饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15367 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 欠けたパズルのピースは心臓。その空隙に、軽い私は耐えられない。

 空っぽすぎて、生きる理由も見当たらない。

「それが―――どうしたっていうんだ、式」

 言葉にしてみれば、どうという事はなかった。

 不思議な事に―――胸を掻き|毟《むし》らなければならないほどの不安や焦燥を、私は苦しいとも悲しいとも感じない。

 不安はある。痛みもある。

 でもそれは、あくまで両儀式だったものが抱くものだ。

 私は無感動だ。二年間の死からの蘇生にも興味はない。

 ただユラユラとここにいる。

 自分が生きているなんて、とても実感できないままで。

       /2

 次の日になった。

 光を捉えられない今の自分にも朝の到来が判るのは、ちょっとした発見だ。

 そんなどうでもいい事がやけに嬉しい。なぜ嬉しいのかと考えているうちに朝の診察が始まり、いつの間にか終わっていた。

 午前中はあまり静かではなかった。

 母と兄が面会に来て、話をした。

 まるで他人のようで、会話は噛み合いもしない。仕方なく式の記憶通りの対応をすると、母は安心して帰っていった。

 芝居をしているようで、何もかも滑稽だった。

        ◇

 午後になって、カウンセラーがやってきた。

 一応言語療法士だという女性は、底抜けに明るかった。

「はぁい、元気?」なんて挨拶をする医師の話を、私は聞いた事がない。

「へえ。やつれてるかと思ったけど、肌のつやとかキレイなのね。話を聞いた時はね、柳の下にいる幽霊みたいなのを想像しちゃってあんまり気乗りがしなかったんだけど。うん、私好みの可愛い娘でラッキーじゃん!」

 声の質からして二十代後半らしき女性は、私が眠るベッド横の椅子に座り込む。

「はじめまして。貴女の失語症の回復を助けにきた言語療法士です。ここの人間じゃないから身分証明書はないんだけど、目が見えないならどうでもいい問題よね」

「―――失語症って、誰が」

 つい言い返すと、女医はうんうんと頷いたようだ。

「そりゃあ、ふつう怒るわよね。失語症ってあんまりいいイメージないし、なおかつ誤診だし。芦家クンは教科書通りの人間だからさ、あなたみたいな特殊なケースには弱いのよ。でも、あなたも悪いわよ。面倒くさがって何も話そうとしないから、そんな疑いをかけられちゃう」

 さも親しげに、女性はくすくすと笑う。

―――完全な偏見だが。私は、この相手が眼鏡をかけている人間だと決めつけた。

「失語症と、思われてたんだ」

「そうよ。あなたは事故で脳やっちゃってるしね。言語回路が破損してるんじゃないかって。でもそれは誤診。あなたが話をしないのは身体的なものじゃなくて精神的なものでしょう? だから失語症じゃなくて無言症。そうなると私はお役目御免になるんだけど、わずか一分足らずでクビっていうのもイヤな話でさ。ちょうど本業も暇だから、しばらく付き合ってあげるわ」

 ……余計なお世話だ。

 私は看護婦を呼ぶボタンに手を伸ばす。

 と、女医はボタンをすばやく私から取り上げた。

「―――おまえ」

「危ない危ない。芦家クンに今の話を言われたら、私はすぐさま退場だものね。いいじゃない、失語症だと思わせておけば。あなたもつまらない返答をする必要がなくなるんだから、お得でしょ?」

 ……それは、たしかにその通りだ。けれどそれをはっきりと口にするこの人物は何者なんだろう。

 私は包帯の巻かれた瞳を正体不明の女医に向ける。

「おまえ、医者じゃないだろ」

「ええ、本業は魔法使いなの」

 呆れて、私は息を吐いた。

「手品師に用はないよ」

「あはは、確かにそうね。あなたの胸の穴はマジシャンじゃ埋められない。埋められるのは普通の人だけだもの」

「―――胸の、穴―――?」

「そう。気付いてるんでしょ? 貴女は、もう一人なんだって事を」

 クスリと笑って、女医は立ち上がった。

 片付けられる椅子の音と、立ち去っていく足音だけが私に届く。

「まだ早すぎたみたいだから、今日はここまでにしとく。また明日くるから、バイ」

 唐突に現れて、唐突に彼女は去っていった。

 私は動きにくい右手で、口元に手をあてた。

 もう、ひとり。

 胸に空いた、穴。

―――ああ、なんて事だろう。

 なんて事を、私は失念していたんだ。

 いない。どこに呼びかけたって、彼がいない。

 両儀式の中にいたもう一人の人格である両儀織の気配が、綺麗さっぱりなくなっている

        ◇

 式は、自らの内に異なる人格を抱える二重人格者だった。

 両儀の家系には遺伝的にふたつの人格を持ってしまう子供が生まれる。世間一般の家庭なら忌み嫌われるそれは、両儀の家では逆に超越者として|祀《まつ》られ、正統な跡継ぎとして扱われていた。

 ……式はその血を受け継いだ。男子である兄を差し置いて女子である式が跡継ぎになっているのはそのためだ。

 けど、本来はこんな事は起こらない。

 ふたつの人格―――陽性である男と陰性である女の人格の主導権は、陽性である男性のほうが強い。

 今までの数少ない“正統な”両儀の跡継ぎは、全員が男性として生まれ、その内に女性としての人格を持っていた。けれど式は何かの手違いでそれが逆転してしまったのだ。

 女性としての式の内に、男性としての織が|包摂《ほうせつ》された。

 肉体の主導権を持つのが女性である式―――つまり私。

 織は私のマイナス面の人格で、私の抑圧された感情を受け持っていた。

 式は織という負の闇を圧し殺して生きてきた。何度も何度も、自分という織を殺して普通のふりをして生きていた。

 織本人は、それに別段不満もなさそうだった。彼は大抵眠っていて、剣の稽古の時などに呼び起こすと退屈そうにそれを請け負った。

 ……まるで主人と従者の関係だけれど、本質はそうじゃない。式と織は結局のところ、ひとつなんだ。式の行動は織のもので、織が自身の嗜好を圧し殺すのは彼本人の望みでもあった。

 ……そう。織は殺人鬼だった。私が知るかぎりでその経験はなかったが、彼は人間という自分と同じ生物を殺害する事を望んでいた。

 主人格である式はそれを無視した。ずっと、それを禁じてきた。

 式と織は互いに無視しあいながらも、なくてはならない存在だった。式は孤立していたけれど。織というもう一人の自分のおかげで、孤独ではなかったから。

 でも、その関係が壊れる時がやってきた。

 二年前。―――式が高校一年生だった時。

 今まで肉体を使いたがらなかった織が、自分から表に出たいと願いはじめたあの季節――――。

 そこから式の記憶は曖昧だ。

 今の私では、高校一年の頃から事故に遭うまでの式の記憶が呼び出せない。

 覚えているのは――殺人現場に居合わせている自分の姿。

 流れでる赤黒い血液を見て、喉をならす自分の姿。

 けれどそれより、もっと鮮明に覚えている映像がある。

 赤くて、|炎《も》えるような夕暮れどきの教室。

 式を壊してしまった、あのクラスメイト。

 シキが殺したかった、ひとりの少年。

 シキが守りたかった、ひとつの理想。

 それを、ずっと昔から知っている気がするのに。

 長い眠りから目を覚ました私は、彼の名前だけが、まだ思い出せないでいた。

        ◇

 夜になって、病院は静かになった。

 ときおり廊下に響くスリッパの音だけが、私は目覚めているのだと感じさせる。

 闇の中で―――いや、闇の中だからこそ。

 何も見えない私は、自分が独りだと痛感する。

 かつての式ならその感覚はなかっただろう。

 自らの内にもう一人の自分を抱えていた式。けれど織はもういない。いや―――私は、自分が式であるのか織であるのかさえ判らない。

 私の中には織が無かった。ただそれだけの事で、私は自分が式だと認識している。

「くく……なんて矛盾。どちらかがいなければ、自分がどちらか判らないなんて」

 嗤ってみたけれど、胸の空虚さは少しも埋まらない。せめて悲しいとでも思えれば、この無感動な心にも何か変化があるだろうに。

 自分が判らないはずだ。

 私は誰でもないから、両儀式の記憶を自分の物と実感できない。

 両儀式というカラだけあっても、その中身が洗い

流されてしまったのでは意味がない。……いったい。このガランドウの入れ物には、どんな物が入るのだろうか。

「―――ボ。クガ、ハイ、、る。。ヨ」

 ふと、そんな音が聞こえた。

 扉が開いたような空気の流れ。

 気のせいだろう、と私は閉ざされた瞳を向ける。

 そこに――――いた。

 白いモヤが、ゆらゆらと揺らめいていた。見えないはずの私の目は、そのモヤの形だけをとらえている――

 モヤは、どことなく人間に似ていた。いや、人間がクラゲのように骨抜きになって風に流されている、としかとれない。

 気色の悪いモヤは、一直線に私に向かってきた。

 まだ体が満足に動かない私は、それをぼんやりと待った。

 これが幽霊というものだとしても、恐くもない。

 本当に恐ろしいのはカタチが無いモノだ。たとえどんなに奇怪なものでもカタチがあるものなら、私は恐いとは感じない。

 それに―――幽霊であるのなら、今の私も似たようなものだろう。生きていないコレと、生きる理由のない私に大差はないのだから。

 モヤは私の頬に触れてきた。

 全身が急速に凍えていく。背筋に走る悪寒は鳥の爪めいて鋭い。

 不快な感覚だったけれど、私はそれをぼんやりと見つめ続けた。しばらく触れていると、モヤは塩をかけた|蛞蝓《ナメクジ》みたいに溶けていった。

 理由は簡単だ。モヤが私に触れていた時間は五時間ほどあった。時刻はじき午前五時になる。朝になったので幽霊は溶けていったのだろう。

 眠れなかった分、私はこれから寝なおす事にした。

       /3

 私が回復してから何日目かの朝がやってきた。

 両目はまだ包帯に巻かれたままで何も見えない。

 誰もいない、|静謐《せいひつ》な朝。

 |漣《さざなみ》みのような静けさは、華麗すぎて我を失う。

 ……小鳥の|囀《さえず》りが聴こえる。

 ……陽射しの温かさを感じる。

 ……澄んだ空気が肺に満たされる。

 ……ああ。あの世界に比べて、ここはとても綺麗だ。

 なのに、それを喜びもしない自分がいる。

 ただ気配だけで感じる朝の空気に包まれるたびに、思う。

―――こんなにも幸福なのに。

 人間は、こんなにもひとりだ。

 ひとりでいる事は何にもまして安全なのに、どうしてひとりでいる事に耐えられないのか。

 かつての私は完成されていた。ひとりで足りていたから、誰も必要ではなかった。

 けど、今は違う。わたしはもう完全じゃない。

 足りない部分を待っている。こうしてずっと待っている。

 でも、私はいったい、誰を待っているというのだろう……?

        ◇

 カウンセラーを名乗る女医は毎日やってきた。

 いつのまにか私は彼女との会話を虚ろな一日の確かな拠り所にしているようだった。

「ふぅん、なるほどね。織クンは肉体の主導権がなかったんじゃなくて、使わなかっただけなんだ。ますます面白いな、あなた達は」

 相変わらずベッドの横に椅子を寄せて、女医は楽しげに話をする。

 どういうわけか、彼女は私の事情をよく知っていた。

 両儀の家の者しか知らない私の二重人格の事も、二年前の通り魔事件に私が関わっていた事も。

 本来ならば隠し通さなければならないそんな事柄は、けれど私にとってはどうでもいい事だ。

 知らず、私はカウンセラーの軽口に合いの手をいれるように会話をしていた。

「二重人格に面白いも何もないと思う」

「ちっちっち。あなた達のはね、二重人格なんて可愛いものじゃないわ。いい? 同時に存在して、それぞれが確固たる意志をもって、なおかつ行動が統合されている。こんな複雑怪奇な人格は二重人格じゃなくて、複合個別人格というべきね」

「複合……個別人格―――?」

「そう。けど、少し疑問が残る。それなら織クンは眠っている必要なんかないのよ。あなたの話じゃ彼はいつも眠っていたというけど、そこがちょっと、ね」

 いつも眠っていた織。

 ……その疑問が分かるのは、たぶん私だけだ。

 織は式より―――夢を見るのが好きだったから。

「それで。今も眠っているの、彼は?」

 女医の言葉に、私は答えなかった。

「そっか。じゃあやっぱり死んだのね。二年前の事故の時、あなたの代わりになって。

 だからあなたの記憶には欠落がある。織クンが受け持っていた二年前の事件の記憶が曖昧なのはそのせいよ。彼が失われてしまった以上、その記憶は戻らない。……両儀式が通り魔殺人にどう関わっていたかは、これで本当に闇の中に消えてしまったわ」

「その事件。犯人は捕まっていないそうだけど」

「ええ。あなたが事故に遭ってから嘘みたいに行方を|晦《くら》ましたわ」

 どこまで本気なのか、女医はあははと笑った。

「でも、織クンが消える理由はなかったのよね。だって黙っていれば、消えていたのは式サンだったんでしょ? 彼はどうして、自ら消える事を望んだのかしら」

 そんな事、私に訊かれても解るものか。

「知らない。それよりハサミは持ってきた?」

「あ、やっぱりダメですって。あなたは前科があるから、刃物は厳禁だそうよ」

 女医の言葉は予想通りだ。

 日頃のリハビリテーションのおかげか、私の体はなんとか自分で動けるくらいまでに回復した。日に二回、わずか数分だけの些細な運動でこんなにも早く回復したのは私が初めてだそうだ。

 そのお祝いをしよう、という女医に、私はハサミを欲しがった。

「でもハサミなんか何に使うの? 生け花でもする気?」

「まさか。たんに、髪を切りたかったから」

 そう。体が動くようになったら、背中にあたる自分の髪が欝陶しくなったのだ。首筋からざらざらと肩に流れる髪は|小煩《こうるさ》い。

「それなら美容師さんを呼べばいいのに。言いにくいなら私が呼んできましょうか?」

「いい。他人の手が髪に触れるなんて、想像したくもない」

「そうよねー、髪は女の命だもの。あなたは二年前のままなのに、髪だけは伸びていたのって可憐だわ」

 女医が立ち上がる音がした。

「それじゃあ代わりにこれをあげましょう。ルーンを刻んだだけの石だけど、お守りぐらいにはなると思うの。ドアの上に置いておくから、誰にも取らせないように注意してね」

 女医は椅子を使って扉の上にお守りとやらを置いたようだ。

 彼女はそのまま扉を開ける。

「それじゃあ、私はこれで。明日からは別の人で来るかもしれないから、その時はよろしくね」

 おかしな言い回しをして、女医は立ち去っていった。

        ◇

 その夜、いつもの来客は現れなかった。

 深夜になると決まってやってくるモヤのような幽霊は、この日にかぎって病室に入ってこなかった。

 モヤは毎夜やってきては私に触れていた。

 それが危険な事だと判っていたが、私はそれを放っておいた。

 あの幽霊みたいなものが私に取り憑いて殺すというのなら、それもかまわない。

 いや、いっそ殺してくれるのなら、どんなに簡単だろう。

 生きている実感の湧かない私には、生きていく理由さえない。なら、いっそ消えてしまったほうが楽だ。

 闇の中、瞼を覆う包帯に指を触れさせた。

 視力はじき戻ろうとしている。そうしたら私は今度こそ完全に眼球を潰してしまうだろう。

 今は視えないけれど、治ってしまえばまたアレが視えてしまう。あの世界が見えてしまうぐらいなら、こんな目はいらない。その結果としてこちらの世界が見えなくなったとしても、幾分は増しだろう。

 けれど、私はその瞬間まで行動を起こせないでいる。

 かつての式なら迷う事なく眼球を破壊しているだろうに、今の私は仮初めの暗闇を得た事で停滞しているのだ。

―――なんて、無様。

 私は生きる意志もないくせに、死のうとする意志さえない。

 無感動な私は、どんな行動にも魅力を感じない。誰かの意志を受け入れる肯定しかできない。

 だから、あの得体のしれないモヤが私を殺すというのならそれを止めない。

 死ぬ事に魅力は感じないけれど、それに抵抗する気もない。

 ……どうせ、喜びも悲しみも、両儀式だったものにしか与えられないというのなら。

 今の私は、生きていく意味さえないのだから。

伽藍の洞/

        1

 |蒼崎《あおざき》|橙子《とうこ》が|両儀《りょうぎ》|式《しき》という人物の話を聞いたのは、ちょうど六月になったばかりの天気のいい昼下がりの事だった。

 彼女が気紛れで雇った新入社員が両儀式の友人で、暇潰しのつもりで新入社員の話を聞く事にしたのがそもそもの発端だ。

 話によると両儀式という人物は二年前に交通事故に遭ってから昏睡状態に陥り、生命活動こそ維持しているものの目が覚める見込みはまったくないのだという。それだけでなく、どうも肉体の成長も止まってしまっているらしい。生命活動があるのに成長が止まっているなんて間違いを、橙子は初めは信じなかった。

「……ふぅん。成長しない生物は死んでるものなんだがね。いや、時間の圧力は死人にさえ影響を及ぼす。死体は腐敗という成長をとげて土に還るだろう。動くくせに成長しないなんてのは、この間キミが稼働させてしまった自動人形ぐらいのものだよ」

「でも本当なんです。彼女はあれから歳をとってるように見えない。式のような原因不明の昏睡状態って他に例はないんですか、橙子さん」

 新入社員の問いに、橙子はふむ、と腕を組んだ。

「そうだな。あちらさんの国で有名なのがあるだろう。当時結婚したばかりの二十代の女性が昏睡に陥り、実に五十年もの歳月を超えて蘇生したという例だ。知らないか?」

 橙子の言葉に新入社員はいえ、と首をふった。

「あの、その入って目覚めた時はどうなっていたんですか」

「いたって正常だったそうだ。五十年の眠りなんて、それこそ無かったぐらいにな。彼女は二十代の心のままできちんと蘇生して、夫を悲しませた」

「―――え? 悲しむって、なんでですか。奥さんが回復したんだから、それは喜ばしい事じゃないですか」

「だからさ。心は二十代のままで肉体はもう七十歳に老化してしまっていたんだ。昏睡している間にもね。生かすというのは劣化させるって事だから、こればかりは仕方あるまい。

 そうして、七十歳のご夫人は自分がまだ二十代の

つもりで夫に遊びにいこうとせがむ事になる。夫の方はちゃんと七十年生きてきたからそれでいい。問題は妻のほうだ。五十年という時間を知らないうちに使いきられた彼女は、どんなに言葉で説明してもその現実を認められない。嫌がって認めないんじゃなくて、本当に真実として認識できないんだ。

 悲劇といえば悲劇だよ。皺だらけの体を背負って遊び場に行こうとする彼女を、夫は泣きながら止めたという。そしてこう思ったそうだ。こんな事なら目覚めなければよかったのに、と。

 どうだ? 夢物語のような悲劇はね、実はとうの昔に現実の物になっているのさ。参考になったか?」

 橙子の言葉に、彼は神妙にうなだれた。

「おや、思い当たる節でもあったか」

 意地悪くニヤつく橙子に、彼は微かに頷いた。

「……えぇ、少し。ときどき思うんです。式は、自分から起きようとしないんじゃないかって」

「ワケありのようだな。よし、暇潰しに話してみろ」

 本当に暇潰しのために言う橙子に、彼は怒って顔を背ける。

「お断りします。橙子さんの、そういう無神経なところって問題ありますよ」

「なんだ、話をふったのはそっちだろう。いいから話せ。私だって興味本意なわけじゃないんだ。|鮮花《あざか》のやつ、電話口で毎回そのシキという名前を言ってね。どんな人間だったのか知らないと、返答のしようもないだろう?」

 鮮花、という名前を出されて彼は眉を寄せた。

「前から尋ねようと思ってたんですけどね。うちの妹と燈子さん、どこで知りあったんです?」

「一年前に旅先で。ちょっとした猟奇事件に巻き込まれた時に、不覚にも正体がばれてしまった」

「……まあいいですけど。鮮花は純真なんですから、あることないこと吹き込まないでくださいよ。あいつ、ただでさえ不安定な年頃なんですから」

「鮮花が純真、ね。たしかにありゃあ純真かもしれない。ま、妹との確執は君の問題だから関与しないよ。それよりシキって子の話をしよう」

 机に身を乗り出して言う橙子に、彼はため息まじりに話しだした。

 両儀式という友人の性格と、その特異な人格の在り方を。

 彼と両儀式は高校時代のクラスメイトだった。

 入学する前から両儀式という名前に縁があった彼は、彼女と同じクラスになった後に友人になった。あまり友人を作りたがらない両儀式と親しくしていたのは彼だけだったという。

 だが、彼らが高校一年生だった頃に起きた通り魔殺人事件以後、両儀式は微妙に変わりだしてしまった。

 彼女は自分が二重人格者だという事、そしてもうひとつの人格が殺人を嗜好しているという事を彼に打ち明けたのだ。

 実際、三年前の通り魔殺人に両儀式がどう関わっていたかは謎だ。それが明らかになる前に、彼女は彼の目前で事故に遭って病院に運ばれた。

 三月の初めの、冷たい雨が降る夜に。

 そんな一連の話を、橙子は酒の肴程度にしか聞いていなかった。けれど話が深まるにつれ、彼女の表情から笑みが消えていった。

「―――以上が僕と式の顛末です。もう、二年も前の話だけど」

「―――それで成長が止まってるワケか。命のリザーブなんて、吸血鬼じゃあるまいし」

 くっ、と唇の端を釣り上げて橙子は笑った。

「それでさ、その子の名前ってどう書くんだ? 漢字で一文字だろ?」

「数式の式ですけど、それが何か?」

「式神の式、か。それで名字が両儀ときた。出来すぎだよ、それ」

 唾えていた煙草を灰皿に押しつけると、橙子は我慢ならないとばかりに立ちあがる。

「病院は郊外だったっけ。興味が湧いたから、少しだけ様子を見てくる」

 返事を待たずに橙子は事務所を後にした。

 まさかこんな所でそんな物に関わるなんて、なんて因果だと唇を噛みながら。

        2

 両儀式が回復したのは、それから数日後の事となる。

 親族でさえ容易に面会ができない状況は、取りも直さず一般面会の不可能性を示していた。

 そのせいだろう。

 新入社員の彼が人が変わったような陰欝さでこつこつとデスクワークに没頭しているのは。

「暗いな、どうにも」

「はい。電灯、いいかげんに購入しましょう」

 橙子に視線も向けないで彼は答える。

 真面目な人間が思い詰めるととんでもない奇行に出る場合がある。この青年もその類かな、と予想して橙子は声をかける事にした。

「そう思い詰めるな。今日あたり不法侵入しそうな気配だぞ、君」

「無理ですよ。あそこの病院、研究所なみの警備システムなんですから」

 さらりと返答するあたり、かなり詳しく警備システムとやらを調べあげているのだろう。

 せっかくの新入社員を犯罪者にする訳にもいかないか、と橙子は肩をすくめる。

「……黙っておこうと思ったんだが、仕方ないから教えてやる。私ね、ちょっとした代打として今日からあの病院に勤める事になった。両儀式の近況にさぐりを入れてきてやるから、今は大人しくしていろ」

「―――――え?」

「だから、医師として招かれている。いつもなら断る所だが今回は他人事ではないのでね。君から無理遣り話を聞き出した手前、これぐらいはしてやろうと思ったんだ」

 つまらなそうに橙子はいう。

 彼は椅子から立ち上がると、そのまま橙子へと歩み寄って彼女の両手を握った。

 ぶんぶん、とふたりの手が縦に動く。……それが感謝の意思表示なのだと解らず、橙子は難しい顔で彼の顔を眺めた。

「奇怪な趣味をしているな、キミ」

「うれしいんです。おどろきました、橙子さんにも人並みの優しさとか義理があったんですね!」

「……人並みにはないが、そういう事は口にしないほうがいいと思うぞ」

「いいんです、僕が浅はかでした。あ、だから今日はスーツ姿なんですねっ。すごく格好いいです、似合ってます。見違えちゃいました、ええ!」

 ……普段通りの服装なんだが、まあいい。世辞は受け取っておく」

 何を言っても無駄か、と悟って橙子は会話を手早くきりあげた。

「そういう訳だから、あまり早まった行動はするな。ただでさえあの病院はおかしいんだ。君はここで留守番に専念する事。いいな?」

 その言葉で、今まで舞いあがっていた彼はいつも通りに落ち着いた。

「―――おかしいって、あの病院がですか?」

「ああ。結界らしき物の前準備が施されている。私以外の魔術師が介入しているようだ。もっとも目的は両儀式ではあるまい。それなら二年間も放ってはおかないだろう」

 あからさまな嘘だったが、堂々と言い切ったので彼は疑いもしなかった。

「……えっと。結界って、このビルの二階みたいなヤツですよね?」

「ああ。結界とはレベル差こそあれ、一定の区画を隔離するものをいう。本当に壁を作ってしまうものから、見えない壁で覆ってしまうものもある。一番上等なのは何もしていないのに誰も近寄らない、という強制暗示。

 このビルと一緒だ。ここに来る目的がない者には意識できない、という暗示なら、誰にも気付かれずに結界であり続けられるからな。派手に異界を象って周囲に異常をしらしめる結界なんていうのは下の下の仕事だよ」

 異常を気づかせない異常、それが彼女の工房の守りだ。地図にあっても誰もが見落としてしまう結界。卓越した魔術師が巣くう世界とは、何げない隣の家めいたものなのだ。

 だが―――その結界を、この新入社員は無意識に破った。蒼崎橙子という人物を知っていなければ見付けだせないこのビルを、彼はいともたやすく発見してしまったのである。

 ……まあ、そのあたりが彼女が彼を雇った理由でもあるのだが。

「……それで、病院の結界って危ない物なんですか?」

「人の話を聞けというんだ。結界自体に害はない。もともとは仏教用語だぞ、結界という単語は。

 アレはあくまで外界と聖域を隔離するものなんだ。いつからか魔術師が身を護る術の総称になってしまったがね。

 いいか、さっきも言ったが一番上等な結界は一般人に異常と思わせない“無意識下に訴える強制観念”なんだ。もっとも高等なのは空間遮断になるんだが、そこまでいくと魔術師ではなく魔法使いの業になる。現在、この国に魔法使いは一人しかいないから、まずそんな結界は張れない。

 張れないんだが、あの病院に張られた結界はかなり巧い。私も初めは気がつかなかったぐらいだ。知り合いに結界作りのエキスパートがいたが、そいつと同格の作り手かな。……まあ、結界作りの専門家には哲学者が多い。連中は切った張ったには疎いから、まず安心していいだろう」

 ……そう、結界自体に危険はない。問題は外界と遮断した世界で何を行なうか、という事だ。

 あの病院の結界は外ではなく内に向いていた。

 すなわち、院内でどのような出来事が起きても誰も気がつかない、という類の。例えば深夜に病室の一つが爆発しても、誰一人として目を覚ます事はないだろう。

 橙子はその事実を口にしない。そろそろ時間だ、と時計に視線を投げて歩きだした。

 細いその背中に彼の声がかかる。

「橙子さん。式の事、よろしくお願いします」

 ああ、と燈子は手の平をひらひらさせて答えた。振り返りもしない彼女に、彼はもう一つの些細な疑問を投げかけた。

「そうだ。その、知り合いのエキスパートって誰ですか?」

 ぴたり、と橙子の足が止まる。

 彼女はしばし考え込んでから、くるりと振り返って答えた。

「そりゃあおまえ。結界の専門家っていえば、坊主に相場が決まってるだろ」

        3

 橙子が臨時の医師として病院に招かれてから六日ほど経過した。

 日に日に回復に向かっているという両儀式の吉報を彼に届ける度に、橙子はある種の不安を持たずにはいられなかった。

 すなわち、現在の両儀式と過去の両儀式が他人にとって同一のものなのか、という事を。

「日に二回のリハビリテーションと脳波のチェックが彼女の日課らしい。退院の日ぐらいは面会もできるだろうから、もうしばらくの我慢だな」

 病院から帰ってきた橙子は、オレンジ色のネクタイを緩めながら机に腰かける。

 夏を間近に控えた夕方。

 夕日の赤が、電灯のない事務所の内部を深紅に染め上げていた。

「一日二回のリハビリって、それだけでいいんですか? 二年間も眠ったままだったんですよ、式は」

「患者が眠っていても毎日関節は動かしてたんだろう。それにリハビリは運動じゃないんだ。日に五分もやれば上等だよ。そもそもリハビリテーションっていうのは医学用語じゃないぞ。あれはね、人間としての尊厳の回復という意味なんだ。だから今まで寝たきりだった両儀式が、自身を人間なのだと実感できればそれでいい。身体の回復は、また別の話」

 そこで一息いれて、橙子は煙草に火をつける。

「だがな。問題は身体面ではなく精神面だ。あの子は、以前の両儀式ではなくなっている」

「―――記憶喪失、ですか」

 覚悟していたのか、彼は恐る恐るそんな罵迦げた事を言った。

「うん、どうだろう。人格自体は以前のままだとは思う。両儀式自身に変化はない。変化があったのは式のほうでね。君にはショックな話かもしれんな」

「そんなの、今までで慣れました。詳しく説明してください。式は……その、どうなってるんですか?」

「ああ。率直に言うとね、彼女は空っぽなんだ。

 今まで内にもう一人の自分を抱えていた式。けれど織はもういない。いや、彼女には自分が式であったか織であったかさえあやふやだろう。

 目覚めた彼女の中には、織が無かった。それが失われた事により、彼女の心の中は空白になってしまったんだ。おそらく―――あの子は、その空隙に耐えられない。……胸が空いているんだ。穴のように、足りていない。空気さえ風のように通り過ぎる」

「織がいないって―――どうして」

「式の身代わりになったからだろ。

 とにかく二年前の事故の時に両儀式は死んだんだ。なまじ生きているから勘違いしてしまうが、死んだものと仮定してみろ。

 両儀式は新しい人間として両儀式の肉体に再生した。今の式にとって、過去の式、そしてそれによって派生している現在の式は他人にすぎない。

 誰だって他人の歴史は実感できない。たぶん、あの子は今も自分が自分でない感覚のままで夜を過ごしているだろう」

「……他人って。それじゃあ式は以前の事は覚えていないんですか?」

「いや、覚えてるよ。今の彼女は間違いなく君の知ってる式だろう。彼女が生き延びられたのは、式と織という個別にして同格の人格を持っていたからだ。

 両儀式が事故によって精神死した。その時に死ぬ役をかって出たのが織とする。それで彼女は死亡したわけだが、まだ脳内には式が残っているんだ。

 結果、精神死にはならない。式は両儀式が死んでしまったという事実の為に眠り続けてしまっていたが、死んだのは織だから彼女は生きていた。

 だから―――二年間も昏睡していたんだろうし、生命活動はあるのに成長しなかった。死んでいるのに生きていたからさ。

 しかし蘇生した彼女は以前の式とは細部が違う。記憶喪失、というほどでもないが、必要時でなければかつての記憶を思い出したりはしないだろうね。

 他人とも別人とも言えないが、今の彼女は今までの式とは違うんだ。式と織という人格が混ざり合った第三の人格とでも受けとめておけばよかろう」

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