……何にせよ、長居する気はなかったんだ。礼の一つぐらいは言っておきたかったが、本人がいないのでは仕方がない。
俺は盗みに入った泥棒みたいに慎重な足取りで、見知らぬ少女の部屋から出ていく事にした。
外に出て、目的もなく歩き回った。
初めはびくびくと住宅街の道を歩いたが、世間はこちらの事情とは関係なくいつも通りなのだ。時計の針と同じに、変化なくクルクルと日常を繰り返している。
結局そういう事か、と俺は|自棄《ヤケ》になって大通りに出た。
街はいつも通りだ。臙条巴を捜し回る警察の姿もなければ、俺を人殺しと蔑む視線もない。
どうやら死体はまだ発見されていないようだ。そう、俺みたいな半端者がやった行為で、世間がすぐさま変わる訳はなかったんだ。俺はまだ追われる立場じゃない。だからといって、自分の家に帰る気にはなれない。
昼が過ぎて、俺は犬の銅像がある広場までやってきていた。適当なペンチに腰を下ろして、ビルに作られた大きな電光掲示板を見上げる。
そのまま、ぼんやりと何時間も過ごした。
平日だっていうのにここは人通りが激しすぎる。歩道には人が溢れ、横断歩道が青になれば車を|塞《せ》き止める勢いで人波が流れていく。
人波の大部分は俺とそう違わない年齢の人間だ。皆大抵は笑顔か、訳知り顔で前へ前へと歩いていく。
そこに迷いはない。いや―――迷いなんて考えた事もないんだろう。連中の顔には思案のシの字もなくて、叶えたい夢、信じている未来の為に今を生きている顔付きにはとても見えない。
誰も彼も、解っているような顔で行く。でもその中に、どれだけの本物がいるのだろう。
全員か、それとも一握りの数だけか。
本物と偽物。
融けこむ事のできない人群れの中から本物を見付けようと睨み続けてみたが、てんで判別がつかない。
当たり前か―――そもそも、そんなのは自分本人にしか分からない事なんだから。
俺は人の波から目を背けて、空を仰いだ。
そうだ。――少なくとも、俺は本物じゃなかった。本物だと思っていたのに、あっけなく地金をさらしてしまった。
……高校に入学するまで、臙条巴は陸上界では名前の通ったスプリンターだった。中学時代では負け知らず、一度だって他の選手の背中を見た事はなかった。タイムはまだまだ縮められる確信があったし、才能だって疑いもしなかった。
それに何より―――俺は、走るのが好きだった。それだけは、俺の本当だった。どんな障害にも負けないという心もあったんだ。
なのに、俺は走る事を止めた。
もともと、俺の家は裕福じゃなかった。小学校の頃から父親の仕事がなくなり、家庭は荒んでいく一方だった。母親は名家の出で、父親とは実家と縁を切って結婚したのだという。職をなくして働かなくなった父親と、世間知らずで何もできない母親。
ただ壊れていくだけの家族の中で、俺は他のガキどもより早く知恵をつけていったと思う。気がつけば年を誤魔化して働いていたし、学費だけはなんとか自分で払っていた。
家の事はしらない。俺は、俺の事だけで精一杯だった。
自分で働いて、学校にいって、自分の力だけで高校に入学した。もう親とも思えない両親と、生きていく為の金の問題。その二つの苛立ちを抱えていた俺にとって、走る事だけが救いだった。
だからどんなに疲れていても部活だけは続けたし、高校にも入学できた。
けれどすぐに、父親が事故を起こした。車で人を撥ねたのだ。それだけじゃない。父親は、運転免許なんて持っていなかった
相手への賠償金は、母親が実家に頭を下げてどうにかしたらしい。俺は、その間はダメになって何も考えられなかったから、よくしらない。
もめ事が終わった後に待っていたのは、周囲の変化だった。あの両親と俺はもう無関係なのに。その子供だという事だけで、学校側の態度は急変した。
今まで協力的だった陸上部の顧問は、あからさまに俺を無視した。期待の新人なんて持てはやしていた先輩達は、部を止めるように圧力をかけてきた。
でもそんな事は慣れていたから、問題じゃなかった。
問題は家の話で。事故のせいで、今までかろうじてあった収入をなくした父親に、家庭を維持していく力はなかったのだ。母親が慣れないパートをはじめたとしても、そんな物は光熱費程度にしかならない。
父親が数年前から定職についておらず、あげくに無免許で車を乗り回して人を一人殺してしまったんだ。その噂は尾ひれをつけて近所に知れ渡り、父親は家から外に出なくなった。母は陰口を叩かれながら働いていたが、一つの職場に長くはいられなかったようだ。しまいには、俺が歩いているだけで出ていけと石を投げつけられた。
……周囲のイヤがらせは日々エスカレートしていったが、俺はそれに怒りは感じなかった。だって父親がした事は本当のコトだ。差別も侮蔑も当然の反応だと思えた。悪いのは世間ではなく親父なんだから、と。
けれどその反面、怒りの対象は両親に向いていたというワケでもない。
俺は、その時なにもかもがイヤになったのだ。俺を取り巻く様々なしがらみが、本当に面倒になった。
何をやったって、どんなに頑張ったって、どうせ結果は同じになるんだ。どんなに速く走っても、家族という厄介事がついて回るというのなら、将来なんてタカがしれている
俺はきっと、その時抗う事を止めてしまった。
世間一般でいう当たり前の生活を求めるから苦しい目にあう。自分の人生はこんなものなんだ、と受け入れてしまえば自分が不幸だと思う事もない。
子供の頃と同じだ。幻想を賢さと取りかえて、俺は自分一人で生きていく事に決めた。
そうなると馬鹿らしくなって学校は止めた。いや、一日全部を働く事にしなければ、家族を養っていけないからだ。年齢が若ければ経歴がなんであれ働き口はいくらでもある。半端に良心なんてものを持っている俺は、家族を見捨てる事が出来なかった。といっても、高校を止めてからは両親とは話をした事さえない。
そうして―――気がついた時には、俺はアレほど好きだった走る事を、綺麗さっぱり忘れていた。
あんなに好きだったのに。あれだけが救いだったのに。
それなりの不幸が起きただけで捨ててしまえる程度の物だったと気付いて、愕然とした。
誉めてくれた人間が消えて。走る時間がなくなってしまって。そんな言い訳みたいな出来事に、好きだという気持ちが負けたんだ。
本物なら―――走るという事柄が俺にとって掛け替えのない、臙条巴という人間の“起源”であったのなら、そんな事にはならなかったはずだ、
……子供の頃。両親に連れられて牧場で馬を見た。名前も知らないその馬を見て、俺は泣いた、ただ走るだけのその姿を見て、涙があふれて止まらなかった。前世というものがあるのなら、俺は彼らだったのだろう。そう信じてしまったぐらい、走るという行為そのものに感動した。
けれど、俺はニセモノだった。
そう。本物のような確信を持っただけの、まがい物にすぎなかったんだ
「――――あげくに、人を殺しちまったんだもんな」
くく、と笑ってみる。ちっとも楽しくないのに笑えるあたり、人間は故障だらけだ。
空を見上げる事にも飽きて、街を眺める。
……人波は相も変わらず途絶える事がない。
笑い顔やすまし顔で行く連中が、本物であるはずがない。何かを目的として生きるのなら、こんな遊び場にいられるものか。いや、遊ぶ事こそが連中の目的だとしても―――そんな“本物”を、俺は認めない。
……かちかちかちかち。
ふと、そこで正気に戻った。俺は―――こんな独善的な考えをするほど、主義主張なんてなかった筈だけど。
時計を見ると、じき夕方にさしかかろうとしていた。
何時間もここにいる訳にもいかない。俺はあてもなく、人込みの奔流を後にした。
◇
見知らぬ住宅地の道を、街灯の弱々しい光が照らす。
秋の陽が落ちてから三時間は歩いた。
どこで夜を明かそうかと悩んで、気がつけば、俺は両儀のアパートの近くまでやってきていた。
人間堕ちればここまで女々しくなるのかと呆れる。
俺の―――臙条巴というヤツの長所は感情の切り替えの早さだと自負していたのに、これじゃあ早いも遅いもない。全然、未練が断ち切れていないじゃないか。
見上げれば、両儀の部屋には電気がついていない。彼女は留守のようだった。
「―――いいさ、ついでだ」
誰もいないから中に入れない事は解っているのに階段を上がっていく。シビアな現実に直面する事で唯一の救いにしがみつく自分に引導を渡してやりたかったのだ。
カンカンと音をたてる鉄の階段を上がって、一階の端にある部屋の前についた。
今朝、俺が出る時には差し込まれたままだった新聞がない。両儀は一度帰ってきたようだ。ドアをノックしても、何の反応もない。
「ほら、いない」
俺は立ち去ろうとして、ドアのノブを回してみた。
―――動く。
ドアはすんなりと開いた。
中は暗い。俺はノブを手にしたまま凍りついて、頭が真っ白になってしまった。
もしかするとこのまま何時間もつっ立っているのだろうか、と思った瞬間―――俺はドアの隙間へ身を滑り込ませ、中に忍び込んでしまった。
「―――――」ごく、と喉がなる。
信じられない信じられない、こんな事をやるなんて信じられない!
そりゃあ俺はアウトローをきどっていたけど、犯罪めいた事は嫌っていたんだ、卑怯な事は子供の頃から嫌なんだ。だっていうのに、人殺しの次は家宅侵入をやらかしている。―――いや、これは不可抗力だ、それにあいつだって言っていたじゃないか、勝手に使っていいって!
かちかちかちかち。
内心で支離滅裂な言い訳をしていながら、俺は足を進ませやがる。玄関から廊下へ、廊下から居間へ。
電灯がついていないから、部屋は真っ暗だ。闇の中、息を荒くして俺は足を忍ばせる。
―――くそ、これじゃあ本当に泥棒だ。電気。電気だ。暗いから怪しくなる、あ、でもスイッチってどこだ?
蛍光灯のスイッチを求めて、壁を手探りで調べていく。
と―――その時、玄関のドアが開く音がした。
両儀が帰ってきた、と身構えるより早く、この家の主人は電気をつけて部屋のドアを開けた。
開けて、ぼんやりとした目で不法侵人中の俺を見つめる。
「―――なんだ、今日もきたのか。何してるんだ、電気もつけないで」
同級生を非難するような冷たい口振りをすると、両儀は部屋のドアを閉めて革ジャンを脱ぐ。
そのままベッドに腰を下ろすと、片手に持っていたコンビニのビニール袋にがさがさと手をつっこんだ。
「食うか? 冷たいの嫌いなんだ、オレ」
ぽい、とアイスのカップを放ってくる。銘柄はハーゲンダッツのストロベリー。俺という侵入者を気にしていないのも謎なら、嫌いな物を買ってくる所も謎だ。
俺は冷たいカップを両手に持って、理性を総動員させた。
この女は、俺の事をなんとも思っていない。俺が人殺しだという事を……どこまで本気かは知らないが……分かっているくせに。なのに隠れ家として自分の部屋を提供するという事は、こいつ本人も警察に追われている人間なんだろうか……?
「……おい。あんた、ヤバイ人間なのか?」
自分の事を棚にあげて訊くと、着物の少女はあははは!と大声で笑いだした、
「変わったヤツだな、おまえ。へえ―――ヤバイ、ヤバイときたか! そりゃあいい表現だ、ぐっときたぞ、まったく!」
両儀は真剣に笑っている、バラバラに切られた黒髪が乱れて、俺には本当にヤバイ人間にしか見えなかった。
「はは、あはははは、は―――うん、そうだな。この界隈じゃオレぐらい物騒なヤツは一人といないぜ。でもオマエだって物騒なんだろ? ならどうでもいいじゃんか、そんなの。話はそれだけ?」
含み笑いをして、着物の少女が俺を見上げてくる。
……どこか危うい穏やかさを持った貌は、新しい|玩具《おもちゃ》を手に入れた子供に似ていた。
「いや……もう一つ。あんた、何で俺を助けたんだ」
「助けてくれって言ったじゃないか。他に目的もなかったから助けただけだ、おまえ、寝るトコないんだろ。しばらくここ使っていいぜ。どうせ当分幹也は来ないんだし」
……他にやるコトがなかったから助けた? なんだそれ、いくら何でもそんな馬鹿みたいな理由があるものか。たしかに俺の神経はまいっちまってるが、それを鵜呑みにするほど壊れちまってるわけじゃない。その証拠に、こいつが嘘を言っているかどうかぐらい見抜いてみせる。
俺は着物姿の少女を睨む。彼女はそれをまるっきり気に留めない。無視するのとは違う、堂々とした自然さだ。
………なんて矛盾。困った事に、両儀がまったくの本音で話しているって事は疑うまでもない。
それとも。もしかして、この相手には一般的な理由は必要ないのだろうか。友達だからとか、金になるからとか、そういう解りやすい繋がりをこの少女は考えていないとしたら。
でも、それにしたって―――
「おまえ本気かよ。何の見返りもなしに俺みたいな怪しいのを匿うのか? まさか危ないクスリでもやってるんじゃないだろうな」
「失礼なヤツだな。薬は嫌だし、オレはいたって正気だよ。警察にもチクらない。おまえがチクってくれっていうのなら、やるけど」
ああ、俺だってそんな心配はしていない。だいたいこいつが警察に連絡するシーンなんて、どうやって想像しろってんだ。俺が心配しているのは、もっと根本的な事だった。
「あのなあ。俺は男で、おまえは女だろ。見も知らずの野郎を泊めるうていうのはそういう事だぜ。それがいいのかって言ってんだ、俺は!」
「え? 女を抱きたいなら別の所に泊まるんじゃないのか、男って?」
きょとん、とした顔で返答されて、俺は言葉を失った。
「いや、だから―――」
「あぁもう、うるさいな。ここが気に入らないなら他の隠れ家を探せばいいだろう、なんでわざわざオレの機嫌をうかがってるんだ、おまえ」
ぴしゃり、と言いきって少女は再びコンビニの袋に手を入れる。取り出したのは三角形のトマトサンドだった。……ほんとうに、俺の事なぞ眼中にないらしい。
「じゃあ俺はここを寝床にするぞ。それでいいんだな!」
カッとなって怒鳴っても、相手は顔色も変えずに頷きやがった。
「ああ。邪魔なら邪魔だっていう」
ぱくぱくとサンドイッチを食べながら両儀は言う。
俺はそれで気が抜けてしまって、床に座り込んだ。
そのままで時間だけが流れていく。
とにかく、と俺は開き直る事にした。感情の切り替えの早さが臙条巴の長所なんだ、という自負を取り戻すかの勢いで今後の事を考える。
しばらくの寝床は確保できた。食費は手持ちの三万円で一ヵ月は保つだろう。その間に、俺は警察に捕まらずに生きていける方法を探さないといけない。
「――――ん?」
ふと、疑問に思った。どうして今晩、この家の鍵はかかっていなかったのだろうか、と。
「おい。なんで鍵をかけてなかったんだ、あんた」
「そんなもの、ないからに決まってるだろ」
「―――――あ?」
話を聞いて、俺は卒倒しそうになった。
この両儀という女、家の鍵を持っていないというのだ。鍵をかけるのは自分が眠る時だけで、出かける時はドアを閉めるだけ。本人曰く、留守中に泥棒に入られても自分に害がないから、だそうだ。
だから俺が侵入できたのは偶然でもなんでもない。この部屋に何もないのは、常連になっている泥棒がいるからじゃないのか、ほんとに。
「このバカ、鍵くらい持っとけ! ないならないで大家からマスターキーを借りてくるもんだろ、普通は」
「マスターキーは無くしたよ、いいだろ、別に、おまえが困るわけでもないんだし、あんなの荷物になるだけだ」
……くそ、こう言えばああ言うヤツだ。事実として、鍵が無いって事は俺が安心できない。自分の身の安全もあるけど、それ以上に両儀の生活に問題があるじゃないか。俺はさっきまで抱いていた両儀へのなんともいえない反発心を忘れて、本気でこの世間知らずを心配した。
「バカいうな、鍵がない家なんて家じゃねえんだ。待ってろ、こうなったらドアノブごと新品にかえてやる」
「……いいけどさ。金あるの、おまえ?」
「なめるな、そのぐらいテメエで出来る、今晩中にやっとくから、明日からは鍵をちゃんとかけるんだぞ!」
言って、俺は立ち上がった。
こちとら引っ越し業者で働いてたんだ。部屋の改装は一通りたたき込まれているから、アパートの部屋程度なら修理できない所はあまりない。二日前まで勤めていた会社の倉庫なら、ドアノブの在庫ぐらいあるだろう。
自分でもよく分からない勢いで、俺は夜の街へ駆け出していた。
いつ警察に追われるかもしれない身だというのに、どうやって会社に忍び込もう、なんて真剣に悩んで、自分がひどく危険な冒険をやろうとしている事に気付く。
……まったく、両儀の事は言えないか。
まだ名前さえ確かじゃない女のために、勤めていた会社に忍び込もうなんて、俺もずいぶんと常識ってものが薄れてしまっているんだから。
/3
(矛盾螺旋、3)
両儀の部屋で寝泊まりするようになってから、一週間近くが経った。
俺も両儀も昼間は出かけているので、夜に眠る時だけ顔を合わせるというおかしな生活が続いている。それでも一週間も経てばお互いの名前ぐらいは知らないと不便なわけで、俺達は互いに名前を教えあっていた。
あいつのフルネームは両儀式。驚いた事に本当に高校生だった。それ以外の事はとんと判らない。
両儀は俺の事を臙条と呼ぶ。そのせいか、俺も両儀の事は両儀と呼んだ。両儀本人は名字で呼ばれる事を嫌うのだが、俺はどうしてか式と呼び捨てにはできなかった。
理由は簡単だ。単に、俺にはそれだけの覚悟がないのだ。いずれ永遠に別れてしまう相手とは、必要以上に親しくなりたくない。式と名前を呼んでしまったら、きっと俺は、この少女から離れがたくなってしまう。いつ警察に捕まるか分からない俺には、そういう関係は邪魔なだけだと思うのだ。
◇
「臙条、おまえって女いないの?」
いつも通りの夜、両儀はベッドの上であぐらをかいたまま、何の前触れもなくそんな事を聞いてきた。
両儀の質問は、いつもこうやってトウトツに繰り出される。
「女って……そりゃあ、いればこんな所に転がり込んできてねえだろ」
「そうなのか。おまえ、もてそうな顔してるのにな」
「感情のこもってない声で誉められても嬉しくない。それに女には懲りてるんだ、俺」
「―――へぇ、なんで?」
興味を持ったのか、両儀は床に寝っころがっている俺へと顔を突き出してきた。ベッドの真横で寝ている俺から見ると、顔だけひょこっと出てきたように見えて、どこか可愛らしい。
「ゲイなのか、臙条は?」
……前言は撤回する。こいつが可愛いなんて、気の迷いに他ならない。
「ワケねえだろ。たんに面倒くさいだけだ。実際に付き合ってみたら、あまり面白くもなかった」
そもそも、俺は異性があまり好きではなかった。高校の頃二ヵ月ばかり付き合ってみた事があったが、アレは甘い関係なんてものじゃなく、ひどい|鬩《せめ》ぎ合いだった気がする。
いつのまにか、俺はトツトツと思い出話を始めていた。
「俺だって何も高望みしてたわけじゃないんだぜ。っていうのに相手は俺に高望みしてきやがる。初めはまあ、そんなもんかと我慢していたんだ」
そうだ。あいつの欲しがっていたモノは買ってやったし、格好良くしてくれと言われればしてやった。およそ、あいつの高望みに追い付かなかった事はなかっただろう。
相手はその度に喜んだが、俺はその反面冷めていった。セックスも皆が捉えているほど上等なものでもなかったし。
……両儀は、俺の独り言をちゃんと聞いているようだ。
「そのうちにさ、イヤになってね。まわりの環境だけじゃない。時間も、金も、感情でさえ、|他人《アイツ》に分けてやるのが億劫になった。それなりに好きだったけどさ、性欲の処理なら独りでできるわけだし。
――俺がノーマルな学生だったら、時間なんて有り余ってたんだろう。けど俺には自由になる時間はなかった。アイツといる時間が多ければ多いほど、睡眠時間が減っていくって計算だ。余分な時間のない俺には、初めから恋愛なんて無理だったんだろ」
それでも、俺は別れようとはしなかった。
俺は幸せそうなアイツにこれっきりだ、なんて絶縁状を叩きつけて泣かせたくなかった。……人を傷つけて、自分が傷つくのもバカらしい。
「でも別れたんだろ。どうやってふったんだ、おまえ?」
「あのな、俺だけを悪者にすんな。ふられたんだよ。ホテルでさ、やる事やってから唐突に言われた。あなたはわたしを見てくれてなかった。わたしの|外見《そとみ》ばかりで、心を見てくれなかったのよ、ってさ。正直、わりとショックだったぜ」
肩をすくめて話のオチを言うと、両儀は失礼な事に笑いだした。
「すごいな、心を見てくれていなかった、か! ははは、そりゃあ厄介な女にひっかかったな、臙条!」
ベッドのスプリングが軋んでいる。こいつ、ベッドの上で笑い転げてやがる。
「なんだよ、今の話のどこがおかしいんだ。青春のほろ苦い思い出だろうが」
頭にきて立ち上がる。と、両儀はぴたりと止まって俺を見つめてきた。
「だっておかしいじゃないか。人間が見れるのは外見だけだろ。それを見てくれたおまえはいらなくて、心なんて見えもしないモノを見てくれなきゃイヤだ、なんて女は普通じゃない。普通じゃないって事は異常ってこと。ほら、おかしい話じゃないか。
そいつもさ、心を見てほしかったら紙に書けばよかったのにね。臙条。おまえ、そいつと別れて正解だよ」
冷静に侮辱しながら、両儀はベッドにこてん、と横になった。
そのまま猫みたいにじーっと俺の顔を眺めると、両儀は言いにくそうに口を開いた。
「……ま、オレが言える事じゃないけど。そういう“見えない”不安って口にしたら嘘になるだろ。わからないまま信じるのが恋愛なんだ。恋は盲目って、そういう意味じゃないの?」
人の受け売りだけどさ、と付けたして両儀はそのまま眠ってしまった。
いつもと同じ竹を割ったような会話の終わりに、オレもしぶしぶと横になる。
電気を消して、眠りにつく静けさの中で思った。
“女”なんていう情の深い相手はこりごりだけど、この少女ならそんな一方的な押しつけはないのだろう。いや。両儀が相手だったのなら、そんな厄介事も笑って受け入れられたんじゃないだろうか、なんて事を。
◇
二週間目の夜。
鍵を開けて部屋に入ると、両儀はすでにベッドで眠っていた。……俺を猫か何かだと思っているのか、物音に気付いても起きる素振りさえない。
だが、今日はそれが幸いした。
俺は殴られた頬を隠しながら床に座り込む。
かちかちがちかち。
ベッド脇の時計がまわる。時計の針は両方とも十二時を指していた。
……なぜか、俺は時計盤が嫌いだ。デジタル表示の方がいい。まわる時計の中には自分の居場所がないような気がして、恐くなる。
「痛っ」
蹴られた足がうずいて、声をあげてしまった。
両儀は死んだように眠っている。起きる気配はない。
その横顔を、俺は目的もなく眺めた。
―――二週間も暮らしてきて、判った事は一つだけ。
こいつは、まるで人形だった。
いつもこのベッドの上で死人のように眠っている。こいつは朝になるから起きるんじゃなくて、やる事があると死人から生者へと蘇生するのだ。
初めは高校に行くためかと思っていたが、どうもそれは違うようだ。きっかけは電話で、どこからか掛かってくる電話を受け取ると、両儀は生気を取り戻す。
それがヤバイ内容だという事は、薄々感付いていた。
でも、それを両儀は待っている。それがなかったら、この女はここでずっと人形のままなのだ。
かちかちがちかち。
その有様を、俺は美しいと感じた。悲しみなんてなかった。両儀は自分のやるべき事のみに歓喜して、生き返る。
それは余分なモノのない完璧さだ。俺は初めて、居やしないのだと決めつけていた“本物”に出会えた。
俺がそうだと信じていたもの。俺がなりたかったもの。自分だけがあれば他が何をしようと気にもかけない、純粋な強さ。
「―――式」
口から、両儀の名前が漏れた。
囁きよりも小さかったはずの、吐息みたいな一言。 なのに、両儀はきっかりと目を覚ましてしまった。
「―――なんだ、おまえまた癒だらけじゃないか」
ぱちりと目を開けるなり、両儀は眉間に皺を作った。
「仕方ねえだろ。向こうから勝手にケンカ売ってきやがるんだからよ」
事実で俺は言い返した。今日、帰りぎわに見知らぬ二人組にからまれ、殴り合いになったのだ。当然ぶち倒してやったが、こっちは素人なので向こう傷も多くなってしまう。
「おまえ何かやってるんだろ。そのくせ弱いぞ。殴られるの、好きなのか?」
ベッドから身を起こして両儀は言う。
何かやってる、とは空手とか柔道とか、そういう物か。
「勝手に決めつけんな。俺は武術に関しては素人だぜ。ケンカなら、まあ人並み以上にはやってるけどな」
「そうか。殴る時に掌を使っているから、てっきり違うと思ってた。―――なら、なんで掌なんて使うんだ?」
ああ、なるほど、そういえば一度、その事で誉められた事がある。人を殴る時、拳を鍛えていない人間が殴ると自分の拳を痛めてしまって、数回も殴ると自分の骨がいってしまうのだそうだ。だから素人は掌を使って殴ったほうがいい。いや、むしろ掌のほうがより実戦的だという武術もある。
もちろん、俺はそんな物はまったく知らない。
「掌のが硬いだろ。空き缶をつぶす時、みんな掌じゃないか。拳でやるやつはそういないぜ」
「それは掌のがやりやすいからだろ」
冷静に答える両儀は、けれど本気で感心しているようだった。
まじまじと俺の顔を見る。照れくさくなって、俺は強引に話を続けた。
「そういう両儀こそ何かやってるだろ。合気道か?」
「合気はたしなむ程度。ガキの頃からやってるのは、一つだけある」
「子供の時からか。どうりでお強いはずで。逃げる相手の後頭部にハイキックだもんな、やる事が違うと思ったんだ。で、あれか。やっばり必殺技とかあんのか?」
我ながら頭の悪い事を訊く。と、両儀はうーんと真剣に悩みこんだ。
「そういう型っていうのはあるだろ。みんなそれで倒す事を前提にして鍛えるわけだから、必殺といえば必殺の技だ。けど、オレん所はそういう型ってないよ。もともと自己流だしな」
鍛えるのは心構えなんだ、と両儀は続ける。
「体を作り直すんだ。それを持つだけで、全てを変える。呼吸から歩法、視界、思考。そういったものを戦闘用に作り直せるように。筋肉の使い方まで変えるから、別人になるって感覚かもしれない。
戦いが起きたから心と体を引き締めて戦う、ていうのが武道の入り口なんだろうけど。うちはそれだけを追求して、結果として行きすぎちまった」
自分自身を軽蔑するような台詞に、俺は首を傾げるしかない。
「なんだよ、強いんだからいいじゃねえか。俺みたいに殴られるなんてヘマもないしな。 二人の男を一瞬で片付けられるんだ。すごい自己流だったぜ、アレ」
こいつと出会った時の鮮やかさを思い出して言うと、両儀は微かに驚いたようだ。
「ありゃあ違うよ。見様見真似ってヤツ。第一、オレはまだうちの流派ってやつを使った事がないんだ」
しれっと恐ろしい事を言うと、両儀はばたんとベッドに倒れこんで眠ってしまった。
◇
……どこかで蒸気があがっている。
しゅごー、しゅごー、と絵本にあるような音がする。
灯りはなく、部屋は暗い。
ここは、熱い。
ただ鉄板の焼ける音と、そのマグマみたいな光だけが頼りだった。
周囲の壁に、大きな|壜《びん》が並んでいる。
床には細長いチューブがちらばっている。
誰もいない。
ただ蒸気の音と、水の泡立つ音だけが………………………………………………………………………………………夜になって、俺はふと目を覚ました。
いやな夢を―――見たからだ。
かちがちがちかち。
時計を見るとまだ午前三時をまわったばかりで、目覚めの時間にはほど遠い。
ベッドに目をやると、両儀の姿はなかった。
……あいつは、ときおり夜中に散歩に出かける事がある。にしたって、草木も眠る丑三つ刻に出歩く事もあるまい。
迎えに行ってみようか―――互いのプライベートには極力関わらないのがここを寝床にする為の暗黙の了解だと分かっていたのに、そんな事を思った。
さんざん迷って、俺はよし、と立ち上がった。
いくらデタラメに強いといっても、両儀が同い年の少女である事に変わりはない。それに彼女のあの格好は、夜中にたむろするバカどもを惹き付けるのに十分すぎる。
決意をかためて俺が廊下に出た時、音もなく玄関のドアが開いた。
着物の姿に革ジャンという、普段通りの少女がそこにいる。
両儀はやはり音もなくドアを閉めた。
「なんだ、帰ってきたのか」
なんとなくおあずけをくらった気がして、俺はつい話しかけた。
ちらり、と両儀がこちらを見て――――
瞬間。殺されるかと、思った。
電気の消えている廊下は暗い。その中で、両儀の目だけが青く駕いてる。
何も出来ない。息する事も出来ず、まともな考えさえ浮かばず、俺はただ立ち尽くした。
「―――おまえでも、ダメだ」
声がした。気がつくと両儀はするりと俺の横を通り抜け、苛立たしげに革ジャンをベッドに投げ捨てていた。
両儀はベッドの上に座ると、壁に寄りかかって天井を見つめる。
俺は背中に残る悪寒を堪えながら部屋に戻って、床に座った。
そのまま、意識を失いかねないほどの無言の時間が流れる。
不意に―――少女が喋りだした。
「人を殺しにいってたんだ、オレ」
その言葉に、どんな返答をしろっていうんだろう。俺はそうか、とただ頷くだけだった。
「でもダメだな。今日も殺したい相手が見つからなかった。さっき廊下におまえがいた時、おまえなら満足できるかと思ったけど、やっばりダメだ。やっても意味がない」
「……俺は完全にやられる、と思ったぜ」
素直に言うと、両儀はだからダメなんだ、と言う。
「オレは生きてる実感がほしい。けど、人を殺すだけじゃ意味がない。目的も見つからずに夜歩いてる。これじゃまるで幽霊だ。いつか―――意味もなく人を殺す」
両儀は臙条巴に話しかけているようで、その実誰にも話しかけていない。……禁断症状の麻薬中毒者のようにぼんやりとしている。
こんな事は、今までなかった。俺が出会った頃の両儀は、夜に出歩く事はあってもあんな殺気を持って帰ってくる事はなかった筈だ。
「おい、どうした両儀。らしくねえぞ、しっかりしろ!」
おかしな事に―――俺は今まで触れた事もなかった少女の肩を掴んでいた。
信じられない。この、なによりも超然としていた女の肩が………こんなに、細かったなんて。
「……オレはしっかりしてる。夏にだってこういう感じはあったんだ。あの時だって―――」
何かよくない事に気付いてしまったのか、両儀は言葉を切った。
俺は両儀から手を離してベッドから下りる。
両儀は壁にもたれかかるのを止めて、ベッドに寝っころがった。
「なあ、両儀」
声をかけるが答えはない。あいつは以前言った。心は見えないものだ、と。だから、見えない物の悩みなんて、決して他人に打ち明けたりはしない。
そう―――両儀は独りだ。
俺だってそうだったけれど、気を紛らわす為に軽く付き合える友人は何人も作った。けど、こいつにはそんな人間はいないだろう。俺と違って細部まで完璧なこいつは、そんな物を必要としないから。
「―――なあ、両儀。おまえ、友達っているか?」
俺は少女の顔を見ないように、ベッドに背を預けて尋ねた。両儀は少し考えてから、いる、と答えた。
「え、いるのか? おまえに!? 友達が!?」