◇
だがその前に―――彼はひとつだけ問うた。
「あんた何者だ」、と。
黒い外套の男は眉一つ動かさずに答える。
「魔術師――――|荒耶《あらや》|宗蓮《そうれん》」
言葉は神託のように、重く路地裏に響き渡った。
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[楼主] [7楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:28 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除矛盾螺旋
5 / Paradox Paradigm.
[#ここから段組み表記なし中央表記]
幼いころ、その小さな金属片が自分の宝物だった。
いびつで、小さくて、ただ機能美しかもたない。
銀色の鉄は冷たくて、つよく握ると痛かったのを覚えている。
かちゃり、と一日の始まりに半分まわす。
かちゃり、と一日の終わりに半分まわす。
幼い自分はその音を聞くたびに誇らしい気持ちになった。
なのに、その音を聞くたびに泣きそうになる自分がいた。
かちゃり、かちゃり。始まりに一回、終わりに一回。
一日はきちんと円を作って、それを毎日繰り返した。
まわるまわる、飽きもせず懲りもせず。
喜びも悲しみも半分ずつ。くるくると変わらない日々は、床屋の看板みたいだ。
けれど、つきる事のない螺旋の日々は唐突に終わってしまった。
銀色の鉄はただ冷たいだけで。―――嬉しくもない。
強く握ると血がにじんだ。―――――悲しくもない。
あたりまえだ。鉄は鉄にすぎない。そこに幻想はない。
現実を知った八歳の時、鉄は以前のように眩しい存在ではなくなった。
その時に悟った。大人になるという事は、幻想を賢さと取りかえる事なんだ、と。
早熟と思う愚かさゆえに、俺は、その事実を誇らしげに受け入れたのだ。
/矛盾螺旋
[#ここで段組み表記なし中央表記終わり]
/0
今年の秋は短かった。
十一月を前にして季節が冬のそれへと変わろうとしていた頃、警視庁捜査一課の秋巳刑事はおかしな怪談に出合った。
職業柄、病院の次に人死にの多い彼の職場では怪談に季節外れもくそもない。春夏秋冬、いつでもその手の話には事かかないのが常である。
自然、並大抵の与太話では眉一つ動かさなくなっていた秋巳刑事だったが、その話は今までの物とは毛色が違っていた。なにしろ正規の報告書に堂々と怪談としか思えない出来事が記録されているのだ。本来なら誰も目を通す事のない一派出所の報告が彼の元に流れてきたのは、署内でも有名になった彼のミステリー好きが原因だろう。
その事件は、狂言強盗の一つとして処理されていた。
内容は割と単純である。十月の初め、都心からわずかに離れた団地の一角で強盗事件があった。家人の留守中を狙った空巣泥棒というヤツで、被害にあった家は十以上あるマンションの中でも一際高級なマンションの一室だったという。
犯人は前科のある常習犯で、計画的に犯行を重ねるタイプではなく、突発的に空巣を行なうという愉快犯だった。犯人はいつもの通りにぶらりと初めて見るマンションの中に入りこみ、適当に留守の家にあたりをつけて侵入したという。
問題はこの後で、数分後に犯人は最寄りの派出所まで駆け寄り、助けを求めたというのだ。
犯人は錯乱していて会話は要領を得なかったが、どうやらそのマンションの家族全員が死体のまま放置されている、という事だったらしい。居合わせた警官は犯人をともなって現場に駆けつけた。しかし、犯人の言葉とは裏腹に家族は全員健在で、幸せな夕食の最中だった。
犯人はますます困惑し、それを不審に思った警官が問い詰めてみれば、男が空巣狙いでマンションにやって来ていた事が露見し、未遂として逮捕したとの事だ。
「なんだ、こりゃ」
報告書にざっと目を通すと、ぎしぎしと音のなるパイプ椅子に背を預けて秋巳刑事は声をあげた。
おかしな話といえばおかしな話だし、気に留める話かといえば別段そうでもない。
犯人はアルコールも薬物も服用しておらず、精神状態に問題はなかったと報告書には記されている。狂言強盗で逮捕される空巣強盗は、確かに珍しいといえば珍しい。
こんな瑣末な、しかも終わってしまった事件(そもそも事件と呼べるのかさえ疑問だ)に口をだす暇はない。
今の彼は三年前のように忙しい。いや、あの事件の再来ではないのかと疑いたくなるほど、巷では行方不明者が相次いでいるのだ。表沙汰にはなっていないが、十月から始まってすでに四名の行方不明者が出ている。被害者の親族の口に蓋をしておくのもそろそろ限界だろう。
その状況下においてこんな狂言に付き合っている暇はない。ないのだが、どうしても後ろ髪を引かれるような思いがしていた。
「くそ」
こぼして、受話器を手に取る。ダイヤルは報告のあった派出所だ。相手はほどなくして電話をとり、秋巳刑事は事件の詳細を訊いてみた。
犯人の言っていた“死体が放置された家族”の部屋の周囲の人間に確認はとったのか、犯人が説明したという死体の描写に矛盾はなかったのか。
答えは予想通りで、左右の家にはもちろん調査に当たり、犯人が口走っていた死体の状況は狂言にしては克明すぎた、という事だった。
礼をいって受話器を置く。と、背後から声がかかった。
「何やってんだ大輔。急げ、二人目の遺体が出たそうだ」
「もう出ちまいましたか。その言い分だとまた食い残しですか」
ああ、と頷く声がする。
秋巳刑事は椅子から立ち上がると、綺麗に思考を切り替えた。この報告書がどんなに気にかかろうが、所詮は終わった事件。今に優先される筈がない。
こうして一課随一の物好きと言われる秋巳刑事でさえ、このおかしな事件の迫及を忘れた。
/1
(矛盾螺旋、1)
十月になったばかりだというのに、街は冷えこんでいた。
時刻は午後十時少し前。
風は冷たく、夜の闇は鋭かった。
本来なら街はまだ十分に明るい時間帯であるのに、今夜にかぎっては時計の針が一時間ばかり遅れているのでは、と訪しむほど街は陰欝としていた。雪が降りだしてもおかしくない寒空は、早すぎる冬の到来を思わせる。
そのせいだろう、いつもは人込みで賑わう駅前にも日常の華やかさがない。
駅から出てくる人影はそろって上着の衿を高くして、寄り道もせずに自分の家へと帰っていく。
家というものは、どんなに小さくても暖かい安息の地だ。こんな寒い日では誰もが自らのホームに帰ろうと足を急がせるのだろう。
流れていく人々。停滞しない熱気。いつもより闇の濃い街並み。
そんな光景を、少年はただ眺めていた。
駅前から離れた大通りの外れ、缶ジュースの自動販売機の横。そこに隠れるように座り込んでいる少年の視線は、普通ではなかった。
膝を抱えて座り込む少年は、一見性別が判らない。
繊細な顔立ちに華奢な体。髪は赤く染めていて、くせっ毛なのかまとまりがよくない。年齢は十六、七歳という所だろうか。焦点の合っていない瞳は細められ、女の格好をしていれば遠目からなら女性と間違われるだろう。
かちかちと歯を鳴らす少年は、服装もどこかおかしい。汚れたジーンズのズボンに、群青色をした大きめのブルゾンを羽織っているだけ。上着の下は裸である。
少年は寒さか――それとも別の何かに耐えるように、ただ歯をかちかちと鳴らしている。
どれほどの時間、彼はそうしていただろうか。
駅から出てくる人影もまばらになった頃、いつのまにか少年は何人かの若者にとり囲まれていた。
「よう、トモエ」
どこか蔑むような気軽さで若者の一人が言った。
声だけが流れる。赤毛の少年は反応しない。
「……|臙条《えんじょう》。テメエ、無視してんじゃねえよ」
若者は乱暴に少年の上着を掴み、少年を立ち上がらせる。
声をあげたのは少年とほぼ同年輩の人間だ。彼の周りにはやはり同じ年頃の少年が五人ほど集まっている。
「なんだよ、学校止めたらもう他人ってわけか? そうか、トモエちゃんは社会人だから、ボクたちみたいなお子さまとは付き合えないっていうんでちゅね?」
あはは、と笑い声があがる。
けれど少年―――|巴《トモエ》正は何の反応も示さない。
ふうん、と男は巴の上着から手を離すと、少年の頬を殴りつけた。がん、という衝撃。ちゃりん、と何かが路面に落ちる音。
「――――――」
「寝てんな、馬鹿」
なぶるような男の声に、また周囲が笑いだす。
その音で少年―――臙条巴はショック状態から蘇生した。
「……えんじょう……ともえ」
自分の名前を呟く。思考が停止していた巴は、自分が何であるかさえ忘れていた。己の名前を口にする事は、その名称の活動を再開させる式のようなものだ。
正気に戻って、巴は目の前の男を睨みつける。
かつての同級生と、その仲間達。
彼らの事は覚えている。普通の学生にも、さりとて不良にもなりきれず、自分のように弱い者だけを付け回すハンパな連中だ。
「相川か。おまえ、こんな時間に何やってんだ」
「そりゃあこっちのセリフだぜ。オレはてっきり、おまえが体売ってんのかと思って心配したんだぜ? なんたってトモエちゃんはかよわい女の子だからさ」
なあ、と男が周りの仲間たちに振り返る。
もちろん巴は女の子ではない。まだ巴が高校生だった頃、華奢な体とその名前のおかげでそう馬鹿にされていただけだ。
巴は何も反論せず、ひょい、と空き缶を拾いあげる。
「相川」男の名前を呼ぶ。
あん? と巴に向き直るそのニキビ顔に、巴は空き缶を突き入れた。
男の口に空き缶がねじ込まれる。そのまま巴は手の平で空き缶を殴りつけた。
「ごっ」
たまらず男は倒れこむ。咳き込んで吐き出した空き缶には、赤い血がべったりと付着していた。
男の仲間たちはあっけにとられて、まだ動けない。
彼らは単に、高校を中退して働いているという元クラスメイトを見かけたので奢ってもらおう、と考えていただけなのだ。こちらからの暴力はあっても、まさか巴からの暴力があるなんて夢想だにしていなかった。
だから、仲間が殴り倒されたなんて事にもすぐに対応できなかった。
「相川。おまえ、相変わらずアタマ悪いな」
言って、臙条巴は倒れている男の頭を蹴りつけた。サッカーボールでも蹴るように、爪先で思いっきり。淡々とした口調とは裏腹に、その勢いは殺しかねない激しさだった。
男はそれきり動かなくなった。失神したのか、それとも首の骨が折れたか。―――単に痛みですぐに立ち上がれない程度か、と確認して、巴は走りだした。
人通りの多い駅前へではなく、さびれた路地裏へ。
巴が走りだしたのを見て、彼らはようやく現状を把握した。
金を奪い取るだけの相手に、仲間が殴られ、逃げられた。殴られた仲間は口から血を流して倒れこんでいる
「あのヤロウ、ふざけやがって―――ブッ殺してやる!」
誰かが叫ぶと、激情は残った五人全員に感染した。彼らは逃げ出した雌鹿を捕まえ、報復する為に走りだした。
…
ブッ殺してやる、か。
連中の大声を聞いて、俺はつい笑ってしまった。
奴らはそれを本気で言っている。そのくせ、その
言葉の意味合いを真剣に考えていない。その覚悟がない者が、たった今その経験をしてきた相手に「殺す」と告げるなんて、なんて軽率さだろう。
―――俺は、さっき人を殺してきたのに。
かちかちかち。人を刺す時の感触が蘇って、あやうく胃の中のモノを吐き出しそうになった。
思い返すと震えがくる。歯は壊れたようにかちかちと鳴って、頭の中は嵐が飛び込んだようにぐちゃぐちゃになる。
殺すという事がどれほどの事か、あいつらは解っていない。解っていないから、そんな言葉を口にできる。
―――なら、俺が教えてやる。
ひどく乾いた心で俺は口元を釣り上げた。
……別段、自分は凶暴な性格ではない。やられたらやりかえすのが信条だが、さっきのように殴られただけで相手を悶絶させるような倍返しは今日が初めてだ。今夜の俺はおかしかった。……いや、それとも。単に、おかしくなりたがっているだけなのか。
―――このあたりでいいか。
建物と建物の隙間にある、道とも呼べない路地裏に入りこむ。
ほどなくして、俺は奴らに追いつかれた。
いや、正確には追いつかれてやった。
人目につかない路地裏で立ち止まり、やってきた人数が五人と確かめて、俺は先頭の相手へ殴りかかった。
手の平で相手の顎をうつ。素人同士の殴り合いは殴って殴られての繰り返しだ。先に根負けしたほうが、後は一方的に殴られる事になる。殴り合いになれば自分に勝ち目はない事はよく解っている。だから―――やるのなら、本当に殺す気でやる。
容赦なんてしない。相手が殴りかかってくる前に、連中に取り囲まれるより早く、一人一人始末するしかない。
殴りつけたヤツが殴り返そうとしてくる。それより早く、俺はそいつの左目に指を突き入れた。
硬いゼラチンに指をねじ込む感覚。
「ひ―――いゃあぁぁぁぁあ!」
痛みの悲鳴があがる。その隙にそいつの顔を掴むと、渾身の力を込めて後頭部を壁に叩きつけた。
べこん、という音がして、先頭の男がずるずると座り込む。片目からは血の涙。後頭部からは血の跡を壁に残していく。
―――これだけやっても、まだ死なない。
目を背けたくなる惨状に、やってきた残る四人は愕然と立ち尽くしていた。殴って血を見る事ぐらいはあるだろうが、死ぬか生きるかの瀬戸際の流血を見るのは初めてだろうから。
その隙に、俺は一番近い相手へと襲いかかる。
手の平で殴りつけてから、髪を掴む。そのまま頭を下げさせ、蹴り上げるように膝を打ちつけた。膝の骨に、べしゃりと鼻を砕く感触が伝わる。この一撃で相手は反撃の意志をなくした。
そこからさらに三回ほど膝を顔面に叩きつけてから、ぐったりとした相手の後頭部に思いっきり肘をたたきこむ。
衝撃に、びぃぃん、と腕の骨が軋んだ。
二人目が倒れこんだ。
顔面を蹴り続けた俺の膝は返り血で濡れている。
「膿条、てめえ――――!」
二人。二人も再起不能にされて、ようやく奴らは覚悟を決めたようだ。残った三人は理性も統率もなく、一斉に殴りかかってくる。
そうなれば、あとの結果は明瞭だった。
一人である自分が、三人もの人間を同時に相手には出来ない。
殴られ、蹴られて、俺はあっけなく壁に追い込まれ、地面に座り込んだ。
力任せに頬を殴られる。腹を蹴られる。それでも俺がしたほどの暴力を奴らが加えない事を、冷めた目で観察する。
―――三人で無抵抗の人間を袋叩きにするだけ、か。
それは明確に殺すという行為がない暴力だ。それでも、このままならいずれ自分は死ぬだろう。致命傷にならない衝撃でも、繰り返せばいずれ心臓に届く。それまで殴られ続ける痛みに耐えなければいけないのが、苦痛といえば苦痛だった。
―――見ろ。殺す気なんかなくても、人は簡単に人間を殺してしまえるんだ。
それは罪か。自分のように明確な殺す意志があっての殺人と、彼らのように目的もなくただ結果として犯してしまった殺人。そのどちらが、より重い罪になるのだろう。
そんな事を胡乱な頭で思いながら殴られ続ける。
顔も体も痣だらけで痛みにも慣れた。たぶん連中も、殴り続ける事に慣れてしまって止まらないのだろう。
「カワイイ顔してやってくれたじゃねえか、臙条ぉ!」
ダン、と一際激しく胸を蹴られて、咳き込んだ。殴られて口の中が切れたのか、それとも内から出てきたのか。咳には血のようなモノが混じっていた。
この三人にその気がなくとも。これがあと数秒も続けば、臙条巴は死んでしまうだろう。
……それで、ようやく気がついた。俺が、俺の命をどうでもよく思っているのだという事を。
奴らの拳が片目に当たって、瞼が切れる。瞼が腫れあがって視界が途切れるのと同じように、意識も途切れようとする。その直前――――
からん。
綺麗な音がした。
人を殴りつける鈍い打撃音に比べてとても小さい、鈴のような音。
三人は動きを止めて、音のした方向……自分達がこの路地裏に入ってきた細い道の入り口へと振り返る。
腫れあがった瞼を開けて、俺もその相手を見た。
「――――――」
意識が、凍った。
そうとしか思えないほど、俺はその相手から目を離せなくなってしまった。
それほど――――路地裏の入り口に立つ人影は、常軌を逸していたのだ。
そいつは、この寒空のもと素足で丸っこいゲタのような物を履いていた。漆塗りの黒と赤い紐が、白い素足をよけいに際立たせて、言葉を失うほど印象的だ。
いや、胸をつくほどの特異さはそれだけじゃない。
その人物は橙色の和服を着ていた。豪華な晴れ着ではなく、祭りの日に見かけるような簡素な着物だ。その上に、あろう事か赤い革製のジャンパーを羽織つている。
からん、ともう一度音がした。
――ゲタが地面を蹴る音。一歩ずつ近寄ってくる。ゆれる髪、すれる|衣《きぬ》の音――自分の目が、この人物のどんな些細な動きさえ見落とさないようにしているのが分かる。俺の――臙条巴の意思とは無関係に。 人影はまるで何事も起こっていないような自然さでやってくる。
黒い、墨をおとしたような黒髪は肩口までもない。乱雑に切られた髪は、けれどこの人物には似合いに見えた。
細い体と輪郭。白い肌と―――こちらの魂を見据えるような|玄《くろ》い瞳。薄汚い路地裏には不釣り合いな幽美な立ち姿。
ソレは、どうやら女のようだった。……いや、年齢は俺たちと大差がないから少女と言うべきか。
あまりに整った顔立ちの為、性別はどちらにもとれてしまう。もちろん、そのどちらでも寒気がするほどの美人である事は間違いない。けれど俺は、この相手が女であると理解出来てしまっていた。
「おい」
和風と洋風を混合させた少女が、ぶっきらぼうに言った。
少女は不機嫌そうな表情でこちらを眺めると、無遠慮に近寄ってくる。
俺を囲んでいた三人は戸惑ってから、少女を囲みはじめた。暴力に麻痺していた奴らは、麻痺しているからこそやってきた女が欲しくなったのだ。普段の奴らでは出せない、抑圧された感情を剥き出しにして少女を威圧する。
「オレ達に何か用か」
じりじりと近寄りながら奴らは言う。すでに逃がさないように囲んでいるあたり、三人の心は一つのようだ。
ゲスめ、と罵りながらも、俺は何もできない。殴られた手足は痣だらけで力が入ってくれないのだ。
あの着物の少女が、こんなニセモノみたいなガキに汚されるのは我慢ならない。いや―――だが、アレがこんな連中に汚されるなんて事があるのだろうか?
「何か用かって訊いてんのよ。耳ないの、あんた?」
連中のひとりが近付きながら怒鳴る。
彼女は答えず、無造作に片手を差し出した。
……そこからの出来事は、本当に魔法みたいだった。
少女の細い腕が、取り囲む若者の腕を取る。軽く引き寄せる。体重がなくなったかのように、男はくるんと縦に回って、地面に頭から倒れこんだ。
柔道でいう所の内股というヤツだろうか。一連の行為はとても迅いのに、そのあまりの自然さで逆にスローモーションのように見えた。
残る二人が着物の少女に襲いかかる。その一人の胸元に掌を押しつけると、それだけで相手は地面に崩れ落ちた。人間一人を気絶させる為にこっちはあれだけの暴力を振るったというのに、少女は必要最小限の動きだけで二人もの人間の意識を落としてしまった。時間にしたって五秒もかかっていないだろう。
その事実に俺が戦慄したように、残された一人もこの相手が普通ではないと理解したようだ。
うわあ、と声をたてて逃げ出す。
背を向けて走りだすその頭を、少女は蹴った。鮮やかな回し蹴りは、音さえ立てずに最後の一人を昏倒させてしまった。
「ちっ、いしあたまな石頭」
舌打ちしながら、少女は乱れた着物の裾をなおす。
俺は言葉もなく、ただその姿を眺めていた。
―――街の灯りも、月の光さえも届かないこのゴミ溜めの中で。彼女の頭上にだけ、銀色の光芒が降り注いでいるみたいだった。
「おい、おまえ」
少女がこちらに振り向く。俺は何か言おうとしたのだが、口の中が傷だらけで言葉をひっこめてしまった。
少女は革ジャンのポケットに手をいれると小さな鍵を取り出して、こちらに投げてよこした。地面に座り込む俺の前に、見覚えのある鍵が落ちる。
「落としもの。おまえのだろ」
声は、脳の奥のほうで響いた。
……鍵。ああ、さっき殴られた時に落としたのか。
もう、今になってはどうでもいい家の鍵。これを届ける為にこの女はやってきたのか。
と、少女はそれで用は済んだとばかりに背を向けた。
さよならの言葉も、いたわりの言葉もない。
やってきた時と同じように、散歩めいた足取りで去っていく。……俺の事などどうでもいいというように。
「――――ま」
て、と手が動く。
何を引き留める? どうして引き止めようとする? 俺だって―――臙条巴だって、あんなキチガイみたいな女はどうでもいい。
けど―――けど、今こうして置いていかれるのはたまらなかった。誰にでもいいから、捨てられたくなかった。自分には何の価値もないのだという、本当に偽物にすぎないのだ、という衝動に耐えられなかった。
「ちょっと待て、おまえ!」
叫んで、立ち上がる。……いや、立ち上がろうとしたが、うまく立てなかった。体の節々がうずいて、壁に手をかけてようやく中腰の姿勢がとれるだけだ。
着物の少女は立ち止まると、ぞっとするほど冷たい視線で振り向いた。
「なんだ。ほかに落としものはないぞ」
平然と言う。
その足元に五人もの人間が倒れこんでいるというのに、こいつは何も感じていない。
「おい、まさかこのままにして行く気じゃないだろうな」
息も絶え絶えに言うと、彼女はようやく周囲の惨状を見渡した。
倒れている連中の中には、俺が傷つけて血を流している二人もいる。不細工な暴力の結果だ。
ふぅん、と少女は俺を上目遣いで見た。
「安心しろ、そっちのヤツの目はダメだけど、この程度じゃ死なないよ。初めに目が覚めたヤツがどうにかするさ。それでも今すぐ助けがいるのか?」
女の物としか思えない細く高い声で、男そのものの台詞を言う。
俺はそうだ、と頷いた。
「そっか。でもこういう場合、どっちを呼べばいいのかな。警察? それとも病院?」
本気で、どこかズレた事を聞いてくる。
俺は病院しか考え付かなかったが、これをあくまで正当防衛として考えるのなら警察を呼んだほうが早いかもしれない。だが―――
「―――警察は、ダメだ」
なぜ? と女の視線が言う。
何故だろう。俺は、決して口にしてはいけない秘密を、切り札を差し出すような決意で告げた。
「俺は、人を殺したんだ」
わずか。時間が、止まった気がした。
少女は興味を持ったのか近寄ってくると、必死に壁にもたれかかっている俺をしげしげと観察しだした。
「そうは、見えないけどな」
訝しげに言う。けれど難しそうに唇に手をあてて悩みこんでいるあたり、彼女にも確証はなさそうだった。
俺は熱にうかされたように、自虐的な告白を続ける。
「本当だぜ。ついさっき殺してきた。包丁でハラん中ぐちゃぐちゃにして、首かっ切ってやったんだ。アレで生きてるはずがあるもんか。……へへ、今頃うちじゃポリ公どもが集まって俺を血眼になって捜してる事だろうよ。そうだ、夜が明ければ俺は一躍有名人ってワケさ――!」
気がつけば、俺は自嘲ぎみに笑っていた。くくく、という自分の声を聞く。……どうしてか、それは泣いているような声だった。
「そう。ならホントウなんだろうな。じゃあ病院にも連絡はやめておけ。そのまま鉄格子に直行する事になるぞ。……ああ、服は返り血を浴びたんで脱ぎ捨てたのか。てっきりそういうのが流行なのかと思った」
冷たい手が、俺の胸をなぞる。
「――――な」
息を呑んだ。この女の言う通り、着ていた服は血に濡れてしまったから脱いだのだ。ズボンだけはそのままで、裸のままブルゾンを羽織って逃げてきた。
……わかっている。この女は俺が殺人者だとわかっているのに、どこにも驚いている素振りがない。それが―――逆に、俺を不安にさせた。
「おまえ恐くないのか。俺は人を殺してきたんだぞ。一人殺すのも二人殺すのも一緒だ。事情を知ったおまえを、このまま行かせると思うのか?」
「―――一人殺すのと二人殺すのは違うよ」
不愉快そうに目を細めて、着物の少女はいっそう顔を近付けてきた。
……俺の方が頭一つ分高いというのに、下から覗き込む彼女に威圧されてしまう。
黒い眼に見据えられて、俺はごくりと喉を鳴らした
息を呑むのは、威圧されてのものではない。
ただ、見惚れていた。
俺は今まで、人間というものに感じ入った事がなかった。十七年間生きてきて、ここまで何かに魅了される事はなかった。ここまで我を忘れて感動する事はなかった。
―――そう、ここまで。
人間を、美しいと感じた事はなかったんだ。
「本当に―――俺は人殺しなんだ」
そんな事しか言えない。
少女は顔を伏せると、くすり、と笑った。
「知ってる。オレだってそうだから」
布のすれる音がする。
少女はこれで本当に興味をなくした、とばかりに離れた。
去っていく。からからと音をたてて。
……その背中を、俺は逃がしたくなかった。
「待てよ、自分もそうだって言ったな、おまえ!」
駆け寄ろうとして、地面に倒れこむ。それでもなんとか立ち上がって、俺は振り返る女の顔を睨んだ。
「なら助けろ。似た者同士なんだろ、俺達――――」
いつもの自分からは考えられない勝手さで叫んだ。必死になって、恥も外聞もない。脈絡も理由もない俺の声に、少女は目を点にして驚いている。
「似た者同士……うん、たしかにおまえは空っぽだ。けど、助けるって何をだ。人を殺した罪からか。それともその体の傷を治せって事か。あいにく、どっちもオレには専門外だ」
―――ああ、そうだ。
俺は、何から助けてもらいたいんだろう?
助けてほしい。そう思うだけで明確に何から助けてほしいのか、俺はうまく考えられない。……それが何より大切な事だと、臙条巴の心に刻まれているというのに。
「――――ここはそのうち人目につく。その前に、俺を|匿《かくま》え」
でも、とりあえずはそれが最優先だ。
女はうーん、と今までの無感情さとは正反対の、人間らしい仕草で考え込んだ。
「匿うって、隠れ家を提供しろって事か?」
「だから、人目につかない所まで手を貸してくれればいい」
「人目につかない所なんて、この街にはないぜ。他人に見られないのは自分の家の中だけだろ」
難しい顔をして言う。そんな事は俺だってわかってる。
殴られた痛みのせいで短気になっていたのか、俺は怒鳴り返した。
「それがダメだから言ってるんだよ! それともおまえの家にでも匿うっていうのか、この馬鹿女!」
くそ、と悪態をつく。と、少女は納得したように頷いた。
「いいぜ。オレのとこでいいなら勝手に使え」
「――――え?」
「簡単なヤツだな、そんな事が助けてほしい事なんて」
歩き始める。俺に手も差し出さなければ肩も貸さないで。
それでも、少女の背中がついてこい、と告げていた。
俺は―――自分でも不思議に思うぐらいの力強さで、その後をついていった。
そうしているだけで殴られ続けた体の傷も、人を刺した時の心の痣も、きれいさっぱり忘れられた。
超然と歩いていく背中を、ただ追いかける。
あの少女は一人暮らしなのかとか、まだ名前さえ聞いていない事とか、尋ねなくてはいけない事が山ほどあるというのに、何も考えられない。
……そう、たぶん。今まで信じた事もなかったけど、これが運命というヤツなのかもしれない。
だってとうの昔に。俺の目は、もうあの女しか見えなくなっていたんだから。
/2
(矛盾螺旋、2)
がたり、と音がした。隣の部屋からだ。
時刻はそろそろ十時になるのだろうか。仕事で疲れきった体を布団に預けてから、数分と経っていない。浅い眠りから起こされて、俺はゆったりと|微睡《まどろ》んでいた。
隣の部屋からした物音は一度きりだ。
襖が開く。隣の部屋に通じる襖。電気を消した暗い俺の部屋に、四角い光が入りこむ。
母親だろうか? 俺は薄目でそちらを眺めて――
―――いつもここで思う。
こんな光景、見なければよかったのにと。
襖を開けたのは母親だ。逆光になって、ただ立っている事しか判らない。俺にはその姿より、そこから覗ける隣の部屋の惨状しか見えなかった。
安物の|卓袱台《ちゃぶだい》の上に倒れ伏している、父親の姿。
茶色のはずの卓被台は真っ赤に染まって、倒れ込んだ親父は畳に赤い血を流し続けている。……どこか、壊れた水道管みたいだった。
「巴、死んで」
立ち尽くす影が言った。
その影が母親であった事は、自分の胸を刺されてから思い出した。
母は俺の胸に何度も何度も包丁を突き刺すと、最後には自分の喉に包丁を突き立てた。
悪夢といえば悪夢だ。
俺の夜は、いつもこんな風にして終わってしまう。
…
かちかちかちかち。
……耳の奥から響いてくるような音で目を覚ますと、両儀はもう出かけていた。
俺は殴られて痣だらけの体を起こすと、部屋の中をぐるりと観察する。
ここは四階建てアパートメントの二階の隅にある、着物の少女の家だ。いや、家というよりは部屋といったほうが正しいか。玄関から居間に続く廊下は一メートルほどで、その途中、風呂場に通じるドアがひとつあった。
居間は寝室と兼ねているらしく、さっきまで女が寝ていたベッドがある。隣にもう一部屋あるのだが、必要ないので使っていないのだそうだ。
―――昨日の夜。
あの女の後を一時間も歩いて着いたのがこの部屋だった。アパートの入り口にあったポストの表札には両儀と書かれていたから、女の名字は両儀というのだろう。
女―――両儀は俺を部屋に連れこむと、何も言わずに革ジャンを脱いでベッドに横になってしまった。
無関心にもほどがある。俺はいい加減あたまにきて、襲ってやろうと本気で考えた。考えたが、そこで大声をだされて人を集められるのも困る。散々迷ったあげく、床に転がるクッションを枕にして寝る事にした。
そうして、目が覚めればあの女の姿がなくなっていたというワケだ。
「―――何なんだ、あいつ」
思わず呟く。冷静になって思い返してみれば、両儀は俺と同い年ぽかった。女、というより少女という形容のがしっくりくる。
十七歳といったら学生だ。という事は高校に行ったのだろうか。いや、それにしてはこの部屋は殺風景すぎる。部屋にあるのはベッドと冷蔵庫と電話機、それと上着掛けに吊された四着の革ジャンと、洋服入れらしい箪笥だけだ。テレビもオーディオもない。読み捨ての雑誌もなければテーブルさえなかった。
ふと、昨夜のあいつの台詞を思い出す。
人殺しだという俺の言葉に、両儀は自分もそうだと答えた。……現実味のなかった両儀の言葉は本当なのかもしれない。だってこの部屋は逃亡者のそれだ。生活感というものが病的なまでに欠けている。
そこまで考えたらぞくり、と背筋に悪寒が走った。俺はスペードのエースを引いたつもりで、本当はジョーカーを引いていたのかもしれない、と。