど、かわりに一つだけ分かった。自分の生き方、自分が欲しいものが。
とてもあやふやで危なかしい物だけど、今はそれにすがっていくしかない。そのすがっていくものが、自分が思っているほど酷いものじゃなかったんだ。それが少しだけ嬉しい。ほんの少し――ほん少しだけ、おまえよりの殺人衝動―――」
……最後の単語には顔をしかめるしかないけれど、そういって雨の中で笑う式はとても綺麗だった。
嵐は弱まって、朝には雨も止むだろう。
夏の雨に打たれる式を、僕はただ眺め続ける。
思えばそれが―――彼女が目覚めてから初めて僕に見せた、本当の笑顔だった。
痛覚残留/了
[#改ページ]
<IMG SRC=4伽藍の洞タイトル頁211.jpg>
[楼主] [5楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:19 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除伽藍の洞
4 / garan-no-dou.
[#ここから段組み表記なし横書きの右下にまとめて表記]
―― and she said
なにもかもをうけいれるのなら
傷はつかない。
自分に台わない事も。
自分が嫌いな事も。
自分が認められない事も。
反発せずに受け入れてしまえば
傷はつかない。
なにもかもをはねのけるのなら
傷つくしかない。
自分に合ってる事も。
自分が好きな事も。
自分が認められる事も。
同意せずにはねのけてしまえば
傷つくしかない。
ふたつの心はガランドウ。
肯定と否定の両端しかないもの。
その中に、私がいるもの。
/伽藍の洞
[#ここで段組み表記なし横書きの右下にまとめて表記終わり]
/0
「ねえ、三階の個室の患者さんの話、聞いた?」
「あったりまえでしょう。そんなの昨日のうちに知れ渡ったわよ。冗談一ついわない脳外科の|芦家《あしか》先生からして取り乱したんじゃ、こっちにだって筒抜けになるわ。信じられないけど、あの患者さん回復したんですってね」
「違う違う、そうじゃないの。ま、確かにあの娘の話なんだけど、それって続きがあるのよ。あの患者さん、昏睡から回復するなり何をしたと思う? 驚くなかれ、自分で自分の目を潰したんだって」
「――なによそれ、ほんとのはなし?」
「うん。院内じゃタブーになってるみたいだけど、ちょうど芦家先生に付き添ってた子から聞いたんだから間違いないわよぉ。先生が目を離したすきに手の平で瞼の上から目を圧迫したんだっていうんだから、ホラーよね」
「待って。あの子、二年間寝たきりだったんでしょ? なら体が動くはずないじゃない」
「そうなんだけどお。あちらのお家ってお金持ちでしょ? 入院中あたしらが丁寧にリハビリテーションしてあげてたから、関節とかは固まってなかったんだ。でもまあ、本人が動かしてたワケじゃないから関節も不自由でうまく動けなかったみたい。そのおかげで両目潰しは未遂に終わったんだけどさ」
「―――それでもすごいわよ。横臥は楽な反面、体がもっとも弱りやすいって習ったでしょ? 二年間も眠ってたら、ほとんど人間として機能しないでしょうに」
「だから先生も油断してたんでしょうね。ほら、なんていったけ。白目が出血するケース」
「球結膜下出血」
「そう、それそれ。普通は自然治癒するらしいんだけどさ、緑内障に一歩手前まで眼球を圧迫したとかで今は目が見えない状態なんだって。本人の希望で目だけを包帯でぐるぐる巻きにしてるって話」
「ふうん。じゃあ、あの患者さんは目が覚めてから一度も日の光を見てないのね。……闇から闇か。ちょっと普通じゃないな」
「ちょっとじゃないよう。それにさ、問題はまだあるんだ。どうもさ、失語症? そんな感じなんだって。うまく会話ができなくて、先生は知り合いの言語療法士を招くって。うちの病院、そういう人いないじゃん」
「|荒耶《あらや》先生は先月辞めてしまったものね。
でも―――そうなると、その患者さんは面会謝絶になるのかな」
「そうみたいよ。精神状態が安定するまで、ご両親も日に少ししか会えないんだって」
「そっか。そうなるとあの男の子、可哀相ね」
「誰、男の子って?」
「知らない? 患者さんが運ばれてから毎週土曜日に見舞いにくる子がいるのよ。もう男の子って歳じゃないんでしょうけど、あの子には会わせてあげたいわ」
「あ、例の子犬くんね。へえ、まだ通ってたんだ。今時には珍しく真摯じゃない」
「ええ。この二年間、あの子だけが患者さんを見守ってた。だから―――患者さんが回復した奇蹟の何分の一かは、あの子のおかげなんじゃないかなって思う。……何年もこの仕事やってて、そんな夢を口にするなんてわたしもどうかしてるとは思うんだけど、さ」
/1
◇
其処は暗く、底は昏かった。
自分の周りにあるのが闇だけと知って、私は死んでしまったのだと受け入れた。
光も音もない海の中に浮かんでいる。裸で、何も飾らないままで、両儀式という名前のヒト型が沈んでいく。
果てはなかった。いや、はじめから墜ちてなどいなかったのかもしれない。
ここには、何もないから。
光がないんじゃなくて、闇さえもない。何もないから、何も見えない。墜ちていくという意味さえない。
無という言葉さえ、おそらくはありえまい。
形容さえ無意味な「 」の中において、私の体だけが沈んでいく。裸のままの私は、目を背けたくなるぼど毒々しい色彩をしている。ここでは「ある」ものは全て毒気が強すぎるから。
「―――これが、死」
呟く声さえ、たぶん夢。
ただ、時間らしきものを観測する。「 」には時間さえないけれど、私はそれを観測できてしまう。
流れるように自然に、腐敗するように無様に、時間だけを数えていた。
何もない。
ずっと、ずっと遠くを見つめていても、何も見えない。
ずっと、ずっと何かを待ちつづけても、何も見えない。
とても穏やかで、満ち足りている。
いや――――あらゆる意味がないから、ここではただ「ある」だけで完璧なんだ。
ここは死だ。
死者しか到達しえない世界。生者では観測できない世界。
なのに、私だけが生きているなんて―――
気が、狂いそうだった。
二年間。私はここで死という観念に触れていた。
それは観測ではなく、むしろ戦いの激しさに近かったと思う。
◇
朝になって、病院はにわかに騒がしくなってきた。
廊下を行く看護婦の足音や起きだした患者達の生活音が幾重にも繰り返される。夜中の静けさに比べると、朝の慌ただしさはお祭りみたいに感じられた。
目が覚めたばかりの私には、その賑やかさは大きすぎる。
幸い、私の病室は個室だった。外は騒がしいが、この箱の中だけは静かで落ち着ける。
ほどなくして、医師が診察にやってきた。
「気分はどうですか、両儀さん」
「―――さあ。よく、わからない」
感情のない私の返答に、医師は困ったふうに黙り込む。
「……そうですか。ですが、昨夜よりは落ち着いているようですね。辛いでしょうが、現在の貴女の状況をお話しします。気分が悪くなったのなら遠慮なく言ってください」
医師の言葉に私は無言を返答にした。そんな、わかりきった事なんて興味はなかったから。
彼はそれを承諾の意と勘違いしたようだ。
「では、簡単に説明します。今日は九八年の六月十四日です。貴女―――両儀式さんは二年前の三月五日の深夜に交通事故によって当院に運ばれました。横断歩道上での、乗用車との接触事故です。覚えがありますか?」
「…………」
私は答えない。―――そんな事は知らない。
記憶という引き出しから取り出せる最後の映像は、雨の中で立ち尽くすクラスメイトの姿だけだ。どうして自分が事故に遭ったのか、なんて事は覚えていない。
「ああ、思い出せなくても不安がることはありませんよ。
両儀さんは乗用車と接触する寸前、それに気がついて跳び退いたようなのです。それが幸いしたのか、身体面での傷は重くなかった。
しかし、その反面で強く頭部に衝撃を受けたようです。当院に運びこまれた時点で意識は昏睡状態でしたが、脳そのものに傷はないようでした。ですから、記憶が思い出せないのは二年間の昏睡状態による一時的な意識の混乱でしょう。昨夜の診察では脳波に異状は見られませんでしたからね。
記憶はおいおい回復されるでしょうが、絶対とは言いきれません。なにぶん昏睡からの回復そのものからして前例がないのです」
二年間と言われても、私にはあまり実感が湧かない。眠っていた両儀式にとって、その空白は無に近しい。
両儀式という人物にとって、昨日とは間違いなく二年前の雨の夜の事だろう。
けれど、私にとってはそうではない。
今の私にとって、昨日はそれこそ「無」だ。
「また、両目の傷も重いものではありません。鈍器による傷は眼球の障害でもっとも軽いものですからね。昨夜は貴女の近くに刃物がなくて幸いでした。包帯もじきとれるでしょう。外の景色を見るのは、あと一週間ほど我慢してください」
医師の台詞には、どこか非難がましい響きがあった。
彼は私が自分で目を潰そうとした事に迷惑しているのだろう。昨夜もどうしてそんな事をしたのか問い詰めてきたが、私は答えなかった。
「これからは午前と午後に身体のリハビリテーションを行なっていただきます。ご家族の方との面会は日に一時間程度が適切でしょう。体と心のバランスが整えばすぐに退院できます。辛いでしょうが頑張ってください」
予想通りの台詞に興醒めする。
私は皮肉を口にするのも疲れて、自分の右手を動かしてみた。
……体は、そのどれもが自分の物ではないようだった。動かすのに時間がかかるし、関節や筋肉がばりばりと破けていくように痛む。
二年間も使っていなかったのだから、それも当然なのだろうが。
「では、今朝はこれで。式さんも落ち着いたようですから看護婦はつけません。何かご用の時は枕元のボタンを押してください。隣室に看護婦が控えています。些細な事でも遠慮なく使ってやってください」
やんわりとした台詞。
目が見えていたのなら、私は医師のインスタントな笑顔を見ていた事だろう。
去っていく医師は、最後に思い出した、とばかりに一言つけたしていった。
「ああ、そうでした。明日からカウンセラーがこられます。両儀さんにわりと近い年齢の女性ですから、気軽に会話してください。今の貴女には、会話は回復に欠かせないものですから」
そうして、私はひとりになった。
病室のベッドの上で横になって、自ら閉ざした瞳を抱えて、ぼんやりと存在する。
「自分の名前――――」
乾いた唇で、言った。
「両儀、式」
けど、そんな人間はここにはいない。
二年間の無が私を殺したから。
両儀式として生きてきた記憶は全て鮮明に思い出せる。でもそれがなんだっていうのだろう。一度死んで、生き返った私にとってそんな記憶が何になるというのか。
二年間の空白は、かつての私と今の私の繋がりを完全に断ってしまっている。
私は間違いなく両儀式で、式以外の何者でもないのに―――かつての記憶を、自分の物と実感できない。
こうして蘇生した私は、両儀式という人間の一生を映像にして見ているだけなのだ。映画の登場人物を、私は私と思えない。
「まるで、フィルムに映った幽霊みたい」
唇を噛む。
私は、私がわからない。
自分が本当に両儀式なのかさえあやふやだ。
私が、なにか得体の知れない者のように思える。
体の中身は空っぽで、洞窟みたいだ。
空気でさえ風みたいに通り過ぎる。
理由はわからないけれど、本当に、胸に大きな穴が開いてしまっているようだ。
それがとても不安で―――とても淋しい。