饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15359 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 ……だが、本当はそんな事にはなりえない。

 式が両儀である以上、半身である織と溶け合う事もないし、織が欠けた空白を式ひとりで埋める事もできないのだから。

 その事実を口にせず、橙子は話を続ける。

「だが、たとえ彼女がまったくの他人として再生しても、彼女は両儀式だ。どんなに自身に実感が持てなくても―――あの子はやっぱり両儀式なんだよ。今はまだ生の実感さえ掴めていないだろうが、いずれ彼女も自身を式なのだと認識できる時がくる。

 薔薇は薔薇として生まれるんだ。育った土と水が変わっただけで違う花になりはしない」

 だからそんなことで悩みこむな、と彼女は呟くように付け足した。

「結局、空いた穴は何かで埋めるしかないんだ。

 彼女は記憶ではなく、今を積み重ねて新しい自分を形成していくしかない。それは誰も手を貸せない伽藍造りだ。他人が口をはさめる事じゃない。ようするに、君は今までどおりに彼女に接すればいいだけさ。あの子の退院、近いそうだよ」

 吸いきった煙草を窓の外に放って、橙子は両手を

上げて背筋を伸ばした。

 ばきばきと豪快に骨がなる。

「まったく、慣れない事はするもんじゃないな。煙草がまずくて仕方がない」

 誰に言うでもなく、長く息をはきながら彼女は言った。

       /4

 いつも通りの朝の診察が終わって、今日が二十日だと知らされた。私が目覚めてから七日経ったという事だ。

 身体の方も順調に回復しつつある私は、明日退院する事になる。両目の包帯も、明日の朝には解けるという話だった。

 七日……一週間。

 その間に私が得たものは、そう多くはない。

 失ったものが多すぎて、何を無くしてしまったのかさえ曖昧だ。

 両親も秋隆も、たぶん以前のままで変わっていない。けれど私が捉える彼らは別人だ。両儀式という私でさえ変わってしまったのだから、私をとりまいていた全ての事柄が無くなってしまうのは、きっと仕方のない事なのだ。

 ふと、両目を覆う包帯に手をかける。

 失ったものの代わりに得たモノが、これだ。

 二年間―――生きたまま『死』という物に触れていた私は、そんなカタチのない概念を見てしまう体質になっていた。

 昏睡から目覚めて初めて目にしたものは、驚いてかけよってくる看護婦ではなく……彼女の首筋に引かれた線だった。

 人にも、壁にも、空気にも―――凶々しくも静謐な線が見えた。線はつねに流動し、一定しない。

 けれど確実にその個体のどこかにあって、今にもそこから『死』が滲みだしそうな強迫観念に囚われた。

 私に話しかける看護婦が、首筋の線からぼろぼろと崩れていく幻視をした。

 それが一体何であるか理解した時―――私は、自らの手でこの両目を押し潰そうとした。

 二年間も動いていなかった両腕は力をいれるだけで激痛を伝えてきたけれど、それでも腕を動かした。

 不幸なのか幸運なのか、私の腕力はまだ弱くて、両目を壊すという行為は途中で医師に止められてしまった。

 彼らは意識の混濁からの突発的な衝動だと結論して、私が両目を潰そうとした理由をあまり問わなかった。

「もうすぐ―――目が、治るのか」

 そんなのは御免だ。あんな世界など、私は二度と見たくない。

 何もない世界。そこに『ある』ころは、とても穏やかで満ち足りていた。

 ――信じられない。目が覚めて思い返せば、あの場所ほどおぞましい世界はないんだ。あの闇が、眠っていた私が見たただの悪夢だったとしても――あそこに墜ちるのだけは耐えられない。

 そして、そこに繋がってしまうこの両目も。

 私は指先を瞳につきたてる。

 あとは竹刀を振りおろすような潔さで、この指を眼球につき入れるだけだ――――。

「待て待て。思い切りが良すぎるよ、おまえは」

 突然、声がした。

 私は扉に意識を向ける。

 そこにいるのは―――何だ?

 足音も無く誰かは近寄ってくる。

 私の横たわるベッドの脇に来ると、誰かはぴたりと止まった。

「直死の魔眼か。それを無くすのはもったいないぞ、式。第一、潰したところで視えてしまうものは視えてしまうんだ。呪咀の類はな、捨ててしまっても戻ってくるものなんだから」

「おまえは―――人間か?」

 私の問いに、誰かは笑いをかみ殺したようだ。

 しゅっ、とライターが火を吐き出す音がする。

「私は魔術師だよ。おまえに、その目の使い方を教えてやろうと思ってね」

 聞き覚えのある女の声。……この誰かは、間違いなくあのカウンセラーだった。

「この目の使い方、だって……?」

「ああ。今よりはマシな程度だが、知らないよりはいい。睨むだけで相手の死を具現させる、なんて魔眼はケルトの神さま以来だ。無くすのは惜しい」

 ばろーると言うんだがね、と女は意味のわからない事を付け足す。

「魔眼というのは自己の眼球になんらかの付属効果をもたらす霊的手術の結果なんだが、おまえの場合は自然に現れてしまったんだな。もともとその才能があって、今回の出来事で才能が開花したという訳だ。聞いたかぎりの話では、昔から式という子は物事の奥を見つめていたようじゃないか」

 ……見知ったような事を言う。

 けれどこの女の言う通り、式は昔から遠くを見つめていた。人を見る時もその人間の表面ではなく、その中にある深部を捉えていたような気がする。

 式本人は意識していなかっただろうけど。

「それはね、きっと両儀式が無意識に行なっていた制御法なんだよ。おまえは表面を見ようとしては駄目なんだ。

 万物には全てに綻びがある。完璧な物体などないから、みんな壊れて一から作り直されたいという願望がある。

 おまえの目はね、その綻びが視えるんだ。顕微鏡みたいなものさ。霊的な視力が強すぎる。我々では視認できない線が視えて、かつ、死に長く触れていたおまえはそれが何であるか脳が理解できてしまう。結果、死が視えてしまう事となる。そればかりか触れる事もできる筈だ。生物の死線というのは、生きているかぎり絶えずその位置を変える。それを確実に視てしまえる能力は、睨むだけで生命を死に至らしめる魔眼と大差はない。おまえがそれを破壊するというのなら私がもらう。言い値で買い取ってやるぞ」

「……目がなくとも視えてしまうといったな。なら、目を壊す理由なんてない」

「そうさ。おまえは普通には生きられない。悩むのもそこまでにしておけよ、両儀式。

 いいかげん目を醒ませ。おまえはもともと私側の人間だろう? なら―――|人並み《コウフク》に生きようなんてユメなどみるな」

「――――――――」

 ……その一言は、ある意味、決定的だった。

 でも、それを認めてはいけない気がした。

 私は今できる精一杯の反論をする。

「生きる意志なんて―――私は、持っていない」

「ふん。心が空だからか。だが死ぬのはイヤなんだろう? なぜならおまえはあちらの世界を識ってしまったからな。ケテルのカバリストでも辿り着けない深部に居られたというのに、贅沢な女め。

 いいか、おまえの悩みは簡単だ。他人として再生したからどうだというんだ。単に織がいないだけだろうに。たしかに式と織はセットだった。織がいないということは、もうそれだけで別人だろう。たとえおまえが式そのものだとしても、以前とは違うのも解る。

 だが、それはただそれだけの話なんだ。

 なのにおまえは、生きる意志がまったくないくせに死ぬのだけは御免だという。生きる理由がまったくないくせに死ぬのだけは恐いという。生と死のどちらも選べずに境界の上で綱渡りだ。心がガランドウにもなるさ」

「……知ったような口を、よくも―――」

 私は女を睨みつける。とたん―――たしかに、見えない筈の目が女の輪郭と黒い線を捉えてしまった。

 『死』が、女の線から私自身に絡み付く。

「みたことか。隙があるからその程度の接触に動じるんだ。ここの雑念どもにとってみれば、おまえの体は特上の器だ。目を醒まさなければやつらに取り殺される事になるぞ」

 取り殺すとは、あの白いモヤの事か。

 だが、あれはもうやってこない。

「雑念というのはな、死んだ後も残ってしまった魂の欠片にすぎない。意志がないから、ただ漂うだけだ。だが欠片である以上、連中は段々と固まりだして一つの霊となる。連中には意志がないが、本能だけは残っている。以前の自分に戻りたい。人間の体がほしい、というな。

 |病院《ココ》には雑念が多い。ソレは浮遊霊となって体を求めている。彼らは力が微弱だからこそ、一般人には感知されないし接触もできない。形のない霊が関われるのはそれを感知できる霊能力者だけだ。霊視を|生業《なりわい》とする術者は彼らに取り憑かれないよう、自我を殻で守るから浮遊霊なぞにつけこまれるケースは少ない。

 だが―――おまえのように心がガランドウの者は

簡単に憑かれるぞ」

 侮蔑するように女は言った。

 なるほど、あのモヤが私の所にやってきた理由はそれか。だが、それならどうしてアレは私に憑かなかったのか。アレが私の中身になるというのなら、私は抵抗しなかっただろうに。

「―――無様だな。ルーンの守護もこれでは無意味だ。もういい、やはり性にあわん。あとは勝手にしろ」

 毒のある言葉を吐き捨てると、女はベッドから離れていく。

 病室の扉を閉める間際、女は言った。

「でもさ。織は本当に無駄死になのかい、両儀式?」

 私はそれに答えられない。

 ほんとうに―――この女は、私が避けている事ばかりを棘のように残していく。

        ◇

 夜になった。

 周囲には昏い闇。今日にかぎって、廊下を行く足音も聞こえない。

 山奥に佇む湖面のように穏やかな夜の中で、私はあの女との会話を繰り返していた。

 いや、正確には最後の言葉だけを。

 どうして織は、式の身代わりになったのだろう。

 質問に答える織はない。

 ―――もういない織。

 なんのために彼は消えてしまったのか。

 なにと引き替えにして、彼は消えてしまったのか。

 夢を見るのが好きだった織。

 彼はいつも眠っていた。その行為さえ放棄して、あの雨の夜に彼は死んだ。

 もう会えない自分。はじめから会えなかった自分。

 織という、本来自分だったもの―――。

 意識は沈む。

 彼が到達した結論に辿り着こうと、ただ思い出を逆行した。

 ぎぃ、と病室の扉が開く。

 遅くて、緩慢な足音が近付いてくる。

 看護婦だろうか。いや、時刻はすでに午前零時を過ぎている。

 来訪者があるとすれば、それは―――。

 その時、人間の手が私の首に絡み付いた。

 冷たい掌は、そのまま私の首の骨を折らんとばかりに力をいれた。

       /5

「あ――――」

 首にかかる圧迫に、式は喘いだ。

 呼吸ができない。喉が締め付けられる。これでは呼吸困難の前に、首がねじ切られてしまうだろう。

 式は見えない目でその相手を凝視した。

 ……人間じゃ―――ない。

 いや、カタチは人型。けれど、彼女にのしかかって首を絞めている人間は、すでに生きてはいなかった。

 死人が、ひとりでに動いてベッドの上の式を襲っている。

 首にかかる力は休まない。

 式は相手の両腕を掴んで抵抗するが、力の差は歴然としていた、

 第一―――これは、自分が望んだ事ではなかったか。

「――――――」

 呼吸を止めて、式は両腕を死者の腕から離す。

 このまま殺されるのなら、それもいいと諦めて。

 だって生きていても意味がない、

 生きているという感覚がないのに存在しているのは、それこそ苦行だ。

 消えてしまうのが、自然の摂理にさえ思えた。

 月がかかる。

 実際にはまだ数秒も経っていないだろうに、時間はとても緩やかだ。

 ゴムのように間延びしていく。

 死者が式の首を絞める。

 体温のない材木めいた指が喉に食い込む。

 この殺人行為には容赦などなく、初めから意志さえない。

 首の皮膚が、裂けた。

 流れる血は、生きている確かな証だ。

 死んで――織と同じに死んで――それを捨てる。

 捨てる……? その単論に、式の意識は引き戻される。

 ふと疑問が生まれた。

 はたして―――彼は、喜んで死んだのだろうか。

 ……そうだ、それを考えていなかった。

 理由はともかく、そこに彼の意志はあったのか。

 死にたかった筈は、ない。

 だって――死は、あんなにも孤独で無価値なのに。

 死は、あんなにも黒くて、不気味なのに。

 死は、どんなものよりも恐かったのに――――!

「――――御免だ」

 瞬間、式は体に活をいれた。

 両腕で死者の腕を掴み、下になったまま片足を相手の腹にそえて―――

「私は、あそこに墜ちるのだけは嫌だ―――!」

―――力のかぎり、この肉塊を蹴り上げた。

 ずるり、と皮膚と血をぬめらせて死者の両手が首から離れる。

 式はベッドから立ちあがる。

 死者はすぐに式へと跳びかかる。

 両音は明かりのない病室の中で組み合った。

 死者の肉体は成人の男子のものだ。式より頭ふたつ分も大きい。

 どうあがいても、式は組み伏されてしまう。

 両腕を掴まれたまま、式はずるずると後退した。

 狭い個室は、すぐに壁に突き当たる。

 だん、と壁に押しつけられて、式は覚悟を決めた。

 彼女は意図的に自分の背中に窓がくるように逃げた。

 こうやって組み伏せられるのは承知の上だ。

 問題は―――ここが地上何階かという事で。

「―――迷うな」

 自身に言い付けて、式は死者を押さえる両手を離した。

 死者が首筋めがけて手を伸ばしてくる。

 それより早く―――彼女は、自由になった手で窓ガラスを開けた。

 そのまま、両者はもつれるように外へと落下した。

        ◇

 落ちていく一瞬。

 私は死者の鎖骨を掴んで、上下を反転させる。

 くるり、と死者を地面に、自分はその上に乗る形になると、あとは勘だけで跳躍した。

 すでに地上は目の前だったようだ。

 死者の肉体が地面に叩きつけられ、

 私の肉体は叩きつけられる前に地面と水平に跳んでいた。

 ざああ、と病院の中庭の土を崩しながら両手両足で着地する。

 死体は病棟の花壇に落ち―――私はそこから大きく離れた中庭に滑り落ちる形になった。

 道場でもやった事のない神技めいた着地をしても、三階分の高さの重みは私の四肢を麻痺させている。

 私の周りは中庭にある木々と、こんな事になっても物音ひとつしない静かな夜だけだった。

 私は動けずに、ただ喉の痛みだけを感じる。

 ああ―――自分は、まだ生きている。

 そして―――あの死者も、まだ死んではいない。

 死にたくないのなら、やる事は明白だ。

 殺られる前に殺る。そう思っただけで胸の空虚さは消え失せた。同時に、様々な感情も薄れていく。

「なんて、こと」呟く。

 こんな事で、私は目覚めた。

 そう―――悩んでいた私は罵迦みたいだ。

 答えは、こんなにも簡単なのに―――

        ◇

「驚いた。猫か、おまえは」

 声は式のすぐ後ろからした。

 式は振り向かず、着地の衝撃を懸命に堪えている。

「おまえか。何でこんな所にいる」

 式の問いに、自称魔術師のカウンセラーはつまらなげに答える。

「監視していたからな。今晩あたりだとヤマをはっていた。そら、休んでいる暇はないぞ。さすがに病院は活きのいい死体がある。連中、霊体では入り込めないものだから実力行使にでた。死体に取り憑き、肉としておまえさんを殺してから乗り移る気だよ」

「それもこれも、おまえのおかしな石のせいだろ」

 地面に這いついたままで式は言う。そこに、今までのような迷いは微塵もみられなかった。

「おや、知ってたのかい。うん、たしかにこれは私のミスだ。霊体が入れないようにと病室に結界を張ったが、それを破る為に体を得てからやってくるとはね。普通、連中にそんな知恵はないのに」

 くっく、と魔術師は愉快げに笑う。

「そうか。なら、おまえがなんとかしろ」

「承知」

 ぱちん、と魔術師が指を鳴らす。

 見えぬ式にはどう映ったか。

 魔術師は煙草の火で中空に文字を刻む。文字は投影されたように死者の体に重なった。

 直線のみで形成された遠い国、遠い世界の魔術刻印。ルーンと呼ばれる回路が働き、とたん―――地面に倒れこんでいた死者の体が燃えだした。

「―――手持ちの|F《アンサズ》では弱すぎたな、これは」

 魔術師がぼやく。

 炎に包まれた死者は、ゆっくりと立ちあがった。

 完全に折れている両足で何故動けるのか、筋肉だけで動くようにずるずると式に向かってくる。

 炎は、ほどなくして消えた。

「おい―――この詐欺師」

「そうがなるな。人間大の物体の破壊は難しいんだ。生きているなら心臓を燃やせば終わる。だが死者はそうはいかん。死んでいるから、腕がなくなろうと頭がなくなろうとおかまいなしだ。拳銃程度の暴力では人間そのものを消去できないのは解るだろう? アレを止めたければ火葬場なみの火力をもってくるか―――徳の高い坊主でも連れてくるしかあるまい」

「能書きはいいよ。要は、おまえじゃ無理なんだ」

 式の発言に、魔術師はいたくプライドを傷つけられたようだ。

「君でも無理だ。死者はすでに死んでいるから殺せない。あいにくと手持ちの武装では人を殺す事はできても消す事はできないんだ。ここは逃げよう」

 魔術師は後退した。

 けれど、式は動かない。

 三階からの落下で足が折れてしまったわけでもなく。

 彼女は、ただ|嘲《ワラ》っていた。

「死んでいようがなんであろうが、アレは“生きてる”死体だろ。なら――――――」

 這っていた姿勢があがる。

 それは背をかがめて獲物に襲いかかる、肉食獣の在り方に似ていた。

 つう、と彼女は自らの喉に触れる。

 血が流れている。皮膚がさけている。絞められた

跡が残っている。――――でも、生きている。

 その感覚に、|恍惚《ゾクリ》とした。

「―――なんであろうと、殺してみせる」

 はらり、と瞳を覆っていた包帯がほどける。

 闇の中、直死の魔眼がそこにある――――――

 細い両足が地を蹴った。

 走りくる式に、死者は両腕を突き出す。

 それを紙一重でかわして、彼女は瞳が捉える線をなぞるように、片手で死者を引き裂いた。

 右の肩から袈裟斬りにするように、左の腰まで式の爪が突き立てられる。

 彼女の指の骨はそれで砕けたが、死者の傷はそれを遥かに上回っていた。

 だらり、と操っていた糸が切れた風に死者は地面に倒れこむ。

 それでも片腕だけは糸が残っているのか、這いつくばったままで死者は式の片足を掴んだ。

 その腕を、式はためらわずに踏み潰す。

「死の塊が、私の前に立つんじゃない」

 いって、式は声もなく嗤った。

 生きている。今までの心が嘘だったように、こんなにもはっきりと生きていると思えるなんて。

「式!」

 魔術師は叫ぶと、何かを式に向かって放り投げた。

 それは銀色をした、何の飾り気もない一振りのナイフ。

 式は地面に突き刺さったナイフを引き抜いて、まだ動いているカマキリみたいな死者を見下ろす。

 そのまま、彼女は死体の喉へナイフを突き刺した。

 死者はピタリと停止する。―――だが。

「馬鹿者、やるなら本体を刺せ!」

 魔術師の叱咤より早く、その異変は現れた。

 式が死体を刺した瞬間―――死体からモヤが飛び出したのだ。

 モヤは逃げ込むように必死になって―――式の肉体へと消えていく。

「―――――――」

 がくん、と式の膝が落ちる。

 今まで式の意識があったからこそ取り憑けなかった彼らは、式が殺人による高揚を得て忘我している瞬間を狙って彼女の中へ侵入した。

「詰めを誤ったか、たわけ」

 魔術師が走りよる。

 それを―――式の体は片手で制した。

 近寄るな、という意思表示に魔術師は立ち止まる。

 式の体はナイフを両手で握って、その切っ先を自身の胸に向けた。

 虚ろだった瞳が、強い意志を取り戻す。

 硬かった唇が、ぎり、と歯を噛んだ。

 ナイフの切っ先が、胸に触れる。

 彼女の意志も肉体も―――亡霊などには冒されてはいなかった。

「これで逃がさない」

 呟きは誰彼へではなく、ただ、自己に宛てられた。

 式は自らの内側に蠢くモノの死を直視する。

 貫くのは両儀式の肉体だ。

 けれど、それは在る事もできない粗雑なモノを殺すだけのこと。自分自身に決して傷などつかないと式は確信させられる。

 そして、彼女は力を込めた。

「私は、弱い私を殺す。

 おまえなんかに――――両儀式は渡さない」

 ナイフは、滑らかに彼女の胸を突き刺した。

        ◇

 銀の刃が引き抜かれる。

 血は出ない。彼女にあるのは、胸を刺したという痛みだけだ。

 ぶん、と式はナイフを振るう。刀身についた、汚れた霊を祓うように。

「おまえ、言ったよな。オレにこの目の使い方を教えてやるって」

 彼女の口調が定まっていく。

 魔術師はそれに満足しながら頷いた。

「条件付きだがな。私はおまえに直死の使い方を教える。そのかわりに私の仕事を手伝ってもらう。使い魔をなくしてしまってね、ちょうどいい手足がほしかった所なんだ」

 式は魔術師に振り向きもしないで、そう、と静かに言葉を漏らした。

「それ、人は殺せる―――?」

 魔術師でさえ、戦慄する呟きで。

「ああ、無論だ」

「ならやる。好きに使え。どうせ、それ以外に目的がないんだ」

 哀しげな式は、そのままゆっくりと地面に倒れこんだ。今までの疲れからか―――それとも自らの胸を貫くなどという荒事のためか。

 魔術師は彼女の体を抱き起こすと、瞑目した寝顔を見つめた。眠りなどでは生温い―――死者そのものの凍った顔。

 それを長く、魔術師は眺め続ける。

 やがて言葉が漏れた。

「目的がない、か。それも悲惨だがね、おまえはまだ間違えたままだ」

 穏やかな式の姿。

 憎むように、魔術師は言った。

「伽藍洞だという事はいくらでも詰め込めるという事だろう。この幸せ者め、それ以上の未来が一体どこにあるというんだ」

 呟いて、魔術師は舌打ちした。

 心からの言葉なんて物を口にした自らの未熟さを。

 ……本当に。そんな物は、久しく忘れていたというのに。

            /伽藍の洞

 夢に墜ちて、意識を沈めた時の続きを思う。

 いなくなってしまった織。もうひとりの自分。

 彼は何と引き替えに消えて。

 彼は何を守るために消えたのか。

 両儀式の記憶を遡って、それがわかってしまった。

 おそらくは―――織は自らのユメを守ったんだ。

 幸福に生きるという彼のユメ。

 それがあのクラスメイトだったのか。

 それとも彼が成りたかった男としての人間が、あの少年だったのか。

 それはもう分からないけれど。

 織は、彼と式を無くさない為に消えていった。

 ―――私に、こんなにも深い孤独を残して。

        …

 朝日が差し込む。

 視力を取り戻した私の瞳は、その温かさで眠りから瞼を開けた。

 私はベッドの上で眠っていた。昨夜のあの出来事は、あの魔術師がうまく取り繕ったに違いない。

 いや、そんな事は瑣末だ。今はそんな事より、ただ彼の事を考えよう。

 私は横になった姿勢のまま、首さえ動かさないで朝の空気を受けとめた。

 光で目が覚めるのは、どのくらい久しぶりなんだろう。

 淡くもつよく。ただ鮮やかな陽射しに、ココロの闇が塗りつぶされていく。

 今手に入れたこの仮初めの生と―――

 もう戻らない別のわたしが、溶けあって、光の中に消されていく。

 両儀織の存在と。彼がユメ見ていたものが消えていく。

 泣けていたのなら、私は涙を流してやりたかった。

 けれど瞳は乾いている。泣くのは一度きりと決めていたし―――この事柄で涙するのは間違っている。

 もう戻らないものだからこそ、私は二度と悔やまない。

 朝日に照らされ薄れていく、この闇のように。

 ただ潔く消えていくことを、彼ならば願ったはずだから。

        ◇

「おはよう、式」

 傍らで声がした。

 首だけを横に動かす。

 そこにいるのは、ずっと昔に見知った友人だ。

 黒ぶちの眼鏡も、飾らない黒髪も、本当に変わっていない。

「僕のこと、わかる……?」

 声は微かに震えていた。

 ……ああ、知ってた。おまえがずっと式を待って。

 おまえだけがずっと、私を守っていてくれたことを。

「黒桐幹也。フランスの詩人みたいだ」

 呟いた声に、彼は破顔した。

 まるで一日ぶりに学校で会った時のような、ありきたりの笑顔をする。

 そこにどれほどの努力が隠されているのか、私にはわからない。

 ただ―――彼も、あの約束を覚えていたんだ。

「今日が晴れてよかった。退院にはもってこいだ」

 瞳に涙をためて、できうるかぎりの自然さで彼は言う。

 ガランドウの私には、それは何より温かかった。

 泣き顔より笑顔である事を、この友人は選んだ。

 孤立である事より孤独を認める事を、織は選んだ。

―――私は、まだどちらも選べないけれど。

「……ああ。無くならないものも、あるのか」

 柔らかな陽射しと合一していきそうな彼の笑顔を、私はぼんやりと眺めた。

 飽きるまで。

―――そんな事で胸の穴が塞がりはしないと分かっていても、今はそうする以外に何もしたくない。

 ……柔らかな彼の笑顔。

 それは、私の記憶の中にあるのと同じ笑顔だったから。

/伽藍の洞?了

[楼主] [6楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:20 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除境界式

        ◇

 いつもと何も変わらない、変わるはずのない病室のベッドの上で、彼女は衰弱した体をびくんと震わせた。

 面会人など迎えるはずのない扉が開く。

 足音も立てずに、けれどこれ以上ないというほどの存在感をもって、その人物はやってきた。

 来訪者は男性だった。長身で、がっしりとした体格をしている。その表情は険しく、永遠に解けない命題に挑む賢者のように曇っていた。

 おそらくは―――それがこの人物の変わることのない貌なのだろう。

 男は険しく厳しい眼差しで彼女を見据える。

 その、恐ろしいまでの閉塞感。

 病室が真空になったのではないか、と錯覚するほどの束縛。

 死ではなく束の間の生だけを怖れる彼女でさえ、この人物に死への畏れを感じさせられるほどの。

「おまえが|巫条《ふじょう》|霧絵《きりえ》か」

 重い声は、やはりどこか苦悩の響きがあった。

 彼女――巫条霧絵は視力のない瞳で男に応える。

「あなたが、父の友人ですか」

 男は答えもしなかったが、巫条霧絵には確信があった。家族がいない自分に、ずっと医療費を与えていたのはこの人物に違いないと。

「何をしにきたの? わたしは何もできないのに」

 震えながら霧絵は言う。男は眉さえ動かさない。

「おまえの望みを叶えにきた。自由になるもう一つの体、欲しくはないか」

 その、ひどく現実性からかけ離れた言葉には魔力が籠もっていた。少なくとも巫条霧絵にはそう感じられた。何故なら何の抵抗もなく、この男にはそれが可能なのだと受け入れてしまったのだから。

 わずかな沈黙の後、喉を震わせて彼女は頷いた。

 男は頷く。その右手があげられる。

 霧絵の長年の夢と、

 ずっと続く悪夢を同時に与えられる。

 だがその前に―――彼女はひとつだけ問うた。

「あなた、なに?」、と。

 その質問に、男はつまらなげに答えた。

        ◇

 廃墟になった地下のバーから解放されて、彼女は弱々しい足取りで帰路についた。

 呼吸のリズムがおかしく、目眩がする。

 何かにより掛かっていないと、巧く前に進めない。

 おそらく、原因はさっきの凶行によるものだろう。いつも通りに彼女を凌辱しようとした五人の少年のひとりが、何を思ったのか野球のバットで背中を殴りつけたのだ。

 痛くはなかった。いや、もとから彼女に痛みはなかった。

 ただ、重くて。背中からこみあげる悪寒が彼女の顔を苦悶させ、背中を打たれたという事実が彼女の心を歪ませる。

 それでも涙は流さず、彼女は凌辱の時間を耐えて、こうして学生寮へ帰ろうとしている。

 けれど、今日はその道が果てしなく遠かった。

 巧く体が動いてくれない。

 ふとショーウインドウを見れば、自分の顔色が蒼白になっている事が判った。

 痛みのない彼女には、どんな傷を負っていようがそれがなんであるか判らない。背中を殴られた事も、ただそれだけの事実だ。その事実によって背骨が折れかかっている事なんて気付かない。

 そんな彼女でも、今の自分の身体がひどく苦しんでいる事だけは読み取れた。

 病院には行けない。両親に内緒で通っている町医は遠すぎるし、電話で呼び付けても何故こんな傷を負ったのかと質問されるだろう。嘘が下手な自分では、医者の追及を誤魔化す自信はなかった。

「―――どうしよう。私、どうしよう―――」

 喘ぐ呼吸のまま、彼女は地面に倒れこむ。

 それを―――太い、男の腕が引き止めた。

 驚いて彼女は顔をあげる。そこにあるのは、険しい表情をした男性だった。

「おまえが浅上藤乃か」

 男の声は否定を許さない。

 彼女―――浅上藤乃は全身が凍りつくような畏れを、この時初めて体験した。

「背骨に亀裂がある。このままでは家に帰れまい」

 家に帰れない、という単語が手品めいた鮮やかさで藤乃の意識を縛る。

 それは、嫌。家――寮に帰れないのは厭だ。今ではあそこだけが、浅上藤乃が休める場所なのだから。

 助けを請う瞳で藤乃は男を見上げる。男は夏だというのにコートのような上着を着ていた。

 上着も中着も、全て黒色。翻るマントめいた上着と男の厳しい眼差しは、なぜか―――藤乃にお寺のお坊さんを連想させた。

「治してほしいか」

 催眠術じみた魔をもった声がする。

 藤乃は、自分が頷いている事さえ気付かなかった。

「承諾した。おまえの体の異常を治そう」

 表情を変えず、男は右手を藤乃の背中に当てる。

 だがその前に―――彼女はひとつだけ問うた。

「あなたは、何ですか……?」、と。

 その質問に、男はつまらなげに答えた。

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